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#30 九月来たりて

(コーシャー・カフェの構成員。

 謎のヴィジランテに殺さる?)

 蛍光灯を消して、静かに降り積もる埃のように沈んでいるガレスのマネージングルームの中には、しとど降りしきり世界を湿らせる雨の音が響いていた。その音はまるでしつこく、執拗にこちらに向かって縋り付いてくるような、そんな音をさせている、どんなに縋り付かれたところで、こちらには雨の声は理解できず、従って、彼らのことを救うこともできない、例えばそんなことを考えさせる音、という意味だ。その音は、ガレスの座っているキャスター付きの椅子の奥の側、開かれたブラインドと、広い広い防弾窓の向こう側から聞こえている。そして、この部屋の向こう側にある世界が内包するものは、もちろん雨の音だけではなかった。そこには、ブラッドフィールドがある。ガレスの街、ガレスが救えなかった街、そしてこれからも救えないだろう街。確かにこれまでに、ガレスはたくさんの人間を生きながらえさせることはできた。それに、犯罪者と呼ばれるべき人間を逮捕してきもした。だが、それが何になるというのだろう。ガレスが一人の淫売を救った路地の、そのアパートの上の階では、恐らく幼い少年が虐待されている。世界はそういった構造をしているのだ。ガレスは、結局のところ、この世界の、このほころびだらけの世界の、薄い薄い表面を辛うじて繕っているに過ぎない。

 その証拠に、今現在も窓の向こう側ではこの国が滅びようとしていた。ホワイトローズ・ギャングとグール達が手を組んで、アップルタウンのノスフェラトゥに反旗を翻したのだ。ガレスは、その反乱を押さえるために、あちらへこちらへと必死に立ち働いている。しかし、その間も、ガレスの一部、ガレスの心の底の、一番冷たく硬い部分は、こんなことを考えていた。今も、外の街では人々が苦しんで死んでいく、私はそれを救うことができない、私は、それを、救う、ことが、できない。

 雨の音と雨の音。

 その間に、声がする。

 死にぞこないの過去のような声。

 遠い、遠い昔の悪夢のような声。

「受け取りに来た。」

 声は、ガレスのデスクのすぐ目の前に立っていた。その姿は……恐らく運命の執行を行うものは、このような姿をしているのだろうといった、例えばそういう姿をしている。体は闇の色のマントに包まれて、本当の姿かたちを隠している。顔はこれもやはり闇の色をしたフードに覆われていて、その表情を伺うことはできない。全身が、その部分だけ、まるで黒い夜の内側にぽっかりと沈んでいるように。

 蛍光灯を消された部屋の内側。

 窓の向こう、燃えている世界の光を浴びて。

 ノヴェンバーは、ガレスを見下ろしていた。

 ガレスは暫くその闇の中心点を眩しそうな目で見つめていたが、やがてすっと目をそらすと、自分のデスクの一番上の引き出し、鍵がかかっている引き出しの、鍵を解いてそれを開いた。中から小さな匂い袋と、小指の先ほどの大きさのADBメモリを取り出して、それを机の上に静かに置く。顔を俯けたままで、ノヴェンバーに向けて口を開く。

「君に言われたものは、全て揃えた。」

 まるで声を出さないように。

 まるで音を立てないように。

 ガレスはそう言った。

 小さな匂い袋は屍食鬼公社発行のハニカム通行許可証だが、通常のものとは違い「緊急条項」用の特別の通行許可証だった。通常手続きでハニカムを通行する際は、あらかじめグール全体に通行者が向かうことを周知しているため、グールたちはその通行者を襲うことがない、そのため匂い袋は、グールに対してそこに通行者がいるということを示す強い匂いを放つ。その匂いは識別を目的としている。しかし、「緊急条項」の場合はそうはいかない、グール達には通行者が向かうことを示していないため、匂いによって場所を示してしまうと逆にグールの攻撃に身をさらしてしまうことになる(グール達は非常に排他的な生き物であり、匂い袋を持っているというだけでは攻撃対象から外されることはない)、それゆえに「緊急条項」の匂い袋は識別ではなく、攪乱を目的としている。グールの中で最も有用されている感覚である嗅覚を混乱させ、その存在を感覚されないように特別に合成した化学物質がその中に入っている。この匂い袋を持っていることは、人間の感覚で言えば光学迷彩を身にまとっているような状態とちょうど同じようなものだ。

