#33 甘やかされて捨てられた子供が幸せになる唯一の方法
少し時間を戻し、場所を変えてみよう。
ベルヴィル記念暦985年2章15節。
ちょうど、アーサーが「ブラッデストサニー」と呟いたころ。
同じくグール・タウン、クラーク・セメタリー。
この墓地の開設は、リベラシオン(人間解放)時代、今は触れないが後々になって触れることになるだろうダウンタウンのセント・ハドルストン大聖堂建築と同時に行われた。それであるにもかかわらず当の大聖堂から遠く離れた場所に作られたのはなぜなのかというと、当時のトラヴィール教会に特有の死の穢れに対する忌避(これはトラヴィール教会に元から存在するものではなく、第一次神人間大戦の心的外傷が教徒達に与えた影響が関係している)のためだ。宗規によって、クラーク・セメタリーは「聖なるティンダロスが臨在する教会からはるか離れた、最もさびしい場所」を選び、その場所に作られた。
海に面した方向に向かって、まるで包丁で半分に切り落とされたドーナツのような形をしてブラッドフィールドを包み込んでいるグールタウンの中でも、最も内陸部に近いところに作られたクラーク・セメタリーは、そのせいでブラッドフィールドの全体を見通せるような小高い丘になっている。
ここがグールの領土になる前には、良く手入れされた芝生の上、ところどころに植えられた背の高い木がささやかな影を作り、風に揺らされて静かにこすれあう葉音のメロディを表す音符のようにして、碑銘を刻まれた四角の形、天使や聖人の聖像の形、あるいはティンダロス十字を模った形、様々な形をした墓石が点々と置かれている、心休まる公園のような場所だった。しかし今では……手入れする者もいなくなった今では、芝生はぼうぼうと伸び放題に伸びて、刈り込まれることのなくなった木々は無秩序に枝を伸ばし、そして雨や風によって朽ち果てた墓石は、まるでその下に埋まるものの有様を表しているかのように、崩れ斃れている。
雨が降っている。
ざあざあとすすり泣くような音を立てて。
雨が墓石を濡らしている。
死体の代替品と、死体の代替品の間。
一鬼と一匹と一人。
炎がその下で舐めるブラッドフィールドを。
静かに、見渡すようにして。
「調子はどうだ。」
ハッピートリガーは自分の隣、まるで尾を切り落とした後の蜥蜴のように蹲っているパウタウに声をかけた。パウタウは、ちょっと疲れたような、怠そうな顔をしてハッピートリガーの方を見上げたが、それでもしっかりとした口調で言葉を返す。
「うん、大丈夫だよー。薬が良く効いてるみたいー。」
「問題なく開けそうか?」
「もちろんだよー。」
「そうか、ならいい。」
その会話には口を挟まずに、グレイはただ、じっとブラッドフィールドの方向を眺めていた。ブラッドフィールドのアップタウン、ところどころに火の手が上がり、幾つかの摩天楼が脆くも崩れ去っている。ヘリコプターが飛び交っているが、すっかりと日が暮れてしまった夜の内側で、星の光も隠してしまうような暗い雲がもたれかかっているその下では、それがPAINの物なのかそれともマスコミの物なのかは分からない。夜の世界、全てが、雨のカーテンによって覆われて、遠のいていく悲鳴はまるで割れたガラスを引っ掻いているようだった。
破滅が、グレイの金色がかった瞳に映り込んでいる、まるで不定子が崩壊していく時に、放たれた強いエネルギーが、世界に光を刻印していくように。グレイの目はライカーンの目、つまり獣の目だ。白の部分、いわゆる強膜は露出しておらず、瞳孔と虹彩の部分しか見えていない、普通のライカーンにとって必要なコミュニケーションは拝命だけだ、表情などというものは必要としておらず、そのた人間のような眼球による感情伝達は発達を遂げてこなかった。
しかし、グレイは普通のライカーンではない。
ハッピートリガーによって、掬い上げられた。
世界の底から、彼の鬼の隣へと。
だから、彼女は自分の思考の内側を覗き込み。
それを、「仲間」とコミュニケートする。
「リチャード。」
「あ? なんだよ、グレイ。」
「お前の望みが、私には分からない。」
「随分と唐突な話だな、おい。」
自分の思考、というもの、ライカーンにとってそれは、随分と昔に海の底に沈めてしまった、組み木細工の秘密箱のようなものだ。複雑に心の奥底に閉じ込められて、普段は顧みることもしない。彼の犬達はそうやって作られた生き物だからだ。しかし、それは確かに存在している。ベースメントとなった生き物、はるか過去に人間の元になる生き物から分かたれたとされているその生き物に、確かに存在していたのと同じように。
