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exodos

 人間の、いや、他の生物の。いや、有機的な物質の。その存在の欠片さえも感じさせない、金属でできた方形の部屋は恐らく人が一人この中で暴れてもそれほど大きな問題は発生しないだろうという程度の、五ダブルキュビト四方程度のサイズの部屋だった。壁の全てはなにか青い光に歪んだような銀の金属で覆われていて、天井の蛍光灯が鈍く光を反射させている。

 部屋の真ん中には棒と板だけでできていますといった感じの金属の机と、同じようにシンプルな椅子が二脚、机の両側に向かい合うように置かれている。

 片方の椅子には誰かが座っていた。

「彼はまだ眠っていますか?」

『はい、エトワール支局長。』

「では、起こしてください。」

 サヴァンはそう言うと、入ってきた部屋の扉を静かに閉じた。それから、もう片方の空いている椅子へと近づいて、そこに座る。対面、座っている誰かは目から上、頭をすっぽりと巨大なヘルメットのようなもので覆われている。それは黄色く歪んだ真鍮のような色をしていて、まるで生き物のような滑らかな曲線を描き、完全その誰かの視界を覆っていた。同じ真鍮の色をした鎖が、両手と両足をこの部屋の床に繋ぎとめている。

 その誰かは……ハッピートリガーだった。

 今回の、サヴァンの、唯一の戦利品。

 サヴァンは演技じみたため息をつきながら。

 机の上に、資料を広げた。

 オイコノミアについての、資料を。

 フラナガンは……果たして、今までの経緯を知っていたのだろうか? 二年、二年の間、あの男はレメゲトンに入院していた。あの男は、つまり、サヴァンの、一番ではないが目の裏にべったりと張りついて離れないような、その疑問は……あの男は、オイコノミアを、知っているのだろうか? サヴァンとしても、それをはっきりと知っているわけではない、本当に、ぼんやりとした、曖昧な、伝聞と推測の集合体のようなもの。フラナガンが入院してからこの二年の間に起きた主要な事件のほとんどの裏側で、暗躍を続けているらしい組織。ちらちらと、その姿を見せはする……まるで稲妻か、陽炎か、水に映る月のように、掴みどころのない姿を。サヴァンでさえも、ヴィレッジに送られてくる膨大な事件資料、報告書に目を通して、ようやくその存在を感知するに至ったくらいに、何もかもが覆い隠されていた。この二年間に起こった大事件は、そのほぼ全てが、何かの意思、一つの計画に従って起こされている。そして、何よりも……恐らく、フラナガンを入院させた、あの事件の裏側にいたのが、その意思、その計画、つまり、オイコノミアらしいのだった。それは、シャボアキンに、何かの入れ知恵をしたらしい。シャボアキンはそんなことを、認めるはずもないが。

 その、オイコノミアについて。

 サヴァンが、ようやく、掴むことができた。

 唯一の、実体のある、糸らしきもの。

 それが、今、目の前にいる。

 ハッピートリガーだった。

 それを、フラナガンは、知っているのか?

 もしも、何かを知っているとしたら。

 なぜ、そんな重要な鍵を。

 こうも、やすやすと、渡したというのか?

 ハッピートリガーが、サヴァンの目の前でぴくりと身動きをした。どうやら、サヴァンの指示に従って技術班が催眠を解いたらしい。次第に、次第に、ぽっかりと開いた穴の底から浮かび上がってくるようにして、ハッピートリガーは、目覚めてくる。

「おはようございます、ハッピートリガー。」

「……フィッシャーキングか。」

 ハッピートリガーは、何かを探すようにして二、三回首を振っていたが、やがて自分の探しているものは見つからないものであると分かったかのようにして、すっと前を、つまりサヴァンの方を向いた。それから、また口を開く。

「ここはどこだ。」

「ヴィレッジパンピュリア共和国支局の地下にある、スペキエース用取調室です。」

「つまり、俺はお前らに捕まったってわけか?」

「そういうことになりますね。」

 サヴァンはまるで舞台上でささやかれる、全てが定められたセリフのような声で、そう答えた。これはサヴァンの、取り調べのために用意された話し方だった、全てが、自分の想定通りに進んでいると、取り調べの相手に強く強く印象付ける話し方、それから、サヴァンは机の上、指の先で、二回叩いて音をさせる。

