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#39 結局些細な冗談だった

 赤。

 赤。

 二つの。

 赤い、目。

「トラヴィール、トラヴィール。」

 傾げて。

 笑って。

 静かに、歌う。

「できそこないのトラヴィール。」

「お前、一体……」

 ハッピートリガーの目の先に。

 いたのは、一人の、男だった。

 そこにいなかったはずの存在。

 まるで、引きはがされた、夢。

「僕が、誰かって? ハッピー、ハッピー、ハッピートリガー……忘れてしまったのかい? とても、とても、悲しいよ、でも仕方ないのかもしれないね……皆が僕のことを、忘れてしまう。まるで目覚めた後に、誰もが夢のことを忘れてしまうようにして。とにかく、僕の名前はエヴァンス。もちろん、僕は君を愛しているよ。なぜなら、僕は君の見ている都合のいい幻に過ぎないからね。」

 男は、優しく。

 愛撫する様な、声。

 口を、動かす。

 その男は……非常に月並みな言葉になってしまうが、そう、この世界の生き物ではないかのように見えた。その男は、生き物でさえないようにも見えた。なにか、もっと別のもの、例えば暖かい寝床の中で愛する人に抱かれている時の感触、自分が実はこの世界の中心ではなかったと知った時の静かな絶望、どこを開けることができるのかも忘れてしまった古い鍵、夜に流す冷たい涙、理由もなく襲いくる性的快感を伴ったヴァーティゴ、何も知らずただ生きていれば誰かが幸せにしてくれたあの頃、それか、あるいは、いつのまにか失ってしまった、子供時代の、記憶。

「でも、そんなことは、どうでもいいこと。違うかい?」

 それは、影だ。

 自分の後ろ。

 常に囁く影。

 なぜかその姿は焦点を結ばず、かといってぼやけているわけでもない、その形のことは知っている、しかしはっきりと捉えて理解することができない。その姿を、見ていると、思っている、ことだけが、確かなことで……黒い色をした、長い長いコートを着ているように見えた。体の全体を、包み込んで覆い隠してしまうような、コートだ。それから、同じように真っ黒な色をした靴を履いている。身に着けている物、その姿を隠しているものはそれだけで、そこから露出している両手と、顔は……まるで、遠い昔に死んでしまった夢の死骸のように美しく白かった。本当に、真っ白だった、白という概念、それ自体が、形を持っているかのように。うっとりと、淡く、錆びついた金属のような、爪の先、涙を凍らせて、それが、溶けていく、死んでいく、過程のような、唇。そして、その男が、その頭に戴いているのは……まるで、主が彼に向かって怒りを発して去られたかのようにして、あるいは母の胎から肉が半ば滅びて失せて出る死人のような、癩白色の、冠……いや、それは冠ではなかった、それは髪だった。存在しているのかも、危ういような、世界から喪失されたような、白い色の髪は、頭の後ろ、結わえられることもせず、背に向かって流れ落ちていた。ただ一つ、一箇所だけ、はっきりと見える箇所があった、その男の体の内に、本当に一箇所だけ。それは、その男の、二つの、目だ。その二つの目は、赤い色をしていて……

 その赤は、こう表現することができます。

 もしも、この世界が、全部、終わって。

 全てが、全てが、無知の幸に包まれた後。

 その後に、この世界に残る、残りもの。

「今話すべきことは、君が……何を求めているかの話だよ。」

 そういうと、エヴァンスは唇の先、火をつけた。

 いつものように、シガーに、銀のライターで。

 ふうっと、けだるげに煙を吐き出してから。

 すうっと、目を細めて、それから、笑う。

「お前が何者かは知らないが、俺はお前と話し合うつもりはない。」

「何を言っているんだい、ハッピートリガー。可笑しなことを言うね? 君は、話し合うつもりがあるはずさ。なぜなら僕がそれを望んでいるのだから。」

「俺、は、忙しいんだ! これからこの国を俺のものにする、お前なんかにかまってる暇はねぇんだよ!」

「この国を、君のものに……そうだね、そこから話をしようか。」

 そう言いながら、エヴァンスは、ゆっくりと王台の真下から、歩いて来た。ハッピートリガーの方へと……ふと、その時にハッピートリガーは気がついた。周囲の物事が、まるで時を止めてしまったかのように、全ての動きを止めていることに。そして、自分と、このエヴァンスと名乗る男、それから心臓を動かすようにして、静かに脈動を続けるLの赤い光以外の……全ての生きている者が、このホールの中から失われていることに。ダレット列聖者達も、「蛇たちを起こす歌の歌い手」たちも、いつの間にかこのホールの中から、姿を消していた。

「これは一体……てめぇ、何しやがった!」

「僕は何もしていないよ、ハッピートリガー。なぜなら、ここは、この場所は、君の心の中の世界なんだからね。うーん、でもこの言い方は少し正確じゃないかな……ハッピートリガー、心というものは、とても複雑なものでね。君も思いもよらないくらい、難しいものなんだ。それはそもそも、中に入ることができるようなものではない、ある種の存在していないものの集合体のようなものだからね。だから、もう少し正確に言えば、君に属していない君が、君である君に見せている、紛いごとの世界、かな。」

 そう言うと、エヴァンスは。

 優しく微笑むようにして。

 ハッピートリガーに笑った。

 その声は、どこかで聞いたことのある声だ。

 どこかで、ずっと昔、ひどく幼かった頃に。

「訳の分からねぇことを言ってんじゃねぇ!」

「ハッピートリガー、そう怒らないで……君の整った顔が台無しじゃないか。僕の言いたかったことは、君は何も心配する必要はないっていうことだよ、君は、まるで、孵卵器の中にいるようにして安全だ。それだけを理解してくれれば、僕はそれでいい。さて、話をしようか、ハッピートリガー。」

 エヴァンスは、いつの間にか。

 ハッピートリガーの、すぐそばに立っていた。

 そして、甘い、口付けを交わすようにして。

 ハッピートリガーに、シガーの煙を吹きかける。

「さて、君は何を望んでいるのかな?」

「俺はお前を殺したいと思ってるよ。」

「ふふっ、怖いことを言うね。でも、そういうことじゃなくて、もっと……全体的なことだよ。君の……ちょっと月並みな言い方になってしまうけど、笑わないでね、君が、生きている、目的のようなことの話さ。」

「そんなこと……お前の知ったことかよ!」

 ハッピートリガーは、まとわりつく訳の分からないもの、黒くべたべたとした得体のしれないものを、振り払うかのようにして、そう怒鳴った。エヴァンスは、少し大げさなくらいに驚いた様子で、両手を広げて降参のようなポーズをして見せる。それから、また口を開く。

