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#42 残りの者の世界

 ベルヴィル記念暦985年2章17節。

 全てが終わった、その次の日の、朝。

 ブラッドフィールド、アベニュー。

 車の窓、その外側では街の光景が流れるようにして走っている。ホワイトローズ・ギャングとその同盟者であるグール達によって、引き裂かれてずたずたになっていたはずのそれは、昨日よりも随分と普段の日常に近いものにまで回復されていた。もちろん、未だに瓦礫の山はそこここで見られたし、壊された建築物は修復作業が終わっていない。しかし、それでも……例えば、道路を車が走ることができる。特定の個所では信号が壊れていたり、瓦礫の撤去が終わっていなかったりして通行止めになっているが、ほとんどの場所では通常通り、車が走ることができていた。それは、パンピュリアの三天使がその犠牲者の死体を焼き尽くしてしまっていたため、通行を妨げるようなものがあまり残っていなかったという理由が大きかったのだが、しかしヤラベアムが人間のことを気にかけるはずもないので、恐らく偶然の副産物に過ぎないだろう。

「それで、つまりハッピートリガーはフィッシャーキングに連れてかれたってわけ?」

「おいおい、その名前で呼ぶのは問題があると思うぜ。」

 いつものように体中をストレッサーによって痛めつけられたがごとき声で言ったエリスに対して、アーサーは鼻歌でも歌うような気軽さでそう答えた。運転席に座っているのがエリスで、アーサーは助手席の方に座っている、エリスの運転は若干乱暴と言えなくもなかったが、まあまあ優等生の範囲に収まるようなスムーズなものなので、アーサーとしても安心して運転を任せることができた。

 二人は、治安維持のために見回りをしている最中だった。つまりパトロールだ、通常化班は人数がかなり限られているし、それにその職務の性質上から言っても普段ならばパトロールなんてする部署ではなかったが、この非常事態と言うことで駆り出されていたのだ、確かにホワイト・ローズギャングたちはほとんど完全に壊滅状態だったが、犯罪者は他にもいくらでもいたのだし、彼らあるいは彼女らは、この革命の後始末、大混乱の時を稼ぎ時とみて、少しでも自分の有利に働かせようと額に汗して働いていた、実に勤勉な連中だ。そんな状況の中、一昨日の事件でかなりの人数の夜警官たちが負傷し病院に入院してしまっているし、それに特殊鎮圧班は防災公社と共に復興活動に当たっている。圧倒的に秩序維持の側、夜警公社側の人数が足りない、ということで通常化班にまでお声がかかった、ということだった。

「また、最終的にサヴァン隊長が全部美味しい所を攫っていったのね。「共同捜査」が始まった時から、こういう結末だっていうのは分かっていたようなものだけど。」

 そう言って、エリスはため息をついた。

 感情の伴わない、例えば相槌とかそういったもの。

 脊髄の、反応としてのため息。

 アーサーとエリスというコンビは、アーサーがメアリーと組んでからこの先、滅多に見られなかったものであるため、非常に珍しいもののように思われるのだが、これには理由があった。まずピートが一昨日の事件で右足を骨折してしまい、入院中だというのが一点目。ちなみに骨折をしたのは確かに事件の最中だったが、その理由としては、三天使が到来して夜警官全員がジョーンズ・フォルドの中に避難することになった時に、慌てて階段を駆けあがろうとして足を滑らせ転げ落ちたというものなので、実際のところあまり誇れるものではない。

 それから、メアリーがハウス・オブ・ラヴの研究機関で検診を受けているというのが二点目。メアリーは現在、(アーサーの名付け方によれば)パピーとレイビスという二つの人格に分かれている。しかし、メアリーが異常結晶化能力を使う度に、そのうちのレイビスが次第にパピーの方を浸食し続け、やがてレイビスが完全に人格を支配することで、周囲の抑えがきかなくなるという事態が訪れてしまうのだ(過去に一度だけ起きたことがあり、その際は魔法少女アトラク=ナクアの介入でようやく事態が沈静化した)。そのために、レイビスの人格についてもアーサーに対する無償の献身を行うように精神のプログラムをしたりと色々な対策を取っているのだが、それでも今回のように長時間能力を使用した際には慎重を期して精密な検査を行うのだった。

「いや、そういうわけでもないかもしれないな。俺は少なくとも全部ってわけじゃないと思うぜ。」

「それは、どういうこと?」

「まあ、俺はその場所に居合わせたわけじゃねぇからはっきりしたことは言えねぇんだけどな、どうやらあのガキどもを制圧したのはサヴァン隊長たちの部隊じゃなくて……フラナガン先生だったらしいんだ。」

「その噂の、出所はどこなの?」

「分かるだろ?」

 そう言うと、アーサーは膝の上に置いたドーナツの箱を開いた。中から一つドーナツを取り出す、それは非常に軽い、すかすかとしたドーナツだった、表面を黒糖か、黒い飴のようなものでコーティングしてあって、中はまるで鬆が入ったようにしてふわふわとしている。これは実は新作のドーナツで、こんな時でも店を開けていた上に、更に新発売までしていたドーナツ屋の根性に驚いて、つい買ってきてしまったものだった。一口噛んでみる、ドーナツにあるまじきさくさくとした食感で、噛んだ先から口の中でほろほろと溶けていく。悪かない、柔らかすぎるメレンゲみたいな食感。しかし一口噛むたびに、服の上に小さな欠片がさらさらと落ちるのがちょっとあれだ。