「さて、ハッピートリガー。これは取り調べです。質問をするのは私であって、あなたではありません。」

「俺はスペキエース犯罪者だろ? 管轄はヴィレッジじゃなくてブリスターのはずじゃねぇのかよ。」

「聞いていなかったのですか、ハッピートリガー。質問をするのは私です。」

 確かにハッピートリガーの言う通りだった、本来ならばヴィレッジには、サヴァンには、取り調べを行う何の条件もなかった。スペキエース犯罪者の取り扱いに関するブリスター規程によれば、Beezeut管理下の組織によって「保護」を受けたスペキエース能力を持つ犯罪者は速やかにブリスターに移送されねばならないし、その移送の際には、何者であっても彼ら及び彼女らの不利になる取り扱いを一切行ってはならないとされている。しかし、それがどうしたというのだろうか。この事実が露呈さえしなければ、誰からも責められることはなく、それにもし露呈したとしても、サヴァンはいくらでも言い訳を考えることができた。

 サヴァンにとっては、この移送期間だけが。

 ハッピートリガーに、その話をさせる。

 つまり、オイコノミアの話をさせる。

 唯一の、チャンスだった。

「さて、話を聞きたいのは……今回の事件に関してです。」

「俺がお前に何かを答えてやるとでも思っているのか? フィッシャーキングに対して、俺が情報を与えるとでも?」

「思っていなければ、取り調べなど行いません。」

「はっ! それならお前の頭は相当おめでたいってーことだな。俺に何を聞こうと無駄だぜ。お前なんかに何も話す気はない、どうせテレパスの一人や二人、囲ってんだろ? そういうやつに任せた方が、俺もお前も無駄な時間を過ごさずに済むんじゃないか?」

「純種のノスフェラトゥに対して精神走査を試みるほど、私は愚かではありません。」

 サヴァンはそう言うと、また机の上、資料を広げていないところに指先を走らせた。特に直すつもりもない癖のようにして、親指以外の指、カカカカッ、カカカカッとリズミカルに机を叩く、いつもの、あの音を立てる。ハッピートリガーはその音には特に反応を見せず、その代わりにサヴァンに向かってさも不思議そうに、ちょっと大げさなくらいに首を傾げて見せた。

「なら、お前は何で俺が何かを話すと思うんだよ。」

「オイコノミアという単語に聞き覚えはありますか?」

 ふっと、サヴァンは。

 餌を放るようにして。

 その言葉を、投げ与える。

 サヴァンは、かしゃん、と鎖の音を立てて。

 石を投げ入れた水面のように身動きをする。

「どこでそれを聞いた?」

「私には守秘義務があります。情報源を明かすことは出来ません。」

 魚が、針に、食いついた。

 あとは糸の引き方だけだ。

 慎重に、逃げないように。

「しかし、私はこの件の裏に、オイコノミアが関わっていると推測しています。あなたを……このような目に合わせた、この件に。私は、事件の解決を望んでいます、事件の、真の解決を。例えば、もしもあなたが罠にかけられた哀れな犠牲者に過ぎないとすれば、私はそれを明らかにして、あなたの刑期を少しでも軽くすることを望む、つまり、そういうことです。」

「お前なんかの助けを借りる気はねぇよ。俺は自力で抜け出す、それがどんな檻であっても。」

「もちろんそうでしょう。では、こういう提案ならどうですか? 私もあなたに情報を差し上げます、だから、あなたも私に情報を下さい、ギヴ&テイクです。あなたにとっても、もちろん私にとても、決して損はないとは思いますが、いかがですか?」

 サヴァンのその言葉を、ハッピートリガーは何かを考えているかのようにして、じっと黙って聞いていた。そして、その言葉が終わっても、暫くの間一言も口をきくことをしなかった。青く歪んだ銀の部屋の中に、サヴァンの指が机を鳴らす音だけが、少しずつこちらへと迫って来る錆びたのこぎりの歯のようにして響いている。

 しかし、やがて。

 ハッピートリガーは。

 その口を開く。

 そして、忌々しげに。

 サヴァンに、こう言う。

「その前に、一つだけ教えろ。」

「お教えできることなら。」

「グレイはどうなった?」

「グレイ……? ああ、あのライカーンのことですか。死にましたよ。確か遺体の損傷が激しかったので、研究の方に回されることなく、トラヴィール教会の共同墓地へ送られたはずです。それがどうかしましたか?」