「でもね、実は僕はそれを知っているんだ。」

「何を知ってるっつーんだよ!」

「君のことを。ずっと前から、ね。」

 そう言うと、エヴァンスは。

 悪戯っぽく笑みを浮かべて見せた。

 密やかに、人差し指を差し出して。

 自分の、唇に、当てて見せる。

 まるで、秘め事を、囁くように。

「君も、覚えているだろう、随分と昔のことだけれど、君は、僕に、願いごとをしたじゃないか。ずっと、ずっと、僕は、それを、叶えてあげていたというのに。」

「一体てめぇは何を言ってんだよ!」

「さあ、思い出して……」

 その瞬間に、エヴァンスのその言葉に促されたようにして、ハッピートリガーの目の前で全ての世界が転変した。そこはダレット・セルのホールではなく……どこか、の、教会の、ようだった。ハッピートリガーは、焼き尽くしの祭壇のすぐ前に立っていた、ハッピートリガーは気が付いていたが、どうやら、これは、今ではなかった、まだ幼く、ほんの子供だった頃、これは、過去の、記憶の、世界。なぜなら目の前で、祭壇は高く立ちはだかるようにして視界を覆い隠しているし……そして、何よりも、背中の、二枚の、羽の感触。

 焼き尽くしの祭壇の後ろには誰かがいた。

 黒い色で身を包み、白い冠をその頭に冠し。

 そして、二つの、赤い色の目をした、誰かが。

 ハッピートリガーは、その誰かに、何かを叫んでいた。

 何かを、叫んでいた、しかし、まるで空虚な言葉で。

 録音された言葉のように、虚しく響く。

 それは、純種のノスフェラトゥの言葉だった。

 緩やかに、羽が、嘲笑うように、揺れている。

 お前は、純種のノスフェラトゥに、過ぎないと。

 アーサーさんとは。

 アーサーさんが求めている物とは。

 違う、生き物なんだと。

 もしかしたら、アーサーさんは。

 違う生き物である自分のことを見捨てるかもしれない。

 だから、ハッピートリガーは。

 アーサーさんが、ずっと、自分を保護してくれるように。

 アーサーさんと、同じ、同じ、生き物に、なりたくて。

「え? あ……あ……うわあああああああぁっ!」

「思い出したかい?」

 エヴァンスはそう言うと、悲鳴を上げてその場に頽れたハッピートリガーのことを優しく、優しく、まるで子宮が胎児を包み込むようにして、抱き締めてあげた。背に回した手で、何かを誘うようにして愛撫する。ハッピートリガーの目の前の世界は、またダレット・セルの光景に戻っていた。

「ほらほら、そんなに怯えないで……何も怖いことはないよ。」

「お前は……お前は一体何者なんだよ……!」

「僕が何者かなんて、どうでもいいだろう? 君は、僕が、君を、愛していることだけ分かっていれば、それでいいんだよ。」

 エヴァンスは。

 耳元で。

 そっと、囁く。

「さあ、思い出したかな? 君が一体、何を求めていたのか。」

「あれは……そんな……そんなことはどうでもいいんだよ! あれは昔の話だ、俺がまだ、俺になる前の話だ! 今の俺が、今の俺が求めているのは……」

「あれかな?」

 そう言うと、エヴァンスは。

 左手でハッピートリガーの髪を掴んで。

 無理やり、顔を引き上げた。

 その、視線を、向ける。

 グレイの、死体の、方向へ。

「あれが君の求めていたことかな?」

「やめろ……やめろ!」

 じたばたと、逃れようとするハッピートリガーの。

 その抵抗を、押さえつけるかのようにして。

 首を、エヴァンスの右手は、締め付ける。

 耳元に滴らせるように、恍惚とした声で、言う。

「ほら、ちゃんと見て、ハッピートリガー。あれが、君の、望んでいたことなのかい? 君を、命がけで、愛してくれた、彼女を、あんな、無残な、死体に、することが。」

「仕方がなかった、あれは仕方がなかったんだよ! 俺の、俺は、邪魔される、胚胎別理に、俺の、革命を!」

 聞き分けのない子供だ、とでもいうように。

 エヴァンスは、ふう、と一つため息をついた。

 それから、ハッピートリガーから、手を離す。

 それから、揺らめく陽炎のように、立ち上がる。

「革命、革命、革命。」

 ゆらゆらと、二本の指を差し出して。

 殺されかけたラゼノクラゲのように。

 ハッピートリガーの頭の上で揺らしてみせる。

 その向こう側でエヴァンスは口を開いている。

 その口は、甘い蜜を、すするようにして。

「これを覚えているかい? ハッピートリガー。」

「今度は何なんだよ……!」

 ハッピートリガーは、顔を上げた。

 エヴァンスの、手の先に目を向ける。

 揺らしていた、二本の指の間で。

 いつの間にか、まるで虚空から取り出したかのように。

 エヴァンスは、それを、見せていた。

 それは、コミックブックだった。

 一冊の、色褪せて、擦り切れた。

 古い、古い、コミックブック。

 ハッピートリガーは、それを、手に取る。

 『ノーベル・コミック・プレゼンツ』。

「これだけじゃないよ、ほら、もっと、たくさんある。」

 エヴァンスは、次々と。

 まるで、手品師のようにして。

 たくさんの、コミックブックを。

 それを、ハッピートリガーの頭の上に。

 馬鹿にしたように、落としていく。

 ばらばらと、それは、ハッピートリガーの。

 頭に降り注ぐ、冷たい、雨のように。

「優しい優しいアーサーさんから、君へのプレゼントさ。いつも、読んでくれただろう? 君に、たくさんの、コミックブックを。そして、君は……もちろん、アーサーさんが君に、そうすることを望んでいると、君は知っていたからだけど……君は、せがんだはずだ、何度も何度も、このコミックブックのように、ヒーローとヴィランになって遊ぶことを。いつもアーサーおじさんはヒーロー役で、君はヴィランの役だった。それはそうだよね、君にとって、アーサーさんはずっとヒーローだったんだから。ふふふ……君は、君は、知っていた、ヒーローごっこをしている時だけは、本当に、アーサーさんが、自分のことを見てくれていると。あの頃の君にとって、アーサーさんは世界の全てだった、だから、とても君はこう考えた、とても理にかなった考え方だと思うよ、つまり、君が、ヴィランを演じている時だけは、世界は、君の愛する人は、君のことを、見ていてくれていると。」

 ハッピートリガーは。

 何も答えなかった。

 ただ、泣いていた。

 コミックブックの。

 その、原色の山に埋もれて。

 もう、何かを言う気力もなかった。

 何かを、反論する気力もなかった。

 この男は、全てを知っているらしかった。

 自分が、知らない、ことさえも、知っている。

 まるで、悪夢のようにして、笑いながら。

 エヴァンスは。

 満足そうに。

 些喚いて、揺らめく。

「つまり、君の言う、今の君が求めていることは……ねえ、君は、本当は、革命なんてどうでもよかったんだ。コミックブックの悪役が、それをしていたから、真似しただけで。本当はね、ハッピートリガー。君の言う、今の君が求めていることは、ただ、君の愛する人に、ずっと見ていて欲しいという、ただそれだけのことなんだよ。分かったかい、ハッピートリガー?」

「違う……そんな……そんな訳がない……そんな訳がないんだ……俺は……この国を……アップルの連中から……俺を追放した連中から……奪って……復讐を……俺は……俺は……一体……何をしていたんだよ……」

