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#38 いわゆる真実の愛というものの結末

 ああ。

 そう。

 それは。

 蛇たちを。

 起こす歌。

「エドワード・ジョセフ・フラナガン!」

 ハッピートリガーは、迎えた。

 吸痕牙を見せつけるように。

 馬鹿にするように笑いながら。

「思ったよりも早かったな。」

「ハッピー、ハッピー、ハッピートリガー。僕を待っていてくれたのかい? それは、とても、嬉しいよ。」

 ダレットセルは、暗く広い海のように広がっていた。それは、一種の象徴行為だ、全ては一度行われたこと、いや、二度行われたこと、いや、三度、四度、どこまでも続く時間と可能性世界の中で、合わせ鏡のように広がっていく代理行為の中で、お姫さまは永遠としてお城に閉じ込められている。それはいつも報われることのない愛みたいなものだ、あるいは、もっと単純な言葉を使えば、原罪。赤い光が、セルの内側に広がって、ゆらゆらと波の些喚きのようにして、あるいは眠る子供の呼吸か心臓のように、鼓動を繰り返している、とくん、とくん、お姫様が口の中から垂らす、赤い血液に似たものが楽園の外側にたまって、それは海になり、それは罪になり、そしていつの日か……天使さまに気がつかれてしまう。

 幾つも幾つも並ぶモニターは、今はノイズを映し出すことをやめてただ赤い色の光だけを映し出している。その上で「蛇たちを起こす歌の歌い手」たちは、歌っていた。今彼らが見ているものは、偽りの神ではなかった。額の奥の器官によって、自らが作り上げた幻の神ではなく、それは間違いなく彼の鬼たちの神だった。赤い龍、は、彼の鬼たちに語り掛けている。彼の鬼たちはそれゆえに、蹲り、指を組み、それを額に当てて、まるで自然と流れ落ちる涙のような、あるいは単純に精液のような、生理的な歓喜の歌を歌っている。例えば、この世界が、この世界が、この世界が……しかし、それは言葉で表すことができるのだろうか? 言葉、今のところ、それはフェト・アザレマカシアによって……そう、それは決して純粋なベルカレンレインではない。フェト・アザレマカシア、概念は存在によって汚染されている。だから、楽園は、天使達の炎によって、焼き尽くされるのだ。楽園よ、楽園よ、お前は死ぬために生まれた。

 楽園の中心で。

 お姫様は。

 眠っている。

 暗く広い海。

 その真ん中で。

 静かに。

 静かに。

 目を覚まそうとしている。

 お姫様は。

 目を。

 覚まそうと。

 して。

 いる。

 ダレット・セルの中心、遥か見上げるように高く組み上げられた、古い骨と暗く光る赤で作られた王台、知っていますか? 実は、お姫さま自身が、赤い竜だったのです。楽園を焼き尽くした、赤い竜。お姫さま自身が、それを、楽園を、焼き尽くしたのです。怪物たちがうじゃうじゃ、その海には住んでいます、その怪物たちも、実は、お姫様の、顔を、していて。王台は、まるで、変化していた、その花が、開くようにして。美しい花、赤い色をした、美しく暗い花。紡ぎ合わされた、赤イヴェール合金の夢は、優しく、優しく、笑っている。その間では、爬虫類の骨が、音を立てずに、知っている。知っている、あるいは、知らずによかったことさえも。咢の形をしていたはずの骨は諦めたようにして、動くこともせずに。知っていますか? お姫さまは、お姫さまは、涙を流しています、焼き尽くされた楽園の中心で、お姫さまは、涙を流しています、赤い色をしたお姫さまの涙は、次第に、次第に、暗く広い海になって。

 王台の、前に、は、神のために殉じて死せる五匹を補充して、十七匹に数をそろえたダレット列聖者達が立ち「蛇たちを起こす歌の歌い手」たちにその歌を合わせて歌っていた。もうすぐ、神が目覚める。目覚めた神は、蛇たちの骨から、新しい蛇たちの肉と神経を作り出し、それは万軍となるだろう。万軍、この世界を、幸福の嘘で満たすための万軍。そして、この世界は……より正しく、幸せな場所となる。グールたちは、それを知っていた。望んでいたのではなく、求めていたわけでもなく、ただ、知っていた。確定された未来として、約束された未来として、そして、決して来るはずのない未来として。所詮、全ては眠っているお姫さまが眠らずに見ている、夢のようなものに過ぎない。

 王台の。

 花開く。

 五つの鉤爪。

 五つのコイル。

 それは、捧げられた、一人だけのいけにえ。

 無原罪を、作り出すための、世界の、器官。

 保たれていたウエイトリー・フィールドは。

 保たれていた、罪の、少女の、為の、檻は。

 今、それを、解かれようとしている。

 王台の上に、浮かんでいた球体は、曲線と角度と直線、つまりティンダロスによって作られていたフェト・アザレマカシアの檻、存在の檻は、その支えが崩れることによって、その「意味」を喪失しようとしていた。もしもそれが始めから存在していなかったものなのであれば、それは初めから存在していなかったものであり、しかしそれが今は存在しているとするならば、今は存在しているものでしかない。これは、この檻を構成するものは、仮のものだ。仮のもの、そして、その檻は、その仮のものは、今、それは、その喪失によって、解放しようとしている。

 罪を。

 Lを。

 それが、この場所の状況だ。

「ついに見つけたぞ、ハッピートリガー!」

 しかし、その異様な状況については特に言及せず(たぶん最終決戦にふさわしい見事な舞台装置だくらいの認識くらいしかないのだろうが)ブラックシープは、銀門塔から繋がっている通路からダレットセルにたどり着いてすぐに目に入ってきたハッピートリガーの姿、そちらを向かって金の蹄の先でずびしっと指すと、仮面越しにもかかわらず良く通る声で高らかと発声した。一方の発声されたハッピートリガーはというと、どうやらフラナガンにしか注意を払うつもりはないらしく、そちらの方にちらと目を向けはしたが、すぐにフラナガンの方に視線を戻す。

 そんな、ちょっと雑な対応にもめげることなく。

 ブラックシープは、申し渡しを続ける。

「この街に巣食い不浄の富を貪るホワイトローズ・ギャングの首魁にして、今回ブラッドフィールドを襲った破局的な事件の裏に潜んでいた禍々しい巨悪、その沙汰はまさに悪の枢軸と呼ぶにふさわしい! これほどまでの凶行を巻き起こしておいて、あなたは永遠に正義の手のひらから逃れられるとでも思っていたのか? 残念だったな、今こそここに、絶対の正義見参せり! その名もブラックシープ、そして……」

「えーと、ファーザー・フラナガンです。」

「以上、二名!」

 以上、二名!の部分は必要ないんじゃないかな? と思わなくもないが、それはともかくとして、そんなブラックシープのことなどまるで無視したようにしてハッピートリガーは、フラナガンに向かって皮肉に引き裂かれたような顔の笑顔を見せた。それから、はっ、と馬鹿にしたような一息の笑い声を一度あげてから、言葉を紡ぎ出す。

「用心棒までひっ連れてご丁寧なこったなぁ、おい。」

「前に会った時に言ったはずだけれど。ブラックシープは用心棒ではないよ、僕の愛しい相棒さ。ねえ、ブラックシープ。」

「その通りだよ、ファーザー・フラナガン!」

「どうでもいいんだよ、そんなことは。」

 ハッピートリガーのそのセリフに。

 フラナガンは軽く肩を竦めた。

 ブラックシープとフラナガンの立っている場所から何者ともわからない墓地を横切ってその向こう側、ハッピートリガーは王台の前に立つ十七匹のダレット列聖者を背景とした、更にその前に立っていた。いつものようにぼろぼろの、継宛だらけのスーツを着て、怠くほどけかけたネクタイ、全身をノスフェラトゥの色、黒く染めて、けれどその中で一点だけ、まるで夜の空に吹き上げられたビニール袋のように白く汚れているのは、胸のポケットに差された白い薔薇。

 その横には、少し後ろに付き従うかのようにグレイが立っていた。月の見えないこの場所ではあるが、既にその姿は月の代わりを終えていて、狼と火との中間のような姿、つまり灰色の狩人としての姿をしていた。首元の革の首輪は、あたりの赤い色を吸い込んだようにして鈍くてらてらと照り返していて、グレイはまるでハッピートリガーに近付こうとするものの全てに対して威嚇しているかのように、じっとこちらを見つめていた。

「ところで、そういえばさっきパイプドリームもそう言っていたのだけれど、君はどうやらブラックシープではなく……僕を待っていてくれたのかい?」

「ああ、そうだ。」

「けれど、どうして? 僕は……僕は、ねえブラックシープ、君のことを正義の太陽だとするならば、その光を受けてしか輝くことのできない、小さくて哀れな、夜に溺れるナリメシアのようなものなのに。」

「ファーザー・フラナガン! 何を言っているんだい、あなたこそが私にとっての正義の太陽だ! あなたに出会うまでの今までの私は孤独なアノヒュプス、あの道に迷える月に似ていたよ、それをあなたが……素晴らしい正義の道標であるあなたが、今では導いてくれているのさ!」

「ありがとうブラックシープ、君の言葉、とても嬉しいよ。それでも……とにかく、僕はブラックシープの伴奏曲のようなものに過ぎなくて、それでも君は僕を待っていてくれたのかな? どうして? ああ、何か、僕が、君の、役に、立てるのかい?」

 そう言うと、フラナガンは。

 すうっと目を細めて、薄く笑った。

 ハッピートリガーは、そのフラナガンの言葉を聞くと、顔の片側をひきつらせたかのように吸痕牙をむき出しにして、苛立たし気に舌打ちをした。それから、少し首を傾げるようにして、傾かせた三白眼でフラナガンを睨み付ける。

「お前は知ってんだろ。」

「知らないよ。」

「黙れ。何かを知っているはずだ、この装置について。」

「知らないって。僕が本当のことを言っているっていうことは、君が一番良く分かっているだろう、ハッピー? 君は、何といっても、純種のノスフェラトゥなんだから……人間の考えていることくらい、全部お見通しのはずじゃないか。」