 もう一方のADBメモリには、ハニカムの地図がデータとして納められていた。ただの地図ではなく、アーサーがパウタウの精神から抜き取った、残りの二つとなった、Lの封印の鍵の位置が入力されている地図だった。

 夜が一瞬だけ机の上を泳ぐ。

 二つの物は、その次の瞬間消えている。

 背の高い影がそれを飲むこんだように。

「確かに、受け取った。」

「ノヴェンバー。」

「何だ。」

「今回の件には、ブラックシープが関わっているそうだな。」

 ふっと、瞬きをしていたら見逃しただろう程度に。ガレスの言葉を聞いて、影が揺らめいた気がした。ガレスは顔を上げていた。しかし、ノヴェンバーの方は見ていなかった。代わりのその目は、壁の一点を見つめていた。壁のその部分には、シンプルな額縁の中、一枚の新聞記事が掛けられている。

「ああ。」

「しかも今回の件で、ブラックシープはフラナガン神父と行動を共にしていると聞いた。」

「その通りだ。」

 それは、二十数年前の記事だ。まだセレファイスウォーが起こる前の出来事、この世界が、その全てが、何度目とも知れぬ認識の大変革を迎える前、世界が神々を失い、しかし正義のヒーロ―という概念も未だ形成される前。希望の、光が、灯る、前、の、記事。その世界の中、光の差さない世界の中で、深海に潜む醜悪な姿をした深海魚が歪んだ卵の殻を破るようにして、誰にも知られず、NHOEは産声を上げた。ガレスは、その卵が……腐乱した死体のような世界の上に、その卵が産みつけられた瞬間を知っていた。その卵が、孵るところを見ていた。

 あの日に、嘲るように笑いながら。

 それでいて己が産卵したことなど知りもしないで。

 世界にその卵を産み付けた男を。

 あるいは、別の言い方をすれば。

 一つの爆弾で、一人の男を破滅させた男を。

 ガレスは、知っていた。

「ノヴェンバー。」

「何だ。」

「君は知っているのか?」

 そう言うと、ガレスは椅子から立ち上がった。それからノヴェンバーと、その体から伸びている影に触れぬようにして、部屋の端の方を通りながら、壁に掛けられた新聞記事の方へと向かう。ノヴェンバーはガレスの方を振り向きもせずに、それどころか身動きを一つもしないで、ただ声だけを部屋の中に浮かばせる。

「NHOEの考えていることは、私にも理解できない。」

「何か……何かが、変わろうとしている。私にはその音が聞こえる。ノヴェンバー、君にも恐らく、聞こえているのだろう。それ自体は私達にはどうしようもないことだ。アーサーには……私を信じてくれているアーサーにはこんなことは言えるはずもないが、それでも私達は、アーサーが言う通り、あまりにも無力なのだから。しかし私には、これ以上、彼が壊れることだけは、耐えられない。」

 ありうることではあるが、もしかして雨の音は拡散していく人間の不幸の数を数えているのかもしれない。一つ、二つ、三つ、三つから先は、数えきれないくらいたくさん。一つ、二つ、三つ、三つから先は、数えきれないくらいたくさん。何度も何度も、数える意味がないことであっても、雨は数えなければいけないのだろうか? 何度も何度も同じ言葉を繰り返し、例えば優しい人の精神を少しずつ骨の粉にして手のひらから海へと落としていく。それは、雨がその種類の役目を負った道化師だから? それは、決して全知ではない身に分かることではない。ノヴェンバーは、暫くしてから、初めてその声に人間のような感情を響かせて、こう言う。

「NHOEは狂人だ。」

 ガレスは振り返りもせずに。

 壁の前に立って答える。

「もちろん、彼は狂人だとも。この世界を救うには、狂人でなければならないのだから。」

 紙は黄ばみ。

 インクは薄れている。

 それでも。

「君も知っているだろう、君は、彼を愛していた。確かにその狂気を愛していた。ただ、君はそれを拒否してしまえるだけの、弱さがあっただけで。」

 それでも、確かに。

 その記事は、そこにあった。

 まるで世界を告発しているかのように。

 運命を、偶然を、そして全ての生命を。

 不幸なまま死んでいった魂以外の。

 全てのものを告発しているかのように。

「誰にも……誰にも話したことがない話をしてもいいか、ノヴェンバー? 私一人の、胸の内にとどめ置いた話を。君が初めてその服を着て、君が初めて私の前に現れた時に。君が、ギャングの構成員が放った弾丸から、初めて彼の体を庇った時に。私は君が、もしかして、彼を救うことができるのではないかと思ったんだよ。」

