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#3 死んだばかりの犠牲の子羊

 そこら中をナイトライトの光、メスの刃のように色とりどりに切り裂かれ引きちぎられて、虫の息で呼吸しているブラッドフィールドのその肺の粗雑な鼓動のようにして。都市の中を縦横に浸食している道筋を、一台の車が疾駆していた。まるで夜のための迷彩のように、したたる黒色のその車は、間違いようもなく夜警公社の覆面社用車、中に乗っているのは二人だ。

 まずは、ハンドルを握っている方。片方の手、左手では、確かにハンドルを握っていたけれど、もう片方の手、右手ではドーナツを持っていた。一つ角を曲がるたびに、曲がりくねった道程、一口ずつそのドーナツを口の中に噛みとっていく。無精ひげの生えたその口が、ドーナツを音もなく咀嚼して、それはいつものようにフロックコートを雑に羽織った、アーサー・レッドハウスだった。

 もう一人は、アーサーとは対照的にブラッドフィールド、この夜の街に似合わない服装をしている、花柄のワンピース、その膝の上にはちょこん、とドーナツの箱を乗せていて。柔らかくふっくらと焼き上げたもちもちとした感触のドーナツを、両手で抱え込むようにして食べている、まるでアーサーの娘のような彼女はメアリー・ウィルソンだった。

「もうそろそろつくぜ、パピー。」

「むむー。」

 口の中にドーナツを含んだままで、まん丸の目をこくこくと頷かせて、メアリーはアーサーのその言葉に答えた。車はいつの間にか、暗く狭い路地の奥、ブラッドフィールドでは毛細血管のように珍しくもない、ビルとビルの隙間に入り込んでいく。アーサーとメアリーは、夜警公社へつながっている電話のラインの内でも、特に通常化班への直通のラインへとかかってきた、匿名の市民からの通報を受けて、ここまでやってきたのだった。その匿名の市民は、こう言っていた。グールタウンのコーヴェルストリート、その通りの奥の奥に、一人の死体を見つけた。ただ、それだけ。それだけを告げると、すぐにその電話は切られた。

 当然、逆探知はしている。

 ストリートの、公衆電話。

 それ以外の情報は、得られずに。

「ま、でもあの番号を知ってるってことは、それなりの奴からの通報だったってことだからな。無視することはできないってわけさ。それに実際のところ、OUTってのはそこまでまあ忙しい部署ってわけでもないし。」

「そうですわね、アーサーさま。」

 メアリーはそう答えると、いつものように、オーダーメイドの人形のような笑顔で笑った。さて、ナイトライトの光は次第に背後へと遠のいていき、車は次第に、ダウンタウンからグールタウンへと入って来ていた。ダウンタウンが腐りかけの死体だとすれば、グールタウンはたぶん完全に腐敗の工程を終了した、白骨化したそれだということになりそうだ、ダウンタウンにはあった、あの視覚的にも聴覚的にも猥雑な騒がしさは鳴りを潜めて、ただ沈んで、溜まって、そして静かに濁っていく、その場所は、そんな場所だった。

 そんな街の中、通報の電話の通りに、コーヴェルストリートまで車を走らせる。ヘッドライトが照らし出す範囲内には、アーサーもパピーも、普段の街と違ったようなものは何も見つけることはできなかった。何も入っていない空っぽのブリキのバケツ、慌てて逃げていく猫たち、そして崩れかけた煉瓦の塀と、割れたガラス窓と、人間の死体の代わりとして置かれているかのような傘の骨。例えばそういったものの他には。

「何もありませんわ。」

「そうだな。一応降りてみるか。」

 アーサーはそう言うと、柔らかくブレーキを落として、その場に車を止めた。ハンドレバーをパーキングに置いて、鍵を回してエンジンを切る。それから口の中に残りのドーナツを詰め込むと、ドアを開けて、大儀そうな挙動で運転席から外に出た。それに習うようにしてメアリーもドーナツを詰め込もうとしたのだけれど、残りの量があまりに多いことに気が付いて、その残りを箱の中に戻した。そしてその箱を残して、助手席からぴょこんと外に飛び出る。

「いつ来てもコーヴェルストリートは暗すぎますこと!」

「まあ、ここら辺まで来ると、もうグールタウンに足を突っ込んでるからな。あんまり明るくしても奴さんたち、目がくらんじまうんだろ。」

 いいながら、アーサーはベルトに引っ掛けてあった携帯式の懐中電灯を取り出して、電気をつけた。メアリーも、同じように懐中電灯に明かりを入れる。あたりの濁った闇を、静かで透明な光が貫き通す。

