表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/44

#5 退屈で地道な捜査活動に関するフラグメンツ

 同じく、ベルヴィル記念暦985年2章13節。

 その時を巻き戻して。

 早朝の声が聞こえる時間。

 夜の断末魔かもしれない。

 鳥の声、初めて道路を通る車の軋み。

 それから眠りの国の人々の些喚き。

 ブラッドフィールドの主な交通手段の一つに、地下を通る鉄道がある。この街の地下に巡らされた、まるで穴蜘蛛の張りつめた糸のようなトンネルの中に、赤イヴェール合金で作られた線路が走っている……赤の色は、イヴェール合金の中でも、もっとも魔術的な耐性が強い色だ。正確に言うのならば、耐性が強い、というのとは少し違う、けれどそのことは、この話には関係のないことなのではぶこう。とにかく、錆に強く、そして魔術的な浸食にも強いその合金でできた線路は、ブラッドフィールドの主要な地区の重要なポイントへと通じている。もちろん、ブラッドフィールド中央教会の、そのすぐ目の前にも。

「フラナガン神父様は、大丈夫ですかしら……」

「大丈夫って、何がだよ。」

 この場所から少し離れたフィールグッド・マートに付属している、比較的広い駐車場に止めた車から、この中央教会の方へと歩いているのは、アーサーとメアリーの二人だった。メアリーが、まるで空言のようにしてぼんやりとつぶやいた言葉を、ゆっくりと地に向かって係留するように続ける。

「だって、あんなに恐ろしい場所に二年間も閉じ込められていいらっしゃいましてよ! 神父様のご心労、それだけで慮って余りあるところですのに、その上、コーシャー・カフェのお話みたいな心無い噂まで……」

「まー、先生なら大丈夫じゃねぇのか?」

 中央教会の、町を包み込むようにそびえたつファサードを見上げて、ふうと悩ましげにため息をつくメアリーに向かい。いつものようにアーサーは適当に答えた。そのアーサーは、メアリーとは違って、中央教会ではなく全く別の方を見ていた。それは、空の上へと至る建造物ではなく、その反対に、地の底へと至る開口部。

「それより、俺たちは俺たちの仕事があるだろ?」

「……そうですわね。」

 ブラッドフィールド・サブウェイ。

 中央教会駅。

 その、入り口。

 アーサーとメアリーは、昨日のグール殺害事件のことを、あの後、現場から直接ガレスに連絡していた。この件は非常に重要な事件であって、下手に動けば取り返しのつかないことになってしまうから、念のため班長に指示を仰ぐべきだとのアーサーの判断からだ。それから現場に別働体である証拠検証班が到着するのを待って、すぐにガレスから受け取った命令を実行しに、ここまでやってきていたのだった。

「さて、行くか。」

「はい、アーサーさま!」

 言いながら、二人は中央教会駅の、その階段を下りていく。周りには、こんな早朝の時間にもかかわらず既に通勤のビジネスマンのような人々が群れる様に行きかっていた。地上から地下に降りる人々は絶え間なく、地下から地上へとあがってくる人々は、駅に電車が到着する感覚で、まるで呼吸の鼓動のようにして、どっ、どっ、と、一定の感覚を置いて、波が砂浜を浚うように。

 皆一様に、黒一色の姿をしている。常に新品で、その上彼らの体にしっくりとなじんだ黒のスーツ。いつ磨いているのかも分からないけれど、とにかく良く磨かれた革靴と、示し合わせたように揃いのネクタイ。彼らを見分けることは、つまりブラッドフィールドのビジネスマンの個人を見分けることは、非常に難しい問題だ。それは、一つの現象に過ぎないのだから。それは、金銭に対する欲動だ、まるで蜂が蜜に群がる本能のようなもの、それが彼らだ。彼らには個性というものはない、ただ単純に、金を追い求める衝動が、人の姿をとっているだけ、彼らの姿を見ても、意識の端に、ビジネスマンのアルケタイプが霞のように残るだけだろう。

 そんな欲動の中をかき分けるように泳ぎながら。

 階段を下りて、二人は通路の先へと進んでいく。

「主のお恵みを。」

 ふと、メアリーの耳に声が止まった。通路の端の方、まるで壁に寄りかかるようにして一人の浮浪者が座っていた。片方の足がない、どうやら、傷痍軍人らしい。目の前に置かれた段ボールには、まるで殴り書きのようにしてこう書かれている「アーガミパータ紛争で足を失いました、どうか主のお恵みを」。メアリーは、肩にかけた小さなポシェットのようなものから財布を取り出して、十ミナ銅貨を浮浪者の目の前に置かれた缶の中に入れた。

「ありがとうございます。あなたに無知の幸がありますように。」

「あら、申し訳ありません。」

 ふっと、驚いたように。

 メアリーは囁いた。

「わたくしトラヴィール教徒ではありませんのよ。洗礼は受けたのですが、成人した時に棄教をいたしましたの。今は無信論者ですわ。」

 浮浪者は、深い悲しみの目でメアリーを見た。

 そして、彼もメアリーに向かって囁く。

「実は、私もです。」

「おい、何やってんだよ、パピー。」

「すみませんですわ、アーサーさま!」

 アーサーに呼びかけられたメアリーは、はっと振り向いて、そして、随分と先の方にまで行ってしまっていたアーサーのところまで駆けて行った。薄汚れた白いタイルの敷かれた上、まるで陽炎のようなビジネスマンたちのその先、アーサーの長身の姿は、まるでそこだけがコラージュされたようにして、はっきりと見えていた。

 アーサーは、改札の前に立っていた。

 ガラスの壁で区分けをされた、駅員のブースの前に。

 ぐしゃぐしゃになった髪をさらにかき乱しながら。

 駅員に向かって、話しかける。

「あー、ちょっといいか?」

「はい、なんでしょうか。」

 胸ポケットから、夜警公社のバッチを取りだす。

 そして、それを駅員に見せながら続ける。

「OUTの者だけど……」

「グール関連の事件ですか?」

「話が早くて助かるよ。」

「どうぞ、ハニカムの入り口は分かりますよね。」

「ああ、分かるよ。ありがとさん。」

 駅員は手元のスイッチのようなものを押して、自分のブースの目の前の改札口のぱたぱたと動く羽のような扉を開いた。アーサーを通すためだ、アーサーは軽く手で謝意を表してから、そこを通り抜けて、駅の中へと入っていく。一方で、追いついたメアリーも駅員の方にぺこりと頭を下げてありがとうの意を表してから、慌てて改札を抜けていく。

 これだけ多くの人が通り過ぎていくのに、この場所に誰一人として言葉を落としていかないのは、本当に奇妙なことのように思えた。遠くの方から、まるで地の底を浚うようにして、駅員が電車が到着するホームを告げる、拡声器で歪に歪められた声がするだけだ。メアリーとアーサーは、その声がする方とは別の方向へと向かう。ホームへと降りるエスカレーターとは反対の方向、通路の先の、まるで、行き止まりのようになっているところへ。

 行き止まり?

