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恋は忘却の彼方へ、愛は想起の此方に

 記憶って曖昧で

 本当かどうかもわからなくて

 忘却して

 想起して

 恋の理由も

 愛の理由も

 探している

 

 彼女の腕を強く引っ張った。

 その反動で車道に飛び出た僕に強い衝撃が襲った。

 憶えているのは、彼女の顔と名前だけ。

 あの日、僕はその記憶以外の記憶を失った。


 目覚めた僕に医師から告げられたのは、事故による記憶喪失である事。

 この瞬間に記憶が戻る事もあるし、そのままずっとの可能性もある。

 まずは普通に生活が出来るようにリハビリを続けていこう。

 どこか他人事のような冷たいしゃべり方で淡々と告げられた言葉。

 モヤモヤとした形の判然としない記憶の中で彼女の顔と名前だけはしっかりと覚えていた。


 僕の元には色んな人が訪ねてきた。

 母を名乗る人、父を名乗る人、兄を、叔父を、叔母を、祖父を、祖母を、姪を、高校時代の友人を、幼稚園、小学校、中学校が一緒だったという幼なじみを、大学の同級生を、様々な僕との関係性を名乗る人達が訪ねてきた。

 それでも記憶は戻らず、みんな少し辛そうな顔をしていた。

 大学の同級生を名乗る彼と僕が2人きりの時にふと訊ねてみた。

 記憶の中に居る唯一の彼女を、まだ病室に来ない彼女の事を。

 彼は少し呆気にとられたような顔をして、俺らのことは覚えてないのに彼女だけ覚えてんのかよと少し笑いながら言った。

 曰わく、古い言い方だが大学のマドンナで男子学生の憧れ。

 お前も俺も見かけたら目で追いかけてたような高嶺の花で接点なんて同じ大学ってだけだ、今日も綺麗だったぞ、と。

 彼の言葉に僕の頭がハンマーで殴りつけられたような強い衝撃を受けた。

 だってそうだろ、僕は彼女と付き合っていてドラマや映画のように愛の力で彼女の事だけを覚えていたそんな風に勝手に思っていたのだ。

 彼女は僕の病室に来てはいない。

 それが答えのような気がした。

 過去の自分が怖くなった。

 もしかして僕は彼女に異常な愛情を抱き、ストーカーのような事をしていたのではないか。

 胸の中に言い表せない気持ち悪さがジュグジュグと広がっていった。


 その後は、リハビリと会話を繰り返してしばらくすると退院。

 戻らない記憶を取り戻すため日常生活、大学への通学を再開する事となった。

 胸の内に鉛のように重くなった気持ち悪さを抱えて。

 大学のマドンナという彼女は僕たちとは違う学部でめったに見かけることはないとの事だ。

 ありがたい、僕は未だにこの胸の気持ち悪さに向き合う勇気を持てなかった。

 それから、1月ほど大学生活を続けてようやく慣れ始めた頃に事件は起きた。

 学食へと向かう廊下の曲がり角で1人の女子学生とぶつかりそうになってしまった。

 僕の記憶の中に居た唯一の彼女。

 思わず叫びそうになった声を抑え、お互いに謝ったと思う。

 僕はおかしな事を口走っていないか、変な挙動をしていないか、そんな事は思うのに自分が何を喋って、どんな行動しているのか理解出来ない。

 問題のある言動はしていないと思うが徐々に彼女の顔色は悪くなっていく。

 そしてあとからきた彼女の友人が彼女を連れて去っていった。

 ズシンと重い気持ち悪さが僕をその場に縛り付けた。

 失った過去に僕は彼女に何をしたのか、記憶が無いのがこんなにも怖いなんて思ってもいなかった。

 それから数日後、彼女は大学でも女子学生の憧れの的であった男子学生と付き合い始めたとの噂が聞こえてきた。

 お似合いのカップルだとあちらこちらから聞こえてきた。

 ズキリと胸が痛んだがそれまで感じていたズシンと重い気持ち悪さは少し軽くなったような気がした。

 ある晴れた日、青空の下。

 中庭のベンチで彼女と噂の彼が楽しそうに話をしていた。

 彼女のその笑顔を見た時に僕は全てを思い出した。


 病院の診察室。

 僕は記憶が戻ったことを医師に告げ、1つ質問した。

 外的な要因が、例えば頭に強い衝撃を受けなくても記憶を失う事はあるのかと。

 医師は、心を守るために人は時に都合の悪い記憶を忘却する事があると答えた。

 ありがとうございますと告げ、僕は帰路に着いた。

 僕と彼女は恋人だった。

 彼女の提案で騒がれるのは嫌だから1ヵ月は周りに黙っておこうという事で付き合い始めた僕たち。

 スマホのパスコードが分からずに開けなかった画像フォルダを開く。

 彼女と僕の2ショットや彼女が笑顔でこちらを見ている写真が出てきた。

 フォルダを閉じて削除する。

 デートの帰り道、横断歩道を渡ろうとする彼女にトラックが突っ込んできた。

 僕は彼女を庇いトラックに轢かれ、頭に強い衝撃を受けて記憶を失った。

 多分、彼女はこの時の精神的ショックで僕に関する記憶を失ってしまったのではないだろうか。

 もし、この記憶が間違いだったとしても僕は彼女に恋をしていた。

 そして今でも僕は彼女を愛している。

 “I”とは自分の事だ。

 だから彼女が幸せなら僕も幸せのはずなんだ。

 あんな辛そうな顔をさせる僕よりもあの笑顔を向けられる彼の方が良い。

 この記憶は彼女には要らない、僕だけの物で良い。


 お願いだから

 どうか涙よ

 胸の痛みよ

 もう止んでおくれ

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