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#37 シープ・パワー制御バンドはついに外されてしまった

 後期ルルイエ式教会、そのドゥルーグ部分のプランを見てみると、すぐにそれがティンダロス十字を模ったものであることが分かるだろう。まっすぐに伸びた中央身廊と、それと十字に番った短めの翼廊。その丁度交差部分がドーム状になっており、焼き尽くしの祭壇を設えた内陣が置かれ、その奥、聖書よりモチーフを取った彫刻が刻まれた聖障が覆い隠す先の至聖所には、カトゥルン礼拝堂と、それに繋がり銀門塔へと続く通路である「蛇の檻」がある。中央と翼廊の交差部を中心として、円を描くようにして周廊が接続し、円弧を描く曲線と、十字の接続部の直角でできた、四つの扇形の部分はサンダルキア(もしくは引き裂かれたサンダルキア)と呼ばれ、泉の置かれた美しい中庭になっている。

 そして、ブラッドフィールド中央教会も。

 その古典的な、ティンダロス十字プランを採用している。

「さあ、なされた罪に勝ち誇る悪しき者どもよ! 見よ、私はつるぎ、私は炎、あなたたちの不義を報いるもの! 今こそ首を垂れ、正義の裁きの列に並ぶのだ! 悪徳の宴の時終わりて、罰と滅ぼしの時来たれり!」

 さて、そんなことを叫びながら、見事にぶち壊されたヨグ=ソトホースの門からその中へ、ティンダロス十字の形をしたドゥルーグの中へと入ったブラックシープ(とその後ろからついてきてるフラナガン)の目に入ってきたのは、どこかしら、異様で、異質な、まるで異界の物のような光景であった。夕暮れの時間は終わり、既に日は落ちていたはずだった、今の世界は夜の世界のはずだ、それなのに、その左右に側廊を従えた中央身廊には、光が差している。光、光のようなもの、けれど光ではないもの、それは、太陽の光ではない。繊細な海の波を模したリヴが曲面天井中に広がる波浪ヴォールトを照らすようにして、両側に並ぶ巨大な尖塔窓から差し込むんでいるのは、赤く、赤く、そして……波浪ヴォールトをゆらゆらと揺らすように、それはまるで、海のように見る。理想郷のまわり、お姫様を閉じ込めるようにして広がっている、暗く広い海。暗く広い海には、恐ろしい怪物たちが、うじゃうじゃと住んでいる。それは、光ではない。それは、とっくの昔に滅びてしまった世界。それは、眠らずに見る夢。それは……

「ようこそフラナガン神父。お待ちしていましたよ。」

 声が、した。

 奥の方から。

 割れることなく、よく響く。

 教会の、中央身廊に向かって。

 二人がいる、会衆席に向かって。

「ハッピートリガーから、あなたをもてなすように申し付けられていましてね、それでここで待ってたんです。隣にいる方はお連れの方ですか? 確かお名前はブラックシープさんでしたよね。」

 その声は恐らく内陣の方から聞こえているようだった。中央教会における内陣は、例えばリベラシオン式に作られた教会のようにアルターレールズのようなもので区切られているわけではない。ただ智慧持つものの象徴とされている六段の階段によって高き所とされているだけだ。ドームと相似形の円形の内陣は、その左右、翼廊に向かってせり出した桟敷、高廊の上に設置された、レクターンとストールを備えたクワイアと、それからその後部の聖障によって前方の中央身廊以外の方向を囲われてはいるが。そして、その中央身廊は長い長い会衆席となっている。無知なる善男善女が、ここで救い主トラヴィールに祈りをささげ、そしてそのトラヴィールの代理人である神父から与えられる、さらなる無知を授かるための場所。

 彼と彼女らが座る椅子と椅子の間。

 中央、まるで、背骨のようにして。

 一本の通路が、内陣へと通っている。

 無知の授かりを待つ人々が並ぶところ。

 その通路に、ブラックシープとフラナガンはいた。

 ブラックシープは、声をした方にぱっと目を向けてみる、内陣の上、しかしどこにもその姿はない。ただそこには、赤い光のせいでその緑の色を失った焼き尽くしの祭壇が見えるだけだ。そう、上部のドームに幾つか開かれた小さな窓から、忍び込むようにして赤い光が差し込んで……そして、後部にある聖障にその光はひらめいて。それは、聖障に刻まれた彫刻のせいで、例えば焼き尽くしの炎のようにも見えた。

 聖障に刻まれているモチーフは、細かな差異があっても大筋の所は、オンドリ派のどこの教会も変わらない。一番上にはヨグ=ソトホースの聖なる御姿を隠すためにティンダロス十字に架けられた救い主トラヴィール、その下には銀細工で作られたデイシス(すなわち中心には犠牲の子羊である聖ランドルフ・カーターを、右には教会のもといの石たる聖エティエンヌ=ローラン・ド・マリニーを、そして左には最も無知なるもの聖アーニスト・アスピンウォールを配置したモチーフ)が、そしてその下には破滅と災厄の三都市、燃える硫黄と雹とが降り注ぐブールム・サンダルキア・レピュトスの姿が、両開きの「塩の柱の扉」を囲うようにして刻まれている。扉の上部にはブールム、右側に海に沈むサンダルキア、そして右側に墜落するレピュトスを、だ。汚濁と不敬の三都市はその全てを焼き尽くそうとする炎に包まれており、その炎は……その炎が、柔らかく包み込むような偽りの赤い光の揺らめきに侵されて、静かに、静かに、全てを焼き尽くし、それを見たものにさえ白い色の崩壊を与えてしまう炎のように、まるでそのもののように見えたのだ。

 しかし、内陣には。

 何者の姿も見えない。

「どこからともなく聞こえてくる声! 姿を見せよ、卑怯者!」

「別に隠れているつもりはないんですけどね。」

 フラナガンは、ふと見上げる。

 内陣ではなかった。

 その斜め上。

 左右の翼廊の方。

 彼の鬼らはいた。

「ああ、君達か。」

「ええ、俺達です。」

「久しぶりだね、パイプドリーム、それにレディ・ヴァイオレット・リーン。その場所に立っているということは、救い主トラヴィールに無知を乞う歌を歌いに来たということかな?」

 右のクワイアに、ヴァイオリン。

 左のクワイアに、パイプドリーム。

 それぞれが、見下ろすようにして。

 恐らく客人を迎えるためだろう。

 まだ、捕食者の姿ではなく。

 人の皮を被ったような姿をしている。

「いえ、特にそういうわけではないのですが、ここにいると四方全てが見渡せるもので。どの方向から来るとも分かりませんでしたからね、かといってそこに立っているのは、いかにもって感じがしますからね。」

 そう言いながら、パイプドリームは軽く肩を竦めて見せた。それから、とんっとクワイアのストールを蹴って、飛び降りてくる。それを見て、そしてそれを感じて、ヴァイオリンも、ころん、と転がり落ちるようにしてその後に続く。二鬼はそれぞれが二枚の柔らかい材質でできた紙のように内陣に着地して……それから、パイプドリームは両手を広げて、内陣に立つ自分たちの姿をフラナガンに対して示して見せた。

「ほら、この通り。」

「まあ、確かにね。それに、君達のような畸形のノスフェラトゥに、トラヴィールの聖なる焼き尽くしの祭壇に触れることが、許されるはずももないし。」

「ははは、随分とひどいことを言いますね。」

「それとさ、ちょっと気になったんだけど。」

「なんですか?」

「さっき君はさ、僕を待っていたって言ってたよね。」

「ええ、フラナガン神父。あなたを待っていました。」

「他のルートを通っていくとは思わなかったのかい? そこの駅からだって行けるし、ちょっと遠くなるけど下水道を方法だってある、ダレットセルなんてどこからでもいけるだろう?」

「確かにダレットセルに行く道はいくらでもありますね。しかし、フラナガン神父が通る道はここ以外にはないでしょう? あなたが下水道を通る? 有り得ませんね。」

「なるほどね、君の言う通りだ。」

「ご納得頂けたようで何よりです。」

「あー、それでさ、ちょっと相談があるんだけど、いいかな。」

「なんですか?」

「僕と彼、えーとブラックシープは、急いでいるんだ。正直な話、君達みたいなどうでもいい連中の相手をしている暇はない。だから、ここは素直に道を開いて、僕たちを通してくれないかな?」