 行き止まりではない。

 その壁には、一枚の扉が取り付けられている。

 重々しい金属の扉。

 けれど、それを、周りの壁と見分けがつかないように。

 目立たない、薄汚れた白で塗りこめた扉。

 その扉にまでたどり着くと、アーサーはその扉についているナンバー錠の数字のスイッチを、1926の組み合わせで押した。これは、ブラッドフィールドの全ての地下鉄駅で、共通の番号だ。この扉を開くときの番号、つまり、ハニカムへと降りていく扉を開くときの番号。かちっとわざとらしい音をたてて錠が外れる。アーサーとメアリーをその中へと導く。

「そういえば、アーサーさま。」

「なんだよ。」

「まだ朝ごはんを食べていませんわ。」

「は? お前、さっきあれ食ったばっかりだろ?」

「あれはお夜食ですわ! 朝ごはんとは別のものです、朝、昼、夜とちゃんと三食食べないと、体に悪いですのよ。これが終わったら、公社ビルに戻る前にどこかで食べて参りませんこと? わたくし、前から一度入ってみたいと思っていたカフェがありましてよ!」

「……太るぜ?」

 そんなことを言いながら。

 アーサーとメアリーは。

 扉の中、入ってすぐのところにある。

 地下の地下、地の底へと向かう階段を下りていく。

 その階段はじめじめと湿っていて、その上をまるで絨毯のように苔がむしている、この洞窟を作った時に、その岩をくりぬいた時に、そのまま階段の形にしたような、粗雑な石造りの階段で、広さは人が一人やっと通れる程度。螺旋状に、まるで土に埋め込まれたネジのねじ山を通っていくように、そんな形で下へと降りていく階段だ。けれど、そう言ったことよりもなお重要なことは、この階段には何一つ明かりのようなものがついていないということだった。薄く光る光さえ存在していない、だからこの階段を下りていく人間は、ほとんど手探りだけでここを下りていくことになる。

 すたすたと降りていくアーサーを。

 必死に追いかけるようにして進むメアリー。

 やがて、その先に。

 ようやく、光のようなものが見えてくる。

 地の底へと、たどり着いたのだ。

 その光は、淡く淡く、まるでその存在から染み出してくるような赤色の光だった。階段を下りた先に、直角に接続している一本のトンネルのようなもの、その中を、そのトンネルをたどるようにして二本、ずっと続いている、それは見間違えることもなく、赤イヴェール合金の線路だった。赤イヴェール合金は、その存在が帯びている特殊なエネルギーのようなもののせいで、闇の中ではぼうっと光を放つのだった。

「なあ、パピー。」

「何ですか、アーサーさま。」

「どっちだったっけ?」

「えーと、確か右だったと思いますわ。」

 二人が今、歩いているのは。

 ハニカムと呼ばれる地下道だ。

 それは、一般的にはブラッドフィールド・サブウェイの線路が通る、地下のトンネルとしてだけ知られている。けれど、それだけでは理解として完全ではない。それは、グールが作り出した、彼らの巣なのだ。グールのことをほとんど都市伝説か、あるいは薄気味の悪い隣人程度にしか思っていない普通の人間達にはほとんど知る由もないことであったが、そもそもブラッドフィールド・サブウェイ自体が、ノスフェラトゥとグールの休戦協定によってパンピュリア共和国政府に貸し出されている、グールの巣の一部分に過ぎない。そもそも、赤イヴェール合金を作ることができる存在は、ナシマホウ界ではグールの他には本当に一握りしかいない。地下を通るトンネルも、そこを走る線路も、いわゆるハニカムの全ては、グールが作り出したもの、そして彼らの巣だった。ただし、トラヴィール教会の教義においては、またそれとは違った解釈になってくるのだけれど……それはまた別の話、グールという不安定な生き物の根源にも関わってくる神話になってくるため、ここでは触れずにおこう。

 階段を下りて。

 その先のトンネルを右に曲がり。

 そして、二人はその奥へと進む。

 やがて二人の目には、また違う光が見えてきた。それから、ぶーんという低いうなり声が聞こえてくる。その光と、音とは、このトンネルの先の方に、まるで貴き人々の通過を待って、ただひたすらに傅き続ける従者のように、その通路の両方の脇に、一列に並んでいた。近づくにつれて、その光の正体が見えてくる。金属でできた四角い箱、その外側を色とりどりに塗り込まれて、そして正面の顔は光り輝いている、その光の中には、筒状の物体が幾つも幾つもその姿をディスプレイされていて……それは、自動販売機だった。そのトンネルの通路を、白々しいほど冷たい光で照らしているのは、幾つも幾つも並べられた、自動販売機の列だった。

「あ、アーサーさま!」

「何だよ。」

「また品ぞろえが変わっていますわ!」

「商品開発部の底力ってやつだな。」

「でもピリスティーンだけは変わりませんことよ。」

「まあ、ピリスティーンだからな。」

「いつも気になっているのですけれど、これ、どなたが商品の入れ替えをしているのかしら……」

「それはブラッドフィールド七不思議の一つだよ。」

 誤解しないように言っておくが、グールは自動販売機の開発や、その中の飲み物の販売に関しては一切関わっていない。間違っても、押したボタンとは違う商品が出てきた時とか、そう言った自動販売機関連の苦情は、グールに持ち込むことのないように。

 とにもかくにも。

 どこまでも続く自動販売機の列の先。

 アーサーとメアリーの二人は。

 目的の場所にまでたどり着く。

 それは、広い広いドーム状の場所だった。恐らくこのすぐ上、地上に建てられている、トラヴィール教会の全ての敷地と同じくらいの大きさがあるだろう。そして、そのドームの周囲の壁には、今、アーサーとメアリーが通り抜けてきたようなトンネルに通じる穴が幾つも幾つも開いている。それぞれのトンネルからは、まるでこの世界が流し落とした血液のように、歪んだ光を放つ赤イヴェール合金の線路が、このドームへとつながっている、もっといってしまうならば、ブラッドフィールドの地下を通る全ての線路が連結されて、ここへと集中してたどり着くように、繋がっている。

 ダレット・セル。

 ハニカムの、中心。

 ここは、ある種の墓地であることは間違いがないだろう、そこここに、まるで墓石のようなものが立ち並んでいるのだから。けれど、それは何物の墓地なのだろうか、トラヴィール教会の伝えるところによれば、ここの場所はあの「裏切者のケレイズィ」の墓地だと言われている。伝説は伝説として置いておくとしても、確かにここは人間、通常の人間の死骸がうずめられた、その場所ではないということは言えるだろう。立ち並ぶ墓石は……それは、すべてが何かのモニター画面のように見えた。ブラウン管テレビの、デスクトップパソコンの、プラズマテレビの、液晶テレビの、あるいはノートパソコンの、そういったものによく似た、何か。それらは、機械ゴミ置き場に打ち捨てられた。モニター画面の残骸のように見えた。それぞれの画面は、あるものは壊れて、あるものは割れて、あるものはひびが入っていて、そして色とりどりのノイズを、それでいて単一色、まるで白痴のような、その色の名前は混沌。

 その間に、喰いかけられた、これは人間のものの死体の、断片、一部分が、幾つも幾つも、打ち捨てられたように放り出されている。グールたちの食い残しだ、どこからの墓から盗んできたか、あるいは地下鉄の乗客を、誰知らぬうちにさらい、それを殺して喰らった残りだろう、もちろん、年間に一定量の人間の消費はノスフェラトゥとグールの休戦協定にも書かれているグールの権利だ、何も違法なことはない。死体と死体の間を、何匹か虫のようなものが、まるで影から影へと渡るようにしてかさこそと音を立てて這いまわっている。その虫は、まるで透明な姿をしているけれど、まるでモニター画面が放っている色と、同じ色の光で淡く光っている、それは、正確に言えば虫ではなかった、機械仕掛けの甲虫のまがい物。透明な体の奥にあるのは、肉でできた筋と内臓ではない。金属でできた、モーターと歯車だ。この物の正体は、グールしか知らない……もしかしたら、グールにも分かっていないかもしれない。トラヴィール教会の神話では、ケレイズィの作った玩具とされているこの紛い物は、けれどノスフェラトゥとグールの戦争の際には、グールによってある種の兵器としても用いられていた。