 ハッピートリガーは。

 軽く舌打ちをした。

 そして、それから、何かを。

 何かを、決めたようだった。

 何かを、その心に、刻んだようだった。

 今度は迷いもなく、まっすぐに。

 サヴァンの方を向いて、こう言う。

「何を聞きたい?」

「知っているでしょう?」

「正しい答えが欲しいなら、正しい問いを投げろよ。」

「……フラナガン神父と、何を話しましたか?」

「お前も、たぶん分かっているだろう? 全てが、まるで夢の中の出来事のようにして曖昧だ、何かが……俺の頭の中の何かが、ぽっかりと、えぐり取られたようにして、何かが、何かが失われている。あの男が何者なのか、俺はよく知らないが、それでも……あいつが、俺から何かの記憶を奪って行ったことは分かる、まるで、頭を銃で撃たれたみたいにして、そのせいで、すーすーいう穴が開いたみたいにして。今回の件に関して、俺が……いったい何に関する知識を、どこから手に入れたのか、そういうことの一切の記憶が、俺が得たはずの全てが、失われている。それが、何が、失われているのかという記憶さえも。だが、それでも、一つだけ覚えている言葉がある。一つだけ、覚えている名前がある。」

 サヴァンは、目を向ける。

 その目はまるで、澄んだ湖。

 復讐に澄んだ、黒い色の湖。

 ハッピートリガーは。

 その名前を口にする。

「ルーシー・バトラー。」


 地図の上に横たわる、巨大な一匹の蜥蜴のような形をしたエオストラケルタ大陸の南側の海岸、愛国最大の国際交易都市である乳海から、海に沿って西へと向かう。やがて大陸から海の方へと突き出した、小さな舌のような形をした岬が見えてくるだろう。その岬はまるで、細い陸橋のような大陸との接続部分と、その先の、大体円形をしている島のような形の部分とでできている。そして、その島状になった部分の上には、一つの、巨大な……スラムが築かれている。

 水鬼角。

 それが、この都市に。

 名付けられた、名前。

 水鬼角は、正確にいえば愛国領土ではない。愛国が、その主権を及ぼしている場所ではないのだ。かといって、その岬が面している海を越えたその先にある月光国の領土でもなければ、あるいはBeezeutの信託統治下にある地域というわけでもない。国家であるかないかを問わず、あらゆる集団について、「貴集団はこの場所を支配しているのか?」という問いかけに対しては否という答えが返って来るだろう。つまり、ここは文字通りの意味での……無法地帯なのだ。ここではあらゆる秩序が、何らの強制力を持つこともない。人間の作る法であっても、あるいは神々の作る理さえも、この地においては絶対的に無力である。この無法の成り立ちは、愛党と神々との戦い、つまりは第二次神人間大戦にまで遡るのだけれど、そのロングかつコンプリケイテッドな歴史について語るにはあまりにも紙幅が足りないし、また実際のところこの物語にも大して関係してこないので、また別の機会に任せるとしよう。

 ところで、水鬼角は。

 まるで、迷路のような場所だ。

 しかも、それは通常の迷路のように二次元に限った広がり、というわけでもない。水鬼角を遠くから見てみると、まるで壊れてぐじゃぐじゃになったルービックキューブか何かが、大陸から突き出ている竜の舌の上に乗っかっているように見える。時折、そのルービックキューブの残骸は、例えば見えない手によって気まぐれに弄ばれているかのように、一部が有り得ない角度に曲がって見えたり、あるいは何か霧のようなもので覆い隠されて見えたり、それは決して蜃気楼ではない、それは、リリヒアント多階層との……しかし、この話もやはりこの物語と関わってくることではない。とにかく、この土地には地震が全く起きないという単純な理由からか、あるいは他の形而上学的な理由、そのせいで、水鬼角の住人たちは己の住む塔を、まるで蟻塚のように高く、高く伸ばしていく、もとは平屋に近かった建物だったとしても、その上に、上へ上へと、小屋を継いで建てていき、それはやがて摩天の塔となっていく。そんなビルディングの群れは、互いが互いを支えとするようにして、だらしなくべっとりと寄りかかり、水鬼角のその狭い円庭の中に詰め込まれていく。離れた建築物と建築物との間には、その二棟を架ける橋ができ、あるいはその間に直接接合するように更なる建築物が建てられて……やがて、この場所は、三次元の迷宮となる。