だからグレイは。
海の底に潜り入り。
手のひらの中。
静かに箱のパズルを解こうとする。
「解放に、これほどの犠牲が必要なのか?」
ハッピートリガーは黙ったままで。
問いかけるようにグレイの方を見る。
グレイの目は、じっと破滅を見続ける。
「私を、パウタウを、それに他の多くのアンダーテーブルズを、お前は解放した。それでも、まだ……机の下には、投げ込まれる食い残しで生きている集団が残っている。全てのアンダーテーブルズを机の下から外側に導くためには、机自体を壊すしかない、お前の考えているのは、そういうことなのか? 教えてくれ、リチャード。それとも、他の、何か別の……」
そこで、グレイは口をつぐんだ。
ハッピートリガーから、精神の揺らめき。
その揺らめきは、暗く濁った湖の底で。
一匹の両生類が、身じろぎをしたように。
ハッピートリガーは。
言い聞かせるようにして。
はっきりと、口を動かす。
「グレイ、何度も言ったはずだぜ。これは解放じゃねぇ、復讐だ。」
「それが、本当にお前の望みなのか?」
グレイの金色の目が、ブラッドフィールドの方向からそらして、ハッピートリガーの上に視線を向けた。ハッピートリガーは笑っていた、吸痕牙をむき出して、自分を包み込む全ての事柄を嘲るような、あの歪んだ笑い顔で。この顔を、グレイは知っている。ハッピートリガーが、リチャードが、生まれた時から、つまりスペキエースとして生まれた時から、きっと彼の鬼は、この顔で笑うように運命づけられていたのだろう。
その顔のままで、リチャードは。
ハッピートリガーは。
グレイに向かって、言う。
「準備はいいか? 始めるぜ。」
さて、クラーク・セメタリーの地下には、グールタウンの他の地区と全く同じようにしてハニカムの網の目、崩れかけたミルフィーユ、複雑な層をなして張り巡らされている、セルとセルを結び付け合うのは、細く長く穿たれたコリドール。もしかして、あるいは、アフター・ケレイズィの世界では知っているものはもうほとんどいなくなってしまったのかもしれないが……グールのハニカムは、実のところその全てが一冊の「本」であるに過ぎない。もちろん意思や主体的な思考などと言うものがない以上、ハニカムを作り上げて、そしてそこに住んでいるグールたち自身はまず間違いなくそのことを知らない、しかしそれは紛れもない事実だ。セルを球として、コリドールを線として、もしも世界の全て、少なくともその地下の世界だけでも見通せる目を持っているのならば、一度そうやって眺めてみればいい、そこに見いだせるものが、ケレイズィが文字として使っていた(その元となっているのはある種の機械回路だ、ケレイズィは文字を持つ前に既に高度な科学技術を有していた)クロック・パズルであることを一目で理解できるだろう。その本に書かれているのは一つの物語、グールの種族の記憶に、文字通りの意味で刻み込まれている、神話だ。
一匹の、赤い竜に関する。
五つの場面に分かれた。
グールにとっての、神話。
その五つの場面に関して、それぞれの中心点をなしている部分が当然ながら存在しているが(クロック・パズルはある中心の一点から書き始める三次元的な構造をなす)、そのうちの一点はもちろんクラークセメタリーの地下に存在している一つのセルで、そして当然のように、例の封印装置もこのセルの内部に作られている。というわけで、今、このセルの内部の光景を確認してみよう。
「それで、ミスター・リラ。」
「んだよ、バブル!」
「何度も申し上げていますよね、ミスター・リラ。私にとって、その名前で呼ばれることは非常に心外なのですが。」
「っせーな! 今俺は……ほっとけ、そいつはもう死んでる!」
「とにかく、一つ質問があるのですが、よろしいですか?」
「だから、今俺は……っと! つーかそんな場合じゃないだろ! おい、囲い込め、今度こそ仕留めるぞ! おわっ!」
「あなた方、つまりヴィレッジの推定では、リチャード・グロスター・サード及びホワイトローズ・ギャング構成員パウタウは、いつごろビューティフルのSKILLヴェノムから回復するということになっているのですか?」
「ちっ、こいつちょこまかと……ブリスターで一番強ぇ薬でだいたい十四時間、ヘンハウスの薬を使えば八時間だ!」
「なるほど。斬ッ!」
「やめっ……お前、危ないだろ!」
「失礼。」
何が起こったのかというと、特殊鎮圧班班長パトリシア・ウィルソン、アーサーやその他の人々の呼び方に従えばバブル・ボムのケノン・ブレードがミスター・リラの頭の上を薄くかすめて、その虚無の刃はミスター・リラの髪の先を二、三本切り落としてから、その先にいたノスフェラトゥの体を貫いたのだった。