 そして、モニター画面の上に座り込み。

 あるものは足をかじり。

 あるものは脳をすすり。

 あるものは腸を引き出し。

 グールたちが飛び跳ねている。

 そのグールたちのうちの一鬼が、アーサーとメアリーの姿に、地下鉄のトンネルを抜けてこのセルにまでやってきた二人の姿に気が付いたらしく、こちらの方に、あのグールに特有の飛び跳ねるような移動方法でこちらにまで向かってやってきた。ひらひらと、体に巻き付けるようにしてまとわせた、あのグールに特有の巻服が揺れる。けれど、そのグールは……どこか、他のグールとは違うように見えた。グールは二人のすぐ目の前にまでやってくると、うやうやしく一礼をした。それから、慇懃な調子で、けれど屍食鬼に特有の、歯擦音を引きずるような口調で、こう話し出す。

「これはこれは、アーサー・レッドハウス卿ではありませんか。お体を流れるご血流の色合いは、いかがでございますかな?」

「まあまあだな。」

「それは素晴らしいことですね。アーサー卿。お隣にいらっしゃるのは、メアリー・ウィルソン嬢ですね。ご機嫌はいかがでございますかな。」

「ごきげんようですわ、ピックマン様。」

 そう、そのグールは確かに他のグールとは違った。

 ピックマン階級に、属しているグールなのだ。

 グールは複雑な、まるで蜂のような社会的機構を有している。その機構は、それを研究する学者が極端に少ないこともあって(ブラッドフィールドでは、そもそもグールの存在自体が触れてはいけない一種の禁忌のようになっている)、ほとんどが解明されていないのだけれど、唯一、知られている階級が二つだけ存在している。ダレット列聖者と、ピックマン階級(個人に名前が存在していないグールに呼びかける便宜上メアリーはピックマン様と呼んでいるが、実際には個々の名前ではなく階級の名称)だ。ダレット列聖者はグールの中でも支配者的な存在であって、その役割はほとんど不明なのだけれど、何かしらの宗教祭祀的な存在らしいことは解っている。一方でピックマン階級は、ある種の通訳だ。

 グールの言葉は、人間のそれとはまるで違ったものだ。歯擦音と、それからまるで虫がその羽をこすり合わせて出す甲高い音のような口笛の音楽と、その二つで構成されていて、どうやら六つの音階を組み合わせて意味を成しているらしい。とにかく、人間の言葉とは違っていて、それゆえに通訳を必要とする。その通訳的な役割がピックマン階級の役割だ。普通のグールが喉の構造上、どうしても喋ることができない人間の言葉を、ピックマン階級のグールならば喋ることができる。なぜなら、彼らはもとは人間であったからだ。それはともかく、そのピックマン階級のグールは会話を続ける。

「それで、この度はどのようなご用件で?」

「ああーっと、昨日の夜なんだが、ちょっとお宅のところのグールさんがお一方、上の世界で死体で見つかってな。それで、その件に関してのご報告と、ほら、型通りのご質問ってやつに来たんだよ。俺たちも役人だからな、法律で決まって書類に書かれたことは、やる必要がなくてもやんなきゃいけないんだよ。」

「なるほど、それはわざわざご足労のお気遣い痛み入ります。」

「で、あんたんとこの、ほら、ダレットさんに……」

「わたくしどものダレット列聖者に、でございますか?」

 まるで人間が眉を上げるように。

 グールが片方の瞼を揺らした。

 アーサーは、気まずそうに頬を掻きながら。

 ごまかすように笑って、先を続ける。

「あーなんだ、ちょっとした……」

「かしこまりました、少々お待ちください。」

 そう言うと、そのグールはあっさりとアーサーに背を向けて、ダレット列聖者を呼びに、墓地の中へと戻っていった。もう少しなんだかんだでもめると思っていたアーサーは、割合にすっきりと話が通ったことに拍子抜けした。

 そして、そのグールが向かっているのは。

 この、誰の物かも分からない墓地の中心。

 ざらざらとした苦い光を放射し続けるモニターの群れのその真ん中に、何かの構造体が存在していた。それは……赤く、甘やかに光る金属の塔のように見えた……ドームの周囲に幾つも幾つも開いている、トンネルの入り口から、このダレット・セルへと流れ込んできた、赤イヴェール合金でできた二本の線が、その中心へと向かい、集まって、そして上の方へと向かって、一つの城の形に、あるいは、蜂達の女王が住まう、王台の形に、紡ぎ合わされていたのだ。その織物には、そこここに、何かの宗教的な法則にでも従っているのだろうか、骨が、整然と、並べ立てられて、編み込まれていた、人のものではないらしいその骨は、長い咢と、それからとがった牙をもった、生きていたころには人の大きさほどもあったろう、巨大な爬虫類の骨らしかった。

 赤イヴェール合金と。

 爬虫類の骨で作られた。

 赤く光る王台。

 それは、一方で、まるで錯視のようにして、一瞬のためらいと、頭蓋骨の中でスイッチが入るような、あの音と共に、例えば何かしらの機械のように見える瞬間もあった。上へと向かって、伸びている、五つの鉤爪のような形をした塔は、コイル状に束ねられていた。その五つのコイルは、恐らくこの王台の頭上に何らかの力場を発生させているのだろうと想像がついた、なぜならこの王台の上には、まるで捧げもののようにして。

 一つの球体が。

 浮かんでいたから。

 その球体は、曲線と角度と直線で構成されていた。たくさんの曲線と、たくさんの角度と、それからたくさんの直線が。しかし、それは一方で現実ではないように見えた。現実に存在している物質ではないように。それは、まるでこの世界の法則とは違った法則に従っているかのようにして、ゆっくりと別々の方向へと回転し、それでいてでたらめに密集していて。その球体には色はなかった、そもそも、その球体は存在していたのだろうか? その球体は、ただひたすらに何かの「意味」を表象する、まがいごとの物質に過ぎないはずであった。では、それは何を「意味」しているのだろうか? それは、決して、知るべきではないものだ。

 この球体を支えるための、ある種の機械。

 それが、この王台の、役割で。

 それはともかく、ピックマン階級のグールは。

 静かに、その城の中へと吸い込まれていった。

「アーサーさま。」

「何だよ。」

「わたくし、大変なことに気が付いてしまいましたわ……」

「大変なこと?」

「帰りに寄ろうって言っておりました、あのカフェのお話……わたくし、チラシ配りマンの方に頂いた割引券を、デスクの引き出しに忘れてきてしまいました……」

「びっくりするほどどうでもいい話だったな。」

「どうでもよくありませんわ! せっかく頂きましたのに!」

 二人が、そんなどうでもいい話をしているうちに。

 やがて城の中から、グールが戻ってきた。

 もう一人のグールの後ろに、付き従うようにして。

 その、もう一人のグールが、あの飛び跳ねるような歪んだ歩き方で、ゆっくりと、そしてある種の崇高ささえ感じさせる機械的な感覚、墓地を横切って来る、その両脇に。静かに、他のグールたちが近寄ってくる。まるで、そのグールのために道を作り出すようにして、そのグールの両側に二本の列を作って。グールたちは皆が皆、術遍く、恭しくその両の手を組み合わせて、そしてその組み合わせた両手の親指の付け根に額を当てるようにして。それは俯いた祈りのように見えた。それは、俯いた祈りだったのだろうか?

