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#2 あなたの全てが正義と愛で構成されていることの証明

――今、フラナガン神父が乗っていると思しき夜警公社の車両がブラッドフィールド中央教会へと入って行ったところです! 車両は報道陣に取り囲まれ、なかなか動くこともできませんでしたが、つい先ほど教会の関係者と見られる人々が……

 映し出された画像は、例えばそういったことを叫んでいた。

 夜遅い時刻にもかかわらず、集まった報道陣たちの放つフラッシュや、照明の光のせいで、その光景はまるで偽物の昼間のように明るく見えていた。ただ、その昼が偽物であることは間違いない、少し静かでギザギザしていてうるさい、半端に強すぎる光と、それから黒い液体でできたカーテンのように、染み一つなく黒い背景のせいで、やはり夜だということは明白ではあったのだけれど。

 巨大な画面に一面。現在、ライブで動画サイト「アフォーゴモン」にアップされ続けているニュース動画が映し出されている。フラナガンは既にチャンネルを国営放送から民間放送局に変えていて、静かで儀式ばって形式ばって正確で退屈な国営放送とは違い、フラナガンの「退院」を何かセンセーショナルなパラダイス・パーティーのもののように扱う民間放送局では、アナウンサーの声もまるで自淫をする猿のようにナルシスティックに響く。

――フラナガン神父! 今回の一連の出来事について一言お願いいたします!

 アナウンサーは教会へと消えていく車に向かって、そう叫んでいた。フラナガンはその光景を見て、顔を覆う黒い布の後ろ側でにっこりと笑った。勿論、あの車はおとりだ。フラナガンは、今、全く違う場所にいる。ブラッドフィールド中央教会から遠く離れた場所。もしくは、そこからとても近い場所に。

 ここはどこなのか、ということは特にフラナガンにとってはどうでもいいことであった。NHOEと、その「契約」を結んだのちに、またフラナガンは眠りについた。今度はレメゲトンに接続するためではなく、頭蓋骨の中、脳のすぐそばに何らかの装置(おそらく何かの条件を満たすと爆発する小型の爆弾、フラナガンに契約を守らせるための担保)を埋め込むための眠り。そして、その眠りからさめるとこの場所にいたのだった。

 何かの、洞窟のように見えた。

 あるいは、ただ単純な闇。

 何かの存在から、何らかの理由で、何かの生き物が身を隠すための場所。この大きさなら、たぶん狩人の隠れ場じゃないかな?とフラナガンは思った。狩人が、獲物から姿を隠し、恐怖に身をすくめた獲物を、急襲するための場所。そんな感じ。

 フラナガンが思った通り、それはなかなか大きな場所だった。少なくとも、狩人にふさわしいくらいには。長い時間をかけてガラスの容器にたまった、砂時計の砂のように、どこまでもどこまでも闇が広がっていて、その奥は見通せないくらいだ。時折その闇がしたしたと滴るような、そんな音が聞こえてくる、けれどもしかしたらそれは気のせいなのかもしれない。とにかく、その内部は仕切り板のようなもので仕切れるものではなかったが、その代わり足場はごく少なく、それが細い橋のようなもので結ばれている。足場ごとに何かの部屋のような体裁が整えられている。そして、そのそれぞれが何かしらのコンセプトに従って、整然と整えられているように見えた。

 今、フラナガンがいる足場は、その中でも一番大きな場所。洞窟の端の方、壁につながった一番奥まったところ。その足場は、何かの巨大なコンピューターが置かれているところだった。

『目が覚めましたか?』

 そのコンピューターから?

 あるいはこの場所の意思のようなものから?

 その声が聞こえてくる。NHOEの、合成された音声が。フラナガンはそちらのほうを見る、声の意思が存在している方向へと。NHOEは画面の前に設置された椅子に座っていた。それは、まるで拘束着を着せられたマネキンのように見えたのだけれど、それが石膏で形作られた人形でないということをフラナガンは知っている。眼球を突き刺すように浮かび上がるコンピュータの画面を、NHOEは光背のように黒く背負って。

「まあね。」

『あなたのことを、ニュースでやっています。』

「今、それを見ているよ。」

 鼻の先で笑うような声でフラナガンは答える。

 くっと首を傾げて、フラナガンはその場所からゆっくりと歩き始めた、まるでその足取りは、観覧車がくるくると回る時の音のように、少しも音を立てずにNHOEに接近している。あるいはこうもいえるだろう、星屑の流れる尾で編んだ、虚ろな入れ物が、夜の底を乱さぬように歩く。その足取りのように。一人で乗った観覧車から、流れ星を流れている……ぐらぐらと揺れる檻の中で、体の中には閉じ込められた空虚だけが音を立てて進んでいく……そして、フラナガンはNHOEが座っている椅子の、すぐ隣までやってくる。

「この家は。」

 冬の空気のように甘い声。

 フラナガンは歌う。

「悪くないね。」

『そうですか。』

「少なくとも君にふさわしい場所だと思うよ、お世辞半分で言っているのだけれどね。でも、もう半分は本当さ、君にふさわしい。こういう、まるで頭蓋骨の奥の方に沈んだ、棺桶みたいな場所は……」

