#7 ああ、救いのための引き金は既に引かれていたのですね
「そういえばだよ、ファーザー・フラナガン。」
「な……なに……」
「あなたも、名乗りを考えた方がいいかもしれないね。」
「ちょ……速い……」
「先ほどは私の名乗りに付け加えるような形になってしまったけれど、あなたもあなた自身の名乗りがあった方が、よりジャスティスだと思わないかい? そうだな、あなたはファーザー、神父だから、祈りという言葉をキーワードにしたらどうだろう。そう……正義への祈り、なんてどうだい?」
「いった……いったん止まって……」
相も変わらず空の下ビルの上、羽の生えた妖精のように金色をきらめかせながら踊るブラックシープに向かって、一方で普通の人間としての尊厳を何とか保とうとしながら、全速力で暗い路地を駆け抜けるフラナガンは、かろうじて荒い息と息の隙間からブラックシープに呼びかける。ブラックシープは、ふっと月と月の間を渡るように、くるっと逆さ向きに跳びながら、目の端にそんなフラナガンの姿を認めた。さっきよりも少しだけ遅れてるみたいだった、一体どうしたのだろうか。
「一体どうしたんだい、ファーザー・フラナガン!」
「いいから……少し止まって……」
金色の仮面の奥で怪訝な顔をしながら、ブラックシープはフラナガンの言う通りその場で止まった。そして、手足をきらきらとひらめかせながら、ネコ科の動物がテーブルの上からあ放り投げられた時のように、優雅に、けれど野生の流儀で、ビルの上からフラナガンの目の前に飛び降り立った。
「何かあったのかな、ファーザー・フラナガン?」
「ちょっと……待って……息……整える……」
フラナガンは膝に手を置いて。
はふー、へふー、と。
荒く息をつきながら。
やっと少しまともな声をして言う。
「ほら、何ていうのかな。君みたいにビルの上を飛んで、あたりのことを見て回るのも、確かに素早く効率よく見回りを終えることができて、とても素晴らしい方法だと思うよ。けれどね、それだとビルとビルの合間の……例えばさっきみたいに、いや、さっきは見逃すことはなかったのだけれど、とにかくビルとビルの合間で、まるでひっそりと隠れるようにして行われる悪を見逃してしまうことにならないかな。僕は思うんだ、悪は月が照らす、空から見える場所で行われるものではなく、やはり月の光から隠れた、空からは見えないような場所で行われるんじゃないかって。」
このままだとたぶん心臓か肺かその両方が破裂して死にますね、と思ったフラナガンは、その命の危険を何とか回避するために、必死で、もちろん口から出まかせにそう言った。何とかブラックシープを納得させて、ビルの上をぴょんぴょん飛んで行ってしまうことをやめさせねばならない……フラナガンの心にあるのは、そういった強い思いだった。
「なるほど……ファーザー・フラナガン、確かにあなたの言う通りだ。悪はいつも狡猾で、残忍。人の目からまるですり抜けるようにして、この世界に悪の種をまき散らす……そしていつもその苗床は、月の光の差さないような、薄暗い路地裏だ。」
「だろう?」
「ジャスティス! ファーザー・フラナガン、全くあなたはいつも正しいね! あなたという相棒を持って、私は誇らしさを抑えることができないよ!」
「それからね。もう一つあるんだ、ブラックシープ。」
「なんだい? ファーザー・フラナガン!」
「僕の経験上……いや、悪い意味での経験上ではなくて、良い意味での経験上なんだけれど、それはともかくとして、その悪の苗床? っていうの? は路地裏だけではないんだよ。」
「どういうことだい、ファーザーフラナガン!」
「こういう崩れかけたビル、そういったビルの一室なんて、特に格好の場所なんだ、なぜならこういったビルに目を向ける人間なんていないからね、なぜこんな粗大ゴミの究極形態みたいな場所に注意を向ける必要がある? どんな正義に満ちた夜警官だって、きっと素通りするに違いがないよ……そう言う場所にこそ、悪の種は宿る、僕はそう思うんだ。奴らは邪知にして暴虐、非道にして奸佞だからね。」
「な、なるほど、ファーザー・フラナガン! 確かにあなたの言う通りだよ、私の良い意味での経験に照らしてもこういった場所、ぼろぼろのビルの一室に、悪は潜むものだ!」
「だからね、ブラックシープ、僕に提案がある。」
そういうとフラナガンは。
軽く口の前に指を一本たてて。
ひっそりと、声をひそめるように。
ブラックシープに、囁く。
「今、僕は二つの場所を指し示したよね。路地裏と、ビルの一室。これを、僕たち二人で同じように見回ってももちろん構わない、けれどね、せっかく僕たちは二人いるんだ。僕たちが二人、見回る場所も二つ、ちょうどいいと思わないかい? 見回る場所を、それぞれ分けよう。」
「それは、どういうことだい?」
「といっても、別々に、離れ離れに見回るわけではないよ、僕が言いたいのはこういうことだ。僕が下を、つまり路地裏を見回る、ゆっくりと歩いて、何一つ見逃さないようにね。その間、君はビルとビルの間を飛び回って、窓を一つ一つ見回ってほしいんだ。僕と同じように、何一つ見逃さぬように。そして、互いに何かを見つけたら、何か悪の種子のようなものを見つけたら、もう一人を呼んで、一緒にそれを刈り取ればいい。どうだい? これなら、二人一緒に、けれど一人一つずつの場所を見回ることができるだろう?」
フラナガンはそういうと、軽く両の手を体の前で広げて、ブラックシープの方に同意を求めるようにして、ゆっくりと首を傾げた。ゆらゆらと、まるで眠らせる振り子のようにしてその背にポニーテールが揺れて、そしてブラックシープは顎に手を当てて少しだけ何かを考えるようなそぶりをして見せた。けれど、やがて、ぱーっと明るく輝くような顔をしながら(金の仮面に隠れて見えないけれど)フラナガンに向かって口を開く。
「完璧だよ、ファーザー・フラナガン。」
フラナガンの両手をがっしりと取って。
そして、ぶんぶんと力強く振り回す。
「まさに完璧だ、それで行こう!」
「君が同意してくれて本当に良かったよ。」
「あなたのような素晴らしい正義追及者と相棒になれて本当に良かった、今日という日を私は忘れることはないだろう……今日こそは、この世にはびこる全ての悪が、残らず根絶やしにされる第一歩、その記念すべき日になるだろうさ! よし、ファーザー・フラナガン、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかないね、さっそくあなたの提示してくれたパーフェクト・ジャスティス・ポジションでパトロールを続けようじゃないか!」
フラナガンは、あっ、パーフェクト・ジャスティス・ポジションって呼ぶんですね、と思ったのだけれど、色々と言ってまた何か面倒なことになってしまうと嫌だったので、その点に関してはコメントを差し控えることにした。一方で、ブラックシープはそんなフラナガンの内的葛藤に気が付くこともなく、意気揚々と空に向かって片手を突き上げて、この素晴らしい日という一節を生きることができた感動を示して見せた。
ふーっと、フラナガンは。
深くため息をつきながら。
ぐったりと、口を開く。
「そうだね、パトロールを続けようか。それで、次はどこに行くんだい? もと来た道を一回戻るのかな?」
「戻る? いいや、この先をずっと行くんだよ。」
「え?」
そう言うと、フラナガンは。
不思議そうに首を傾げる。
「この先もパトロールをするのかい?」
それからすっと手を指して。
今まで歩いてきたよりも遥かに深い闇。
まるで、廃墟のようなそれを指さす。
「ここから先は、グールタウンだよ?」
グールタウン、ブラッドフィールドの周囲をぐるりと囲むように広がる、帯状の地域のことをこう呼んでいる。空から差す闇が一番深い場所、廃墟と瓦礫の山でできた住処。もちろんそこにも人々は住んでいる、ダウンタウンからも追い出されたような、人間の屑共の最後のアジール、この都市に沈殿した生ゴミのたまり場、それがグールタウンだからだ。もちろん、昔はそうでなかった、そこから掘り出される良質な地下資源によって栄えていた時代もあったのだ。ノスフェラトゥとグールとの協定で、この地帯がグールに対して引き渡される前には……けれど、それは昔の話だ。その場所はもう、基本的には、グール達の領域だった。
けれどそんなことはまるで気に留める様子もなく。
ブラックシープは高らかに笑う。
「もちろんだよ、ファーザー・フラナガン! 私たちはいかなる悪も見逃してはならない、たとえそれがグールタウンにはびこる悪であってもね! 人間に対して行われる悪であっても、ノスフェラトゥに対して行われる悪であっても、そして、グールに対して行われる悪であっても、それらは全てが等しく悪だ! 差別されてはいけない、それらは全てが等しくこの世界から抹殺しなければならないんだよ!」
「いや、そういうことじゃなくってさ。ギャングでもチンピラでもいいんだけれど、いやしくもブラッドフィールドで悪人をやっているならば、グールの領土に踏み込もうとするやつなんていないだろう。」
「ファーザー・フラナガン、それはどういうことだい?」
フラナガンの言葉に、そう言いながらブラックシープはまるで純真無知な少年が教師に向かって問いかけるようにして問いかけた。ブラックシープは黒くかかる紗の奥で、多少困ったような顔をしながら、どう説明したものかと思案した。NHOEはこういったことをブラックシープに何も教えていないのか、本当に必要なことしか教育しなかったんだな、まあ自分の思い通りの操り人形を作りたいのならば、正しい方法だ、関心もするよ。
けれどそれはそれとして。
説明しなければならない。
フラナガンは、口を開く。
「領分の問題さ、あそこは人間が手を出していい場所じゃないんだよ。グールタウンには人間たちが定めた法とは違って、グールの法がある、それを破ったら、その人間はグールに排除される。そしてグールの法を知っている、といえるような人間は、この世界では八人しかいない。しかもそのうちの一人は半分グールだし……まあ詳しい説明は省くけれど、つまりはそういう理由で、あそこでは人間は悪を働くことができないんだ。普通の人間ならば、入る気もしないだろうと思うよ。」
「ファーザー・フラナガン、あなたは色々なことを知っているね!」
「いや、まあ常識の範囲内だけれどね。」
フラナガンの博識に感動したようにして、きらきらと目を輝かせているブラックシープに対して。ブラックシープはため息交じりにそう言った。それからロングコートの内側、スーツのポケットから、銀細工のシガレットケースを取りだした。いやしくも休息、一息つくというのならば、シガーは欠かせないだろう、全身の神経を夢の中に浸すような、その煙は肺の中に沈み込んで、ただ無知を淡く吐き出すとしても。シガレットケースを開くと、中には最高級のラゼノ・シガーが入っている、もちろんさっきのチンピラどもが、あくせくとその一生をかけてゴミみたいなドラッグを売り続けたところで、その存在を想像することさえも許されないような。
顔を覆う、黒い紗。
口の部分だけ、軽く退かす。
一本を、その口にくわえる。
手品のような手つきで。
銀細工のライター。
先に火をつける。
煙を一口吸いこむ。
ラゼノ=コペア、祈りを捧げよ。
煙を吐き出す。
それから、言う。
「ということで、この先のパトロールの必要は……」
「しかし、ファーザー・フラナガン!」
は? といった感じで、口を挟まれたフラナガンはブラックシープの方を見た。シガーを指の先に挟んだままで、一方でブラックシープはびしっと、闇の向こう側を、まるでこの広く暗い宇宙を切り開いていく、一筋の恒星の光のようにして、指さした。グールタウンの方を、荒廃の街の方を。そして、まるで救いの宣告のようにしてこう言う。
「それでも私たちは行かなければならないんだよ!」
「え、何で。」
「なぜなら……正義の目はあらゆる悪を見逃さないからさ!」