 そんなハッピートリガーの姿を見て、エヴァンスは、爪先を支点にして、くるんと一度、その場で回転をして見せた。ピルエットを踊るようにして、そして、両手を広げて、天の方を、仰ぐようにしながら。それは、祝福、祝福、祝福。まるで、この世界の全てが、優しく微笑みながら、ハッピートリガーに、祝福を与えている、その証明のようにして。

 そして、エヴァンスは。

 金色のファンファーレのように。

 高らかと、宣告する。

「君の求めていることを、君の望みを、僕は知っている!」

 ハッピートリガーの手の中で。

 原色のコミックブックだったもの。

 その色を変えていた。

 灰色と、赤と、それから鈍く光る金色。

 そして、形も変えていた。

 人形のようなもの、人間と、狼を、継ぎ接いだ。

「それは、その犬を生き返らせることだ。違うかい?」

 死せるグレイ。

 ハッピートリガーの腕の中で。

 虚ろに、眠っているように。

「考えてみれば、ねえハッピートリガー。考えてみれば、その犬だけがいつも君のそばにいてくれた、違うかい? パンピュリアの林檎の中から、ノスフェラトゥのためのゆりかごの中から追放された君のそばに、いてくれた。アーサーさんに捨てられた君のそばに、いてくれた。それはなぜか? なぜならその犬は、君のためにしつけられた犬だったから……つまり、グロスターの子供、ハウス・オブ・トゥルースの子供のために、しつけられたって意味だけれど。それは、でも、だから、君を愛していたその犬に対して、君は本当に愛を返すことができなかった、君にとって、その犬が見ているものは、自分ではないように思えたから、それは、その犬が見ているのは、愛しているのは、リチャード・グロスター・サードだって、思ってしまっていたから。」

 ハッピートリガーは、自分の腕の中で。

「でも、それが、なんだっていうんだい?」

 静かに、硬く、冷たい、その体を見下ろしている。

「その犬は、君を、命がけで、愛してくれた。」

 もう、動くことのない、その体を。

「それで、十分だろう?」

 ただ、見下ろしている。

「だから、君の願いは、その犬を生き返らせること。そして、その犬が、望んでいることを、することだ。コミックブックのヴィランの真似ごとなんかは止めて、子供っぽく革命なんて言葉を振り回すんじゃなくて、なぜなら、アーサーさんは君を捨ててしまったからなんだけど、それにそうだ、君があんまりわがままを言うものだから、その犬も君を捨てて……死んでしまったね。だから、今度は、今度は、捨てられないように、その犬に、捨てられないように。上手くやればいい、例えば、今度、の、君が、使う言葉は……解放、かな? まあ、それは今はどうでもいいことなんだけれどね。」

 指先を、背中のほうで組み合わせて。

 エヴァンスは、二つの月を踏むように歩く。

 ハッピートリガーのそばに、衛星のように。

 潮を、満ちては引かせる、衛星のように、背後に立って。

「愛しい、愛しい、ハッピートリガー。」

 組んでいた、指を、外して。

 人差し指と中指の間、手のひらの方。

 挟んでいた、シガー。

 軽く、唇で、口づけする。

 シガーの、煙は、ハッピートリガーの。

 全ての内側に、忍び込むようにして。

 それから、誘うような、声が聞こえる。

「僕は、その願いの、叶え方を知っているよ。」

「どういうことだ。」

「君の、願いは、叶えられるということだね。」

「どうやって。」

 エヴァンスを振り返りもせずに、グレイの体に俯いたままでそう言ったハッピートリガーに対して、少しだけ寂しそうな演技をしているようにして肩をすくめると。エヴァンスは、今度はハッピートリガーの目の前に回って来る。オン・ステージ、エンターテイナーのようにして、両手を、広げて、それから、指示して見せる。自分の背後にあるものを、王台の、五つの指によって、掲げられた、赤い、赤い、球体を。

「あの娘さ。」

 力なく、ハッピートリガーは頭を上げた。

 そして、それを見る。

 赤い球体、破られていない、母の胎のように。

 静かに、そこに、浮かんでいる、それを。

「ハッピートリガー、君に話をしよう。」

 エヴァンスは。

 首を傾げて。

 そう言った。

「あの娘の、話を。」

 その目の色。

 その、目の赤色を。

 球体の赤に。

 沈めるようにして。

 すうっと細めながら。

「神々さえもこの世界に生まれる前に、この世界にはケレイズィという生き物がいた。爬虫類の知的種族で、今まで生まれた種族の中ではたぶん最も賢い種族だったんだろうね。だから彼の蛇たちは……知ることができた、この世界の他にも、二つの世界が存在しているということを。その二つの世界のうちの、一つ目の名前は、フェト・アザレマカシア。君も知っているよね? 主なるヨグ=ソトホースのいまします世界さ。フェト・アザレマカシアは……この世界とは違う、全くという程ではないけれど、少なくともその半分は違っている世界だった。その世界には、概念というものがないんだ。時も、空間も、力も、精神も、現実も、可能性も、夢も、その他の全て、あらゆる概念が、その世界には、ない、世界。フェト・アザレマカシアはある種のアルケタイプ、純粋に存在のみが存在している世界だった。そしてケレイズィ、彼の蛇たちはもう一つのことも知った。フェト・アザレマカシアが……この世界、僕たちのいる世界に、浸食しているということも。それがなぜか、なぜフェト・アザレマカシアが僕たちの世界に浸食してくるのかということは、彼の蛇たちにも分からなかった、なぜなら結局のところ、そこには理由なんて存在しなかったからだ、フェト・アザレマカシアには概念が存在しない、もちろん理由も存在しない、ただそうあるから、そうあるだけで。さて、もしもフェト・アザレマカシアがこちら側に至り、そして全てを海のように拭い去ってしまったら、どうなるだろうか? 一体、彼の蛇たちに何が起きる? 彼の蛇たちは……全ての知識を失うことになるだろう、今までに手に入れた、全ての知識を。そして、後に残るのは、無知の幸。僕達にとってそれはまさに主のもたらす幸福なのだけれど、けれどケレイズィにとってそれは違うことを意味していた。傲慢なケレイズィは、それは激痛を伴うような恐怖、愛を失うような災厄、つまり、絶対の不幸、だと、思い込んでいた。だから、彼の蛇たちはフェト・アザレマカシアを滅ぼすことにしたんだ。自分達が損害を被る前にね。

