#41 散らかった部屋を片付ける
ベルヴィル記念暦985年2章16節。
少しその時間を戻して。
ちょうど、つい先ほど日付が変わったころ。
そして、ここはセント・ハドルストン大聖堂。
その地下にあるボールドヘッド秘密研究所。
ノヴェンバーが言葉一つ発せず、身動き一つせず、まるで氷を削り出して作り出した彫像のように見守るモニター画面の中では、その各部分が消えては現れて、現れては消えて、まるで明滅する……ヨグ=ソトホースの木のような、真理を図式化した象徴体系に見える図形が、虹色のショゴスの上に広げられていた。それは、しかし五つの王と十七の猟犬を持つのではなく、その代わりにそれが持っていたもの、持つべきだったもの、持つであろうものは……つまり、それはヨグ=ソトホースではなく……ケレイズィに属するもの、その図式は、要するに、ケレイズィの言語だった、この世界で使える人間は、ほんのわずかしかいないが、ゲニウスの理論を理解しようとする際には最も効率的とされる、数式のように合理的な回路。
今その回路は、ジャッコの手の中で。
急速に一点に集結しようとしていた。
ある、一つの、図形を、描くために。
そして、その図形こそは……
九匹の蛇と……
十七の花……
その変体系……
ふ、とモニター画面の中。
ジャッコが、目を開いた。
『ノヴ。』
「なんだ、シャイニー。」
『どうやら、君のプランBは成功したようだな。』
「つまり、フラナガンが何かをしたということか。」
『ああ、向こう側からの反応が変わった。今までとはまるで違う、まるで……こちら側に協力してくるみたいだ。進んで自分に封印をほどこそうとしているかのように……まるで、いい子で布団に入って、眠りに着こうとしているかのように、な。ゲーテ、そっちの作業は終わったか?』
〈ええ、ジャッコさん。ニューロナイズド・プログラム、百パーセント完了しました。ドリームランドにおける対象テクノ・イヴェール装置の構造改変は、フィードバック・チェックによれば問題なく実行されたようです。免疫抗体反応も確認されませんでした。〉
ゲーテのホロアバターは、優美に毛づくろいをしながら答えた。ジャッコはその答えを聞くと、世界に対する何かの儀式、ある種のエゾテリスムか何かを行うようにして、自分の目の前に描かれたその図形の中心の一点、十七の花のうちの十八番目のそれに、指さすようにして人差し指を向けた。その図形は、その行為によって、スイッチを押されたようにして静かな回転を始める。回転と共に、図形の一定の部分がそれぞれ己のあるべき場所に納まるようにしてはまり込んでいき、そして……やがて……それ、が、完成する。
『まるで嘘みたいに上手くいったな……いや、馬鹿なことを言った、これもたぶん嘘なんだろうな。』
〈そうですね、恐らく嘘でしょう。フィードバックから多量のオーディナリウム反応を検知しました、Lの介入が推測されます。〉
ゲーテのその答えに、ジャッコは鼻先で笑うように「嘘は嫌いじゃないぜ、特に俺に都合のいい嘘はな」と答えると、また目をつむって素早く思考を巡らせ始める。その思考に従い図形の横に五つのスクリーンが浮かび上がってきて、そのスクリーンの内部には今度は人間の言葉で、しかし凡人には理解できないような何らかの数値と数式が映し出された。どうやら、その数値はオーディナリウム反応値と、その他の付随する要素を表しているらしい。そして、それぞれが表しているものは、五つの封印。
準備は整った、らしい。
ジャッコは、にっと笑う。
『さて、赤い竜を封印するか。』
その、言葉とともに。
スクリーンの中の数値が。
一斉に、下がり始めた。