 言いながら、ゆっくりとフラナガンはNHOEの座っている後ろ側に回り込んだ。そして、すっと、滴らせるようにして、その耳元で笑った。

「で?」

 唇の先に、NHOEの温度を感じる。

 特に、それに対する感想はない。

 フラナガンには、関係のないことだから。

 だから、フラナガンは。

 関係のある事柄をその唇に上らせる。

「僕は、一体何をすればいいのかな?」

『その前に、一ついいですか?』

「何なりと。」

『あなたに、紹介しなければならない人がいるのです。』

 本当に、NHOEのその声は。

 どこから聞こえてくるのだろう。

 近いようでいて遠く。

 それでいて三半規管の中で響くように。

「ああ、なるほどね、それはそうだ、君の言う通りだね。」

 フラナガンは、そういうと。

 また口の端を歪めるようにして笑いながら。

 さっとNHOEの体から離れた。

「僕はまだ、僕の雇い主に挨拶をしていなかった。」

 それからその場で、まるでドレスひらめかせる淑女のように、手を背に回したままで、フラナガンはくるっと一度回転した。そして、そのフラナガンの回転を何らかの合図として受け取ったかのように、この場所の一面に映し出されていた、まるで夜のコンビニエンス・ストアの光のように光っていた、アフォーゴモンの画像がプツン、と途切れたようにして消える。わざとらしいくらいに、芝居じみたタイミングで。

 そしてここは。

 この場所は、闇の色に包まれて。

『彼を呼んでもいいですか。』

「どうぞ。」

 ケイブの中では、まるでヒカリゴケに照らされたような、うっすらとした光だけが揺れている。何の光かさえも、それさえも解らない薄緑色の光……そんな中で、まるでその光が形をとったようにして、NHOEの声が淡く、淡く。

『ここへ来てくれますか……』

 その言葉の形を、形作る。

『ブラックシープ。』

「え?」

 ふっと、フラナガンは眉をひそめて。

「ブラックシープ?」

 ブラックシープ? しかし、フラナガンを退院させた男の名前は、確かP・B・ジョーンズ。ジョーンズ財団の最後の生き残り、その両手に金の砂をさらさらと流れるように受け止めた、その両手に、この世界の内側でほとんど最高レベルの富を受け止めた少年、しかし、その両親の死と引き換えにして……いや、でもこの人確かにいまブラックシープって言ったよね……え、どういうこと……?

 そんなことを考えていたフラナガンの耳を。

 その声が。

 青い空で踊る、雷鳴のようなその声が。

 まるで、殴り倒すようにして襲う。

「弱きものよ、虐げられしものよ!

 その声を上げよ、正義は決して聞きのがさない!」

 は?

 といった感じの。状況が全く読み取れないといったような表情をして、フラナガンはその声がした方を振り向いた、闇の奥底、深く深く沈んだような漆黒のヴェールの向こう側で、きらっと遠くの方、何か光った気がした。それはまるで、宝石でできた銃口から放たれた銀の弾丸が、真昼の太陽を海の表のようにしてきらきらと反射させながら、誰かの心臓を……遠慮の欠片もなく打ち抜いて行くような、そんな光で……

「仮に太陽がその目を閉じていたとしても!

 あるいはこの世界に神がいなかったのだとしても!

 悪の存在は決して許されることはない!

 そう、正義は常にあなた達と共に歩むのだから!」

 そして、その光は、とんっと軽くその立っていた地を蹴って跳ねた。くるくると、まるで美しい獣のようにして身軽に回転しながら、その光は金と銀の溶け合い、混ざり合った円を描いて、それからフラナガンのすぐ前のその場所に、墜落する彗星のようにして、それでいて、一枚の葉が空を泳いで落ちてきた時のように、鮮烈な静寂を着地した。

「黒き羊にこの身をやつし!

 金の蹄で悪を滅ぼす!」

 その影は。

 あるいはその光は。

 その双方に引き裂かれたような彼の姿は。

 ぴかっと唐突に光ったスポットライトに照らし出されて。

「ブラックシープ、ここに見参!」

 びしっと、かっこよくポーズを決めて。

 フラナガンを、打ち抜く弾丸のようにして。

 そう、叫んだ。


 まず、フラナガンの。

 目に入ってきたのは金の仮面。

 その仮面は極限までデフォルメされて、単純化された羊の形、有角の羊の形をした仮面で、そしてその次に目に入ってきたのは、その天使の羽のように細く滑らかな手足の先に、金の蹄。まるでそれは、オーガナイズド・メタルによって生命体として完成されたしなやかな獣のような曲線で、フラナガンの目はその黒い覆布ごしに、きらきらと輝くスポットライトを金色に反射するその獣を……つまりは、ブラックシープを……見つめていた……暫く、何も言うことすらもできないで。別に、見とれていたとか、そういうことではなく、ただ単純にあっけにとられていたのだった、ポカーンと、阿呆のようなアポケーの態度で。

 しかし、やがて。

 ようやっとのこと。

 美しい魔法からその身を引きはがすようにして。

 その口を開く。

「え、ごめん、あのちょっと待って、えーと。」

 しかし、その開いた口から明白な言葉の整序された数式が流れ出すこともなく、とにかくどうしていいのかもわからない自分の感覚と、その意味不明な関係の絶対性に自分の体を、むしろその世界の流れに対して身を従わせるように。フラナガンは自分の頭を、黒く滑らかなエナメルのような髪を引き掻くようにして抱えることしかできなかった。