「つまり彼の鬼たちがヘンハウスのワクチン、及びS-eidosの再生促進剤を使用していた場合、そろそろ回復する時間だということですね。」
「おやおや、これは心外だな。目の前の俺たちを無視して別のことの心配ですか?」
言いながら、体を貫かれたノスフェラトゥとはまた別のノスフェラトゥがセルの天井から落下してきて、パトリシアの対半神用バトル・アーマー「ゴールデンボウ」の頭部を柔らかく落とし込むような足さばきで蹴り飛ばした。バランスを崩したパトリシアは、少しよろけるようになり、その拍子にケノン・ブレードがノスフェラトゥの体から抜けてしまう。
「いえ、決してそういうわけではありません。ただ優先順位と危険度の問題です。」
「へえ、そうですか。まあ興味ないですけど。」
そのままパトリシアはケノン・ブレードを持っていない方の主動アームで、アーマーを蹴り落ちてきた方のノスフェラトゥの脚を掴み「投ッ!」思いっきりぶん投げた。ノスフェラトゥはセルの端の方に向かって吹っ飛んでいき、壁にぶち当たる。パトリシアは追撃を仕掛けるようにして、脚部に取り付けられた純エネルギー・スラスターを全開にして「走ッ!」そちらへと跳ぶように駆けていく。
一方で、ミスター・リラと。
残されたノスフェラトゥ。
「ちっ……てめぇら、天狼アリスの結合をいったん解いてヴァイオリンを囲うように展開しろ! パイプドリームはバブルボムに任せるぞ!」
そう言ったミスター・リラの一号令のもとで、互いの天狼アリスを連結させて、まるで蛇でできた壁のような戦闘陣形を取っていた五人(うち一名死亡)のヴィレッジ隊員達が、天狼アリスの結合を一度シャットダウンして、残されたノスフェラトゥを囲い込む檻のような形で展開した。展開し終わると、再び天狼アリスを起動させる、この世界にもともとあった歪み、その反動のようなエネルギーが生き残っていた四人とミスター・リラの肩の黄色い水晶からこちらの世界に流れ込んできて、その五つの奔流がつながりあって、彼の鬼を囲い込む檻のような形を形成する。
ゆらゆらと、冬の日の陽炎のように冷たく。
そのノスフェラトゥは、立ち上がる。
雑に切られた黒い髪、髪飾りのように飾られて。
べとべとと、赤く濡れた白い薔薇。
ノスフェラトゥは、身動き一つしない笑顔のままで。
囁くように、こう言う。
「今日は。」
「雨が。」
「降って。」
「います。」
セルの内部の状況は、大体のところこんな感じだった。ちょっと分かり難かったかもしれないので、もう少し詳しく説明するとするならば、まあ、とにかくここは先述したように五つあるLの封印の「鍵」、最後の一つが設置されているところだ。やはり白い筋肉状の床に一面を覆われていて、やはり脊髄のような五つの塔が建っており、やはりその中心に例の装置が置かれている。そこまではすべて同じで、そしてこれも「やはり」という接続詞でつなげなければならないが、やはり巨大な手でできた花弁の上の装置の形は他のセルとは少し異なっていた。ダレット列聖者を捕えている口に対して、その口の一点でつながっているかのように大きな女の顔が三つ、上に比較的まともな形の一つと下に形の欠けた二つが、ぐにゃりと歪んでいて、そしてその周囲を縄で縛るかのようにして腸のようなものが巡っていた。その腸は、内部に何かを閉じ込めて、それをゆっくりと消化しているかのように、波打つ蠕動を全体でくりかえしている。
そしてその装置を囲うようにして、リー・パークのセルと同じようにVP(前述、ヴィレッジ&PAIN合同部隊)とWG(前述、ホワイトローズ&グール合同部隊)の間で乱戦が繰り広げられていた。乱戦をしているメンバーの内で、過去生きていたもの(現在死骸となっているもの)は六、一方で今でも生きている生命体は七いる。その内で、VP(前述、ヴィレッジ&PAIN合同部隊)の数は死体が五、生存が六。WG(前述、ホワイトローズ&グール合同部隊)の数は死体が二、生存が二。
まずはVP。
リー・パークと同じように合計で十一人のメンバーがいたが、ぱっと見てリー・パークの部隊とこちらでは少し動き方が違っているように見えた。部隊内での行動班が完全に二つに分かれているのだ。それは、一対十(うち五人死亡)の割合で、つまり一人だけ、ほとんど個別で行動している、しかもその一人は天狼アリスさえ装備していなかった、なぜなら自前の兵器で十分だったからだ。