ゲーテが白い体を伸ばして、ジャッコの前の図形と戯れるように飛び跳ねている。ジャッコはじっと目をつむったままで、何かを瞑想しているように見える。接続されたショゴスに対して、その瞑想を、己の思考の世界を、広げているように。数式は次々と展開され、それによって数値はゼロへと近づいていく、そしてその数値の低下と連動して……ノヴェンバーのすぐ横にプロジェクションされているホログラムの中、ブラッドフィールド中央教会の銀門塔と、この世界の上部構造とを繋いで、この世界と、偽りの天国とを繋いで、この世界を、そうであるべきだったはずの、楽園に、変えようとする、その導管が、木が、どうやら次第に薄れていっているように見えた。歪みが、消えていく、この世界から、もともと存在していなかったのだ、歪みなどというものは、それは、どうしよもなく、存在しなかったもの。赤い竜は、洞窟へと帰っていく。
そして。
ついに。
五つの数値は。
ゼロに、なる。
〈ライ・ゲニウスの封印プログラムを完了しました。〉
ゲーテのホロアバターが、くわぁっとあくびをしつつ特に感情を込めない声でそう言った。ジャッコはそれを聞いても、暫くの間目を開くことがなかった。その目を、開けてしまったら、全ての破滅が一鬼に訪れてしまうかとでも言うようにして。しかし、やがて、ようやく……恐る恐る、と言った感じでその目を開く。そして、思考の内部で既に何度も何度もチェックしたはずの数値を、目の前に映し出されたスクリーン、不思議そうに眺める。まるで、それを、自分がしたことが、信じられないかのようにして。己の人生には、失敗が定められていて、今回のこの件も、成功なんてするはずないと、信じていた人間のような顔をして。
「シャイニー。」
『なんだ、ノヴ。』
「ありがとう。」
『どういたしまして。』
ノヴェンバーのその言葉で、ようやく自分を取り戻し始めた、余裕を取り戻してきたのか、ジャッコはふっとノヴェンバーのモニターの方に目を向けた。それから、それでも少しぼんやりとした口調で問いかける。
『まるで頭蓋骨の中からまるまる脳みそを抜かれたみたいな感じだな……すっきりしてるけど何かが取り返しのつかないくらい間違ってる気がする。これでたった二回目だが、永遠に忘れられそうもない感覚だ。そっちの様子はどうだ?』
「こちらにもその感覚がある。それに、何より中央教会から放射されていたアスペクトの導管が消えている。これだけでは断言することは出来ないが、どうやら成功したようだ。」
ノヴェンバーはモニターから、キンスン・サーカス周辺を映し出したホログラムへと目を移しており、そのホログラムに映し出されていたあの赤い木は、既に完全に消えていた。赤い光を失った世界は、時折燃えあがる破壊と狂騒の炎以外には、ただ夜の奥底へと暗く沈み込み、そして降り注ぐ冷たい雨に濡れているだけだった。
『断言していいぜ、俺が失敗したことがあるか?』
「何度もあるだろう?」
『はははっ、その通りだな。念のため言っておくが、そっちのオーディナリウム反応はほとんど通常値まで戻ってる。ドリームランドの方は確認できないが、ゲーテを信用するなら装置は完全に俺の設計通りに変更されて、滞りなく動き始めたはずだ。』
〈信用していただいて結構ですよ。もっとも、あなたがたがボールドヘッド様よりも頭がいいという自信があるのならば別ですが。〉
『だ、そうだ。』
そういうと、ジャッコはショゴスの中でぐーっと伸びをした。緊張も大分ほぐれてきたらしい、口調の中にも冗談じみた感じが戻ってきていた。何にせよ、とにかく、どうやら、全てが上手くいったのだ。ノヴェンバーには聞こえないように「全く、フラナガン神父さまさまだな」と呟くように思考してから、ヴァンスはまたノヴェンバーに言葉を向ける。
『さて、これで俺の仕事は終わりだな。』
「ああ、そういうことになる。」
『ようやく世界の平和なんて言うことは忘れて、ゆっくりできるってわけだ……そういえば、そっちはこれからどうするんだ? まだ全部終わったってわけじゃないんだろ?』
「あとはホワイトローズ・ギャングの残党を片づけるだけだ、面倒な仕事だが、不可能でも難しくも……」
しかし、そんな少し弛緩した空気の中。
耳を、つんざくような、大音声が響く。
いや、それは、声なのか?