「お前は、フラナガン神父だ。」

 体の前で、だらりと垂らした腕の先。

 ハッピートリガーはイライラしているように。

 組ませた指、中指で、自分の手の甲を叩く。

「嘘が、ことのほか上手い。」

「光栄だね。」

「そもそも教会の連中の思考なんて、信じられるかよ。俺を馬鹿にするな、俺は馬鹿じゃない。お前は知っている、何かを。その証拠に、お前らは二人とも、ノスフェラトゥでもないのにこの場所に立っていられる。俺がグレイとパウタウにしたように、お前らも自分に対してLへの何らかの防衛方法を施してあるっつーことだ。」

「ああ、君が何を言っているのかさっぱり分からないよ、ハッピートリガー。彼/彼女のことについて僕が知っているわけないじゃないか、この前のデートの時に言ったはずだろう、逆に僕が、君にそれを聞きたいって。僕に与えられるはずの、許しの秘跡、この世界に、存在するべきではなかった、異端者……」

「ふざけるな!」

 フラナガンの言葉を遮り、ついに我慢の限界が来たとでもいうようにして、ハッピートリガーは喚くみたいにして怒鳴った。フラナガンはまた軽く肩を竦めて、そこで口をつぐむ。ハッピートリガーは、静かに、体の前、組んでいた指先を解くと、スーツのポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。穢れの色をした、ティンダロス十字のロザリオ……それは、預言者が持っていたとされる、あのロザリオだ。

「今、パウタウが装置の解除の最終段階をやってる。じきにLは装置から解き放たれるだろう、そうすれば、Lは母胎を探し求めて、やがてこのロザリオを持つ俺に宿ることになる。そうすれば、俺はLの力を、この世界の自分の思い通りに、好きにできるだけの力を得ることになる。世界を一つ、作り替えるだけの力だ、それからこの国を俺のものにして……全て順調なはずだ、だが、何かがおかしい、順調すぎる。お前が言った通り、俺は誰かに操られている気がする。だが、それは誰にだ? そして、俺は何をさせられようとしている? 答えろ、フラナガン!」

「さあね。僕は、何も知らない。」

 両手を軽く肩のあたりでぱっと広げて、さも残念そうに答えたフラナガンのその答えに、ハッピートリガーはロザリオを持っていた手のひらを握って強く強くそれを締めた。怒りに任せて、あまりに強く握りすぎたために、十字架がその手に食い込み、たら、たら、と、その手のひらからハッピートリガーの血液が流れ出す。概念の赤色の海の中では、その血液の物質的な赤は、まるで油のようにはっきりと浮かび上がって、そしてしたしたと地の上に滴った。ふっと、ハッピートリガーは、その血液の方に目を向けた、気を取られたかのようにして。それから、下を向いたままで。

 言葉を区切るようにして。

 はっきりと、口を動かしながら。

 独り言のように、呟く。

「ルーシー・バトラー。」

 フラナガンの、温度が。

 まるで、その部分だけが。

 怪物に、食べられたように。

 すっと、変わった。

 その言葉を聞いて。

 フラナガンは、ゆっくりと上を向いたらしかった、よく分からない、それは、それくらいに淡い淡い動作だった。赤い色をした海月が、赤い色をした海の底から、柔らかく、柔らかく、上の方に向かって、あるいは下の方に向かって、浮かんで来るかのようにして。それから顔を覆い隠す黒い色をしている紗の奥で、かちかち、と静か、静か、静かに、何か、何か、何かを、噛み砕くようにして、その歯を、噛んで、鳴らした。世界が些喚いた気がした、まるで、何かを恐れているかのようにして。

 しかし、ハッピートリガーは純種だ。

 恐れなどというものは有していない。

 だから、フラナガンのその反応を見て。

 問いかけるように、問いかける。

「ルーシー・バトラーについて、何を知っている?」

「その言葉を口にしてはいけないよ、僕達には許されていない。」

「ルーシー・バトラーについて、何を知っている?」

「その言葉を口にしてはいけないよ、僕達には許されていない。」

「ルーシー・バトラーについて、何を知っている?」

「その言葉を口にしてはいけないよ、僕達には許されていない。」

 フラナガンは。

 くすくすと笑った。

 まるで、懐胎した処女のように。

 それから、コートをひらめかせて。

 くるっと、その場で一度、回転した。

「アラリリハ、主の栄光、主の救い、主の力。なるほどね、なるほどね、分かったよ、そういうことか。それなら納得だ、全部ではないけれど、とにかく必要なことは分かった。彼/彼女にたどり着くための、最初のもの。例えば迷路の中で、捨ててある安物の懐中電灯を拾ったみたいな気分だっていうことさ。壊れているかもしれない、でも修理してもらえばいい。誰がいいかな、やっぱり、ボーへに頼んでみよう。彼なら、きっと、直せるよ、きっと、きっと、それを、直せる。アラリリハ、主の栄光、主の救い、主の力。僕は見た、サンダルキアを、僕は見た、アレクの山を、そして、僕は見た、見た、見た、定命全知者ルカトゥスを。なるほどね、なるほどね、分かったよ、分かったよ。ありがとう、ハッピートリガー、君のおかげだ。そしてもう、僕は君に、用はない。」

「俺は、まだお前に用がある。」

「君みたいな屑に僕が何か施しを行うとでも?」

 フラナガンのその様子を見て。

 ハッピートリガーは。

 ロザリオを持っていない方の手。

 自分の顔の横に、すっと上げた。

 無表情。

 口を開いて。

 言う。

「なら殺す。」

 ぱちんと、顔の横で、その指を鳴らした。と、ダレット・セルの広大なホールのそこら中、ぼこっと土が盛り上がり、無数の光、無数の銃口、無数のライフェルド・ガンが姿を現した。全てがベルト給弾式、三脚のついた、威力と連射力以外の全てを度外視した様なヘビーマシンガンだ。あらかじめ作り出され、そしてそこら中に仕掛けられていた、ハッピートリガーの、フラナガン狩りのための罠。そのライフェルドの光の群れ、姿を現すと同時に、弾丸の姿を取った光を死神の花束のようにして、一斉に発射し始める。光の弾丸は、途中にある邪魔なものを、「蛇たちを起こす歌の歌い手」達や、あるいは彼の鬼らが乗っているモニター画面のような墓石を次々と撃ち抜いて、殺し、あるいは壊しながら、ある一点の方向へと向かって飛び駆けていく。

 ある一点の方向。

 そう、それは乱射ではない。

 その全てが。

 一つの人間を狙っている。

 つまり、フラナガンを。

「無意味だね!」

 今までフラナガンの会話を邪魔しないようにして、まあ何を言っているのかはさっぱり分かっていなかっただろうけれど、とにかく横でおとなしく聞いていただけだったブラックシープであったが、どうやらようやく正義と悪の生と死をかけた決死のラスト・バトル(「生と死をかけた」と「決死の」はだいたい同意語だと思うが)が始まったらしいことに気がつき、ここにきてにわかにスーパーテンションが上がって来るタイムに入ったらしく、そう叫ぶと、とんっと地を蹴ってその身をフラナガンの前に投げ出した。

「実に無意味だ!」

 そう言うと、片方の手の金の蹄、向かってくる弾丸をはね返しながら、反対側の腕でフラナガンの体をぎゅっと捕まえた。「へ?」とフラナガンが言う間もなくブラックシープはフラナガンを抱えたままでびょんっといきおいよく跳ね上がる。飛び上がって格好の標的となったブラックシープ(と、ついでにフラナガン)に向かって、ライフェルドの弾丸は前後左右の四方プラス上下の二方、つまり全ての方向から滅ぼしの雹のごとく降り注いでくる。ブラックシープはその弾丸を、フラナガンを抱えていない方の手と、それから両方の脚、使える蹄はすべて使って、正確無比に弾いていくが、なにぶんその数が多すぎた。次第にその数の猛攻によって、ブラックシープ(ついでにフラナガン)を包みこむライフェルドの輪は縮まっていく。もう少し、もう少しでその光の弾丸が、ブラックシープ(ついでにフラナガン)に到達してしまう……しかし、絶体絶命の状況でこそ、正義というものの、本質が輝くのではないだろうか? ブラックシープは、それを知っている。

 だから。

 ブラックシープは。

 仮面の奥。

 にっと笑う。

 くっと、フラナガンを胸に抱き。

 その体を、守るように丸まって。

 そして、ぐっと体中に力を込めて。

 ブラックシープは、叫ぶ。

「善っ!」

 まるで、水面を指先で弾いたかのように。

 その空間に、波動が走った。

 ブラックシープの体から。

 それは、正義の波動(仮)とでもいうものなのか。

 正義の波動(仮)とでもいうものなのかも何も、まず正義の波動(仮)って何だよって話になるけれど、分かりやすくいうとすれば、それはつまりブラックシープを中心とした概念振盪の一種だった。当然自分が何をしているのかということ、理論的なことなど何も分かっていなかったが、ブラックシープは「善っ!」という言葉とともに頑張ってものすごく気合いを入れることで、ほとんど根性のみで自分自身の概念を破裂させるように外向きに投射し、それによって周囲の概念に破滅的なほどの、地震のようなものを起こしていたのだ。

 そして、その地震は。

 ブラックシープの周囲の。

 弾丸を、薙ぎ払う。

 二人に向かって襲い来ていた無数のライフェルドの弾丸は正義の波動(仮)に洗われるようにして、次々に弾けて、蒸発するように消えていく。そのまま光の雨の中、黒い虹に濡れたチューブのように光の届かない空間を描きながら、ブラックシープはくるくるとその身を回転させて、やがてこのダレットセルでの唯一の安全地帯、つまり王台のすぐ足元、ダレット列聖者達がいる場所よりも奥のところへと着地した。

「ファーザー・フラナガン。あなたはこの安全な場所で待っていてくれたまえ!」

「ありがとう、ブラックシープ。」

 ブラックシープは。

 くるり、と振り返り。

 ドラマチックに叫ぶ。

「さあハッピートリガー、裁きの時だ!」

 悪に下される正義の裁きの時!