「それで、その時にフラナガン先生が何かを……何かの情報をあのガキから奪ったらしい、詳しいことは聞けなかったが、その情報ってやつがサヴァン隊長の欲しかったものだそうだ、だから、サヴァン隊長も今回の件に関しては手放しで大成功と喜べたものじゃなかったらしいぜ。」

「そう。まあ、最後に笑うのがフラナガンだろうがサヴァン隊長だろうが、どっちにせよ私達は上手く使われただけってことでしょ。本当に損な役回りよね、激務だし、残業ばっかりだし、給料は安いし。本当に、そろそろ転職しようかしら。」

「ははは、まあそう言うなって。」

 そう言いながらアーサーはドーナツの箱からもう一つ、自分の食べているのと同じドーナツを取り出して「食うか?」と問いかけた。エリスはそちらにちらと目を向けると、「貰うわ」と言いながら片方の手で軽く掠めるようにして、それを受け取った。

「そういえば、フラナガンで思い出したんだけど。」

「あ? 何だよ。」

「あいつ、一体ブラックシープとはどういう関係なの?」

「ああ、その話か。」

「一昨日の話だけど、私がアーロンの班に回されてジョーンズ・フォルドの防衛にてんやわんやしてた時に……あいつが、フラナガンが来たのよ、それが、なんとブラックシープと一緒で、何て言ったと思う? 自分は正義の味方だから、私たちに手を貸すって。信じられる? あのエドワード・ジョセフ・フラナガンがよ? しかもいつもほら、ブラックシープが湧いて出てきた時に、うるさい声で叫ぶやつあるじゃない、何て言ったっけ、ヒーローコール? あれまで叫んで。録音しとけばよかったわ、内容はよく覚えてないけど、携帯の着信にしたいくらい傑作だったわよ。とにかく、あの二人はどういう関係なわけ? 全く想像のつかない取り合わせだけど。」

「いや、そんなこと聞かれてもな。俺だって何でも知ってるわけじゃねぇよ。ただ俺も、今回の事件の最中にあの二人がちらちらとセットで姿を見せていたのは知ってるがな。」

「もしかして、ブラックシープ自体がコーシャーカフェと何か関係があったのかもしれないわね、ちょうどあの男が出てきたのが二年前、フラナガンが「入院」した時期だったし、自分がいない間の、ブラッドフィールドの管理人として置いて行ったアンダー・テーブルズだったのかもしれない。でも、それだとブラックシープが……あれほどNHOEに似てる理由が説明できないけれど。それに、結局コーシャー・カフェはめちゃめちゃになってたしね。」

「……エル、ここから先はあくまで噂話だがな。」

「何よ、何か知ってるの?」

「もしかすると、NHOEが関わってるのかもしれない。」

「NHOEが?」

「ブラックシープがNHOEの後継者かもしれないって話はお前も知ってるだろ? ブリスターにブルーバード経由で裏から手を回してフラナガン先生を退院させたのが、そのNHOEだっていう話があるんだよ。だから、あの二人が組んでるのは、NHOEが何かを、しようと考えてるからかもしれない。」

「そんな……有り得ないでしょ? フラナガンはコーシャー・カフェのボスだった男よ? このブラッドフィールドで、かつては六大ギャングと呼ばれたのコーシャー・カフェの。あのNHOEが、フラナガンと手を組むなんて、まだペッポが禁煙が成功するっていう話の方が現実味があるわよ。」

「いや、ペッポの禁煙が成功することは絶対にないだろ。」

「例えばの話よ……まあそうね、絶対にないわ。」

「それはともかくとして、あくまでも聞いた話だからな。どこまで本当かは分からないが、でもそれなりに信頼できる筋からだ。」

「じゃあ、仮にNHOEが裏にいるとして、何かをさせようとしてるって、一体何をしようとしてるわけ? フラナガンの手を借りてまでやらなければいけないことって……もしかして、今回の件ってこと? さっき、あなた、ハッピートリガーはフラナガンに仕留められたって言ってたけど、そういうことなの?」

「いや、それだけじゃないらしい。」

「それだけじゃないって……じゃあ今回みたいなことか、それ以上のことが、まだ起きる可能性があるってわけ? そうじゃないと……説明が付かないけど。」

「さあな、あいつもそこまで詳しくは話さなかったから俺には解らないが……ただ、フラナガン先生は特別な男なんだそうだ。そして今回の件は、何か巨大な星座みたいなものを構成する、星の一つに過ぎないそうだぜ。」

「何よそれ、意味わからない。」

「俺もだよ。」

「ノヴェンバーも、何でいつも煙に巻くような喋り方しかできないのかしら。もっと分かりやすく話してくれればこちらとしてももっと協力のしようもあるのに……」

「おっと、エル、俺は一言も情報提供者がノヴェンバーだとは言ってないぜ?」

「白々しいわね、何を今更。」

 そんなことを言いながら、エリスは一口ドーナツを噛んだ。「これ、もしかして新作?」「ああ、そうだよ」「悪くないわね」「珍しいな、お前が褒めるなんて」「でも服に屑が落ちるのはいただけないわ」なんて言いながら、ダウンタウンに向けて、アヴェニューを外れて右折する。二人のパトロールコース、ちなみにこのコースが最終的に到着する先は、こんな状況でなくてもブラッドフィールドで一番治安が悪い場所、つまりテンプルフィールズだった。エリスはそのことを考えるだけでうんざりしてきて、ドーナツの欠片を飲み込むと、また一つため息をつく。それから、またアーサーに向かって口を開く。

