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#35 そして原罪の赤色をした少女は

 現在では愛国に吸収されてしまって存在していないが、第二次神人間大戦以前には(愛国世界協調部により検閲削除)と呼ばれる国が存在した。その国は内陸部に広大な面積を誇る草原持っており、住民たちはほとんどが遊牧民として過ごしていた。家畜に対してより良い餌場を確保する必要にかられ続けてその一生を終える遊牧民の常にたがわず、その性質は非常に好戦的であり、その文化はほとんどが戦闘一色で敷き詰められているのだが、その中に(愛国世界協調部により検閲削除)という名前の料理があった。これは特に重要な戦いの前に妊婦を除く部族民全体に対して振る舞われる料理であり、簡単にいってしまえばヒクイジシ(ベルヴィル記念暦932年に絶滅種として認定)を丸々一匹鍋で煮込んだ料理のことだ。丸々一匹と言うのは比喩的な表現でも何でもなく、本当に骨から血液まで毛皮と肝臓以外の全て(毛皮は来たる戦いの際に部族長がまとうことになる)を(愛国世界協調部により検閲削除)という名前の巨大な鍋にぶち込んで、ヒクイジシの火袋に残っている紅蓮の魔炎で煮込む。あらゆる内臓、骨、角、爪までを一晩かけて延々と煮込み続けて食べられるようにして、岩塩のみで味付けしたその料理は、一言で言えば猥雑だ。肉食獣に特有の鼻を突き抜けて脳をそのまま突き刺すような匂いと、妊婦に対して害になるほどに血圧を上げて人を高揚させる栄養価は、まさに人を殺す前に食べる料理としては最適なものの一つだろう。

 テンプルフィールズの光景は。

 例えばその(愛国世界協調部により検閲削除)に似ている。

 あるいはそれは、耐えがたいほどの猥雑さ、むき出しになった都市の内臓。裏返った消化器官、体液にまみれた肉塊。そういったものに似ている。もちろん昔は、つまり哀れなるターナー・ボートライト氏、フラナガンの言い方を借りれば優しいボーティ、がこの場所で殺される前はこの場所はもっと……秩序立っていた。確かにダウンタウンではあったが、それでもここはその住民たちの信仰の場所、精神的な支柱となる場所だったのだ。つまり当時は別の形で賑わっていた、その賑わいは、隣人愛に満ちた活気や、楽しさに満ちた騒がしさ、そういったものだった。

 非常に残念なことであるが、現在ではもう、そのようなものは存在していない。濁って、重く、淀んだ空気は霧のようにテンプルフィールズ一帯に停滞し、決してそこから離れようとはしない。その空気は二つの期待によって構成されたものであって、その二つの気体の名前は欲望と絶望。現在のこの地に住む者にとっては、希望という言葉は存在していない。死という気まぐれで有りふれた現象による永遠の切断を除いて、明日は今日と全く同じ一節に過ぎない、上に立つものにとっては搾取する一節で、下に跪くものにとっては搾取される一節。

 朽ちて、腐って、破れたセント・ハドルストン大聖堂は。もとはといえば、大聖堂の名の通りこちらの教会に大司教の司教座が据え付けられていたため、ブラッドフィールド中央教会よりも巨大に作られていて、そのために死んでもなお王座に座り己の民を睥睨し続ける支配者のようにテンプル・フィールズの中心にそびえて立っている、その影は……ぬるまったく、べとべととして、それでいて骨を凍らせるように冷たいその影は、この地域全体に広がり、不義により生まれた不道徳の胎胚を孵すための孵卵器の役割を果たしている。

 そして中央教会と同じように、大聖堂を中心としてぐるり一周は広場になっている。この広場が、テンプルフィールズという名前の由来になっている広場で、ボーティ以前の時代にはここはダウンタウンにおける信仰の中心であるだけではなく、善良な住人たちの経済活動の中心でもあった。火の日、午前中に聖燐式を終えたその午後にはこの場所には市が立った。襤褸布のようなもので作られたテントのようなものだったが、それでも色とりどりの露店に彩られて、むせかえるような商売口上が溢れる中では、遥かな海のざわめきのようにして、様々な取引が満ちてはひき、引いては満ちていく……そしてボーティ以後の現在も、やはりここは経済活動の中心地だ。ただし、ここに集まる人々はもう、決して善良ではなくなってしまったが。

 しかしたった今、この瞬間は。

 経済活動は行われていない。

 広場に満ちているのも。

 色鮮やかにそよぐテントではない。

 黒く降り注ぐ夜の雨の中。

 行われているのは戦闘。

 満ちているのは咆哮。

 それから、濡れた獣の匂い。

 滑らかな皮膜の上を指先で叩くようにしてそこここの水たまりを雨が叩く中、広場のあらゆる方向で、ブラッドフィールドのあらゆる場所から集められてきただろうホワイトローズ・ギャング所属のライカーン達が群れて犇めいていた。そのライカーン達の頭上には五台オートマタが飛び交って、まるで月紅玉で透析された血液の赤のような、恐ろしい色をしたレーザーをライカーン達に浴びせて回っている。しとしとと雨に濡れて不気味な色で艶めいているその黒い死神のような物体は、ボールドヘッドのドーロイドだ。次々にレーザーを照射されたライカーン達は、肉が焼け血液がはぜる様な凄惨な音を立てて……体に火傷一つなく、他のあらゆる傷を負うこともなく、気絶してばたんきゅーと倒れてしまう。

 ボールドヘッドは自分なりの悪の美学というものを持っていて、それによれば悪を行う際に何かを殺してしまうということは何よりも忌むべき行動であるため、この世界に存在している全てのドーロイドはたった一つを除いて(この一つはボールドヘッドが自分自身のために作ったものではなく、月光国正教会の依頼を受けて作成されたもの)非殺傷兵器に過ぎないからだ。それでも一応は自称悪の天才ボールドヘッドが作った兵器だ、気絶したライカーンは、ほとんど例外なく再起不能の状態になる。例の凄惨な音を立てる理由も含めて、どうしてそうなるのかというあまりにも都合が良すぎる原理は全く不明だったが、とにかくそうなるのだ。