 もちろん、その判決は死刑!

 ブラックシープは、それから、ハッピートリガーに向かって、投擲された喜びの想念であるかのようにして駆けだした。十七鬼が構成するダレット列聖者の列、高く笑うアノヒュプスのようにしてぴょんっと華麗に飛び越えて、その体はそのまま……三夜月。宙に三夜月の形をした裂け目を描くようにしてきらめかせながら、ハッピートリガーへと美しく飛来する無慈悲な悪夢。

 それを、横目で止めて。

 ハッピートリガーは、舌打ちをする。

「グレイ。」

「了解した。」

 ハッピートリガーのその言葉に弾かれるように、灰色の野獣は跳んだ。ハッピートリガーをその蹄にかけんとする、迷いなきブラックシープのその弾道に向かって、正確無比に、その温度を感知した誘導式迎撃弾のようにして、やがてそれは着弾する。もちろん、まともにやり合えば二十五パーセントの力を出したブラックシープにグレイなどが敵うはずなどなく、それもグレイは分かっていた、ライカーンはノスフェラトゥによって、精密に調整された戦闘兵器だ、彼我の戦闘力の区別位はつかないわけがない。そのため、グレイは自分とブラックシープの体が衝突する直前に、少し自分の占めている空間の位置をずらした、懐にブラックシープが入ってくるように、そしてそれが入って来ると、軽くその体を引いた。

「ジャスティス!?」

 ブラックシープが声を上げる。

 勢いをひきずったその体。

 ベクトルの変更を、余儀なくされる。

 ブラックシープの体とそれを掴んだグレイは、まるで交尾しあう二匹の獣のようにしてもつれ合い、そしてそのままハッピートリガーの体を通り過ぎ、そこから少し離れた所へと落下した。ざざっとまるで土が削れるような音がして、一人と一匹は慣性に引きずられて、そしてやがて止まる。グレイは、その勢いが止まった瞬間にぱっとブラックシープの体から離れて距離を取った。いつまでもそれと接触しているのは危険だからだ、一方のブラックシープはというと、いてててて……とでもいうようにして、しかし全然ダメージを負っているようには見えない態度で、頭を蹄の先でかきながらその体を起こした。

「なかなかやるな、ライカーン・グレイ! 敵ながら見事だね!」

「ハッピートリガー。」

「了解。」

 グレイの言葉に反応して、ハッピートリガーはさっと手を胸の前にあげた。右手を胸の前に、左手を緩く差し出すようにして、そして、その何かを支えるような型を取った手の中で、光が紡ぎ出される。その光の形は……アンチ・タバナクル・ライフル、戦場の兵士たちが使う言葉でいえばファンキー・ランキーのような形をとる、近接武器であれば槍のように、遠距離照準及び貫通の用途に特化した、と思われる一丁のライフェルド・ガンになる。

 この世界に実を結ぶと同時に。

 それは、間髪をおかずに、光を放つ。

 純種によって計算された弾道を巡り。

 そして、光は、ブラックシープの頭部を狙って。

「無意味だと言ったはずだぞ!」

 もちろん、無意味だ。

 貫通弾は蹄では受け止めきれないだろうが。

 その弾道を見ることはいともたやすい。

 その光弾を、ブラックシープは軽く避ける。

 しかし、それは、つまり、囮だ。

 いつの間にかブラックシープの横、脇腹のすぐ近くまで接近していたグレイ、空間ごと引き裂くようにして、薙いだ。ブラックシープはまたしても「ジャスティス!」しながら飛びのいて間一髪のところで避ける、しかしどうやらそれは間一髪こちら側だったらしい、グレイの刃のような爪、ブラックシープのスーツを破いて、其の奥からたらりと血液が流れ出す。

「はっ! いい眺めだな、ブラックシープ!」

「おのれ、なんと奸智に長けた戦略なんだ!」

 奸智に長けたってほどでもないと思うが、それはまあいいとしてブラックシープはグレイに対して振り返りざまに反撃を加えようとするも、グレイは一撃を与えるとすぐにブラックシープから離れてしまった。それを追おうとしても、ホールに設置されていたマシンガンが光を噴いて、ブラックシープをはじき返すように威嚇する。どうやらヒット&アウェイ、極力低リスク低リターンで進めるつもりらしい。

「さて、ダンスの時間だ。」

 言うと、ハッピートリガーは。

 左手、一度ライフルから手を離して。

 笑いながら、また指を鳴らした。

「せいぜい上手く踊れよ、ブラックシープ。」

 ホールの全てのマシンガン、息を吹き返したようにしてまた動き出した、今度は……その照準を、ブラックシープに向けて。光弾、集中砲火を開始する。ブラックシープは「くどい、くどいぞハッピートリガー!」と言いながらそれを、先ほどと同じようにやすやすとその弾を払い始める、今度はフラナガンも抱えていないのでより一層その行為は簡単なものになっている、はずだった。しかし今回、先ほどとは違う点がもう一点だけあった。それは、グレイだ。

 ホール内部のマシンガンのあらゆる弾道は、ハッピートリガーの精神制御によって設定されている。そして、その精神が行っている計算は、全てグレイへと、精神波の形で送り込まれている。そのため、マシンガンの放つ光弾とグレイは、完璧な連携を行うことが可能だ。ブラックシープを狙い、ほぼ隙間なく敷き詰められたような弾丸の雨あられの中を、グレイは、その「ほぼ」の例外の部分、ほんのわずかな部分を縫って動く。

 ブラックシープに。

 それはまるで。

 雨の中紛れて落ちて来る。

 研ぎ澄まされた水銀。

「くっ、これは……!」

「はははははっ! どうだ、これでも無意味か?」

 「くっ」というつらそうな声を漏らすことで若干のドラマ性を付加しながらも、ブラックシープはその二種類の連撃をぎりぎりのところで避けていく。さっきみたいに概念振盪を起こして何とか状況を逆転しようとするも、そのために精神を整える隙をグレイは与えなかった。かといってグレイを攻撃しようにも、そのために蹄が描かなくてはいけない道線をライフェルドが邪魔する。完全に膠着する空間の中で、ただブラックシープの体だけが、腕、腹、胸、首の少し横、少しずつ少しずつ、グレイの爪で表面を切り裂かれていく。

「なかなかやるね!」

 そう言って、ブラックシープは。

 ほんのわずかな隙をつき。

 ポシェットから、三つのボールを取り出す。

「ここは仕方ない……シープ・スモーク!」

 ぽんっと放りだされたボールから、粘性を持つ黒い煙があたりの空気を構成するプラマヌ一粒一粒にまとわりつくようにしてボールの中から噴き出した。内側に包み感覚を奪い取るその触手の様な気体、それに触れ取り込まれれば命取りになることを知っているため、グレイは攻撃をやめて、ブラックシープから十分な距離にまでいったん退避した。

 しかし、遠距離の攻撃ならば取り込まれる心配はない。

 広がった煙に向かって、闇の中の雲を剣で刺すように。

 ライフェルドのマシンガンは掃射を続ける。

「はっ、かくれんぼか? 所詮は一時しのぎだな、とっとと諦めろ! その煙が晴れたら、その時こそとどめを刺すぜ!」

「それはどうかなハッピートリガー!」

 その言葉とともにブラックシープは!

 闇を突き破って、飛び出してきた!

 ブラックシープ一人を狙っていた時とは異なり、広がっていくシープ・スモークのせいで光の弾丸の照準は、多少のブレを生じていた、シープ・スモークの全体を狙うことができず、そのせいでほんのわずかな隙が生じてしまっていたのだ、本当に、ほんのわずかな隙だ、例えばかろうじて蟻が這い込めるほどの。しかし、ブラックシープにとってはそれで十分だった。シープ・スモークの上部に突き抜けた穴を残して、ブラックシープはそのまま宙に舞った。

「あなたに一つだけ教えてあげよう、ハッピートリガー! いついかなる時も、どんな危機的な状況に置いても、正義は諦めるということを知らないのだ!」

「ちっ……グレイ!」

 そういうと、ハッピートリガーは指を差し向けた。

 その方向へと、マシンガンは首を巡らせる。

 そして、グレイもその追撃に向かう。

 しかし、今のブラックシープは二十五パーセントの力を出しているのだ、まるで檻のように閉じ込めていたライフェルドの光弾から、その扉を叩き壊すようにして逃げ出したブラックシープ、一度その檻から逃げ出せば、もう二度と捕まることはない、捕まえることはできない。その速さは……始祖家のために調整されたライカーンであるグレイであっても追いつくことができないものだ、そして例え純種であっても、精神操作による照準を、その全てを二十五パーセントブラックシープに合わせることはできないだろう。確かに何発かの光弾がその体を掠めはする、それは着ているスーツを、あるいは表皮を切り裂いて……しかし、致命傷を与えることはできない。

「てめぇ……何するつもりだっ!」

「やかましい悪の旋律は私の耳に合わなくてね!」

 そう言いながら、ブラックシープはグレイから十分離れた地点に着地した。ぱらぱらと小雨のように襲い来る、なんとか狙いが追い付いたらしい幾つかのマシンガンの弾丸を余裕しゃくしゃくに蹄で弾き返しながら、川面を跳ねる飛び石のようにホールを駆ける、そしてその向かう先には……

「なっ……やめろ!」

「まずはこのスピーカーを止めるのさ!」

 悪戯っぽくそう言って!

 ブラックシープは!

 マシンガンの一つ!

 薙ぎ飛ばすように切り裂いた!