なぜなら……正義の目はあらゆる悪を見逃さないからさ!ってそれ、全然なぜならじゃないですから、全く理由になってないですから、とフラナガン的には思ったのだけれど、そんなことはお構いすることもなく、ブラックシープはばっと格好をつけた感じでその身をひるがえした。そして、とんっと格好をつけた感じで地面を蹴って飛ぶと、底深い静寂の方向へと、巨大な白骨の、クジラの腹の中のような、そんな街の方へと、格好をつけた感じで駆け出して行った。ビルとビルの隙間を、まるでそれはこの世界に舞い降りた正義の眼球のように、一つ一つの窓の内側を覗き込みながら。
フラナガンは、その後ろ姿を見ながら、「えー……」と小さく呟いた。そして、軽くシガーに口を付けた。体の底の方にまで吸い込んだ後で、淡く、淡く、煙を吐き出す。二つの月が、一瞬だけ無知に染まる。けれど、すぐにその煙は晴れてしまって。それから「まあ、ちょっとゆっくり歩けそうだし、さっきまでよりはましか……」と独り言のように、というか独り言として呟くと、フラナガンはまたブラックシープを追って、今度は全力疾走ではなく、ちょっとゆっくり歩き始めた。
フラナガンはふと。
猫の笑う、その声が聞こえた。
グールタウンには
なぜか妙に。
猫が多い。
恐らく、ここには人の影が少ないからだろう。この街には、ブラッドフィールドの他の街とはまるで別種の生態系が敷き詰められていて、他の街であれば人間たちがその場を占めているはずのニッチに、猫が収まってふんぞり返っている、たぶん、そう言ったたぐいの話。ちなみに、フラナガンがはるか昔に母親から寝物語で聞かされたトラヴィール教徒達のための御伽話では、その理由はランドルフ・カーターとグール達との、古い古い盟約のせいだと言われている。けれどフラナガン的には、ちょっと街角に猫が多いだのなんだの、そんな下らない事柄の説明のためにまで、わざわざランドルフ・カーターを持ち出す必要もないだろう、と。今ではそう思っている。
まあ、そんな母親も、もうこの世にはいない。
父親と一緒に、とっくの昔に死んでしまった。
フラナガンが、十三歳だった時に。
「ファーザー・フラナガン!」
「なんだい?」
「何か見つけたかい!」
「何も。君は?」
「今のところ、悪の存在は見当たらないね!」
そんなことを言いながら、ブラックシープはせわしげにビルとビルの間、窓から窓へと伝うように跳ねていた。まるで花から花へと、蜜を求めて飛びまわる働き蜂か何かのように、くるりくるり、目まぐるしく壁を蹴って。フラナガンはそんなブラックシープの姿を見上げながら、よく疲れないな、と思っていた。あと、よく目が回らないな、とも思っていた。一方で、そのフラナガンの方はというと、特にやる気もないのだけれど、ブラックシープにそのやる気のなさが見とがめられると、またクソ面倒なことになりそうだという、その微妙なラインをかいくぐるようにして、絶妙な手の抜き加減、全部の路地を覗いてみることは覗いてみるけれど、ゆっくりとシガーの煙を揺らめかせながら、といった感じだった。まあ、まず路地の数はその両側に存在しているビルの窓の数よりも遥かに少なかったので、さっきとは比べ物にならないくらい楽だった、ブラックシープが十の窓を覗いている時に、フラナガンは一つの路地を確認すればいいだけなのだから。でもねぇ、何か見つけたかい!って言われても、一体何を探せばいいのさ。大体悪って何だよ、ぼんやりとした概念すぎるよ。とかなんとか思いながら、フラナガンはまた指の先で顔にかかる紗を口のところだけひらりとめくって、火のついたシガーの煙を一息だけ口にした。
ふうっと、吐き出した。
その煙の先の道。
急に、道が開ける。
大通りに出たらしい。
「今日のパトロールは……」
とんっと、トゥシューズの先でリノリウムの床を鳴らすような軽い音を立てて、フラナガンのすぐ横にブラックシープが下りてきた。この先の通りは、今までの狭い路地とは違って、ビルとビルの間を飛んで伝うことはできそうにもないからだろう、それにはあまりに道の右岸と左岸が離れすぎている。さっきまでフラナガンの足元にまとわりついていた猫が、いきなりの出来事に驚いて、慌てて暗い影の中へと逃げ込んでいく。
「この通りで最後だよ、ファーザー・フラナガン!」
「ああ、やっとかい。」
ほうっと、フラナガンは安心のため息をつく。
確かに、もうずいぶん長いこと歩いてきた気がする。
日も、そろそろ明ける頃かもしれない。
夜も、そろそろ終わる頃かもしれない。
どちらにせよ、鬼の子供が出歩く時間は。
そろそろ終わるべき頃だ。
「さあ、気を引き締めて行こう、ファーザー・フラナガン! 悪はいつも、私たちが気を緩めるゴールのそばに息を潜めているものだよ!」
そんなことを張り切って言いながら、ブラックシープはまさに自分が先頭に立って先の道を切り開き始めた。切り開く必要もなく開けた大通りを渡りながら、目の前、その道の最初のところに立っている。大きな建物の方へと向かって歩いていく。こんなに大きな通りにも関わらず、人通りの姿は、人っ子一人見えなかった。勘違いしないで欲しい、グールタウンにも間違いなく人間と呼べる生き物は住んでいる。けれど、普段の彼らはそれぞれの住処にこもりきり、表へと出てくることはないのだ。特に、夜の間などは……住処? 少し違和感のあるいい方だ。この町に住む彼らは、ある意味では死人だ、死人でなければこの街には住めない。この街は、そう言う街だ。どんな意味であっても、死人が住まうところは住処ではない。だから、それは墓穴と呼んだ方が、語彙の上では正確だ。
「ちょっと、どこへ行くんだい?」
気が付くと、そのまま大通りを突っ切って目の前の大きな建物の玄関口、幾つかある、ドア枠のメッキの剥げたような、回転式のガラス扉の、その内の一つに手をかけて。その中に入ろうとしているブラックシープに向かって、フラナガンは慌てて問いかけた。
「どこへって、この建物の中へだよ!」
「え……何で?」
「何でとは?」
「いや、別に入る必要はなくない?」
「ちっちっち、ファーザー・フラナガン、甘いぞ、甘すぎる! 私の良い経験上、こういった崩れかけた大きな建物の一室なんて、悪がその腐敗の温床とするには、まさに特に格好の場所なのだよ! なぜなら普通の人間は、今のあなたのようにして、こういったビルにしっかりと目を向けることはないからね! こういう場所にこそ、悪は芽生えるのさ……奴らは邪知にして暴虐、非道にして奸佞なのだから! それに何より、さっきまでのところとは違って、この建物には足がかりがないから、外から窓を覗くこともできないしね……さあ、行くぞファーザー・フラナガン! 一つ一つ部屋を覗いて、そこにいる、油断し、弛緩しきった悪共に正義の裁きを下すのだ!」
そう言いたいことだけを言い終わると。
ブラックシープはとーんとガラス戸を押した。
くるんくるんと回転する扉の内側に。
飲み込まれるようにして、消えていく。
「いや、それさっき僕が言ったことじゃん……」
そう言うとフラナガンは。
また、口にシガーをつけて。
ふうっとため息をつくように。
その煙を吐き出した。
全くもって面倒なことになってしまった、とか何とか考えながら、大通りをゆっくりと、その建物の方へ足を進めていく。人生というものは上手くいかないものだ。良かれと思ってやったことが、あだとなってこちらに襲い掛かって来る。さっきまではこちらに味方してきた事情が、今度はこちらに敵してくる。さっきまではブラックシープへの抑止力となってフラナガンを助けていてくれていたのに、今度はブラックシープを引っ張っていく推進力としてフラナガンを……いや、こんな諸行無常なことをいつまでも考えていても仕方がないか、とフラナガンは思った。ゆっくりと、嫌々ながら、ブラックシープの入っていった建物の方へと向かう。
すぐその目の前に立ち。
何気なく看板を見上げた。
ホテル・レベッカ。
朽ち果てた看板には。
そう書かれていた。
どう考えてもこんなところに、悪でも何でもいいけれど、何かしらの建設的な行為をしようというやつはいないだろう、とフラナガンは今度はシガーの煙なしに、大きくため息をついた。使うべきではないほどに月並みな言葉ではあるが、まるで抱きしめたら壊れてしまいそうだ。そこら中でエントロピー減少の法則を確認できそうなその体つきは、まるで幽霊屋敷の執事にも似ている。要はぼろぼろに崩れかけたホテルだ、それ以外の何物でもない。蛆虫でさえ中に入ることさえ躊躇われるほど、肉が腐った死体のようなもの。これは死んだ場所。死んだ場所には、生きた人間は寄り付かない。また、もう一度、大きくため息をつきながら。フラナガンは今まで吸っていたシガーを足元に落として、今日このパトロールを始める前までは確かに磨き抜かれていたはずの革靴の踵で、静かにすり潰して火を消そうとする。
けれど。
その時に。
フラナガンは。
それを感じた。
目を上げる。
耳を澄ます。
しかしその感覚ではない。
彼が執拗に否定する。
六つ目の感覚だ。
例えるならばごく単純な火薬仕掛けの玩具。
あまりにも愚かな、ただ人に引き金を引かれるだけの拳銃。
尖り澄まして牙を生やして、銃身の中を駆け抜けていく。
撃鉄ではじかれて、はぜたその瞬間の。
銃身から弾丸を押し出す、その瞬間の
「なんだろう、なんだろう。」
フラナガンはそう言った。
それから、ゆっくりと踵を落とす。
シガーの上に、踏みつぶし、こすりつける。
シガーから、何かの内臓のようにして。
乾いた葉が漏れ出て、地の色に汚れる。
フラナガンは、首を傾げる。
この扉の奥、その奥の奥に。
「一度、君に会ったことがある気がする。」
そう言いながら、フラナガンは。
回転ドアを押して、中に入っていく。
後には、シガーの残骸が残される。
この街にふさわしく。
これも死体のように、裂けて崩れていた。
ホテル・レベッカ。
昔は栄えていただろう場所。
今は朽ち果てている場所。
黴の匂いがする、そこら中にずるずると浸食して、したしたと己の内側から濁った液体を垂らし、その液体が汚した先に、また己の複製を根付かせていく、そういった、類の、黴の匂いだ。フラナガンはひらひらと手のひらを、躍らせるとも躍らせないともなく、腐った絨毯の上、揺らめかせながら、ゆっくりとその中を歩いていった。すでに止まった振り子時計。ボーイも客人もいないカウンターの上ではベルが静かに錆びついていく。足が折れて跪く姿勢しか取れないソファーが何脚か、石造りの頑丈そうな、薄汚れたテーブルの周りで、何者かに祈りを捧げているように見える。フラナガンはそちらの方に向かって、軽く、優しげな笑みを向けて見せた、もちろん、それは、その笑みは、黒い紗に覆われているその笑みは、軽蔑と嘲弄だ。
誰だろう。
誰だろう。
誰だったろう。
まるで歌うように、フラナガンは考える。
誰だろう。
誰だろう。
誰だったろう。
この温度は。
この若い温度は。
首輪をかけられることを嫌うような。
若い、愚かな、獣。
フラナガンはゆらゆらと。
脚のない海月のように歩いていく。
「ファーザー・フラナガン!」
ふと、ブラックシープの声が聞こえた。
フラナガンは、首の紐を引かれた犬。
哀れにも現実の側に引き戻される。
「なんだい、ブラックシープ。」
「ちょっとこっちへ来てくれるかい!」
くっと首を、そちらの方へと向けた。
どうやら、その声が聞こえてくるのは。
あのカウンターの奥の方。
カウンターの奥には、ここにある薄い闇よりも、はるかに濃い色の闇が、深い深い液体のように、細長い四方形に溜まっていた。壁に開いた穴の方に、つまりそれは、恐らく昔はスタッフ用か何か、とにかく控室だったろう部屋の、入り口であった。扉はまるでもぎ取られたようにしてはぎ取られていて、カウンターの上に寄りかかるようにして倒れている。そして、ただその入り口だけが、純粋な形で、口を開いている。
フラナガンはるっるっるーと軽く笑うように歌いながら、どうしたらいいものかと考えていたのだけれど、まあしょうがないか、と思いながらその方向へと向かう。カウンターの横にある、出入り用の小さな扉のようなものを開いて、その内側に入る。手が勝手に遊んでいるような手つきをして、軽くベルに触れて、その錆びた色の音を、ぢんぢんぢん、と三回鳴らす、掠れた音だ、聞こえるか聞こえないくらい。それから、かるく頭を振って、ポニーテールを長い長い尾のように揺らめかせると。