 さあこのはぐるまといかずちとを使い、そしてその血と肉とを紡ぎ合わせ、わたしたちはわたしたちよりも知恵あるものを作ろう。そしてその知恵あるものによって、わたしたちはやがて全知のおもてとうらを知ることになるだろう。全知全能なるヨグ=ソトホースの予定に従って……ふふふ、ごめんね、笑っちゃった。自分で言っていて、ちょっと馬鹿みたいだなって思ってしまって。とにかく、全知全能なるヨグ=ソトホースの予定に従ってケレイズィは自分達の知の全てをその頭蓋骨と内臓の内側に注ぎ込み、一匹の……科学者、って言えばいいのかな? 科学者を作り出した。それが、主の愛以外の全てを知っていたルカトゥスだったんだよ。ルカトゥスは、彼の蛇たちに命じられた、フェト・アザレマカシアを、破滅させることのできる、兵器を作るように、と。ルカトゥスは、その言葉を咀嚼し、飲み込んで、自分の内側に刻み込み、そしてそれをすることを始めた。ルカトゥスはサンダルキア、ケレイズィが住んでいた大陸の中心にあったアレク、あるいは涙の山と呼ばれている山に、ドームのような洞窟をうがち、そこに自分の研究所を築いた、そしてフェト・アザレマカシアを破滅させる方法を探し始めた。

 もちろん、どこにだって希望はある。

 諦めさえしなければね。

 あるいは、僕たちが無力でなければ。

 とにかく、ルカトゥスは、その方法を見つけた。

 さっき僕は……この世界の他に、二つの世界があると言ったようね、一つはフェト・アザレマカシアで……そして、もう一つがベルカレンレイン。本当は、それとジュノスがあるんだけれど、とにかくそれが、その方法だった。ベルカレンレインは、フェト・アザレマカシアとはまるで反対の存在だ。それは存在していない存在、その世界には、概念しかない。というか、その世界からこちらの世界に落ちてきた削りくず、あるいはアイスクリンでえぐり取ったような切片、そういったもの、ベルカレンレインのアスペクトが、こちらの世界で概念と呼ばれている匙片体になっているというだけで。ベルカレンレインは、概念だ。そして、フェト・アザレマカシアは、存在。この世界は、二つの世界の浸食によってバランスを取っている。問題なのは、そのバランスが崩れてしまっていることだ。だから、そのバランスを元に戻せばいい。

 そして、ルカトゥスは、ゲニウスを知っていた。

 それは、ベルカレンレイン、概念そのものの。

 この世界への、浸蝕、まるで、それは。

 この世界の、原罪を、背負った、羊。

 哀れな、哀れな、辺獄の、羊。

 ルカトゥスは、主に向ける剣にすることにした。

 ルカトゥスは、似せ物の概念を作り出して。

 それはとても、簡単なことだったんだよ。

 つまり、嘘をついたんだ。

 嘘は、精神が生み出すものだよね。

 ルカトゥスは、精神のゲニウスを父として。

 その娘、嘘のゲニウスを作り出した。

 嘘の、概念を、この世界に、落とした。

 そして、その嘘の、名前は。

 そのものの名を主はバシトルーと呼ばれた。

 主の口から話されなかった嘘だからである

 それは、概念だった、嘘の概念それ自体。だから、バシトルーには……全てのことが可能だった、なぜならこの世界の全てを全くの空言、真っ赤な嘘にしてしまえるんだからね。バシトルーの口にする言葉は、全てが嘘。この世界が、僕達につく、嘘。だから、この世界は……バシトルーの言葉の通りに、変わってしまえることができた。そして、そして、ケレイズィの裏切り、主に対するケレイズィの裏切りは……ああ、ふふふ……完全なる失敗に終わった、完全に、破綻した。それはそうだよね、所詮は全て、嘘ごとに過ぎなかったのだから。サンダルキアも、アレクも、レピュトスも、ゼパウスも、それに、ルカトゥスだって。ぜんぶ、ぜんぶ、ほんとうの、ことじゃ、なかったんだから。全ては紙に書かれた言葉が、火によって焼かれて、その灰を海に捨ててしまったみたいにして、全てが嘘だったんだ。だから、それが、この世界に存在したことさえなかった、全てがおとぎ話だったんだ。そして、たった一人だけ、この世界に、お姫さまが残された、あるいはそれ以外の全てを焼き尽くした、一匹の竜が。バシトルーが、暗く、広い、海の中に、残された。バシトルーは、ティンダロスの王によってその体を五つに分かたれて、それぞれがこの世界中の、あらゆる空間においては一点として、そして永遠の時間の内側、封印を施された。一つはヌミノーゼ・ディメンションのミステリウム・トレメンダムに。一つはナコタスのエルトダウン・マシーン内部に。一つはドリームランドの未知なるカダスに。一つはリリヒアント第一階層のヤー・ブル・オン神殿に。そして、最後の一つは、月光国の赤見神社に。体を奪われたバシトルーの、お姫様の、竜の、魂は、全ての記憶を失って、一人の少女に転生した。何度も何度も、この世界で、一人の少女として、転生を繰り返して……そして、永遠にも近い、あるいは一瞬に似ている、時が流れて過ぎた。

 そしてその日に。

 あらかじめ、主によって。

 定められていたその日に。

 彼が生まれた。

 彼の名前は。

 栗栖黒太郎。

 ヨグ=ソトホースは、七人のティンダロスの王と、十七匹のティンダロスの猟犬によって守られている。七人のティンダロスの王の名は、すなわちミラクル、ファナティック、アイドル、スローター、インサイター、クエスト、そしてフォルス・プロフェット。十七匹のティンダロスの猟犬の名は、ヴェナ、アドッサ、ケステオ、ソーデ、エトカサリサア、パムク、ゼデバント、マヘナセラ、コデス、ラデス、ポンクラッラ、ワツコトル、ミミセペス、ゼゴード、ダランフェ、アンティガガ、そして最後の一匹の名は、僕たちの時の終わりが来るまでの間、フォルス・プロフェットによって隠され、もう一本の木であるベルカレンレインへと通じている。分かるかい? フォルス・プロフェット、ティンダロスの王にして、ただ一人ベルカレンレインへと顔を向けている裏切者。九匹の大罪の蛇の最後の一匹、異教徒にして……そして、五人の選神枢機卿の一人、預言者。彼は、主を裏切った。なぜなら、主によって、そう定められていたから。あるいは……もっと単純に言えば、彼は騙されたんだ。それが誰だったのか、彼を騙したのが誰だったのか、僕は知らない、僕が知っているべきことではないからだけど、けれど僕は知っている。彼を騙したのは……黒い髪を、青いヘッドバンドでとめた、無原罪の……でも、それはどうでもいいことだよね。とにかく、彼は、騙された、えーと、一体、どうやって?

