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#27 獣の群れと獣の群れ

 ガリ。

 ガリガリ

 ガリガリガリ。

 ガリガリガリガリ。

 ガリガリガリガリガリ。

 ガリガリガリガリガリガリ。

 ただでさえ地下一階にあって、そのせいで密室に閉じ込められたような圧迫感が少なくともある上に、事件資料だのなんだのでたくさんのごたごたが詰め込まれているせいで、非常に狭っ苦しい感のある通常化班の班室の中、まるでチューニングが全くあっていないラジオから流れて来る、ノイズ音のように蜿蜒と響いているその音は、何ていうかもうめちゃくちゃに癇に障る音なのだけれど、まあいつものように春杏が抑制剤を乱食している音だった。

 ガリガリガリガリと止むことのないうっとうしさを訴え続けるその音の中、口にものを入れたまま喋るという更に高度な人うざがらせ技術を用いて、その春杏の口は今日既に何度目になるとも知れぬ愚痴を呟くため、声を出す。

「いーつまでここにいないといけないアルかー? 春杏、もうおうち帰りたいのことよー。」

「さっきから何回も言ってるだろー? お客さんの移送手続きが終わるまでだよ。つーかお前、口にもの入れて喋んなって。」

 降り続く雨の音は既に、弛緩したその空気に湿り気を与えて、部屋の中をより怠々しい感覚の中に包むための、BGMにしかなっていなかった。この部屋の中にいる存在にも、というと春杏がちょっと微妙になって来るけれど、まあそれでも少なくともアーサーとアランは、この糸の緩んだような感覚が、巨大なテンペストの前の露払いされた舞台の上、幕が上がる前の、一瞬の静けさに過ぎないことは知っていた。しかしそれを知っていたとしても……純種のノスフェラトゥでもない限り、その弛緩した空気に合わせて、自分の精神の内部にも若干のたるみが出てきてしまうのは仕方のないことだ。

「今日って無知曜日アルよ~働いちゃいけない日アル~労働法に反してるアル~お客さんを食べさせてくれないなら~もう帰りたいアル~片手くらい良いアル~なくなったってどうってことないアルよ~。」

「聖無知って、お前トラヴィール教徒じゃないんだから関係ないだろ。」

「正確に言えば人間至上主義も元はトラヴィール教からの派生ですけれどね。」

「へえ、そうなのか。」

 そんなことを言いながら、アーサーはまたドーナツを一口食いちぎった。卵と小麦粉、それから黒糖だけを油で揚げて作った、一番シンプルなタイプの黒糖ドーナツだ。アーサーはガレスに言われたハニカムの地図を既に作り終えていて、自分の席で、今は新聞を読んでいた。今のところは、通常化班にとって一番重要なのは「懺悔室」にいるパウタウだ。だから、春杏とアーサー、それからアランの三人は、移送の手続きが終わるまではそのパウタウの見張り番としてここに詰めている、というわけだった。

「大体お客さんには春杏のキッスがしてあるのことね。どうせ暫く動けもしないんだから心配することないアルよ。」

「それはそうだがな、春杏。念には念をってやつだよ。お前さんは今のところ、パンピュリアにおける対スペキエース最高戦力なんだぜ? こういう時に使わないでいつ使うんだよ。」

「もー、アーサーサンってば! 褒めても何にも出ないのことよ! そうだ、アーサーサンも抑制剤食べるアルか? 特別に三粒分けてあげてもいいアルよ!」

「いや、その、あーと、俺はこれがあるからな。気持ちだけ受け取っとくよ。」

 既に朝のうちにガレスによってサヴァンとの「話し合い」は終わっていた、今後の協力体制の大体の方針は決定されて、パウタウはヴィレッジに移送されること、ハニカムにヴィレッジの隊員を配置すること、の二点は決定していた。あとは、そのための移送手続きと、越境手続きをするだけだった……そして、その二つが最も面倒なことだということは、誰もが理解できる事実だった。そう、春杏にさえもそれは分かった(交通費の清算手続きだけであれほど面倒なのだから)。移送手続きは、まあいいとしよう。しかし、越境手続きが果たして可能なのか? グールと屍食鬼公社の間で連絡さえも取れていない現状で、果たして誰に許可を得ればいいのか? それは、誰にも答えが分からない疑問というよりかは、誰でも答えが「あっ、無理ですね」ってなる疑問といった方が遥かに正しいだろう。

「暇アル~暇アル~暇アル~!」

「お前、暇ならちょっとは机の上片付けたらどうだ?」

「アーサーサン、この机はこれで完璧な状態のことね。どこに何があるかが、全て春杏の天才的な計算によって究極的な効率性の上に配置されてるのことよ。」

「お前、さっき一時間前の書類さえ無くしかけてたよな。」

「あれは特殊な例外アル!」

 口からべっべっと飛び散る抑制剤の破片と共に、そんなことを春杏は喋っていたが、やがて業務用の大き目な袋に突っ込んだ手に触れる抑制剤が、あと一掴みか二掴み分くらいしかないことに気がついた。袋をそのままつまみあげて、ざざーっと中に入ってた残りの錠剤を口の中に注ぎ込むと、一際大きなガリンガリンという音を立てながらそれをかみ砕く。袋を机の横に置いておいたゴミ箱に捨てて、それから机の引き出しの内、一番下の一番大きなところをがらがらーっとひっぱり出した。そこには、同じような抑制剤の巨大な袋が山ほど詰め込まれていて、そのうちの一つを取り出して、ばりっと開いて、また行儀悪く机の上に足を乗せた姿勢の、その腹の上にのっけた。