その一人とは、特殊鎮圧班班長パトリシア・ウィルソン。名前を聞けば分かると思うがメアリーやヘンリーと同じくウィルソン家の人間だ。ただしウィルソンの名を名乗っていながらも、実はパトリシアは二人と違って嫡出の子ではなかった。家長であるジョージ・ウィルソンが妾に産ませた娘で、そのために家族関係的にはヘンリーとは年の離れた腹違いの妹に当たるにもかかわらず、PAINの班長という非常に低く、危険な地位に留まっている(ちなみに、ジョージがかなり年をとってから生んだ子供であるためヘンリーと比べて非常に若く、年齢としては三十代の後半くらいだ)。ウィルソン家の中でのパトリシアの扱いは……人間であるにもかかわらず、いわゆる忠実なライカーンとでも呼ぶべきものだ。メアリーよりははるかにましな扱いを受けてきたが、所詮は妾の子だ、一人前の人間の扱いは受けていない、教育ではなく調教、そして生まれたのはけっして主人に牙を向けない戦力。そのため、パトリシアには夜警公社にある唯一の対神兵器(広義の対神兵器であり、実際は対半神用に作られている)である「ゴールデンボウ」を着ることが許されている。
「ゴールデンボウ」とは、もともとはノスフェラトゥ・グール間で内戦がおこっていたころにHOLが対G(対グール軍)の標準装備として設計した「ミスルトー」というバトルスーツを、戦後になって改良したものだ。サイズとしては成人男性の大体二倍くらいの大きさがあり、装着者を内部にすっぽりと包み込むことができる。頭部から腰部までがシャープな曲線を描く楕円形になっていて、首の部分と腰の部分に簡単な可動ジョイントがついている。脚部は二本、腕部は四本(下の二本は着用者が動かし、肩の上についた二本は自動制御で補助をする)、胴体の楕円にはまり込むような形でついている。背中の部分がまるで甲虫の甲殻のように盛り上がっているが、ここに飛行用のジェットが収納されているせいだ。「ゴールデンボウ」の名の通り、全身は鈍く光る金色に彩られている。「ミスルトー」にはなかった様々な許可兵器を装備されており、十のマイナス五乗Urというほとんど超高度虚無といってもいいレベルの高度虚無を作り出し、その刃にまとわりつかせることができるケノン・ブレードもそのうちの一つだ。
VPの残りの十人(生存者は五人)はヴィレッジとPAINの混合だったが、ヴィレッジ隊員のミスター・リラを中心として行動している。ちなみにミスター・リラは今は亡きミスター・アドニス(安らかに眠れ)とブラッドフィールドでの荒くれ者だった時代からの親友であったため、今回の任務にはその復讐のために志願してきたのだったが、実際に戦ってみたらあまりにも相手が強すぎたために、ちょっとこれは無理なんじゃないかと思い始めてる。
一方でWG。
もともとは大きめのグールマタが二体とノスフェラトゥが二鬼だったが、グールマタ二体は内部のグールを始末されてすでに倒されてしまっているため、残っているのはノスフェラトゥが二鬼だけ、あまり部隊と呼ぶのに相応しいとは思えないし、よく考えればGがいないのでWGではなくWだ。
しかし、その残っている二鬼は。
ヴァイオリンと。
パイプドリームだった。
根元に埋まった柔らかい死体から腐り溶けた肉塊と血液を、吸い上げ過ぎた桜の花びらが落ちていくようにして。ヴァイオリンの羽は柔らかく、形もなく、あえやかに開いていく。黒のスーツや、あるいは純種らしい真黒な色の髪、夜の中に少女の経血を垂らしたようにして、ずるり、ずるり、と濁っている。ふわん、とヴァイオリンはその髪の方に手をやった。神の愛が持っていたはずの永遠を、削り取っていってやがてエントロピーへと変えてしまう、時計の針にも似た指先は、かわいらしくヴァイオリンの頭の上を飾りつける作り物の白い薔薇に触れる。だらり、と舌を伸ばして、空気の味を確かめてみる。
血の味がする。
ヴァイオリンの、好きな味だ。
波の些喚きのように恍惚が走る。
口の周りを舐める。
それから、その姿は消える。
「消えた!」
「檻を崩すな、死ぬぞ!」
ミスター・リラが叫んだ。対ノス強化剤を使用しているにも関わらずその動きを目で捉えることができなかったことに動揺して、他の四人が一瞬だけ体勢を崩しかけたからだ。天狼アリスによってはすてせしあより流出され、紡ぎあげられた「ハリの波」、その動揺によって一瞬だけ訂正エネルギーの檻の形が歪む。
歪みは、瑕疵だ。
そこを突けば。
大抵のものは壊せる。
だから、ヴァイオリンは、そこを突いた。五人いた隊員のうちの一人、その体から最も強く怯え、竦みの匂いを立ち昇らせていた一人を、羽で軽く縦に薙いで殺すと、その二つに裂けた胴体の中央から、右半身と左半身はまるでドアボーイによって開かれたホテルのドア、柔らかく優美な鋭角を描きながらヴァイオリンは檻から抜け出した。