 ガレスは墓の下、棺桶の蓋を持ち上げて、重すぎる副葬品を自分の寝床から放り出そうとしている死体のような口調でそう言った。その死体は皮膚も、筋肉も、神経さえも、既に腐り落ちていて、起き上がることさえできなかったとしても。

「もちろん、私は深く絶望してもいた。まだ幼かった君を彼は自分と同じような……殺人鬼に作り替えようとした。君の人格をはぎ取って、己の闘争に勝利するための、勝ち目なんてあるわけもない、この世界へNOを突きつける闘争に勝利するための、兵器に作り替えようとした。それは、許されないことだ、狂気の所業だ、決して許されるべきではないことだ。それは、私にも理解できていた。誰もが彼は一線を越えたと言い、私もそれに同意した。けれど、それでも……私は淡い希望を抱いたんだ。君が初めて彼の体に飛びついた時に、彼の体を抱きしめた時に。彼の頭のすぐ上、すれすれに弾丸が飛んでいき、そして闇の彼方に消えて行った。それを見た時に、私は……」

 ふと、ガレスはそこで言葉を止めて口を閉じた。

 風を感じたのだ。

 流れる血と、燃える街の匂いがする風を。

 諦めたような顔をして、ガレスは振り返る。

 ブラインドが揺れていた。

 窓が開いていた

 部屋の真ん中にあったはずの。

 夜の残骸は、姿を消していた。

 ガレスは、そのまま新聞記事から視線をそらし、壁の前から離れて、入力されたはずのコマンドを果たせなかったオートマタのように、必然的な罪深さを口の中で味わいながら、静かに窓へと歩いていく。雨が吹き込んでいる、大分雨脚が強くなってきたようだ。からからと、砂漠で死んだ骨のようにブラインドが音を立てている、そのブラインドを指の先で固定して、窓の外を見下ろす。ノヴェンバーの姿はどこにも見えない。もう、どこかへ行ってしまったのだろう、自分に入力されたコマンドを、はるか昔に入力されて、未だに己の頭蓋骨の中で鳴り響くそのコマンドを、果たしに行くために。ガレスは、けれど、誰かに話しかけるように、また口を開く。

「ノヴァンバー、彼を救ってくれないか。彼は私を許すことはないだろう。それは仕方がないことだ、私はいつかきっと受け入れなければならない日が来る、許されないということを。だから贖罪をするつもりもない。けれど、私は……」

 その時に、ガレスのデスクの上で。

 電話のベルが鳴り響いた。

 ガレスが今、やるべきことを。

 ガレスの仕事を、伝えるために。

 ガレスは電話の方を一度見て。

 それから窓にまた振り返って。

 最後にこう、一言だけ。

 町の方へと、絞り落とす。

「彼に救われて欲しい。」


 一方でその頃のアーサーは何をしていたのかというと、裏通りを非常に速いスピードで走っていた、どのくらいの速さかと言うと、純種ほどではないがやはりノスフェラトゥの速さ、人間であれば何らかの種類の車両(しかも大量生産大量販売の安いものではなく、特殊な実験のために研究所や大学などのために特別仕様で作られるたぐいのもの)を使用しない限りは決して到達できないような速さだ。本人としては走るのは疲れるし、裏通りは治安が悪いので、車を使って表通りを行きたかったのだが、まあこの状態では表通りは車はおろか鼠とて死なずに進むには難しい状況であったので、仕方なく現在の取っている方法で目的地まで向かっているのだ。ちなみにその目的地というのはベッドストリートで、アーサー自身の予想通りに、アーサーに任された仕事は、ブラッドフィールドの、その中でもベッドストリートの治安維持であったために。