 そんなフラナガンの様子を全く気にすることもなく。

 その、「彼」は。

 その、光の影絵は。

「やあ、あなたがエドワード・ジョセフ・フラナガンかな?」

 あるいはNHOEにブラックシープと呼ばれたその男は、さわやかな口調でそういった意味の言葉をしゃべった、ゆっくりと、その空気を撹拌するように、柔らかくポーズを崩して、そしてフラナガンを向き合うように体を向けながら。フラナガンは、目の前の「彼」、ブラックシープが、いちおう人語が通じる存在だと解ると、少し拍子抜けしたような感じで、はっと気が付いたようにその言葉に言葉を返す。

「えーと、あの、はい、エドワード・ジョセフ・フラナガンです。」

「初めまして、私の名前はブラックシープ……」

 ブラックシープは、そういうと、さっと右手を差し出してシェイク・ハンド、のポーズをとった。フラナガンはアッハ・ゾー、その一瞬の虚を突かれ、その一瞬のどうすればいいか感を持て余したのだけれど、そんな間もなくその差し出された手は、そのままパーソナル・スペースを蹂躙したのちに、フラナガンのアッハ・ゾーしていた右手をがっと掴んで、そして力強くシェイク・シェイク・シェイク。

「正義の味方だ!」

 そして、さわやかな笑顔と共に!

 そうフラナガンにそう宣言した!

 ちなみに、宣言された方のフラナガンは、その大変友好的な握手の間、ほとんど未知のものへの恐怖のような感情でいっぱいになっていて、何も喋ることができなかったけれど、ようやくブラックシープが手を離してくれたあと、暫くして、持ち合わせの認識力を全て強奪され、呆気以外何者も手元に残されなかった者の顔のままでこう返事をする。

「はあ、正義の味方ですか……」

「ノーハンズ・オンリーアイからあなたの話は聞いているよ! あなたもやはり正義の使者なんだってね……正義を、その美しい光を求めてトラヴィール教会に入った、けれどそこでは主の名のもとに正義が行われることもなく、ただあなたは絶望し、そして自分の無力さを、この世界の残酷な石臼に引きつぶされる弱き者達の悲鳴を、助けることもできない己の無力さを呪いながら……くっ! さぞつらかったろうね……そんな風にして生きてきたなんて……! けれど、同志よ、志を同じくする者よ! もう悲しみの涙にその頬を濡らすことはない! 私はあなたのことを知っている、まるで自分の半身を知るかのように、つまり私はあなただ! あなたが私であるのとまったく同じように、そう、私も、あなたも、正義の忠実なしもべ、私は、本当のあなたを知っている……」

「はあ、本当の私……」

 フラナガンはぼんやりと聞きながら適当に相槌をうっていて、要はブラックシープの長台詞は全く意味が解らないし、とりあえず何か喋ってるなーくらいの認識しかなかったのだけれど。

 その後に来た最後の言葉。

 高らかに読み上げられたマニフェストのようにして。

「あなたもやはり、正義がこの世界に遣わした、正義の使者なのだということを!」

「え、僕がですか?」

 ブラックシープのそのいきなりの正義――ジャスティス――認定――レコグナイ――に、あまりに驚いたフラナガンはそこだけ言葉を聞き取ることができた。そして、はい?といった感じの声音でそう返したのだった。

 フラナガンが正義?

 エドワード・ジョセフ・フラナガンが?

 ブラッドフィールドで、かつては五人いる最悪のキングピンの内の一人として恐れられてきた、フラナガンが? ブリスターによる長期の「隔離」のせいで、今ではその権力も、彼の組織であるコーシャー・カフェそのものさえも失ってしまっているが、少なくともフラナガンに向かって、正義という単語を使う正気の人間が、ブラッドフィールドに存在しているとはとてもじゃないが思えない。フラナガンは、何言ってんだこいつみたいな顔をしたのだけれど、しかしその時にふっと視線を感じて、その方向を振り向いた。

 青い底。

 空の底、のような。

 ただひたすらに、単純に深く深く深い青色をした左目、澄んだ夜のようなNHOEの目は。フラナガンに向かってこう言った。ブラックシープに、話を合わせてください、と。まるで、法律と同じように、感情のこもらない脅迫で。フラナガンは、ふっとそれを感じ取ると、少しだけ自分が落ち着いてくるのを感じた。

 この場の空気が。

 すぅっと音を立てて冷える。

 まるで、芝居ごとのようにして。

 だから、フラナガンは、ブラックシープに向かって。

 顔にかかった紗の向こう側から、こう笑いかける。

「まあ、そうだね。正義は大切だから。」

「おお、同志よ! いや、相棒と呼ばせてくれ! 素晴らしい!」

 ブラックシープはそういうと、ひしっと、まるで北方エオストラの人間ででもあるかのようにしてフラナガンを思いきり強く抱きしめた。フラナガンは、相も変わらずその体から、太陽の永続する閃光のようにして流れてくる感情の奔流に、少しだけめまいがしそうになるけれど、NHOEの、まるで冷却液のように冷たい感覚も自分の血管の中に流れているのを感じていたので、特に取り乱すこともなく、くっと首を傾げた。

「それよりも、一ついいかな。」

「何だい、相棒!」

「いやまあ相棒なのかどうかは一回ちょっと保留してもらうとして、君の名前は、P・B・ジョーンズなんじゃなかったのかい? ブラックシープっていったい何のことなのかな。」