「でも、それが本当なら組対にとっては朗報ね。もしもNHOEがフラナガンのバックについてるっていうのなら、コーシャー・カフェが復活することなんてありえないだろうし。」

「ああ、そういえばどうなったんだ? コーシャー・カフェの方は。何か例のプレゼントの話から先、何か組対から聞いてるか?」

「ええ、まあ。」

「何だって? もったいぶらないで教えろよ。」

「ヘンハウスの方で……大々的な動きがあったそうよ。」

「大々的な動き?」

「二年前のあの事件の時に、ヘンハウスが取って行ったスペキエースの人身売買のルートの関係なんだけど……一昨日の事件にまぎれて、大規模な粛清が行われたそうよ。大物の死体が次々と発見されて、ホワイトローズ・ギャングだのグールだのの仕業に見せかけてるけど、それにしては明らかにおかしい点が多いんだって、騒ぎがあった場所からかなり離れた場所で、狙いすましたように殺されてたり。組対の見解としては、整理が行われて、ルートがヘンハウスからどこかに移されるんじゃないかって。どこかっていったって、一つしかないわよね。」

「ニガー・クイーン・コーシャー・カフェ。」

「正解。」

「ヘンハウスと、まあそれからペナンズ氏の方はまだいいとして、一番問題なのは女媧だろうな。女媧が自分のものにしたものを元の相手に返すとは思えねぇし。」

「そうね、組対でもそれを一番警戒しているわ。近々、蜥蜴系愛国ギャングとフラナガンの間で大きな抗争があるだろうって。それがもし他の所に飛び火したら……」

「ダンディの事件の再来だな。」

「それだけは何としても避けなければいけないって、潜捜と組対の二班であらゆる手を打ち始めてるらしいわ。」

「まあ、大事にならないことを祈るよ。」

「ならないでしょう? あなたの「情報源」の話が本当ならば。」

 エリスはそこまで言うと、手に持っていたドーナツを自分の口の中に全部押し込んだ。ぽろぽろと屑がパンツスーツの膝の上に崩れて落ちて、「もっと味わって食えよ」というアーサーのセリフに対して、口の中に含んだドーナツを全部咀嚼し、嚥下してから「私、運転中なんだけど」と答える。それから自分の顔をバックミラーでちらっと確認して、「紙ナプキンとって、口のまわり、拭きたいから」「はいはい、今差し上げますよ」、アーサーから手渡された紙ナプキンで口の周りを吹くと、それを丸めて車内に取り付けられている灰皿の中に放り込んだ。それから手で、雑に膝の上を払う。

 その後は、暫くの間言葉は交わされなかったけれど。

 その暫くの間が過ぎてから、エリスが口を開く。

「アーサー、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」

「は? 何だよ。」

「ずっと、聞きたかったんだけど……」

「だから、早く言えよ。」

「さっき、NHOEの名前が出てきたわよね。」

「ああ、そうだな。」

「オールドマン班長は、どうしてNHOEについてあんなに……なんていうか……こだわっているの? 何か……ちょっと、普通じゃないと思う、それは当然、NHOEは殺人鬼だったけど……ブラックシープみたいな頭のおかしいクズとは違って、私たちを、夜警官たちの大量虐殺をしたわけじゃないわ、殺していたのは、それは夜警官も殺していたけど、それでも犯罪に関わっているって誰でも分かるような人たちだけだった、それなのに、どこか……私の言っていること、分かるでしょう?」

「ああ、分かるよ。」

「あなた、班長との付き合いは長いんでしょう? 何か知っているんじゃないの? 一週間前、ちょうど今回の件が始まる前に班長と話していた「個人的な話」だったっけ? あれだってどうせ、NHOEについての話だったんじゃないかしら。」

「はははっ、随分と勘が鋭いな。」

「そうでないと生きてこれなかったからよ。」

「さっきも言ったけどな、俺だってなんだって知ってるわけじゃねぇよ。特にアメージング・グレースは……なんでも自分だけでやりたがる癖があるからな。全部推測に過ぎないし、俺が推測できる程度のことなら、お前だって推測できてるだろう。」

「班長は……もしかして、ああなる前のNHOEを知っているんじゃないの?」

「もしかしたら、そうかも知れねぇな。」

「それで、もしかして、NHOEがああなった原因に……」

「エル、俺達には人様の罪悪感をしょっている暇はないだろ?」

 アーサーはそう言った。

 軽く、ウインクをしながら。

 エリスは、口を開いた。それから、口を閉じる。何かを言おうとして、それでも言うべきことが見つからなかったとでもいうようにして。車内がさっきまでよりも、少し静かになる。ただ、アーサーがドーナツを噛む、しかしドーナツにしては固い、しゃくしゃくという音だけが響く。しかし、やがて少しだけ気まずいその沈黙を破るようにして、アーサーがエリスに話しかける。