「檻を解除! 各自身を守れ!」
ミスター・リラがヴァイオリンの追撃を恐れてそう指示を飛ばしたが、しかしそれは杞憂だった、ヴァイオリンの狙いは彼らではなかったのだ。檻から抜け出したヴァイオリンは、そのままの直線を通ってその先に向かう、その先にいるのは、パトリシアと、それからパイプドリーム。ヴァイオリンは口の端を引き裂くように、小刻みに震わせながら笑顔を満面に広げつつ、壊れたラジオのような耳障りな声でこう呟いている「ヴァイオリンの、ヴァイオリンの、ヴァイオリンの、お人形」。その通り、パイプドリームはヴァイオリンのお気に入りのお人形だった、優しく撫でる手つきも、子守唄のように耳に心地よい声も、ヴァイオリンはどちらも大好きだった。それに何度も手や足をもいでもすぐに元通りになるし、その味もなかなか悪くない、何度口にしても飽きることのないスナイシャクだった。これほどの人形を、誰かに壊されてしまうのは、ヴァイオリンにとってはあまり良くない出来事だ、そして良くない出来事というのは、極力この世界から排除しなくてはならない。
「それを。」
ヴァイオリンは。
「壊しては。」
笑いかける。
「いけません。」
パトリシアに。
人間の反射力ではとてもではないが追い付けない速度であったが、ゴールデンボウの補助アームのうちの一本が反応した。パトリシアをアーマーごと引き裂こうとしたその研ぎ澄ました鎌のような手を、背後で受け止める。ゴールデンボウの外骨格は夜警公社の「懺悔室」の扉と同じ、例のトラヴィール教会から大量に寄付されたセカンダリー・バルザイウムの一部によって作られており、その点でもミスルトーより大分強化されていたため、さすがの純種といえどもやすやすと引き裂くことはできないはずだったが、それでも構造上どうしても弱点となってしまう部分を狙って全力をかけられれば、絶対に壊れないとはいえないからだ。構造上どうしても弱点となる部分、例えば、ヴァイオリンが最初に狙ってた頭部のセンサーが集中している部分や……
「握手は。」
あるいは。
関節部分。
「挨拶の、一つ、です。」
ヴァイオリンは恋人に囁くような甘い声でそう笑うと、自分の手を受け止めたゴールデンボウの補助アームを逆に握り返した。それから、まるで親鳥が雛鳥の羽を整えるようにして、優しくそれをひねり上げる。がぎん、という音がした、ぶぎちっ、という音がした。前者は補助アームの関節が外れる音で、後者はその内部のケーブルやチューブが千切れた音だった。どちらも、あまり良い兆候の音とはいいがたい音だ。
「おや。」
その音を聞いたのか、怪訝そうな声をしてパトリシアはそう言った。そして視覚センサーの一部を自分の背後に振り分けると、そこにヴァイオリンの姿を認めることになる、「レディ・ヴァイオレット・リーン、失礼ながらこのアーマーは夜警公社の社有財産です、あまり気軽に壊されては困りますね」と生真面目な口調で告げると、パイプドリームの相手をしているケノン・ブレードを残りの補助アームに持ち替えた。それからヴァイオリンに向かって空いた二本の主動アームを差し上げる。一方でヴァイオリンは、両の脚でアーマーの胴部にしがみつくように引っ掴まり、なおもアームを引きちぎろうとしていた。
差し上げられた主動アームに向かって。
ヴァイオリンは、静かに静かに問いかける。
「聞こえ、ますか?」
「何がですか?」
「雨の、音。」
「そうですね、聞こえます。」
アーマーの二本のアーム、腕から手のひらにかけての部分、あらかじめプログラムされていたコマンドが、パトリシアの思考フラグを受けて駆け巡る。稼働ブロックごとに分解され、そして二本だったものが一本に再構成されて、やがて新しい形を成す。それは、まるで小さなパラボラアンテナのような形をしていた、皿状になった基部の真ん中に、一本の角のようなものがついている。ケノン・レーザー、ある種の照射機だった、発するのはケノン・ブレードの刃と同じもの、つまり虚無だ。
「射ッ!」
パトリシアの声と共に、アンテナ中心の角部分から虚無が発せられた。ちなみに、虚無には色はない。音も、また形も存在しない。黒い闇も、透き通るような静寂も、くりぬかれた空間を知覚することによって存在しうる思考の構造さえも、それは虚無では有り得ない。なんの感覚器官もそれに触れることはなく……しかし、その感覚のなさとしてのみ、ただ単純な虚無として感覚されうる、不在の証明にすぎない。