 駆け抜けざまに、その首を刎ねる、ようにして。ブラックシープはホールに設置されているライフェルドのマシンガン、次々と切り飛ばし、引き裂いていく。刎ねられたそのガンは空に投げ出された瀕死の魚が、ぱくぱくと口を開いたり閉じたりするようにして数度点滅すると、ぽっぽっと消えていく。ホールの床を、壁を、天井を、縦横上下にそこら中を駆け巡りながらブラックシープはその……バッドなメロディ、を、停止させていく! マシンガンだけではなく、ハッピートリガーは自分の手元にあるライフルでもブラックシープを狙う、しかし何とか照準を合わせて光弾を発射しても、全て紙一重の所で避けられてしまう。

「グレイ! あいつを止めろ!」

「今やろうとしている。」

 しかし、グレイも、やはり。

 ブラックシープに追いつけない。

 その正義の稲妻は!

 あまりにも早く闇を照らすのだ!

 そして。

 やがて……

 全てが。

 終わった。

「感謝したまえっ! 私が悪の庭の剪定をしてあげたよっ!」

「ちっ……クソが……!」

 とんっと、ハッピートリガーの視線のライン上、少し離れた位置に、天井から着地したブラックシープ、仮面の奥でさわやかに笑顔を浮かべる。あっという間に、ホールに設置されていたライフェルド・マシンガンの全てがブラックシープの手によって伐採され、そして消失してしまっていた。グレイは、安全と思える距離を取って控えるようにして立っている。

「さて、あなたは……確かダンスをご所望だったね?」

「ああ、そうさ。」

 そういうと、ハッピートリガーは。

 手に持っていた、ライフルを消した。

 そして、新たに両手の先。

 二つのライフェルドの光が泳ぐ。

「お前が死ぬまで踊ろうぜ。」

 吐き捨てるようにそう言うと。

 跳ぶように地を蹴った。

 同時に、グレイも動く。

(一方で、ここで一度フラナガンについて言及しておいてもいいだろう。といっても、特筆すべき動きがあるというわけではない、ただ単純に、フラナガンは、ラゼノ・シガーのシガーケースをポケットから取り出したというだけだ。シガーケースの、まるで鏡のように磨かれた銀色の面を、静かに赤い光の中に浸してみる。その赤色は、暗く暗く銀色の中に浸透していき、フラナガンの掌の中で、それは小さな海になる。刻み込まれた細工は、それはまるで……蠢いて、ゆらうかび、そして些喚く、怪物たちのようにも見える。あの、海の、怪物たち。しかしフラナガンにとって、それは大した事柄ではなかった、だから、そのシガーケースの蓋を開いて、中からラゼノ・シガーを取り出した。顔を覆う紗、シガーを挟んだ手で口の所だけを上げて、唇で口付けを与えるように、それをくわえる。ライターで火をつける。吐き出した煙は、まるで王台を、柔らかく、愛撫するように、包み込むように。「ああ、猊下」「僕にも聞こえる」「あの娘の歌声が」呆然と、ライターを、手のひらに、置いたままで、そして、フラナガンは、思い出したようにブラックシープに目を向ける。)

 じゃこん、と言う音をさせて、ハッピートリガーは手の先に生まれかけていたショットガン、フォアエンドを手前に引いて弾倉から装填口に弾を送り込むと、それがあるべき位置に納まった感覚が手に伝わるとともに、トリガーを引いた。怒りと憎しみに似た色で燃えるハッピートリガーの精神の火薬が光を上げて爆発し、そして銃身からその先へと、円筒状の弾丸が発射される。

「爆ぜろ!」

 ばんっと音を立てて。

 それが、爆ぜる。

 光の散弾だ、しかし、それは通常のショットガンが放つ散弾とは、少しだけ違っていた。それは、標的に当たる前に一度はじけて拡散した後で、すぐにその標的に向けて再度収束し、まるで外敵を感知した蜂の群れのようにして大勢となって襲い掛かる、ハッピートリガーが自分の精神でそれを自在に操ることができるからだ。ぎりぎりまで接近してそれを撃てば、どんなに素早くてもその全てからは逃れることができないだろう。

 しかしブラックシープには。

 それから逃れる必要などない。

「嘆息っ! 悪はかくも無力なものかっ!」

 言いながら、ブラックシープは両の掌を体の前に広げると、ふっと一つ息を吸った。そして、「はっ!」という周りを圧する様な声とともに、逆立ちするようにしてその手のひらを地につけた。そのまま体を軽く一度回転させる、円を描く脚を、攻撃的なメリーゴーラウンドか何かのようにしてしなやかに動かしながら。その足先の蹄、襲い掛かって来る散弾をつぎつぎと払い落としていく、一周が終わる頃には……その光弾の全てがはじき返されていた。

 手のひらでぱんっと地を叩き。

 逆立っていた体を正位置に戻す。

 仮面の奥は、得意げな顔をして。

 しかし、その背後で。

「俺達は無力じゃねぇよ。」

 ハッピートリガーが口の先から憎悪を吐き出すようにしてそう言った。ブラックシープの後頭部、衝撃が走る、ハッピートリガーがショットガンのバック・ストックで跳ね飛ばすようにして叩きのめしたのだ。「ジャスティス……!」と言いながらも、その体は姿勢を保つことができずに前のめりに倒れ込む、その瞬間を狙って、再度じゃこん、という音を立てて、そしてハッピートリガーは至近距離からの射撃で追撃を行った。「確かに……」ブラックシープは歯を噛みしめるようにしてそう呟きながらかろうじて体を反転させると、その散弾の群れから逃ようとする、しかし左腕は逃げきれなかった、まともにというわけではないものの、散弾を喰らって肩とそこから先の肉がはじけ飛ぶ。「少し侮っていたようだね!」痛みは感じない、正義にはそんな暇はない。

 体を転がして、滑るように避けた先には。

 今度は、グレイの、開かれた口が待っていた。

 そこに並ぶ牙は、間違えようもなく。

 ブラックシープの、その肉を求めている。

 無事だった方の右腕、振り上げて。

 蹄で、その口を受け止めると。

 折られた枯れ枝のような有様の左腕。

 すぐそばに転がっていたグールの死体を掴み。

 ハッピートリガーに向かって、それを投げ飛ばす。

 もちろん、それは一時しのぎにしかならないことをブラックシープは知っている、しかし少なくとも一時はしのげる、金の蹄はグレイの咢を受け流し、グールの死体はハッピートリガーの放つショットを受け止めた、その隙をついてバッタが跳ねるように身を起こすと、一鬼と一匹の間をかいくぐって、再びブラックシープは窮地から逃れだす。

「訂正しよう、あなたたちは無力ではない、しかし……正義の前では同じことだよ! いかなる巨大な力を持っていようと、悪しき者は必ず滅びるのだから!」

 そう言うと、またしてもブラックシープは、赤く濁った光の海の中を泳ぐようにして駆けた、「逃がすな、グレイ!」言いながら、ハッピートリガーはショットガンを解いて、今度は両手に一丁ずつ、今度はマグナム・オートピストルを形成する、駆けて抜けいくブラックシープに向かって、それを連射する。その弾丸の間を泳ぐようにして、グレイがブラックシープを追いかける。しかし、どちらも届くことはない、ブラックシープの二十五パーセントの速さに、追いつくことはできない。

 そして、ハッピートリガーは一つ間違いを犯していた。

 ブラックシープは決して逃げたわけではない。

 正義は、悪に背を向けるなどということはしない。

 ブラックシープは、ただ、今の状況に。

 必要なものを、取りに行っただけだ。

 とうっと、月に向かって戯れ跳ねるイルカのようにブラックシープは飛んで、何が起こってもまるで機械のような正確さでただ歌い続けるダレット列聖者の列を飛び越えると、その体は王台の前に立っている、フラナガンの元へと降り立った。

「ファーザー・フラナガン!」

「え?」

 そして、手のひらの上。

 銀のライターを。

「これを借りるよ!」

「な、ちょっと君……」

 一流のスリのように、して、あるいは、愛を奪う、恋人、の、口付け、ブラックシープの手のひらは、フラナガンの手のひらから、その銀のライターを奪い取って……いや、そのいい方は正しくない、二人は相棒で、まるで一つの受精卵から生まれた双子のように、正義の下に一つなのだから。奪い取ったわけではない、ただそのライターは受け渡された。

「ブラックシープ、ちょっと!」

「ファーザー・フラナガン! あなたの力を感じる!」

 フラナガンの抗議の声っぽい声音の声を全く気にすることなく、ブラックシープは王台から体を反転させ、再度ハッピートリガーとグレイの方を向く。そして仮面の奥、ぎっと研ぎ澄まされた鎌のような睨みを向けると。

 フラナガンの肩を踏み台にして。

(「痛っ!」)

 その体。

 一際高く。

 空を蹴る。

 ホールの天井に。

 触れんばかりに。

 ハッピートリガーと、グレイを見下ろして。

 指の先で、ぱちんと、ライターを開けて。

 ブラックシープは

 恍惚を歌うように。

 叫ぶ。

「このそらを、おろせばらとう、よるのひらっ!」

 フラナガンが唖然とした顔をして「え、何で君……!?」みたいなことを言っているが、それはともかく、その契約の言葉に従ってライターからはヌミノーゼの炎があふれて膨れ上がる。溺れるような消化器官、あるいは全てを噛み砕く歯のような色をした、明るくも暗くもない黒い炎は、その空間をしたしたと滴って、溶かすようにして、ブラックシープを中心としたホールの天井の全体に広がっていく、それは世界を食いつぶす羽虫が群れる様と同じだ。そして、ブラックシープの口は、更なる契約の言葉を紡ぎ出す。

「えかはよる、かえりあらいとっ!」

 フラナガンとしては今度は驚きの声も上げられないくらい驚いて、ぽかんと口を開けてしまっていたようだったが、それはともかく、ブラックシープのその言葉に土蜘蛛と名付けられたその炎は蠢いた。五月蠅なす荒び群れ集う羽虫たち、ブラックシープに従って、一度集まって凝縮したような姿を見せると、次の瞬間には反発したように、ものすごい勢いで破裂した。