「なあ、俺もお前に一つ聞きたいことがあるんだが。」

「なに。」

「今回の件で、NG間の関係はどうなったんだよ。全くこっちの方には話が流れてこねぇけど、普通だったらまた内戦になってもおかしくないような事件だったろ? ケンネルのお前の「情報源」は何か言ってないのか、もし内戦になるんなら色々と買いだめしとかなきゃいけないもんもあるしな。」

「ああ、そのことね。安心して、内戦になんてならないわ、グールの方は、例の言い訳で押し通すつもりよ、ほら、「今回の件に関してはノスフェラトゥとの平和条約に反感を持っているグールたちが起こした反体制派の暴動であって、ダレット列聖者は何ら関与をしていない」ってやつ。ケンネルもその言い訳をまるごと飲み込むそうよ。」

「へえ、グールの「反体制派」ね。」

「もちろんケンネルだってそんなこと信じちゃいないけど、内戦になって駆り出されるのは結局ノスじゃなくて人間だし、極力穏便に済ませたいわけよ。それにいざとなったらパンピュリアの三天使がいるって、今回の件でグールたちもよく分かっただろうってことよね。私、あれ始めて見たわ。一瞬だったけど。」

「まあ、何度も見て面白いもんじゃねぇけどな。」

「とにかく、グールたちも下手なことはしないだろうっていうのがケンネル内の共通見解みたいね、少なくとも暫くの間は。マスコミの方にも通達を出すみたいだし、下手に手を出してごたごたするよりも、結局は全部さっさと闇に葬る方針ってわけ。」

「そうか。いつものあれってやつだな。」

「そうね、いつものあれってやつよ。」

 ちょうど、二人の乗る社用車が、一つの交差点に通り掛かったところだった。見てみるにそこの信号機は壊れているらしい、見てみるに壊れているらしいというか、交差点にある車用のうち二つと、人間用のうち一つ、信号機の信号機の部分が引きちぎられていて、ただのポールみたいになってしまっている。そして、その交差点の真ん中に交通安全班の夜警官が一人立って、交通整理に当たっていた。街中の壊れた信号に夜警官を配備すると人数的に足りなくなるのでそこそこ重要な地点以外は通行止めにしているはずなのだけれど、どうやらここはそのそこそこ重要な地点に選ばれているらしかった。通り過ぎる時に、アーサーは窓を開けて手を振って簡単な挨拶をした、交通整理をしていた夜警官も、アーサーに気が付いたらしく軽く目礼をして返した。

「ねえ、アーサー。」

「何だ?」

「あの、ハッピートリガーって……」

 そこで、エリスは口ごもった。

 何を、どういえばいいのか分からずに。

 自分が、今から、何を聞きたいのかさえも。

 よく、理解していないかったからだ。

 次第に、次第に、道はダウンタウンへと入っていく。一度言及したように、ダウンタウンとアップタウンの境界というものはノスフェラトゥによって鬼工的に定められたものであるため、一応くっきりとした区切りがあるのだが、長い長い歴史の中で建てられては壊され、壊されては建てられた街並みの中に埋もれてしまっていて、見た目にそれと分かるものではない。ただ、段々と建物の背丈が低くなって来たり、磨き抜かれたコンクリートから安っぽい煉瓦になって来たり、あるいはもっとはっきりいってしまえば……堕落というか、荒廃というか、そういうものが隠されずに、表面に現れて来る、壁の落書きや、そこら中に散らかされたゴミのような形で。それから、それだけではなく、今は。もう一つの見分け方があった、ダウンタウンにはアップタウンほどに、一昨日の爪痕が残されていなかったのだ。その裏には、フラナガンが他のギャングのキングピンたちと交わした秘密の約束によって、ダウンタウンを支配する彼らあるいは彼女らの間に敷かれていた外出及び交戦の禁止令が存在していたのだが、それについてはエリスもアーサーも知るところではなかった。

 そんな光景に対して。

 まっすぐに目を向けたまま。

 エリスは言葉を続ける。

「昔、あなたのところにいたって話、本当なの?」

「ああ、まあな。」

「今回の件であなたを殺そうとしたって……」

「それも本当だぜ。」

「それで、その……あなたはなぜ……」

「エル。」

 アーサーは、そう言った。

 エリスは、また言葉を止める。

 アーサーは、何でもないことのように。

 エリスに向かって、続ける。

「忘れたのか? 俺は半分ノスフェラトゥだ。」

 車の椅子にぐーっと寄りかかって、アーサーは伸びをした。ちらり、とエリスはそちらの方に目を向ける。アーサーの目が、視界の中に入って来る、青い目、しかし、その目は、実は、まるで人間とは違う目だった、その目はあたりの光を反射することがない、つや消しをしたようにして、その奥には何もない、ただ、暗く、暗く、塗り潰されていて。アーサーは、それから残りのドーナツを自分の口の中に放り込んだ。しゃくしゃくと音をさせてそれを口の中で噛みながら、指についた屑をぺろりと舐める。エリスは、そんなアーサーから目をそらして、呟くようにして答える。

「そうだったわね、忘れていたわ。」

 と、その時に。

 まるで、計ったようにして。

 社用車の、無線が鳴った。

『ダウンタウン、テンプルフィールズにおいてブラックシープのシープ・ビークルが目撃されたという情報あり。付近にいる通常化班員は急行してください。繰り返します、タウンタウン、テンプルフィールズにおいて……』