 グールではない身には解らないことだ。

 けれど、これだけは確実だった。

 そのグールは、ダレット列聖者。

 グールたちの神聖なる貴族。

「ダレット列聖者の御成りでございます!」

 こちらへと向かってくる二鬼のグールの内、ピックマン階級のグールが、まるで悲鳴のように甲高い声を上げて、それを告げた。アーサーとメアリーはその声を受けるようにして、静かにその場に、両方の膝をついた。膝と膝の間は付けることなく、蟹股のようにして開いたままで、つま先を立てる。それから恭しく両の手を組み合わせて、そして親指の付け根に額を当てた、あのポーズを取る。

 とうっ、とうっという二鬼の足音が、その跪く二人のすぐ目の前にやってきて、そしてその場所で立ち止る気配を感じた。まるでプラスチックが腐ったような、奇妙な匂いがした、無機質の、科学薬品じみた、それでいて腐敗している、頭蓋骨の内側を直接刺激するような匂いだ。それから、声が聞こえた。美しいフルートのような音色の内側に、不快な歯擦音の混じった、まるで混乱させるような声、グールの歌。

「ダレット列聖者は、お二方に面を上げるようにと仰せです。」

 その歌を。

 ピックマンが通訳する。

 アーサーとメアリーの二人は、型通りの礼儀を無事に果たしたことを知って、ほっと安心したような吐息を漏らした。それから二人とも許された通りに親指の付け根から額を剥がして、そして立ち上がった。メアリーは、膝のところについてしまった土と埃とを、ぱんぱんと払い落す。

 そのグールは……顔を上げた二人の目に映った、そのダレット列聖者は、特に他のグールたちと違いがないように思われた。少しだけ、他のグールよりも大柄に見えるくらいで、同じように獣と人間の奇妙なあいのこのような姿をしている。同じようにその体に一枚の、屍衣のような布をまとっている。他に何一つ、装飾物をつけていない、けれど、その布に描かれている絵は、間違いなくそのグールがダレット列聖者であるということを示している。

「わざわざご面会を頂き感謝いたします。」

 アーサーが、軽く社交辞令を舌に乗せる。

 ダレット・グールはまた歌い。

 そして言葉をピックマンが通訳する。

「要件を言うように、と。」

「ええとですね、先ほどピックマンの方にも申し上げたんですけど、実は地上でグールがお一方、死んでいるのが発見されました。状況的に事故や自殺ではないと考えられます、まあグールに自殺って概念は存在しないでしょうがね、とにかく、殺鬼事件だと思われます。あーと、つまり胸のあたりを一発、拳銃のようなもので撃たれたものと思われます。例の協定によれば、地上で起こったグールの殺鬼事件に関しては、HOGに管轄権があるってことで、俺たちが捜査をすることになりました、ここまではよろしいですか?」

「続けろ、と。」

「それで、死んでいたグールが問題なんですけれど……」

 言いにくそうに言いながら、アーサーは着ていたフロックコートの内側に手を差し入れて、それから一枚の写真を取りだした。ポラロイドの写真で、現場で撮ってきたものだ。映し出されているのは、死んでいたグールの死体の全体像で、それをアーサーはグールの方に差し出す。

「恐らくダレット列聖者だと思われます。」

 ダレット列聖者の代わりにピックマンが、アーサーの指し出したその写真を受け取った。そして、ダレット列聖者の目の前に謹んで捧げるようにしてそれを見せた。ダレット列聖者はしばらくの間それを見つめていたようだったけれど、

「間違いなくダレット列聖者だ、と。」

「死体は現在、夜警公社で検視を受けています。もちろん、終わり次第速やかにお返しいたします。えーと、ここまでがご報告です。」

 そう言いながら、ピックマンから戻された写真を、アーサーはまたフロックコートの懐のポケットに入れた。写真を見たダレット列聖者は……同胞の死体を見たはずのダレット列聖者の表情は、けれどまるで変っていなかった。眉がないとしても、眉一つ動かすことはなかった。それがグールの、特殊な感情形態に由来しているものなのか、それともまた他に何かの理由があるのか、それは測りかねることだったが。とにかく、ダレット列聖者はまた笛のような声で、喉を震わせる。

「続けろ、と。」

「えーとですね、ご報告は終わりましたんで、次にこの件に関しまして、二、三、質問させて頂こうと思っておりまして。なんて言いますか、本当に型通りの手続きで、特に深い意味はありません。よろしいですか?」

「答えられる範囲で答えよう、と。」

 ダレット列聖者のOKを聞くと、アーサーは軽く隣にいたメアリーに合図をした。メアリーはペンと手帳を取り出して、聴取のメモを取る準備をした。頭のところにデフォルメされたカエルがついた割合にかわいらしいシャープペンと、それから雨が降っているみたいに水玉模様が表紙に書かれたメモ帳だ。うんうんと、アーサーの方に、自分の方は大丈夫だと合図をするメアリーを受けて、アーサーは聴取を開始した。

「まずはですね、この方は誰ですか?」

「グールは全て神に連なる同一の存在であり、人間のように個別な人格は存在しないと。」

「そうですよね、すみません、まあこれも一応聞いとかなきゃならなかったんで。誰が、誰に、いつ、どこで、なぜ、どうやって、ってやつでね。報告書の形式も決まってるんですよ、まあそれは置いといて、あーと、この方はダレット列聖者以外に何か役割をお持ちでしたか?」

「ダレット列聖者という言葉は全ての役割を内包している、と。」

「えーと、ではなぜこの方が地上にいらっしゃったんですかね? いや、ほら、ダレット列聖者の方って普通はダレット・セルから外に出ないもんじゃないですか、まあこの殺鬼の犯人がここに無理やり押し入ってきて、この方を殺して死体を地上に持ってったって可能性もなきにしもあらずなんでしょうけど、そうだとしたらここにいるグールの方々を向こうに回して大立ち回りでもしなきゃならなくなるでしょう? まあここの状況を見る限り、そう言うことでもなかったみたいなんでね。」

「神はそれをご存じであるが、話すつもりはない、と。」

「では、なぜこの方が殺されたのだと思いますか?」

「神はそれをご存じであるが、話すつもりはないと。」

「じゃあ、この死はこの方がダレットさんだったってことに関係はしていますか?」

「当然だ、全ての連関は因果律の上に成り立っている、ダレット列聖者という原因は、この世界にとって特に大きなものだ。それが全ての死を結果的に招くことに、疑問の余地はない、と。」

「犯人に心当たりは?」

「神はそれをご存じであるが……」

「話すつもりはないと。」

 アーサーはへらへらと笑いながらそう言った。メアリーはその隣で、必死にメモを取っている。遠くの方で、まるで地響きか、あるいは悪魔がドラムを鳴らす音のようにして、何か巨大な固まりがすごい轟音をあげて通り過ぎていくような音が聞こえた。アーサーはひゅーっと軽く口笛を吹く、恐らく、地下を巣食う電車のうちの一台が、比較的近くを通り過ぎて行ったのだろう。

「ありがとうございます、大変参考になりました。メアリー、お前はなんか聞きたいことはあるか?」

「え? あ、そうですわね、いえ、特にございませんわ。」

 メアリーは、ふるふると首を振りながら答えた。

 そのメアリーの答えを受けて、満足そうに頷くと、アーサーは胸の前で、軽く手の指を組み合わせてダレット列聖者に向かって感謝の意を表した。ダレット列聖者はその行為に対して、何かまた掠れるような笛の音色で歌ったのだけれど、その必要はないと判断したのか、ピックマンは特に翻訳しなかった。その代わりに、また慇懃な調子に戻ってこう言う。