『残念ながら。』

 NHOEが、どちらかというと遮るというよりは、芝居の中のその場にふさわしいセリフを、あらかじめ定められたセリフを言うようにして会話に口を挟んだ。そして、続ける。

『ブラックシープの正体を明かすわけにはいきません。』

「はい?」

 フラナガンは、何言ってんのこいつ? みたいな顔をして、またNHOEの方を見た。正体を明かすわけにはいかないも何も、最初に「契約」をした時点でフラナガンの「雇い主」はP・B・ジョーンズだと聞いているし、この段階に至ってもったいぶって隠されてもまるでどうしようもない。そう、うっかり手が滑ってバターを塗った方の面を下にして落としてしまったトーストのように、まるでどうしようもないのだ。フラナガンはNHOEの方を見た後で、またブラックシープの方を見て、そして黒い布の後ろで困惑した表情をしたままで、それを交互に繰り返しながら言う。

「いや、正体っていうか……」

「構わないよ! ノーハンズ・オンリーアイ!」

 そのフラナガンの意味不明です宣言を、宣言の途中で一刀のもとに切り捨てるかのごとく、というか耳にも入らなかったような自分の世界への愛と陶酔の状態のままで、ブラックシープはそう元気よく言い放った。フラナガンは何が構わないのかさっぱり解らなかったけれど、ブラックシープは容赦なく口を開く。

「それにしても、素晴らしい洞察力だね……たった一目で私の正体を見抜いてしまうとは……!」

「いや、あの、見抜くも何も契約の時に聞いたし……」

「そう!」

 ブラックシープはまたもやフラナガンのセリフを無情にも遮って、そしてばーんっと勢いよく、ほとんど無意味にも関わらず本人的にはとてもかっこいいと思っているポーズを取った、これはブラックシープの癖というか、何というか決まりきった行動形式の一つで、何か決定的なことを言おうとする時に、自分がその折々に最もかっこよく、そして効果的に話を盛り上げるであろうと思った、そんなポーズを取らないと気が済まないという、つまりはそういうことなのだった。まあ、他人がどう思うかどうかということはこの際別にして、そしてそのポーズのままでブラックシープは言葉を続ける。

「実はこの私、ブラックシープの正体は……」

 そこで一度ためを作る。

 ちらっとフラナガンの方をうかがう。

 黒い紗に覆われた顔は分からない。

 念のため、もう一度ポーズを変えておく。

「あの大富豪にしてスーパープレイボーイ、いかにも軽薄な遊び人である、P・B・ジョーンズなのだよ!」

 そしてそのセリフの最後の「なのだよ!」。

 つまり、自分的に一番盛り上がったその時に。

 ばっと、自分の顔を覆っていた金の仮面に手をかけて。

 そして、大胆に!

 それでいて優雅に!

 その金の仮面をはぎとった!

「あっ、はい。」

 ばばーん、と効果音でも入りそうな感じに華麗にポーズを決めながら(さっきまでのポーズとは別物だが等差数列的な連続性は感じられるポーズ)、フラナガンに向かって「決まった!」的な自己陶酔の表情で、ブラックシープはその己の顔を、つまり正体であるP・B・ジョーンズの顔を見せてきたのだけれど、フラナガン的にはP・B・ジョーンズの顔を見たのははるか昔、あの「黒と白の舞踏会」で一度だけ、しかも今よりもかなり幼い時の顔だったのでP・B・ジョーンズのことはあまりよく覚えていなかったし、さらにいえばブラックシープのことは本当にまるで何一つ知らなかったため、ちょっとぱっと「こいつはファッキンすげえ!」の反応はできなかった。

 まあ、それにしても。

 それは、確かに。

 美しいことは、美しかった。

 P・B・ジョーンズの顔は。フラナガンの目から見ても。とてもしなやかに動く、一匹の獣のように見えた。例1・耳は、まるで蝶々の羽のようだった。プラスチック製の墓石が並んだ墓地を、まるで他人事のようにしてひらめく蝶々の羽のようだった。天使じみた、蝶々の羽。例2・天国、天国へと向かうための梯子のように通り過ぎていく鼻筋、は、肌色の虹を描いているようで。左右にきっちりと対象で、そしてまるで少女のもののようにきゅっと小さかった。例3・にっといたずらっぽく笑っている口は薄く柔らかい唇に覆われていて、それはまるで砂糖菓子のようだった。夜市で売られている、奴隷の体を削って作り出した、砂糖菓子のよう。

 そして、何よりも。

 その目だった。

 例4・黒い陥穽の内側に落ち込んでいく一片の星群のように、眼窩の奥で輝いているその眼球は、ただその中で輝いている。一般的な人間の目の大きさよりも少し大きいように感じられるその目、白目は天国の砂を使って磨いた陶器のようにつやつやとしていて、そして糖蜜で作った甘い麻薬で酔っているようにうっとりとしたその瞳は、青く青く輝いていてまるでまがい物の宝石のようにきらきらとどこまでも透き通っていて綺麗だった。

 例5・憂鬱に下を向いた眉はそれでもはっきりと鋭く、そして錆びた鉈のように強い意志が見て取れる。まるで絹糸と黄金で紡がれた、夕暮れの小麦畑のように金色めいた前髪は、ひらりと一房だけ彼の顔にかかっていて、そしてジョーンズはそれを何でもないことのようにして手の甲で払った……しかしその動作は、鍛え抜かれた筋肉のさざめきのせいで、精密で完璧で優雅で芸術的な亜鉛細工を見るように……