「アーサーさま!」

「あ、なんか見つけたか?」

「猫ですわ、猫がいますわ! とても人に慣れていますわ!」

「なんだよ、猫かよ。」

 アーサーは、拍子抜けしたようにそう言う。振り返って電灯で照らしたメアリーは、明らかに嫌そうな顔をした猫のおなかのあたりを、ぺしぺしと叩いていた。どう見ても人に慣れているというよりも、栄養失調で動きが鈍っているだけのようだったけれど、それは全くもってどうでもいいことで、アーサーはふーっとため息をついた。

 その時に。

 音が聞こえた。

 軋むような。

 ふっと、アーサーはその方を向いてみた。光が切り取った闇の中に、少しだけ開いたドアが映し出された、そのドアが風で揺れて、その音を出していたのだった。煉瓦にはめ込まれていたそのドアは、安っぽい何かしらの金属製でそこら中が風雪に侵されたかのように凹んでいて、そしてその錆びかけた金属の上にはマークが描かれているのが見えた。それは、白い色をしたスプレーで……白い薔薇が咲いていた。五枚の花弁を持った、逆五角形の形をした、白い薔薇の花が。

 アーサーは、ふぅん、と言った。

 それから、またメアリーの方を向く。

「パピー?」

「はい、アーサーさま。」

「どうやらこのビルの中みてぇだな。」

「ビルの中?」

 不思議そうな声で、そう問いかけたパピーのことを手の先でこいこいと招いて、それからアーサーは二人でビルの中に入っていく。それは、どうやらどこかのレストランの厨房の裏に通じるドアのようだった。錆色のシンクや、薄汚く白い漆喰の壁、黒く塗られた上に埃の積もったガスコンロ、そう言った過去の世界の色が並んでいて、それぞれが薄れたような光の中に映し出されていく。巨大な中華包丁のようなもの、巨大な深底鍋、割れた陶器の皿、割れた陶器の皿、割れた陶器の皿。

 そして。

 見つけた。

「ア、アーサーさま!」

「何だ?」

 先ほどの猫を見つけた時とは全く違う、まるでハリネズミの尖った針先のような声だった。メアリーの声の先に、アーサーも懐中電灯を向ける。そして、それを見つける。そこは、それまでの実用的な押さえつけられた色とは違って、まるで暴力的な、生身の色が広がっていた、一面の、緑に、染まっていた。したしたと、凝固しかけたその緑色の液体は、端に広がるにつれて固まっていき、色を濃くしていく。した、した、と音がする。

 そして。

 その緑の中心に。

 グールが、死んでいた。

 白く透き通ったような肌の裏側が、薄く緑色に染まっている。肌の上には、そこここにまだらのようにして苔が生えていて、そしてまるで、それは……犬と人間のあいのこのような顔をしていた。長く平たい鼻、上に向かってとがった耳、色素が薄く、ほとんど白目だけにしか見えない目に、そしてその下には引き裂かれたような口。口の中には全てが糸切り歯のように鋭い歯が並んでいて、そして横に二本、ナイフのように研ぎ澄まされた牙が突き出ている。

 それはまた、体の上に一枚の布を巻き付けていた。布に描かれているのは、グールの長い長い歴史、あるいは神話の一場面を極限まで抽象化した象形文字のようなものであって、その表している場面によってそのグールの階級を知ることができるらしいのだけれど、それはとても複雑なグールの歴史と、階級制を理解できる人間に限られている。

 そして、その布の上。

 もしくは、グールの体の上。

 何かが貫通したような、穴が開いていた。

 その穴から、緑は派生していき。

 要するに、それはグールの血液だった。

「天に召されていらっしゃいますわ……」

「グールの楽園は地の底だけどな。」

 いいながら、アーサーがそのグールの死体に近寄っていった。ゴムの手袋をその手にはめながら、死体のすぐそばに跪いて、まるで蹄のような重く分厚い爪のついた手を取った。何か、ねっとりとした液体でその手は濡れているようだった……血液ではない、何かもっと、透明で、それでいてべとべととした液体。よく見ると、その液体はそのグールの手だけではなく、体全体を覆っているように見えた。まるで、その液体でできた土砂降りの雨か何かに降られたようにして。この液体はいったい何なのだろうか、けれど、それはアーサーには、どうせ分からないことだった。なので、その液体の正体に関しては鑑識に任せることにして、とりあえず今のところは、己の手のひらでその温度を測る、それから、体の内を流れる血液の流動の音を聞く。