「今行くよ、ブラックシープ。」
首筋をなぜるような声でそう言った。
軽く、濃い色の闇の内側を覗き込む。
闇の内側は……間違いもなく暗かった。まあ、それもそうだろう。この建物に、まだ電気が通っているというような現象は、起こるとしたら奇跡だろうし、世界はそんな下らない事柄で奇跡を消費しないものだ。それはもっと、ヨグ=ソトホースの全ての意思に従ったような形で……あのダニエルの身に降り注いだ雨のように……起こるものだ。それはそうと、ブラックシープはよくもまあこんな真っ暗な中で歩けるものだね、僕だったらきっと転んでしまうに違いないよ、何かに足を取られて、いや、どうだろうな、もしかしたらそんなことはないのかもしれない、転んでしまったりは、しないのかも。そんなことを考えながら、スーツのポケットを探って、銀色のライターを取りだした。かちっと音を立てて、オイルの匂いもガスの匂いもしない、一番シガーをつけるのに適した、純粋な状態の炎、ゆらゆらと揺れながら、照らし出す。
そしてフラナガンは。
それを見て声を上げる。
「え……なにこれ。」
目の前に現れたのは。
歪んだ形、白い薔薇。
その前に、ふんすっといった感じに両の拳を腰に当てるポーズをとったブラックシープが、実際にふんすっと鼻息荒く吐き出しながら、フラナガンの方を向いて立っていた。そして、びしっと白い薔薇を指さしながら、いかにも褒めて欲しそうな子供っぽく、自慢げにこう言う。
「ホワイトローズ・ギャング!」
「よく君、こんな暗い中を歩けるね。」
「このシープマスクにはGセンサーが付いているのだよ! たとえこの世界に一筋の光さえ差さずとも、この私が悪を引き裂く光となるためにね!」
「ああ、そうか。」
ライターの火に伝うように、恐る恐る歩きながら。
フラナガンは足元ばかりを見てそう言った。
「逆さになった五角形、その形を五つに咲く五枚の花弁、見まごう事なき白き薔薇。これはさっきの連中のジャケットに書かれていたものと同じものではないかな!」
「あー、うん。そうだね。」
フラナガンとしては特に全く実際ほんとにどうでもいいことだったので、あー、うん。そうだね。というその答えをしただけでもブラックシープの心を本当に慮っているのですね、と言ってもらってもいいくらいだったのだけれど、しかしそれでも何かブラックシープ的には不満足らしく、ぶすぅっとした感じの顔色が、金の仮面を通してでもフラナガンに伝わってきた。え、何か対応間違えたっぽい? 面倒だなぁ……とか思いつつ、フラナガンは色々と考えてみて、これかな、と思われる反応を、口に乗せて出してみる。
「すばらしい洞察力だね、ブラックシープ。」
「いやいやいや、それほどでもないよファーザー・フラナガン。」
はっはっはと上機嫌に笑うブラックシープ。
はーっと疲れ切ったようにため息をつくフラナガン。
「そして、これも見てくれたまえファーザー・フラナガン。」
「なに。」
「これだよ、これ!」
ブラックシープが指さしているのは、自分自身の足元。
控室の壁に描かれた、スプレーの薔薇の下。
フラナガンは、ライターの光をかざして、それを見る。
「穴だね。」
「穴だよ!」
「それは、これだけ古い建物だからね。穴の一つや二つ、空いているだろう。それが一体、どうしたっていうんだい?」
「あなたは感じないのかい!」
「え、何を?」
「悪の……悪の波動をだよ!」
シャキーンと任意のかっこいいポーズを取って、ブラックシープは決めゼリフっぽく、フラナガンに向かってそう言い放った。悪の波動っていったってそれ具体的な質量をもつ存在ではないし、故に一般的に言えば人間に感じ取れるものではないよね、とフラナガン的には思ったのだけれど、いちいちそう言うのも面倒だったので、ただ一言こう言った。
「たぶん、グールのハニカムに繋がっているんだよ。」
「ハニカム?」
「えーと、グールの巣だね。」
「なるほど!」
「グールタウンの下には、どこもかしこも、網目のように通っているんだ。だから、別に悪とかは関係ないと思うよ。床が腐って、自然に抜け落ちただけさ。」
「ならばこの白い薔薇の絵はどう説明つけるというのだね、ファーザー・フラナガン! 確かにこれはホワイトローズ・ギャングのマークだろう!」
「知らないよ、たぶんチンピラ達が入り込んで特に意味もなく落書きでもして行ったんじゃないの?」
「このグールタウンに、かい?」
このグールタウンに、かい?って君ね、グールタウンにギャングだのチンピラだのが寄り付かないって君に教えたのは僕だし、それについさっきもさっきのことだったろう?とか何とかを考えながら……それでもフラナガンは、確かにちょっとおかしいな、と感じていた。いくらリチャード・サードがこのブラッドフィールドのギャング業界では新入りの若造に過ぎないといったって、それにしてもノスフェラトゥ、しかもグロスター家の出だ。例の協定を知らないはずもない。そのリチャード・サードに率いられているはずのホワイトローズ・ギャングが、何の理由もなく、こんなところに己を示す記号を刻むだろうか? それはあまりにも無意味だ、昨日の夜が春の匂いのする夜だったという理由で、桜の木の下で首をくくるのにも似ているくらいに。
「まあ、それは、確かにちょっとおかしいけれど……」
「とにかく!」
ブラックシープは、フラナガンがちょっと自信なさげになってきたことに、気を良くしたようにしてびっと人差し指を向けてきた。その人差し指をふるふると軽く揺らしながら、言葉を続ける。
「この穴の下に行って、調査してみる必要があるみたいだね。」
えー。
そんな。
面倒な。
「いや、ちょっと待ってよ。もう少し色々と考えてからの方がいいんじゃない? この穴だって、ほら、真っ暗でどこまで続いているか分からないじゃないか。下手に飛び降りて、怪我をしてしまうかもしれないよ。」
そう言いながら、フラナガンは。
ライターを、穴の上に翳す。
漆黒の闇が、質量を持って漂っているように。
「それほど深くないみたいだね。」
しかし、ブラックシープは軽くそう言い放った。
しまった、Gセンサーが付いているんだった。
何とか言い繕ってこの場を抑えなければ。
「ほら、えーと、何かな、アレだ、Gセンサーが壊れているかもしれないだろう? ちゃんと確かめてみないと。見てごらんよ。」
慌ててそう言うと、フランガンは、その手のひらの内側、銀色が炎で燃えているような、そのきらきらとしたライターを、白い手袋で覆われた指先から、ぱっと開くようにして、それをあっけないくらい簡単に離した。くるくると重力に従って、小さな小さな飼いならされた炎は、闇の肌をゆっくりと一直線に裂いていって、ひらひらと落ちていく。そして、やがてその先で、かちり、と何かの鍵が開く音のまがい音のような小さな音を立てて、一番下にまでたどり着いて、落ちた。
それほど高くはない。
せいぜい、人の背丈の、一・五倍くらい。
「あーと、それほど高くはないみたいだね。」
「ほら、言った通りだろう? 全く、ファーザー・フラナガン、あなたは心配性だね!」
「でもほら、何ていうのかな。」
「んもー、ファーザー・フラナガン! あなたが私のことを心配してくれているのはとても嬉しいことだけれど、私だって、あなたと同じ、一人の正義追及者なのだよ! いざという時、正義に殉じて死ぬ覚悟くらい、とうにしてあるさ! というわけで、行くよ、ファーザー・フラナガン!」
「え、死ぬ覚悟って……」
僕、死ぬ覚悟とか全然できてないんですけど、と。フラナガンがそう言おうとした瞬間に、ブラックシープはまるでフラナガンのことを攫うようにして、その体をひっ捕まえた。へ? と情けない声を上げる暇さえもなく、フラナガンはブラックシープにお姫様抱っこの形で抱えあげられていて、そしてそのブラックシープは、フラナガンの体を抱いたままで、とんっと軽く床を蹴って穴の内側に跳んだ。深い闇の底……というか、まあそれほど深くもない闇の底……でもないな、それほど深くもないライターの火で照らされた底の方へと、身を投げ出すように。
「ブ、ブラックシープ!」
「しっかり掴まっていたまえ、ファーザー・フラナガン!」
フラナガンがしっかりと掴まっている暇もないくらい。
すぐに、ブラックシープの体は地の底にたどり着いた。
ふわっと、鳥の羽が舞い降りたように、何の衝撃もなく。
ブラックシープは、足を底に落とす。
そして、フラナガンの体を下す。
「君ね、ブラックシープ……」
「おっと、私とあなたの間柄だろう? わざわざ礼を言う必要なんてないさ!」
フラナガン的にはお礼を言う気なんてさらさらなくて、その反対に、いきなり人の体をひっ捕まえるのは一般的な礼儀作法に少し反していますよ、とか、これから穴の底に人を引きずり込む前には一言相談して欲しいですね、とか、そういった今後の改善点や要望を少しブラックシープと話し合いたかっただけなのだけれど、まあ無駄だな、と思ったフラナガンは、ただ口をつぐんで、それからライターを拾うという建設的な行為に、ブラックシープ説得に使おうと思っていた時間を、費やすことにした。
銀色のライターを、白い手袋が拾う。
小さな火が、ぼんやりとあたりを照らし出す。
洞窟が、淡く淡く視界に切り取られる。
フラナガンは軽く肩を竦めながら言う。
「ほら、やっぱりただのハニカムだろう?」
確かに、フラナガンの言う通り。ここはただのハニカムも、それもかなり末端も末端の通路のようだった、毛細血管で例えるならば、たぶん人差し指の先の方、それくらいの場所。あまりにも末端なので、人間からすると、ほとんど天井が自分の頭にまで迫ってくるように、狭い狭い通路だ。かろうじて、フラナガンとブラックシープの二人が立っていられるくらいの幅はあるけれど、ごつごつと掘り抜かれただけの岩肌は、まるで両側、互いがキスをしようとしていうかのように、迫ってくるくらい。
それでも、そんな狭い洞窟であっても、この場所が確かにハニカムであると分かるのは、足の下、闇の果てから闇の果てへと走っている、二本の赤い線、赤イヴェール合金の、例の二本の線のせいであった。もちろん、ここに通っているこの二本の線は、ブラッドフィールド・サブウェイの地下鉄道のために敷設されているものではない、ここでは狭すぎて、車体の三分の二も入ればいい方だろう。そもそも、このブラッドフィールッドの地下、網目のように張り巡らされた、その赤い二本の線は、全てがメトロのそのために作られたものではなかった。もっと、別の目的のためのものだ。
それは。
一つの。
吐かれるべきでなかった。
嘘を隠すためのもの。
けれど、それは今は関係のないことだ。
フラナガンは、ふっと眉をひそめる。
「あれ、でも……」
そう言いながら、その場に片方の膝をついてかがんだ。ゆっくりと指先でなぞるようにして、線路の上を撫でてみる。それは、明らかにおかしかった、普通と違っていた、つまり。
「これは、随分と、暗い色をしている。」
普通の赤イヴェール合金よりも。
その淡い光が、より淡かったのだ。
近く、頬を寄せるほど近く。
そうしないと、感じ取れないくらい。
「なぜだろう、強い負荷がかかっている。」
「ファーザー・フラナガン!」
「何だい、ブラックシープ。」
「あれは何だろう?」
ブラックシープの声で、ふっと立ち上がったフラナガンは、膝についた埃を軽く払いながらその指差す方向に目を向けた。それから、パチン、とライターを閉じて、その光を消す。ブラックシープの指差す方向、この毛細血管の行き着く先に、何か、本当に闇の色に掠れてしまいそうなほどの、ぼんやりとした光が見えたのだ、緑色の光、ライターの火を消すと、その光は、ライターの火を消す前よりも少しだけ光の色を強くして。
「緑色の光に見えるね。」
「やっぱり私たちは気が合うようだね、私にもそう見えるよ!」
「いや、たぶん実際に緑色の光なんじゃないかな。」
「あれは何だろう?」
「解らない、何か、中に浮かんでいるように見えるけれど。」
「行ってみよう!」