もっと、何か、違うもの。
例えば、それは、警報。
何か、危機的な、状況を、伝える、サイレン。
『おいおい、何だ今の音は?』
「今の音は……まさか……」
耳を押さえながら(ただ、耳を押さえても何の意味もないのだが、全ての感覚はショゴスを通じて直接その脳へと伝えられているのだから)ジャッコの言ったセリフを、まるで無視してノヴェンバーは独り言のように呟いた。それから、言葉の先をゲーテに向ける。
「ゲーテ。」
〈はい、ノヴェンバー。〉
「ホログラムをアップル周辺に移せ。」
〈かしこましりました。〉
ホログラムの映像が。
アップルへと移る。
パンピュリア共和国の首都、ブラッドフィールドは主に四つの地区に分かれている。外側から順番に、グールタウン、ダウンタウン、アップタウン、そしてアップルだ。その中でも、この国の全ての中枢とされているのが、フォウンダー及びほとんどの純種ノスフェラトゥが普段住んでいるアップルであり、ここにはHOL、HOG、HOT、HOBのそれぞれの本部であるハウスが立てられている。さて、なぜアップルはアップルと呼ばれているのか? それは、主にその外観に由来している。アップル、と呼ばれる地区は、その全体を、深紅の色をしたドームに覆われているのだ。ここで改めて言う必要はないと思うが、純種のノスフェラトゥは太陽の光、神の卵の放つ光に触れることによって神卵光子刺激性相対的独立化現象を起こす。その体は相対的にこの世界から独立して、あらゆるものに触れることができなくなる。向こうから何らの影響も与えられない代わりに、こちらからも全く影響を与えることもできない。純種ノスフェラトゥは太陽の光の下ではほとんどあらゆる行動を行うことができなくなるのだ。そのため、ノスフェラトゥは、この深紅のドームを打建てたのだ。そのドームは、その色と、そして半球の形が、林檎に似ていたところから、それはやがて、アップルと呼ばれるようになり。そしてその名称は自然と、その地区自体を表す言葉となった。
今、映し出されたそのドームは。
しかし、ゆっくりと、開き始めていた。
片側から、大きく、口を開くようにして。
深夜の雨を飲み込もうとするようにして、
ノヴェンバーは、忌々しげにつぶやく。
「間違いない……ヤラベアムめ……」
『どうした、ノヴェンバー。何か緊急事態か?』
「どうやら、HOLは可及的速やかに問題を収めるつもりらしい。」
確かに、緊急事態だった。
しかし、どうしようもない。
手の打ちようが、ない。
ノヴェンバーは、言う。
「パンピュリアの三天使が放たれる。」
「がああああああああああああぁぁぁぁっ!」
若く飢えた獣の絶叫が、子供に買い与えられるための虫かごのように底の浅い夜の、つまり雨雲が天を覆い隠しているこの夜の内側に響いている。それは、まるで降り注ぐ雨粒と雨粒のその水滴の間を引き裂いてその先にいる敵性の生き物を、その声で死へ導く、音の印としているかのように。メアリーは髪から滴り落ちる温い雨水が目の中に入るのも気にせずに、その姿はさながら雨水による洗礼を受けた無垢な少女のよう、叫び声とともにバックスノートに向かって、手に持った巨大な剣の様な水晶でまた切りかかった。その突撃は、もう何度目になるか分からない……既に、メアリーの内部では乾きかけたダムのように「力」は使い果たされかけていて、飛び道具として水晶を使うことはできなくなっている。そのため、今手に持っているその剣だけがメアリーの使うことができる最後の水晶になっていた。
「死ねっ! 死ねっ死ねっ死ねっ死ねっ死ねぇっ、このクソ犬がああああああああああぁ!」
「狙いが甘いな、キャサリンの娘。感情に囚われ過ぎだ。」