「その提案に、俺たちがはいと言うと思いますか?」

「言うと思うから聞いているんだけれど。」

「なるほど、ではお答えしますが、NOです。」

「ふーん、そう。じゃあ仕方ないかな……ねえ、ブラックシープ。」

 そう言うと、軽く首を傾げて。

 背に垂れるポニーテールを揺らし。

 フラナガンは、ブラックシープに顔を向けた。

 しかし、そのようになされた意味ありげな目くばせ(というか目は布に隠れて見えないので顔くばせ)を、ブラックシープはまるで気がついていないようだった。「あ、これめっちゃ恥ずかしいやつ」と小さく呟いたフラナガンをよそに、二鬼の姿をようやく見つけたブラックシープは、すっかり上機嫌になってしまっていて、それどころではなかったのだ。その身に溢れんばかりの正義のパワーを、思う存分ぶつけていい相手、すなわち悪の姿を見つけることができたからだ。ブラックシープは右手をばっと内陣にいる二鬼に向けた、その先で金の蹄が、赤い光にキラキラと光っている。

「ようやく姿を現したな、悪の枢軸その一、そしてその二!」

「え? 何ですかその呼び方。」

「残念だったね、あなたたちの不埒破正、捨義乱界な計画は既に失敗に帰したようなものだよ! なぜならここに、万軍に等しき二人の正義の守護者あり! ジャスティス、その名を聞け、あなたたちに正義の裁きを下すものの名を! 私の名前は、ブラックシープ! そして……」

 そこで、ブラックシープは。

 ちらっとフラナガンを見る。

「え? はい、えーとファーザー・フラナガンです。」

 それを聞いて、うんうん、と。

 満足そうに頷いて、ブラックシープは。

 悪へ下されし無慈悲な判決を続ける。

「さあ、罪なき者をゆえなくして狙い、まるで神獄のごとく彼らを生きたままで飲みつくすものよ! さあ、正義の道から外れ、そして茨とともに涙の谷を歩くものよ! 恐れよ、恐れよ、ただただ恐れよ! あなたたちの夜に夜明けの輝きがくることはない、なぜならあなた達は今この時より、永遠に地から絶ち滅ぼされるのだから! 立ち尽くし、その目見開き、そして死ぬがいい! いざ、今こそ悪に正義の鉄槌を!」

 彼の鬼らはノスフェラトゥなので、夜明けの耀きが来なくても何の問題もないどころか逆に夜明けの耀きが来ない方がいいと思うのだけれど、それはともかくとしてブラックシープはそのように悪の枢軸に対する死刑宣告を下し終えると、一度顔の前で左右の腕に取り付けられた蹄を交差させて、それをこすり合わせるようにして、ばっと両手を体の前に開いた。かちんっとその拍子、金属の音がドゥルーグの中に響き渡り……その摩擦によって二振りの蹄に燃え上がるはフロギストンの炎! フロギストンの炎は物理的な炎ではないため摩擦による熱で発火することはないはずであり、従ってここでどうしてフロギストンの炎が金の蹄にきらめいたのかの原理は全く不明だが、それはともかくとしてブラックシープは仮面の奥で不敵かつ無敵かつ素敵に笑った。

 そして、ブラックシープは!

 内陣に立つ二鬼に向かい!

 鬼神のごとき勢いで飛び掛る!

 パイプドリームとヴァイオリンはよくもまあ辛抱強く待って、ブラックシープの全部のセリフを聞いていてくれたものだと思うけれど、とにかく事態はそのように進んだ。そして……

 ついに、今こそ!

 戦いの時間だ!

 イッツ・クレベリンタイム!

「おっと、危ない。」

「やるな!」

 ブラックシープはどちらということもなく、というかその両方を屠らんとしてパイプドリームとヴァイオリンの中間地点のあたりに突っ込んでいったのだけれど、その蹄は、いつの間にか狩りを行う側のものの姿、戦闘形態になって、ブラックシープの目の前に立っていたヴァイオリンによって軽く受け止められた。そして、ブラックシープが「やるな!」といった時には既にその体は軽くひねられ、そして放り投げられていた。

「あ、ちょっと待ってブラックシープ。」

「なんだい、ファーザー・フラナガン!」

 放り投げられた空中で体をひねって、ヴァイオリンの追撃を交差させた蹄で何とか受け止めながら、ブラックシープはフラナガンのちょっと待ってに対応する。

「僕、さすがにここでは戦えないから。」

「なるほど、ここはあなたにとっては聖なる場所、そんな場所に暴力は持ち込むことができない、それはあなたの正義に反するということだね! それは確かに道理だ!」

「いや、まあそれもあるんだけど、ここ僕の家なんだよね。自分の家で暴れまわって物を壊したり人を殺したりするのって、なんか頭が悪い人みたいで恥ずかしいし、それに後でいろいろ後片付けする時にすごい悲しい気持ちになりそうでちょっと気が引けるっていうか。とにかく、そういうわけなんでよろしくね。」

「なるほど、それは仕方ないね!」

「あ、あと極力物は壊さないようにしてね。」

「もちろんだとも! あなたの安住の家、ホーム・スイート・ホームは私が守ってみせよう、彼の鬼ら、正義に背を向けた唾棄すべき愚か者どもには……」

 そう言いながら、ブラックシープは!

 クワイアを覆うスクリーンの一部!

 蹄で角部をやすやすと切り落とし!

 それにフロギストンの炎をつけて!

 ヴァイオリンに向かって投げつけた!

「指一本触れさせはしない!」

「あー、うん、ありがとう。」

 しかし、そんなフラナガンの些細な願いは、すぐに打ち砕かれることになる。いや、まあブラックシープがヴァイオリンとの過程でドゥルーグ内部をめちゃくちゃな惨状にしそうだし、それは今、フラナガンの眼前で刻一刻と進行しているのだけれど、そういう意味で打ち砕かれるのではなく。

 パイプドリームが、いつの間にか。

 会衆席、フラナガンのすぐそば。

 塞ぐように、立っていたのだ。

 それを見て、フラナガンは。

 深く深くため息をつく。

「話、聞いてなかったのかな?」

「いえ、聞いていましたよ。」

「なら、僕じゃなくてブラックシープの方を殺そうとしてくれないかな。ほら、彼はあそこにいるし、君達二人くらいなら相手をできると思うよ。それとも、君は共通語を理解できないくらいのどうしようもない馬鹿なのかい?」

 フラナガンはそう言うと、ゆっくりと無知の幸の裾を揺らしながら一番近い会衆席に向かって歩いて、そして淡く深い海の底に揺らめくラゼノクラゲのようにして、ふわり、とそこに腰掛けた。それから、コートのポケット、銀細工のシガーケースを取り出す。キューカンバーの方には、まるで興味がないとでもいうように、その顔を向けることもしないままで。

「ブラックシープさんのお相手をしに行く気はありませんし、共通語を理解できないわけでもありませんよ。俺は、ハッピートリガーからあなたの、フラナガン神父のもてなしをするように言われているんです。だから……」

 歯切れよく、口から滑り落ちる言葉。

 それと共に、パイプドリームの姿は。

 フラナガンは、しかしパイプドリームに目を向けることもなく、シガレットケースからラゼノ・シガーを一本取り出した(パイプドリームの目が底の知れぬ湖のように青く輝く)シガーを指に挟んだ方の手で怠惰そうに、顔を隠す布、口の部分だけをのけると(パイプドリームの体が次第次第に歪んでいく)その反対の手はいつの間にか銀細工のライターの火を揺らしていた(パイプドリームは肉食獣の姿にその貌を変していく)黒くひらひらと泳ぐ、この世界とは別のディメンションの断片は、ライターの上の火の形をとって(パイプドリームの体から万物の捕食者の匂いが立ち上る)そして、フラナガンはシガーの先に火をつける。

「俺はこれからあなたのお相手を務めるつもりです。」

 スナイシャクを引き裂いて。

 飲み干す口がそう言った。

 一方、フラナガンは、布の裏側に隠された口で静かにこの世界の空気を吸い込むと、シガーの先、音も立てずに燃える先から、煙を吐き出した。その煙は静々と、広がって、浸食していく、赤い竜の鳴き声、本来は緑色であるはずのその煙は、赤い光によって偽りの色に染め上げられて、その曖昧な輪郭は、ある意味では死せる海月の葬送。ラゼノ=コペア、祈りを捧げよ。神々さえも狂わせるその純粋な毒は、ある意味では何よりも純粋な信仰の証なのであろうか? そう、その通り、それは何よりも純粋な信仰の証、それは、頭蓋骨の内側を満たす、無知の幸。そして、それから、その次に、白い手袋に包まれたフラナガンの右手の指先は、あえいて、まりやかしく、あくまでも献身の態度で、ラゼノ・シガーを口から離した。煙はそのまま、ふらふらと揺蕩い、よろめき、空へと引き付けられて落ちていき、やがて、それは孤独のマイエスタス・ドミニ、殉教者は常に孤独なものだ、紅穹を模した光背のことく、フラナガンの頭上に戴冠する。