 しかし、ライカーンの側も黙ってはいない。

 反撃及び目標の達成に向けて尽力している。

 ライカーンという種は、ノスフェラトゥによる幾星霜の品種改良を受けて、取り返しがつかないほど元の生き物とはかけ離れた存在になってしまっている。それはまるで狼に対する犬、あるいは猪に対する豚のようなものだ、ただし、忠誠性に関してはこの例が当てはまるが、攻撃性に関しては全く反対である。ライカーンは完全に……兵器として設計図を描かれた生き物だ、世界の理に関する戦略的観点から、一部の例外を除いて全く遺伝子操作を受けていないが、それにしても第一次神人間大戦の中盤に始まる千年以上にわたる交配の歴史を通じて、長く長く研ぎ澄まされた刃のように。

 ライカーンの精神は、一説によると人間のものとグールのもの中間地点にあるのだそうだ。さすがにそれはいい過ぎだと思うが、確かにライカーンはグールのように集団そのものが一つの精神を持つというわけではなく、人間のように自己保存を第一に置くというものでもない。その精神は、グールよりも遥かに調教を施されており、人間よりも遥かに動物に近い。つまり、その第一としては、忠実だ。

 その忠実性は、フォウンダーによって飼育されているライカーンにおいて非常に顕著に見られる。彼の犬らはほぼ完全に主人たちの都合よく動くオートマタに過ぎない、これは比喩的な表現ではなく、まさに肉でできた機械なのだ。彼の犬らは、あらかじめノスフェラトゥによって精神をプログラムされている、自分の精神などというものは存在しておらず、そのプログラムに従って動くだけの、操り人形だ。しかし、例えばフォウンダーほどではない下位のノスフェラトゥや、あるいは人間、によって飼われているライカーンに関しては、そこまで徹底されて「調教」されているわけではない、一応、自分の意思と呼べなくもないものによって動いている。ただし、その意思と呼べなくもないものも、中核となる概念は主人への盲目的忠誠であり、基本的には命令があれば、その身を焼き尽くす火の中であっても、まとわりつき溺れさせるような水の中であっても、飛び込むことには躊躇しない。

 基本的には。

 そう、何事にも例外がある。

 ライカーンにも、もちろん例外はある……動物的本能の比率の中で、集団保存よりも自己保存の割合が勝ってしまったたぐいの生き物だ。そういったライカーン達は、主人に離反して、あるものは公衆衛生公社によって処分されるか、あるものは首尾よく逃げ出して主人を持たない野良のライカーンになる。その野良のライカーン達は、最初は各々が孤立していて、すぐに公衆衛生公社の職員に見つかって処分されていたのだが、次第に彼の犬たち自身で一つの群れをつくるようになり、新たに逃れてきたライカーンを受け入れ、あるいは互いによって繁殖し、ブラッド―フィールドの地下世界で一つの勢力を形成し始める。

 ごく最近、その群れのリーダーが変わった。

 新しい、リーダーの名は、グレイ。

 彼の犬らは、ホワイトローズ・ギャングに。

 取り込まれることとなったのだ。

 そして、今、彼の犬たちは、この場所で、テンプル・フィールズで、戦闘を繰り広げている。彼の犬らは、ライカーンの名にふさわしく、己の身を、大したことのない額の掛け金をカードテーブルの上に放り投げるようにして、簡単に捨てることができるだろう、しかしそれは忠実を誓った主人のためではなく、自分たち自身の、自由のために行われる行為であって。

 忠誠のためではない、革命のために。

 彼らは自分たちの死を恐れないのだ。

 ライカーン達は、ドーロイドが発する死の熱戦……デス・レイ(ただし死なない)などまるで気にかけることなく、デス・レイを浴びて無残にも斃れた(死んでいない)同胞たちの屍(死んでない)を踏み超えて、大聖堂の方へと次々に突進していく。さすがにこの数は多すぎる、ドーロイドはあたりを薙ぎ払うようにしてデス・レイを照射し、撒き散らしていくが、それでもまるで追いつかなかった。なおも生き残ったライカーン達は教会を囲い込み、その一部は正面ファサードのすぐそばまで辿りついていた。

 敵対者を感知してファサードに設置された防衛システムが作動する。壁の一部分が、そこここでぱかっと開いて、うねうねと触手のように束ねられたケーブル、何本も何本も。その先に取り付けられているのは、ドーロイドに取り付けられたのと同じ種類のデス・レイ照射装置、頭に響くような恐ろしい音を立てて回転するドリル、そしてロケットパンチ発射装置とか、そういった武器(全て非殺傷)の類だった。そして……両者の間では、壮絶な戦闘が繰り広げられる。

 うっかり給湯器をオンにするのを忘れたままで体に直撃させてしまった冷水のシャワーのごとき容赦のなさで、デス・レイがライカーンの群れへと降り注ぐ。その光線、同胞の体を盾にして避けながら、ライカーンのうちの何匹かが照射装置に向かって飛び掛り、ケーブルに噛みついてそれを食いちぎる。そこに向かってドリルが突進して、ライカーンを跳ねていくが、彼の犬らには既に第二陣が用意されている、今度はドリルにも噛みかかっていく。ロケットパンチが飛び交い、そこら中で跳ねて襲い掛かって来るライカーン達を殴り飛ばしていくが、全く数が追い付かない。ドーロイドのうちの二体がファサードの応援のためにその現場に駆け付けようとして来るが、低空を飛行し始めたところを狙って、攻撃が届くようになったライカーンが群れを成して襲い掛かって来る。

 また、それだけではない、教会の、ドームや塔へとよじ登り始めたライカーン達もいた。正面の入り口が厳重の厳重な警備を避けて、窓とかそういったより入りやすそうな方向から攻めて行こうとしているのだ。もちろん、ボールドヘッドも警備システムの設計に際してそこら辺を考慮の外に置いていたわけではなく、何しろ(自称)天才なわけで、それはともかく教会の壁のあらゆる部分がぱかっと穴を開けて、内部に待機させていた小型警備システムを放出し始めた。それは、まるでグールのハニカムに巣食う機械仕掛けの甲虫のように見えたが、実際にモデルとされているのはSPB所属のサイエンス・ヒロインであるインセクトが使役する、バグボムと呼ばれる遺伝子操作された虫だった。とにかく、大量の羽虫のような形をしたドロイドたちが群れを成して飛び、そしてよじ登って来るライカーン達の手や足、あるいは手掛かりや足掛かりになっている壁に取りつき始めた。そして、くっつくが早いが小規模な爆発を起こす、ライカーン達は、その衝撃に手を離し、あるいは手をかけていた壁が壊れてしまったことで、次々と落下していく……しかし、落下した端からまた壁に取りついて登り始める。新しく登り始めたライカーンももちろん増えていき、そのせいで状況は鼬ごっこどころか、小型警備システムの数も間に合わなくなってくる。