 向かっているのはベッドストリート。

 後にしてきたのは、夜警公社本社ビル。

 進んでいるのは、アップタウン。

 アップ、タウン。もしかして誤解があるといけないので、この際はっきりさせておくが、ここ、は、ブラッドフィールド、の、アップタウン、で、ある。ブラッドフィールドにおいてアップ、ダウン(ついでにグール)は街を形成する過程において自然とそうなってしまったものを街の人間たちがいつの間にかそう呼ぶようになったものではない。ノスフェラトゥ達が人間の管理のために、鬼工的に境界線を定めて、区別するようになったものだ。もともとはアップタウンには人間の兵隊たちの内でも将校のような上層階級や、あるいは軍事技術者達のための場所で、そしてダウンタウン(からグールタウンにかけて)は下士官たちや従軍職業者たち、前線に向かう者のための場所だった。その境界線が、戦後になっても残ってしまっただけのもの。確かにアップタウンにおける特別な企業誘致政策や、その種の経済政策の影響はあるが、基本的にはそういったものだ。

 つまり、何がいいたいのかというと、そういった鬼工的な境界線は、基本的に人間の性質にのっとったものではないということだ。愚かで曖昧な精神状態しか持たない人間たちは、美しい曲線で描かれたそんな境界線を、尊重するだけの高貴さを持ちえない。しかもその上、人間というものは救いがたく低きに流れる生き物だ。その結果、アップタウンとダウンタウンは見た目の上では異なっているように見える、少なくともアップタウンの表通りは、世界経済の中心に相応しい清潔で整った姿に見えるが、一枚その皮膚を裂いて、肉の下に潜り込んでみれば……

 アーサーがいま走っているのは。

 皮膚の下、肉の中だ。

 美しく化粧を施された娼婦も、醜く老いさばらえた娼婦も、娼婦という内面になんの変りもない、例えばそういうことだった。激しくなく、さりとて淡いというわけでもない、降りしきるその雨でも洗い流せないような、薄汚く濁っているような空気がたまった裏通りは、それがコンクリートやガラスによって一応のところ表面をコーティングされていても、それ以外の所ではほとんどダウンタウンと変わるところはなかった。ただ、どうやらこちらを縄張りにしているギャングどもには、壁に落書きをするというほとんど動物のマーキングと変わらない行為をしない程度の知能はあるようだ。

 ギャングども、そういえば今日は……裏通りの住人たちの姿はほとんど見られなかった。さすがに表通りほどではなくとも、少なくともまっすぐに進めない程度には小競り合いのようなものが、ホワイトローズ&グールと五大ギャングの配下たちの間で行われているのではと思っていたのだが、そこかしらを見てもどこかしらを見ても、小競り合いどころか五大ギャングの手の者は一人いないようだった。これは、ちょっとおかしい事態だ、自分たちの縄張りを、新参者やグールに侵害されているような状況で、なぜあの連中は黙っているのか? 

 しかし、それを考えているだけの余裕も。

 あるいは寂しがる必要も、アーサーにはなかった。

 裏通りには五大ギャングの連中はいなくとも。

 ホワイトローズの連中はいるようだったから。

 そう、今もアーサーのすぐ目の前に。

 恐らくハッピートリガーはこの革命の機会に、アップルタウンの支配だけでなく裏通りの掃討ももくろんでいたのだろう、結果としてその場所には不気味な静寂しかなかったのだが、そのために送り込まれた兵隊たちは、今も獲物を探し求めてうろうろとさまよっているようだった。そのうちの数人の集団と、アーサーが、いま鉢合っていたのだ。アーサーは、まるでタンバリンの踊りを終えたミリアムのような足取りでその足を止めると、広がって道を塞いで、こちらを睨み付けているチンピラたちに向かい合った。気の抜けるへらへら笑いで、口を開く。

「ナイトナイト。」

「んーだぁ、てめぇはぁ!」

 一番先頭の、頭をそり上げた男が優等生的なチンピラ語でそう言った。一般人訛りがまるでない、教科書に乗せたくなるような素晴らしいチンピラ語だった。暫しのあいだ聞きほれてから、さてアーサーは状況を一瞥した。