「他に何か、ダレット列聖者に伝えることはございますか?」

「伝えること? あーと、特にはないんですけれど……まあ、ちょっとグールさんの方も警戒をして頂いた方がいいってことくらいですかね、何しろダレットさんが殺されたわけですから、今後何があるか分からないし。」

「それはどうも、ご丁寧なご忠告を。」

「俺たちのところから何人か警備の奴を出しますか?」

「いえいえ、そんな。これ以上お手間を取らせるわけには。」

「まあ、念のため伺ったまでです、忘れて下さい。」

 そう言うと、まるで冗談でも言ったような顔をして、軽く笑いながらアーサーは手を振った。メアリーは肩掛けポシェットの中にノートとペンをそそくさとしまい始める。

 ピックマンは、ダレット列聖者の耳元に何かを、小さな口笛の音で囁くように歌った。恐らくこの聴取が終わったことを伝えたのだろう。ダレット列聖者はその歌を聞くと、それに繋げるようにしてアーサーとメアリーの方に、また不協和の音で呼び掛けるようにして歌った。その合図を受けて、またアーサーとメアリーの二人はあの崇拝のような形のポーズをとる、組んだ手を額に当てて、その場に跪くあのポーズを。

「ダレット列聖者の御帰還でございます!」

 二人の耳に、飛び跳ねるような音が聞こえる。

 二人から離れて、あの王台に向かう音。

 とうっとうっという、グールの足音。

 ふ、とメアリーは、隣りのアーサーの気配を感じた。

 顔を上げて、立ち上がったような気配を。

 そして、声が聞こえる。

「すみません、最後に一つだけよろしいですかね?」

 グールが振り返る気配。

 そして、ピックマンの声。

「何でございましょうか。」

「一体、これから何が始まるんですか?」

 すうすうと、舌の上で呼吸の擦れる音がした。

 笑い声だ、グールの、たぶん、あのピックマンの。

 それから、また声が聞こえる。

「その質問に、答えが得られると?」

「あー、念のため聞いてみただけだよ。これも仕事でな。」


 朝の景色はまるで溶けていくように次第に崩れていくものだ。太陽の光を浴びたせいで、夜に凍り付いた早朝の気配のようなものが、だんだんと温められていくせいなのだろう。それは弛緩して、ゆるめいて、そして空間は充満していく、人間たちの肉体の、生暖かい温度のようなもので。地下鉄の駅からエスカレーターを伝って、太陽の照らす外の世界へとたどり着いたアーサーとメアリーは、その生暖かい活動の温度に、少しだけ眩しそうに目を瞬かせた。

「で、そのカフェってのは、ここから歩いていける距離にあんのか?」

「はい、すぐそこですわ! あそこの角を曲がって、ガラクタ屋さんの真向かいにありますの。」

「ああ、あそこか。しばらく前まで中華料理屋だったとこだろ?」

「そうでしたっけ?」

「ああ、昼によく弁当を買ったよ。ちょっと他では味わえないくらい不味かったが、そこそこ安かったんだぜ。」

「ちょっと他では味わえないくらい不味かったんですの……?」

「ああ、ちょっと他では味わえないくらい不味かったよ。特に炒飯がひどかったな。ペッポに聞いてみろよ、あいつあんまりにまずいんで一回吐いちまったんだぜ。」

 そんなこんなを喋りながら、アーサーとメアリーはキンスン・サーカスの外縁を通っている道を歩いていく。ちなみに、キンスン・サーカスとは、中央教会を中心として円形に広がっている広場のことで、ブラッドフィールドの人間居住区における中心地となっている。ここがまるで車輪のハブのようになっていて、そしてここからまるでスポークのように、人間居住区のあらゆる場所へと至る大小色とりどりの道程が流れ落ちていくのだ。

「それにしても、何も分かりませんでしたね。さっきのお話。」

「いやー、まあそうでもねぇんじゃないか。」

 がっかりしたように呟いたメアリーに向かって、なんでもないような口調でアーサーは言った。きょとん、とした表情で首を傾げたメアリーは、問いかけるような口調で、まさに問いかける。

「というと?」

「まあ、奴さんたち何か知ってるらしいってことだよ。」

 アーサーはポケットの中に手を突っ込んで、中に何かを包んでいるらしいくしゃくしゃの紙の塊を取りだした、丁寧にその包み紙を取っていくと、その中から一つ、ドーナツが出てきた。さりさりに固めた白砂糖をかけた、ふわふわのドーナツだ。

「まあ、アーサーさまってば! これから朝ごはんを食べに行きますのよ! ドーナツなんて食べたら、おなかいっぱいになってしまいますわ!」

「いいだろ? 一個だけだよ。」

「もう、知りませんわ!」

 またメアリーはぷんすこといった感じに怒ってしまったのだけれど、アーサーのドーナツ狂いは別にいつものことだったので別に本気で怒っているわけではなかった。その証拠に、暫くしてからアーサーに向かって、また口を開く。

「何か、というのはどういうことですの?」

「さあな、でも奴さんたちが何かを黙っているのは確かだよ。そもそもダレットさんが外の世界にいるっていうのが異常なんだ、なんかとんでもない理由がなきゃそんなことはありえない、つまり、死んだダレットさんには、何か特別な役割があったってことさ。そしてグールの連中は、その役割ってーのを俺達には知られたくないらしい。」

 そこまで言うと、アーサーはドーナツを一口かじった。

 それをむぐむぐと口の中で噛みながら、言葉を続ける。

「あのダレットさん、思い当たることはあるけどお前たちには何も言わねぇよ、みたいなこと言ってただろ?」

「そうですわね、意地悪な方ですわ。」

「そう言うなよ、何も知らないって言われるよりはましだろ? グールの連中は基本的に嘘はつかねぇからな、夜警官からすればなかなか良いやつらだよ。まあNG間交渉の時は別みたいだが、あれはピックマンの連中がやってることだからな……とにかく、あのセリフだけでも、少なくともこれだけは分かる……つまり、今回の殺鬼は、死んだダレットさんの何か特別な役割、俺たちに言いたくないその何かが関係してるってことだ。」

「でも、その何かっていうのは何ですの?」

「あの口調だと、ダレット列聖者でなければできないことだろうな。それ以上は分かんねぇよ。」

 アーサーが食うか? といった感じに食べかけたドーナツをメアリーの方にちょっと差し向けた。メアリーは餌を差し出された小鳥のようにして、アーサーの手からそのドーナツをついばむ。そしてアーサーのようにむぐむぐと口を動かしてそれを噛みながら、話を続ける。

「つまり今回の件は、グールの方々が犯人だということですか?」

「あいつらが殺したかどうかは分かんねぇけどな、死んだダレットさんが死んだ理由を作ったのは奴らだろう。」

「けれどそうなると、あのドアに書かれていたホワイトローズ・ギャングの紋章は一体どういうことですの? まさかグールの皆様が、仮にもノスフェラトゥの……」

「たまたまホワイトローズ・ギャングがドアに落書きした場所で、たまたま死んだダレットさんが殺されてただけって可能性もあるぜ。まあ、仮にもブラッドフィールドで組織犯罪業を営んでいるような奴らが、グールの領土にたまたま落書きをするかっていう問題が出てくるが。」

