メノウ再び
「ナディア!」
「びゃあっ!?」
パン屋の仕事を終えた帰り道、後ろからいきなり大きな男の人に抱きつかれて、私は変な悲鳴をあげてしまった。
この声とぎゅうぎゅうに抱きしめてくる感じ、メノウだな。
「もう、メノウ、遊びに来てもいいとは言ったけど、びっくりさせないでよ!」
振り返って文句を言う。あんまり腕を離してくれないので、閉じ込められたまま体をひねる感じになった。
「悪かった。だが、やっと会いに来れたんだ。色々処理しないといけないことがあって……」
いや、やっとって、あの夜から三日しか経っていませんよ?
「ナディア、この髪はどうした? 切ったのか? お前なら何でも似合っているが」
メノウの目がおかしいみたい。アイリスフィルターがものすごく私を美化しているのかもしれない。
「貴族のパーティーに行くためにあの夜だけ魔法で伸ばしてたの。元々こうだよ」
伸ばした髪はその夜のうちにローナに切ってもらった。ローナは器用なので、いつも切ってもらっているのだ。
ローナは嘆いていたけれど、手入れしていられないんだもん。急に髪が伸びたなんて周りに説明できないし。
「そうなのか。この髪型も可愛いぞ、ナディア」
そう言ってメノウは私の短い髪を指に絡ませて遊んでいる。
少し照れるけれど、メノウが嬉しそうにしているとなんだか私も嬉しくなるのでしばらくしたいようにさせておいた。
「それにしても、こんな格好なのによく私だってわかったね」
自分で言うのもなんだけれど、今の私はあのパーティーの時とは別人である。
髪は短いし、メイクもしてないし、服だって使い古しのワンピースだ。
「私にナディアがわからないわけがないだろう」
「………………」
うーん、恐るべしアイリスフィルター。
「それは何を持っているのだ?」
私が孤児院に持って帰る貰い物のパンを指してメノウが言った。
「私の働いているお店で売ってるパンだよ! 形がくずれたりしたものを孤児院にもらって帰るの」
そう言うと、メノウが少し驚いたように目を瞬いた。
「ナディアはパンを作っているのか?」
「そうだよ、ほら」
私は一つ袋に入ったものを取り出してみせる。
「一つ食べる? 形が悪いのでも良ければ」
軽い気持ちでそう言うと、メノウはぱあっと顔を輝かせた。
「ナディアが売っているパンか! 食べるぞ! よし、あそこで食べよう、すぐに飲み物を買ってくるからな」
そう言ってそばのベンチを指し示したかと思うと、メノウは一瞬で姿を消してしまった。走って行ったのか魔術で移動したのかもわからなかった。
(呪文とか何も言ってなかったし、走った? でもメノウはちょっと他の人とは違う魔術を使ってるみたいなんだよね)
魔術師は空を飛ぶのに円盤に乗っているけれど、メノウはそんなものを使わずに空中を跳んでいた。そう、浮くというより空中を蹴っていた。
魔術師が円盤で空を飛ぶのはよく見かけるけれど、あんなのは初めて見た。メノウは長く生きているし、特別な技があるのかもしれない。
そんなことを考えている間に、メノウが戻ってきた。
「ナディア、待たせた! 先にあそこに座っていてよかったのに」
またしても急に現れたメノウはどうやって移動しているのかさっぱりわからない。
今度機会があれば聞いてみようかな。
メノウは二つの果汁ジュースを買ってきてくれて、「どちらがいい」と私に差し出した。
レジンとデリーのジュースだ。上にはクリームと飾りのカラフルなお菓子が乗っている。
わあ、こ、これ、孤児院の食事三食分の値段の……!
飲んだことはないけれど、飲んでみたいと思っていたものだ。
「これ、もらっていいの?」
「もちろん、好きな方を選んでくれ。両方欲しければそうしてもいい」
お金がある人はみんなそう言うの!?
ルトも以前ケーキを二つ買ってくれようとしていたけれど、このジュースも二つもらうわけにはいかないので、私は目を輝かせて真剣に検討し、結果、デリーを選択した。
ベンチに座って、一口飲む。
……ううう~、美味しいっ!