 そして、フラナガンは、少し上を向く。

 呆然と、奇跡を見上げる、子羊のように。

 顔を覆い隠す布の奥。

 カチカチと、歯を噛んで鳴らす。

 苛立たし気に、不愉快気に。

 あるいは、独り言のように、話し始める。

「さて、偉大なる王エドマンド・カーターは、三人の弟子に対してこう言った。銀の鍵をその手に持ち、そして銀の鍵の門を開くものは、幾つもの門を抜けた先にやがてヨグ=ソトホースの木の生える丘に辿る着くことができるであろう、ヨグ=ソトホースの木とはすなわち主の栄光アラリリハであり、主の導管カトゥルンであり、そして主の王国フェト・アザレマカシアである。その木は五人のティンダロスの王と、十七匹のティンダロスの猟犬に守られている。それから、銀の鍵を持つものは、その外側に曲線を描いて並ぶ、角形の台座が並んでいるのを見ることだろう。台座の上にいるものの名はすなわちタウィル・アト=ウルム、それは銀の鍵を持つものを映す鏡であり、また涙と茨との道を歩むことを自ら選んだ賢きものである。銀の鍵を持つものは、自分たちのためにタウィル・アト=ウルムと話すことをしてはならない、タウィル・アト=ウルムといかなる言葉も交わしてはならない。なぜなら言葉はこの世界の始まりであり、神の王国の到来を妨げるものであり、それはすなわちこの身を燃やす硫黄の火だからである。銀の鍵を持つものは、沈黙こそが無知へと至る戸口であることを忘れてはいけない。銀の鍵を持つものは、その代わりにその丘の空に浮かぶ、取り除かれた十三の苦痛に目を向けよ。それらの苦痛は幸せそうな笑い声に似た鳴き声をあげる夜鷹の姿をしているが、決してその鳴き声に惑わされてはいけない。それらの苦痛は罪を犯し、そして永遠の炎によって焼かれているのだから。」

 フラナガンの、その言葉とともに。

 パイプドリームの背後。

 彼の鬼が後にしてきた内陣。

 その上の、ドームの方で。

 なにかが、動き出す気配があった。

 フラナガンは、シガーの灰を叩いて落とす。

 そして、言葉を続ける。

「それらの苦痛は、銀の鍵を持つもののまとう無知の幸の中に入り込み、そしてその中に自らの安息を見出そうとするだろう。無知の幸は燃え盛る体を慰める闇、神のもたらす冷たい闇。銀の鍵を持つものは、それゆえに無知の幸の、その神の慈悲、慈愛に溢れた水晶のような闇の力によって、その十三を自分のために使役することが出来るようになるだろう。」

 パイプドリームは、振り返ることはなかった。

 振り返ることなく、それを感じることができた。

 それは、何か……似ていた。

 それは、例えば天狼アリスの放つ。

 黄色い歪みのようなものに。

 それは、しかし黄色ではなかった。

 もっと、違う色、例えば、虹色。

 虹色の、あぶくのようなもの。

 虹色の、あぶくのような訂正。

 フラナガンは、シガーの先を自分の目の前で、ゆっくりと動かし始めた。それは何かを、空中に描いているかのように。黒く沈んだ焔は、一つの模様をこの世界に描いている。それは、二つの丸い足のついた、下弦の月のような形、それは二つのヨグ=ソトホースの印のうちの一つ、「開かれた門の頭」。その印を結び終わると、フラナガンはまた口を開く。

「それらの苦痛の名前は次の通りである。」

 ドームの天井から。

 虹色のあぶくが。

 音を立てずに。

 開かれた門の頭から。

 流れ落ちて来る。

「第一の苦痛はゴモリ、それは魔女の苦痛である。」

 一つ。

「第二の苦痛はザガン、それは海の苦痛である。」

 二つ。

「第三の苦痛はシュトリ、それは後の世の苦痛である。」

 三つ。

「第四の苦痛はエリゴル、それは争い事の苦痛である。」

 四つ。

「第五の苦痛はドゥルソン、それは過ぎた時の苦痛である。」

 五つ。

「第六の苦痛はウアル、それは古き世の苦痛である。」

 六つ。

「第七の苦痛はスコル、それは富の苦痛である。」

 七つ。

「第八の苦痛はアルゴル、それは寵愛の苦痛である。」

 八つ。

「第九の苦痛はセフォン、それは隠されたものの苦痛である。」

 九つ。

「第十の苦痛はパルタス、それは姿の見えぬ苦痛である。」

 十。

「第十一の苦痛はガモル、それは力の苦痛である。」

 十一。

「第十二の苦痛はウンブラ、求めるものの苦痛である。」

 十二。

「第十三の苦痛はアナボス、それは死の苦痛である。」

 十三。

 フラナガンは、再び手の平で顔を覆う布を退けて、その人差し指と中指に挟んだ煙草を唇で舐めた。くゆるシガーの煙を灰の中に吸い込んで、それは海月。煙でできた傘で生殖巣を隠し、その中から淫らな触手を垂らし、そしてその触手の先の刺胞でゆっくりとフラナガンの体を抱きしめていく海月。プラヌラ、ポリプ、ストロピラ、エフィラ、フラナガンの体と、それは、共生しているかのように。ゆっくりと、愛するようにして、煙を吸い込んで、そして屑を捨てるようにしてそれを吐き出す。

 それから、フラナガンは。

 その方を見もせずに。

 パイプドリームに、言う。

「せっかくの申し出だけれども、僕は君みたいなどうでもいい玩具で遊ぶ趣味はないんだ。それに、実はとても疲れているしね、ここ何日か……ちょっと生活に色々な変化があって。だから、君は大人しく一人で遊んでいてくれないかな。貴重な僕の休憩時間の邪魔はしないで。」

 瞬。

 跳んだ。

 パイプドリーム。

 避けたのだ。

 音もなく襲う。

 十三の訂正を。

 フラナガンは、会衆席に座ったまま。

 パイプドリームに、薄く笑いながら。

 言う。

「ああ、それは自由に使っていいよ。」

 十三の訂正は、まるで非ヘルメス・トリスメギストス幾何学(ヘルメス・トリスメギストスは第二次神人間大戦の際に死んだケメト・タアウィの神々の一柱)的な模様を描くようにして、まるで予測不可能な直線と角度と曲線を描きながら、ヴォールトの方へと跳んだパイプドリームを囲い込むようにして展開した。パイプドリームはちっ、と軽く口の内側で舌打ちをすると、「ネクロノミカンシーか……」と呟いてスーツの内側に手を入れた。懐の中から何かを取り出した。その何かはスーツに擦れたせいで二つに分離して、一つは下へ落下していく……それは鞘だった。そして、パイプドリームの手の中に残ったのは、一本の剝き身の剣。「用意しておいて正解でしたね。」、その剣は、月の光を飲んで育った精霊の光を放つ、重い青銅の色をしていた、つまり、バルザイウムによってその形を作られていた。新月に近く欠けた月のように背の反った刃には、全体にひび割れのようになった模様が刻まれており、そして立ち上るのは様々な没薬や薫香を詰め込まれた木乃伊の、焼け焦げたような匂い……その偃月刀の名は「スキミター・オブ・バルザイ」。フェト・アザレマカシアの力を盗み取る、罪びとの剣。

「カルドゥレク、ダルマレイ、カダト。」

 口ずさむようにしてそう言いながら、ヴォールトに立っていた足を天井から離し、パイプドリームは重力に抱き取られて墜落を開始した、その左の手に持ったスキミターを、まっすぐに下へ、追って来る十三のあぶくの方に向けて。スキミターから立ち上る、この世界の支配を脱した者の香りは、多量の触手を持つ一匹の蛸のようにして広がり、そしてやがてパイプドリームを包み込む。