 何度もいうが、数が多すぎるのだ……これは一般にはほとんど知られていないことだが、ボールドヘッドのセキュリティ・システムは「ヒーローはどんな危機的な状況でも必ず悪に勝つ」という悪の美学上、どんな状況であっても必ず敵対者が攻略可能であるようにプログラムされているが……いや、それはこの際関係ないだろう、そう、数が多すぎるのだ、きっとプログラムは関係ないよね。とにかく、ドーロイドのうちの二体はおまんじゅうのごとくのしかかってきたライカーンの群れによって足止めされ、正面ファザードはまさに突破される寸前。セキュリティ・システムは今、完全に劣勢に立たされている。

 しかし。

 まさにその時に。

 声が聞こえた。

「ああ、ああ、癩病みの乙女のように白い肌をしたサンダルキアよ、おまえは美しい、そしてその美しさのゆえに罪深い。おれは知っているぞ、その肌の下、腐り果て、蛆虫に喰い荒らされているということを。」

 無垢な声。

 あどけない声。

 学芸会の子供。

 の、ような。

「さあ、見よ、いま降り注ぐ雨はおれの呪いによって硫黄と火とに変わった! 淫婦、生まず女、さかしらなるサンダルキア! この雨はお前を焼きつくし、そして海の底へと沈めるおれの剣!」

 六つある塔のうちの一つ。

 薔薇窓が、音を立てて破裂する。

 雨の性質が変わった。

 ように見えた。

 いや、それは、雨ではなかった。

 降り注いでいるのは燃える雹。

 燃えるように輝く、欠片。

 水晶の、欠片。

 水晶はライカーンの上に降り注ぎ。

 その肉を貫き、埋まり、引き裂く。

 あたりに広がる。

 苦痛の叫び声と、鮮血の匂い。

「恐れよ、恐れよ、恐れよ! このおれが、このおれこそが、ティンダロスの猟犬! ヨグ=ソトホースの前を歩むもの!」

 薔薇窓を。

 破って。

 飛び降りてきたもの。

 は。

 メアリー。

 レイビス。

「あは、あはは、あはははははははははははっ! アーサーさま、わんわんですわっ! わんわんがたくさんっ!」

 メアリーの体中から剥き出されて、さんざめいてあたりに降り注ぐ、その水晶によって切り裂かれ、あるいはノスフェラトゥの返り血を浴び、雨と泥に濡れて、襤褸布のようになったネグリジェは、タンバリンを持ったミリアム、舞踏の神たるミリアムの体にまとわりつくヴェールのように見えた。サンダルを脱いで、はだしの踊り子は、歌うようにして叫ぶようにして笑い声を響かせながら、広場中に切り取られた魂の切片をまき散らす、きらきらと透き通って歪んだ光がちらちらと揺らぎ、そしてライカーンはその燃える雹にうたれて次々と倒れていく。しかし、メアリーにとってはこれは単なる余興に過ぎない。

 既に一度言及したが、セント・ハドルストン大聖堂はリベラシオン時代に作られた教会建築の一つだ、その時期のオンドリ派教会に頻見される構造として、五塔式プランと呼ばれるデザインがある。一つの巨大なドームを、まるで護るようにして小さな塔を五つ配置する形式で、中心の巨大なドームは福音編集者であるトラヴィールを、他の五つの塔はそれぞれの選神枢機卿を表している。すなわち、トラヴィールの前にある二つの塔はそれぞれ聖ベルヴィル騎士団総長と奇跡者ダニエルを。トラヴィールと並ぶように置かれた二つの塔はトラヴィール教会オンドリ派総大司教とトラヴィール教会フクロウ派総会議長。そして最後の一基、トラヴィールのあとに続くように、ひっそりと後ろに立っている塔は月光国正教会天使。なぜオンドリ派の教会なのに他のトラヴィール教会主要五派の代表者に関する塔が建られているのかと言うと、そこにはトラヴィール教会のあらゆる信徒達の礎としての自負(奇跡者ダニエルの方が先に存在していたがオンドリ派のように大々的に組織だった布教をしていたわけではない)がにじみ出ているというわけだ。

 その塔の中で、前方左側にあるもの。

 聖ベルヴィル騎士団総長。

 つまり、殺戮者を表す塔。

 そこから、メアリーは飛び降りたのだった。

 まさに、メアリーに相応しい場所だ。

 しかしそのせいで、メアリーがふんわりとヴェールをひらめかせながら着地したその場所は、正面ファザードよりも少しずれた位置だった、正面ファサードに集まっているライカーン達を、背後から狙うことができる位置という意味だ。はだけた髪を顔にまとわりつかせながら、メアリーはくるりと反転して、その集まっているライカーン達、背後に相対する。

 ぱっと、両手を広げる。

 巨大な砲弾のような水晶。

 二つ、手のひらから発射されて。

 ライカーンの群れに突っ込み。

 散弾のように炸裂する。

「まあ、薄汚い野良犬は体の中まで薄汚いのですね。メアリー、また一つ賢くなってしまいましたわ。あとでアーサーさまに褒めて頂きますことよ!」

 新たなる脅威に対して各方面から襲い掛かってきたライカーン達を、軽くいなすようにして体を傾けながら、メアリーは嬉しそうにそう言った。傾けた体の各部分からはまるで新しい手足のように水晶が生え、躱されたライカーンの身を掴むように貫いては落としていく。

 一方で、メアリーが突き破った窓から。

 アーサーが、その光景を見下ろしてた。

 軽く舌打ちをして、呟く。

「全くめちゃくちゃしやがって、あいつ……」

 正面ファザードの前は、アーサーの言った通り、まあめちゃくちゃすったもんだな状況だった。ある意味では美しくさえあるかもしれない。地上に引きずり降ろされたボールドヘッドのドーロイドの足止めを受けていない三体が、そこら中にロケットパンチをぶちかまし、あるいは赤いレーザーをまき散らしている。一方で、メアリーは狂ったように笑い声をあげながら水晶を饗宴における椀飯振舞のごとく。レーザーの内側では、降り注ぐ雨やメアリーの水晶が、血漿のように赤く赤く光って……あたりからはあらゆる方向からライカーン達が飛びかかり、跳ね飛ばされ……それは例えば、ある種のカーニバルにも似ていたのかもしれない。

