精霊王とアイリス
目尻を下げた優しい目をして、精霊王は穏やかに言った。けれど、私の心はあまり穏やかとは言えない。
さっきからなぜか心臓が苦しい。私の意思とは関係ないところで気持ちが暴走しているみたい。この人を見ると切なくなって、子供みたいに甘えたくなって、嬉しくて泣きたくなる。
……それに今、私のことを『アイリスの魂を持つ子』って言ったよね?
……ああ、もしかしてとは思っていたけれど、やっぱりというか、何というか、どうやら私、アイリスの生まれ変わりであるということがはっきりしたようです。
しかもさっきからうるさい私の心臓は、自分が目の前のこの人のことを知っていると激しく主張している。しかもたぶん、すごく親しかったんじゃないかな。
メノウに初めて会った時も思ったけど、ナディアの記憶にはなくても、アイリスの魂が覚えているのかもしれない。
そして、だんだん意識もはっきりしてきた。
私は今さっきまで、洗礼式を受けている最中だったはずだ。どうしてこんなところにいるんだろう?
私は深呼吸をして、心臓が暴れるのをなんとか抑え込んだ。
「……あの、ここはどこでしょうか? 洗礼式を受けた人は、みんなここに来るんですか?」
洗礼式を受けてこんな不思議な体験をしたなんてことは聞いたことがないけれど。
《いいや、違うよ。僕が一度君と話をしたくて、来てもらったんだ。僕、謝らなくちゃって思って。ごめんね、ナディア》
眉を下げる精霊王を見て首を傾げる。
「なんのことですか?」
《僕が……昔、アイリスの魂に加護を与えたことで、ナディアには苦労をさせてしまったよね》
私は目を瞬いた。苦労? 加護があって苦労したことって何?
えーと、精霊王の加護によってできることって、たぶん精霊が見えたり会話できたりすることだよね?
それで苦労したことって、もしかして、両親とうまくいかなかったこと、かな?
ええっ、そんなの、精霊王が謝ることなんかじゃないのに!
「いいえ、私は精霊たちに出会えて嬉しかったですし、少し悲しいことがあったのは確かですけれど、それは、ええと、私がちょっと不運だったせいです。それに、私はそのおかげで二つも素敵な家族に恵まれましたし、むしろありがとうございます!」
そう言うと、精霊王はクスリと笑った。
《そうか……。僕はずっと君に謝りたかったんだけど、君はちっとも精霊殿に来ないからどうしようかと思っていたよ》
精霊王はクスクスと笑った。ご、ごめんなさい。本当はずっと来ないつもりでした。
「本当に、私、あなたの加護があってよかったと思っています。ありがとうございます。魔法を使えたから助かったこともたくさんありました。ローナを暴漢から助けることができたし、フィルやザックやメノウとも友達になれたし……あ! そういえば、フィルは精霊王に似ているんですよ。髪の色も同じだし」
美人なところもそっくりだよ! フィルの方がキリッとした美人さんだけど。
精霊王はどこまでも優しそうな、柔らかくて中性的な雰囲気の美人さんだ。
《ああ……フィルハイドのことだね。彼は僕の魔力を多く引き継いでいるからなあ。銀髪はその影響だよ》
……うん?
どうしてフィルが精霊王の魔力を引き継いでいるの?
私がよく分からないという顔をしていると、精霊王は穏やかな笑顔でなんでもないことのように言った。
《僕は一応、彼の先祖に当たるからね。少しの間、人間としてアイリスの旦那さんをやっていたんだ》
……えええええ!?
どどどどういうこと!? 精霊王がアイリスの王配だったなんて話聞いたことないよ! えー!? 学校で習った時は初代女王の王配って誰になってたっけ!?