 彼は……本当に、深く、主を愛していた。誰よりも、本当に、主を愛していた。恐らく彼以前に預言者を名乗った誰よりも、あるいは、ひょっとして、他の選神枢機卿たちの誰よりも遥かに強く、主を愛していた。けれど、それなのに、それなのに……ああ、主よ、あなたは何処におられるのですか……なんて、哀れで、悲しくて、そして惨めなことなんだろう、そうは思わないかい? 主は、彼に、一切の印を表されなかった、主はその姿を、彼の目の前にあらわさなかった。普通、あらゆるトラヴィール教徒はその洗礼の時に主の御姿を見るという、どの宗派であるにもかかわらず、信徒は至福の直観を得る、けれど、ただ一人、彼だけは、主の御姿を見ることはなかった。なぜ? どうして? これほどまでに主を求めているのに。これほどまでに、主を、愛しているのに。まあ、何ていうか、ひどくありきたりな悲劇なんだけどね、種を明かしてしまえば、彼は外世界存在のうちの一人だったのさ、だからフェト・アザレマカシアは、彼に接触できなかったっていう話。他人からすれば、これほどまでに下らなくて、どうでもいい話なのだけれど、けれど、彼にとっては下らなくもどうでもよくもない話だった。

 彼は、その身を、苦痛で焼かれた。

 主の印を得ることができない。

 見聖の、永遠の、欠如。

 まるで、灰色のもののように。

 あるいは、単純に、辺獄のように。

 しかし、ある日、唐突に……彼のその前に、救いが現れた。彼の元に、届けられた、一通の手紙の形をとって。それは……本当に、何の変哲もない手紙だった。彼は手紙を手に取った。彼は手紙の封を開いた。彼は手紙を開いた。彼は手紙を読んだ……そして、彼は……そこで主は偽りを記す霊を預言者のてのひらの上に落とし……そして、彼は、そこに、自分の、てのひらの、内側に、偽りを記す霊を見た。ああ、つまり、そこには、こう書かれていたんだ、主は、彼の主ではない、無知の幸は、彼のために到来する王国ではない、ああ、ああ、プロファーナーレ、あるいはヴァーティゴ! そして、その手紙には、誘惑する者の手によって、真実の主の名の代わりに、偽りの主の名が書かれていた、バシトルー、と。彼は、それを、信じた。

 バシトルーは、全てが間違った、この世界の。

 この世界の、全てを、正すことが、できる。

 楽園が、失われた、この世界に。

 再び、楽園を、取り戻すことが、できる。

 彼のための楽園を。

 彼のための、救いを。

 まあ、もちろんそれは、偽りの救いなんだけどね。

 月光国正教会はもともとが裏切者のケレイズィと、それからバシトルーの欠片との見張りの塔として作られた教会だった、なぜなら月光国自体が失われたサンダルキア、暗く広い海の底に沈んだサンダルキアの中で、唯一沈むことのなく、まるで点々と浮かぶ島嶼のような形で残っていた、アレクの山の上に作られた国だったからね。だから彼は、まず月光国教会を自分のものにすることにした、それは簡単だった、彼は先代の預言者、月光国正教会天使の息子だったし、その地位は代々の世襲制だったのだから。彼はある事件に乗じて自分の父を殺して、そして自分が預言者の、そして月光国正教会天使の地位についた。そして次に、その立場を利用して裏切者のケレイズィとバシトルーの復活に関して同盟関係を結んだ。これも容易なことだった、月光国正教会天使の地位さえあれば、当時のルカトゥスの書の所有機関である謎野研究所、というかその背後で糸を引いていたカヅラギノヒトコトヌシを仲介にして、彼の蛇たちに連絡をつけることはいつでもできたのだからね。さて、最後の準備として彼は、器を探し出さなければならなかった。バシトルーの器、つまり、転生し続けるバシトルーの、暗く広い海で眠るお姫さまの魂を。これだけは、とても難しいことだった、なぜならその魂からは、お姫さまの記憶からは、周到にその赤い竜の記憶を消されていて、転生の糸を辿るための、よすがとなる痕がなかったからだ……だから、そのために、ケレイズィは、彼のために、一人のエージェントを作り出した、それが魔法少女アトラク=ナクア……けれど、これも今はあまり関係ない話だね。今知ることが必要なことはとにかく、彼は、ついには、その器を、一人の少女を、探し出したっていうことだ。そして、全ての準備が整った。

 そして。

 彼は。

 主の前に。

 罪を犯すことにした。

 君も、そのことを覚えているよね。もちろん、君は覚えていないだろうけれど。彼はこの世界中に閉じ込められた五つのバシトルーの欠片の封印を解いて、そして器の中にそれを注いだ。その器は、お姫さまは、自分が赤い竜であったところの記憶を思い出して、そして、その器は、お姫さまは、赤い竜になり、予定された通り、この世界を、滅ぼした。何のために? もちろん、彼のための、楽園の到来の為だ。新しいサンダルキア、到来すべき(あるいは到来すべきではない)サンダルキアのためだ。この世界は、ある一部を残して全てが嘘となり消えて失せて……そして、セカンド・アドベント。その一部によって再来した。いつものことだよ、世界は滅びるし、ヒーローもヴィランも死ぬ。けれど、物語が次の章に進めば、いつだって元通りになってしまうものだ、違うかい? 要するに、彼は、失敗したんだ。それだけの話さ。彼は失敗して……罪びと、今、彼は、永遠の時、罪を贖っている、自分が、愚かにも、欺かれていた、だけと、知って……そして、お姫さまは、赤い竜は、その一人の少女は、また封印された、今度は、地に落ちた不落の天国、レピュトスに。

 つまり。

 ここに。

 この、場所に。」

 そう言うと、エヴァンスは。

 ハッピートリガーに向かって。

 赤い球体を、指示した。

「そう、あの娘の名前は、バシトルー。」

 自分の口元にそのシガーを口付けて。

 吐き出した、煙と共に、恍惚と。

 その、言葉を、流し込む。

 この、世界、へ、と。

「だから、あの娘は、君の願いを叶えることができるんだ。」

 ハッピートリガーは、今更ながらに気が付いた、ホール中に置かれた電気仕掛けのグレイブストーン、忘れ去られて名も知れぬ、それでも昔は生きていたはずの生き物たちの、最後の残しもの、無数の、無数の、モニター画面の上。一切が、あまねいて、その上に、エヴァンスの、横顔が、映し出されていたことに。その全てのエヴァンスは、笑っていた。まるで、それは、それらの顔は、何らかの鏡のような顔をしていた、それを触れようとする、指先さえも触れることのできない、あらゆるもの、術遍く、その内側に入ることはおろか、それに触れることもできないような、鏡のように静かまった、湖の面にも似て。液体の銀でできた湖、この自然に、ありうべきではないもの、明らかに、他のすべてとは、異質なもの、顔、顔、顔、ハッピートリガーは、そんなものに、囲まれていて。

「さ、あ、ハッピートリガー。もう一度だけ聞くよ。」

 その全ての顔が。

 ふっと、向いた。

 ハッピートリガーを。

 全ての、全ての、顔が。

 銀の笑みを浮かべたまま。

「君は、何を望んでいるのかな?」

「俺の、望んでいることは……」

 ハッピートリガーは、まるで誰かに壊れされたガラス細工の内側の、ぽっかりと開いた空洞のように虚ろなその顔で、ぎりっと奥の歯を、噛み潰すようにして軋ませて噛んだ。それから、グレイを抱いたままで立ち上がって、そのグレイの体を、魂が、スナイシャクが、失われたその体を、捧げられる生贄に似て(もしそうだとするならば、それは一体何のための生贄なのだろうか?)、王台の方に、あるいは赤い球体の方に。