デリーの甘酸っぱい味にクリームのふわふわした優しい甘みが合わさっていて、私の頬はついてろんと蕩けてしまう。上についているお菓子のサクサクした食感がアクセントになっていて、飲んでいてとても楽しい。
メノウも自分の分を飲み始めた。美味しいのか、とても機嫌が良さそうだ。
「はい、このジュースとじゃ値段が釣り合わないけど、どれでもいいよ! 今度はメノウが選んで?」
私はそう言いながらパンの袋を差し出す。
メノウはたくさんのパンをじっと見る。
「ナディアが作ったものはどれだ?」
「全部だよ、今日は厨房に入ってたから」
「そうか、ならこれでいい」
メノウは一番手前にあったパンを掴むと、ばくっと一口で食べてしまった。
私は思わずぽかんとメノウを凝視した。
ひ、ひとくち……。
あっという間に飲み込んでしまったメノウは、ぺろりと指を舐めて、こちらに視線をよこした。
「うまい」
笑顔で言うものだから、私まで嬉しくなった。
「店長のレシピで私が作ったからね!」
得意になって胸を張ると、メノウはくっくっ、と笑った。今日のメノウはよく笑っているみたい。
ジュースは最後まで美味しく頂きました。本当に美味しく。
「じゃあメノウ、私、そろそろ帰るね」
私がベンチから立ち上がると、メノウは面白くなさそうな顔をした。
「これからは毎日会いに来るからな」
「いや、毎日は困るよ」
メノウの爆弾発言に私はすぐさま拒否を示した。
今日も遅くなってしまっているのに、孤児院のお手伝いができなくなってしまう。
するとメノウはこの世の終わりのような顔をした。
「な、ナディア、どうしてだ、私と会うのが嫌になったのか? だがもう遅いぞ、あの時ナディアは私に来てもいいと言ったからな、すでに契約が成立している。私はナディアのいるところがすぐにわかるんだぞ」
先ほどよりも破壊力のある爆弾を落とされて、私は絶句した。
「め、メノウ!? 契約って何のこと!?」
肩とか首元を掴みたいけれど、立った状態では背が高いメノウには届かない。私は諦めてお腹辺りの服を掴んでメノウを揺さぶった。
メノウは少し「しまった」という顔をしたけれど、大人しく話し出した。
「あの夜、私はナディアの首に触れながら聞いただろう、『会いに来ることを了承するか』と。それにナディアは『いいよ』と答えた。これで契約は成立した。ナディアがどこにいても、私はいつでもナディアに会いに来ることができる」
私は愕然とした。
あのやりとりにそんな意味があっただなんて。
あんなに簡単にこんな重大な契約が成立していいの!?
「い、い、いつでもって……」
「いつでもはいつでもだ。ナディアが寝てる時でも入浴してる時でも」
「きゃーーー!」
少しからかうように言うメノウのお腹を私はボカボカと強めに殴った。
全然平気そうなのが悔しい。
「そんな契約だなんて聞いてない!」
「安心しろ、距離は選べる。ナディアが嫌がるような現れ方はしない」
「わざとじゃなくても近くに現れたらそうなっちゃうかもしれないでしょー!?」
「いや、うーん……これは言うつもりはなかったのだが、あの契約で、私は知ろうと思えばナディアのだいたいの状態がわかる。見えるわけではないが、感じることができるのだ。だから、そんなことにはならない」
私は再び固まった。
だいたいの状態って何?
「ナディア、私は、知らない内にナディアを失うことになるのは耐えられない。だから、ナディアの身にもし危険が迫れば、私はすぐ助けに行く。そのための契約でもあるのだ。騙すようにしてしまったことは、悪いと思っているが……」
そう言ってまたメノウはしゅんとうなだれた。
うぐっ、それ、ずるいよ!
怒れなくなるじゃない。
メノウは一度アイリスを目の前で失っているから、生まれ変わりと思われる私がまたいなくなることが怖いのかもしれない。
「わかったよ……」
私が折れると、メノウはすぐさま元気を取り戻した。本当に中身は子供みたいだ。やり口が悪辣だけれど。
「ナディア、だから私にはわかるのだが……一昨日辺り、ずいぶん悩んでいたようだったな。大丈夫か?」
メノウの問いかけに私はドキリとした。
孤児院やパン屋のみんなといたいから、とメノウの誘いを断ったのに、私はみんなと別れて貴族の養子になろうとしている。
「メノウ、あのね、私、孤児院を出たら、貴族の養子になることにしたの」
私は正直に告げた。
「……ここの皆といたいのではなかったのか?」
「うん、でも、ここにいられない理由ができちゃって」
私は少しうつむいて言った。
「ここにいられないなら、私と来ればいい」
「ううん、私、メノウのところには行かない」
「……なぜ?」
メノウの顔が辛そうに歪んだ。
「メノウは私を甘やかして何もしなくてもいいって言うけど、私は色々やってみたいの。いろんな人に出会って、いろんな経験をしたい。人として、いろんなことを感じて生きていきたいんだよ」
そう言うと、メノウは眩しそうに私を見た。
「……それにね、メノウが一番望んでいるもの、私はたぶん、あげられないと思うから」
メノウは大きな子供みたいだ。
昔失くしてしまったものを探して、それじゃなきゃ嫌だって駄々を捏ねて他の全てから目を塞いでいるみたい。
私はナディアだから、メノウのアイリスにはなってあげられない。
メノウの本当に求める物をあげられないのに、逃げ場として利用だけはするなんてできないよ。
「……私が何を一番望んでいるか、そのために私がどう動くかは、いくらナディアでも変えることはできない。私は私の思いに沿って動く。だが、ナディアが本当に嫌がることはしないし、ナディアが幸せになれるよう動くつもりだ。だから、困ったらいつでも私を呼べ。必ず助けるから」
……メノウってば、私はアイリスじゃないのに、なんて素敵な言葉をくれるんだろうね。
私は少し感動してしまって、胸の奥がきゅっとした。
「ありがとう、メノウ」
そう言って、照れながらも笑顔を返した。