 しかし、その中で。

 メアリーは、少しだけ。

 力弱くなってきているようだった。

 要するに、彼の犬らはライカーンだったのだ、メアリーの水晶は、ライカーンに対しては不完全な効果しか発しない、彼の犬らの力を吸うことはほとんどない。水晶は、身を貫いても爆発的な成長はせずに、ただの弾丸や剣とそう違いがない。そのため、一度の攻撃では行動不能になるほどの重傷を負わせることはできずに、自然と相手をしなければいけない相手は増えていく。反対に、メアリーは先ほどの対ノスフェラトゥ戦で吸収して蓄積しておいた力をどんどん消費していかなければいけいないため、素早さ、攻撃力、全ての能力が次第に目減りしていく。前にも何度か言及した通り、メアリーにとって、ライカーンの群れは……戦うのにあまりいい相手とはいえない。

 メアリーはその体中からまるでスイショウリュウか何かのように水晶を突き出して、しかしそれは実は防御の為だった。「力」の急速な減少のために、純種のノスフェラトゥにも匹敵する様なスピードとパワーをメアリーは既に失っていた。それでも数匹のライカーンであれば軽くあしらえる程度の「力」は残っていたが、しかし残念なことにここにいるのは数匹ではない。従って、何らかの防御方法が必要となって来る、例えば鎧のような……そして、メアリーはその身に水晶の鎧をまとうことにしたのだ。

「ちっ……雑魚の癖に、てこずらせますわね。」

 言いながら、襲ってきたライカーンの咢をかがみ込んで躱し、代わりにその足を裂く。二匹目のライカーンが、背の方に飛び掛って来るのを、背の水晶を一本だけ槍のように伸ばして、寸でのところで貫く。しかし……その時に、その一本を伸ばすため、その一本だけに「力」をまわしたせいで、他の所の水晶の護りが弱くなってしまった。

 戦闘と言うものは。

 常に、一瞬の隙が左右するものだ。

 二匹、ライカーンが。

 メアリーに襲い掛かる。

「あらぁ?」

 メアリーは不思議そうに言う。

 ライカーンの爪が、腕にかかる。

「レイビス!」

 アーサーの声。

 純粋な光。

 二回、閃く。

 その次に映し出された光景の中では、メアリーを襲っていた二匹のライカーンは既に跳ね飛ばされていた、すぐ近くで群れ集っていたライカーンの群れにぶち当たって、己の仲間を何匹か跳ね飛ばしながら。そして、メアリーの目が、その時に見ていたのは……今まで塔の上、窓から下の様子を窺っていたはずのアーサーの、少し猫背気味の背中だった。アーサーは、その手に自分の身長ほどもある何か棒のようなものを持っていた。持ち手には細かい装飾が施されていて上部はハンマーのヘッドの部分のようになっている、それは……よく見ると、それは、根元からへし折られたレクターンだった。ヘッドのようになっている部分は、レクショナリーを置くための書架台の部分で。手近にある、振りまわせるものをとにかく持ってきたらしかった。レクターンは、ぼんやりとした光を放っていた。その光はゼティウス形而下体の目で捕えられる中で最も純粋な光、つまり、セミフォルテアの光。自分の体内のセミフォルテアをレクターンにまとわりつかせて、一時的に神力武器としているようだった。もちろんライカーンはゼティウス形而上体ではないため、攻撃に際し物理的な攻撃で十分対処可能だ。しかしたった一撃で相手を戦闘不能の状態に置くためにはセミフォルテアを使用した方が何かとやりやすいということ、そして今このような状況の中では力を出し惜しみするべきではないということ、アーサーは今までの経験から十分に理解していた。

「アーサーさま!」

「大丈夫か、レイビス?」

「もちろんですわ! アーサーさまったら、全く変なことをお聞きになりますわね、メアリーが怪我をすることなんてあるわけないじゃないですか、だって、いつも、アーサーさまが、メアリーのことを、守ってくださいますもの。」

「はは、そりゃよかったよ。」

 言いながら、アーサーはレクターンを、髪を撫でる微風か何かのようにして軽く、軽く、自分の体の前で回転させていた。それを見て、近くにいたライカーン達は静かに後ろに下がり始める。彼の犬たちには危険性を感じるような本能は、ほとんど残っていないはずだ。それでも戦線を後退させているのは、恐らくアーサーがノスフェラトゥの精神的な攻撃を発して、間合いに入らないように威嚇しているのだろうと思われた。

「レイビス。」

「はい、アーサーさま。」

 アーサーは、レクターンを持っていない方の手。

 メアリーの方に手を差し出した。

 メアリーは、いとおし気にその手を取って。

 優しく、優しく、頬ずりをする。

 体の内側で、水晶がその輝きを増す。

「いいか?」

「とても、とても、いいですわ……」

「いやそういう意味で聞いたんじゃねぇよ……まあいい。えーと、とにかく、玄関の前の奴らだけ片付けちまうぞ。」

「かしこまりましてよ、アーサーさま。」

「いーち、にーの……」

「さん。」

 消える。

 一鬼と一人の姿。

 次の瞬間には、アーサーとメアリーは正面ファザードの、扉口の前に現れていた。そこに至る途中の道筋に群れていたライカーン達を全て跳ね飛ばした後で。メアリーは、付近にいたライカーン達に向かって、まるで霧、最大限まで細かくした水晶の破片を差し向ける、その水晶の破片は呼吸器官を通じてライカーン達の肺にまで到達して、彼の犬たちを次々に呼吸困難へと陥れていく。アーサーは、運命の大槌のようにしてレクターンを振りまわし、扉口のそこら中にまとわりついていたライカーンを次々に叩き落していく。ほとんどぼろぼろに食いちぎられていたボールドヘッドの警備システムと、それから残りのドーロイドも、及ばずながらそれに手助けを加える。

 そして、一瞬の、その後には。

 扉口の前は、綺麗に清掃がなされていた。

 近くにいたライカーンは処理されて。

 アーサーと、メアリーと。

 それから、ライカーンのおまんじゅう攻撃を逃れた。

 残り二体のドーロイドだけが、従うように、そこに。

「レイビス、ステイ!」

 アーサーは、頃合いを見計らってそう言った、メアリーに向かって叫ぶようにして。ライカーンにさらなる追撃を加えようとしていたメアリーは、その言葉、命令、コマンドを受け取ると、ばねの切れた人形のようにしてぱっとその動きを止めた。弾かれるようにしてさっと振り返ると、瞬きする間もない速さ、アーサーのすぐ隣に侍っていた。そして非常に不服そうなふくれっ面をして、アーサーの顔を伺うように見上げながら、メアリーは問いかける。