そう言いながらバックスノートはまるで、これも子供が出鱈目に振る虫取りの網を、何でもないことのようにして避けていく蝶々みたいにメアリーの攻撃を避けていく。バックスノートの体、それを覆う銀色の獣毛も、メアリーと同じように雨に濡れていた。しかしこちらは目にかかる雨水を払う程度の余裕はあるらしい、器用そうな、人の手に似た前脚で、ときおり軽く顔を拭う。
「どうやらグッドマンからは精神の統御方法を教わってこなかったようだな。まあ、あいつは……そんなことをする必要もないくらい酷薄な奴だしな。」
「アーサーさまの悪口を言うなああああああああぁっ!」
それは別に気合を入れて叫ばなくてもいいと思うのだが、メアリーは既に合理的に思考する理性をほとんど失ってしまっているらしく、ただ騒音を吐き出しながら剣を振り回す自動人形のように叫んではバックスノートに剣を向けることしか頭の中の計画表にはないようだった。軽く冗談気な言葉を、まるで矢のようにメアリーに向かって放つ余裕があるバックスノートとは、まさに対照的だった。
さて、メアリーとバックスノートの。
その社交的なダンスの光景については。
ある種の、異様さを帯びて見えている。
それは、例えば、神殿の前で開かれる市の中心。
屋根もない、急ごしらえの闘技場のようにして。
灰色の壁、闘技場の全面を覆う灰色の壁は、教会の周りを囲うように群れ集う何百ものライカーン達の体で出来ている。その壁は、まるで動くこともなく、ただじっと息をひそめて二人の戦いを見つめているだけだ。その内側で踊っているのは、一人と一匹、あるいは二匹と呼んだ方が正しいのかもしれない。一匹は灰色を通り越して銀に輝くような色をした、痩せた体のライカーン。もう一匹はほとんど引き裂かれて用をなさなくなった布きれを、揺らめく霧のようにまとった半裸の女。ほとんど豪雨のように降り注ぐ雨が、あたりの全てを薄く水の膜で覆っていて、それは観客たちにその踊りが見られぬように、閉じられた幕にも似ているのかもしれない。それは、神々の去ったこの世界の中で、それでもなお神ではない何者かに対して捧げられている、奉納の舞のようにも見えた。
その舞が捧げられているのは。
この世界を、今まさに、覆っている。
この、赤い、楽園で……
この、赤い、楽園?
その時に、バックスノートは。
楽園の導管が、消えていることに気が付く。
「ちっ、あのガキ失敗しやがったか。」
ちょっと不快そうに舌打ちすると、バックスノートは顔をしかめてそう言った。けれど、すぐに「まあ、予想通りだけどな」と口ずさむように言いながら、メアリーの方に……そのダンスが始まってから、初めてメアリーの方に、体の全てを向けた。それは、まるで突き刺すような意識の集中のようなもので、もしもメアリーが普通の生き物であれば、間違いなくその全身の視線にひるんだだろう。しかしメアリーは普通の生き物ではなかった、特に今この時には。バックスノートの意識などまるで思慮検討に値せずに、ただ堅持するは燃え盛るような殺意、ようやく一か所に留まった、そのうっとうしくひらひらと動く体に、一突を喰らわせようと強襲を断行する。
しかし、その強襲は。
あっけもなく失敗する。
メアリーの体をあっさりと受け流して。
バックスノートは、メアリーの体を。
優しく地に伏せて、柔らかく抑えた。
水晶の剣は、地に落ちて音を立てる。
「もう少し遊んでやってもいいんだがな。依頼者が落ちたんじゃ、ただ働きになっちまう。それに子守は性に合わないんだよ。」
「どけっ! さもなければ殺すっ!」
「おいおい、どかなくても殺すだろ?」
バックスノートは、そう言って。
俯せたメアリーの体を撫でるように。
足の方へと手のひらを滑らせた。
そして、膝の関節を包み込むと。
丁寧に、爪を、突き刺した。
右も、左も、両方を。