 そして、今。

 その迷宮の中。

 一人の、女。

 その女は、こんな姿をしていた。肩には白いマントをかけている、そこら中が、いたる所が、何か薄汚なく汚れていて、あるいは襤褸のように縫い合わされて、しかしそれでも、それは、まだ、白い、マントだった。その下にはざらざらとした、丈夫そうな素材でできた白っぽい色のシャツを、晒で無理やり押さえつけたような大きな胸の上に着ていて、どこかの軍隊の払い下げのような地味なカーキ色のズボンをはいている。腰のあたりにはホルスターをつけていてえ、装飾品と呼べそうなものは辛うじてそれぐらい身にまとっていない、靴も頑丈一点張りのブーツだ。そしてその全身が、何か……黒っぽいべたべたとしたもの、凝固しかけた何かのどす黒い液体のようなもので汚れている、べったりと染みついていて、恐らく洗っても取れない種類の、例えば呪いによく似た種類の汚れだろうと思われた、その服装に包まれた体は……がっしりとして大柄だった、引き締まった筋肉質の体、安っぽい金髪を短く切っていて、その切り方は粗野でざんばら、整っているとはお世辞にもいえない。目の色はブルー、底が濁って奥が見通せないようなブルー……しかし、それは片方しか残っていない。もう一方、左目は、黒い眼帯によって隠されており、長い長い一本の切り傷だけがその下から覗いている。

 その女は。

 一匹の獣だった。

 肉食の獣。

 あらゆるものの天敵。

 絶対の、捕食者。

 女は、とんっとんっとまるでスキップを踏んでいるような軽い足取りでコンクリートの階段を上って行く。そこらが欠けているような随分と古い時代に作られたもののようだ。女の顔の、すぐ横のあたりには、何本ものパイプがまとめられて壁の隅を這っていく。中を何が通っているのかも分からないが、どちらにせよそれは埃にまみれている。遠くの方からは、子供の笑い声が聞こえてくる……もしかしたら、悲鳴なのかもしれないが。漂う空気の中には、何かの肉を煮たにおい、骨の髄が腐ったようなにおい、それからその奥に通底している鼻を突くような薬のにおい、それから飲んだ酒を吐き出した吐瀉のにおい、そういったものが入り混じった、言い知れぬ悪臭。

 やがて、女は足を止めた。

 濃い緑色に塗られた扉。

 ペンキの下から、錆びついた安っぽい金属がそこここでむき出しになっている。そんな扉の前、女は立ち止まり、そこからまるで流れるように滑らかに、躊躇いのない体の動きで……その扉を、蹴り飛ばした。その女の足の先で、まるで蝶々の羽のように軽く、扉板は歪み、蝶番は弾けて、扉は部屋の内側に向かって吹き飛んだ。向かいにあった壁に激突し、がぁんというめちゃくちゃな音を立てて、そして跳ね返って下に落ちてまたがぁんという音を立てた。その二回鳴り響いた音を聞いて、女は笑った、高らかに声を、歌わせるように、まるで……ただ単にふざけているとでもいうかのように。そして、満足げな様子、大股にその部屋にのっしのっしと入りこむと、これもまた冗談のようにして、こう言う。

「今帰ったぜ、ダーリン。」

 その部屋は……誰かが住んでいるにしては余りにも殺風景な部屋だった。奥の方に、壁を掘ったかのようにして少し凹んだ部分があり、そこにはベッドというにはあまりにも無骨すぎるが、恐らくベッドと呼ぶのだろう板が据え付けられている(ちなみに、女が蹴り飛ばした扉はこのベッドの所に当たった、壁龕の上の部分が砕けて土埃が立っている)。真ん中にはテーブルと、その周りに二つ、向かい合うようにして小さい一人用のソファーが二つ置かれている、虫食いだらけでそこら中にどす黒い色をした染みがついている。そして、家具らしきものはそれだけだった。部屋を入って左手の壁には、その壁をくりぬいてそこに鉄枠を取り付けただけのような窓がついているけれど、隣りのビルが間近に押し迫っているために、ほとんど窓の役割を呈していない。そこから日航が入ることもなく、その代わりに天井に一つだけついている、むき出しの蛍光灯が光ってその部屋を照らしている。