 アーサーが、無線を取って。

 答えを、それに、流し込む。

「アーサーとエリス、今から現場に向かうよ。」

 それから、エリスに向けて。

 にっと笑い、小声で言う。

「確かに、転職した方がいいかもな。」

 エリスはそれには答えずに。

 ふふっと、小さく笑い返す。


「というわけで! ついに私のこの手の先に煌めく信念の刃は、ファーザー・フラナガンの放つ怜悧の炎と共に、醜く汚らわしい憎悪の権化、このブラッドフィールドが見た中でも最もおぞましい悪夢、ハッピートリガーの野望を叩き砕く正義の鉄槌となったのだよノーハンズ・オンリーアイ!」

 興奮冷めやらぬブラックシープの声が、世界の全ての闇を集めて、あらゆる目に触れるべきではないものを覆い隠しているような、黒く沈んだ空間の中に虚しく響いている。しかし本人は、いつものようにその虚しさを気に留めることすらしていない。シープ・サンクチュアリの、例のテンションが上がった時の演説台のような足場の上、ブラックシープはNHOEに対して一昨日から昨日にかけて起こった出来事の、報告をしていたのだ。普通であればもう少し早く、つまり昨日、シープ・サンクチュアリに帰還した時点で報告をするのが常なのだが、その段階ではブラックシープのテンションが完全に最高潮MAXアゲアゲに達していて、話している言葉が全く意味をなさずかろうじて「ジャスティス!」という単語だけが聞き取れると言ったようなそんな状態だったので、今日はゆっくり休んで体の傷を癒して(ブラックシープの体には傷一つなかったけど)明日報告してくださいということになっていたのだった。その後、よっぽどつかれていたのか何なのか、ブラックシープはほぼ丸一節の間無垢な少年のような顔をして眠り続け、そして今朝に至るというわけだ。

『なるほど……よく分かりました、ブラックシープ。』

 NHOEは、感情のこもらない合成音でそう答えた。

 普段通り、モニター画面の前、静かに座っている。

 そのモニター画面には、様々な画像がまるで何か一つの現象を描き出しているモザイクのように映し出されていた。その一つの現象とは……つまり、蘇生だ。完膚なきまでに蹂躙されたブラックフィールドの街が、再び元の姿に戻ろうとする姿。ニュースの映像や、ブラッドフィールドのあちこちに設置された監視カメラが映し出す光景、それにSINGやアフォーゴモンにUPされる素人たちの投稿画像、その全てが昨日の始まりに終わった革命騒ぎの翌々日、瓦礫をどかしたり、あるいは壊れたビルの修復作業というような、街の復興作業を映し出していた。

 もちろん、パンピュリアの三天使は兵器だ。

 昨日の日が昇る前には、既に。

 革命に関わった、ほとんどの生き物を殺していた。

 生き残った者たちも、どこかへ姿を隠して。

 しかし、彼の天使たちは、兵器だ。

 この街を元通りにすることはしない。

 それは、一般の人達の役割だった。

 本当は、ブラックシープとしても街に出て、この復興作業に加わりたかったのだが、一応ブラックシープは大量殺人犯であるところの指名手配犯であったので、人の目が多いところにその姿を現すということなどできず、仕方なくNHOEの命じるままに、シープ・サンクチュアリに閉じこもって報告を行うとともに、この混乱に乗じて犯罪を犯そうとする不届き者が現れないかどうかを監視するという重要な仕事についていたのだった。

『それでは、ハッピートリガーは現在エトワール支局長の手の中にあるということですね。』

「そうだね、その通りだよノーハンズ・オンリーアイ! 彼の手に任せておけば一安心と言ったところかな、何せ彼の心に燃える正義の炎には、私でさえ火傷しそうなほどだからね!」

 そう言うと、ブラックシープは上手いことを言ったとでもいうようにしてはっはっはっみたいな感じで高らかに笑った。その笑いに同調することはなく、NHOEはただじっと黙っていて、もしかして何かを考えているかのように見えたのだが、あらかじめ全てを計算し終わっている機械とよく似た人間が、例えば考えるなどということをするのだろうか?

「どうかしたのかい、ノーハンズ・オンリーアイ。」

『いえ、何でもありませんよ、ブラックシープ。』

 ブラックシープは、NHOEの様子が少しいつもと違うことに気が付いて、若干心配そうに問いかけたのだったが、NHOEが答えたその声の感じはいつもと変わらなかったので(合成音なのだから変わるわけがないのだが)ちょっとほっとした。それから、例の演説台の上から、魂が浮かぶような軽やかな身のこなしで飛び降りると、NHOEのいる、巨大なコンピューターとモニター群がおかれた浮き島の上に戻ってきた。

 NHOEの前に跪いて。

 ブラックシープは、口を開く。

「ノーハンズ・オンリーアイ!」

『なんですか、ブラックシープ。』

「本当に、ありがとう。」

『何がですか。』

「私に、あんなに素晴らしい相棒を与えてくれて。」

 仮面の奥、目をキラキラと輝かせて。

 ブラックシープは、そう言った。

 そして、愛おし気にNHOEの足に触れる。

 これは、絶対の、正義の足だ。

 幾つもの悪を屠り、殺してきた。

 この世界での、正義の、うつしみ。

 その足に、そっと、口付けを落とす。

「私は今まで、あなたに教えを受けてきた……正義の教えを。そして、私はその教えを分かったと思っていた、その全てを、分かったと思っていたんだ。傲慢だったよ、ノーハンズ・オンリーアイ。私は愚昧で、幼稚で、傲慢だったんだ……それを、今回の事件でまざまざと理解させられた……そして、その私を、導いてくれたのが、ファーザー・フラナガンだったんだ。」