「ぐぅ……があぁっ!」
「心配するな、治すのは簡単だ。」
それから、抑えていたメアリーの体からそっと自分の体を離して立ち上がると、周りで息を殺して様子を窺っていたライカーン達の方に向かって低く唸るような吠え声で何かを命じた。ライカーン達はその声を受けると、滴る水の音だけを残すようにして、降り注ぐ雨の中に溶け込むようにして、教会から退いていった。ライカーンの波は非常に速やかに引いていき、散って、消えていった。
バックスノートも、その後について場を後にしかけたが。
ふと、思い直したようにして振り返って、その口を開く。
「すまないが、時間がないんだよ。」
うめき声を上げるメアリーと。
辛うじて立ち上がったアーサーに。
「すぐに天使が、後片付けに来るだろうからな。」
「逃げる気があああああぁっ!」
「まあな、今度は間違いなく逃げる気だぜ。元気で過ごせよキャサリンの娘、それから夜の道には気を付けろ。」
使い物にならなくなった足、両手でえぐり取るように地を掴み、這いずるようにしてバックスノートの後を追おうとするメアリーに向かってそう言い残すと、バックスノートはぱっとその場に背を向けて、もう二度と振り返ることもなく、まるで夜の雨に映し出された幻だったかのようにして姿を消した。声にならない声を悲鳴のようにして上げ続けながら、メアリーは尚もその姿を探しだそうとしていたが、その壊れた人形のような体に手を置いて、ようやくメアリーのいる場所にまでたどり着いたアーサーが引き留めた。
「待て……レイビス、もういい……」
喉に詰まった血の塊を咳するように吐き出して、アーサーは掠れた声でそう言った。メアリーはアーサーの声を、それにアーサーの掌の温度を感じると、ぱっとその表情を変えた、ただ血の色と肉を裂く音だけを追い求めている猛獣の顔から、飼い主の姿をようやく見つけた迷い子犬の顔に。その両方の目から、氷が解けるようにして殺意が消えていき、その器の中には雨とは違う温度の液体が震えるようにして溜まっていく。やがて、メアリーはえーんえーんと大声を上げて泣き始めた。
「アーサーさまぁ、アーサーさまぁ、足が痛いですわぁ!」
「大丈夫だ……今直してやるから……そんな泣くなって……」
そう言いながら、アーサーは赤ん坊のように泣きわめくメアリーの、うつぶせに倒れ伏した体のすぐ隣に屈みこんだ。まだ傷が治りきっておらず血が流れ続けている喉の傷を、左の手で押さえて血が滴らないように、右の手でメアリーの膝のあたりを探る。ぽつんと、赤い点が一つずつ両方の膝の下側に打たれていて、どうやらこれがその下の神経にまで到達しているらしかった。アーサーは、その点に自分の人差し指の先で触れて、静かに神力を送り始めた。メアリーの体は、そのセミフォルテアが歪める世界の歪みを受けて、己自身の体の持つ力へと変換していく。つまり、そのアーサーの与えたその歪みの大きさだけ、メアリーの回復力は増大し……もともと、傷自体の大きさはそれほどでもなかった、あまりにも的確に穿たれていただけで、だからバックスノートの言った通り、その傷は強化された自然治癒能力ですぐに治り、メアリーの足は元通り動くようになった。
どうやら痛みも取れたのか、メアリーは大声で泣くのをやめて、それでもくすん、くすんとぐずりながら、体を起こした。すっかり疲れ切っているらしいその体をくるんっとアーサーの方に振り返らせて、元気とは言わないまでもそれでもぴょんっと跳ねるようにアーサーに抱き付くと、強く強く腕の力を入れて縋り付いた。
「アーサーさまぁ! メアリー、もうおうちに帰りたいですわぁ! みんな、みんな、メアリーのことをいじめるんですのよぉ! メアリーは、メアリーは、何もしてませんのにぃ! メアリーは、メアリーは、いい子にしてますのにぃ! アーサーさまぁ!」