 つまり、総じて。

 フラナガンから見たジョーンズは。

 確かに人間ではない美しい子供だった。

 さて、フラナガンはそんな美しい子供を目の前にして、どうしていいか全くわからずに、ぼけーっと眺めていたのだけれど、その時にまたNHOEの方から無言の指示の波動のようなものを感じ取って(何かしらの反応を待ち構えるようにポーズを取ったまま、フラナガンのことをちらちらと伺っているジョーンズからは目を離さないようにしたままで)その方向にふっと横目を向けた。NHOEの相変わらず感情の欠片も見せないその深い海の底っぽい青い目がいうには、こう、なんていうか、どうやらブラックシープの正体がジョーンズだったことを驚かなければいけない展開らしかった。

 えー……と、小さな声で嫌がりながらも。

 フラナガンは、渋々ながら。

 どっひぇーみたいな感じで両手を上げて。

 そして、黒い紗の奥で言う。

「う、うわー驚いたなー、まさかブラックシープの正体が、あの大富豪にしてスーパープレイボーイ、いかにも軽薄な遊び人である、P・B・ジョーンズなのだったとはー!」

「うんうん、そうだろう、そうだろう!」

 フラナガンの明らかに棒読みなその驚きに、さっきフラナガンが「君の名前は、P・B・ジョーンズなんじゃなかったのかい?」って普通に言ってたことも忘れてしまったのか、ジョーンズは満足そうに頷いた、それを見てフラナガンは、ああ、まるで鼠を与えられた猫のようにきらきらとした顔をしているなぁと他人事のように思った。

 まあ、そんなこんなでP・B・ジョーンズは確かに満足したようだったのだけれど、一方で質問をした方のフラナガンの疑問に関しては、一切解かれたりなんなりはしていなかった。ふっふーん、みたいな顔をして、生き生きと目を輝かせているジョーンズに向かってフラナガンは「あーと、ちょっとだけ、いいかな?」「もちろんだとも相棒!」「いやまあ相棒なのかどうかは一回ちょっと保留してもらうとして」という前置きの会話をした後で、今度はこう問いかける。

「ブラックシープって、なに?」

「ん? どういうことだい?」

「いや、君のことは……というか、P・B・ジョーンズのことって言った方がいいのかな? P・B・ジョーンズのことは僕も一応知っているんだよ、色々と聞いているし、それにどうやら昔、一度、会ったこともあるようだからね。けれどさ、ブラックシープっていうのは一体なんなんだい?」

 困惑した口調で問いかけるフラナガンのその問いかけに、ジョーンズは何を言っているのかわからないといったようなきょとんとした顔を返す。そんな混乱した二人の間に、NHOEが助け舟を出す。

『ブラックシープ。』

「なんだい、ノーハンズ・オンリーアイ!」

『先ほど言ったように、フラナガン神父は二年間、レメゲトンに「隔離」されていました。なので、あなたの活躍についても、実はまだ良く知らないのです。』

 NHOEのその説明に、ブラックシープは。

 わざとらしいくらい、はっとした顔をする。

「ジャスティス! なるほど、そういうことだったのか……そうだったね、あなたは……くっ! 非情なる悪の狡猾な策略に陥れられて……二年もの間、あのレメゲトンにとらえられていたんだった……! ということは、確かに私、すなわちブラックシープのことを何も知らないと言われても、肯ぜざるを得ない事態だということだね!」

 先ほどは銀の羊のマスクに覆われて見えなかったけれど、どうやらブラックシープが「くっ!」という時には本当に涙を流しているらしかった、何というか単純極まりない感情回路を有しているものに特有の、あのガラスでできた滝のように脆く激烈な、その思考の本流を感じる。けれど、その涙もすぐに乾いた。ブラックシープは、かしゃんと顔に銀の羊のマスクをまたもやはめると、自由になった両手でまたポーズを取り始めた。空の全ての青を支配する太陽のようなポーズだ、この暗い洞窟の中で、ブラックシープだけがブラックという名前に似合わず、輝いているように見える。どうやら「え? ジャスティスを感嘆詞として使うの?」と若干困惑気味のフラナガンに何かを説明するつもりらしい。

「私の名前はブラックシープ! 夜をまとう漆黒の影と、夜を切り裂く金の蹄! 悪人どもよ、この闇を恐れよ! 弱きものよ、この光を信じよ! そして、私の名のもとに正義の子羊を見よ……ブラックシープの名の下に!」

「あっ、はい。」

 私の名のもとに正義の子羊を見よと言われてもフラナガンとしてはブラックシープの名を全く知らないのでどうしようもなく、したがって先ほどと全く同じように「あっ、はい」としか言いようがなかった。けれど、基本的にジョーンズはとても単純な人間だったため、そのフラナガンの「あっ、はい」という言葉のうちに肯定の意味を超えた深い混乱を見ることなどできるわけもなく、そのためまるで太陽のようなポーズを解いた後、うんうんと頷きながらこう言う。

「どうだい、分かったかな?」

「えーっと。」

『つまり、ブラックシープというのはP・B・ジョーンズのヒーローネームだということです。』

 ここでNHOEのナイスアシストが入った。台風で難破して、小舟で大洋を漂流している時に、やっと現れた救いのヘリコプターを見るようにして、フラナガンはようやくまともな説明を期待できそうな、NHOEの方に顔を向ける。