従って中度虚無あたりまでならともかく、ゴールデンボウが形成する高度虚無となると、例えノスフェラトゥであったとしてもその虚無を知覚するのに相当の集中力を必要とする、自分の感覚の中から何も感覚していない部分を探し出して、それを現実世界の虚無の軌跡に当てはめるのだ。ヴァイオリンはその作業に集中するため、引きちぎろうとしていた腕から手を引き、絡ませていた脚もゴールデンボウから離れさせなければならなかった。結果的に、パトリシアからはぱっと飛びのいて、虚無のレーザーを避けたことになってしまう。月の下で光と戯れる人魚のように、宙を泳ぐヴァイオリンは大気の中に穏やかな波を立てる。
「ちっ……外しましたか。」
軽く舌打ちをして、パトリシアは苛立たし気にそう言った。ケノン・レーザーは周囲の虚無の濃度にもよるが、一発を撃つと暫くの間は二発目を撃つことができない、構成していた照射機をまた分解して、二本の腕に再構成しなおす。かろうじて胴部に繋がっている、攻撃を受けた補助アームをその手動アームのうちの一方で支えるように体に押し付けながら、体の正面に視覚センサーを向けなおす。
しかし、いるはずのパイプドリームは。
既に、そこにはいなかった。
喉の奥で響く様な。
弦楽器の音が聞こえる。
「ありがとうございます、ヴァイオリン。」
「なっ……」
パトリシアは。
小さく悲鳴を上げる。
気がついた時にはもう遅かった。アーマーは上からの強力な力によって地面に叩き倒されて、その場に押し付けられた。視覚センサー一杯にパイプドリームの顔が映し出される、まん丸の、暗い色をした、青い二つの目が、その金属プレートの内部を見通そうとでもするようにして。
「パトリシア、二鬼のノスフェラトゥを一人で相手するというのは少し無理があるのではないですか?」
悪戯をした子供のように。
パイプドリームは笑う。
それに対して、パトリシアは答える。
「そうですね、私もそれには同意します……ミスター・リラ!」
「撃て! バブルボムに当てるなよ!」
ミスター・リラの威勢のいい号令と共に、VPの隊員達は一斉に天狼アリスを照射し始めた。パイプドリームはその声を聞き・その姿を見て・その精神を感じると、ふぅっと小さくため息をついて、発せられた訂正エネルギーが自分の体に当たる前に、のしかかっていたパトリシアのアーマーからひらっと姿を消した。この世界とは異なった法則によって色付けされた黄色は、脳や神経回路など持つことのない災害か何かのようにして、虚しく空をフェトアザレマカシアの方向へと捻じ曲げただけだった。
「大丈夫か、バブル!」
「見て分かりませんか? それより二鬼を。」
「ちっ……礼の一つくらい言えよ!」
言いながらも、ミスター・リラは既にさっとセルの内部を見渡していた。パトリシアの言葉を聞いたというよりも、この数時間でノスフェラトゥの恐ろしさを骨身にしみて知っていたからだ、他のVPの隊員達も二鬼の姿がどこに消えたかを探る。と、その姿はすぐに見付けられた。一番目立つところにいたのだ、つまりセルの中心にある例の装置、Lの「鍵」の足元。巨大で歪んだ三つの顔を、まるで縛り付けているようにぎゅうぎゅうと周りを取り巻いている腸のでっぱったところの下、パイプドリームは座るようにして、ヴァイオリンはただそこに立っていた。
ただ冷たい笑顔で見つめてくる二鬼。
ミスター・リラは、苛ついた口調で言う。
「ちっ、あんなところに……」
しかし、一方のパトリシアはそれを見てはっと何かに気がついたような顔をした。まあ顔をしたといってもその顔はアーマーで隠れていたので見えなかったが、それはともかくとして精神センサーと聴覚センサーを最大限の出力にしてあたりに感覚を澄ませる、そして、何か、探そうと思っていたもの、しかし決して見つけたいとは思っていなかったものを見付けたようだった。
ばっと他の人間たちを振り返り。
大きな声、叫ぶように命じる。
「全隊、天狼アリスで自分の体を包み込め!」
「は? 何だよバブルボム、一体……」
「いいから早く!」
そうパトリシアが言い終わりもしないうちに。
とうん、とセル全体が揺れた。
いや、地下全体が、鈍い音を立てて。
何かに強く叩きつけられたかのように揺れた。
「うおっ、何だ!」
ミスター・リラが体をゆらつかせながら言った。他の隊員達もなすすべもなく体をふらつかせていて、彼らはまだ天狼アリスで自分自身を覆う繭の様な安全圏は作ることができていなかったが、この振動によってそんなことを行うだけの余裕も失ってしまっていた。ヴァイオリンとパイプドリームはそんな人間たちの様子をじっと……観察しているように見えた。実際はただ見ていただけだろうけれど、ノスフェラトゥが何かをただ見ている時にはいつも観察しているように見えるものだ。ヴァイオリンは体一つ揺らしもせず、パイプドリームは一応、しっかりと自分が座っている地面を押さえるように捕まっていた。