「分かった……分かった……お前は、いい子だよ……」
そう言いながら、アーサーはへたり込むようにその場に座り込んだ、メアリーを支えるだけの力は今のところ残っていなかったのだ。胸の中にメアリーを抱えたままで、その体を支える代わりに、その髪を撫でて整えてやる。メアリーはひっくひっくとしゃくりあげながら、アーサーのスーツの裏地をひっぱって、それでぢーんっと鼻をかんだ。
「おいおい……あんまり汚すなよ……」
「アーサーさまぁ。」
「なんだよ……」
「これ、なんの音ですのぉ?」
「は……? 音……? 音って……」
その瞬間、アーサーの声を遮るようにして。
巨大な、まるで雷鳴のような音が響き渡る。
まるで、何か、巨大な災厄のようなものが。
すぐ近くに迫っていることと伝えるように。
それは、警報だ。
それは、サイレンだ。
「アーサーさまぁ! メアリーは怖いですわぁ!」
「ちょっと待て……まさかヤラベアムのやつ……」
唖然としたような声でそう言うと。
アーサーは、メアリーを優しく抱きしめたまま。
何とか力を振り絞ってその場で立ち上がった。
それから、その視線を、アップルの方へと向ける。
ブラッドフィールドの。
全ての光が、消えていた。
停電、その中で、ただ。
アップルだけが。
浮かび上がるようにして。
巨大なアップルのドームは、ここダウンタウンからでもその顔を目に入れることができた。そして、そのドームは、今、開こうとしていた。アーサーとメアリーの、その目の前で、ゆっくりと、視線を上に向けて、大きく口を開くように。アップルは、つまり、それを、解き放とうとしていた、その内側に閉じ込めていた、パンピュリア共和国における、最強の、兵器を。
アルフィンテ。
ベルケハム。
ワルトー。
桑樹級対神兵器「パンピュリアの三天使」。
パンピュリア共和国は現在、正式な人間による軍隊を所有していない。第二次神人間大戦までは存在していたのだが、第二次神人間大戦が終わり、人間達がトラヴィールやノスフェラトゥの手を借りず、自らだけに依って神々を倒すことができるほどの力を得たことにより、ノスフェラトゥは国内の人間がこれ以上力を持つのは危険だと判断した。そして、当時存在していた軍隊を解散させて、わずかにグールとの内戦に最低限必要であった対G軍のみを残した(現在ではグールとの協定が結ばれ当面内戦の心配はなくなったため、対G軍は国際協調のための海外派遣のアリバイ作りくらいにしか使われていない)。その人間による軍隊の放棄は、ノスフェラトゥの軍隊だけで十分な戦力となったからという理由も当然存在していたが、何よりも大きかったのはHOLが「パンピュリアの三天使」を所有しているという事情だ。これがあれば、この世界でパンピュリアに刃を向けようなどという愚か者は、ほとんど存在しないだろう。
この世界に六つしか存在しておらず、それが各勢力に散らばっていることによりワールド・オブ・バランスを保っているといっても過言ではない最高レベルの対神兵器、桑樹級対神兵器。その中でも、もっとも早く作られたのが「パンピュリアの三天使」であって、それは第一次神人間大戦の直後、後にパンピュリア共和国フォウンダーの一鬼、ハウス・オブ・ラヴとなるヤラベアムによって作られたとされている。そのマテリアルとなったものは……パンピュリアに住まいしていた神々の死骸だった。普通、世界の理に沿わない死を遂げた神々はリリヒアント第九階層に堕ちる、しかし自分たちの手から神々が逃れることにより、この世界にセカンド・カミングを果たしてやがて復讐に現われることを懸念したノスフェラトゥ達は、アルディアイオス王をはじめとして皆殺しにした神々をこの世界、自分の目が届く範囲に封印しておくことにした。管理に便利なようにして、全ての神々の死骸を、神聖な本質をその中に閉じ込めたままに一つに混ぜ合わせた。そのままだとあまりに力が大きすぎて危険と判断されたため、それは三つに分割された。