 人数は五人、感じ取れるセミフォルテアから推測するに、全員が雑種のノスフェラトゥと思われた。また、五人全員に共通する明らかなチンピラ性(三人いた男は皆がみな本人はファッションと思っていると思しき襤褸布のような服を着ていたし、二人いた女は二人ともどこかの部族の方々のようにたくさんのピアスをつけていた)によってマウスではなくリーヴオーバーであると推測できた(ここでちょっとこの二つの違いに関して触れておくが、簡単に分類すると、マウスが実験体として作られた雑種で、リーヴオーバーがノスフェラトゥの食い残しから生まれた雑種だ)。しかもここまでチンピラオーラがすごい、溢れんばかりとなると、リーヴオーバーの中でも雑種の食い残しから生まれた雑種だろう。それから、恐らく先ほどアーサーに「んーだぁ、てめぇはぁ!」って言った、頭をそり上げた男がリーダー格と思われた。あと、どうでもいいことなんだけど、そり上げている頭が雨でぬれててかてか光ってるのが少し面白いとも思われた。アーサー自身はというと、びっしょりと濡れた長い髪、あの触手じみた銀灰色の髪が顔にへばりついて少し視界を邪魔している。髪というものは無かったらなかったでちょっとあれだが、あったらあったで邪魔なものなのだなぁ。

 アーサーはそこまで判断すると。

 敵意のないことを示すために。

 自分の顔の横でぱっと両手を開いて見せた。

「なんだって言われると、まあ答えづらい所があるが、とにかく夜警官ではあるな。ああ、勘違いするなって、お前らをどうこうしようってつもりはさらさらねぇよ。俺は俺で仕事があるし、お前らはお前らで仕事があるんだろ? お互いにお互いの仕事をしようぜ、邪魔をしあうことなく。どうだ? 悪い提案じゃないだろ?」

「んだてめぇ! 舐めてんのかぁ!」

 あー、しまった、とアーサーは思った。ちょっと口にした文章が、目の前のチンピラたちが理解するには長すぎたようだった。二言か三言で、はっきりとこちらの意思を伝えない限り、こういった人たちからは必ず「んだてめぇ! 舐めてんのかぁ!」という言葉が返ってくるものだし、そしてその後は音声による会話から、あまり望ましいとはいえない肉体言語による会話に移行するものだ。それを何とか阻止するために、アーサーは二言か三言で、はっきりとこちらの意思を伝えようと試みる。

「えーと、舐めてはないぜ。」

「ふざけんな! やっちまえっ!」

 アーサーは常々思っているのだが、どうしてこうチンピラという生命体は、ちょっと生存本能に欠けるところがあるのだろうか。恐らくこれも適者生存の原則から、チンピラが増えすぎて餌の取り合いにならないようにみたいな理由で、進化の過程で思慮とか節度とかを少したくさん失っていった結果とか、そういった理由があるのだろうが、そうだとしたらそれはひどく絶望的なことなのではないか? 例え知的生命体であっても、その少なくとも一部は、進化の過程で洗練された生き方を捨てて、種の為に己の命を賭さなければいけない存在になってしまうというのは、知性というものに対してもあまり希望を持てる観測結果とはいいがたいのでは?

 そんなことを考えながら、アーサーは気絶して地面に横たわる五人のチンピラたちを引っ抱えて、なるべく雨の当たらなそうなところに持って行ってやろうとしていた。チンピラたちはノスフェラトゥという種に対する消し難い烙印のごとく、アーサーの想定を超えた恐ろしい弱さであり、殺さないように気絶だけさせるのが非常に難しく、そのために少し手間取ってしまって、結果的に全員を気絶させるのに五秒もかかってしまった。一人一人運んで、なるべく丁寧にゴミ箱の中に突っ込むと(ちょうどビルに据え付けられてるタイプの、業務用のダストボックスが近くにあった)一仕事終えたように、まあ実際は仕事を終えたどころかそのスタートラインにもつけていないのだが、それはそれとしてふうっと一息つく。

 そして、近くの影に向かって。

 あっけらかんと口を開く。

「手伝ってくれねぇんだな、ノヴァンバー。」

「必要ないだろう。」

 どこかで影が囁いた。

 アーサーが続ける。

「それで、何の用だ?」

「分かっているだろう。」

「念のためさ。」

「時が来た。」

「だろうな。」

 言いながらアーサーは蓋を閉じたダストボックスに寄りかかり、顔にかかった濡れ髪をうっとおしそうに払った。髪は雨を吸ってびしょびしょになっていて、それどころか体中が濡れ鼠みたいだ。アーサーは半ノスなので、よっぽどのことがなければ体が冷えたことによる風邪などの病をその身に受けることがないのはノスフェラトゥのごとしだが、雨でびしょびしょに濡れることによって憂鬱な気分になるのは人間と同じであった。