「もういいのですか?」

「ああ、もういい。」

「でも、まだあんなに残っていましてよ。」

「俺たちのやるべきことはあいつらをここに近づけないことだ、全員を倒すことじゃない。」

「それはそうですけれど……でも、全員を殺しても別に問題ないのではありませんこと? 生きているだけでわたくしたちの害になるような、穢らわしい野良犬どもですわ、公衆衛生公社の皆様方の手を煩わせるよりもわたくしが処分した方が……」

「レイビス、俺だっていくらでもお前に「力」をまわせるってわけじゃない、極力無駄に使いたくないんだよ。最低限で済ませる、分かったな?」

「……かしこまりましたわ。」

「よし、いい子だ。」

 まだちょっとだけ不満そうに、ぷくーっとほっぺたを膨らませたままでいたメアリーの頭を、あやすようにそう言って、アーサーはぽんぽんと叩いた。反対の手、手元でレクターンをくるくると回しながら、ゆったりとした視線を残っているライカーン達の方へと向ける。アーサー、メアリー、ドーロイドと警備システムによって(ちなみに、残り二体にまで減ったドーロイドたちはアーサーとメアリーの左右それぞれの横、まるでアーサーの命令を待つようにして立っていた。ドーロイドは状況適応型の命令遂行プログラムというか、もう少しなんというかこうその場の雰囲気の中で一番いい感じの行動をとるようにプログラムされている、はっきりいえば、ヒーロー・ヴィラン間の戦闘において、あくまでも脇役の地位に留まって盛り上げ役に徹するようにその行動形式を規定されているということだ。そのため、この場でどうやら一番目立っているらしいアーサーの行動に従うことが、最もこの戦闘を盛り上げることができるだろうと判断して、このような行動をとっているのだ)正面ファザードから叩き飛ばされたライカーンが、そこここで気絶したまま倒れているが、それ以外にはほとんど変わった点はなかった、つまりライカーンの数は、ほとんど減っているようには見えなかったということだ。アーサーはふひーっと面倒そうなため息をつく。

 その瞬間に、ライカーン達は。

 びくっと体を震わせて。

 飛び退くように後退する。

 アーサーが、精神的な防衛壁を。

 正面ファサードの前に築いたのだ。

 例えば今まさに取っ組み合いの最中であったり、もう少しで獲物を落とせそうなときだったり、そういった興奮状態のライカーンには通じないときが多いが、それ以外の通常状態であれば、ライカーンは人間よりも右系精神攻撃が遥かに効きやすい。精神の構造が、より一層兵器的に作られているため、何らかの命令を神的レセプトしやすい形をしているからだ。その分、左系精神攻撃に関しては受け付けさえしないこともあるが、今回に関してはそれを行う必要性もなく、考えに入れなくても構わない(また、最近では右系・左系・神的レセプトという概念自体が非科学的であるという指摘もなされているがこの点に関しては今は論じない)。

 とにかく、アーサーとメアリーの。

 目の前に築かれたその壁に。

 ライカーンは、触れることすらできない。

 精神が、そう命じられているからだ。

 唸り声をあげて、アーサーとメアリーとドーロイドたちを威嚇しながら、ライカーンの群れはその見えない壁の前をうろうろと動き回っている、アーサーはそれを眺めながらほっと一息をついた。その気になれば……この大聖堂を全部包み込むくらいの精神壁を作ることもできるが、メアリーに「力」の一部を渡してしまった今の状態では、そんなことをすべきではないことくらいは分かっていた。あと一時間近く、この場所を守っていなければいけないのだ、極力無駄に使わず、最低限で押さえる。

 アーサーとメアリー、ドーロイド。

 対する、ライカーン。

 睨み合い、続くかに思われた。

 しかし、ふと。

 アーサーは違和感に気がつく。

「レイビス。」

「なんですか、アーサーさま。」

「お前、キューカンバーを見たか?」

「キューカンバーさまですか? いえ、お見かけしませんでしたわ。先ほどは死にかけていらっしゃいましたし、どうせおうちに逃げ帰ったままで、こちらにはいらしていないのではないかしら。」

「いや、そんなはずはないだろ。あいつは……しまった!」

 アーサーが何かに気がついて。

 忌々し気に舌打ちをした、その時。

 静かに、海が、割れていくように。

 ライカーンの群れが、二つに裂ける。

「ようやく気がついたみたいだな、グッドマン。」

「な……まさか……バックスノートか?」

 ライカーンの群れの真ん中に現れた一本の道、アーサーとメアリーに向かって一匹のライカーンが歩いてきたのだ。それは一般的なライカーンよりも、より獣じみた歩き方だった。前足と後足を使って、ゆったりと、ごく自然に、尾を払うように動かしながら。アーサーを、グッドマンと呼んだ彼の犬。アーサーに、バックスノートと呼ばれた彼の犬。全身が、夜に貫けるような銀色の毛で覆われていて、そしてその毛で覆い隠してはいるが、どうやら全身のいたる所が傷つけられているようだった。毛の色、雰囲気、そしてその傷跡、あらゆる観点から見て、彼の犬は随分と老年のライカーンのように見えた。

「話をする前に、邪魔な奴らを眠らせとかないとな。警備用ドーロイド全機能停止/承認コード:リトル・トークン・フォー・ドギーマンズ・ヘルプ。」

 バックスノートがそう口ずさむとともに。

 ドーロイドたちの目、吹き消されたように火が消えて。

 そして、魔法にかけられたみたいに、その場に倒れた。

 バックスノートは満足そうに一度頷くと。

 改めて、アーサーに向かって口を開く。

「勘違いするなよ、俺は今回の件で雇われただけだ。こいつらのいう革命なんざどうだっていい。」

「随分と久しぶりだな……ダンディの葬式以来じゃねぇか。」

「出席したのか?」

「いや、そもそも葬式があったのかどうかも知らねぇよ。」

「だろうな、お前はそういうやつだ。」

「そっちはキャサリンの娘か? ずいぶん大きくなったな。」

「メアリーには手を出すな。」

「安心しろ、仕事内容にこの娘の殺害は含まれていない。」

 バックスノートはそう言って、曖昧に笑った。

 一方のメアリーは、訝し気に彼の犬を見つめたまま。

 アーサーに問いかける。

「あの方はどなたですの、アーサーさま? なぜお母さまの名前をご存じですの? それに、わたくし、あの方を、どこかでお見かけしたことがあるような気がいたしますわ。どこか……遠い夢の中のようなところで。」