 黒い色をした火の花は、夏の雨の形をして。

 罪なき罪びとを抱きしめる災厄のように。

 王台を除いた、ホールの全てへと降り注ぐ。

「ちっ……クソがっ!」

 ハッピートリガーは、そう言いながら手の中のライフェルドの光を変えた。重量級で、威力を重視したマグナムから、その二つの光は紡ぎ変えられて……一種異様な形へと変貌していく。つまり、まるで蜂の巣のように六角形の形をしたバレルの先に、計七つ(中心に一つとそれぞれの角の先に十二ずつ)の銃口が開かれた、ハイヴ・ピストルと呼ばれる種類の連発式拳銃へと。それは第一次神人間大戦の後、第二次神人間大戦の前の「神々の争い」の時代に作られた武器で、オートマチック・ピストルが発明される前の試行錯誤の段階で作り出されたものだったが、「連発は連発でも七発一緒に打ち出すのはあんまり意味なくない?」というまあそれもそうだよねって感じの疑問のために既に現在では製造がなされていないものだ。恐らく博物館か図鑑か何かで見たのだろう。

 それはともかく、ハッピートリガーは作り出したそのハイヴ・ピストルを自分の斜め上、つまりブラックシープの放ったヌミノーゼ・ディメンションの欠けらが襲い来る方向へと向けると、引き金を引いた。引き金を引いたその瞬間に、ライフェルドのその光は更に広がり、マテリアルを紡ぎ出し、そして六角形の外側に、更にもう一つ(十八の銃口)、二つ(二十四の銃口)、三つ(三十の銃口)の銃口の列を作り出した。八十五発と八十五発、計百七十発の弾丸が放たれて、ハッピートリガーに向かって、甘い蜜にたかる蠅のようにして注がれたその黒い闇の群れは、突き刺すように燦然とした光の弾丸によって次々に貫かれて、破られて、消えていく。

「グレイ! 大丈夫か!」

「こちらは問題ない。」

「こちら「も」だろ!」

 グレイはハッピートリガーの方にちらと目を向けながら、小さく頷いた。グレイはその襲い来る炎雨に対してどうしていたのかというと、手近に落ちていたグールの体、戦闘に巻き込まれて体を弾丸で貫かれ、息も絶え絶えになっているそのグールの体をひっつかんみ、自分の体を隠す傘のようにして使っていた。グールはグレイの代わりに闇の炎に飲み込まれ、しかし工作機械がその機械油に火が付き、燃え盛っていても気にせず自動車を組み立てるようにして、そのことにはまるで気にせず、肉が焦げ血が沸くようなその唇は、蛇への歌を歌い続けている。

 ブラックシープは。

 赤い海を泳ぐように宙を翔けて。

 そして、やがてその体は。

 軽やかに着地した。

 ハッピートリガーと、グレイから位置を取って、その丁度真ん中のあたり、それからブラックシープは軽く手を上げて、自分の額のあたりに差し上げて、かわいい系のきゃるんとしたポーズを取るかのように、右の腕、人差し指と中指、そして親指だけをぴんと伸ばして手のひらを見せて、そして軽く曲げた小指と薬指で支えているのは、鈍く光るフラナガン銀のライター!

「カムバック、悪を焼き尽くす正義の炎よ!」

 その言葉に反応したわけではないが、とにもかくにもそこら中に降り注ぎ、まるで煉獄(リリヒアント第八階層)のように焼き尽くしていた土蜘蛛の炎はまた静かに一点へと、つまりブラックシープの頭上、少し上のあたりへと集まり始めた。その様はまるで地を這う蜘蛛が、目に見えない巣にかかった一匹の哀れな蝶々へと向かって一斉に駆けあがっていくようにも見えた。

「さて、これで二対二となったわけだね!」

 まるでこの世界を。

 戯れに引き裂く子供の声。

 ブラックシープは、仮面の奥。

 爽快な笑みを浮かべながら。

「そろそろあなたも理解し始めた頃じゃないかな! 正しき者は決して悪の前に膝を屈することがないということを!」

 ハッピートリガーは馬鹿みたいに膨れ上がった手の内のハイヴピストルの光を解いた、百七十の薬莢が、消えていく光の端から流れるように重力に引き付けられて地へと落下していき、そして音も立てずに転がって、そして溶けるようにそれも消えていく。それを見下ろしながら、いけ好かないと奴だとでもいうな声をして、ハッピートリガーは言う。

「お前が正しいなんて、一体誰が決めたんだよ。」

「やれやれ何も分かっていないね、ハッピートリガー……正義は誰かに決めてもらうものではない、ただ自分の中にあり、そしてそれを信じるものなんだよ!」

「なあ、ブラックシープ。お前は本当に……」

 手の内に消えた光を。

 またその手の内で灯す。

 ハッピートリガーは。

 きわめて不快そうに言う。

「話の通じねぇ奴だな!」

 それは、過去に世界で最も強力なライフルと呼ばれたもの。

 ドラゴンキラー・グレネード・ライフル、竜殺しの銃。

 第二次神人間大戦の最初期に作られた、圧倒的な威力を誇るライフルだ。狩猟用に作られたものをベースとして作られており、神々の騎兵隊が乗る竜を仕留めることを用途として作られている。神の加護を得た強靭な鱗を貫通するだけの貫通力と、竜の体内に入った時に一撃でこれを仕留めるため爆発を起こす榴弾式の弾丸が組み合わさったいて、当時の携帯可能な兵器の中では一発の攻撃力は最強とされていた。ただし、その威力がゆえに連発式にすることはできず(後々になって水平二連式のものが開発されたが、照準がつけにくくなってしまうためあまり好まれなかった)、HOSTや愛国が携帯型の対神兵器を開発し始めるに伴ってその使用は廃れてきて、現在では本当に娯楽的な狩猟でしか使われることがなくなってしまったものだ。

 ハッピートリガーは、狙いをつけて。

 ブラックシープに向けて、それを撃つ。

「笑止! 悪の言葉になどこの耳を貸すものか!」

 ブラックシープはそう言うと。

 がっ!とその右の手、ライターを持った手を突き出した。

 それにまとわるように、別の次元の温度で燃え盛る雲、頭上に揺蕩っていた土蜘蛛は、音をたてぬ蛇がごとく螺旋を描いて竜殺しの弾丸へと向かって発せられた。そのスパイラルはぱんっとブラックシープの少し前方で弾けて広がると、正面からだけではなく、側面からも攻撃を仕掛ける、さすがの土蜘蛛であっても、ドラゴンキラー相手では正攻法で仕掛けてもその体に穴をあけられてしまうだけだからだ。まるで自分たちの巣に向かって攻撃を仕掛けようと飛行中のアガナイウサギバチに、群がってそれを止めようとするカチクバチのような、そんな連想さえも思いかばせる光景、土蜘蛛はその榴弾を砂嵐のような全身を使って包み込むと……ブラックシープに到達する前に、自分の体内でそれに圧力をかけ、破裂させた。

 耳を裂くような轟音のはずの音は。

 圧せられて、くぐもった音になる。

 土蜘蛛は、一度その爆発で引き裂かれるが。

 しかし、やがてはまた一つの体へと戻る。

「グレイ、連続で行く! 隙を狙え!」

「分かった。」

 通常のドラゴンキラーは、連発ができない。

 しかし、ライフェルド・ガンには。

 そんな制約は存在しない。

 ハッピートリガーが望めば、望んだ数だけ。

 弾丸は、新しく生まれるのだから。

 弾を込める動作をすることもなく、ハッピートリガーは連続してその手元にある引き金を引いた。引き金は、引かれるごとに作り出され、真の意味でオートマチックに補給される弾丸を、何の疑問もなくライフリングを通じて打ち出すための、ただの伝令役に過ぎない。

 一発。

 二発。

 三発。

 それから先はたくさん。

 連続して襲い掛かるような弾丸の群れに向かって。

 ブラックシープは、不敵な笑い声をあげる。

「やれやれ、また力押しか! 単純な思考だな、そう何度も同じ手法が通じると思うか! さあ、無慈悲なる正義の炎よ、行くぞ! あの愚昧なる連中に、正義の焼き印を施すのだ!」

 そう言うとブラックシープは華麗に弾丸を飛び退けて、その隙を狙って襲い来るはずのグレイに向かい、自分から突撃を仕掛けた。一方で土蜘蛛はというと、さすがの華麗なブラックシープも避けきれなさそうな残りの弾丸を一つずつ着実に潰していきながらも、次第に次第にハッピートリガーへと近づいていく。

「ブラッデスト・サニー……ヌミノーゼの相手か。」

 ドラゴンキラーを撃ち続けながらも。

 ハッピートリガーはそう呟いた。

 ぽんっとその手に持っていたドラゴンキラーを手放すと、自由になった手のひらの中にまた新しく二つの小銃を作り出した。ドラゴンキラーはハッピートリガーの手から離れても、その精神と接続されている限りは連射をやめることはない、鍵盤が一つしかないプレイヤーピアノのように引き金を引き続ける。そちらの方はそちらに任せて、ハッピートリガーが作り出したのは、今度はまるでおもちゃのコルク銃のようなピストルだった。拳の大きさほどもある銃口が、子供の落書きのような短いバレルへの滑らかな曲線の先に繋がっている。今まで見たこともないようなピストルだった、無知な子供の思い描く異様な妄想の中以外では。

 ノスフェラトゥの滑らかさで。

 すうっと、ハッピートリガーは翔けた。

 まるで氷でできた音楽のように。

 その体は、ヌミノーゼの欠片へと近づいていく。

「さっさと終わらせねぇとな!」

 体を幾つもの手段へと分裂させてその各々でドラゴンキラーの弾丸を呑み込める限りにおいて次々に呑み込んでいく土蜘蛛に向かって、そう言いながらおもちゃのピストルの引き金を引いた。それから発せられるのは……普通の弾丸ではない。こちらもまるで、思考がまだ固まっていない人間の子供の、掴みがたい夢の中で出てくるような代物だった。銃口にふさわしいサイズをしていて、巨大な弾丸の先端に刻まれた十字のようなものがついている。その十字は狙われた土蜘蛛の一部に近付くと、がぱっとその部分から裂けていき、抱きかかるようにして襲い掛かり、そして弾丸を包む土蜘蛛を、更にその内側に包んだ。