 アーサーは軽い冗談のように言って、肩をすくめた。

 それから軽く首をかしげて、言葉を続ける。

「ちょっとした情報源から聞いたことだがな。」

「何ですの?」

「これは続くぜ。」

「グールの殺鬼が、ですか?」

「ああ、しかもダレットさんを狙ったやつだ。」

「それは一体、どういう……」

 アーサーはなおも何かを問いかけようととしているメアリーの口の中に、ドーナツの最後の一欠けらを、ぽんっと放り込んだ。メアリーはそれを反射的に食べてしまって、むぐむぐするので忙しくなり、何かを言おうとしていたのをいったん中断することにした。そんな様子を見ながら、ふーっとアーサーは大きくため息をついて、言う。

「まあとにかく、何にせよ死んだダレットさんがいったい何をしていたのか、しているのか、するはずなのか、を調べることだな。帰るころには検視の結果も出てるだろうし。あれか?」

「そうですわ、あのお店ですわ!」

 メアリーは、何か言おうとしたらしいのをすっかり忘れたようにして、はしゃいだ感じにそう答えた。アーサーの指さした先、確かにこじゃれたオープンカフェが見えていた。赤と白の二色のパラソルで日を覆ったオープンテラスが付いていて、店自体は煉瓦造りのシンプルな構造をしている、特に大きく看板のようなものは出ていないけれど、あのパラソルが十分に店の存在を主張するのだろう。今は、時間も中途半端なせいか、人影も見えなかった。

「マフィンがとってもおいしそうですのよ!」

「へえ、どんなのだよ。」

「間にカツレツを挟んでいますの! しかも肉をミルフィールのように重ねているのですごく分厚いんです! 一口噛むと、じわっとお肉のスープが口の中に広がりましてよ!」

「確かにうまそうだが、朝にカフェで食うもんじゃねぇな。」

 そんなことを喋りながら。

 カフェに近づいていくアーサーとメアリーの。

 すぐ後ろ、車道を。

 猛スピードで、駆け抜ける様に近づいてくる。

 一台の、車。

 ふっと、アーサーはその気配に振り返った。

 その車は、無意味なまでに頑丈そうな作りをしている、典型的なエスペラント・ウニート製のセデオ車だった。真っ白に塗られているが、全く手入れをしないのだろう、全体的に薄汚れていて、そこここに傷がついていた、そして、その傷の中でアーサーの目にたまたま入ってきたのは、幾つも幾つも開いた、明らかに銃痕と思しき小さな穴だった(それを見たアーサーの頭の中で、イエローアラートが鳴る)。車に乗っているのは二人、一人が運転で、もう一人は助手席に乗っている。二人ともやけに着崩したような黒いスーツを着ていて、サングラスをかけている(それを見たアーサーの頭の中で、レッドアラートが鳴る)。

 そして。

 助手席にいた方の男が。

 開いた窓から、身を乗り出した。

 アーサーとメアリーの二人に向かって。

 その、手には。

「なんですのアーサーさまっ!?」

「口塞いでろ、パピー。」

 それを見たアーサーは、頭の中で何色のアラートが鳴るのかを確認する暇もなく、その瞬間にメアリーを抱きかかえて、飛んだ。安物のフロックコートを翻して、壁の影に隠れる。車の助手席に乗っていた男が、その手に握っていたサリートマト社製の安物のマシンガン(一般的な夜警官たちが使う俗称で言えばテンプルワーカー)をぶっ放した、金属でできた雨のように降り注ぐ銃弾は、今までアーサーとメアリーが呑気に歩いていた道の上を、まるでずたずたに洗い流すかのようにして。

「なんですのなんですの、何が起こっているんですの!」

「黙ってろって、あともっと頭下げろ。」

 アーサーの腕の中、少しでも楽な姿勢を探してじたばたとしているメアリーを、そう言って軽くいなすと、アーサーはその頭をぐっと抑えて姿勢を低くさせた。襲撃は、けれどあっけないくらいに早く終わった。その白いセデオは、通り過ぎていくときの速度を落とすこともなく、その薙ぎ払うようなスピードのままで二人の隠れている横を抜けて、そして道路のかなたに消えていった。あとにはただ、二ダブルキュビト程度の狭い幅にわたって、虫が食ったように道に開けられた何百もの穴と、それから何が起こったのかも分からずに、ただセデオが逃走していく先をぽかんと口を開けて見つめている、たまたま通りかかった通行人が数人いるきりだった。

「終わったみてぇだぜ。」

「何が起こったんですの?」

 そっと壁の影から伺って、どうやらこの急な銃撃が終わったらしいことを確認すると、アーサーはやれやれといった感じでその場所から姿を現した。いまだに何が起こったかわからずに全くもって混乱した様子のメアリーも、その後から出てくる。

「まあ、道に穴が開いていますわ!」

「テンプルワーカーだな。」

「テンプルワーカー!? ということは、わたくしたちはギャングさんたちに襲われましたの!?」

「そういうことになるな。」

「大変ですわ、すぐに追いかけて逮捕しないと……」

「おいおい、こんな街中で変わるなよ? 暴れ始めたら手ぇ付けらんねぇだろ。」

「そ、それはそうですけれど……」

「ほっとけよ、誰がやったかは分かってんだ。」

 そう言いながら、アーサーはかがみ込んだ。

 銃撃の跡、幾つもの穴の上。

 落ちていた、何かを拾うために。

「誰がやったか?」

「ああ、ほら。」

 言いながら、立ち上がったアーサーは。

 その、落ちていた何か、をメアリーに向かって放り投げた。

 メアリーは、ぱっと両手を出して、それを受け取る。

 茎のところで切られて、それは、一輪の白い薔薇。

 銃撃者が、最後に落としていった、メッセージ。

「白い薔薇?」

「グロスターのガキからの贈り物ってとこだな。」

「そ、それはつまり……」

「ありがたいことだ、阿呆にでも分かるよう分かりやすく警告してくれたみたいだぜ。死んだダレットさんについては、これ以上は探るなっていう意味だろうよ。」

 そう言いながら。

 メアリーに向かって、安心させるように。

 アーサーはへらっと笑う。

「まあどうやら、あの扉んところの落書きは、どうやらたまたまそこに書かれてただけの落書きじゃなかったってことだな。」

 一方で、あっけにとられていた通行人たちは、やがてまた、何事もなかったかのようにして歩き始めた、目指していた方向に向かって、日常へと帰っていく、サラリーマンは携帯を取り出して取引先に少し遅れることを伝えて、そして少年たちはスケートボードを蹴って滑るように去っていく。この程度の銃撃ならば、ブラッドフィールドではそこそこよくあることだ。狙われたのが自分たちでなければ、それほど気にすることでもない。


 死体を乗せた金属の武骨なストレッチャーであるとか、証拠を満載したカート、そういったものが通りやすいように、例えば病院の救急病棟の扉みたいにして、両開きでひらひらと揺らめくような、鍵のかかっていない時であれば少し押せば中に入れるような、そんな扉を指の先で軽く押して、アーサーは夜警公社ブラッドフィールド本社の、証拠検証班の部屋の中に入っていった。

 ここは、支局ビルの本棟の裏手に、まるで外付けの金庫みたいにして、廻廊で結び付けられた別棟だった。どんなギャングが貴重な武器や麻薬の類を取り返しに襲撃しに来たとしても問題がないように、この真四角の建物の外壁は、白い色をした妙な光を帯びて輝く、有機的な金属で構成されている。この金属は白イヴェール生起金属といって、ある種のスペキエースが肉体の内側から紡ぎ出す生起的な金属の一種であって、そのためブルーバード独立自治区の主要な外貨獲得手段となっている。黒イヴェール合金の次の次の次ぐらいには物理的に頑丈で、バルザイウムの十分の一くらいは魔術的な耐性がある、その割にはこれらの物質よりも希少ではない、そこそこ便利な物質として知られている。