「ああ、そうだ、夢の中だよ。忘れちまっていい夢の中だ。そんなことよりレイビス、いいか、良く聞け、今すぐノヴェンバーの様子を……」

 アーサーが、メアリーに向かって。

 そこまで言いかけた時に。

 バックスノートの体がふっと消える。

 そして、アーサーの喉から。

 全開にした蛇口のごとく、血が噴き出る。

「グッドマン、残念だがそれはさせられないな。」

 バックスノートには、ノスフェラトゥの精神攻撃は通用しない、そういう処置を受けているからだ。まるで錆びついてもなお切れ味を失わない肉切りナイフのように長く鋭い前脚の爪、アーサーの喉を捕えてそれを掻いたのだった。ぱっくりと開いた大きな傷口を、アーサーは慌てて押さえて流れ落ちる血液を止めようとするが、いつの間にか目の前に人間のように後脚で立っていたバックスノートの追撃、掌底でアーサーを叩く。アーサーの体は突き飛ばされて、背後の壁にぶつかる。手に持っていたレクターンは、どこかへ放り出される。

 かふっ、と声にならない声を上げる。

 喉の傷は、決して致命傷ではない。

 所詮、物理的な傷に過ぎないからだ。

 しかし、喉を裂かれたせいで。

 全く、声が出なくなってしまったのだ。

「アーサーさま!」

 メアリーはアーサーによって先ほど入力されたステイを解いて、ほとんど脊髄で反応したように自分の体を弾いた、メアリーの行動の全てを統御するあらかじめ組み込まれた基底コマンドから発した行動、アーサーに害を与えたものを即座に迎撃する反応だ。スイショウリュウがその飛行の際に使う巨大な翼のように、両手の先に紡ぎ出された二本の水晶の剣が、逡巡も躊躇もなくバックスノートを襲う。

 しかし、バックスノートは軽く跳ねてそれを避ける。

 その上でその場を一閃した剣の上に飛び乗って。

 挑発するように、メアリーに向かって言う。

「残念だったな、キャサリンの娘。」

「黙れ駄犬!」

 メアリーはそう言うと、口の中に生えた水晶を噛み砕いた。粉々に砕かれて粉のようになった水晶を、スプレーのようにしてふうっとバックスノートに向けて吹きかける。しかし、それが鼻先に到達する前に、バックスノートはまたすっと消えた。自分の感覚に触れるバックスノートの軌跡を追って、メアリーは自分の背後に向かって叫ぶ。

「アーサーさまを傷つけておいて逃げられると思うな!」

「逃げるつもりはないな。」

「必ず殺す、お前が何者であろうと!」

「追いかけて来いよ、キャサリンの娘。」

「殺す、殺す、殺す、殺すぁああああああっ!」

 魂を食いちぎるようなメアリーの叫び声の後、その体中、ほとんど隙間もなく、あらゆる部分から光り輝く水晶が生えてきて、そして見る間もなく巨大な結晶に成長する。そして次の瞬間には、まるで炸裂弾のようにして、成長した水晶がそこら中に放たれる。脈絡も理由もない災害のようなその攻撃は、アーサーのいる方向以外の全ての方向にまき散らされて、そしてその場にいたライカーンのほとんどを貫いて戦闘不能にする。

 しかし、バックスノートには当たらない。

 まるで春の風のように軽く。

 全ての水晶の弾丸を避けて。

 そして、メアリーに向かって言う。

「まだ俺は生きているぞ。こっちだ。」

 その言葉が終わる間もなく、ネグリジェのほとんどが破れ果ててて、半裸の姿になったメアリーは、その体をバックスノートの懐に入り込んでいた。突き上げるようにして水晶の剣を向けるが……しかし、バックスノートは握手でもするようにして手のひらを差し出して、その水晶を受けた、深々と突き刺さったが、致命傷を与える前にその攻撃は止められてしまう。バックスノートの足が、メアリーの足を払うように仕掛けるが、しかしメアリーはそれを避けて、逆にナイフシューズのように爪先に水晶を纏わせたままでバックスノートの方に向けて薙ぐ。その攻撃も残念なことに致命傷を与えることはなかった、切り落とされた獣毛と、かすった傷口から噴き出た鮮血が、風に騒ぐようにして飛んでいく。激しい攻防は、一進一退を繰り返すこともなく、まるで静止したままの状況を保ったままでメアリーとバックスノートの間に繰り広げられている。

 その戦闘の光景を見つめながら。

 ふらついて、アーサーは壁から離れる。

 すぐによろめいて、その場に膝をつく。

 血を失った体が、言うことを聞かない。

 そんな体を叱咤するように、アーサーは。

 必死で何かをメアリーに命令しようとする。

 声なき声、狂犬には通じない。

 アーサーの言葉は、つまりこう言おうとしていた。メアリー、構うな、こいつらの本当の目的は、キューカンバーがノヴェンバーのいる場所まで潜入する際の陽動に過ぎない。ノヴェンバーの所に向かえ、そしてキューカンバーを止めろ、早くしないと、もしかしたら既にキューカンバーは……云々官官。そして二人にとってもノヴェンバーにとっても非常に残念なことであるが、その言われるはずだったアーサーの言葉は、実のところ大筋において正しかった。


 先ほども一度言及したが、ボールドヘッドのセキュリティ・システムの設計思想は「いかに守るか」ではなく「いかにヒーローを輝かせた上で目的地まで到達させるか」を中心としている。そのため、実は一定の攻略方法というものが存在しているのだ。確かにその攻略方法は、毎回ランダムに変わる複雑なルートを描いているため、全てを記憶してそれを適時に選ぶことは非常に難しいことではある。それでも、もしも当該拠点を攻略しようとしている敵対者がその攻略方法を適当に行使できる際には、それはまるで目の粗いざるのようなもの、セキュリティ・システムなど存在しないかのようにたやすく侵入することが可能だ。

 ボールドヘッドの全拠点のセキュリティ・システムを記憶している個体は、この世界にごく少数ではあるが存在している。そのうちの一匹がライカーンの傭兵であるバックスノートだ。そして今、そのバックスノートから攻略方法を聞いた一鬼の侵入者が、セント・ハドルストン大聖堂の内部に入り込んでいた。ボールドヘッドがわざわざ張り巡らせた複雑な排気ダクトを伝って、その向かっている場所は……ノヴェンバーと、そしてダレット列聖者がいるB.lab。