「だから、あなたを迎えに来た。」

 音もなく、アーサーの目の前に濃い色の影が降ってきた。どこからともなく、漆黒のマントが揺らいで、魚からはぎ取られた透明な鱗が、深海の底をひらめいて落ちていくように、アーサーの視界の端で揺れている。ノヴェンバーの感情のない、機械じみた声を聞いて、アーサーはそれでもやっぱりNHOEよりは人間らしいところが残っているな、と思うともなく思った。

「わざわざご苦労なこったな。」

「して欲しいことがある。」

「出来るならお断りしてぇもんだ。」

 そう言いながら、アーサーはコートのポケットに手をつっこんだ。中から出したのは、食物包装用の紙に包まれたドーナツだった。ドーナツ自体はパンケーキのようにふんわりと焼き上げた普通のものだったが、穴に対して直角に二つに割って、上のバンズと下のバンズの間にたっぷりホイップクリームを挟んでいるやつだ。しかし、コートから取り出すと、すぐに雨のせいでびしょびしょに濡れてしまって、そのせいで溶けたホイップクリームがアーサーの手のひらを伝って流れ落ちていく。アーサーは手首を舌の先で舐めながら、ノヴェンバーに向かって言う。

「前から思ってたんだが、そのフードいいよな。雨なんか降った時は特にさ。」

「時間が限られている。パウタウとハッピートリガーは楊春杏の体液によって一時的に力のほとんどを失ってはいるが、そろそろその治療も終わる頃だ。」

「せっかちな奴は嫌われるぜ?」

 ノヴェンバーがまとう影を雨がかすめて、まるでそれに引き寄せられているようにも見えた。ノヴェンバーは、ブラッドフィールドにとって、何らかの重さを、あるいは重力を、力を、持った闇だった。きっと、それに、その力に引き寄せられているのだろう、あるいは全てが目の錯覚なのかもしれない、どちらが正解なのかは、アーサーにも分からない。

「何をさせるつもりだよ。」

「扉が開かれる前に、鍵を奪う。」

「鍵?」

「ダレット列聖者だ。」

「は?」

「あと二鬼いるダレット列聖者の内、一鬼を奪う。」

「いやいや待てよ、ダレットを奪うっつったって……俺はあのパウタウってやつから読み取ったことしか知らねぇが、それから考えてもちょっと問題がありすぎるぜ。まずダレットは装置につながれてて、その装置から外せば、ダレットが死のうが死ぬまいがどっちにせよ鍵は開いちまうんだろ? どうすんだよ、まさか装置ごと盗むってんじゃねぇだろうな?」

 呆れたように問いかけるアーサーに向かって、ノヴェンバーは軽く右手を上げて見せた。その手、人差し指と親指で、何か小さなものをつまんでいた。ADBに似ていなくもないが、その先端はコネクタの代わりに長い針のようになっていた。

「なんだよそりゃ。」

「セレファイスの技術を応用したものだ。主な機能は二つ。一つ目は、メモリーに特定の座標を打ち込みドリーマーに接続することによって、ドリームランドのその地点に対象者を送り込むこと。二つ目は、対象者から発生する夢力を無線で一定の場所に送信すること。これを使えば、装置からダレット列聖者を外しても、一時間程度は鍵を保つことができる。」

「ダレットを送り込むべきドリームランドの地点ってやつと、夢力を送るべき一定の場所ってのは知ってんのか?」

「最初の殉教者を解析した時に、既に特定してある。」

「殉教者? ああ、被害者のことか。まあ、確かに害を被ったってわけじゃなさそうだしな。何にせよ仕事の速いこった。」

 そう言いながら、アーサーはドーナツを一口かじった。雨を吸い込んでいるせいで、歯を立てるとぐじっという音がして、口の中でべちょべちょになる。ホイップクリームも雨の味で薄められて、甘いんだか何だかよく分からなくなってしまっていた。噛むまでもなく、口の中でほとんど溶けてしまって、アーサーは流動食のようなそれをすぐに飲み込んだ。

「しかし一時間程度ってことは、しょせん一時しのぎにすぎないよな。その後はどうするんだ。」

「考えはある。」

「言う気はないってわけか。まあいいよ、そっちに関しては俺に「できること」はなさそうだしな……俺に「できること」か。ははっ、お前が必要なのは、つまり俺のスナイシャクってことなんだろ。」