「まあ、死んでることに間違いはねぇみてぇだぜ。」

「誰がこんな……」

「うーん、目星はついてんだけどな。」

「本当ですか、アーサーさま!」

「ただ、それだと幾分かまずいことになんだよ。」

「まずいこと?」

「ああ、少しな。」

 しゃがんだ肩越しに、アーサーはメアリーに言った。

 メアリーは、きょとんとした顔でアーサーの姿を見ている。

「外のドアのとこ、見たか?」

「ドアのとこ?」

「ドアの上、落書きしてあっただろ。」

「そういえば……」

「白い薔薇の絵だった。」

「え?」

 メアリーが、はっとした表情をした。

 アーサーの、その言葉に。

「それは、まさか……」

 アーサーはパピーに向かって振り向きながらそう言うと。

 いつものように、へらっと気の抜けた表情で笑った。

「しかも、死んでるのはダレット列聖者だ。」

「ダレット列聖者!?」

 それから、よこいしょっとその場で立ち上がって。

 パピーのいるところにまで戻った。

 ゴム手袋を外しながら、非常に呑気な感じに。

 ぽんぽん、と二回、パピーの肩を叩く。

「ま、そんな心配すんなって。」

「でも、ダレット列聖者って! それに、もしかしたらグロスター家が関わって来るかもしれないですわ! そうしたら、グールとノスフェラトゥの……」

「大丈夫だって、あの放蕩息子のしりぬぐいするほどグロスターもとち狂っちゃいねぇよ。それでも、とりあえずはマスコミさん方にお話が漏れないようにここを封鎖して、それから色々とアメージ・ンググレースに報告しねぇとな。色々と考えるのはそれからだぜ、パピー。」

「そうですわね……」

 アーサーは、ふとポケットの中で何かが振動しているのを感じた、ポケットの中からそれを取り出す、公社からの支給品の、ASKホンだった。どうやら、メールが入って、それをバイブレーションで伝えてきたらしかった。タッチパネルを撫でて、そのメールの文面を呼び出す。そして、それを読む。

 首を傾げる。

 苦々しげに笑う。

「パピー?」

「何ですか、アーサーさま?」

「ちょっと、先に車に戻っててくれねぇか?」

「先に? でもわたくしの役目は……」

「大丈夫だって、俺もすぐに行くよ。」

「それなら……分かりましたわ。」

「車に戻ったら、すぐに鍵をかけるんだぜ? ここら辺は、治安が悪いからな。もしものことがあったら……」

「大丈夫ですわ! 子ども扱いしないでくださいまし!」

「誤解すんな、お前の心配をしてんじゃねぇよ。」

 アーサーは、ぷんすことでも擬音の付きそうな怒り方をしたメアリーに苦笑しながらそう言うと、ほらほら、行った行った、みたいな感じで手の先でメアリーのことを追い払った。メアリーは戸口のところでしばらくぐずぐずとアーサーのことをチラ見していたけれど、やがて不安げな声で「早く戻ってきて下さいましね」という言葉だけを残して車の方に戻っていった。アーサーは、ちゃんとメアリーが車へと戻って、中に入って鍵をかけたことを確認してから「さてと」とつぶやいた。

 そして、そのレストランの厨房の奥へ。

 ゆっくりと、歩いていく。


 アーサーはドアを開けた。

 あの、グールが死んでいたビルの屋上へとつながるドアを。ほうっと、ブラッドフィールドのグールタウンではない方向から来た夜の風が、吹いてぼさぼさとした白髪を揺らした。生ごみと、腐った死体と、それから血液でできた煮凝りを、砥石で研ぎ澄ましたような、冷たい感触の、鈍った匂いの、する風だ。ふーっと大きくため息をついて、それから言う。