「グレイが、生き返ることだ。」

 つまり、バシトルーの方に。

 そう言って、差し上げた。

 まるで、まるで、すがるように。

 それから、ずっと手の中に握りしめていた預言者のロザリオを、バシトルーに向かってまるで打ち付けるようにして、それを掲げて見せた。チェーンが、まるで砂時計の内側で、砂の落ちる音のように些細な音で、さらさらと音を立てて。そして、ハッピートリガーは、まるで最後の絶唱のようにして、声を振り絞るようにして、こう叫ぶ。

「L、バシトルー、お前の名前なんか何でもいい! 俺の、俺の願いを聞いてくれ! グレイを、グレイを……」

 チェーンの先。

 ティンダロス十字。

 その、穢れの赤。

 赤ではない赤。

 歪むように。

 この世界を、歪むように。

 光を放った。

 光の、ようなもの。

 光とは、似ても似つかないが。

 それでも、光としか呼べないもの。

「生き返らせてくれ!」

 その光、の、ようなものは、広がった、ハッピートリガーを、中心とするように、その、海の、赤い、海の、中に。その赤を、浸食する、ようにして、まるで、海水の中に、油を垂らしたように、その、光、の、ような、もの、は、広がって、バシトルーの赤、嘘の赤の、中に、広がっていき、そしてあるポイント、ある一点を超えると、それは爆発する閃光のように、一気に自分自身を膨らませて、はじけさせて……そして、このホール中を包み込むように……それは、それは、アンチ・ゲニウス……あらゆる概念を、対するもの……そして……

 そして、ぱっと、それは消えた。

 蛍光灯のスイッチを切ったように。

 いとも、あっけなく、消えた。

 後には、何も残されなかった。

「なっ……!?」

 ハッピートリガーは、あっけにとられてそう言った。

 結局、そこには、何も、起こらなかったからだ。

 何も、何一つ、つまり、グレイは、死体のままで。

「なんだよ、どうしたんだよ! 俺の願いを聞け、グレイを生き返らせろ! この、このロザリオがあればお前は俺の言うことを聞くんだろ! 聞くはずなんだろ! ほら、俺の言うことを聞けよ! 俺に、俺に、グレイを……」

 ぱち、ぱち、ぱち、と。

 ハッピートリガーの懇願を遮って。

 その懇願を嘲るような拍手の音。

「ふふふ、よくできました。」

 そちらの方に、振り返る。

 エヴァンスが、優しく笑いながら。

 出来の悪い生徒を褒める、教師のように。

 優しく笑いながら、手を叩いていた。

「ちゃんと正直になって、お願いを言えたね。偉い、偉い。」

「どういうことだ。」

 ハッピートリガーは。

 威嚇するように、吐き捨てる。

 きょとんとした顔をして。

 エヴァンスは聞き返す。

「どういうことって?」

「なぜグレイは生き返らない。」

「なぜって……君の言っていることの意味が分からないな。どうしてその犬が生き返らなければいけないんだい?」

「お前は言っただろう、あれは、バシトルーは、Lは、俺の願いを叶えることができると! 俺はグレイを生き返らせろと願った! なぜその願いがかなわないんだ!」

「おもちゃを買ってもらえなかった子供みたいに大きな声で駄々をこねるのは、やめて欲しいんだけれどね。確かに僕は、彼女が君の願いを叶えることができると言ったよ。でもそれは、可能か不可能かの話だ。それを実際に、するかどうかの話じゃない。」

 ふーっとため息をついて。

 やれやれとでも言うように首を左右に振りながら。

 あきれ果てたように、エヴァンスはそう答えた。

 ハッピートリガーは、激昂して叫ぶ。

「ふざけるな!」

「ふざけてはいないよ。」

 王台の方を。

 バシトルーの方を。

 Lの方に向き直り。

 そして、拳を突き上げて。

 また、ハッピートリガーは、叫ぶ。

「俺の、俺の願いを叶えろ! これが、このロザリオが……」

「このロザリオって、これのことかな?」

 さらさらと、砂時計の砂が落ちる音。

 ハッピートリガーの手元ではなく、その背後から。

 ハッピートリガーが持っていたはずのロザリオは。

 いつの間にか、そこから失われていて。

「こんなものが役に立つと思ったのかい?」

 ハッピートリガーは、息を飲み込むように。

 エヴァンスの手の先で、それは。

 ゆらゆらと、死んだように、揺れて。

「こんなものって言ったら、マーク・ヒルトンが怒るかもしれないけどね。でも、やっぱりこんなものはこんなものだよ。あの娘がまだ自分のことを思い出していなくて、ゲニウス・ユーザーだったころには確かに役に立ったかもしれないね。けれど、今の彼女は既にゲニウスそれ自体だ。人の手で作られたアンチ・ゲニウスなんかで、縛ることはできない。えーと、まあマーク・ヒルトンは確かに天才ではあるけれどね。」

 そう言って、まるで共犯者に送るように。

 悪戯っぽくウィンクすると、エヴァンスは。

 そのロザリオを、ポケットにしまった。

 一方で、ハッピートリガーは明らかに焦燥していた。どうしていいのか分からず、何が起こっているのかも分からずに、ただ焦って、いらいらとしていた。今自分の周りで起こっていることの中で、グレイの死体の重さだけが真実であるように思えた、それは、もしも本当であれば、考えられうる限りの中で、最悪であるようにも思えた。グレイの死体を抱えていない方の手で、がりがりと髪の毛を、掻き毟るように頭を掻き乱す。それから、また、口を開く。

「それなら、どうすればいいんだ。」

「どうすればいいって?」

「どうすれば、グレイは生き返る?」

「その犬は生き返らないよ。だって、もう死んでるじゃないか。」

 蔑むようにして、エヴァンスは指差す。

 ハッピートリガーの、腕の中の死体を。

 ハッピートリガーは、何も分からなくなり。

 そして、ただ、呟くようにこう言う。

「でも、お前は、俺の願いが叶うって……」

「僕が? そんなこと言ってないよ。」

 エヴァンスは、ハッピートリガーが何を言っているのか全く分からないとでもいうようにして体の前で両手を広げて、それから肩を竦めて見せた。首を傾げて、ハッピートリガーのことを軽くからかうような口調で、その言葉を続ける。

「そんなこと、一言も言っていない。君が何を願っているのかって、ちょっと聞いてみただけさ、軽い世間話か何かのつもりでね。だって、よく考えてみてよ、ハッピートリガー。君はアップルからも、優しい優しいアーサーさんからも、それに笑ってしまうことに、その犬からさえも、つまり君の属していた何かから、悉く捨てられてきたような、そんな生き物なんだよ? なんで、そんな、醜くて、汚らわしくて、不愉快な、そんな、生き物の、願いが、叶えられるんだい? そんなこと、有り得るわけないだろう? ねえ、教えてよハッピートリガー。誰からも愛されない生き物の願いを、一体、誰が叶えるっていうんだい?」