 アーサーは、気の抜けたような笑顔をノヴェンバーに向けて見せた。ノヴェンバーはその言葉には何も返さない。アーサーは、目をそらすと、またドーナツを噛んだ。ぐじゅ、ぐじゅ、ぐじゅ、という音だけが雨の音とまじりあって、その後でそれを飲み込む音が聞こえた。アーサーは、続ける。

「装置からダレットを取り出すには、装置を解除するには、フォウンダーの正統な血を引いたもののスナイシャクが必要らしいからな。一応は、俺もレッドハウスの「純血」の後継者で、「純種」ではないにせよ正当な血を引いてるってわけだ。濁っていないスナイシャク……サヴァン隊長も惜しいよな、あいつが心臓と取り換えてでも欲しいものが目の前にあったってのに、俺が雑種だからって、「純血」のレッドハウスじゃないと思いこんで取り逃がしちまうとは。」

 アーサーはそう言い終わると、水が溜まってほとんど崩れかかっているドーナツの残りを手の中で軽く潰して、口へと放り込んだ。髪から額へ、やがては瞼の上へと滴って来て、その一部は目の中に入る、うっとおしい雨水を服の袖でぬぐう。アーサーのいつも着ている皺だらけのフロックコートは、もちろんかなり着古したものであるところのもので、ほとんど撥水性を失っている、そのためぬぐった袖もしとど濡れそぼっていて、その行為にほとんどまるで意味もなく、顔全体がびっしょりと濡れただけだった。

 アーサーはうんざりしたようにため息をつく。

 それから、自分の言葉に言葉を継ぐ。

「そうそう、それで思い出したんだが問題点の二つ目だ。例の鍵っていうか、ダレットさんを閉じ込めている装置は、どうやら俺達の属する世界とは別の世界の技術で作られてるらしいじゃねぇか。どうやって、その、ダレットさんを取り出すつもりだ? そりゃ俺だってどういう技術なのかってのは大体は理解したつもりだぜ、でも残念なことに俺はスペキエースじゃないからな、やり方が分かったとしてもその力がなきゃどうしようもないだろ?」

「あの装置を作り出した技術は、ある特殊なアーティフィカル・クリーチャーの応用系に過ぎない。ベースとなる方法が分かっていれば、解き方はいくらでもある。」

「はーん、そういうもんなのか。よく分かんねぇけど。じゃあ、大丈夫ってことだな。分かった。」

 アーサーは分かったような分かっていないような口調でそれだけ言うと、寄りかかっていたダストボックスからひょいっと離れた。中からは呻き声一つしなかった、完全に気絶しきっている、脳の意識を保っている器官に弱めのセミフォルテアを一瞬だけ打ち込んだのだ、暫くの間はチンピラたちはこのままだろう。犬が体毛にしみこんだ雨を払うようにして、アーサーも一度ぶるぶるっと身を震わせると、あまり効果はなかったが、とにかくあたりに水をまき散らすことには成功した。

 影の内側を見つめて。

 笑いながら、言う。

「念のためなんだが、一つ確認させてもらっていいか?」

「なんだ。」

「PAINとヴィレッジの連中に任せちゃダメなのか?」

「彼らには無理だ。」

「だろうな、まあ冗談だよ。じゃ、聞こうじゃねぇか。これからどうすればいい?」

「リー・パークに向かえ。」

「というと?」

「残りの鍵は二つ、クラーク・セメタリーとリー・パークにある。スナイシャクは帰還現象が起こる前に使用しなければいけない上に、装置を解除できるのはパウタウしかいないため、二つ同時に鍵を開くことは不可能だ。従って、ハッピートリガーはパウタウが回復し次第、片方ずつ開いていくことになる。彼の鬼はまずクラーク・セメタリーから向かう、従って手薄になるであろうリー・パークの方を狙う。」

「確信ありげな言い方だな。」

「確信の理由はあるが説明している時間はない。パウタウが回復すれば、彼の鬼らはすぐに行動を開始する。」

「はいはい、分かってます、分かってますよ。それで、俺の匂いはどうするんだ? グール達の大半は街に出張って来てるだろうかが、それでもあいつらの目的はその、Lってやつの解放なんだろ? とてもじゃないが装置の警備をおろそかにしてくれるとは思えないぜ。俺の匂いはちょっと目立ちすぎるんじゃないか?」