そして、それが起こった。
もう一度、とうん、という音が響く。
今度は、先ほどよりもずっと近い場所。
このセルの、すぐ、天井の上。
全体に、罅が入る。
まばゆいような光を放ちながら。
その光は。
ライフェルドの。
光。
バブルボムは相対的に一番近くにいたミスター・リラに走り寄り、庇うようにしてその体を抱き抱えて、共に地に伏した。他の隊員達を救う余裕はなかった。それは……こういう順序で進んだ。まずは光が音も立てずにただ静かに広がって、そしてその内部の巨大なエネルギーを、ある一点を中心としてまき散らした。そのある一点とはこのセルの中心でもあって、つまり「鍵」のすぐ真上だった。巨大な砲弾のような光の塊、「鍵」に着弾する。「鍵」自体はそんなもので傷つけられるようなものではなかったが、その代わりにぽっかりと、「鍵」の真上の天井に穴が開いた。
一方で、天井の上の空間では……「鍵」に着弾した光の塊、つまり主弾がまき散らしたエネルギーの、その散弾が暴れ狂い、岩盤に甚大なダメージを与えて……そして、セルの天井は破裂した。ついに洞窟を形づくっていた、ドーム状にくりぬかれた岩は、そのエネルギーを支えきれなくなったのだ、瓦礫がガラガラとセルのあらゆるところ、すでに穴が開いてしまっている「鍵」の上以外のあらゆる部分に崩れ落ちて来る。
「ああっ!」
「一体何が、何が起こったんだ!」
「早く、繭を作れ!」
等と言い合って、生き残った三人の隊員達は大混乱を起こしていたが、しかしその大混乱に対して何か対策を取ることもできずに、降り注ぐように落ちてきた瓦礫によってその身を打ち砕かれて、潰されていく。次々と落下してくる岩の塊はそのセルの内部をスイープするようにして……やがて、「鍵」以外の全ての空間を埋め尽くし、覆い隠して、ようやく崩落は終わったようだった。
土埃が霧のように漂う。
粗雑な静寂の上。
「鍵」の上に開いた穴の中から。
やがて、声が聞こえてくる。
「遊んでんじゃねぇぞ、てめぇら。」
その声に先導されるようにして。
二つの影が、落下してくる。
一つは、黒いスーツで身を包み。
もう一つは、灰色の髪を靡かせて。
(いうまでもないが)ハッピートリガーと、グレイ。
「心外ですね。別に遊んでいたわけじゃないですよ、ハッピートリガー。あなたに命じられた通り、Lの封印装置の周囲を掃除していただけです。まあ、たった今あなたが随分と散らかしてしまったのでそうは見えないかもしれませんがね。」
「は! 掃除してただって? 下らない冗談言うなよ、俺が着いた時にも、まだ随分とゴミが残ってたみてぇだったぜ。」
別に心外そうな様子も見せずに言ったパイプドリームに対して、ハッピートリガーが馬鹿にしたように言葉を返した。ハッピートリガーとグレイは、とんっと装置の頭の上から飛び降りて、瓦礫の上に着地した。パイプドリームとヴァイオリン、(まあ潰れても死にはしないが再生とかそういうのが面倒なので)腸のようなあれの下にいたおかげで特に瓦礫に潰されずに済んだ二鬼と向き合う。
「で。」
「んだよ。」
「残り二人はどうするつもりです?」
ハッピートリガーに対して、何気なくパイプドリームがそう言った時に、都合よく計ったようにしてセルの端の方の瓦礫がどうっとはじけるようにして音を立てた。その下から、土塊によって汚れた金色の機体が空間を切り裂くようにして飛び出す、セミフォルテアのオーラを従えるようにして脚部から迸発させながら、ハッピートリガーに向かって突進する。その手に持っているのは、全体に虚無を纏った諸刃の剣。
パトリシアは、生きていたのだ。
ゴールデンボウの頑丈さによって。
ハッピートリガーは吸痕牙を見せつけるようにしてにやりと笑うと、両手に拳銃サイズのライフェルドガンを形成した。そしてまず片方の照準をケノンブレードに合わせると、軽く引き金を引く。音もなく発射された精神の弾丸は、ハッピートリガーを切り裂く直前だったケノンブレードの太刀筋をそらして、ゴールデンボウの体のバランスを崩した。そのままゴールデンボウはなすすべもなく体を滑らせて、地に倒れ込む。一方でもう片方のガンの照準はパトリシアが飛び出てきた穴の方へと向けられていた。ハッピートリガーはこちらの引き金も引く、そのまま弾丸は直線を描いて飛んでいき……そして、穴へと到達した。穴の中からは男のかすかな悲鳴ようなものが聞こえてきたが、その後すぐに何の音もしなくなった。