私が混乱していると、精霊王はクスクスと笑った。
《僕が人間になっていたことは、他の人間には内緒にしていたんだよ。僕はあくまでも普通の人間として、アイリスと結婚したんだ》
「え? どうしてですか?」
《精霊王だなんて言ったら、自分にも加護を与えろだのなんだのと他の人間が寄ってくるだろう? 僕はアイリス以外の人間と深く関わるつもりはなかった》
精霊王は思い出すように遠くを見ながら言った。
《人間だった僕の体にも精霊王としての魔力は宿っていたからね。その魔力は今もフェリアエーデンの王族に引き継がれていて、僕の銀髪を受け継いだ子は特にそれが顕著なようだ》
精霊王の言葉に驚きを隠せない。
まさか、前世の旦那様が精霊王だとは。フィルが精霊王の子孫だとは。
「人間になるなんて、精霊王はそんなこともできるんですね」
感心したようにそうこぼすと、精霊王は何かを思い出したように切なげな顔をした。
《……僕も簡単に人間になれるわけじゃないんだよ。今すぐなろうと思ってもできないし、少し特殊な手段を使ったから、あれ一度きり。僕はもう二度と人間になることはないと思う。理由も必要もないしね》
そう言って、精霊王は少し悲しそうな顔をした。
……それは、その理由が、アイリスのためだったということなのだろうか。二人が一緒に生きるために、人間になる必要があったから?
二人の間に、一体どんなお話があったんだろう。
精霊王をじっと見つめてみる。とても綺麗な顔で、優しく微笑んでくれている。なんだか懐かしい気持ちになるし、さっきは心臓が暴れて仕方なかったけれど、この人とどんな話をしたのかとか、どこを好きになって、どんないきさつで結婚することになったのかとか、私には何も思い出せない。
「……アイリスって、どんな人だったんですか?」
なんとなく気になる。
私じゃないけれど、私だった人。
こんなことを聞ける機会なんてもうないだろうし、思いきって聞いてみた。
すると精霊王は、軽い調子で顎に手を当てて、思い出すように視線を上向けた。
《うーん、そうだな、アイリスは、とても泣き虫な子だったかな》
私は驚いて目を見開いた。
えー!? い、意外だ。女王様なのに泣き虫だったのか、アイリス。
《普段はしっかりしているのに、出会った頃も、結婚してからも、僕の前ではよく泣いてたなあ。もちろんたくさん笑ってもいたけどね。アイリスに初めて会った時、まだ人間は精霊の存在を知らなかったんだ。彼女はたまたまこの泉にたどり着いて、僕がいるとは気づかずにここで誰かに対する不満を大声で叫んでわんわん泣いて、すっきりしたら去って行った。僕は最初驚いて見ていただけだったんだけど、彼女はことあるごとにここに来て、それを何回も何回も繰り返したんだ》
精霊王がおかしそうにくすくすと笑う。
でも、私は恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
……何をやってるの、アイリス!
《人に興味を持ったことはなかったけれど、それが面白くて何回目かに彼女がここを訪れた時に声をかけてみたら、今のナディアみたいに真っ赤になっていたよ》
そ、そうでしょうね。誰もいないと思って胸の内を叫んでいたら、実は全部聞かれていたんだから。
《彼女は戦争ばかり起こす国々に怒っていた。毎日のように人が飢えて死んでいくのに、国は働き手も食べ物も更に奪って行くのだと》
「…………」
フェリアエーデンができる前は、ここはアルバトリスタという国だったと学校で習った。戦争で滅んだって。アイリスがフェリアエーデンの初代女王ということは、アルバトリスタの戦争時代を生きていたということでもあるんだよね。
……フェリアエーデンは平和だからいいけれど、アイリスは大変だったんだろうな。
《彼女はとても頑張っていた。自分ができることを必死に探して生きるためにもがいていた。自分も大変なのにできる限り他人に手を差しのべてもいた。過酷な状況の中希望を失わないで前を向いている彼女を、僕はすごいと思ったんだ》
「…………」
今の私には想像もできない。アイリスはどんな生活をしていたんだろうか。
《彼女を見ている内に、僕は彼女を応援したくなったんだ。僕も自然を破壊する戦争は嫌いだったから、それを終わらせることができるよう彼女には加護を与えて、他の人間たちにも魔力を解放させ、それを与えることで小精霊たちの力を借りることができるようにした。その力を使って、アイリスは戦争を終息へ導いたんだ》
……人が魔術を使えるようになったのって、アイリスが精霊王の心を動かしたからだったんだ。
そういう話も、私は聞いたことがない。どうして一部の人は魔術を使えるのかなんて、考えたこともなかった。これも平民の間で語られず消えていった話なのか、貴族の間でも知られていないのか、わからないけれど。
穏やかに微笑む精霊王を見つめる。アイリスは、すごくすごく大変だったんだろうな。その中で、精霊王が優しく手を差しのべてくれたんだとしたら、どれだけ嬉しかっただろう。それなのに。
「私、全然覚えてないです……」
親しくしていたらしいメノウに会っても、旦那さまだったらしい精霊王に会っても、何も思い出せない。懐かしい気持ちはするけれど、どうしてかもわからない。情けなくて申し訳なくて、私はうつむいた。
《それはそうだよ。アイリスはもういない。君はナディアだからね。君は君の生を生きるといい》
私はパッと顔を上げた。
精霊王が優しく微笑む。
《……でも、なぜかナディアの周囲にはアイリス絡みの人が集まっているみたいだね。これだとナディアがアイリスを意識してしまうのも仕方がないかもしれないな》
精霊王が苦笑した。
うん? アイリス絡みって、メノウのこと? でも集まるって、他にも誰かいたっけ?