 そして、その部屋の中には。

 一人の、男がいた。

 その男は、女に向かって。

 疲れ切ったような声で。

 言葉を返す。

「あのっすね……」

 その男はまるで……両生類のような姿をしていた。全身の毛を、何かの薬で脱毛した上に漂白したかのようにして、その体表には毛が一本もなくぬめぬめとしていたのだ。髪も、眉毛も、まつ毛も、髭も。顔だけではない、あらゆる箇所に存在しているべき毛は存在しておらず、まるで陶器のようにすべすべとしていた。更に、それだけではなかった、手足の先、爪のあるべきところにはそれをはぎ取ったような跡だけが残っていて、爪それ自体が存在していなかったのだ。それはまるで、体に付随した余分なものを、あるいは余分ではないものを、全て洗い落としたような姿。その体の上に柿色の衣を身にまとい、足は裸足だった。その目は、女とは違う形で濁っていた、それはうっとりとしていて、焦点があっておらず、どこを見ているのかもわからない黒い色の目で、白目の部分は血走っていて赤く、そして唇は紫色をして震えていた。

 その男は、箒のようなものを両手で持っていた。

 どうやら、この部屋を掃除していたらしい。

「ははっ、何度も何度も言ってるっすけど、帰ってきた時に扉を蹴りぬくの、こう、なんていうか、ちょっと控えめにして頂けないっすか? 扉の修理って結構時間かかるんすよね、いや、別に修理が嫌って言ってるわけじゃないんすよ? ははっ、でもほら、他にやることもあるっすし……」

 ぶつぶつと、その男はまるで独り言のような、極力抑えめの、それでもなんていうかその行動の改善要求をしているかのような口調で喋っていた、それから、癖なのかなんなのか随分と早口だった、口の動きと言葉があっていないかのような、せっかちな喋り方だ。というか、動作全体がなんとなく早送りされているようにせわしなかった。

 そんな男の儚い願いの声を。

 まるで無視して、女は言う。

「髭切。」

「なんっすか?」

「客か? 水くらい出せよ。」

「え? ははっ、お客様なんて……」

 髭切と呼ばれた男はそう言いながら、女が顎で指した方、テーブルにつくようにして置かれた一人用のソファーの方を振り向いた。と、そこには……ソファーのうちの片方には……一人の、少女が、座っていた。髭切はひどく驚いたような顔、持っていた箒を取り落として「ってお客様!? いつの間にっす!?」と如実にびっくりが滲み出てきているような声で言った。それからすぐに「し、失礼しましたっす、すぐにお水を汲んでまいりますっす!」と言って慌てて扉がぶち抜かれた後の完全にただの四角い穴となった出入り口から駆け出していって、「あ、コップコップ……」と小声で呟きながら戻ってきてから、部屋の端の方に置いてあった、妙に大きく膨らんだ鹿皮の袋をがさごそと探って、中から二つコップを取り出すとまた急いで部屋から出ていった。

 女は、笑っていた。

 獲物に牙をむき出しているような。

 それでいて、軽い笑顔で。

 それから、女はつかつかとテーブルの方へと歩いて行って、もう片方のソファー、少女が座っている方のソファーに対面するソファーに腰掛けた。ぎしっと背に寄りかかり、腕を組んで、それから足をテーブルの上にどんっと乗せた。控えめにいってもくつろぎ過ぎの姿勢だったが、少女はそんな女の姿勢をまるで気にせずに、口を開いた。

「初めまして、アンジェリカ・ベイン。」

 そう、女の名前は。

 アンジェリカ・ベイン。

 求める金さえ渡せば。

 主をも裏切る何でも屋。

「初めまして? 本当か?」

「ええ、一応はね。それとも、どこかで会ったことがあったかしら。」

「さあな、どうだったか。」

 アンジェリカは、無造作にそう言った。

 少女は、軽く肩を竦めて返す。

 いずれにせよ、大した問題ではなかった、二人が、以前出会ったことがあるか、出会ったことがないかなど。髭切が、コップに水を汲んで帰ってきた。テーブルの方に駆け寄って「ははっ、どうぞっす」と言いながら二つのコップを、それぞれ少女の前と、アンジェリカのブーツの横に置く。アンジェリカは腕を組んだままで、特に表情を変えることもなく、ただ肉を喰う獣が歌う時のような声、少女に向かって言う。

「用件は何だ。」

「悪い話をするつもりはないわ。」

 少女は、そう答えた。

 退屈そうに笑いながら。

 青い、ヘッドバンド。

 世界の全てを拒否するように。

「あなたと取引をしたいの。」

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