 正直なとここいつ何言ってんだって感じだったのだが、NHOEはそうしたような困惑の反応は見せず、そして何の反応も見せず、ただブラックシープの独白を、いつもの通り瞼を閉じた目のような静けさで聞いていただけだった。

「彼は、彼の人は、彼の正義は、まるで私に真の正義を気づかせるために遣わされた使者だったよ、ノーハンズ・オンリーアイ。私はたった一週間にも満たない間に、多くのことを教わった。例え正義を目指すものであっても、悪を学ぶことを怠ってはいけないこと。より多くの正義を満たすためには、効率の良いやり方でそれに取り掛からなければいけないこと。それに何より……決して、理想と、優しさを、忘れてはいけないということ!」

 ブラックシープは最後の方は完全に叫んでるみたいにしてそう言うと、ばっとその場で立ち上がってばばっと任意の正義っぽいポーズをとった。こう、足を開いて腰を落として、両手を構える感じで突き出すあれのバリエーションだ。それから更に何か言葉(たぶんジャスティスとかそんな感じ)を重ねようとしたが。

 NHOE。

 スピーカーが。

 冷たく、声を、出す。

『ブラックシープ。』

「なんだい、ノーハンズ・オンリーアイ!」

『エヴァンスという言葉に聞き覚えは?』

「エヴァンス? エヴァンス……どこかで聞いたような……なんだいノーハンズ・オンリーアイ、誰かの名前か何かかい?」

『いえ、なんでもありません、忘れてください。』

 不思議そうな顔をして問いかけるブラックシープに。

 NHOEはただ、合成された声で、そう答えた。

 それから、その言葉に、言葉を継ぐようにして。

 ブラックシープに向かって、こう話しかける。

『ブラックシープ。』

「気づいているよ、ノーハンズ・オンリーアイ。」

『ダウンタウン、テンプルフィールズ。』

「強盗事件発生だね。やれやれ、正義には休む間もないね。」

 そう言いながらブラックシープは。

 腕のシープ・ウォッチのスイッチを押した。

 子供の玩具のような光が輝いて。

 そして……シープ・ビークル!

 今まさに、出動の時間だ!

「行ってくるよノーハンズ・オンリーアイ、正義をなしにね!」

『ブラックシープ。』

「なんだい、ノーハンズ・オンリーアイ!」

『相棒には連絡しなくていいのですか?』

 そういえば……今日は昨日までと違い。

 ブラッドフィールドは、快晴のようだ。


 そういえば……今日は昨日までと違い。

 ブラッドフィールドは、快晴のようだ。

 しかし、ここからでは外の景色を窺うことは出来ない。ここはブラッドフィールド中央教会、銀門塔の下部、居住施設の中の一室、フラナガンのプライベートな書斎であった。この書斎にも銀門塔と同じように窓がなかったのだが、それはフラナガンがこの書斎について外から見られるのを嫌ったからであり、そしてあるいは太陽の眩しい光を嫌ったからであって、オンドリ派の愚昧な大衆への嫌悪とは全く関係がない。ここに電気は通じていない、照らしだすのは薄暗い蝋燭の光、フラナガンはその中で、ゆったりとしたソファーに足を投げ出すようにして横たわっている。ラゼノ・シガーの煙がゆらゆらと唱え損なった魔法の紛い物のようにして、静かに静かに書斎の中を満たしていく。フラナガンは、シガーを口から離して、その口を開く。

「それで、大手くん。」

 くすくすと、笑い声を笑いながら。

 寝椅子に浸すように、その体を。

 二人の侍子が、柔らかく撫でている。

 首を、肩を、腕を、そして足を。二人の侍子はただ黙って、まるで何かに魅入られているかのように陶然とした目つきで、フラナガンの体を撫でていた、それは、フラナガンの好みのマッサージだった、自分の身長の半分もない、精通前の子供たち、甘く、甘く、まるでお菓子のような子供たち。美しく、そして、無力な、子供たち。

「スノー猊下はなんて言っているんだい?」

「『今回の件に関して、フクロウ派総会議長として深い哀悼の意を表するとともに、一刻も早く貴国が復興されるようにヨグ=ソトホースへの祈りを捧げます。ド・マリニーによる福音書第五章三節……」

「あー、聖書の引用の所は飛ばして。」

「……また、トラヴィール教会選神枢機卿代表として、貴国への無制限の寄付と大々的なボランティアの派遣を決定いたしました。トラヴィール教会オンドリ派ブラッドフィールド教区長を通じて、貴国のご希望だけ金と人とを送らせて頂きます。』」

「ふふふ、金と人か……彼は本当に言葉を飾らないね。僕は彼のそういうところが、とても好きだよ大手くん。あれで聖書の引用もなかったらもっといいんだけどね……それはともかく、うちの教区で集められた寄付とボランティアってどれくらいだったっけ?」