「まずは一匹!」

 言いながら、更に自分の精神が放つドラゴンキラーの弾丸の霰をなんでもないことのようにして軽く避けつつ、ハッピートリガーは次々とヌミノーゼの断片をこの世界の中で具象的な形態をとった自分の精神の中に包み込み、そして無力化していく。それは、その姿は、手に持つピストル形状のある種の幼稚さも相まって、まるでサーカスの舞台の上で縦横に跳ねまわる、おかしなピエロのようにさえ見えた。その描く行跡の後ろに、キラキラと光る光の玉を、次々に落としていくピエロ。このまま進めば、すぐにでも全ての土蜘蛛の集合を光の玉の中に封印できるように思えた。

 けれど。

 しかし。

 そう簡単にははいかないようだった。

 いくつか封印された土蜘蛛の、その残りの断片、封印された他の断片の分だけその体を大きくして、そしてその体から余剰の部分を切断する。性を必要としない増殖、次々と、それはまるで単細胞生物のように広がっては新しい個体を生み出していく。それは、土蜘蛛は、ヌミノーゼの次元の欠けらだ、あらゆる物事においていえることのように、その理論にはいくつかの例外は存在するが、とにかく理論的には全てのヌミノーゼの欠片は一つのディメンションへと繋がっている切断面のようなものに過ぎない。だから、その体がこちら側で少なくなれば、新しくそちら側からこちら側へと、自分自身を取り込み浸食すればいいだけの話なのだった。

 ハッピートリガーは。

 忌々し気につぶやく。

「ちっ……きりがねぇ。」

 一方で、グレイは?

 何をしているのか?

 獣の相手だ。

 己よりも、ライカーンよりも。

 遥かに、獰猛で、残忍な、獣。

 飼いならされていない。

 野生の肉食獣。

 その獣は、羊の皮を被っている。

 金の蹄に、黒い羊。

 ブラックシープ。

「素晴らしい、実に素晴らしい!」

 嬉々としてそう叫びながら、ブラックシープは何か巨大な殺人機械の一部、その中でももっとも致死的な、フェイタルな部分、それは例えば大した意味もなく鋭い刃や、直線距離を最高速度で移動しようとしている弾丸のように晴れやかだった。そこには疑問はない。理性も、合理もない、もちろん慈悲などない。ただ単純に、正義があるだけだ。あるいは、絶対のジャスティス。

 そして、そう。

 正義は、執行する。

 With。

 His。

 Pleasure。

 ブラックシープは右の手に持っていた銀のライター、蓋を閉じることもせずにぽんっと宙に放った。散弾のせいで、骨が少し露出さえしている肩の先、かろうじて動くと言った程度の左手が、その通りかろうじて動いてそれをぱしっと受け取った。左の腕は、もう戦闘の役には立たないだろう、だから、ヌミノーゼの器を保持するために使うしかない。

「敵ながらあっぱれと言っておこうか!」

 しかし、その右の腕は? あるいは両足は? 右手、と、右足、と左足、の、金、の、蹄は? それは、今まさに血に渇き、肉と骨に飢えていた。ブラックシープの全身は、まるで細波だつようにして歓喜の歌を歌っていた。様子を窺うようにして、身のこなしを確かめるようにして、あるいは活きの良い鼠を見つけた猫が、手のひらの内側でそれと戯れるようにして、ブラックシープはグレイに対して右手で軽く二、三発のジャブを入れる。グレイはそれを計ったように正確に避けながら、攻撃の隙を見計らっているらしい、知っているのだ、迂闊に間合いに入れば、その瞬間に死が首筋を訪うことを。

 そして一瞬だけ。

 ふと、ブラックシープの注意がそれた。

 土蜘蛛が咀嚼し損ねたドラゴンキラーの弾丸、そのうちの一発が、ブラックシープの丁度頭部のあたりを狙って飛んでいったのだ。やむを得ず、頭を少し横にそらしてそれをやり過ごす、その瞬間の隙、それを狙い、グレイは腰に重心を落として横殴りに攻撃を繰り出す。

 ブラックシープはそれをやすやすと避けて。

 そして、仮面の奥の顔はぱっと笑う。

 グレイの体。

 間合いの中に。

 入ってきた。

「そのしなやかな身のこなし、ためらうことなき攻撃は、繊細でいてかつ大胆! 一撃一撃が十分に重いにもかかわらず、素早さを失っていない!」

 そう言いながら、ブラックシープは目の前の空間をえぐり取るかのごとき勢い、左足の金の蹄を叩き込むようにして、間合いの中のグレに向かって蹴り上げた。グレイはもとから低くしていた体を、横倒しに倒すようにしてそれを避けた、それは、本当に寸でのところで、蹄は命を奪うことはできなかったが、避けきれなかったグレイの片方の耳を薙いで飛ばしていた。一方のグレイは倒れ際、ブラックシープの攻撃の勢いをうまく利用するように体を軽く押した。ブラックシープは慣性のベクトルをずらされたせいで、バランスを崩して後ろ様になり……そして、その体は再び飛来していたドラゴンキラーの弾丸の、その弾道が描く先へとさらされる。

「ジャスティス!」

 ブラックシープは一言だけそう言うと、まるでダンスにでも誘うようにして右手の蹄をその弾丸の方向へと差し出した。目測、少しのミスも許されない、蹄の弧を描く曲面と、弾丸の入射角、その二つの要素が絡まりあい、愛し合うはずの極点を瞬時に感じ取って(計算したわけではない、計算は苦手だ)、本能的にブラックシープは自らの動きを調整した。

 ライフェルドの弾丸は。

 ブラックシープの蹄の先。

 柔らかく、口づけを落とす。

 そのまま、その先端。

 曲面を滑り。

 やがて、その軌跡は書き換えられる。

 蹄の面を滑らせることで、弾丸の方向を変えたのだ。もちろん、ドラゴンキラーは対象に衝突するとその衝撃を受けて爆発を起こす、しかしまるで絹の羽で水面を撫でるようなブラックシープの手つきは、それが炸裂するだけの衝撃を与えることはなかったのだ。そのまま弾丸はブラックシープの眼前から明後日の方向へと飛んで行ってしまう。これでまずは一安心か? いや、決してそんなことはない、ブラックシープは崩れかけた重心とバランスとを整えると、すぐにその体を反転させる、つまり、グレイと相対する。

 グレイの口は大きく開いて。

 牙をむき出しにしていた。

 ブラックシープの喉元を狙って。

 それを威嚇するようにして、ブラックシープは撫で切るかの如く右足の蹄を滑らせた。グレイは体を引きつつも、再度噛みかかってくる。それを今度は左足の蹄で制して、それを、二度、三度、四度、一人と一匹はその動きを繰り返し……そしてグレイは、急にその場をブラックシープから見て右側へと横っ飛びに跳んだ。その体が避けた先、すぐ背後には三発のドラゴンキラーの弾丸が迫っていたのだ。一発はブラックシープの眉間を狙うようにして、残りの二発はブラックシープから見て左横と、それから少し頭上を狙うように。グレイの精神はハッピートリガーの精神と繋がっているため、どの弾丸がどこを飛んでくるかなど、見ることもなく手に取るように分かる。だから、ぎりぎりのところまで弾丸を引き付けておいて、それから避けたのだ。

 しかし、ブラックシープは。

 急に目の前に現れた弾丸。

 それに慌てることもなく。

 後ろ向き、倒れ込むようにして。

 膝を折って、身を倒した。

 弾丸は、ブラックシープの直上。

 虚しく、虚空を切っていく。

 具体的な形を取ったハッピートリガーの死の思考が、直線として自分の頭上を通り過ぎてから、ブラックシープは膝の力だけで再び体を起こして、それを受け入れる姿勢を整えた。それを……グレイの抱擁を。その抱擁には愛はなく、憎しみもなく、ただ単純な殺意だけを灰色の花束のようにして束ねたものだった、苦い鉛を研ぎ澄ました刃物のように鈍く尖った爪が、右と左の双方から襲い来る手の先にそれぞれ五本。それから、まるで面白くない冗談を心の底から笑っているように、あるいは死に際の祈りの間際に引き裂かれたように開かれた口には、数えきれないほどの牙が並んでいる。爪と、牙、爪と、牙、爪と、牙。花の代わりものとして、その花束が束ねたものは。

「ペンティゴは終わりかい!」

 ブラックシープは、愛らしく微笑んで。

「今度はクロスリー・ダンスかな!」

 そして、同じように自分の右腕を広げて。

「望むところだ!」

 その抱擁を、受け止めた。

 くるくると、軋み歪んだメリーゴーラウンドが、まるで悲鳴を上げているように笑い声をあげた。それは、遠く遠く、自分の縄張りの全てに響き、そして己の存在を知らしめるような、まさしく捕食者の笑い声だった。グレイは……それを聞いた時に、恐れた。グレイ自身は、それが初めてのことだと思っていたが、それは間違いだった、グレイは、ずっと恐れていたのだ……ブラックシープのことを。この、知性ではなく、ただ力によって、この世界のあらゆる存在の天敵となり得るべく定められた、最強者を。もちろん、ルーシー・バトラーに教えられるまでは、グレイは胚胎別理の概念など知るはずもなかった、しかし、その頃でも、実は、グレイは、知っていたのだ、その生き物が、胚胎別理が、つまり、ブラックシープが、己の天敵であることを。

 この男が悪と定めたものの天敵。

 この男が自分で言う通りの存在。

 つまり、正義の、ヒーロー。

 そして、いつか、この男は。

 ハッピートリガーを、殺すかもしれない。

 死に物狂いで、グレイはブラックシープの体に爪を、牙を、突き立てようとした。手と足、脚と腕、頭と胴、二つの体はまるで愛を愛する春先の二匹の動物のようにして激しくもつれ合い、そして転がった。それは、二本の角を持ち、四本の蹄を持ち、黒い皮で身を包んだ、獣、殺さなければ、その獣は、全てを奪っていくだろう、命だけではない、最も、最も、失いたくないもの、いともやすやすと、この獣は、その笑い声をあげながら、蹄で引き裂き、口で噛み砕き、そしてそれをこの世界から、永遠にそれを喪失させるだろう。ハッピートリガー、は、私、が、守らなくては、いけない。