 そしてその中では、十数人程度の証拠検証班の人間たちが、日夜この金庫の中に、スキー場に降りしきる豪雪のようにして送り込まれてくる証拠品の大軍を、法的に裁判で使用できるかどうか、ただ単純にそれだけを判断のはかりの片側に乗せて、様々な試験にかけたり、それに関する報告書を書いていたりする。もちろん、アーサーとメアリーが扉を開いて入ってきたこの瞬間にも、その白衣を着た天秤たちは忙しくそこここでその作業を繰り広げていた。ある種の工場の、流れ作業のようにして。

 アーサーは、その研究員たちのうちの一人。

 髪を頭の後ろでひっつめた若い女を捕まえて問う。

「あー、ちょっといいか?」

「ああ、アーサーさん、何ですか?」

「アンドリューはどこにいる?」

「班長なら、奥の検視室の中にいます。」

 そう言うと、その若い女はこの建物の一番奥、色々とボックス分けされた区画のうちの、そのボックスのうちの一つを指さした。ドアの上にかけられたプレートには、確かに「検視室」という文字が書かれている、アーサーは「どうも」「いえ」とだけその若い女と言葉を交わすと、そのボックスの方に向かって歩いて行く。

「アンドリューさまにもマフィンを買って来て差し上げればよかったですわ。ちょうど朝ごはんのお時間でしょうし……」

「いや朝からあれは食わねぇって、普通。」

 とか何とか言いながら、アーサーとメアリーは。

 そのボックスの扉を開いて中に入る。

 中にいた男が、顔をふっと上げて二人を見て。

 それから、露骨に嫌な顔をした。

「何の用ですか、アーサー。」

「そんな嫌そうな顔すんなって、アンドリュー。」

 アンドリュー・ブッカー。夜警公社ブラッドフィールド本社証拠検証班班長。その男は、まるで排気ガス交じりの雪のように一面の灰色をした髪を、極端に几帳面に七対三にわけた髪型の、初老の男だった。恐らく見た目だけで言うならば、アーサーやガレスと同い年くらいの年齢だろう、けれどその二人とは違い、その眉間には風雨によって刻まれたような深い深いしわが刻まれていて、まるで世界のあらゆる人間に対してノーを突き付けているような、そんな、何というか神経質そうな顔つきをしていた。部屋の中なのになぜか顔の上部全体を覆うようなサングラスをかけていて、そしてぱりっと糊のきいたスーツ、この人服を一度着たら捨てるタイプの人なんじゃないかというほど新品じみたスーツを着ている(本来は証拠検証班には支給された制服があるのだけれど、アンドリューはなぜかいつもスーツを着ている)。そしてその上から、薄く赤い色で染まった白衣を着ている。

 そのアンドリューの目の前、金属づくりのベッド、そこに体を横たえたら体中が傷んでしまうだろう、けれどそこに眠るのはいつも死者なのでまるで問題はない、つまり解剖台がおかれている。その上には、今日もまた一人の死者がその身を横たえていた。普通の死者とは違う、まるで動物じみた体つきで、それにしては繊細な白く漉き取ったような肌の色。体中に開かれた切り口は、アンドリューが検視のために開いたものだろう、その切り口からは、べっとりとした唾液のようにして血液が流れ出して固着しかけている、その色は緑色。つまり、この死者は、アーサーとメアリーが発見した、あのグールの死体だった。

「検視の結果を聞きに来ただけだよ。」

「いつも言っているでしょうアーサー。ドーナツを食べた手でそこら中をべたべたと触らないでください。ドーナツの油分を表面の溝に湛えた君の指は、私の検視室のそこら中に巻き散らかすように指紋を残すのです。」

 へらへらと笑いながらグールの横たわる金属の作業台の端に、寄りかかるようにして手をついたアーサーに向かって、嫌悪感をあらわにしながらアンドリューはそう言った。アーサーはおちょくるような態度で「おおーっと」と作業台から手を離すと、軽く手のひらをアンドリューに差し出して見せた。

「それで、どうだったんだよ?」

 アンドリューはふーっと大きなため息をつくと。

 解剖台の横のテーブルからバインダーを取り上げた。

 そこには数枚の報告書が挟まれている。

「私が自分で検視をしました。」

「へー、そりゃありがたいな。」

「グールの死体なんて、普通はここに運ばれてくることはありませんからね。実際、九年前のあの事件以来は、一体も運ばれてきませんでした。死体の解剖経験がある人間が極端に少ないのです。だから、私がやるしかなかったのですよ。グールの解剖専用の赤い白衣……形容矛盾ですが、とにかく、この白衣だって、探すのにずいぶん時間がかかったものです。」

 随分と厭味ったらしく言いながら、アンドリューは報告書をひらひらとめくって、それにゆっくりと目を通していく、自分で書いた報告書なので、内容は覚えているはずなのだけれど、あまりに軽薄な様子のアーサーに対して、苛立たってもったいぶっているのだ。けれどアーサーはそんなことを気にする様子もなく、相変わらずへらへらとしながら言う。

「別に普通の白衣でよくないか?」

 その言葉を無視して。

 報告書に目を向けたまま。

 アンドリューは話し始める。

「死因は胸に開いた銃痕からの出血です。」

「銃痕なんですの、これ?」

「ええ。」

 メアリーの問いかけに軽く眉を上げる様にアンドリューは答えた。それから報告書から目を離して、グールの死体の縫いとめられた胸の上、ぽっかりと開いた傷口を軽く指さした。

「確かに火薬もそれに類した物質も見当たりませんでした。それに一般的には骨を砕く際に傷ついた銃弾の一部が残骸として体の内側に残るのですが、それも見当たりませんでした。しかし、傷の周囲と内側が高温のために火傷を負っていること、また穴の構造に特有の弾道螺旋が確認できることから、銃痕であると断定しました。その痕跡の少なさから、恐らく凶器は魔弾の一種と思われます。」

「あるいは黒イヴェールを使ったか、な。」

「いえ、その可能性は少ないでしょう。確かに黒イヴェール合金製の弾丸なら物質的に傷つけられることはありえないので、銃弾の残骸は体内に残られないと思われますが、例えノンパウダーの銃を使ったとしても、この死体にはあまりにも科学的な痕跡が認められません。」

 いつの間にかメアリーは、またあのカエルのペンと水玉模様のノートを取りだして、アンドリューの報告のメモを取り始めていた。そちらの方を満足そうに見てから、アンドリューはまた何かを言おうとした、けれど、その言葉を遮るようにして、アーサーが無神経に口を開く。

「ところで気になってることがあるんだよ、アンドリュー。奴さんの体についてた、妙にべとつく液体のことなんだけどな……」

「君には人の報告を聞く気があるのですか、アーサー。」

 苛立たしさを隠す様子もなく、アンドリューは冷たい口調で、アーサーに向かってそう言い放った。しかしアーサーにとっては、アンドリューを怒らせることは割合いつものことだったので、特に気にする様子もなく「あー、すまんすまん」というだけだった。アンドリューはまた報告書に目を落とす。それから、指を二本立ててアーサー達に向ける。爪が良く切られていて、丁寧に磨きをかけられた指先だ。

「奇妙な点は二つです。」

「二つ?」

「一つ目はアーサー、君が今言おうとしていた液体のことです。」

 言いながらアンドリューは、報告書を持っている方とは反対の手でテーブルの上から何かを取り上げた。小さな小瓶で、証拠品に付けられる白いラベルがつけられていた。中にはべっとりとねとついたあの液体、グールの死骸についていたあの液体が入っていた。光に透かして見ると、どうやらうっすらと緑の色をしている。