「リチャード・グロスター・サード。私達はピータース協定第二項、ハウスファミリー保護のために派遣されてきました。抵抗せずに、速やかに私たちの保護下に入ってください。」
バネ仕掛けの玩具のようにして飛び上がって、三鬼のノスフェラトゥと一匹のライカーンから距離を取ってから、パトリシアはハッピートリガーに向かってそう言った。それに対してハッピートリガーは、嘲るようにして答える。
「もう「私達」じゃなくて「私」だけだけどな。」
「あなたが抵抗する場合には、やむを得ず強制的な方法を取ることも有り得ます。」
「おいおい、そんな怖いこと言うなよ。」
パトリシアは、すっと揺らぐことのない一本の若木のようにその場に立ったままでケノンブレードの切っ先をハッピートリガーの方に向けた。先ほどヴァイオリンに引きちぎられかけた補助アームのあたりでは、ナノスマシンが修復をしているのか、うごうごと砂のように細かいものが蠢いているのが見える。
「確かに、例えこのスーツであっても三鬼のノスフェラトゥ、及び一匹のライカーンを相手にして勝てるはずはないでしょう。しかし、つい先ほど本部に対してリチャード・グロスター・サードがここに現れた旨の信号を送信しました。ご存じの通りゴールデン・ボウの通信機能は並みのジャマーでは妨害されません、すぐに待機していた応援部隊、天狼級対神兵器を装備した一隊がここに到着するでしょう、それまでの間、時間稼ぎをするくらいのことなら、十分に可能です。」
パトリシアのその言葉にもハッピートリガーはその顔ににやにやとした笑いを浮かべたままだった。軽く肩をすくめると、あーっと口を開いて、閉じて、また開く、二本の親指の先をくっつけるように地面と平行に差し出して、二本の人差し指は地面と垂直に、胸のあたりで出来損ないの四角形を見せるようにして、その四角形の中にパトリシアを収めるようにして、ぐっと腕を伸ばして見せた、それからこう言う。
「そりゃ困ったことになったな。」
「どうされますか、リチャード・グロスター・サード。」
「あーと、どうしようか……なあ、パウタウ!」
そう、ハッピートリガーが言うと。
天井から、ゴールデンボウの上。
黒い影の塊が落ちて来る。
「なっ……!」
「すぐに終わるからねー。ちょっと動かないでー。」
黒い影、パウタウはパトリシアに向かってにこにこと笑ったままでそう言った。愛撫するようにしてゴールデンボウの頭部を指先でするっと一撫でして、柔らかく包み込むようにその精神を回路の内部にディープインさせる。パトリシアは、上に飛び乗ったその何かを主動アームで振り落とそうとするが、思うように体が動かなかった、まるで、何か……全体に麻酔でもかかっていくような、もっと違う、何か体からエネルギーを奪い取っていく冷たい霧に包まれているような、そんな感覚。
「お前……やめろ……!」
「動かないでねー、もうちょっと!」
パウタウはシステムの中にそっと忍び込んで、次々に明るい部分を暗くしていく、プログラムはオフになり、パトリシアは何か奇妙な芋虫のようなものが這いまわって、脳を咀嚼されて、静かに浸蝕されていくように……やがて、ゴールデンボウは自分の体さえ支えきれなくなって、その場にどうっと倒れた。
虚無を失ったケノンブレード。
からん、と乾いた音を立てて転がる。
ハッピートリガーが、パウタウに問いかける。
「終わったか?」
「うん、これで終わりー。ゴールデンボウは中の操縦者と神経を統合するタイプのアーマーだから、中の人もたぶん暫くは動けないと思うよー。」
パウタウが、優しく優しく問いに答えた。ハッピートリガーはその答えに満足したように、にいっと満面に笑みを浮かべた、吸痕牙が淡い、淡い、光に揺れる、緑色に寄生するように、絡まり合う赤い色……そして、ハッピートリガーはその光の方に向かって振り返る。二本の赤イヴェール合金が、優しく頬を撫でる手のようにして、装置に絡みついている、その先は歪んで繋がりあった畸形の女の口の中へと続いていて……その水槽の中……妊娠されることのなかった胎児の見ている夢ように……それはLの鍵……悪夢……機械を動かすエネルギー源としてしか見られていない、純粋にインダストリアルの苦痛……
「さぁて、お前ら。これで四つの鍵を落としたわけだ。残りは一つ……はっ、はっ、はははははっ! どうだ、おい! 革命が成る時は近いぞ!」
ハッピートリガーは。
そう言って。
狂ったように笑う。