そう言うと、ブラックシープは無思慮にも、そちらの方に向かって走り出した。フラナガン的にはブラックシープが死んでしまうと困るし、この洞窟には何かとても……不自然なものを感じていたので、慌ててそれを追いかけて駆け出す。
「ちょっと待ってよ、ブラックシープ!」
「何か浮かんでいるみたいだよ、ファーザー・フラナガン!」
ぱっと、洞窟を抜けた先は。
その通路の終点は。
急に開けた、部屋になっていた。
「ジャスティス、一体……」
「さあね。」
その光景に立ち止り、そのまま佇んだままで独り言のようにそう言ったブラックシープに対して、フラナガンは軽く肩を竦めながら、一応それが自分に言われた言葉と仮定して答えた。その部屋の光景は、確かにこれは一体何なんだろう、と思わせるものがあった。一言でいうならば、何かしら、みょうちきりんな宇宙人だか未来人だかが作り出した、みょうちきりんな実験室、みたいなものは、きっと随分とこれに似ているのではないかと思わせるもの。
このセルはかなり広くはあったけれど、ダレット・セルには遠く及ばない大きさだった。大学の、少し大きめの講義室くらいとでもいえばかなりいい線をいっているだろう、特に講義室が、大学生たちがサボタージュをしているせいでスカスカな場合、その空虚さは、このセルに酷似していると言えなくもない。その中に、内臓を模ったような機械が浸食して、繁茂している。
それは、決して誇張ではなかった。このセルの光景は、何者かの肉体を、機械で似せ物にして、それをそのままひっくり返して暗く湿った穴の中に置いたもの、としか、いいようのない光景だったのだ。しかも、その何者かは決して地球の生き物ではなく、そのために目の前にある内臓が何のために存在しているのかは、よく分からないというのが正直なところで。
壁や天井は、今までの通路と同じように、岩盤をそのまま掘りぬいたような洞窟だった。しかし、のっぺりとした白い色を、重ねて筋繊維にしたような床。そこから生えるようにして、機械の骨でできた小さな脊髄のミニチュア的な何かが、神経症の患者が置いたような正確な間隔で五つ。その塔が囲っている真ん中に、巨大な手のようなものが数本生えている。それぞれの手のひらによって生えている数の違う指だけが妙に大きくて、不揃いな花びらのように見える。そこから零れ落ちそうにして、二つの女性の頭部が混ざったようなものが三分の二、残りの三分の一は肝臓類似にぶよぶよとしたもので覆われていて、口と思しき穴が巨大に開いている、何かの巨大な機械が乗っかっている。
そして、その口の中。
あぶくのようにガラスの水槽。
緑色に光るその中に。
グールが一鬼浮かんでいた。
「僕にはグールに見えるけれど。」
フラナガンは黒い紗の向こう側で。
軽く、かちかちと、歯を鳴らした。
口を、開いたり閉じたりして。
もう少しよく見ていくと、その装置(と仮にここでは呼ぶ)の方に向かって、赤イヴェール合金の二本の線は伸びていた。指を綾取りのように通り過ぎて、女性の頭部に絡み合い、肝臓のようなものを締め付けて。そして、ガラスの水槽の内側、胎児のように浮かぶグールに刺さった、幾つかのワイヤーみたいなものが、乱雑にその赤い二本の線と絡まりあって、そして、どうやら、何かを、グールから、そのワイヤーが吸い上げているようにも見えた。
「彼の鬼は苦悶の表情を浮かべている。」
「実際に苦痛が与えられているのかもしれないね。」
二人はそう言いながら、装置の方に向かって近づいていった。ゆっくりと、手のひらを伸ばして、フラナガンは静かにその装置に触れてみる。何かを感じ取ろうとして。けれど、何者かがそれを妨害しているかのようだ、こんなことは初めてだった、これは、まるで、この世界の、ものでは、ないようだ。それは文字通りの意味で。角度がゆがんでいるのだ、あるいはその曲線の描く弧が。人の思惑のために捻じ曲げられた精神が、何かしらの方法で利用されている。それはおかしいことだった。世界の正しさからずれている。かちかち、とフラナガンは自分の歯を鳴らし続ける。世界の正しさからずれている。世界の正しさからずれている。世界の正しさからずれている。
アラリリハ。
見つけた。
彼が、詐欺師だ。
「いったいこれは何なんだろうね、ファーザー・フラナガン。」
「テクノ・イヴェールさ。」
「テクノ・イヴェール?」
「生起的な方法で構成された機械のことだよ。」
「良く知っているね!」
「古い友達が、この技術を確立したんだ。」
「ではその友達がこれを?」
「いや、彼には彼の美学があるからね。こんなことはしないよ。こんな……彼の美学にふさわしくないことはしないよ。なるほどね、この装置のせいで僕は必要なくなったってことか。だからシャボアキンも、僕をレメゲトンに収容することができたんだね。」
「何か分かったのかい?」
「いや、何も。」
フラナガンは装置から手を離すと、軽く肩をすくめた。
その言葉は、本当のことだ。
フラナガンは、何も分かったことなどなかった。
彼の否定するその感覚は、存在するはずもないのだから。
それは、ともかくとして。
「とにかく、彼の鬼をここから解放しなければ!」
「解放?」
「彼の鬼は苦悶の表情を浮かべている、誰かが誰かを苦しめたり、痛い目に合わせているとしたら、それは躊躇うことなく悪と断定していい事実だろう?」
「いやまあ、そこらへんは個人の価値観によるだろうけれど。」
「そう、それは悪なんだ!」
「あ、聞いてないですね。」
「悪はこの世界から、すぐに取り除かれなければいけない、その存在を許されるものではないからね、というわけでファーザー・フラナガン! 目の前で行われている悪をこの世界から排除するために、今すぐに彼の鬼を開放する方法を探すんだ!」
「はいはい、分かったよ。」
フラナガンの答えを聞く暇もなく。
ひらり、と泳ぐようにして。
ブラックシープは飛び上がった。
そして、手のひらの先、金の蹄が、きらめいて、まるでなにか、銃弾のようにして、そのガラスの水槽に向かって激突した。その瞬間に、まるで否定それ自体の現象のようにして、ブラックシープの体は弾かれて、吹き飛んで、地面に叩き付けられてしまう。ガラスの水槽には傷一つなく、フラナガンは倒れ込んだままのブラックシープの顔を覗き込んで、なおざりな感じで問いかける。
「大丈夫かい?」
「もう一回!」
素早い系リビング・デッドみたいにして、がばっと起き上がったブラックシープはまた跳ねて、そして今度は大きく足を振りかぶって、爪先の金色でその水槽を蹴りつけた。もちろん、水槽には何の傷もつかず、ブラックシープはまたもや反動で跳ね返ってきた。けれど、こんどは倒れ込みはしなかった、ブラックシープは一度犯した失敗を二度と犯すことはない、とんっと軽く手の先で受け身を取るようにすると、床に跳ね返ったスーパーボールか何かのようにして、またその装置に方に金色の蹄を叩き付けた。攻撃を仕掛けては跳ね返り、そしてまた攻撃を仕掛ける、という行動を、まるで何かしらの乱舞のようにして繰り返し続ける。
まあ。
無意味な。
ことですが。
水槽は傷一つつかない、付くはずもないだろう、たぶん、これはスペキエース種から採取できる、ナチュラル・テクノイヴェールのようなものとは別種のものだ。あれだったら、例えばバーゼルハイム系の兵器(ディープネット社から各種製品を発売中、ただしブルーバード協定によって世界的に使用が禁止されているけれど)ならば破壊することも可能だ。けれど、これは、もっと何かしらの強化を施したものだ、恐らく、黒イヴェール合金に少し欠けるくらいの強度はある。この世界でこんなものが作れるのは、アルファクラス知性所有者を除けば、ヴァンス&クロス社のプラマヌソリッド研究室か、あるいはフラナガンの(一応)友人である(自称)悪の天才ボールドヘッドくらいのものだ……けれど、そのどちらもが、こんなものを作るとは思えなかった、こんな装置を。
もう一度、フラナガンは。
その装置を見上げてみる。
ガラスの水槽には相も変わらずブラックシープが攻撃を続けていたけれど、まるで傷つくこともなく、ただ単純な透明さが、まるで不可侵であるその理由であるかのように。けれど驚くべきことにあたりのテクノ・イヴェールは、ブラックシープの蹄のそのガラスに与えられたものの反射によって少しだけ傷ができていた、驚いたな、一体あの蹄は何でできているのだろう、とフラナガンは思いつつも、それが決して無駄ではないわけではないことを知っていた。ぶるぶると震えるその肝臓のような部分は、傷口から白い海のようなべたべたとした滴りを垂らす、その滴りが、その膿が、傷口をゆっくりと覆って、修正していく。これもまたテクノ・イヴェールの特徴の一つだ、その全体のシステムはプラマヌを部品としたアヌレベルのナノスマシンによって構成されていて、ちょっとした傷であれば、合成の際にプログラムされた再構成反応によって自己修正してしまう。
装置を囲う大きな指先が、まるで風に揺れる草原の一輪の花のように、風に揺れるというのはあくまでも比喩であってここは洞窟の中だから風は吹いていないのだけれど、それはとにかくとしてゆらゆらと揺れている。ブラックシープの攻撃とはまるで無関係に、ただ単に何かしらの生理反応なのだろうか、とにかくその中心にある顔の、口の中、眠っているグールにフラナガンは目を移した。体を覆っている一枚の長い布に目を這わせてみる、間違いもない、弧のグールは、ダレット列聖者だ。そのグールは、ブラックシープの言う通り、顔に苦悶の表情を浮かべていた。随分と憔悴している顔、その口を軽く開いて、まるで誰にも聞こえることのない唸り声を発しているように見えた。けれど、フラナガンにはその声が聞こえる……随分と、フラナガンにとって、それは聞きなれた旋律だった、人間の中に組み込まれた、もっとも、美しい、フーガ、何度でも、何度でも、その存在が、この世界にある限り、それは、繰り返される……それは、苦痛だった。
グールは死にかけている。
決して死ぬことはないとしても。
「ブラックシープ。」
「何だい、ファーザー・フラナガン!」
「たぶん、これは壊すことができないよ。」
「そうなのかい、ファーザー・フラナガン?」
「もう少し、別の方法を考えないといけないと思う。」
ガラスの水槽に向かって、何度も何度も飛び跳ねていたブラックシープは、これで最後と、また大きく足を振りかぶって、まるで鎌で空間を薙ぎ取るようにして、勢いよくそれを蹴りつけた。もちろん、その最後の一撃も何の役にも立つことなく、ただ透明に跳ね返されただけだった。ブラックシープは宙に弾き飛ばされながら、ふっと息を吐き出して乱れた呼吸を整えると、くるんっと一つ回転して、とんっと極めて優雅な猫のように着地した。
「別の方法とはどんな方法だい?」
「たぶん、これは時が来るまでの間、何かを封印しておくための装置だと思う。それは永遠なのかもしれないけれど、それはともかくとして、これが封印の装置であるとするのならば、何かしら、それを解除する方法があるはずだよ。それが何かは分からないけれど、とにかく、僕たちはその方法を探さないといけないね。」
「なるほど!」
そういうと、ブラックシープは。
少しだけ考えるような素振りをした後で。
非常に晴れやかな声で、言う。
「確かに、あなたの言う通りだよ、ファーザー・フラナガン! 全く、あなたはいつも冷静かつ聡明、そして何よりも正しい人だね!」
こうして、二人はこの装置を。
色々と探ってみることになった。
はじめは、装置の周りにある五つの脊髄的なものから探ってみることにした。何か、真ん中の装置をコントロールするための器官なのではないか、と思ったのだ、うまくいけば、もしかして、この装置を解除するためのスイッチか何かがあるかもしれない、と思って。その脊髄のようなものは、五つそれぞれがまるで各々と対称ではない、不整合な形をしていた。例えばそのうちの一つは、脊髄的なものの内側に、女性のような体が付いていた、ただし乳房は一つしかなく、そして下あごから上と臍から下は欠けていたのだけれど。肉の部分の触り心地はそこそこぷにぷにしていて、骨の部分の触り心地はそこそこ骨だった。