 戯れるように。

 ブラックシープは。

 グレイの攻撃を躱した。

 牙をむき出して噛みついてくる口。

 次々と切りかかる手のひらの先の爪。

 全て、全て、枕の上の遊び事。

 遊び事、遊び事、遊び事、けれど、ほんの、少しだけ、遊びが過ぎたのかもしれない。ブラックシープは、己自身をグレイの内側に桎梏するように、あるいは己の内側にグレイ自身を受け入れるかのように(生物の全て、全ての快楽的殺傷行為は、性的な不能、不完全な満足を補うための、代替、あるいは補完行為に過ぎないのだろうか?)グレイの振り下ろした爪が、静かに、あっさりと、ブラックシープの肉に沈んだ。だらんとぶらさがるようにして、動くこともできずに無抵抗だった、左の腕の先に。

 ブラックシープは、さながら悦びの声を上げるかの如く淡く甘い声であえいだ。まるで犯すようにして肉に入り込んだ爪は、ブラックシープの二の腕を掻き取るようにして強く中をえぐる、赤い海の中に、その赤とはまた異質な赤が飛散して、それはまるで、あるいは、サム・カインド・オブ、射精のようにさえ見える。ブラックシープは感極まったようにしてグレイの背に右手を回すと、優しく、優しく体をひねってグレイが自分の上に来るように促した。

 笑っている、グレイの耳元で。

 ブラックシープは吐息のように甘えて。

 そして、グレイの、腹を。

 優雅な交尾のように蹴り裂く。

「ぐうぅっ!」

「グレイ!」

 ハッピートリガーが、叫ぶ。

 痛みを、精神のリンクを通じて感じる。

 グレイの体が、宙に舞うのを見る。

 美しく、血のしぶきを、上げながら。

「どうだ、悪のはらわたから生まれし野獣め!」

 グレイはどうやらあまりにも近づきすぎたらしかった。ブラックシープは右脚、その先の金の蹄で、グレイを蹴り上げたのだ。危ういところで体をそらし、どうやら急所には当たらなかったらしいが、それでも横腹にはざっくりとくりぬかれたような傷口が開いて、そしてグレイの体はそのシープ・ジャスティス・キック(ブラックシープは大体の自分の蹴撃をこう呼んでいる)の衝撃でブラックシープから引き離され、吹き飛ばされたのだった。

「グレイ!」

「大丈夫だ!」

 ハッピートリガーの呼びかけに。

 血を吐き出すように答える。

 とても、大丈夫そうには聞こえない。

 その上、グレイを、下で待つのは。

「なかなかしぶといな、さすが悪の枢軸のうちの一軸とでも言っておこうか……しかし、さあ、これでとどめだ! 汚らわしきけだものよ!」

 正義の大剣を掲げたブラックシープ!

 この状況、名付けるなら絶体絶命!

 やはりこの世の全ての悪は!

 決して正義に勝てないというのか!

 グレイの体、その悪が、まさに!

 今この時、公正に裁かれようとする!

 しかし。

 その時。

 世界が。

(このシガーを……ねえ、ブラックシープ。吸い終わるまでには、これを終わらせてほしかったんだけれどね。だって、だって、ねえ、ブラックシープ。ライターがなければ、僕はシガーに火をつけることができないじゃないか。フラナガンはシガーの吸殻を落とすと、靴の踵でその火を踏み殺して、それから黒い色の紗の奥で笑った。)

 しかし。

 その時。

 世界が。

 悲鳴を。

 上げた。

 赤く。

 赤く。

 赤く。

 ああ。

 知って。

 いるの。

 ですか。

 その。

 全ては。

 きっと。

 真っ赤な。

 嘘。

 だった。

 と。

 いう。

 ことを。

「なっ、くっ……ああああああああああああああああああ!」

 ブラックシープが「それ」を感じて、右手で頭を抱えて叫んだ。襤褸布のように垂れ下がっていたままの左手から、フラナガンの銀のライターがさらりと滑り落ちる。ブラックシープが感じた「それ」は、例えていうならば、波だった。赤い、赤い、どこまでも、赤い、歪みが、この世界の、果てから、果てまで、覆い尽くすような、波が、ブラックシープの体に叩き付けてきて、それを攫い、そして内側の内蔵の中に飲み込んで、ぐちゃぐちゃに咀嚼する、そんな、波。ブラックシープの全てが、歪み、軋み、悲鳴を上げた、それは……しかし、それは矛盾することに、ブラックシープには何も起こっていないのだった。その波は存在することがなく、歪みもなく、軋みもない、悲鳴も聞こえなかった。ただ、ブラックシープの内側と、その外側に、あらゆるものと断絶したようにして、ぽつんと世界だけが知覚できた。その世界は……完璧だった、少なくとも、ブラックシープにとっては。その世界では、正義は栄え、悪は滅び。ブラックシープが、こう有り得べきと考えた世界、それは、端的にいえば楽園。

 ああ。

 赤い。

 海の。

 心臓。

 鼓動を。

 歌う。

 それは。

 楽園。

 その。

 楽園の。

 名前は。

 サンダルキア。

 そして。

 私の。

 名前は。

「ハッピー、終わったよー。」

 はっと、耳の奥で響くようにして聞こえたパウタウの声、目覚まし時計が鳴り響いた朝のようにブラックシープは気がついた。左手の、薬指の先で、間違った赤色、反転した赤色をした指輪が歪んだ光を放っている。それに、縋り付くようにしてブラックシープは右の指先で触れながら、いつの間にか仰向けに、地に倒れ伏していた体を起こした。

「ジャスティス……これは……!」

「ついに……ついに封印が解けたのか!」

 さすがのブラックシープも、今度の今度こそは、演技やその場の雰囲気に合わせたのではなく、本気で絶句したらしかった。その沈黙の上に、勝利の響きを響かせるハッピートリガーの声が重なって、それを掻き消した。それは……その光景は、ブラックシープを絶句させただけではなかった。今までそこここで燃え盛り、この場を煉獄のように演出していた土蜘蛛、幾つものその黒い炎はまるでその場の赤に塗りつぶされたかのようにして全てが消えてしまっていた。ヌミノーゼ・ディメンションは、押し流されたのだ。ブラックシープの精神を襲った、あの波と同じものに。この世界から押し流されて、それは、例えば、この世界の人間が、恐怖や逃走と呼んでいるものに近かったのかもしれない、とにかく、土蜘蛛は、自分たちの次元へ、ヌミノーゼ・ディメンションへとその存在を帰していた。もう、ここには、その黒い炎は、赤い海の中には、存在しなかった。

 赤?

 そう、赤だ。

 パウタウの声がした方。

 王台の、その上。

 赤が、流出していた。

 それは、赤い色。

 お姫様が、流している涙。

 あるいは、赤い竜。

 檻は、消えていた。その存在を、存在せずに。王台が持つ五つのコイル、五つの鉤爪、赤イヴェール合金でできた支えは、その内側で夢を見るような鈍い輝きをやめていた。そして、その上、ティンダロスの曲線と、ティンダロスの角度と、ティンダロスの直線によって形づくられていたもの、この世界で、唯一ゲニウスを解知し、同定し、幽閉することのできる、フェト・アザレマカシアの愛、つまり、ウエイトリー・フィールドは、完全に消失していた。それは初めから存在せず、今においても存在しておらず、そして未来においても存在しない。

 だから、彼女を閉じ込めるものは。

 もう、なにも、無いのだ。

 彼女。

 彼女。

 彼女は。

 それは。

 L、と。

 呼ばれている。

 それは、とても大きかった。暗く広い海の真ん中、ドームのような洞窟の中で、形が定まらないゼリーのような形をした体を震わせている。それは、球体だった、宙に浮かび、赤い色の涙を流す、一粒の、巨大な、ジェムのようなもの。その体の表面をじっと見ていると……誰か、永遠に失ってしまった人の顔が、あるいは本当は出会うべきだった人の顔が、たまに浮かび上がってきたりすることもある。とても大きかった、本当に、とても、大きかった。真色の赤で、けれど透き通るように透明で、例えば……例えば、どういえばいいのだろうか、それは、この世界の存在の、その精神の内側にある、全ての感情の中でも最もひどい部分、ひどいといういい方しかできないのだが、それは正確ではない、とにかくひどい部分を、すべてアクリルの絵の具にして、そしてそれをガラス色のカンバスに叩き付けた、そんな印象を受ける。それは絶対にはっきりしたものではなかった、形として捉えられるものではなかった。しかし、それは、卵だった。赤い卵、赤い色をして、夜に光る卵。

 赤をこの世界に流出させながら。

 それでも、まだ、それ、は。

 静かに、浮かんでいるだけだった。

 眠りから、覚めたばかりだ。

 まだ、殻を破る気にならないのだろう。

「よくやった、パウタウ、よくやったぞ!」

「ふふふー。ありがとうー、ハッピー。」

「ついに、ついに封印は解かれた! これでLは俺のものだ!」

 ブラックシープは、はっと気がついたようにして「それ」から目をそらして、そして王台の方にいるらしきパウタウ(次々と流れては落ちていく赤い光のせいでその姿はブラックシープには見えなかった)をねぎらう、ハッピートリガーの勝ち誇った声がした方を振り返った。何が起こっているのかは、ブラックシープには全く理解できなかった、正義の執行に特化したために、極限までシンプルな構造をしているブラックシープの頭脳では、今の複雑な状況を把握しきることはできなかったのだ。しかし、ただ一つ、これだけは理解できた、今、まさに、悪が、勝利しようとしている。