「でも、お前は……」

 でも、お前は。

 ハッピートリガーは。

 子供が何かに縋るような声をして。

 エヴァンスに、縋り付くように。

「言っただろう、お前は、なあ、俺を、愛しているって……ずっと昔、俺に人間の思考をくれたあの時も、それに今だって……!」

「はははっ! 僕が君を愛しているって? そんなこと言うわけないじゃないか! ねえ、君は、僕が、君を、愛するとでも思っているのかい? 君みたいな、君みたいな生き物を? 君は、本当に、どうしようもないほど、惨めで、哀れだね。」

 そう言いながら、エヴァンスは笑った。

 まるで、草原を走る春風が。

 くすくすと、鈴を鳴らす音のように。

 健康的で、屈託なく、色鮮やかな声で。

 エヴァンスは、ハッピートリガーを笑った。

「君は誰からも愛されない。」

「嘘……嘘だ!」

 エヴァンスは、また、シガーと口付けを交わし。

 その愛の余韻を、煙にして吐き出しながら。

 ゆっくりと、ゆっくりと、歩いてくる。

「君の願いは叶わない。」

「嘘だ……!」

 エヴァンスは、グレイの死体を抱えて。

 涙を流していた。

 ハッピートリガーは。

 呆然とした、顔をして。

 エヴァンスを、見上げたままで。

 まるで、不思議なものを見上げるようにして。

 エヴァンスを、見上げたままで。

 ただ、ただ、夜を濡らす雨のように。

 透明で、純粋な、涙を流していた。

「君が生きていたところのこの生は、結局のところ何の意味もなかったんだよ、ハッピートリガー。そして、リチャード・グロスター・サード。君が無意味だったから、アップルは君を捨てたのだし、君が無意味だったから、アーサーは君を捨てた。君はそれでも、何か……自分に意味があると思いたかった、だからこんなことをしてみたんだろう? 自分という存在、この世界に、君を捨てたこの世界に、振り向いてほしかった、ただそれだけのために。でも、それも、やっぱり、その全部が、無意味だった、無意味な君が、何か意味のあることを、なせるはずがあるとでも思っていたのかい? 君の言う革命はなされない、君はバシトルーを手に入れることができなかったんだから。君は失敗した、やっぱりこれも、君が、無意味な存在だったから、失敗したんだ、無意味、無意味、無意味、全部が、全部が、君の全てが、笑ってしまうほどに、無意味。挙句の果てに君は……唯一、君に無償の愛を向けてくれたはずの、その犬を……まあ、僕ならばそんな犬からの愛なんていらないけれど……その犬を、失ってしまった、君の、無意味な、革命なんていうもののせいで。その上に、その犬を、生き返らせる方法さえ持っていない。君は、愚かで、下らなく、どうしようもないくらいに弱いのかい? リチャード・グロスター・サード。君の傷を舐めてくれる、ペットの犬も守れないほどに。ああ、ところで君さ、どうでもいいことなんだけれど、ハッピートリガーって名乗った割には全然ハッピーじゃないよね。いや、まあどうでもいいことなんだけれど。」

 エヴァンスは、まるで。

 その涙で濡れた、夜の底を。

 黒い靴で攫うように。

 ハッピートリガーの。

 その、目の前に立った。

「えーと、ちょっと話がずれちゃったな。つまりね、僕が言いたいことは、君には生きている意味がないっていうことなんだ。君には生きている意味がない。だから、君は、死ぬべきだよね。違うかい?」

 エヴァンスは、そう言うと、シガーを落とした。

 シガーは投身の自殺者のように、緩やかな直線を描いて。

 灰を散らしながら、やがて地の底に落下した。

 エヴァンスの、黒い靴の踵が、それを、踏んで。

 にじって、破れた紙の隙間から、内臓のように。

 葉が、さらさらと、漏れ出していく。

 ハッピートリガーは、己の内側を失ったようにして。

 その光景を、ただ、ぽっかりと見つめていた。

「俺は、俺は、ただ……」

「知っているよ、愛して欲しかっただけなんだろう?」

 ハッピートリガーは。

 繰り言のように、呟いて。

 グレイの死体を、撫でていた。

 暖かいものに、触れていたいかのように。

 死んでいて、冷たいものに、触れている。

 涙が、死体を濡らす。

 血液が、手を濡らす。

 しかし、それに、何の意味があるというのだろうか?

 そこに、愛の、臨在が、ないというのならば。

「でも、愛されなかった。良くある話さ。」

 エヴァンスは、ハッピートリガーの方を見もしないで、他人事のようにそう言った。その視線は手のひらの中に落とされていて、それからエヴァンスは、その手のひらの中のイグノナイト・オートマチック、グリップへとマガジンを差し込んだ。かちっと音がして、きちんとそれが、あるべき場所に納まったことを示す。それからどうでもいいことのようにして、スライドを引いて、かしゃん、と言う音ともに初めの弾丸が、チェンバーにフィーディングされる。

「さて、これでよし、と。」

 満足そうに、エヴァンスは笑うと。

 銃口を、ハッピートリガーの頭に。

 静かに、静かに、押し当てた。

「言い残すことはあるかい?」

「グレイ、俺が求めていたのは……」

「あー、やっぱいいや。興味ないし。」

 エヴァンスは。

 精液のように。

 白い指で。

 引き金を引いた。

 弾丸は。

 空っぽになった。

 ハッピートリガーの。

 精神を貫いた。


「えーと。」

 エヴァンスの目の前には、人の姿のフラグメント。それは、首であり、それは、手であり、それは腕であり、それは、足であり、それは、脚であり、それは、腰であり、それは、肩であり、それは、腹であり、それは、はらわたであり、それは、肺であり、脾であり、それは、腎であり、それは、肝であり、そして、それは、心臓と、骨の欠けら。引き裂かれたその体は、体にぴったりとした黒いタイツをつけていて、そして手と足の先には金の蹄をつけている。つまり、それは、ブラックシープの体。ライフェルドの榴弾によって、ばらばらに砕けたその体の破片を、一つ一つ集めて、エヴァンスはもとの形、人の形として、その場所に置いたのだった。

 そして、あとは、首から上。

 金の仮面をつけた、顔だけ。

「これで全部かな?」

 そう言った、エヴァンスは。

 その両手でその顔を支え持っていた。

 エヴァンスはそのブラックシープの顔を、自分の目の前に捧げていた。うっとりと、恍惚と、あるいはまるで……エクスタシーを感じているような表情をして。その顔を手放すのを、まるで躊躇っているかのようにして暫くの間その顔をしげしげと見つめていたが、やがてエヴァンスは片方の掌の上にその首をのせて、それからもう片方の掌、ブラックシープの人格でその顔を覆い隠している、金の仮面を静かに、静かにはぎとった。からんからんと音を立てて、その仮面を足元に放り棄てる。