けれど、それでも。五つそれぞれに唯一共通していたことがある。それは、この装置を解除するためのスイッチか何かではないということだ。まあ結論としては、つまり、残念なことですが上手くはいきませんでしたということだった。フラナガンが下顎のようなものを上げたり下げたり、ブラックシープが眼球のようなものを転がしてみたり、色々してみたのだけれど、それがもたらした効果は、恐らく傍目から見たら随分とまぬけだったろうなぁということだけだった。もちろん、五つを一通り蹴り飛ばしてみたし、あの臍っぽいものにあの指っぽいものを差し込んでみたりした、あの肥大した心臓のようなものに腰かけてみたりさえした。けれど、全くの無意味だった。
けれど。
結果は。
「うーん、何も起こらないね。」
「そうだね、ファーザー・フラナガン!」
この二言だけだった。
次に、装置本体を色々と探ってみることになった、正確にいえば本体かどうかは定かではないけれど、とにかくグールを内側に捕えているあれのことだ。二人でばらけて、フラナガンは後ろ側、ブラックシープは前の側を色々と探ってみることになった。暫く経ってから、フラナガンが後ろ側で、装置の指のところに寄りかかって、ぼーっと座って時間を潰していると、前の側、ブラックシープが、急に何か、素っ頓狂な声を上げた。
「ファーザー・フラナガン!」
「何だい?」
「ちょっと、これを見てみたまえよ!」
大儀そうに立ち上がり。
フラナガンはその声がする方に。
「何かを見つけたのかい?」
「ここ、何かが書いてあるよ!」
それ、僕が見ないとダメなものなの? とフラナガン的には一回念のため聞いておきたいところだったけれど、たぶんそれは僕が見ないとダメなものではなく、その上でブラックシープは「あなたに見てもらいたいのだよ!」とかなんとか言ってくるであろうことは目に見えていたので、何も言わないで、ただ唯々諾々と、ブラックシープが何かを指示している、そのすぐそばにまで近寄っていく。
「それで、何が書いてあったんだい?」
「見てくれたまえ、ファーザー・フラナガン!」
それは、萎れた花びらのような指の一つ。
とりわけ一番小さなもの。
関節が、三つついている、細い指。
その先の、爪の平に書いてあるものだった。
小さく、小さく、何か、文字の列のようなもの。
放り出すように、淡々と並ぶ、文字のようなもの。
「これは何だろう、ファーザー・フラナガン? どうやら私には文字のように見えるのだけれど、共通語ではないみたいだね。」
「これは……ああ、汎用ヴール文字だね。」
「汎用ヴール文字?」
「神々の連中が共通語を作る前に、普通のトラヴィール教徒が使っていた文字さ。」
「読めるかい、ファーザー・フラナガン?」
「まあ、一応ね。」
「ジャスティス! なんて書いてあるんだい、ファーザー・フラナガン!」
フラナガンはその文字列に顔を近づけた。
白い手袋、細い指先、一文字ずつなぞっていく。
黒い紗の奥で、その言葉が、音をなす。
「Oikonomia is coming with redemption……えーと、共通語に訳すと「救いと共にオイコノミアは来ませり」って意味だね。オイコノミアは、ちょっとうまく訳せないんだけれど、古い古い異端者が使っていた言葉なんだ。何ていうのかな、全知者の王国、みたいな、三人目の定命全知者がこの世界に現れて、その者の下に救いの王国が作られて、世界の全てが救いを与えられるっていう、その王国のこと。「無知の幸」の教義からするととてもじゃないけれどこんなお話は受け入れることができないお話だから、何回目だったか忘れたけれど、ベルヴィルの公会議で異端に認定されたんだ。」
「その言葉が、何でこんなところに?」
「それは、彼/彼女が異端者だからだろうね。」
「彼/彼女?」
「何でもないよ、僕が知らないことさ。」
そういうと、軽くフラナガンは肩をすくめた。ブラックシープは何も分かっていないだろうけれど、「なるほど!」と言う。「そういうことなんだよ」「よく分かったよ、ファーザー・フラナガン!」もしかして、実際のところ、人と人とは、例えばこんな風に分かりあえるのではないだろうか。そう、訝し気にフラナガンが考えた時に。
背に感じた。
火薬仕掛けの。
玩具の温度。
「ブラックシープ。」
「何だい、ファーザー・フラナガン?」
「頭を下げた方がいいね。」
そう言うと、フラナガンはブラックシープの頭を押さえつけて、ぐっとその上に倒れ込むようにして、自分とブラックシープの身を地に倒した。今まで二人がいたところ、頭部のあたりを、正確に貫くようにして。
「ああ、この温度は。」
二発の弾丸が。
風を切って通り過ぎていく。
「君だったのか。」
フラナガンは、倒れ込みながらその姿を見ていた。
人間でいえば、二十代前半くらいに見える。
若い、男の、姿をしている。
少し肌色に濁った肌の色。
雑に切られたばらばらの黒い髪。
赤い色をした三白眼。
常にゆがめて笑っている口元。
研ぎ澄まされた針のような吸痕牙。
そこここに繕い跡のある黒いスーツ。
解けかけた黒いネクタイ。
磨かれたことがないような黒い革靴。
それから、胸に差された、白い薔薇。
「リチャード・グロスター・サード。」
フラナガンは、呟くようにそう言った。
ノスフェラトゥ、始祖家の一つ。
グロスター家の、継承権をもつ男。
リチャード・グロスター・サード。
「あんまりに久しぶりだったからね、分からなかったよ。それに君は、随分変わってしまったみたいだ。」
そのセルに繋がっている、唯一の出入り口のすぐ前に立っている男、フラナガンとブラックシープを狙って、二発の弾丸を放った男。それは確かにリチャード・サードだった。くるくると、手持無沙汰そうに曖昧な形をした拳銃を指先で回しながら、ぎっと吸痕牙をむき出しにして、あざ笑うような形、にっと口の端を曲げている。その後ろには、二人、誰かを従えていた。
一人は男だった。少年だ。年のころは十五、六くらいだろう。まだ幼さの残る顔つきに、前髪をぱっつんと切って整えられた茶色の髪の毛。甘い飴玉のような色をしたサングラスをかけていて、目の色は見えない。ストライプのボタンダウンと、安っぽいスウエットを履いていて、そして、ぐっと前のめりになったその姿勢と、それから引き裂かれているように大きく笑っている口は、まるでなにか、どこかしら爬虫類を思わせる、そんな姿をしていた。
もう一人は女だった。年齢は二十代中ごろ、灰色をした髪の毛を、背の方に垂らしている、長い長い髪の毛だ、腰のあたりまで伸びている、フラナガンのポニーテールと同じくらい、けれどフラナガンのそれとは違って、まるで獣毛のように、ごわごわとしていた。薄いブラウンの目は、見る角度によっては金色に見えないこともなかった、少し猫背気味の体に、全然合っていないような、ぶかぶかのジャージを着て、そして首元には、革でできた、首輪。
「ちゃんと薔薇のマークはさせといたよなぁ、グレイ?」
「あれはグールではない。」
「じゃ、一体何もんだよ。」
「ハッピー、アレってもしかしてフラナガン神父じゃないー?」
「フラナガン神父?」
その三人は、例えばそんなことを言い合っていた。
一方で、フラナガンに押し倒されていたブラックシープは。
「ファーザー・フラナガン!」
「ああ、ごめんごめん。」
ブラックシープの呼びかけの声に。
フラナガンはそう言うと、慌てて退いた。
「なぜ謝るんだい、ファーザー・フラナガン!」
しかし、ブラックシープはフラナガンの謝罪の言葉にそう言うと、体の上から退いたフラナガンの方にがばと起き上がって、そしていつものように感極まったような動作で、いつものようにがっと抱き付いた。うわー、これ、いつものことだよ、まだ会って二節目なのにいつものことっていうのもへんだけど、と思いつつ、フラナガンは賢明にも、下手な抵抗をせずにされるがままになっている。
「ジャスティス! あなたは私の命までも救ってくれたのだね、ファーザー・フラナガン、私の相棒よ、正義の人よ!」
「え? ああ、うん、まあ。」
「私の体は感動に打ち振るえ、言葉を吐き出すための舌さえもあなたへの感謝でこうべを垂れている、何ということだろう、私はあなたから、返しきれないくらいの恩を背負わされてしまったようだね……! いや、このブラックシープ、どんなことをしてでも、きっとこの恩は返して見せるよ!」
「あーと、そんな気にしなくてもいいよ。」
君が死ぬと僕が死ぬから助けただけだからね、と心の中で付け足しつつ、フラナガンはどうしていいのか分からない顔をしたままでそう言った。ブラックシープはひとしきりフラナガンの体をゆさゆさとゆすった後で、満足したのかぱっと離して、そしていきなり体を離されたせいで「うわっ」っと言いながらバランスを崩して倒れそうになっているフラナガンのことなど振り返ることもなく、ばっと勢いよくリチャード・サードその他三人の方に振り向いた。
「さて、私を殺そうとしたあの男……」
とんとんと、金の爪先を地に鳴らして。
軽く首を傾げながら呟く。
「正義を殺さんとするもの、これすなわち悪……」
そして、両手を広げて腰を落として。
一瞬だけ何やら格好よさげなポーズを取ってから。
獣のようにして、咆哮する。
「悪はこれすなわち死すべき者!」
そして、黒と金と銀でできたミサイルのように。
リチャード・サードに向かって、襲い掛かった。
その瞬間。
リチャード・サードの隣にいた女が。
ふっと、揺らめいた。
影が揺らぐようにして。
己の体を、リチャード・サードの前に立たせる。
ブラックシープの、蹄を、手のひらで受け止める。
「なに!?」
特に驚いた感じでもなく、むしろ嬉々とした口調でブラックシープはそう言った。たぶん、ただ殺すだけだと張り合いがないのだろう、やはり血沸き肉躍る正義の執行こそが、ヒーローにふさわしいのだから。一方で、ブラックシープの蹄をとった女の方は、軽く受け流すようにしてブラックシープの体の勢いを外して、そして外側に放るようにして投げ捨てた。体が地にたたきつけられるその瞬間に、ブラックシープは体を落として、両足の踵で蹴るように、左手の手のひらを滑らせるように、受け身を取る。
「あなたは何者だい!」
そして、女に問いかける。
女は、答えもせずに。
すっと、足を広げて立った。
そして、ぐっと手のひらを握る。
ぐぐっと、体を前に付きだす。
ぐうぅっという唸り声を上げる。
ぎしっと、体がゆがむ。
「あれは……」
指先が裂けて、爪が刃のような形をとる。
歯が突き出て、のこぎりに酷似する。
耳が伸び、口が伸び、尾のようなものが生える。
体中を髪の毛と同じような灰色の獣毛が覆う。
そして、その姿は、二足歩行の狼のようになる。
「ライカーンか。」
ライカーン。
ノスフェラトゥの奴隷。
狼へと変化する人間。
「しかも月を見なくても月変りできる……っていう言い方も変だね、まあ、とにかく狼になれるタイプの種類みたいだ。あれはなかなかの希少種のはずだけれど、テンプルフィールズの奴隷市とかで、普通に買えば、かなり高価な品物になるはずだよね。さすがはグロスター家の奴隷なだけあるよ。それにふさわしい。」
そう言いながら、フラナガンは。
軽く首を傾げて笑った。
一方で、ジャージの内側に膨れあがるようにして狼に変化した女は、ブラックシープの問いかけに対して何かを答えることもせずに、獲物にとびかかる獣そのままの姿勢、体をしなやかなばねのようにたわめて、そして襲い掛かった。無言のままで、ただ口の端から、泡立った唾液を滴らせながら。それは、その姿は、ある種の自動人形のようなものに近かった。それは、例えば、プログラミングされた、狂犬、まさに、ライカーンの、あるべきような、姿の、ようにして。けれど、しかし、その体には、きっと、何かが、足りないの、かもしれない、そんなことをフラナガンは傾げた笑顔のままで考えていた。例えば、その首元を、覆う、革の、首輪の、その先に、あるべき、鎖のような、ものの、欠如……けれど、それはどうでもいいことだった。あれは所詮奴隷だ、たいした問題じゃない。
けれど、ブラックシープは。
そうは考えていないようだ。