「これが寄付とボランティアのリストです。」

「ふうん……そう、じゃあボランティアは足りてるわけだ。まあでもお金の方はいくらあっても足りないからね、とりあえず……百万タラント位頼んでおいてよ。」

「かしこまりました。それから……」

「何だい、大手くん。」

「お電話が入っています。」

 そう言うと、大手はソファーの横に置いてある、古めかしいニトクリス調のテーブルの上に乗せられた、フラナガンのASKホンを指さした。フラナガンはちょっと肩をすくめて見せると、シガーを軽くふって二人の侍子たちに合図をする。侍子たちはその合図に従って、跪いてフラナガンの手を取り、その甲に口づけを落として、そして静かに書斎から出ていった。フラナガンは、侍子たちが二人とも出ていき、この場からいなくなるのを見送ってから、シガーを持つ手を左手に持ち替えて、それから右の手を伸ばしてASKホンを取り、その通話ボタンを押した。

「ハロー、マイディア。そろそろ電話をくれる頃だと思っていたよ。」

 フラナガンは、通話口に向かってそう言うと。

 紗の奥、まるで嘲るような無垢で笑った。

「まずはありがとうって言わなきゃいけないだろうね、例の馬鹿みたいな騒ぎの間、僕のお願いを聞いて静かにしてくれていたみたいで……ああ、それと、僕の大切な、大切なビジネスパートナーを、僕が不在のうちにかわいがってくれたことに関しても、やっぱりありがとうって言っておくよ。おかげでずいぶんと……え? 僕がそんなことを言うと思うかい? あれは二年の間、君がきちんとメンテナンスして、育ててくれていたルートだろう? それを帰って来ていきなり返せなんて、薄情なことを言うはずが……ふふふ、君はとても優しい人だね。じゃあ、お言葉に甘えてしまおうかな……え? ああ、リチャード・サードのことかい? あれはフィッシャーキングが持って行ってしまったよ。君はあんなもののことが気になるんだ……僕かい? 僕は……ふふふ、彼の鬼からは色々なことを聞かせてもらったからね、今のところは、もう用がなくなってしまったかな。ただまあ、今後役にたつ時が来るかもしれないけれどね……そうだね、たぶん無理だと思うよ。シャボアキンのところに送られてしまうだろうから。え? なんだい……二度とその言葉を僕の前で口にしない方がいいと思うよ……いいんだ、いいんだよ、あの件に関しては全てが誤解だったんだからね。とにかく、リチャード・サードと話がしたいのなら、フィッシャーキングの手の中にあるうちに、彼に話を通すしかないだろうね。それと、僕たちのボウリング・クラブの話なんだけれど、僕の席はまだ空いているかな? もちろん、女半とは今度、僕がいなかった時のことも含めてじっくりとお話をしようと思っているのだけれど、まずは君に……え? そうかい……ふふふ、ありがとう、君には感謝をし通しだね。また今度、食事でもどうだい? コート・バスクに、良いティクオンが入ったみたいなんだ……もう? そうかい、君も忙しいんだね。じゃあ、とにかく、また今度。バイバイ、マイディア。」

 そう言うと、フラナガンは。

 その通話を切って。

 ASKホンをまたテーブルの上に戻した。

「大手くん。」

「はい。」

「EDが僕のものを返してくれるそうだよ。」

「それは良かったですね。」

「事務的なあれこれは後でメールをくれるそうだから、手続きの手配をしておいてね。」

「かしこまりました。」

「ところで、他は今どうなっているのかな?」

 フラナガンの言葉に、大手は。

 パッド式情報端末に指を走らせる。

 目当ての情報を見つけ出して。

 フラナガンに、話し始める。

「ホワイトローズ・ギャングに属していた構成員は九十パーセントが一昨日の事件によって死亡したようです。ただ残りの十パーセント、つまりブルーカラーではなく、ホワイトカラーに関しては今回の革命騒ぎには関与しておらず、従って現在も存命です。彼らはハッピートリガーの入院に伴って事実上組織が瓦解したために、新たに所属する集団を探している状況です。その中でもあなたがブラッドフィールドに戻ってきたこと、特にペナンズ氏へのプレゼントの件を非常に重く見て、古巣であるコーシャー・カフェへの帰還を望む声が多いようです。」

「ふうん、なるほどね。」

 そう言うと、フラナガンは。

 一息、シガーの煙を吸った。

 ゆっくりと、肺を浸すように。

 それから、もともと存在しなかった魂を。

 懐かしんでいるかのようにして、吐き出す。

「本当に、薄汚い、鼠たち。」

 煙は、地獄へと落ちていくように。

 淡く、淡く、書斎の上に、沈む。

「ふふふ……冗談だよ、大手くん。僕もちゃんと分かっている、彼らは……生きるのに必死なんだよね、僕とは違って、彼らは醜く、愚かで、救いようがないくらい魂が穢れている、惨めな生き物だから。だから、もとから、美しさとか、そういったものを期待できる連中じゃない、この世界に、存在が許されているだけで、奇跡みたいなものだ。それに、なんにせよ……彼らは僕の元に戻ってこようというのだし。ああ、ようやく気が付いたんだろうね……この世界で彼らみたいな屑達に救いを与えようとすることができる……寛大な人間は……僕だけだっていうことを。」