そして出来上がったのが。
パンピュリアの三天使だ。
それは、無数の神々の力の。
全てを、その身に宿すもの。
それでいて、あらゆる己の意思を奪われた。
ノスフェラトゥにとって、都合の良い操り人形。
そう、それは自分の思考というものをまるで持っていない、拳銃が己の引き金を引けぬように、それはただの兵器に過ぎないのだから(いや……ただの兵器、といういい方は少し語弊があるのかもしれない、通常時に置いて三天使達はアップルの中にある発電所の中に囚われて、ブラッドフィールド全体を賄うための発電を担っているのだから)。ただ一鬼のノスフェラトゥの……現在四鬼いるフォウンダーのうち、三鬼から軍事と外交に関する権限を委任された、ただ一鬼のフォウンダー、すなわちいま生き残っている唯一の「最初のノスフェラトゥ」であるヤラベアムの、その思考によって、操作されるのだ。その手と足と、そして翼を、錆びついた鎖によって永遠に地につながれている天使のように。
そう、天使だ。
その、姿は。
まるで、巨大な。
天の、使い。
アーサーはそれを見ていた。しかし、メアリーはそれを見たがらなかった、アーサーの胸に必死に顔を押し付けて、ただ小さく震えているだけだった、メアリーには、獣の本能で、それが何か……とても恐ろしいもの、とても手に負えないものであるということが分かっていたからだ。三羽の、何か巨大な、眩いほどに輝く光の影が、雨の緞帳の奥で、ゆっくりとその身を起こす、それは急ぐ必要などないのだ、それは全ての生態系の頂点にいるのだから、それは、神をも屠り喰らうことができるのだから。それは、それは、立ち上がったそれは……本当に、巨大だった、ジョーンズフォルドや、シナルビルディングでさえも、それと比べれば、畏れ慄いて見上げる哀れな赤子に過ぎないほどに。
光は夜の世界を粉々に引き裂いた。
雨すらもその光に触れて燃えていく。
踊る、踊る、踊る、光のリボン。
ブラッドフィールドに、住む、全ての生き物が。
動きを止めて、その三羽の光を、見上げている。
天使達は、三羽ともが、その姿をはっきりと描写できないような姿をしていた。もちろんそれが放つ神々の光が、直視した者の目を焼くような強い光であるということもあったが、それだけではなかった。それは……まるで、崩れかけた砂の城のように、存在自体が朧で、曖昧で、ぼやけていたのだ、ふわふわと何処か虚ろで、現実味のない、体の九十九パーセントを光でつなぎとめられた海月みたいに。かろうじて、その姿が……例えばノスフェラトゥの道化じみたパロディであるかのようなものであることは理解できはしたが。
ノスフェラトゥの?
そう、その姿は。
この夜に相応しく、静かに。
畸形の、羽を、開いた。
ブラッドフィールドの、全てを。
その内側に、包み込むようにして。。
そして、三羽の天使たちは……飛び立った。アップルから、ぎこちない羽ばたきによって、この夜の空に。もちろん、三天使は皆がヤラベアムの精神に結索されているため、その背後には長い長い尾のようにして、光のケーブルが未だに地に繋がっているのだが、それ以外の部分に関しては、まるでブラッドフィールドをその巨大な光で覆い隠すようにして、あるいはその内臓を暴き出そうとするようにして、空へと離陸した。アップルから、海の方向を除いた、三つの方向へと向かって……それぞれの……天使たちは……
アルフィンテ。
ベルケハム。
ワルトー。
しかし、名前に意味などあろうか?