 その侵入者は、キューカンバー。

 そして今、彼の鬼は。

 目的の場所にたどり着く。

 壁の隅、天井の近くに取り付けられた通風口。ボールドヘッドの研究所テンプレートには内部循環型空調管理システムが含まれているため、排気ダクトのようなものは全く必要ないのだが、それはともかくキューカンバーはそれを塞いでいた格子、刃物のように鋭く尖らせた爪で静かに切り開いて、キューカンバーは音もなくB.labの中に滑り込み……そして、横からその体を薙いできた黒い鞘によって地面に叩き付けられた。通風口からの侵入を予測して、ノヴェンバーが待ち構えていたのだ、実のところ、ノヴェンバーもやはりボールドヘッドの全てのセキュリティ・システムの攻略方法を知っている個体のうちの一人であった。

「くっ!」

 小さな呻き声をあげた。

 ノヴェンバーが、だ。

 鞘に包まれたその黒い刀身によって、衝撃を与えられたキューカンバーの体、その衝撃を受けて、先ほどの戦闘時に自らの十の手で刺し貫いた十の穴から、何か血流のような光が迸って、ノヴェンバーの体に降りかかったのだ。その光は形而上に開かれた穴から漏れ出す、キューカンバーのスナイシャクだった。通常の生命体のスナイシャクと違いノスフェラトゥのスナイシャクはセミフォルテアによって汚染されている。それはちょうど放射線に汚染された血液のようなものだ、特に純種のそれを身に受けたゼティウス形而下体は、神の力によって魂を焼かれるような激痛を味わう。

 ひるんだノヴェンバーを。

 すかさず、夜の羽が襲う。

 ノヴェンバーはあっけなく弾かれるかと思ったが、しかしその体に接触する前にキューカンバーの羽は、天井から蛇の群れのようにして大量に垂れ下がってきた、透明なコードの束によって防がれた。前方の何十本かは、肉と魂を切断するための刃によってやすやすと切り落とされたが、さすがにその全てを切断するには至らなかったようだった。透明な膜か、あるいは柔らかい鉄格子のようにして垂れ塞がるそのコードの向こう側から、間髪を入れずにノヴェンバーが指示を飛ばす。

「ゲーテ、キューカンバーを拘束しろ。」

〈かしこまりました。〉

 さわり、と頭足類の触手のようにして、コードがざわめいて揺れる、キューカンバーを囲い込むようにして、その四方から新たに、追加のコードが雪崩落ちて来る……そして、怒涛のようにして彼の鬼に襲い掛かった。キューカンバーはそれに対して、大きく羽を開く、身を屈め、羽を横ざまに見せ、そして爪先の先を中心としてくるっとその場で一回転した。空間を揺らぐ波のようなその皮膜に触れたコードは次々と刎ねられていき、しかし隙を作ることなく後発隊が次々に投入されていく。

 残念なことに羽での切断はあまり効果がないらしい、キューカンバーは舌の先で軽く上顎を撃つように舌打ちをすると、左の手を拳のように握りしめて、その腕をぐっと伸ばした。それはまるで海に投入された釣り餌のようにしてコードの中に突っ込まれる、コードは低能の魚のようにしてまんまとその左拳、左腕に巻き付いて、キューカンバーを己の群れの内側に取り込もうとする……その瞬間を狙って、キューカンバーは左拳の内側に溜めたセミフォルテアを一気に解放した。

 耐え切れず、ぱんっと、破裂する。

 まるで、小型の爆弾のようにして。

 キューカンバーの、左拳。

 巻き付いていたコードは、栄光なる偽りの神の力によって全て焼き尽くされる、そしてその部分、透明で柔らかい檻に一瞬だけ穴が開く、それは、キューカンバーがその包囲網から滑り出すには十分なサイズの穴だ。

「ゲーテ!」

〈対象が拘束から脱出してしまったようですね。「ポジティブにいこうぜ!前向き反省プログラム」を起動します、原因特定:セミフォルテア。対処方法:ボールドヘッディウムにセミハ耐性を付加。再度拘束を試みます、また失敗しても怒らないでくださいね?〉

 そんなことを言っている間にも、触手の群れ抜け出したキューカンバーは一つの方向に向かってひた走っていた、このB.labの中心パーテーションで区切られたスペースの内側、そこに置かれた幾つもの金属の箱、そのうちの一つ、一番巨大な棺桶のようなサイズの……その内側に、例の封印の鍵であるダレット列聖者を閉じ込めた箱に向かって。

 次々と閉ざされるシャッターのようにして。

 コードはキューカンバーを捕えようとする。

 ノヴェンバーも、地を蹴って。

 キューカンバーを追う。

 しかし、どちらも一歩届かない。

 純種のノスフェラトゥの速さ。

 本気を出した、狩人の速さ。

 キューカンバー、体中の穴から、呼吸をする己の命、従える、ように、して、十の光跡を描きながら。喉の奥で、舌を奏でる。長く伸びる、後を引く、世界の上に浮かび上がるような、弦楽器の振動、猛獣の音楽、捕食者の音楽、ノスフェラトゥの音楽、キューカンバーは歌う。残った右手を伸ばす。一拍の後に。それは、触れて、衝突する。倒れ、返り、蓋が開く。棺桶の、中身が放り出される。キューカンバーが、笑う。まるで、人の仔のようにして。眠り続けるダレット列聖者。キューカンバーは、のしかかるように、かばうように。羽を広げ体に覆いかぶさる。その顔を見つめる。目を閉じたまま、悪夢を見ている。キューカンバーは、右の手のひらを胸に置く。今、解放しよう。その夢から、その苦痛から。それを、望んで、いないと、しても。

 口づけを落とすように。

 静かに、穴を開ける。

 ダレット列聖者の体。

 生命が、抜ける。

 薄い笑いを浮かべたまま。

 キューカンバーは、言う。

「ハッピートリガー、作業を終了した。」

 本当に、薄紙一枚の差だった、ノヴェンバーがその場所に到着して、黒剣の一振りでキューカンバーを弾き飛ばす。キューカンバーはなすが儘だった、そろそろ体内に残っている力も限界に近付いてきていたのだ、弾き飛ばされたまま、研究室の床に倒れ込んで動かなくなる。ノヴェンバーは、ゲーテに向かって声を荒げることなく、しかし窮迫をにじませて言う。