「それで、彼らの処分はどうなさいますか?」

「殺し合わせて。それで、生き残った半分を戻して。」

「方法は?」

「流れる血が一番多い方法。」

「かしこまりました。」

「それから、戻ってきたくないっていう人達だけれども。」

「はい。」

「それは彼らの意思だからね。僕は尊重するよ、残念なことだけれど、仕方のないことだ。出会いがあって、別れがあって、とても、自然なことだよね、けれど、少しだけ悲しいかな……ところでね大手くん、話は変わるんだけれど、ドロウイング・ルームを……模様替えしようと思っていてね。ちょっとした置物を置いたりだとか、つまりそういうことさ。二年も留守にしていたし、気持ちの入れ替えが必要だろう? だから、それに必要なものを揃えて欲しいんだ。僕の言っていることの意味は、分かるよね?」

「かしこまりました、そのように手配いたします。」

「ありがとう、大手くん。」

 飴玉を口に含んだまま、吐息を吐き出すように。

 紗の奥で、甘く、甘く、甘く、そう言った。

 それから、フラナガンは蝋燭の光の中で揺蕩うようにして体を起こすと、ソファーから立ち上がった。その体は……まるで……いや、それは例えようがないだろう。それは、確かに、フラナガンの体であった。けれど、それ以外の何者でもなかった。限りなく暗く、底知れぬほど深い、闇の中に棲む生き物。その体が、黒い色に包まれていないことがあろうか? 例えその黒い色が、主の祝福の色であったとしても……フラナガンは、少女と少女とが戯れるときに、発する鳴き声のように、くすくすと笑いながら、シガーと淫らな口付けを交わす。ラゼノの煙は少女を誘惑する雌狼のようにしてフラナガンを包み込んで……しかし、本当に誘惑したのが雌狼で、誘惑されたのが少女なのだろうか? それは、きっと、誰にも分からないことだろう。全ては森の奥、誰の目も知れぬところで行われてしまったのだから。

 フラナガンは。

 ちょっとした悪戯のように。

 大手に向かって、言う。

「全てが、全てが、上手くいっている。全てが、全てが、僕の思い通りだ。ふふふ、大手くん、これこそ、エドワード・ジョセフ・フラナガンが主から施された運命だとは思わないかい? そう思うだろう? そうなんだよ、大手くん。今までは、間違っていたんだあよ、大手くん。この二年間は……間違いだったんだ。あんな日々が、僕の運命のはずがない。僕の教会は清く美しいままだろう。僕の組織はすぐに元通りになるだろう。それが、僕の運命なんだ。僕の、僕の、運命……」

 しかし、フラナガンがそこまで言葉を紡いだ時。

 それを、無情にも引き裂くような、一筋の光。

 フラナガンの手元、光り輝くは……

 正義の万能アイテム、シープ・ウォッチ!

 フラナガンは、ゆったりと泳ぐように歩かせていた体、まるで何か間違ったスイッチを入れてしまったようにしてぴたりと止めた。拍子に、シガーを手から滑るようにして落としてしまう。光を見るまでもなく、手首にそれを伝えて来る、振動のバイブレーション(重言)! フラナガンは、どうしていいのかわからずに、誰に助けを求めて良いのかわからずに、暫くの間完全に全ての行動を停止していたが、やがて発条の切れかけたおもちゃのオートマタのように、ぎしぎしと軋み音を立てそうな挙措で腕を持ち上げて、シープ・ウォッチを顔に近付けた。

 間違いなく光っている。

 間違いなく震えている。

「ハッピー、イディオット。」

 フラナガンは、呟くようにして。

 辛うじてそれだけを言うと。

 シープ・ウォッチの通話ボタンを押した。

「えーと、フラナガンです。」

『ジャスティス! 緊急事態だよファーザー・フラナガン!』

「どうしたの、こんな昼間に。何かあったの?」

『テンプルフィールズで強盗事件が発生! 正義の助けを求める弱き者の声が響き渡る! さあ、すぐに現場に急行だよ!』

「え? その……分かりました、向かいます。」

『さすが私の相棒だね! 何も言わずとも正義の魂は奥底でつながりあっている! すぐに迎えに行くよ!』

 そう言い残して、ブラックシープは。

 一方的に、その通話を切った。

 後には、まるで取り残されたように。

 じっと立ち尽くす、フラナガンの姿。

「テンプルフィールズで強盗事件って……緊急事態でも何でもないでしょ……それって日常生活の一風景じゃん……」

 そう言いながら、深く深くフラナガンはため息をついた。いまさら何を言ってもまるで仕方がないのだが、つまりどうあがこうとブラックシープがここまで迎えに来て、そしてまたフラナガンは大衆の面前で恥をさらす羽目になるのだが、それでも独り言でも言わなければ気が済まなかったのだ。それから、ふと足元に落としてしまったシガーに気が付く。絨毯が焦げてしまう、慌てて火を踏み消して、それから大手の方に顔を向ける。

「大手くん、と言うわけだから。」

「と言うわけだからと言われましても。」

「まあ、それもそうだよね。とりあえず行ってきます。」

「行ってらっしゃい。」

 はーっと肩を落として。

 フラナガンは書斎を後にしようとする。

 その時に、そう言えば、と言うように。

 何かを思い出したように、振り返る。

「ああ、そうそう大手くん。忘れるところだった。」

「はい、何ですか。」

「ボールドヘッドに連絡を取っておいてくれるかな? 彼に……ちょっと調べて欲しいことがあってね。」

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