どの天使も、等しく死と破壊をもたらす。
アーサーは見つめていた、天使がこちらへと羽ばたいてくる様を。念のため触れておくが、今から起こるはずのことを通じて、アーサーとメアリーには一切の危険は及ばないだろう。髪の毛一筋さえも、恐らく傷つくことはない。だから、アーサーもどこかへ避難しようともせずに……いや、もしも危険が及ぶとしても、どこかへ避難しようとはしなかっただろう、無意味だ、天使からは逃れられないのだから……とにかく、アーサーは天使達のすることを、ただ傍観者として見ていることができるのだ。ヤラベアムの精神は、このブラッドフィールドの全てを知っている、だから、天使達は殺すべき者しか殺さないし、破壊すべき物しか破壊することはない。アーサーも、メアリーも、今は殺すべき者でも破壊すべき物でもなかった。殺すべき者は……破壊すべき物は……
天使が、ぽっかりと、口を開いた。
その中から、炎の塊を、嘔吐する。
炎の、塊を、街に、落としていく。
塊は……やがて、ほどけて無数の形象になった。それは、それを吐き出した天使達とまるで相似の形をした、小さな天使達だった。その小さな天使たちは、三羽の巨大な天使たちの口から、触手の様な光のケーブルを通じて繋がっており、そしてそれらの小さな天使達は、次々に、街を、塗りつぶすように、次々に、次々に、落とされていく。アーサーは、目をつむった。目をつむっていても見える。精神を延長していく、そして、アーサーは、街で何が起こっているのかを見る。
その光によって、街を昼のように照らしながら。
空から、冷たく降る雪、天使たちが下りて来る。
街の生き物は、それをただ受け入れる。
天使たちは、白い薔薇を目印として。
あるいは、屍食鬼の祈りを目印として。
街の中、死と破壊の対象を探し出す。
アーサーは見上げていた。
あるいは、泣いていた。
天使たちが、天使たちが。
この、街に、満ちていく。
光として、光として。
そして、やがて、天使たちの一柱が、それを見つけ出した。
白い薔薇、屍食鬼の祈り、どうちらでもいい、変わらない。
無抵抗に、ただの生理的反応として涙を流すそれを。
天使の手が、触れる。
それは、燃え上がる。
悲鳴さえも上げずに。
ただ、燃えて、焼き尽くされて。
そして、灰も残さずに、消える。
それは、まるで、リリヒアント第九階層。
全てが、氷の中で、燃えていく、地獄。
音もなく、ただ光だけが。
咲き誇る雪の花のように。
いくつも、いくつも、開いていく。
「アーサーさまぁ……一体あれは何なんですのぉ……?」
メアリーの声。
夢を覚まされるように。
アーサーは目を開いた。
「ああ……大丈夫だ……心配することはねぇよ……あれは、俺達には指一本触れないさ……きっと、そうだな……お前をいじめた奴らを……懲らしめてるだけだ……だから、そんな泣くな……」
何かとても恐ろしいことが起こっているらしい世界の方に、その顔を向けないようにしてひっしとアーサーに押し付けながら、ひっくひっくとしゃくりあげているメアリーの背を優しげに撫でながら、アーサーは自分に言い聞かせるようにそう言った。アーサーの目の前では、ブラッドフィールドのアップタウンがまるで……小さな恒星が、幾つも幾つも集まってできた、星の河のようにして、光り輝いているのが見える。その星々の一つ一つが……死か、あるいは破壊であることをアーサーは分かっていた……しかし、それは、確かに美しかった。それは、間違いなく、ノスフェラトゥの芸術だった。血と炎と死にゆく魂で描く、ノスフェラトゥの芸術。
やがてその無慈悲な美しさは。
こちらにまで届くだろう。
アーサーは、メアリーに言う。
「さあ、レイビス……危険はないが、そろそろ中に戻ろうか……このまま雨に降られてたら……風邪を引いちまうし……それに……それに、なんせ天使たちは……むやみやたらと眩しい奴らだからな……」
「アーサーさまぁ……早く、早く、おうちに帰りましょうよぉ……」
「そうだな……これが終わったら……帰ろう……大丈夫だよ……すぐに終わるさ……」
アーサーは、メアリーにそう言うと、もう一度街の方へと目を向けた。そうだ、すぐに終わるだろう、天使たちの、後片付けは。すぐに白い薔薇は摘み取られ、すぐに屍食鬼の祈りは聞こえなくなる。この夜が明ける頃には、跡形もなく、消え失せて。そして、革命なんていうものは、まるでなかったことになるだろう、後には、ただ、瓦礫の山だけが残されて、それをまた組み立てるのに、時間がかかるかもしれないが、それでも、少なくとも、炎は、天使たちは、全ての、穢れを、清めていくだろう。
「思いのほか……すぐにな……」
アーサーは呟くようにそう言うと。
メアリーを抱いたまま、街に背を向けて。
大聖堂の方へと、戻って行った。