 パイプドリームの左手。

 スキミターは、自然と動き出す。

 それは、コスの印。

 正しい方向を見る、世界の目。

 なぞるようにして、剣は踊る。

 その形を作るに際して、剣は襲い来る十三のあぶくを次々と打ち払っていく。十三のあぶくは、まるでこの世界の存在形式にとらわれない様な動きをして、遠くへと跳ね飛ばされた思ったら次の瞬間にはまたパイプドリームのすぐそばへと接近していたりするが、それでもスキミターは、その動作を全て理解しているとでもいうかのように、正確にその襲撃を躱し、跳ね、そして払っていく。ある種の、何かの、機械仕掛けで動く……精密な時計のようだった。その動きは、確かに何かの数字に従って、その数字を世界に刻んで射っるのかもしれなかった、それを、この世界の存在が、理解できないというだけで。直線の過程を描いて落下してくるパイプドリームと、異質な世界の螺旋を描いてそれにまとわりついていく十三のあぶくは、そのまま仕掛け物のような動作を続けて……そして、パイプドリームの体は、軽やかに、床に着地した。

 その立ち上がりざまに。

 軽くスキミターであたりを薙ぐようにして。

 自分の体を一回転させる。

 十三のあぶくは一斉に跳ね飛ばされるが。

 次の瞬間には、同じような陣形を取り。

 なおも、パイプドリームを囲い込む。

 襲い来るあぶく、首を傾けて眺めながら。

 パイプドリームは、少し疲れたように笑って。

 それでも、その口は、こう言う。

「散らかした玩具は片づけないといけませんね。」

 一方で、その頃のブラックシープとヴァイオリンであったが、それはもう激戦といった感じだった。しなやかに跳ねる四本の巨大な鎌と、羽の生えた猫科の猛獣が、非常にテンポの速いハテグ=クラのダンスを踊っているかのように。ブラックシープの金の蹄が目の裏に跡を残すような炎の曲線を描きながら、ヴァイオリンの首筋に一本の赤い線をつける。その直後、夜を切り取ったような二枚の巨大な皮膜が、古き神々の落とした雷のごとく予測不可能な不揃いの鋭角を描いて、ブラックシープの体を弾く。ブラックシープは仮面の裏で女学生のようなきらきらした笑い声をあげながら、宙を踏むようにして一度その場で回転し、体勢を立て直す、追撃をしようと襲ってきた長い長い手の先、薙刀のように生き物を殺すためにだけ進化した手の先、その思い一撃を右の蹄で受け止める。一人と一鬼はまるでベッドの上で戯れる恋人たちのようにしてもつれ合いながら、赤く濡れた夜の底へと落ちていく。辛うじて落下の直前に方向を転換して、ブラックシープはヴァイオリンの体を下にして、その柔らかく動く金属よりも硬い体は、落下の衝撃で会衆席の椅子をいくつか叩き壊す。

「大丈夫かい、ファーザーフラナガン!」

「まあ、僕は大丈夫だよ。」

「ジャスティス! 良かった!」

 言いながら、ブラックシープは。

 その場から、飛びのくように離れる。

 ヴァイオリンの体から。

 飛びのくように離れる。

「あーあー、派手にやっちゃって。あとでデニーが大変だ。」

 目の前に落下してきたもつれ合う体を見て。

 他人事のようにフラナガンは笑った。

 ブラックシープは、そんなフラナガンの言葉を気にしている暇などなく、後ろ跳び二度跳ねて距離を取った。何か危険な匂いがしたのだ、そしてその嗅覚は正しく、その行動は遅かった。ヴァイオリンの体はまるで霧か何かのようにそれを構成する要素の結合を緩めて、解いて……そしてブラックシープの周囲の空間に満ちた。惑うようにブラックシープは見回し、そして炎の蹄であたりを一閃したが、手ごたえがない。全体としての霧を攻撃しても、一粒一粒の粒子がそれを避けてしまうのだ。

「な、なんということだ!」

 そして、無意味に攻撃を続けるブラックシープのすぐ背後で、急速にその粒子は再結合して、そしてそれはヴァイオリンの姿になった。ブラックシープの首をひっつかんで、近くの壁に叩き付ける様にして放り投げる。ブラックシープの体は、まるでちょうどいい重さを持った小石のようにして、近くの椅子をなぎ倒しながら壁に激突する。ブラックシープの口から、があっという小さな喘ぎ声が、体の中で燃える炎の残り火のように漏れ出す。

 ヴァイオリンは手を緩めない。

 浮かぶように駆け寄り。

 二枚の巨大な刃で追撃する。

 ブラックシープはなんとかそれを蹄で受け止めるが、そちらに対処している隙に胴を薙ぎあげるように狙い撃った密度の高い砲弾のような拳は受け止めることができず、再び悲鳴を上げながらその体は衝撃で宙を舞った。

「ジャ、ジャスティイイイイスッ!」

「え、そういう時もジャスティスなの……?」

 若干引き気味のフラナガンだったが、それはまあおいておいて、更なる追撃がブラックシープを狙う。ブラックシープは、宙で体を回転させながら、やっとのことでシープ・ポーチのうちの一つに手を伸ばして、それの蓋を開いた。逆さまになっていたブラックシープの体、そのせいでシープ・ポーチからはボールのようなもの、つまりシープ・スモークの球体がぽろぽろと零れ落ちて……そして、ブラックシープを狙って地を飛び立っていたヴァイオリンの体に、そのいくつかが当たる。

 ぷしゅーっ。

 まとわりつく黒い煙。

 ヴァイオリンを包み込み。

 感覚を、奪い尽くす。

「この、煙、は、何、ですか?」

「それはシープ・スモークさ!」

 ヴァイオリンがまるで義務的な声で発した質問に対して、ブラックシープは律儀にそう答えると、残りの力を振り絞って宙で角度を変え、弾丸のように飛んでくるヴァイオリンの体を避けて、そしてその姿は羽をもがれた小鳥のように、なすすべもなく落下した。

「くっ! このままでは……正義の炎が絶やされてしまう!」

 ブラックシープは、何とか起き上がろうと。

 地に這いずりながら、声を絞り出す。

 正義の炎が絶やされてしまうかどうかは別として、確かに現在のブラックシープは完全に不利な状況だった。いかにブラックシープがNHOEの教えによって極限まで体を鍛えていたとしても、所詮はその体は人間のものにすぎない、ノスフェラトゥの、しかも純種であるヴァイオリンが本気を出せば、それに敵うはずもない……というわけではなく。

 その苦境の理由は、ただ単純に。

 ブラックシープが本気を出していないから。

「仕方ない、どうやらこれを外す時が来たようだね……」

 ゆらり、とブラックシープは。

 何とか、その体を立ちあげながら。

 仮面の向こう、笑みを笑う。

 少しだけ向こうの方、ちょうど内陣へと至る六段の階段の上では、未だ晴れずにいるシープ・スモークに包まれて、その全ての感覚を奪われており、そのため煙がその身を離れるまでは余計な動きをすることを避けて(これは賢明な判断だ、シープ・スモークは振り払おうともがく相手になお一層まとわりつく傾向がある)、ヴァイオリンがじっと立っている。そのヴァイオリンに向かって、相対するようにして立ち上がったブラックシープは、その体は既にふらついてなどいなかった。なぜならブラックシープは……本来は、この世界で最強の存在のうちの一人なのだから。何者も、ブラックシープを打ち負かすことなどできるはずもない(同じく最強の存在であるアンジェリカ・ベイン以外は)。

 本来は。

 しかし、その力、普段は。

 彼の飼い主であるNHOEにより。

 周到に制され、馭され、殺されている。

 そう、今こそ、ブラックシープは。

 その。

 力。

 解放する時。

「シープ・パワー制御バンドを!」

「シ、シープ・パワー制御バンド……? ネーミングセンス壊滅的すぎない……?」

 フラナガンが傍観者的に、そして実際に傍観者として非常にもっともなことを言ったが、そんなことはまるで気にすることもなくブラックシープは空を仰いだ。正義の目は常にそこにあるのだ、正義は常にこの世界の全て、遍く注がれているのだから。それは、例えばあの太陽の光に似ている、違いがあるとすれば、太陽の光は建物によって遮られることがあるが、正義の目に関してはそんな制限が存在しないということだろう。その正義の目に向かって、ブラックシープは祈るようにして、静かに、静かにその両手を差し上げて……