「詳しい分析の結果が出ていないので、まだはっきりとしたことを言えませんが、グールの血液を透析して作り出した血漿のようなものに、更に特殊な加工をくわえたものだと思われます。」

「グールの方々の血液ですの?」

「ええ。もう少し単純な言い方をすれば、グールにとって非常に吸収しやすい高濃度の栄養物質ということになります。そして、この栄養分は皮膚から直接体内に浸透し、血流に流れ込むことで、この当該グールを長い期間にわたって生かし続けていたものと思われます。」

「それは一体、どういうことでして?」

「当該グールの体表と、それから体内には、血液にまで至らなかったこの物質が大量に残留していました、筋肉にも、内臓にも、それから骨にまで。この事実はつまり、このグールはこの液体がそんなところに浸透するまで長いことこの物質の中に浸けられていたということを意味します。それとは対照的に、当該グールの消化器官は委縮していました、退化というほどではありませんが、それでもこの事実は当該グールが長期間にわたって食事をとっていなかったことを示しています。つまり分かりやすいけれども不正確な例えで言うとするならば、当該グールはまるで羊水に浸けられた胎児のようにして、この液体の中に長期間沈められていたものと考えられます。」

「そりゃまた一体どうして。」

「アーサー、君は人の話に口を挟まなければ死んでしまう類の病にかかっているのですか? 質問があるのならば、私の最後まで聞いてからにしてください。」

 そう言って冷ややかな視線をアーサーの方に向けてから、アンドリューはまたテーブルの方に手を伸ばした。ビニール製の証拠品袋をを取り上げると、それをすっと解剖台の上の、グールの死体から離れた端の方に置いた。アーサーは無造作にそれを取り上げて、袋の中に入っていたものを見る。それは……数本の針だった。長い針だ、まるで針治療に使うもののようにして。べとべととした、灰色のゼリーのようなものにまみれている。それから、その針の後ろの方、突き刺す側と反対の側からは、何か細いワイヤーのようなものが出ていた。どこかにつながっていたのものを、引きちぎったみたいに途中で千切れている。

「随分と長いな。」

「それが奇妙な点の二つ目です。そして、君の疑問の一部にも答えるものになります。」

「なんなんだよ、これ。」

「当該グールの頭部に刺さっていたものです。頭蓋骨を貫通して、脳にまで達していました。これもやはり長期間にわたって刺さったままになっていたと思われます、傷口に癒着していて、引きはがすときに一部が付着したままになってしまったほどですから。ある種のプローブ、当該グールの脳を探査するためのものか、もしくはその逆に当該グールに信号を送り込むものと考えられます。その針の部分だけでは、どちらとも言うことはできませんが。」

 そう言うと、アンドリューはまたちらと報告書に目を落とした。今度はもったいぶって、というよりもメアリーがメモを取り終えるのを待っているようだった。メアリーがアンドリューの今の言葉についてのメモを取り終えて、満足そうに、ふんっと息をついたのを確認してからアンドリューは言葉を続ける。

「つまり、先ほどの君の疑問への答えは二通りの可能性が考えられます、アーサー。当該グールを外部的な刺激から遮断して、その脳波を調べるために一時的な昏睡状態においた。もしくは、当該グールを昏睡状態において、その状態で一種の夢を見させていた。どちらにせよ、当該グールを昏睡状態のままで長期間にわたって生かさなければならなかったということです。そのために、当該グールの意識がなくても栄養を摂取させる必要があった。」

「それで、この薄緑色のべとべとしたスープみてぇなのが、たっぷり入ったタンクの中にぶち込まれてたってわけか?」

「タンクかどうかは分かりませんがね。」

 あくまでも真面目な顔をしてアンドリューは答えた。

 ふーっとアーサーは深いため息をつく。

「まるでSF小説の世界だな。」

「私は小説の類は読まないので、その感想には同意できません。」

「アーサーさま、わたくしはなんとなく分かりましてよ!」

 またアンドリューの言葉をメモを取り終わったメアリーが、びしっとカエルのシャープペンを天井の方に向けて、フォローをするようにそう言った。小声で「ありがとうな」とアーサーは言って、それに返すようにしてメアリーはにぱーっと笑った。一方でアンドリューはそんな二人のやり取りに気をかける様子もなく、報告書のページを閉じて、軽く二人の方に振って見せた。

「もう少し時間がたてば部下に回した調査にも詳細な結果が出てくるでしょうが、今の状態では報告すべきことは以上です。この内容はあとで一時報告書として、ガレスを経由して君のところにも回します。」

「おお、悪いな。」

「勘違いしないでください。君のためにやっているわけではありません、仕事だからやっているのです。」

 アンドリューは顔色一つ変えることなくそう言い放った。アーサーも、このやり取りはいつものことなので、特に気にする様子もなかった。この言葉に反応する代わりに、独り言のようにして呟く。

「何でグールの連中は、ダレットさんに対してそんなことをしていたんだ? それに、何でホワイトローズの連中はそんな状態だったグールを殺したんだ? グールのしようとしていた何かを、邪魔しようとしていたのか、それとも全く別の理由なのか。場合によっちゃこれは……」

「それを調べるのは私の仕事ではありませんね、アーサー。君の仕事です。あなたが最近のノスフェラトゥについてほとんど知らないように、私も最近のグールについてはほとんど知らないのですから。」

「わーってるよ、アンドリュー。今のは独り言さ。」

「それは良かった。」

 アンドリューは軽く肩をすくめてそう言うと、報告書を挟んだバインダーを持ったままで、さっと例の針が入った証拠品袋を取り上げた。それからてきぱきと、それらを片付け始める、ちょっと神経質なんじゃないかというほど、きっちりと整ったこの部屋の中の中で、その二つがあるべき場所に戻し始める。

 その様子をじっと見るともなく見ないともなく、アーサーは何かを考えていたようだった。今回の事件について、今アンドリューから聞いた報告について、そしてそれから……けれど、やがて不安そうに見つめるメアリーの視線に気が付いた、先ほどのアーサーの「場合によっちゃこれは」というセリフと、それから今のアーサーのいつに似合わぬ真面目そうな顔つきに、なんとなく自体が重大であることを察したようだった。アーサーは、それを見てふっと顔を緩める。メアリーが、表情を変えないままで口を開く。

「アーサーさま……」

「ま、今考えてもどうにもなんねぇな。」

「……そうですの?」

「ああ、そうだよ。今日は色々あったからな、随分とまあ疲れちまったよ。こんな状態で何か考えようとしても碌なことは思い付かねぇだろうな。」

 メアリーを安心させるようにしてそう言うと、アーサーはわざとらしく腕にはめていた時計を見た。アナログ式の、古めかしい時計、アーサーに似合わない、ねじまき式の精密な機械時計だった、それからおどけた調子でメアリーに向かって言葉を続ける。

「おっと、今日はもうあがりの時間が過ぎてるな、そろそろ店じまいのお時間だ。あとのことは明日だな、明日は明日の風が吹く、夏なら北風冬なら南風ってな。」

 アーサーは、そんな感じで何を言っているのかよく分からないことを言ってメアリーに向かって笑いかけた。それを聞いたメアリーも、そのよく分からない言葉になんとなく安心したのか、アーサーの笑顔に向かって笑い返す。一方でアンドリューは、この二人さっさと出て行ってくれないかなみたいなオーラを出しながら、露骨に大きな音を立てて後片付けをしている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