「ヒーローネーム?」

『ええ。』

「ってことは彼はヒーローなのかい?」

『その通りです。』

 なんか微妙に納得いかないような雰囲気のフラナガン。

 気にせずに言葉を続けるNHOE。

『ブラックシープは、私の跡を継いでもらうために、私自身が訓練を施したヒーローです。私がいなくなった時に、このブラッドフィールドを守る守護者となってもらうために。』

「そうなんだ、NHOEは私にとって第二の両親のようなものなんだよ、相棒! 私は彼に全てを教わったんだ、正義について、悪について、そして、正義と悪の戦いについて……全てのことをね!」

「いや、まあ相棒かどうかに関しては……」

『ここ最近では、私は第一線を引き、既にブラッドフィールドの正義は実質的には彼、ブラックシープによって守られています。そうですね、こうやって口で説明するよりも実際に目で見てもらった方が早いかもしれません。』

 NHOEがフラナガンの再三再四にわたる苦情を遮ってそう言うと、その声に反応したかのようにして、またNHOEの背後の巨大なスクリーンが光を発した。ぱっと、光の中に映し出されたのは、様々な新聞記事、それからニュースの画像だった。まるで昆虫の複眼のように、幾つかの方形で区切られたそれぞれの中に、それぞれの映像が映し出されていて……そして、その全てがある人物についての情報を発していた。

 真面目腐ったテレビアナウンサーは金の仮面をかぶった犯罪者限定の殺人鬼について話している。下世話な新聞記事は金の蹄によって引き裂かれた強姦魔について面白おかしくわめきたてている。素人が作ったようなネット動画は夜のブラッドフィールドを守る羊の化身についての都市伝説の特集だ。そして、それらの全ての情報は、例えば群れをなした盲人が少しずつその手のひらでブラックシープを触れた、その断片的な感覚で構成されていることが、フラナガンには解った。そして、その全ての盲人の、手のひらを少しずつ継ぎ接いでいくことで、ブラッドフィールドにおけるブラックシープの、限りなく投射された存在を、フラナガンは次第に感じ取ることもできた。

 ブラックシープは、正義の殺戮者。

 良く研いだ爪を持つ、ヴィジランテ。

 暗い夜に潜む、ダークヒーロー。

 つまり、フラナガンの知る、ノーハンズ・オンリーアイという存在そのものだった。法の外にいる存在、どんな手を使っても、この林檎のようなブラッドフィールドの中から、悪という名前をした蛆虫たちを、排除しようとする存在。

「なるほどね。」

 フラナガンはそう言いながら薄く笑った。

「よく分かったよ。」

 要するに、ブラックシープは。

「確かに、ヒーローだ。」

 まだ幼い、鬼の子供だった。

 正義と名乗る鬼、の、子供。

「さすが相棒、こんなにもすぐに私が正義のヒーローであることを理解できるとは……私とあなたの間には、決して多くの言葉は必要ないことが今まさに証明されたようだね!」

 フラナガンの、まるで淡く溶けていくアイスクリームみたいに冷たい言葉に対して、全くその冷たさや真意を理解することもなく、実に満足といった顔をしてブラックシープはそう言って、うんうんと何度も頷いた。

 それから、NHOEが。

 何でもないことのようにして

 一言、付け加える。

『フラナガン神父。』

「なんだい?」

『あなたには、彼の正義を手伝っていただきます。』

「だろうね。」

 フラナガンは、苦々しげにそう答えた。

 何というか、ちょっと嫌な予感はしていたけれど。

 まさか、これほどまでにひどい展開になるとは。

 さすがにフラナガンしても、予想できなかった。

 フラナガンの頭の内側には、既に爆弾が埋め込まれている。この爆弾の起動スイッチは恐らくNHOEが持っているのだろうと思うけれど、契約の履行がなされなかった場合には、容赦なくそのスイッチを入れられてしまうであろう。あるいは、例えばフラナガンが何とかしてこの二人に気が付かれないようにこの二人を殺したとしても、NHOEかブラックシープ、あるいはその双方とも、死と共に起動する類の、デススイッチと連動しているのかもしれない。NHOEは十分にそれをやりかねない男だ。フラナガンがもし、この外の世界で生きていきたいと思っていたのなら、NHOEの欲する通りに、ブラックシープと二人で、この正義の味方ごっこを遂行しなければならない、ということだ。まあ、フラナガンとしては当然、この状況から逃れる方法はあったし、最終的にはNHOEを殺して自由になるつもりではあったのだけれど、今のところは……とりあえず頭の中にこの爆弾がある今のところは、NHOEの話に合わせることにした方が明らかに賢明だ。

「ジャスティス……相棒よ!」

「何だい、ブラックシープ。」

 仕方なく、フラナガンは相棒という単語を受け入れる。

 生きるため、ただそのためだけに。

「あなたのように素晴らしい正義追及者と共に、正義のために生きることを、私は誇りに思うよ! これから、二人でともに手を取り合って、とわにこの世界から悪を滅ぼすことを、ここに誓おうではないか!!」

 そういうと、ブラックシープは手のひらを差し出した。

 先ほどと同じようにして。

 けれど、今度はフラナガンも手を差し出した。

 その手のひらを握るために、誓いの握手をするために。

 ブラックシープは、それを握りしめる。

 フラナガンはその手を握り返す。

 そしてここに……

 世界最強の正義のコンビが誕生した!!