「あのな、ノヴェンバー。」

 屋上は広くなく、むしろひどく狭かった。猫の額よりは少しは

ましだろうというくらい。足の下の触れるのは、恐らく漆喰で塗り固められた切石のタイルか何かだろう。不揃いの凸凹が、けれど特に歩きにくくもない……すでに割れてしまっている場所以外は。星が一つも見えない夜、遠くの方で照らすギスギスとしたナイトライトの光は、すぐそばで見ればまるで真昼の太陽のように明るいのだろうけれど、ここから見ると排気ガスで濁って、まるで線香花火か何かのように儚く揺らめいているだけだ。だから、この屋上の近くは、薄暗くて、ほとんど周りの物が見えない。けれど、遠くの世界に沈んでいる光の海を切り取るようにして、アーサーの目の前、屋上の縁に、一つの影が立っているのは見えた。

 その影に向かって。

 アーサーは話していた。

「メールなんてしてこなくったって、お前だってことは解ったよ。」

 その影は、長く黒いマントを羽織っていた。

 それから、黒いフードを深く被っている。

 まるで、夜よりも深い闇に寄生されているように。

 その姿は、黒で覆われて良く見えない。

「あのラインを知ってる人間なんて限られてるんだし、グールの死体を見つけましたーなんて連絡を、夜警公社しかも弱小所帯のOUTにしてくるもの好きなんて、もっと限られてくるからな。」

 いいながら、アーサーは肩をすくめた。

 しばらくの間、何の反応もなかったけれど。

 やがて、ノヴェンバーと呼ばれた影の方から。

 ふっと、声がする。

 低い、かすれたような、声。

 遠い遠い死者のような、声。

「NHOEがフラナガンに接触した。」

「は?」

「ブリスターに裏から手を回してフラナガンを外に出したのはNHOEだ。正確に言うのならば、ブルーバードとNHOEの二人。彼らは何らかの目的でフラナガンが必要になったらしい。」

「ちょっと待てよ。お前、何言ってるんだ?」

 アーサーが、言葉の途中で口を挟む。

 困惑したような口調で。

「NHOEがフラナガン先生を外に出すわけないだろ? 先生は偉大なるブラッドフィールドのキングピンで、NHOEはこのブラッドフィールドに存在する全ての犯罪者を殺すことに命を懸けているヴィジランテだぜ? もし仮に接触することがあるとしたら、それはNHOEが先生を殺す時さ。」

「フラナガンは。」

 かすれたような夜の声は。

 その疑問に声を返す。

「特別な男だ。」

「特別って、何がだよ。」

「ホワイトローズ・ギャングによるグール殺害は始まりに過ぎない。巨大な星座を形作るための、小さな星屑の一粒に過ぎない。これは、私からの警告だ。NHOEから目を離すな。ダレット列聖者から目を離すな。そして、フラナガンから目を離すな。」

「いつものことだがな、ノヴェンバー。お前と違って頭の悪い俺たちは、そんなほのめかしじゃ分かんねぇんだよ。捜査に協力してくれんのは感謝してるぜ。だけどな、ノヴェンバー、そろそろ本当に協力してくれねぇか? 都合の良い時だけ、そういうよく解らないほのめかしを残していくんじゃなくてな。お前だって、何かをつかんでいて、それで何かを防ごうとしてんだろ? 教えてくれよ、一緒にやろうぜ、そっちの方がほら、効率的ってやつだろ?」

 アーサーは、両手を広げて、肩をすくめるようなポーズをした。まるで、軽くおどけるような調子で。けれど、ノヴェンバーと呼ばれた影は、そんなアーサーの言葉や、調子を全く取り合うこともなしに、くるっと振り返った。夜の街の方向に。

 アーサーは。

 ふーっと深くため息をつく。

「分かったよ、ノヴェンバー。けどな、行く前に一つだけいいか?」

「なんだ。」

「NHOEのことだよ。」

 アーサーは抛り棄てるように言った。

 ノヴェンバーは、振り返りもしない。

「アメージング・グレースも相当苦しんでるんだぜ? NHOEのことで。これ以上、あいつに重い荷物を背負わせたくねぇんだ。教えてくれよ。お前、知ってるんだろ? もう仲違いしたみてぇだけど、お前ももとはNHOEの弟子だったもんな、ブラックシープってやつみたいに。教えてくれ、昔、何があったんだ? グレースは一体、NHOEに何を……」

「私にどうにかできることではない。」

 そう言うと、とんっと。

 ノヴェンバーは夜の街に。

 まがい物の光の海に。

 飛んだ。

 アーサーは、一人残された。

 また、ふーっと深くため息をついて。

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