《ナディア、もうそろそろお帰り。アイリスは自分の信念を貫いて、最後まで強く生きていた。ナディアも自分の思う通りやればいいと思う》
そう言って、とん、と私の額に人差し指を当てた。その瞬間、殻が破れるみたいに自分の内側から何かが溢れるような感覚に陥った。
「わあっ!? こ、これ何ですか!?」
なんだかすごく光ってる!?
《それはナディアの魔力だよ。ある程度成長して自分で扱えるようになるまで閉じ込めておかないと魂が壊れる危険があるから、十歳までは外に出せないようになっているんだ》
た、魂が壊れるって、なにそれ!?
すごく怖いよ!?
《今魔力を閉じ込めていた殻を破った。魔力というのは魂のエネルギーだ。もちろんナディアにもアイリスと同等の魔力がある》
ええっ!! フィルが言ってたように強大ってことですか!?
私は少し怖じ気づいた。
め、目立たないようそこそこでいいんですけど!
「こ、これ、他の人に比べると、やっぱり多いんですか?」
迸るように胸の奥から何かがすごい勢いで湧き上がってくるのを感じる。これが魔力なのだとしたら、もしかしたら、ちょっと多めなのかもしれない。
恐る恐るそう聞くと、精霊王は不思議そうな顔をした。
《多いと困るの? 魔力をたくさんあげると小精霊は喜ぶのに。でも、それは僕の加護とは関係ない、ナディアの魂の輝きともいえる力だからなあ。確かアイリスは当時の魔術師たちが百人集まっても魔力が足りなくてできなかった魔術を一人で行っていた記憶があるよ。加護による精霊たちの補助もあったのかもしれないけど》
「…………」
私はぽかんと口を開けた。
で、デタラメすぎませんか、アイリス! いや、魂の力ということは、ひょっとして私もなの!?
よ、よし、それはできるだけ隠していこう。内緒にしておけば大丈夫だよね。
《とりあえずこれで、帰ったら魔力を扱えるようになっているはずだ。魔力が多いから少し難しいかもしれないけれど、頑張ってね》
うう、そっか、私、ちゃんと扱えるのかな。しかも他の子より四年遅れているんだよね。
「……が、頑張ります」
《ナディア、会えて嬉しかったよ。また気が向いたらここにおいで》
精霊王がにこやかに手を振ると、今度は私が光の粒になって体が消え始めた。元の場所に戻るようだ。
私もまたお話をしたいと思うけれど、洗礼の間で聖水を飲む機会なんてもう二度とないと思う。きっともうこうして会えることはないのだと思って、精霊王をしっかりと見つめた。
「はい! あの、私も、会えて嬉しかったです。ありがとうございました!」
言い終わると同時に、精霊王は視界から消えて私の意識はまたフッと途切れた。
精霊王は懐かしい魂との邂逅に満足そうな笑みを浮かべたあと、彼女の魂に惹かれるように周囲に集まってきた者たちを思い出して苦笑に転じた。
《……本当に、君たちの執念には恐れ入るね。ルト、メノウ》
精霊王の呟きは、誰にも拾われることはなかった。