 まあ、それはいったん置いておいて、ブラックシープは本当にうれしそうな顔をして(まあ、仮面に顔を覆われていたので見えなかったけれど)。フラナガンは本当に嫌そうな顔をして(まあ、紗に顔を覆われていたので見えなかったけれど)。しばらくぶんぶんと手を握り合って握手していたのだけれど、やがてブラックシープがふっと何かに気が付いたようにしてその手を止めた。

「そういえば、ノーハンズ・オンリーアイ。」

『なんですか、ブラックシープ。』

「あなたは私に、正義のヒーローは己の正体を隠すべきだと教えてくれたよね。そして、そのためには自分の他に、もう一つ、ヒーローとしての仮姿を作るべきだと。そう、P・B・ジョーンズにとってのブラックシープのように!」

『そうですね。』

「それならば、私の最高の相棒、エドワード・ジョセフ・フラナガンにもやはり、ヒーローとしての仮姿が必要だとは思わないかい? つまり、ヒーローネームと、そしてヒーローコスチュームが!!」

「パードン?」

 いや、フラナガンとしても、いきなり「私の最高の相棒」とか言われてもほとんど初対面に等しいですよね、とか、ヒーローネームとかヒーローコスチュームとか単語が安直すぎやしないですか、とか、色々と話を突き詰めていきたいところは色々とあったのだけれど、ちょっとあまりに話がいきなりすぎたし、第一、話を突き詰めていきたいところがちょっとばかり多すぎて、その「パードン?」という声を上げるので精いっぱいだった。

『確かに。あなたの言う通りです、ブラックシープ。』

 しかし無情にも。

 NHOEはその方向で話を続ける。

「そうだよ、エドワード・ジョセフ・フラナガン! あなたはヒーローになることができる……いや、なるべきだ、ならなければいけない! なぜなら、それだけの資格があるのだから……あなたほど正義を愛し、そしてその正義を行使するだけの能力を持っている人間はいないのだから!!」

 フラナガンの思っていることを一言でまとめるのはとても難しいことだったのだけれど、あえてまとめるとすれば、やはり「いや、この人なに言ってんの?」だった。「ブラッドフィールド裏社会なんでもランキング」において、「軽蔑すべき男部門」でみごと三番目の殿堂入りを果たした男、その名もエドワード・ジョセフ・フラナガンが正義を愛する男と? 確かに君の正義を手伝うことに同意はしたけれど、別にそれは命を人質に取られての無理やりのことだからね。ただ、それを口に出してもまた面倒になるだけのことだったろう、なので、ぐっとこらえてこう言うにとどめた。

「あの、ちょっといいかな?」

「何だい、相棒?」

「まあ、百歩譲って僕が君の相棒ってことでもいいのだけれど、さすがにその、ヒーローネーム?とかヒーローコスチューム?とかは、その何ていうか、実際、正直、一言ではっきり言うと、いらないのだけれども。」

「いらない?」

 ブラックシープはフラナガンのそのセリフが何を言っているのかよく分かりません、といったような顔をして一瞬だけ行動をストップした。いかに差別的な言動を嫌悪するフラナガンであっても、明らかに非人道的頭が悪いとしか言いようがないその頭脳を、目まぐるしく回していたらしかったけれど、やがて何かひらめくものがあったのか、はっ、として口を開く。

「なるほど……確かに君の言う通りだよ、相棒。」

「解ってくれました?」

「確かに、正義のヒーローとして活動する私たちが、まるで己を恥じるかのようにして正体を隠すということに、疑問はあるのかもしれない……私たちの正体を、誰にも恥じることなく世界に知らしめて、悪に正々堂々と立ち向かうべきだ、あなたはそう言いたいんだね?」

「あっ、全く分かってくれてないパターンですね。」

「しかし、これは必要なことなんだよ相棒! もしも悪に私たちの正体を知られてしまったとしたら、一体どうなると思う? 卑劣にして悪辣、狡猾にして唾棄すべき悪は、きっと私たちの親しい人たちを狙うに違いないんだよ! 悪は、己がはびこるためには何でもするんだ……私たち、正義の使者を叩き潰すためならば、無関係な人々を巻き込むことなんて、少しも胸を痛ませずやってのけるに違いない! 私たちの弱点を、悪に知られることだけは、何があっても避けなければいけないんだ。そのためには、私たちは正体を隠さなければいけない……あなたの言いたいことも私には分かる、分かりすぎるほど分かるんだ。けれど、あなたは少し清廉すぎる。正体を隠すこと、これも、正義の行使にはしかたがないことなんだ。悪との戦いにおいては、必要なことなんだよ!」

 確かにフラナガンとしても、もし自分の邪魔をする人間がいたら、まず最初に、彼あるいは彼女の子供(子供がいないようなら恋人、恋人がいないのなら親)を誘拐してその爪を剥いでいき、一節に一枚ずつ彼あるいは彼女の家のポストに送り届けることから始めるだろうし、あながちブラックシープの言っていることは間違いではなかったのだけれど、今フラナガンが言いたいことは別にそういうことではなかった。

 だから、フラナガンは。

 最善を尽くし、考え考えこう言う。

「えーと別にそういうことではなくて。」

「何だい?」

「つまり、僕はこの通りトラヴィール教会の祭服を着ているだろう? 特にその、ヒーローコスチューム? を着なくても、これだと僕が誰かっていうことは、誰にも分からないと思わないかい? ほら、顔は紗で覆われているし、体はコートに覆われている。」