 金の蹄。

 赤い闇の中。

 その腕、交差して。

 空間を、世界を。

 引き裂く。

 と、ブラックシープの腕から、何かが外れてその足元へと落ちていく。まるでブラックシープの涙、血液、あるいは黒くその体を包み込む皮膚の断片が剥がれて落ちたようにして、直線を描いて落ちていく、時が止まるような気がした、まるで運命と呼ばれ、そしてその名に値するようなものが、取り返しのつかないことを、取り返そうとするように、砂時計を逆さまに置きなおそうとする時の音がした。しかし、その砂時計は上から強い力で押さえつけられているのだ……この世界で最強の存在によって。取り返しのつかないことは、取り返しがつかない。そう、それは……落ちていくそれは……蹄によって切り落とされた、輪のようなもの……化け物につけられた、腕輪、普段は黒く隠されていて見えないが、確かにその化け物を、繋ぎ留めておくための、腕輪……黒い腕輪……そして、それは音を立てて、教会の床の上に、滑るように落ちた。

 ずどん、と重い音がした。

 腕輪が、床にめり込んだ。

 それは、この世界の。

 なにかが、変わった音。

 なにかが、解き放たれた音。

 随分とまあすっきりした声で。

 ブラックシープは叫ぶ。

「これで私は二十五パーセントの力を解放できる!」

「百パーセントじゃないの?」

 消えていた。

 もちろん比喩だ。

 しかし事実でもある。

 少なくともこの空間にいる一人と二鬼のうち、一人と一鬼はそれを感じることさえできず、一鬼はかすかに感じることしかできなかった(ヴァイオリンにまとわりついていたシープ・スモークは都合の良いことに、シープパワー制御バンドが外れた時にちょうど晴れたところだった)のだから、それはほとんど消えたというのと同意だろう、ブラックシープの体は、文字通りの意味ではないにせよ、消えていた。そして、現れたその時には既に。

「え?」

 不思議そうな、パイプドリームの声。

 ブラックシープ、その二刃の蹄。

 一刃で、パイプドリームの首を刎ね。

 そしてもう一刃は、体の中心。

 彼の鬼のスナイシャクを貫いていた。

「まずは一善!」

「何……」

「な、え?」

 フラナガンは唖然とした表情をして、指先に挟んでいたシガーを取り落としてしまった。目の前の少し先、からくり仕掛けの人形舞踏のようにして十三の歪みと紙一重の戦闘を繰り広げていたパイプドリームの首が、無残にも切り落とされ、「何……」という辞世の歌にもならない悲しすぎる一言を残してフラナガンの目の前で静かにその表情、驚きの表情からスナイシャクの耀き、命の輝きが消えていくのが見て取れた。しかもその首は地に落ちたと同時に、それを切り落とした張本人であるブラックシープの無慈悲な踵によって叩き付ける様にして踏みつぶされてしまった。頭蓋骨が割れる音、灰色をした脳漿が飛び散って、そしてその上にはフロギストンの炎によって焼き尽くされようとしているパイプドリーム自体の体が放るようにして捨てられる。そして、後にはからんからん……という音の響き、命の力が消えた手から取り落とされたスキミター・オブ・バルザイのたてた、虚しい音の響きだけが残された。野良ノスフェラトゥの生命力によっても、これは完全なる死であり、そしてそれは、さすがのフラナガンからしてもあまりにもあっけなく、あまりにも理不尽な死だ。

「ちょ、ちょっと待って。」

「なんだい、ファーザー・フラナガン!」

「一回状況を整理しようブラックシープ。あ、えーとヨグ=ソトホースの十三の罪の皆さんは戻って頂いて結構です、お疲れでした。」

 十三のあぶくは、状況の急激な変化に対して。

 何かちょっと居心地悪そうにふわふわしていたが。

 フラナガンの言葉に従って。

 漠然とした感じでドームの方へ帰っていく。

「正義があり、悪がある、今のこの状況は整理の必要のない、実に単純なものだと思うけれどね!」

「あの……なんていうか、さっきまでの君はレディ・ヴァイオレット・リーンを相手にしていて、それで僕にとっては不本意なことなんだけれど、パイプドリームの相手は僕がしていた感じだったじゃない。ここまではいい?」

「その通りだね、ファーザー・フラナガン! 全く、己の安住の地を犠牲にしてまで悪を倒さんとするあなたの正義魂には、実際のところ私でさえ驚かされたよ!」

「いや、正義魂とかっていうより正当防衛的ななにそれだったんだけど、まあそれは置いておいて、で、こういう場合にはよくありがちなことなんだけど、レディ・リーンが結構強くて、圧倒されたて危機に陥ってしまった君は、こう、危機に陥った正義の味方らしく、奥の手としてシープ・パワー制御バンド?だっけ、とにかくそれを外して自分の真の力を解放したわけだよね。」

「全く、あなたの観察眼は何物も見逃すことはないのかい、ファーザー・フラナガン! 実に正確な状況判断だ、全てが正しいよ!」

「はい、君は自分の真の力を開放しました、そして折よくレディ・リーンにまとわりついて彼の鬼の邪魔をしていたシープ・スモークも晴れてきました、まあちょっと都合よすぎると思うけど、それはともかく、先ほどまで戦っていた一人と一鬼が向かい合っています、そのうち一人は先ほどまでとは違う自分です、実にドラマチックな状況です、ここまで来たらやることは一つしかありません、ここから一鬼と一人の死力を尽くした戦闘は避けられそうもないでしょう、それなのにだよ、この状況下でだよ、君は何でパイプドリームを殺したの!?」

「何かおかしい所でもあるかい?」

「いや、ちょっと待ってよ、何で当然のことですが?みたいな顔してるの? ほら、パイプドリームはなんか僕の担当みたいな感じだったじゃん! 彼の鬼はやる気満々だったし、僕だってまあ不本意だったけど仕方ないかなって思ってたよ、だからネクロノミカンシーとか使ってみたりして、一対一でまずまずフェアな状況じゃん、で、君はレディ・リーンでしょ、そういう感じだったでしょ? その状況下でいきなり真の力を発揮した君がパイプドリームに襲い掛かるのって明らかに状況としておかしいでしょ、それって要するに不意打ちだし、ただでさえパイプドリームは十三の罪を相手にするので手一杯だったんだよ、どう考えてもフェアじゃないっていうか……いや、まあ僕が言うのも何なんだけど……その、ほら、正義の味方がやることじゃないって! あと殺すなら殺すで、いくら何でもちょっとくらい見せ場を作ってあげてから殺そうよ! 仮にも敵幹部の一人をあっさり殺し過ぎだよ!」

 フラナガンは余りにも突っ込みどころが多すぎて、すでに会衆席から立ち上がって、ヴァイオリンを指さしたり両手を広げて「信じられない」のポーズをしたりと大げさな身振り手振りを交えて必死にブラックシープに対して説明を試みていた、そして若干ぜーぜーと息切れをしながら、それでも何とか自分の主張を終えて、どうですか、みたいな感じでブラックシープに対して水を向けてみた。

 その情熱的な説明に対して、仮面をつけた顔、上を仰いで。

 常住坐臥考えなしのブラックシープには珍しいことながら。

 暫くの間、何かを考えるように、じっと黙っていたが。

 やがて、その口は、ぽつりと言葉を落とす。

「ジャスティス、正義よ……私にファーザー・フラナガンをお遣わし下さりありがとうございます。」

 その呟きは。

 万感の思いを込めているようだった。

 それは、なにか、説明できない。

 波のような感動のようなもの。

 心を震わせる、振動。

 その、世界の共鳴の音のようなもの。

 ブラックシープは、そのまま仮面をつけた顔を下して、フラナガンの方向へと静かに傾ける。そして、まるで自らの子宮によって産み落とした愛しい幼子へ向けた、その手のひらをその頬に当てた愛撫のような、慈愛に満ちた口調、その声を、その耳に、言い聞かせるようにして話しかける。それはそれとしてフラナガンは、は~ちょっと温度違いすぎるかよ~なんか一人だけ熱くなっててすごい恥ずかしいじゃん~とか思っていた。

「ファーザー・フラナガン、以前私はあなたに言ったことがあるね、あなたは優しすぎると。今、私は分かったよ、あなたは優しすぎる上に、正しすぎるんだ。」

「あの……えーと、はい、ありがとうございます。」

「あなたは、私よりも遥かに強い正しさを持っている。正義への、強い信念を持っている。しかし、それは……強すぎる信念は、時に弱点にもなってしまうんだ。ファーザー・フラナガン、改めてあなたに言っておかなければいけないことがある、これは、私たちが今やっていることは、闘争なんだ。永遠の闘争、それは悪に対する、正義の闘争。そして、正義のための闘争を行う際には……ファーザー・フラナガン、これを、絶対に忘れないで欲しい。正義のための闘争を行う際には、全ての行動は、正当化される。例えこの世界を神獄に叩き落そうとも、その目的が正義であれば、それは正義なんだ。そこには卑怯や、間違い、アンフェアという概念は存在しえない、ただ犠牲と言う概念だけが存在しうる。」