 アフタヌーンの闇の一部を構成しているノヴェンバーの右手が、軽く霞むようにして動いた。黒一色の鈍い陽炎が、揺らめいたと思うとその指先に何かを包み込むように捕捉していて、次の瞬間その何かはアーサーの方に飛んできた。アーサーは片手でそれを受け取ると、小さな小袋だった。

 軽く匂いを嗅いでみる。

 錆びた、苔のような匂い。

 ハニカムの、通行許可証。

「「緊急条項」か。」

「リー・パークの地下、装置につながっている通路は五本ある。そのうちの二本が、ハニカムの中でも既に使用されなくなった洞窟から続いていて、これはヴィレッジとPAINが使用するだろう。もう二本はリー・パークから繋がっている、こちらはハッピートリガーとその部下たちが使うと思われる。従って、最後の一本が私たちの使うルートだ、これはダレットセルから繋がっている。現在、ダレットセルは全体がトランス状態に入っているため、侵入は比較的容易だろう。地図に関しては、渡す必要はないな。」

「ああ、まあまあ覚えてるよ。」

「それでは、今から向かってほしい。」

「向かってほしい? お前は一緒に来てくんないのか?」

「私は、もう一人呼ぶべき人間がいる。」

「呼ぶべき人間?」

「いざという時の備えだ。」

「なるほどな、お前さんは俺と違って友達も多いだろうしな。」

「現地で集合する。」

「はい、分かりました。ところでこれから俺たちは、革命の戦火をかいくぐりハニカムの中でも最重要地点に潜入し、野良ノスとスペキエースとライカーンの各チンピラたちを千切っては投げ千切っては投げ、別世界の技術で施された封印をといて、そして見事「鍵」を獲得しなけりゃいけないわけだが、その大仕事を俺とお前さんとその助っ人のたった三人でやろうって言うわけか?」

 あまりうまくない冗談をでも言っているかのような口調で、アーサーはニヤニヤ笑いを浮かべながらノヴェンバーに向かってそう言った。ノヴェンバーはそれに対して何も答えずに、一歩後ろへ下がる、建物と建物の隙間、影の方へ。

「あーちょっと待て、最後に一つ。」

 ノヴェンバーは足を止める。

 アーサーは言葉を継ぐ。

「お前、最初の被害者……まあ、お前の言い方で言うなら殉教者か、とにかくダレットさんが殺され始めた時の、最初の現場でこう言ったよな、「ホワイトローズ・ギャングによるグール殺害は始まりに過ぎない。巨大な星座を形作るための、小さな星屑の一粒に過ぎない。これは、私からの警告だ。NHOEから目を離すな。ダレット列聖者から目を離すな。そして、フラナガンから目を離すな」。なあ、教えてくれよ。フラナガン先生は今回の件にどう関係してるんだ?」

 ノヴェンバーは頷きもせず。

 さりとて首を横にも振らず。

 ただ、立ったままだった。

 アーサーは、続ける。

「リチャードのクソガキの革命も、そのLって兵器も、確かに大変なことだ、しかし……これは俺の勘なんだが、そしてノスフェラトゥの勘ってやつは大体当たるもんだが、ひょっとしてそのどちらも、お前の言う星屑の一つに過ぎないんじゃないか?」

 ノヴェンバーは言葉を紡がない。

 口をひらこうともしない。

 アーサーは、続ける。

「NHOEはその何かに、大きな星座、星がそろうことに、備えをしているんだろ。そのために、フラナガン先生をレメゲトンから退院させた。となると、だ。革命や、世界を変え得る兵器さえもが、それを構成する星の一つに過ぎないその大きな星座ってのは、一体……」

 そこまで言うと、アーサーはふと気がついた、手に持った匂い袋、このままだと雨のせいで匂いが全部流れてしまうだろう。慌ててコートの内ポケットの中にそれをしまって、さて続きを言おうと思うと、影は既にそこから消えていた。アーサーは苦々し気に笑って、びしょ濡れの頭をびしょ濡れの指で掻いた。

 独り言のように。

 ノヴェンバーに呟く。

「まあ、言う気はないってことだな。」

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