体中から喜びのオーラのようなものを発散させながら、ブラックシープは、るんっと回転するようにして飛び上がる。彼女の牙と、彼の蹄が、量子力学的な確率で、広い宇宙の底で激突した、人の形の流星のように交差して、そして互いを弾かせて、きらきらと、空気のひび割れるような、そんな音をたてて、そして、ブラックシープは笑っていた。笑っていた。笑っていた。金の蹄が、時計仕掛けの夜の鎌のように、女の喉笛を狙って、空気を切り裂いて歌を歌う。それを女は爪先の先で弾き飛ばして、それからその体を反転させて、ブラックシープの体を叩き付けようと、両手を合わせたこぶしが、背の髄を狙って打ち下ろされる。交差して、そして互いを響かせて、何度も、何度も、きらきらと空気のひび割れるような、音を、立てる。何度も、何度も、互いの刃を交えては、弾かれて、距離を取る、まるで、ゴムひもで、結び付けられた、孵卵器の、踊り子の、ようにして。
ブラックシープは。
金色の仮面は。
笑っていた。
その女の肢体と同じように。
あるいはそれよりも遥かに。
獣じみた声で笑っていた。
一方で、フラナガンは、まあブラックシープが楽しそうならそれはそれで良かったみたいですね、と思いながら、そのフラナガン的にはどうでもいい光景からふっと目をそらした。そして、それよりも、彼らの舞踏よりも、はるかに重要なものの方に目を向ける。首を傾げさせたままで、顔を笑わせたままで、といっても黒い紗に覆われてそれは見えないのだけれど、とにかくフラナガンは、淡く、淡く、口を開いて、目の前の男に、薄い酸を注ぎ込むようにして、こう言う。
「久しぶりだね、リチャード・グロスター・サード。」
「あーと、ご無沙汰いたしております、フラナガン神父?」
ぎっと二本の吸血歯をむき出しにして。
三夜月のように避けた顔で笑いながら。
赤い、赤い、口の奥、嘲るような声で。
リチャード・サードはそう言った。
「二年間、一体どこで何をしてたんだよ……おっと、これは聞いちゃいけないことだったか? 由緒正しき聖職者の家系の、こともあろうにフラナガン神父様が、レメゲトンに「入院」していたなんてそんなこと恥ずかしくて言えたもんじゃねぇもんなぁ? ほら、どうだよ、あんたのいないブラッドフィールドは、ご覧の通りすっかり変わっちまったぜ。」
そう言いながら、リチャード・サードは軽く両手を広げて、馬鹿にしたように肩をすくめて見せた。さっきまで持っていた拳銃は、いつの間にかどこかに消えていた、どこかにしまったのだろうか? けれど、その身にホルスターのようなものをつけているようには見えない。まあ、それはともかく、フラナガン神父は、軽く右手の人差し指を目の前に出して、白い手袋に包まれた指先、軽く前後に似三回振ってから、相変わらず優し気な口調で言葉を返す。
「おや、僕を覚えていてくれたのかい? リチャード・グロスター・サード。」
「まあな、俺っつーかパウタウが覚えてたみてぇだよ。」
「ふうん、それでも君に出会えて、僕は心から嬉しいよ、リチャード・グロスター・サード。」
「なあ。」
「何だい?」
「その呼び方、やめてくれねぇか?」
「なぜだい、リチャード、グロスター、サード。」
「俺はもう、グロスターじゃねぇんだよ。」
「もちろん僕も……」
フラナガンは。
軽く手を広げて。
優しく、言う。
「それは知っているよ、惨めな勘当息子。」
「相変わらずイラつくやつだな、お前は。」
「それじゃあ、君のことを、なんて呼べばいいんだい?」
「ハッピートリガー。」
「もう一度。」
「ハッピートリガー、今はそう呼ばれてる。」
そこまで言葉を交わした時に、リチャード・サード……ハッピートリガーは、くいっくいっと袖をひっぱる手を感じた。くっと、軽く目だけをその方に向けると、袖を引っ張っているのは爬虫類のような姿をした例の少年だった。「ねえ、ハッピー?」「なんだよ、パウタウ」「どうするー?」「何が」「一度、引き返すー? それとも計画通り、解除するー?」「解除しろ」「でも、あれ、フラナガン神父なんだよねー、相当まずくないー?」「あいつは俺が何とかする、さっさとやれ」「了解ー」という会話を繰り広げた後で、そのパウタウと呼ばれた少年はとっとっと後ろ向きで、軽くスキップするようにしてハッピートリガーから離れると、そのまま装置が放つ薄緑色の光が届かない方へ、闇の方へとまぎれるようにして、その姿を消していった。
「話は終わったかな、ハッピートリガー? ああ、今からはこう呼ばせてもらうよ、君がそう望むのならね。たとえ君が正式には、グロスター家の継承権を失っていないとしても。」
胸の前で両方の手のひらを合わせて、祈るような手の形、中指の先に顔をつけて。こびるような口調でフラナガンはそう笑った。ハッピートリガーは、ひどく苦々しげな顔をして、パウタウが消えていった闇の方向から、フラナガンの方へとまた顔を戻した。イライラと革靴のつま先を上げたり下げたりして、ぱたぱたと音をさせながら、言う。
「お前、何でこんなところにいるんだよ。」
「何で、とは?」
「何が目的だ?」
「それは僕の質問だよ、ハッピートリガー。いや、どうせなら僕もハッピーと呼ばせてもらおうかな、僕と君との、親しさの証としてね。さて、ハッピー、これは、一体、何なんだい?」
そう言いながら、フラナガンは。
軽く顔をその方に向けて。
緑色に光り、グールをその口の中に閉じ込めた。
装置の方を、指示した。
「封印さ。」
「何の?」
「今度は俺の質問に答えろ。何であんたはここにいるんだ? しかも、あんな奴まで連れて。あれは確かブラックシープとか言うやつだよな。」
「君はブラックシープを知っているのかい? すごいね、彼はもしかしたら有名人だったのかな? 僕は全く、彼のことなんて知らなかったのだけれど。」
「質問に答えろ。」
「ちょっとした仕事上の契約でね。あるいは生きていくためさ。」
「わけ分かんねぇ。」
「大概の出来事はそういうものだよ、ハッピー。」
言いながら、フラナガンは両手を羽のようにして広げて天を仰いだ。この場所は地下だから、洞窟だから天なんて仰ぐことはできないのだけれど、とにかく上へ顔を向けた。そして、それから、右足の踵を中心に、くるっと踊るようにしてその体を一度回転させると、くすくすと少女のようにして些喚く。
「これはヨグ=ソトホースの意思に逆らう装置だ。」
「あー、そうかい。」
「これを作ったのは君かい?」
「いや。」
「知っているよ、ハッピー、君がこれを作ったのではないことは。けれどね、ハッピー、君はこれを作った彼/彼女に所有されている、一挺の拳銃に過ぎないのかもしれない。君は僕が手に入れた、あの異教徒への、唯一の道標なのかもしれない。」
「は?」
「なんでもない、なんでもないよ、ハッピー、僕の知らないことだ。」
「俺の質問に答えろよ。」
「ラ、タ、タ、ルー。」
「お前はブラックシープの仲間なのか?」
「その通り。」
「お前は正義のヒーローなのか?」
「もちろんさ、正義は大切だろう?」
「あのフラナガン神父が?」
「僕とコーシャー・カフェとの関係は噂に過ぎない。」
「お前は何でここに来たんだよ。」
「ブラックシープの、パトロールの付き添いだよ。」
「パトロール?」
「正義がこの夜になされるためのね。」
「お前は俺の邪魔をするつもりか?」
「君たちが悪ならね。ところで、ハッピー。」
「なんだよ、フラナガン神父。」
「君はなぜ、グロスター家から縁を切られたんだい?」
そのフラナガンの言葉を聞くと、ハッピートリガーはぎっと奥の歯を噛んだままで、にいっと口を広げて、吸痕牙をむき出しにして、笑った。そして、右の手を、妙な形にして、フラナガンの方に差し向けた。小指、薬指、中指を手のひらの方に曲げて、人差し指を軽く鉤のようにして、そして親指をぴんと立てる形。それは……そう、まるで、拳銃か何かを、その手のひらに握るような形に。フラナガンが、見るともなし見ないともなしにその手の形をじっと見つめていると、ふっと、その手の先から、まるで何か、触手のような、あるいは透明な、光が、紡ぎ合わされるようにしてその手のひらを包み込み始める。光はやがて、一つの形へと昇華されていく。それは、その手のひらの形にふさわしく収まり、まるで、一丁の、銃。けれど、一方で、それはあまりにもあいまいで不確かな形状であった。まるで、銃というものを、概念の形態にまで研ぎ澄ましたような、そんな形をしていた。金属色をした、魔弾の巣の底。その持ち主の、精神をかたどったような、その銃は、机上の空論ではライフェルドガンと呼ばれていたものだった。もちろん、それはフラナガンの知るはずもないことだ、なにせ、机上の空論のはずなのだから。
けれど、ハッピートリガーは。
確かに、虚無からそれを取りだした。
「これのせいさ。」
そう言うと、馬鹿にしたように。
それの、引き金を、引いた。
まるで本物の銃のように、BANG!という叫び声をあげて、ライフェルドガンは弾丸を吐き出した、螺旋を描いて、その概念でできた金属のまがい物は、フラナガンの方を向いて、一直線に特攻する。一方で、フラナガンは軽く「ふぅん」と呟くと、この地下に降りてきて以来、ずっと右手の平に持っていたままだった、あの銀色の細工物のライターのふたを、カチンと親指の先で開いた。それから、口の先に乗せるようにして、その歌を歌う。
「コノソラヲ オロセバラトウ ヨルノヒラ。」
歌は。
世界を構成する。
粒子を歪める。
フラナガンの手の内から、ライターの火口の先から、まるでその歪みが膨れ上がるようにして、炎が沸き上がった。それは何か、この世界とは節理の一部がちがう、というよりも、世界でさえもない世界、その火口が、接点になったかのようであった。それは炎だった。しかし、温度ではなかった。それはどちらかと言えば、内臓のようなものだった。膨れ上がった、何かしらの機能を持った肉の塊のようなもの。なぜか、全ての光を吸い込むような、完全な黒をして光りながら、けれどそれは、あまりにも暗すぎるがゆえに、それは闇を引き裂く光に類似している。
その炎はフラナガンの周りに。
まとわりついて壁になるように。
ハッピートリガーの弾丸を。
全て焼き尽くしてしまう。
「ハッピー、君は……」
炎の向こう側から。
憐みの言葉が垂れる。
「スペキエースなのかい?」
さも、慈悲のように。
さも、悲しげな声で。
フラナガンは、ハッピーに向けてそう言った。
ハッピーは、相変わらずにっと笑ったまま答える。
「ああ、まあな。」
「なんという悲劇なんだろう、ハッピー……そんなことが、あっていいとは思えないくらいだよ、本当さ、あまりにも、これは、ひどい話だよ。ノスフェラトゥの、始祖家の、たった一人の子供が、あの軽蔑すべき、唾棄すべき、被差別階級である、スペキエースだなんて……そんなことが、ありえていいはずなはい、ハッピー、僕は君に、心から同情するよ……哀れで、惨めな、ハッピー……」
「うるせーよ。」
言いながら、ハッピートリガーは軽く地を蹴った。本当に軽く蹴ったように見えた、けれどそれは、ノスフェラトゥの超人的な肉体昨日のせいで、フラナガンの体を飛び越えるほどの、高い跳躍になっていた。そのまま、くるっと体を返して、フラナガンの方を向く、その手にはさっきよりも一回り大きなライフェルドガンが、それも両手に一挺ずつ、計二挺握られていた。どういう仕組みでそれが弾丸を発射するのかは分からない、引き金を引くことは、文字通りのトリガーに過ぎなくて、その精神的な構造体は、ハッピートリガーの精神が望むとおりに動いている可能性もある。それは今後の研究によって次第に明らかになって行くところだろうけれど、それはともかくとして、ハッピートリガーの持つ二挺の拳銃は、次々と弾丸を、まるで雨のようにしてフラナガンに向かって、降り注がせる。
けれど、フラナガンは黒い紗の奥。
憐みの笑顔を浮かべたままで。
指先一つ動かさずに。
黒い炎が、その弾丸の全てを焼き尽くす。
「ねえ、ハッピー。」
フラナガンは。
ふーっとため息をつく。
「仮にもブラッドフィールドのキングピンだった人間が、あるいは一人の護衛も連れないで、グールタウンに足を踏み入れるとでも思うのかい?」
「お前とコーシャー・カフェとの繋がりは噂じゃなかったのかよ。」