「なるほど、それも一理あるね。」

「それに、名前については……えーと、その……なんていえばいいのかな、ほら……僕は、君みたいに有名人じゃないだろう? 君みたいに、僕の名前は他の人間に知られているわけではない、「フラナガン」という名前を聞いても、誰も僕のことだなんて分からないさ、そうだろう? ありきたりな名前だし、僕はこの名前のままで、十分だと思うんだ。」

「それもあなたの言う通りかもしれないね……つまりあなたはこういいたいんだろう? ヒーローは、あくまでも弱きもの、虐げられたものに寄り添う存在でなければいけない。ヒーローとしてのあまりに光り輝いたマントをまとってしまえば、それはかえってそういった人々から離れてしまう、えてして独りよがりな正義に陥ってしまう……そうだとするのならば、例えば「フラナガン」といったような、ありきたりで普通の名前をヒーローネームにすることによって、大多数の中の一人、群衆の代表者であることを明確に主張したい、あくまでも弱きもの、虐げられたものの見方であることを忘れないようにしたいと……そういうことを言いたいんだね、相棒! 素晴らしいよ、あなたの言う通りだ!」

「うん、どうすればそこまで勘違いできるのか僕にはちょっと分からないけれど、君が納得してくれたのならばそれで構わないよ。」

 ブラックシープは、フラナガンのその素晴らしい正義の志に大変感動したことを示すために、またフラナガンに向かってぴょんっと飛ぶようにして、ぎゅっと抱き付いた。引き締まった筋肉が、滑らかな触り心地の蛇のように、フラナガンを捉える。フラナガンは、何とかクソ恥ずかしいヒーローコスチュームのようなものと、ヒーローネームのようなものをまとうことを回避できたという安心感の中で、その抱擁を甘んじて受け入れた。

 けれど。

 その時に。

 その耳元に。

 ブラックシープは。

 まるで誘惑者の短剣ように。

 耳元で囁く。

 淡い毒、フラナガンの耳元で。

「この姿があなたのヒーローとしての姿ならば。」

「ならば、何だい?」

「私に一度、あなたの本当の姿を見せてくれないかな?」

 そう言うと、ブラックシープは。

 フラナガンに抵抗させることもなく。

 さっと、その顔を覆う紗をめくった。

 瞬間だけ、フラナガンの顔を。

 ブラックシープは見た。

「思った通りだ。」

 フラナガンは慌てて紗を抑えて。

 その顔を隠す。

「あなたは美しい。」

 金の仮面はそう言って、まるで生きている獣のように笑うと、さっと、フラナガンの腕の中から離れた。芝居の幕間で踊っていた、幻でできた妖精みたいにして。フラナガンは顔を覆う紗を抑えたままで、その姿を見ていた、ブラックシープの姿を。けれど、それからまるで諦めたように、一つだけため息をつくと、軽く肩をすくめた。そんなフラナガンに向かって、くるっとピルエットのようにして、その場で一度回転をしてから、ブラックシープは言う。

「これでついに、私たち二人の正義の戦いが始まるんだね。」

「そうだね。」

「よろしく、相棒!」

 ふと、気が付いたようにして。

 フラナガンは付け加える。

「あのさ。」

「何だい相棒!」

「あーと、僕のことはフラナガンって呼んでくれないかな? 相棒じゃなくって……ほら、せっかくのヒーローネームなんだしさ。」

「ああ、申し訳ない! あなたという相棒ができたことが、あまりに嬉しすぎて、さっそくあなたのヒーローネームのことを忘れてしまっていたよ! フラナガン……その服なら、「ファーザー・フラナガン」の方がいいかもしれないね!」

「いやまあ、それはどっちでもいいけれど。」

「よろしく、ファーザー・フラナガン!」

「あー、まあよろしく、ブラックシープ。」


「これで……NHOE。」

『何ですか、フラナガン神父。』

「満足かい?」

『はい、とりあえずのところは。』

「とりあえずのところは?」

『ええ。』

「ふぅん……つまり、これ以上僕に何かをさせようというつもりなんだね、NHOE。」

『はい。』

「……そうだね。その通りだ。なぜ僕を選んだんだい? NHOE。」

『あなたの言う通りです、フラナガン神父』

「僕にしかできないことなんて、そう多くもないはずだけれど、そんな僕を、あそこから出すには、期待しているはずだよね、それなりの対価を、ただ、お金持ちのお坊ちゃんの、正義のヒーローごっこの、御守りをさせるだけでなく、君は期待しているんだ、何かを、僕に何かを、させることを、何かが、起こることを。」

『あなたの言う通りです、フラナガン神父。』

「それを教えてくれるかい、NHOE。」

『まだ。』

「何が、起きるのかを。」

『早い。』

「まだ、早い?」

『時が来ていません。時が来ればお教えします。』

「なるほどね、別に構わないよ。」

『時が来れば、お教えします。』

「これは平等な契約でないのだし、雇い主は彼だからね。」

『時が来れば、お教えします。』

「別に構わないよ。」

『あなたはそれまでの間、ブラックシープが正義を遂行する行為を手伝っていてください。彼は夜ごと、このブラッドフィールドのパトロールをしています。最初は、それに付き添って行って下さい。そして、あなたにできることは、全てを行ってください。分かって頂けましたか?』

「分かったよ。ところで君の姿は……NHOE。」

『何ですか、フラナガン神父。』

「まるで、死にかけた獣のようだよ、NHOE。」

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