「ゲーテ、ダレット列聖者を生命維持装置につなげ。」

『無駄だ、ノヴ。』

 それに対してジャッコが答えた、赤色のショゴスの中では、目まぐるしくスクリーンが付いたり消えたりを繰り返している、そこに描かれているのは見たこともないような抽象的な図形で、ある一点を中心として円を描くようにその周囲へと広がっていき……その明滅はまるで、ある種の蛇がゆっくりと獲物を絞め殺すさまにも似ているようだった。その蛇には戯れるように、一匹の猫がじゃれついている、艶めいて白い毛並みのその猫は、言う必要もないだろうがジャッコと共に仕事をしているゲーテのホロアバターだった。

 その手を止めることなく。

 ジャッコは言葉を続ける。

『ダレット列聖者が発していたドリームストリームが途絶えた。つまり手遅れってことだ、ストリーム自体はこっちにコピーしてあるから作業は続けられるが、これで解除されていない鍵があと……』

 ジャッコがそこまで言った時に。

 世界が、静かに歪んだ。

 色を感じられるものも、色を感じられないものも、この世界のものも、違う世界のものも、全てのものが、その瞬間に赤を見た。赤い思想、当然忘れてしまっていただろう、しかしその時に思い出すのだ。それは、とても大きい。それは、形の定まらないゼリーのような形をした体を震わせている。その表面をじっと見つめていると……そこに、何かが浮かびだしてくるのを感じる、それは世界が全ての存在についた……嘘だ、真っ赤な嘘。真っ赤ではあるが、透き通るように透明で、大きい、本当に、とても、大きい。それは、竜だ、しかしそれは、絶対にはっきりとしたものではない、形としてとらえられるものではないのだ。概念の奔流、ゆがゆがとして歪み始めた不定形の球体、幾つもの顔、その全ての顔は、有り得たかもしれないもので、誰かが知っていて、しかし存在しなかったもの、現実から流れ出た遺漏、全ての有り得てはいけないような、ひどいひどい色を叩き付けたような……それは、赤。

 ノヴェンバーとジャッコは。

 あるいはゲーテさえも。

 その瞬間に叫んだ。

 頭蓋骨の中に、その竜がいるのを見た。

 それは、常にいるのだ。

 それが生まれた時から。

 全ての存在の、内側に。

 原罪。

 私たちのものではない原罪。

 犯してはいない罪。

 どうしようもないもの。

 何もかもと整合しないもの。

 それゆえに。

 あるいは。

 楽園と。

 呼ばれたかも、

 しれないもの。

 その。

 名は。

 L。

『どうやら……』

 世界の歪みが収まり、赤い色が精神の中から去った後、暫くしてようやくジャッコが口を開いた、じっくりと、何を言おうとしているのかを考えながらでないと言葉を発せないかのようにして。あたりは、何もかもが静まり返っていた、一度波が押し流してしまった後の砂浜のように、そこには何もなかった。いや、正確にいえば、世界は何処も変わってなかった、研究室も、セント・ハドルストン教会も、ブラッドフィールドも、パンピュリア共和国も、つまり何もかもが存在した、しかし何もなかったのだ。失っていないものは、決して取り返せない、つまりそういうことだ。

 ジャッコが何とか思考をまとめて。

 その言葉を続ける。

『もう全ての鍵が開いちまったらしいな。』

「ゲーテ。」

〈はい、ノヴェンバー。〉

「ブラッドフィールドの現在の状況を……いや、ブラッドフィールド中央教会周辺だけで良い、ホログラムとして映し出せ。それから……ダレット列聖者ではなく、キューカンバーを緊急生命維持装置につなげ。」

『おやおや、お優しいこったなノヴ。』

〈かしこまりました。〉

 ノヴェンバーの指示に従って、先端にマジックハンドのような手の形がついた長い腕のようなケーブルが数本ずるずると垂れ下がってきた。ノヴェンバーの攻撃を受けてから倒れたままであったキューカンバーの体を掴んで、どこかへと引きずって連れて行ってしまう、恐らく生命維持の装置がある方へ向かっているのだろう。

 一方でノヴェンバーのすぐ目の前には、ホログラムがプロジェクションされた、アップタウンの、ブラッドフィールド中央教会周辺の映像。キンスン・サーカスと、その周りを問い囲うように、まるで何かをその中に閉じ込めようとする檻のように組み立てられた、金属とコンクリートとガラスの蟻塚、ビルの群れ。キンスン・サーカスは、異様な光景に包まれていた。

 その場所では恐らくホワイトローズギャング&グールたちと夜警公社公社員たちとの壮絶な戦闘が繰り広げられていたのだろう、しかし今は、その戦闘は停止していた。どちらかが勝利を収めたとか、そういうことではなかった、ただ停止していたのだ。どちらの陣営に属しているかとか、そういうことは関係なく、そこにいる存在は全てその場に倒れていた。生きているのか死んでいるのかも分からない、身動き一つせず、彼らはほとんど完全にその活動を停止していた。Lの放射した……赤に耐えられなかったのだろう。

 そして、それだけではなかった。

 ブラッドフィールド中央教会。

 その、最も高い塔、銀門塔から。

 空に向かって。

 世界の上部構造に向かって。

 それは、木だった。

 あるいは

 偽りの天国に至るための導管。

 一本の赤いラインが世界の上に書き加えられたかのように、銀門塔から空の方向に向かって、どこまでもどこまでも、赤い色をした光が放射されていたのだ。それは、中央教会を、その周りのキンスン・サーカスを、その周りのアップタウンを、その周りのブラッドフィールドを、その周りのパンピュリア共和国を、その周りの世界を、その周りの……全てを、その赤色で照らしだそうとしているかのように。

『間違いないな、第五の封印は解かれた……わざわいだ、わざわいだ、大いなる天国、不落の天国、レピュトスは、わざわいだ……』

 ジャッコは、そう口ずさんだ。

 ノヴェンバーは問いかける。

「あとどのくらいかかる?」

『さっきも言っただろ? 変わらない、三十分かそこらだ。』

「それなら、あとは……」

『ああ、それまでは……君のお友達の、美しきフラナガン神父がなんとかしてくれるように祈るだけだ。』

 ノヴェンバーは、そのジャッコの言葉には答えず。

 ただじっと、ブラッドフィールドのホログラムを。

 その赤い光を、見つめていた。

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