「その通り。ああ、ようやく君も解ってくれたようだね。その通りだよ、君が、今、言った、通りだ、ハッピー。」
そう言うと、フラナガンは。
嬉しそうに笑った。
一方で、ハッピートリガーはさも忌々しげに歯の奥の方で歯をきしらせると、両方の手の先を軽く振って手に持っていた二挺のライフェルドガンを消した。どうやら、ちまちまとやっていても無駄だということを悟ったらしい、小さな弾丸を乱射したところで、すぐにあの炎に飲み込まれてしまう、とするならば。ハッピーは片方の手をすっと伸ばして、もう片方の手を添えるように近づける。伸ばした方の手に従うようにして、また金属の光が紡がれる。幾つもの部品、滑らかで単純な金属の形をしていて、それでいていったい何の意味があるのかわからない、まるで見掛け倒しの張りぼてのような、そんな形をした物体が構成されていく。
「ハッピー、ハッピー、ハッピートリガー。君はなぜ、僕のことを攻撃するんだい? 僕はまだ、君に指一本たりとも触れてはいないじゃないか。」
「俺の邪魔をしにここに来たんだろ?」
「ねえ、さっきブラックシープが言ったことを聞いていたかい?」
「は?」
「正義を殺さんとする者、これすなわち悪。悪はこれすなわち……」
フラナガンはそう言って。
すうっと目を細めて、笑った。
「死すべき者ってね。」
フラナガンがそう言うと、その体を取り巻いていた黒い炎は、まるで盛り上がった筋肉のように、急激に形を変えて行く、それは例えば、今まで盾として存在していたものが、次の瞬間には剣に形を変えているようにして。その冷たく深い黒だったものは、烈々たる熱量を放出しながら、あたりに存在している光を食いつぶすように、あるいは何かの巨大な生き物のように、ハッピートリガーに向かって襲い掛かった。
一方で、ハッピートリガーの伸ばした腕。
寸でのところで、それは、完成していた。
それはまるで、人間至上主義国家のためにサリートマト社が作った小型対神兵器のうちの一つのような姿をしていた。人間の身には重すぎる、肩の上、携帯式の砲台のようなもの。ぽっかりと開いた口は、そこに何かを食らいとるためではなく、そこから破壊を吐き出すためのものだ。恭しく指し出すようにして、アイスコープがハッピートリガーの目に重なっている、不必要に巨大な引き金と、どこかちぐはぐと金属を継ぎ接いだような外観をしている。
襲い掛かる黒炎。
ハッピートリガーは。
にっと、歪むように笑って。
そのランチャーの引き金を引く。
消音した、ヴィジョンのようにして、まるで音もなく、かといって振動と炸裂と余煙をまき散らしながら、そのランチャーの先端から、それが吐き出された。今までのものとは違って、まるで折りたたまれた傘のような形をした、巨大な魔弾だった。足の先から色のない運動エネルギーを放出しながら、フラナガンの黒い炎へと向かって駆け抜けて特攻していく。
黒炎と。
魔弾は。
互いの。
距離の。
中心で。
ぶつかる。
はじけた、黒い炎は。魔弾に、巻き散らかされるようにして、その体の内側を貫かれて、その体に大きな穴が開いてしまう。それでもその勝負は黒い炎の勝ちだった、体の真ん中にトンネルのような穴を作りながらも生き残り、黒い炎はまるで空気を飲み込むような断末魔の声と共に、何とか魔弾を焼き尽くす、この世界から存在さえも消し去る。
けれど、ハッピートリガーの狙いは。
その、開いた、トンネルの方だった。
黒い炎がその腹を閉じる一瞬の隙をついて、ハッピートリガーはノスフェラトゥの素早さで跳んだ。しなやかなワイヤーでできたように体中の筋肉を固くして、サーカスで火の輪くぐりをする猛獣のようにして、跳んだ。フラナガンは軽く首を傾げた。人差し指を、黒い紗の前、ちょうど自分の唇の先のところに当てて、そして、ハッピートリガーのことをじっと見ていた。こちらの方へと向かって、炎の穴を抜けてくる、ハッピートリガーのことを。
足の先と右の手のひらで受け身を取ると。
ハッピートリガーはそれに巻き込むように。
フラナガンの体を掴んで、地に引き倒した。
「おっと。」
もつれ合うようにして転がりながら、ハッピートリガーはフラナガンの上にのしかかってその体を地に押さえつけた。吸痕牙をむき出しにして、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら。それからフラナガンの襟元を、首根っこを引っ張るようにして掴みあげて、自分の口元に近づけて、それから囁くようにして言う。
「ティアー・トータ。」
「カードゲームは詳しくなくてね。」
「俺を焼き殺そうとすれば、お前自身も死ぬぜ。」
「やってみるかい?」
「お前ならやりそうだな。」
「買いかぶりすぎだよ、ハッピー。」
そう言うと、フラナガンは。
軽く、溜息をついた。
「どうやら僕の負けのようだね。命乞いをするべきかな?」
「もう、話を混ぜ返すのはやめろ。」
「どういうことだい?」
「そういうのをやめろってんだよ。」
「分かったよ、分かった、言う通りにするよ。」
「ここへは何をしに来た。」
「さっきも言っただろう? ブラックシープの付き添いだよ、ブラックシープについては説明しなくてもいいよね。彼はどうやら、毎晩この街をパトロールしているらしいんだ。それで、それに僕も付き合ってるんだよ。今の僕は、悪を倒すための正義のヒーローさ。」
「なぜだ、なぜあいつに付き合う?」
「ごめんね、それは言えないんだ。言ったら死んでしまうから。」
フラナガンはそう言うと。
笑いながら、自分の頭を指先で。
とんとんと、二回たたいた。
「強制されてんのか?」
「そんなところさ。」
「あのフラナガン神父がね、ざまぁねぇな。」
「言い返す言葉もないけれど。」
「じゃあアレが目的で来たわけじゃないのか?」
「アレって?」
ハッピートリガーは顎の先で装置を指す。
フラナガンは力なく首を振る。
「僕も彼も、アレが何なのかも知らないよ。」
「そうか、なら問題ねぇな。」
そう言うと、ハッピートリガーは。
いつの間にか現出させていた銃。
今度は小型の、リボルバーのようなもの。
それを、フラナガンの額に押し当てた。
「おや? 僕は正直に答えたはずだけれど?」
「知ってるよ。でもな、俺の立場に立って考えてみろ、フラナガン神父ってやつは、間違いなく生かしておくには厄介すぎるだろ? だから、殺せるときに殺しておかねぇとな。」
「ひどい話だね。」
「さっき、お前も言った通りだよ。」
ライフェルドガンの引き金に。
ハッピートリガーが指をかける。
「大概の話はそんなもんさ。」
まるで時を。
図っていたように。
ちょうど。
その時に。
この部屋の中心にあった装置、ガラスの水槽を口の中に含んだあの装置が、何か唸るような声を上げ始めたのだ。その装置の全体、表面には小さな口がぱくぱくと開いて、それぞれが声を発していた、その声に共振したのか、セル自体も地震が起きたかのように揺れ始める。さすがのハッピートリガーも、フラナガンの体の上でバランスを崩して、「うおっ」と言いながらよろける。
ふっと、その瞬間を。
見逃さぬようにして。
フラナガンは。
右手をコートの内側に走らせる。
どうやら、いざという時のために、その場所に銃を一挺仕込んでいたらしかった。コートの内側、手を抜いて、ハッピートリガーの眉間に照準を合わせたその手のひらは、サリートマト社製のイグノナイト・オートマチックを握っていた。女性の護身用という名目で、実際には暗殺を主な用途として作られていて、そのためにどこにでも隠しやすいように小さく作られている。当然、口径も小さいのだけれど、その口径に似合った小さい弾丸を、まるで針の先のようにして対象物の内部を貫通させる機構を持っている(貫通してしまったらストッピングパワーが低下してしまうのではないかと思われるかもしれないが、もともとこの銃は相手をストップさせることではなく一撃で殺すことを目的として作られている)。後部で爆発した火薬、その爆発力を効率的に銃身に通して、全てを一点に集中させる。
「汚らわしいスペキエースが……」
フラナガンは。
躊躇う様子もなく。
流れ作業のように。
引き金を引いた。
どほうっと、イグノナイト・オートマチックに特有の、押し込められたような爆発音が揺れ続けるセルの中に響いた。いくら揺れているとはいえ、背を地に支えて、しかもこんな近距離で狙いが外れるわけもなく、相手を殺すためだけに設計された針葉樹の葉のような形の弾丸は、正確にハッピートリガーの額を貫いた。ハッピートリガーの体は、ぐがっという声とも音ともつかない音を出して、フラナガンの体の上から、のけぞるようにして倒れる。
「僕の美しい体に触れないで欲しいね。」
そう言いながら、体の上、額からたらたらと、人間よりも遥かに純粋な赤い血液を流しているハッピートリガーの体をどかして。フラナガン神父はやっとのことで立ちあがった。紗もコートも既に血にまみれていたので、それほど返り血は気にする必要もない。揺れはようやく収まっていた、こんな埃っぽいところに倒れ込んだせいで、背やら何やらについてしまった埃、血に濡れていないところををぱたぱたと手のひらで払う、それから、軽くライターをその方向へと指しだして「エカヲズアケテ ソラニガシ」と呟くと、あのぽっかりと穴が開いたままで、ゆらゆらとただ揺れていた黒い炎は、掃除機か何かに吸い込まれるようにして、その中に戻っていく。
「全く、何事だい?」
「ファーザー・フラナガン!」
くっと顔を向けて。
声がした方を見る。
ブラックシープが、装置の方を指さして、恐らく驚愕の表情を浮かべているだろう(けれどまあ、金の仮面のせいで実際の表情はみえないのだけれど)、そんな声でフラナガンに呼びかけていたのだった。ブラックシープはさっきまで、例の女ライカーンと激しい戦闘のような何かを繰り広げていたらしかったのだけれど、息一つ切らさず、また傷一つなかった。傍目で見ていたら激しい戦闘に見えたのだけれどブラックシープにとってはちょっとしたお遊びに過ぎなかったのかもしれない、そんなことをフラナガンは思った。ちなみに、その女ライカーンはというと、装置のそこら中に口が開き、唸り声を発して、ブラックシープがそれに気を取られているうちに、どこかに消えてしまっていた。
「あれを見たまえ!」
「見てるよ。」
「装置が!」
「たぶん……」
フラナガンは、カチンとライターを開いた。
いつの間にか咥えていたシガーに火をつける。
パチンとライターを閉じて。
ふーっと煙を吐き出して。
そして、やっと言葉を続ける。
「封印が解け始めているんだ。」
フラナガンの言った通りだった。
その封印は、解け始めていた。
女のような、無理やりくっつけられて歪んでしまったような、そんな顔の、その口の中で、ガラスの水槽が、静かに光を放っていた。その光は、先ほどまでの淡い光ではなく、何かもっと、強いものだった。それは、例えば、氷を溶かそうとして、強い温度を放っている、電熱オーヴンの光のようにして。けれど、それはあくまでも冷たかった。人の細胞を傷つけて、取り返しのつかない凍傷にしてしまう、あの氷のように、冷たい色をした光。それが、ガラスの奥、喉の方から、嘔吐のようにして光を放っていた。
「ハッピー、終わったよー?」
装置の後ろから。
この光景に似合わない。
まるで呑気な声が聞こえた。
パウタウと呼ばれた少年の声。
その声が聞こえるとともに、装置に第二の変化が始まった。光の冷たい温度に耐え切れなかったかのようにして、口のひらを覆っていたガラスの檻が、次第に溶解し始めたのだ。しゅうしゅうと音を立てているかのように、けれどその割には何の音も立てず、気化したガラスの煙のようなものが、表面から上がってくる。ガラスは、消えていき、薄くなり、そして、ついに、その檻は、決壊した。最初は一筋の出血の様なものだった。ガラスの表面に開いた、目に見えない穴から、緑色で透明の、あの液体が、ひゅるひゅると一筋だけ流れ出す、けれど、その流れは、次の瞬間には、一気にその檻を引き裂いた。まるで薄いラップに開いた穴を、指で裂いていくように、簡単に、その檻は、完全に崩壊した。どうっと巨大な流れになって、羊水みたいな液体はあたりにまき散らされて。