 ブラックシープは、切々と。

 フラナガンに、語り掛ける。

 フラナガンは、どうしていいか全く分からずに。

 「えーと、はい」のスタンスのままで聞いている。

「そして、その上で、正義は、完全に冷徹に執行されなければいけない。そこに、感情を交えてはいけない。あくまでも、それがなされうる最適な方法で行わなければいけない。今、私がヴァイオリンを後回しにして、パイプドリームを殺したのも、それが正義を行う最も適切な方法だったからだよ。闘争において、力弱き者に戦力を集中させ、優先的に始末して相手の兵力を削ぐ、それは、当たり前のことであり、なされなければならないことなんだ、ファーザー・フラナガン。なぜなら……私とあなたは、ヴァイオリンとパイプドリームという、二人の強敵を相手にして戦いを繰り広げていただろう? 確かにあなたの言った通り、私はヴァイオリンと、あなたはパイプドリームと戦っていた、そしてこれも確かにあなたの言った通り、フェアなやり方を取れば、一対一、正々堂々とこの戦いを決着させるべきだ。しかしだよ、しかしなんだ、ファーザー・フラナガン、彼の鬼たちは悪なんだ、そして悪というものは、どんな卑劣な手を使ってくるか分からない、私がヴァイオリンと戦っていて、彼の鬼に圧倒されている時に、いつパイプドリームがその隙を襲ってこないとも限らない。そして、その逆もしかりだ。もちろん、あなたの力を軽視し、正当な評価を下していないわけではないよ、ファーザー・フラナガン、あなたがパイプドリームごときに後れを取ることなんてありえないことくらい私にだってよく分かっている、これはあくまでも可能性の問題だ。だから、彼の鬼たちが、卑怯で姑息、救いようのないくらい悪辣な邪悪の手先共が、その汚らわしい掌で正義のか細い炎を消さんとする前に、私たちは未然に、どんな手を取っても、その可能性を叩き潰しておかなければいけない……そう、仮にいかなる手段を取ったとしても、私たちは、悪を滅ぼさなければいけないんだ! ジャスティス! なぜなら、それが、私たちの使命なのだから!」

 ブラックシープは話しているうちに、例によって例のごとく感情が高ぶってきてしまったのか、切々としていたその口調はだんだんと、電子レンジでチンされているテイクアウト易料理、あんまり具が入っていないスープがぽぷぽぷと泡立つがごとく激してきて、そして最後の「ジャスティス!」あたり、ちょっとチンしすぎたかのようにその感情は爆発した!

 ブラックシープはその二十五パーセント解放された力を存分に発揮して、ばんっと大きな音を立てて自分が立っていた場所から跳び上がり、そのせいで床には大きなクレーターのような穴が開いたのだが、それはともかくとして瞬きをする間もなくフラナガンへと突進した! フラナガンはちょっといきなりのことで、驚いたように「はへ!?」って感じの声を出しながら倒れそうなくらいに後ろに退いたが、そんなことは全くお構いの埒外に置いて、ブラックシープはそんなフラナガンの両手を強制的に自分の方へと引き寄せ、がっしと握りしめた!

「ジャスティス! そう、それが私たちの使命なのだよ! 正義の為には、この手を汚すことさえも、私たちは……私とあなた、正義への愛で永遠に結び付けられた二人の正義執行者は、厭うてはならないのだ! それほど、この正義への道は過酷で、険しいものなのだから!」

「分かった! 分かったって! ごめん、僕が甘かったよ! だからちょっとそんな力を入れて手を握らないで! 骨が! 骨的なものが!」

「分かってくれたかい! ファーザー・フラナガン!」

 そのフラナガンの物分かりの良さに感動して、ブラックシープは感極まったその先で更に感の高みを極めてしまったのだろう、これももう毎度のことになってしまってきているので、何度も何度もこういった似たようなシーンを描写するのもどうかと思うが、とにかくこの後に起こった事実をここに述べておくとするならば、ブラックシープはフラナガンの体を思いっきり引き寄せてぎゅっしりと抱きしめたのだった。ただ、今までと違うことというと、今までの時のブラックシープは十パーセントの力しか開放していなかったのに対して、今度の場合のブラックシープは二十五パーセントの力を開放している、という点があげられるだろう、数字の上ではこれはあまり大きくないように思える相違点だが、抱きしめられる側、フラナガンからすると、これは結構大きな違いとなっている。

「ブラックシープ! やめて、離して、落ち着いて! 軋む、歪む、死ぬ!」

 ここでこのセリフが表している動詞の主語として、「軋む」のは背骨で「歪む」のは内臓で「死ぬ」のはフラナガンなのだが、それはまあともかくとして、ブラックシープはフラナガンの喜びの悲鳴を聞いて、なお一層力をこめて一度ぎゅっとすると、ようやくその体を離した。フラナガンの体はその場に力尽きたようにして崩れ落ちて、そしてブラックシープは強い感動と共に長ゼリフの締めに入る。

「ファーザー・フラナガン……最後に一つだけ、分かっていてほしいことがある。私も……私も、こんな手段を択ばないような真似はしたくないということだ。あなたの言っていたこと、一対一の戦いやフェアでなければならないということ、そして敵に情けをかけるべきだということ、そういった、本当に正しいやり方で、正義を貫きたい……しかし、それには、この世界は、あまりに悪が栄えすぎているんだ。ファーザー・フラナガン、あなたは正しい、正しすぎるほどに……この世界は、あなたの正しさでは、正義を行うことができないんだ! しかし、それでも……ファーザー・フラナガン、あなたのおかげで、今日、私は、この正義の道を歩み始めたころの初心に戻ることができた、本当に大切なこと、それを思い出すことができたように思う……ありがとう、ファーザー・フラナガン! あなたのような相棒を持てて、私は本当に幸せな正義執行者だよ!」

 まるでまごころに誠実のリボンをかけたような、その心温まる感謝の言葉を向けられた当の相手であるフラナガン自身は、ブラックシープの足元、襤褸ぞうきんのように倒れたまま「骨と……内臓と……体の全部……」と呻き声を上げるだけでその言葉を聞いているかどうかさえも分からなかったが、そんなことを気にするようなブラックシープではなかった。とりあえずセリフを言った時点ですべて満足するタイプの正義のヒーローだし、今回もセリフを言った時点で満足したらしく、実際にフラナガンがどのようにそのセリフを受け止めているのかは問題を捌く俎上もあげることをせずに、次の問題、つまり、より深刻な問題に取り掛かった。

 そう、つまり。

 もう一人の悪。

 ヴァイオリン。

 ヴァイオリンは……ブラックシープとフラナガンとの、互いに互いを大事にし合い尊重し合う感動的な友愛のシーンの間、何をしていたのかと言うと、別に何もせずぼんやりとしていたわけではなく、静かに静かに、生きた犬の柔らかい内臓の絨毯の上を歩くようにして、パイプドリームの死の場所へと近づいて、そしてその場に、赤く歪んだ光に照らされて時を刻むことをやめてしまった日時計のよう立っていた。

 時を刻むことをやめた時の神は。

 砂時計を鎌に持ち替えて死神になる。

 死神は冗談を解さない。

 死神は笑わない。

 しかし、ヴァイオリンは笑顔を浮かべている。

 死者の骨を砕いて、溶かして、作った、仮面のような。

 不純物のまるでない、感情の混ざらない、純粋な笑顔。

 ヴァイオリンは、ゆっくりとその場にかがみ込むと、なおも神の炎に燃え盛るパイプドリームの残骸に自分の手を差し入れた。神聖な色をして、フロギストンはヴァイオリンの腕へと火を走らせて、肘から下が音を立てて燃え始めるがヴァイオリンは気にも留めない。半分くらいが灰になっているパイプドリームの体、探っていたが、暫くしてようやく目当てのものを見付けたらしく、それを火の内側から引き上げた。

 ヴァイオリンの手の平の上。

 死を纏い燃える火の中。

 それは、パイプドリームの顎の骨だった。

 あごの骨、というか、下顎の骨と上顎の骨が繋がっているもの、それから上はブラックシープによって踏みつけられて粉砕されているため、まるで頬から上が透明な頭蓋骨が、燃え上がりながらその手のひらの上に乗せられているように見えた、亡骸の断片。それを、ヴァイオリンはしげしげと眺めていたのだ。