 そして、正義の使徒ブラックシープが。

 その行動を決定するためには。

 それが分かっただけで、十分だった。

「おのれ……おのれ、ハッピートリガー!」

 ブラックシープは右の手をすぱっと上げて、それからその先の人差し指、ハッピートリガーのことをばしーんっと人差し指で指さした。そのまま、手のひらに力を込めてと握り込むと、拳を自分の体に向けて、ぐっと引き寄せる。額をその拳にくっつけるようにして、今まさに苦悩していますといわんばかりのボーズを取ると、そこからばばっとポーズを変えて、右手を体の前で開くような形を取った(ちなみに左手からはだだらと血液が流れ落ちており、そして肉の裂けた先に骨が見えているその様は、まるでゴミ捨て場に放置されて、あるいは烏についばまれ続けた、案山子の体に先についているもののようにさえ見えた)。

「ついに最終兵器Lを手にしたかっ! しかし、喜ぶのはまだ早いぞ、ハッピートリガー……なぜなら最後の最後に正義は必ずその手に勝利を収めるものだからだっ! 悪の願うことは成されず、悪の望むことは行われないのだっ! どんなに不利な状況であろうとも私は……私は諦めないっ! この目が青い限りっ! 私はっ! お前の野望をっ! 打ち砕くっ!」

 ついに最終兵器Lを手にしたかも何も、実際のところブラックシープとしてはLについて何一つ、完全に、全く、一片たりとも、知識を有していなかったので、結局それを手にすることでハッピートリガーにとって何の益があるのかとか、そういうことは一切知らなかったのだが、それはともかくとしてそう叫び放つと、いつものように地を蹴って颯爽とハッピートリガーの方に駆けだそうとした。

 しかし。

 その時に、その体。

 背後に向かって。

 ぐいっと引き寄せられる。

「ジャスティス!」

 ブラックシープは悲鳴を上げた、引きちぎらんばかりに掴まれて、引っ張られたのは、ぼろぼろになっていた左手だったのだ。そのまま抵抗もできずに、ブラックシープの体は倒れ込む、全身を覆うように抱きしめたそれは……まるで、鉄を溶かした生ぬるい液体に濡れた、安物の絨毯のような感触がした。耳元で、げぶっと何かを吐き出す音がした、その体が寄りかかってきた衝撃に耐えきれなかったらしい、ブラックシープの顔の方に霧吹きで吹きかけたように血液が飛び散って、そしてブラックシープはその方を振り返る、自分を抱きしめた、その相手の顔を見る。

「あなたは……ライカーン・グレイ!」

 ブラックシープはそう言うと、何とか自由になろうと体をもがかせて、グレイはそのせいで少しふらりとよろけたが、決してブラックシープの体を離そうとはしなかった。腹に大きく削られた傷からは、まるで溶けたチョコレートアイスクリームのような、あるいは砂時計のようにグレイの生命力を流し出す血液が、べとべとと垂れて落ちていく。どうやらもう、立っているのもやっとのようだった。しかし、ブラックシープの体を掴んだその腕は、まるで黒イヴェール合金でできた万力のように、固く、固く、絞めつける。

「離せ、ライカーン・グレイ! 災厄をもたらすものの右腕よ!」

「離しはしない。」

 グレイは、ブラックシープの耳元で。

 血の塊を吐き出すようにそう言うと、

 力を振り絞って顔を上げた。

 ハッピートリガーに、目を向けた。

「リチャード!」

「グレイ! お前……」

「そんなことはどうでもいい、早く撃て。」

「撃て? 撃てって……おい、どういう意味だよ、今撃ったらお前まで巻き添えになるだろ! 下手したら死ぬぞ!」

「言った通りの意味だ。この男は生かしておくべきではない。私が押さえている今がチャンスだ。この男を殺せ。」

「そこまでする必要ないだろ! 俺はもうすぐにLを手に入れる、そうしたらこんな男の一人や二人……」

「ヴァイオレットの言ったことを聞いていなかったのか。この男はまだ百パーセントの力を出していない、胚胎別理の可能性があると言っていただろう。お前は冗談と取ったようだが、私は知っている、ヴァイオレットは冗談を言わない。そしてこの男がもしも胚胎別理であれば、例えゲニウスの所有者であっても、百パーセントの力を出したこの男を止めることはできない。例の事件の時にアンジェリカ・ベインがどういう役割を果たしたか、お前も聞いただろう。」

 グレイは、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。

 ハッピートリガーに向かって。

 しかし、ハッピートリガーは。

 その言葉を、受け入れようとしない。

「グレイ、でも、お前……!」

「分からないのか、リチャード。今しかチャンスはない。」

 今にも、振りほどかれそうだ。

 ブラックシープが暴れるたびに。

 体から、力が流れていく。

 ぐっと奥の歯を噛みしめて。

 まるで、それを放つように。

 グレイは、叫ぶ。

「リチャード、撃て!」

「ちっ……クソがあああああぁっ!」

 ハッピートリガーは、己の胃を裂き腸を断つような声でそう喚くと、ブラックシープに向かって、そしてその体を拘束するグレイに向かって、照準をつけるようにして両手を構えなおした。手の先に持っていた二つの小銃は砕けて、混ざり、合わさって、その光はやがて二挺目のドラゴンキラーを形象する。ハッピートリガーは、ストックを、肩に当たる。ハッピートリガーは、グリップを、手に握る。ハッピートリガーは、ハンド・ガードを、手で支える。フロント・サイトを、覗き込む。そして、その手で、引き金を引く。

 照準の先。

 赤い海の底で。

 赤い花が咲く。

「ジャス……」

 時間がゆっくりと流れる。

 世界が息を飲んでいるように。

 ブラックシープの体と。

 その後ろ、グレイの体が。

 柔らかく傾ぐ。

 綿の、抜けた、人形。

「死ね、独善野郎!」

「ティ……!」

 ハッピートリガーの叫びと共に。

 ブラックシープの体に入った榴弾が。

 まるで、まるで、舞台の上の。

 赤い色のカーテンを引くようにして。

 はじけて、はじけて、そして、燃える。

 ブラックシープの体が。

 紅蓮の花びらを散らしながら。

 スロー・テンポ。

 ばらばらに、吹き飛んでいく。

 ブラックシープの口。

 炎の向こう側で動いても。

 その、言葉の、先は、続かない。

 まるで、錆びついて。

 折れてしまった。

 それは、剣のようにして。

 ただ、美しく、花びらを、吐き出す。

 そのまま、ブラックシープの体は弾丸を撃ち込まれた心臓を中心として四散して、頭、腕、足、あるいはその他の内臓、炸裂して炎をまき散らす榴弾の欠けらと共に吹き飛ばされた。ブラックシープの体をすぐその後ろで掴んでいたグレイの体も、やはりその爆発の余波をまともに喰らい、後ろに向かって跳ね飛ばされた。

「グレイ!」

 ノスフェラトゥの、純種の速さ、その最高速度でハッピートリガーはそちらの方に向かって走った。もちろんそれは爆風の速度などよりも早く、吹き飛ばされて宙を舞うグレイの体を、壁に叩き付けられる前に抱きとめることができた。そのまま、なるべくグレイの体に衝撃が加わらないように、ふわりと羽で撫でるように優しく下へと着地する。

 しかし、それは。

 どうやら、無意味のようだった。

 グレイは、ハッピートリガーの腕の中。

 今、辛うじて、呼吸している程度。

 もちろん、炸裂した榴弾のその破片は全てハッピートリガーの意志によってコントロールされている、それはブラックシープを内側から引き裂くことはすれ、決してグレイの体を傷つけはしなかった。しかし、爆発の炎と……そして、はじけ飛んだブラックシープの体の断片は別だ、そこまでは、ハッピートリガーもコントロールできなかった。グレイの体は無残にも焼かれて、そしてもともとのブラックシープによって貫かれた傷口はさらに広がり、そしてところどころにブラックシープの体の断片、骨のようなものが突き刺さっている。そして、更に決定的なことに……グレイはライカーンだ。ノスフェラトゥのような、自然の理に反する力は持っていない、つまり、その身を時の神の鎌よりも早く再生することは、できないのだ。

 ふっと、グレイは、その目を開けた。

 ハッピートリガーの姿を認めると。

 また、疲れ切ったようにして目を閉じる。

 そして、その口。

 泡言のようにして。

 言葉を紡ぐ。

「リチャード……」

「グレイ、喋るな!」

「ありがとう……お前が……何を求めていたとしても……」

 途切れるようにして。

 グレイは、口を、止めた。

「グレイ? グレイ……グレイ!」

 答えはない。

 ただ、静寂。

 ゆっくりと、グレイの体が重くなっていくのを感じた。まるで、誰かがその中に、鉛を流し込んでいるかのようにして。ちなみに一般的には、狼の姿を取っているときにライカーンが死ねばその体は人間の姿に戻るものだと考えられているが、それは間違いだ。ライカーンの月変りは純粋な生理的な現象であって何らかの神的な要素は全く含んでいないため、死と共にその体があらゆる活動をやめてしまえば、もうその体は変化しようがないのだ。閑話休題、それはともかくとしてグレイは死んだ。

 ハッピートリガーは、その体を。

 ゆっくりと、地に横たえた。

 そして、立ち上がった。

 体を震わせるようにして。

 やがて、それは、声になる。

「ふふっ、ふふふふっ、ふふはははははははははははははっ!」

 高らかな哄笑。

 気が狂ったように笑う。

 世界のすべてに対して。

 宣戦布告をするように。

「俺の邪魔をする胚胎別理は死んだ! もう誰も俺を止めることなどできはしない! さあ、革命の時だ! 俺を捨てたあの連中を皆殺しにして、この国を俺の物にする時だ!」

 手のひらの中。

 王台に向けて。

 預言者の十字架。

 穢れの赤色。

 叩き付けるように突き出す。

 あるいは、命じるように。

「さあL、目覚めろ!」

 全てが、全てが。

 ハッピートリガーの計画通りに進んだ。

 ハッピートリガーは、そう信じていた。

 しかし、その時、王台の下に。

(だから、それを見た時に。)

 ホールを満たす、全ての海よりも。

(皆がこう叫ぶのだ。)

 なお赤い、一人の、影を、見た。

(見ろ、ここに神がいるぞ!と。)

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