そしてそれに押し出されるように。
胎児みたいな、あのグールの体も。
装置の外部へ流し落とされる。
「装置の解除、完了ー。」
また、パウタウの声がした。
それに答えるようにして。
フラナガンの背後で、声がする。
「さっさと終わらせるぞ。」
フラナガンは、ふっと肩越しに。
顔だけを、振り向かせる。
「もう治ったのかい、随分と早いね。」
まあ、見るまでもなかったけれど、それはハッピートリガーの声だったのだから。今気が付いたのだけれど、ハッピートリガーの胸の白い薔薇は潰れてしまっていた、さっき揉み合った時だろう。ぐしゃっと潰れたその白い薔薇は、まるで染みのようにこびりついていて、その上を一筋の血液が流れている。その流れを上の方へ、上の方へとたどっていくと、さきほどフラナガンが打ち抜いた、眉間にたどり着く。そこにあったはずの穴は、既に塞がりかけていた。
「せっかくバルザイウムを使ったのに……とても高価なんだよ?」
フラナガンはシガーの煙を吐き出しながらそう言った。ノスフェラトゥの回復作用、あくまでも社交辞令だ、実際には早いというほどでもない。一部の始祖であれば、イグノナイト・リボルバーの細い弾痕程度ならば、その弾丸が傷口を貫いた直後に治っていてもおかしくないだろう。
一方でハッピートリガーは、フラナガンのその世辞に答えることもなく、額の治りかけの傷をがりがりと痒そうに掻いていた。フラナガンの方をちらと見て、苦い顔をして歯の奥を噛む。けれど、今はあの男を相手にしている暇はない。やるべきことがある。すぐに終わらせる。ハッピートリガーは、首をこきっこきっと音を立てて鳴らすと、次の瞬間にこっと地を蹴った。まるで肉食の獣かなにかのように、瞬きをする間もなく、いつの間にか、グールのすぐ近くに駆け寄っていた。ノスフェラトゥであれば、そんなことは造作もない仕様だ。
グールは、ただそこに横たわっていた。
羊水の滴る水たまりの中に、横たわっていた。
導線のようなものを頭に突き刺したままで。
まるで胎児のように身を丸めたままで。
何かの夢を見ているような顔のままで。
名状しがたい悪夢を見ているような顔のままで。
ハッピートリガーは、グールに向かって。
その頭部に向かって、手のひらを差し出す。
手のひらに、金属の部品が紡がれて。
そしてそれは、ライフェルドガンになる。
「こいつで二匹目。」
「させないよ!」
ハッピートリガーが、眠り姫のように眠るグールに向かってその引き金を引こうとする瞬間に、ブラックシープははっと気が付いたようにしてそう叫んだ。そして、装置の方へ、ハッピートリガーの方へ、駆け出す。しかし、それを見計らったかのようにして闇の中から、灰色で流線型をした、獣毛の塊のようなものが現れて、そのブラックシープの頭を思い切り強く蹴り飛ばした。全然そんなものが来るとは予測していなかったブラックシープは、不意を突かれて吹っ飛ばされる。その獣毛の塊は、女ライカーンだった、そのまま転がって、ぐちゃぐちゃともみ合う。
「そこを退けっ、悪のしもべよ!」
「ったく、驚かせんなよ。」
ブラックシープが女ライカーンに引き留められているうちに。一瞬そちらの方に気取られていたハッピートリガーが、にっと馬鹿にするように笑ってそう言った。そして、また改めてライフェルドガンをグールの方に向ける。
笑ったままで。
引き金を引く。
グールの頭が、弾ける。
「さあ、これであと三匹だ。」
そう言ったハッピートリガーを。
黒い炎が襲った。
横に跳んで、寸でのところで避ける。
「何だよ!」
「僕もいるんだよ、忘れてしまったのかい?」
そう言いながら。
フラナガンは軽く肩をすくめた。
「ファーザー・フラナガン! 私の素晴らしい相棒よ!」
「そう、ブラックシープ、僕はファーザー・フラナガン。君の素晴らしい相棒だよ。それから許してね、ハッピー。悪を滅ぼすことも、今回の契約の内容に含まれているんだよ。」
「おいおい、お前本当に正義のヒーローになったのか?」
ハッピートリガーはそう言いながら、フラナガンに向けて二発、魔弾を放った。けれど、それはフラナガンに到達する前に、立ちふさがった黒い炎に包まれて、やすやすと消滅してしまう。フラナガンは、それほど吸っていたわけでもないシガーを、その場に指を離して落とすと、ポニーテールを夜の尾のようにしてゆらゆらと揺らしながら、ゆっくりとハッピートリガーの方へ近づいていく、身の周りに、黒い炎を、愛玩動物のようにまとわりつかせながら。
それから、ブラックシープに聞こえぬように。
けれど、ハッピートリガーには聞こえるように。
「実はね、ハッピー。」
口の端に右手を当てて。
小さな声で、こっそりと囁く。
「正義の行使とかはどうでも良くって、僕の興味の対象は、この装置の製作者だけなんだ、僕の、告解のためにね。彼/彼女は、嫌悪すべき異教徒、この世界にいるべきではないもの、決して許されるべきではないもの。けれどまあ、これも仕事の内だから、ちょっとした正義のセリフを入れてみたんだ。どうだったかな? ああ、ハッピー、これはブラックシープには内緒だよ。ねえ、ハッピー、安心して欲しいんだ、情報さえくれたら、君のことはすぐに殺してあげるよ。君には何の恨みもないからね……それに、確かに君は美しいけれど、汚らわしいスペキエースで楽しむ趣味は、僕にはないし。」
「お前、一体、何言ってんだよ。わけ分かんねぇよ。」
「分かり難かったかい? じゃあ、簡単に言うよ。この装置を、作ったのは、一体誰だい?」
「知らねぇよ。」
「でも君は、彼/彼女の思い通りに動いているようだけれど。」
そう言うと、フラナガンは。
人差し指を空に向けて指した。
それを、くるくると。
コーヒーでもかき混ぜるように回す。
「俺には俺の目的がある。これを作った奴のことなんて、会ったこともなければ知りもしねぇよ。」
この場は、あの装置が照らし出していた、ぼんやりとした緑色の光が、まるで存在しなくなかったかのように消えてしまったせいで。フラナガンの黒い炎が照らし出す、全ての色を反転させるように、暗く、それでいてあたりを視覚的に現象させる、そんなネガティブの光だけで映し出されていた。ハッピートリガーは、ばっと退くようにして、フラナガンから逃げるようにして飛んで、その光が照らし出す黒い色の光の外側、闇の中に隠れた。
「フラナガン?」
闇の中からハッピーの声だけが聞こえる。
フラナガンは、その声に返すように言う。
「何だい?」
「あんたに俺は止めらんねぇよ。」
フラナガンが炎をその声に向けて放とうとする。
けれど、その前に、ハッピーの声が命じる。
「パウタウ!」
「なーにー?」
「起動させろ!」
「了解ー。」
「グレイ、いったん引くぞ!」
「解った。」
グレイ、という呼びかけに、女ライカーンが反応した。どうやら、彼女はグレイと呼ばれているらしい。とにかく、今まで押さえつけていたブラックシープの体をぱっと離して、獣のようにというか、実際獣そのものなのだけれど、そんな敏捷な動きで闇の中に飲まれて隠れた。
「待て、悪人どもよ!」
がばとブラックシープは起き上がり。
その方へ、追いかけようとする。
「正義の刃から逃れられると思うか!」
けれど。
その前に。
「爆破装置、起動しますー。」
「え? ちょっと待って、爆破装置?」
フラナガンが不安そうな声でちょっと待ってと言いながら、必要のなくなった炎をまたライターの中に収めたが、その願いが聞き入れられて、ちょっと待ってもらえるわけもなく。パウタウの声がした方向から、無情にも、カチリという何かのスイッチを押したような音がセルに響く。
そして。
炸裂。
轟音。
烈火。
紅蓮。
焦熱。
崩壊。
「な、なんということだっ!」
「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って!」
このセルの、そこここにはいくつもの爆弾が仕掛けられていたらしい。そして、カチリというスイッチ音と共に、それが連鎖的に爆発したようだ。どうっどうっどうっと周り中がすごい音を立てて炎を上げて、そしてセルの壁が、天井が、頑丈な岩でできていたはずの部分全てががらがらと崩れ始めた。さすがに爆発くらいではこの白いテクノ・イヴェールを破壊することはできなかったようだけれど、それでもその洞窟の崩壊は、岩の骸でそれを覆い尽くすのに十分なものだった。
フラナガンとブラックシープは、その爆発に巻き込まれないようにして、慌てて、這う這うの体で、セルの出口、つまり彼らが入ってきたあの狭く細い通路の方へと駆け逃げた。
「死ぬから! これ死ぬ方のやつだから!」
「ファーザー・フラナガン!」
がしっと、少し逃げ遅れていたフラナガンの体をひっ捕まえるようにして、黒いコートの端っこを掴んで、そしてブラックシープは軽々と、さっき間抜けな悲鳴を上げていたとは思えないくらいの冷静さで身を躍らせるように崩落する岩を避け続ける。そういえば、さっきの「な、なんということだっ!」という叫びにも、若干芝居じみたところがあった、もしかしたら危機に陥ったヒーローとしての、ただの演技だったのかもしれない。
とにかく、ブラックシープは。
優雅な、去勢された猫のように踊り。
戻りの通路を、軽く抜けて。
そして、地上へ戻る穴までたどり着く。
「ファーザー・フラナガン!」
「なに!?」
「飛ぶよ!」
とうっと、あくまでも美しい姿勢で。
高い穴を、飛び越えて抜ける。
崩れて埋まりゆく洞窟を後目に。
地上へと、着地する。
けれど、これで落ち着いていられるわけでもなかった。崩れ去る洞窟は当然このホテルが乗っかっていた地盤そのものも巻き添えにしていて。従って、このホテル自体が、既に崩れかけていたのだ。ぎしぎしと埃を立てて折れる柱、それとともに落ちてくる天井、そう言ったものをダンスのパートナーにしているように、崩壊の音楽をバック・グラウンド・ミュージックに、ブラックシープはその部屋を飛び出した。そしてカウンターを飛び越えて、ホテルの出口へと駆けて向かう。きしんで揺れている回転扉、その横の、ガラス張りの壁に、蹴りを入れるようにして突進して、割れて、破片の中、それを、勢いよく、突き破る。
そして。
ようやく。
破壊の世界から。
抜け出す。
「ふー、危ないところだったね、ファーザー・フラナガン。」
まるで危機感を感じられない口調でそう言いながら、ブラックシープは、がらがらと崩れていく朽ちたホテルの目の前、安全な大通りへと、羽のように静かに着地した。そして、さっきまでひっつかんでいたフラナガンの体を自分の横にとんっと置くと、汗もかいていないしそもそも金の仮面を被っているその額を、ブラックシープは手の甲でぬぐうような仕草をする。
「ありがとう、ブラックシープ、君がいなければ間違いなく死ぬところだったよ。ただ、ぜいたくを言うのならば、もう少し丁寧に扱ってほしかったけれどね。」
ブラックシープにひっつかまれていたところが、びろーんと伸びてしまった「無知の幸」の、そこら中に塗れてしまった土煙の様なものを。手のひらでしきりとぱんぱんはたき落としながら、フラナガンはそう言った。ひとしきり埃を叩いていたのだけれど、例えばハッピートリガー他一人の返り血のところとかは完全にこびりついてしまっていたし、そもそも体中が土まみれだったので、もういくらはたいても無駄な行為だな、と悟って、すっかり諦めてしまった。
「ありがとうだなんて、何を他人行儀なことを言うんだいファーザー・フラナガン! 私とあなたは掛け替えのない相棒同士……いや、むしろ一心同体といった方が正しいね! つまり私にとっては、あなたを救うことは、私自身を救うことと同様なんだよ!」
ブラックシープはそう言うと。
ばーんとフラナガンの背中を叩いて笑った。
フラナガンは急に背を叩かれて。
少し咳こんでしまう。
咳が収まってから、今度は目の前。
崩れ去ったホテルを見つめながら。
はーっと今夜一番、深いため息をつく。
「まあ、僕にとっても君を救うのは、僕を救うのと同様だしね。」
フラナガンは。
疲れ切ったような口調で。
そう呟いた。