 その下に、隠されていたのは。

 P・B・ジョーンズ、の顔。

 美しい、子供。

 エヴァンスは、まるで二つの月の光が交わる場所でただじっと佇んで世界を見下ろしている蜥蜴の、その銀色の鱗のように些喚いて笑うと、ジョーンズのその顔から仮面を剥がした方の手、ジョーンズの金の髪に指を掻き入れた。遊び疲れて乱れた髪を、整えるようにして、ゆっくり、ゆっくりとその髪を撫でて梳かす。ジョーンズが美しい子供であるのならば……ジョーンズの眼球は、ジョーンズのこのガラス玉は、その子供が秘密の場所に隠している、その子供だけのための宝物なのだろうか? エヴァンスは、ジョーンズの髪を整えおわると、その隠し場所にそっと手を伸ばして、その青い目を開かせる。その青い目は、終末の写真の天使が切り取って保管している、運命のアルバムに乗せられた写真のように、それを見る者に対して無言で要求していた……絶対の、正義を。エヴァンスはそれを見て、少しだけ笑った。まるで、何か、微笑ましいものを見たようにして。それから、エヴァンスはおもむろにジョーンズの頬へと手を人差し指と中指と、それから親指を滑らせて……ジョーンズの口の中に、その三本の指を挿し入れた。ぐちゅぐちゅと、口の中で指を巡らせて、ジョーンズの口の中に、溜まっていた、ジョーンズの血液、蜂の巣から蜂蜜酒を掻き出そうとでもするようにして、掻き出す、歯の間から、唇の間から、その血液は、まだ乾いていなかったらしいその唾液と共に、だらだらと垂れ落ちる。エヴァンスは、人差し指で、中指で、それから親指の先で、ジョーンズの口の中から、やがて喉の奥へとそれを差し入れて……そして、やがて、何か、探していたらしいものを見つけたらしかった。名残惜し気にその指をその口から引き抜いて、その先にあったものは……指輪だった。預言者の十字と同じように、歪んで反転した赤色をした、つまり、アンチ・ゲニウスでできた、指輪。ついさっきまでジョーンズが、その薬指につけていたものだった。

 エヴァンスは指の先でそれを見つめてから。

 そっと、自分の、舌の上に、それを、乗せた。

 上顎と、舌の腹で、挟み込んで。

 それを、暫くの間、舐めていた、けれど。

 それから、それから、エヴァンスは。

 全くの、戯れごとの、ようにして。

 全くの、遊びごとの、ようにして。

 奥の歯、がりん、とそれを噛み潰した。

 舐めるのに飽きた氷砂糖。

 がりがりと、それを、かみ砕く。

 それは、やはり、まるで氷砂糖。

 エヴァンスの口の中で溶けていき。

 やがて、消えて、無くなってしまう。

 エヴァンスは、その役割を終えて。

 空になった口で、こう些喚く。

「ジョーンズ、ジョーンズ、ジョーンジー。」

 フラグメントの横に膝をついて。

 優しく、優しく、決して傷つけないように。

 その頭を、あるべき場所に置いた。

 エヴァンスはそれから立ち上がり、ふっと上を見上げた、エヴァンスと、それからジョーンズのフラグメントのすぐ横に立っている、王台を、見上げたのだ。王台の上で……相変わらず、ゆりかごが揺れていた。あやすように、眠りを妨げないように、たぶんその内側に胎している存在の、心臓の鼓動と同じ速さで。ふっと、世界に匂いが満ちた。まるで洋梨を食べた後の少女の唾液のような。あるいは、眼球の代わりにあめだまを眼窩に詰め込んだ少女の涙のような。どろっとしていて、それからねっとりと甘い、そんな匂いだ。世界の肺の中にその匂いが入って来て、それから世界の肺の中に黴が生えてしまったようにして、ゼリーのような、子守唄は、揺らめいて。

「僕の、愛しい、エイプリル。」

 エヴァンスは。

 睦言のように囁く。

「目を覚まして、僕のために。」

 少女の精液によって受精した卵が。

 少女の子宮の中で孵るような音がした。

 記憶、やがてゆりかごは震えた。

 何かの、種、の、ようにして。

 その舌の上に撒かれた種のようにして。

 ずるり、と、それは、落ちてきた。

 それは、少女だった、生まれた時から双子の姉に、性的な虐待を受け続けた少女だった。あるいは、竜だった、二度、この世界を滅ぼしかけた、赤い竜だった。体中をすっぽりと、包み込んでしまうような長い長い髪の毛、以外には、何一つ身に着けておらず、その髪の毛は、まるで……何か、この世界から永遠に失われてしまった、全ての美しいもの、全ての正しかったもの、全ての幸せだったもの、全ての愛していたもの、が、浮かんでは、消えて、消えては、浮かんで、いるように、見えた。少女は、竜は、つまり……バシトルーは。まるでこの世界の存在ではないかのようにして、静かに、音を立てずに、その爪先で、この世界に着地した。

 バシトルーは、この世界に目を向けることなく。

 ただ、エヴァンスだけに目を向けた。

 赤い目と、赤い目が合う。

 そして、バシトルーは口を動かす。

 お、と、う、さ、ま。

「おはよう、オーガスト。」

 エヴァンスは、少女の体。

 愛おし気に、抱きしめる。

「ごめんね、せっかく、ぐっすりと、眠っていたのに。」

 それから、優しく背に手を回して、優しくその体を導いて、ジョーンズのフラグメントの方へと向けた、バシトルーはエヴァンスのなされるがままで、その赤い色はこの世界をそうあるべき方向へと変えていく、他愛もない嘘。エヴァンスは、ジョーンズのフラグメントを指して、それから噛んで含めるようにして、バシトルーに向かって言い聞かせる。

「本当はね、エイプリル。別に彼が死んでも構わないんだ。彼が死ねば、僕が死ぬことになっているみたいなんだけれど、でもそれくらいならどうにでもなるし、どうにでもごまかせるから。それに、そもそも彼が死ぬなんてことなんてあり得ないしね。彼は内在外理だ、こんな姿になっても……いや、ちょっとだけ話がずれてしまったね。とにかく、僕が言いたいのは、こういうことだ。彼は、僕にとって、少し役に立つみたいだということ。僕の告解に、僕が、許されるために、ね。それに、それだけじゃなくて、彼は……ふふふ、なかなかに美しいから。そばに置いておくには、悪くないだろう? だから、だからね、エイプリル、一つだけ、僕のお願いを聞いてほしいんだ……彼が、こうなってしまったことを、無かったことにして欲しい。この真実を、無くす、偽りを、君の、舌で、歌って、欲しい。」

 バシトルーは、エヴァンスの体。

 甘えて、まとわりついて、抱き付いて。

 幼子のように、顔をこすりつけている。

 エヴァンスは、その体を愛撫しながら。

 その耳元に、垂らすようにして。

「そして、それが終わったら、もう一度ゆりかごに戻って。また、眠りにつくんだ。まだ、君が起きる時間じゃ、ないからね。」

 バシトルーは、少女のように笑いながら。

 何度も、何度も、頷いた。

 分かったというように。

 全部分かったというように。

 それから、ぱっとエヴァンスから離れた。

 それから、フラグメントの方を向いた。

 その口が、また動く。

 その口が、また、赤く些喚く。

 その口が、また、嘘をつく。

「ありがとう、エイプリル、僕のもの。」

 そして。

 世界が。

 また。

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