 ヴァイオリンの腕から先は、燃え移ったフロギストンの炎によって次第次第と肉が焼け落ち、そのスナイシャクは蒸発し、そして骨だけになりかけていたのだが、それを気にも留めずに。炎の内側で、ヴァイオリンの骨の掌の上に、パイプドリームの骨の顎が乗せられていて、赤く満ちては引いていく赤い光の中で、ただ立っているだけなのに揺らめき踊るように見えて、それはまるで……「偽預言者の首を手のひらの上に乗せて踊る偽子」の絵画ようにさえも見えた。

 ブラックシープ。

 そんなヴァイオリンに向かって。

 鳴り響く進軍ラッパがごとく叫ぶ。

「さあ邪悪と災厄の使徒ヴァイオリン! 次はあなたの番だよ!」

 ヴァイオリンは。

 見つめていた頭蓋骨から目を離し。

 ブラックシープに目を向ける。

「現在。」

「の。」

「状況。」

「を。」

「分析。」

「した。」

「結果。」

「可能性。」

「が。」

「ある。」

「ます。」

「ブラックシープ。」

「は。」

「胚胎別理。」

「である。」

 ヴァイオリンは、静かに手のひらを閉じた。

 その上で、パイプドリームの顎骨。

 さらさらと崩れて、火の砂のように落ちていく。

「ヴァイオリン。」

「には。」

「必要。」

「が。」

「ある。」

「ます。」

「撤退。」

「の。」

 また、その手のひらを開いて。

 ゆっくりとそれをブラックシープへと向ける。

 炎を纏った骨の腕は。

 滑らかに揺らめく夏の陽炎のようにして。

 柔らかく、揺れる。

 ブラックシープに向けて。

 ばいばい、と、揺れる。

「ヴァイオリン。」

「は。」

「忘れない。」

「でしょう。」

「とても。」

「大切。」

「な。」

「玩具。」

「を。」

「壊された。」

「こと。」

「を。」

「並列接続詞。」

「脅威。」

「は。」

「取り除かれなければ。」

「ならない。」

「こと。」

「を。」

「ブラックシープ。」

「が。」

「胚胎別理。」

「で。」

「あった。」

「と。」

「しても。」

「ヴァイオリン。」

「は。」

「いつか。」

「帰ってくる。」

「でしょう。」

「ヴァイオリン。」

「は。」

「いつか。」

「ブラックシープ。」

「を。」

「取り除く。」

「ます。」

 そう言うと。

 ヴァイオリン、黒いスーツ。

 まるで、赤の中に溶け込むようにして。

 その姿を、消した。

「ジャスティス! 逃げるつもりか!」

 どうやらヴァイオリンはすごい速さのせいで見えないとかそういう消え方をしたわけではなく、ノスフェラトゥに特有の神卵光子刺激性相対的独立化現象を使い、実際にその肉体を構成する形而上要素を半独立存在化することによって消えたらしかった。二十五パーセントの力を解放したブラックシープだったが、さすがにその状態のヴァイオリンを見つけることはできなかったらしく、それにそもそも半独立存在化したノスフェラトゥを攻撃する術は現在のところ持っていない。ヴァイオリンが立っていたところ、未だに燃え残っているパイプドリームの死体があるあたりにまで駆けつけたはいいが、そこできょろきょろとあたりを見回すことしかできなかった。

「ぐぬぬぬぬ……なんと卑怯な真似を! 許せん、許せんぞヴァイオリン! どこまであなたは悪辣なんだ! この世界で、私が生きるこの世界で悪が逃げ延びることなどあってはならない! けっして、けっしてあってはならない! 私は正義の名の元にここに誓おう! 必ずあなたを見つけ出して、正義の名の元に処刑して見せると!」

 天にまします正義の瞳に向かい。

 振り仰ぐように金の蹄を掲げて。

 ブラックシープは、固く固くそう誓った。

 一方でフラナガンはというと、あと一歩で複雑骨折とか内臓破裂とかそういう取り返しのつかない状況になっていただろうあの死の抱擁のダメージから、ようやくのことちょっとばかし体が回復してきたらしく、ふらふらとよろめきながらも立ち上がっていた。その姿はこう、今までの比喩で使ってきたようなかっこいい意味合いではなく、なんかほら、えーと頼りなさとか瀕死状態とか、コートの裾をゆらゆらさせてたりポニーテールををゆらゆらさせてたりしてるところとか、こう特に海でぷかぷかしてる海月っぽい感じだったけれど、会衆席の背の所に掴まりながら、苦労しいしいブラックシープの方へと近づいて行く。固く固くそう誓うのに忙しく、近づいてくるフラナガンにはまったく気がついていないらしいブラックシープに向かって、やっとの思いでフラナガンは声をかける。

「ブ、ブラックシープ……」

「ファーザー・フラナガン! そんなに傷ついて……それは間違いなく、かくも激しかった悪との戦いによる負傷だね! あなたは、あなたは……何て自己犠牲に溢れた人なんだ!」

 そう言いながらフラナガンに駆け寄りその体を抱きとめようとするブラックシープに対して「あ、大丈夫です、本当に大丈夫です」と牽制をかけつつも、フラナガンはブラックシープに向かって力ない声で言う。

「とにかく、僕たちは二人の悪の枢軸を倒したね、これは君の素晴らしい力で勝ち取った大きな勝利だ。正確に言えば一人は逃がしてしまったのだけれど、それはしょうがないことだよ、今はそれよりも、より重要なことに集中しないと。残る悪の枢軸は三人、きっとこの教会の地下、グールの巣のダレット・セルにいるはずだから、さあ、早く向かおう。そして、邪悪なる革命の野望を僕たち二人の手で打ち砕くんだ。」

「くっ、ファーザー・フラナガン……そんな変わり果てた姿になっても、なおあなたは正義の心を貫こうとするのかい……! なんて、なんて気高く高潔なその魂なんだ!」

「あ、抱擁とかは本当に大丈夫なんで。」


 状況としてはまたしてもフラナガンがブラックシープにお姫様抱っこされているのだが、まあそれに関しては特に重要な情報と言うわけでもないので深く突っ込むようなことはしない。ここでより一層特筆すべきことは、この場所の意味合いについてだろう。

 救い主トラヴィールとデイシス、あるいは破滅と災厄の三都市の刻まれた聖障によって隠されたその先、ちょうど四つ、房のようにして連なっているカトゥルン礼拝堂、二つと二つのその間には「蛇の檻」と呼ばれる通路が伸びている。明かりになるようなものは一切つけられていないためにまるで洞窟のように薄暗く、そして実際にその通路は、あのランドルフ・カーターが初めて「銀の鍵」を使って「銀の門」の向こう側、ヨグ=ソトホースにまで到達し、そして自分が救い主トラヴィールのエクステンシオであると知った洞窟を模しているとされている。それこそが、トラヴィール教会オンドリ派の始まりであり、ヨグ=ソトホースから始めて奇跡を授けられたとされるダニエル奇跡者よりも、なお一層の無知へと至る福音、すなわち全ての存在は(そのあり方とか割合とかが平等というわけではないが、とりあえずのところは)救い主トラヴィールのエクステンシオであるという福音を遍く響かせる「教会」の誕生の場、まあ実際に教会を作ったのはカーターではなくド・マリニーなのだし、しかもその直系の後継者はオンドリ派ではなくシュブ・ニグラス主義なのだが、それはともかくオンドリ派の伝える福音ではそういうことになっている。「銀の門」、「銀の門」、そう……その通路、が、つながる、先、にある塔の名前。それこそが銀門塔、オンドリ派の教会において最も重要とされる場所、真実のヴールへと至る、「銀の門」がある塔。

 フラナガンは、ブラックシープの腕に抱かれながら。

 首にかけた「銀の鍵」を静かに愛撫する。

 甘く、寄りかかるようにしてその腕に首を預けて。

 独り言のようにしてこう呟く。

「本当は、無知で愚かな生き物をここから先に入れちゃいけないんだけど……まあ、今回は美しきケイト・マクロードの御愛の導きだし、仕方ないよね。」

「何か言ったかい、ファーザー・フラナガン!」

「ううん、何でもないよ。ただの独り言さ。」

 まるで天然の洞窟を人工的に抜き出したようなその通路には、何か別の種類の法則に従っているかのような、この世界のものではないような。ある種の機械回路に似た形式、ケレイゼスク模様が刻まれている。曲線と直線、王と猟犬によって構成されるその模様をずっとたぐっていき、進んだ先、奥の奥、一番突き当り、一つの……断絶のようなものが見えてくる。世界に入った亀裂のような、黒く、黒く、塗りつぶされたような裂け目、それは、要するに、扉だった。

 銀の門へと。

 続く、扉。

「むむっ、これは行き止まりだね!」

「ああーっと、ストップストップ! 壊さなくても大丈夫だよ、ブラックシープ。」

 その道を塞ぐものがあると見るや否やそれをあらゆる方法を用いて排除しようとするブラックシープの姿勢であったが、それを何とか押しとどめてフラナガンは「ちょっと下してくれるかな」「もちろんだとも!」、ということでお姫様抱っこ状態から下へと降ろしてもらった。それから、そっと通路の壁の方へと寄り添うように近づいていき、その一部に静かに触れた。すると、その部分がかぱっと割れるようにして開いて、そして中から金属でできたパネルがのようなものが現れた。

 フラナガンは、首を少し傾けて。

 そっと、その手の先、手袋を外す。

 まるで、ナリメシアの光のように。

 白く、白く、透明に死んでいる指先。

 その、指先を、パネルに、触れる。

〈指紋照合:クリア。〉

〈毛細血管照合:クリア。〉

〈形相子照合:クリア。〉

 口付けるように、顔をパネルに近付けて。

 フラナガンは、そっと、それに、囁く。

「主の栄光アラリリハ、主の導管カトゥルン、主の王国フェト・アザレマカシア、これが僕であり全てであるものヨグ=ソトホース。」

〈声紋認識:クリア。〉

〈コード:承認。〉

〈アクセス権利者:エドワード・ジョセフ・フラナガン。〉

 機械仕掛けの声とともに。

 響き渡るような重い音を響かせて。

 その、裂瘡が、開く。

「ジャスティス、ハイ・テクノロジーだね!」

「まあね。一応、教会の最重要施設だから。」

 その先。

 銀門塔、内部。

 広義の銀門塔は大きく二つの部分に分かれる。上部である狭義の銀門塔と、それから下部である神父の居住施設、そしてこちらが今現在ブラックシープとフラナガンがいる部分である。銀門塔に神父の居住施設があるのは、オンドリ派教会において神父というのは無知ではなく知者、羊ではなく羊飼い、この人間が住む星である借星の存在ではなく、真実のヴールから無知の福音を伝えに来た存在であるという象徴として、より真実のヴールに近い場所、すなわち銀の門に近い場所に住むという意味合いのためとされているが、残念なことにこの件に関する深い考察をしている暇は今ない。それに全ての神父がこういった居住施設に住んでいるわけでもないし、とにかく、ここで記載しておくべきことは……ブラックシープとフラナガンがいるこの場所が、エントランスホールに当たる場所であるということだ。

「外から見ると狭いのに、中はかくも広いものなのだね!」

「ああ、まあ空間をいじってるからね。」

 ごわごわとしているが汚れ一つない絨毯を敷かれたその場所は、上から見るとちょうど正三角形の形をしているように見えた。その部屋を、覆う壁が三枚あるからだ、三角柱の形。その三枚ある壁のうちの二枚、二人の右側と左側にある壁には、何か模様のようなものが刻まれたレリーフが表面にある扉が取り付けられていて、そしてその扉は……開かないもののように思われた。開かない、ただ単純に開かないということだ、それ以上ではない、その扉にはノブが存在していないのだが、それだけではなく、それ以前の問題として、もっと根幹的な部分、例えば「開く」という行動が欠けている、扉ではない扉、そういったことだった。そして、最後の一枚、二人の正面にある壁には広々とした大階段が据え付けられていた。三枚の壁、隙間なく合わさっていて……しかし、二人は何処から入ってきた? 奇妙なことに、二人が入ってきたはずの入り口は、なかった。そのエントランスホールには存在していなかった。過去においても、未来においても、もちろん現在においても。ただ、その場所には、空間だけが存在していた。

 はすてせしあのせかい。

 それは、きいろいおひめさま。

「あの絵は何の絵だい、ファーザー・フラナガン!」

「君、それ本気で言ってるの? ピエタだよ。」

「ピエタ?」

「嘆きのトラヴィール……え、もしかして本当に知らないの? いや、ごめん、なんでもない……」

 正面、入ってすぐ(?)の目に入って来る目の前、階段の上には一枚の巨大な油絵がかかっていた。人の背丈よりも大きく見えるその絵、白く長いひげを伸ばした老人が、暗闇に覆われた洞窟のような中で、手の内で燃え盛る一冊の本を呆然として眺めているように見える、それは、その絵は、フラナガンの言った通りピエタ、トラヴィール教オンドリ派の宗教芸術の中でもっとも好んで描かれるテーマである嘆きのトラヴィールであった。いうまでもなくそれはトラヴィールがヴールにある洞窟の中、カトゥルンの「本」を燃やしている場面を切り取って描き出しているもので、そのトラヴィールの足元、全てを焼き尽くそうとする炎から逃れるようにひらめいている一枚の紙きれこそが……しかしそれは、ここでは関係のない話だ。

 その場所には窓はなかった。

 全く、外の景色を伺えるようなものは、何も。

「言い訳させてもらうとさ、純粋に技術的な意味合いで使っているんだよ、ほら家が広いと何かと便利だろう? 決してパンピュリア系オンドリ派が、ハストゥール正教会の影響を受けているってわけではなくて。確かにハストゥールはフェト・アザレマカシアの存在だけれども、ヨグ=ソトホースとカトゥルンとティンダロスの三位一体以外のものを信仰するなんて、そんな考えるだけで吐き気がするような真似を、するわけがない、そんな異端をすれば、サンダルキアの炎で永遠に焼かれてしまう。」

 そう言いながら、フラナガンは招く。

 大階段の下、影になっているような場所。

 そこに、一枚の扉があった。

 他の二枚の扉とは違い。

 ノブのついている扉、扉としての扉。

 つまり、開く扉。

 一般的にブラッドフィールドの中央にあるのはアップルだと思われているが、それは間違いだ、ブラッドフィールドの本当の中央に作られているのは、その名に違わずブラッドフィールド中央教会である。後にアップルとなる構造物の原型は、パンピュリアの地への入植の最も初期の時点でその建築が始まったのだが、これはこの大陸の中心から外れたところに作られた。その理由は……地下にある構造物との対比で考えなければならない。実は、パンピュリアの大陸に初めに住んでいた、いわゆる先住民はノスフェラトゥでも人間でもなくグールだった。神々の時代には、すでにこの大陸の地下には巨大なグールの巣窟であるハニカムが編み上げられていた。そして、ブラッドフィールドの中央の地下には……既にダレット・セルが存在していた。NG間の最後の紛争が終わり、ピーターズ・プラザに休戦の石碑が立てられるまでは、ノスフェラトゥとグールの間には常に緊張状態が存在していた、そのため、その場所に、足元に災いの種がまかれているような場所に、ノスフェラトゥが重要な拠点を築くわけもなかったのだ。

 その一方で、以前にも少し触れた通り、ブラッドフィールド中央教会は神々との戦闘施設として建築された「エルの幕屋」という施設がその始まりである。この建物を含むアルメニオス要塞は、もちろん第一次新人間大戦の時期に拠点とされたものであり、その頃は、神々による支配の影響によってまだグール達も地下にその身を潜めていた。従って、「エルの幕屋」も地下にあるグールの巣窟については全く知らないままに、とにかく少しでも戦略的に有利になる地点に建てられたのだ。結果的に、「エルの幕屋」はグールの巣窟の中でも最も重要な場所、ダレットセルの真上に位置することになったのだが、この立地は後々、NG間の休戦に際して非常に重要な役割を果たすことになる。ブラッドフィールド中央協会は、実は、NG間の休戦協定にその建築が指定されている建物であり、地下に存在しているグール達の動きに打ち込む巨大な楔としての役割を果たしているのだ。そのため、ブラッドフィールド教会の真の中心である銀門塔の地下は、ハニカムの中心地であるダレットセルへと繋がっている。

 そして、これが。

 そのつなぎ目の扉。

「ここだよ、ブラックシープ。」

「この先に、彼の邪悪達が待っているのかい!」

「その通り。」

 フラナガンは、まるで、誘うように。

 その扉を、ブラックシープの目の前で、開く。

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