「ちょっと食いすぎだろ。」

「いくらバルザイウム越しっていったって、こんな近い距離にレベヨンのスピーキーがいるアルよ? 春杏、これくらい食べておかないと瘋子してしまうのことね。」

「そうか、まあお前さんも色々と大変なのかもしれねぇが、そんなんじゃいざっつー時に……聞こえたか?」

 アーサーは新聞から顔を上げて、何かに気がついたような声音でそう言った。それから、手に持っていたドーナツの残りを、口に押し込むようにして詰め込んで。アランの耳には何も聞こえなかった、しかし、春杏の耳にはその音が聞こえていたらしい、特に驚いたりすることもなく、抑制剤を口に運んでいく手を止めて、その袋をぼいっと机の上に投げ出すようにして放り投げた。ばらばらと、中から少しだけ錠剤がテーブルの上にこぼれ出て、書類の山の中に紛れ込んでいく。

「裂耳。」

「二種類だな。」

「両方とも、今のところはビルの外にいるのことね。乱雑に暴れ狂うだけの音と、それから何か目的をもっているように整理された音アル。前者は外から聞こえてきてて、後者は象感、こちらに近づいて来るみたいアルね。数は……」

「五人か。」

「一匹はライカーンで、一匹は雑種、そして三匹が……透き通った音とも言えない音、相対的独立化した純種のことね。アランサン、昨日の那件で対ノスを使い切ってなかったら、軽く舐めといた方がいいのことよ。」

 アランは二人の様子を見て、既に書きかけの報告書を保存してパソコンをシャットダウンしていたが、春杏の言葉を聞いてダークスーツのポケットから一瓶のアンプルの様なものを取り出した。先を折って中の液体を出せるようにすると、それを口に当てて一気に飲み干す。ブラッドフィールド国営企業製の対ノス強化剤で、経口摂取でありながら即効性があるのが特徴だ。ただし、摂取の容易さと即効性、そして安価に大量生産できることの三点のみに重点を置いているため、効果はそれほど強力でもないし、持続することもない。自分の席から立ち上りながら、腰のホルスターからHOL-103N(通称:ラウンドアップ)を取り出す。

「狙いはたぶん……」

「お客さんアルか?」

「ということは……もう軍隊をかき集めたっつーことか。不味いな、思ったよりも速い、速すぎる。まだ何の準備もできてねぇのに……」

「アーサーサン、ぶつぶつ言ってないでさっさと準備するのことね。春杏はこんなところで爪を伸ばしきれないし、それにそもそもスピーキー以外にとっては普通の可愛い女の子に過ぎないのことよ。」

「お前な。」

 言いながら、アーサーも席から立ち上がった。それから、やはりホルスターからHOL-103を取り出す。アランは一方で銃を持っていない方の手で電話をかけていた。内線で、恐らく特殊鎮圧班に連絡を入れているのだろう、この夜警公社本社ビルの地下にいる被疑者、パウタウという名前の男が狙われているということを……ホワイトローズ・ギャングの、幹部たち四人に。

「女の子って歳でもねぇだろ図々しい。」

「女の子っていうのは男とも女とも違う、そういう名前の生き物ね。姿かたちが変わっても、女の子はいつまでも女の子アルよ。」

 くすくすと笑いながら、春杏はアーサーに向かってそう言った。そして、「一套爪広」と呟くように口の先で歌う。春杏の体の内側から、黄色い真鍮の波が静かに細流れて、そしてその片方の手と、両方の脚、そして顔の上半分、鼻から上を包み込む。神経叢を中心として、任意の一部分が人間の姿から、ビューティフルのそれへと変わっていく。

「ほら、可愛い可愛い女の子。」

「ついていけねぇな。」

「アーサーさん。」

「なんだよ、アラン。」

「懺悔室の鍵はどこにありますか?」

「これのことか?」

 アーサーは何処から取り出したのか、いつの間に手の中にあの古めかしい鍵を、セカンダリーバルザイウムでできた「懺悔室」の鍵を持っていた。そして、それを軽く振ってアランの方に見せると、ひょいっとそれを春杏の方に放り投げた。春杏は、があっと口を巨大に開くと、ベロンと出した長い舌でそれをうまく受け止めて、人間ならば飲み込むのにかなり苦労するであろうその鍵を、まるで飴玉を飲み込むようにして飲み込んた。それからアーサーは、アランに向かってにっと笑って見せた。

「あいつの腹ん中にあるよ。」

「アーサーサンはいつも考えなしに動きすぎのことね。」

「おいおい、お前に言われたくねぇよ……玄関が吹き飛ぶ音だな。」

「ペッポサンの悲鳴が聞こえるアルね。」

「こういうことがおきんの、あいつのシフトの時ばっかだな。何か呪われてんじゃねぇのか、あいつ?」

「この音は……」

「PAINと、それからヴィレッジの連中だな。」

「なかなか善戦しているのことね。」

「しかし……本隊の四人は逃がしたみてぇだぜ。」

「しょうがないアルよ、ライカーンだのグールだの雑種だの、これだけのぐっちゃぐちゃを防いでるだけでも立派のことね。あー、来るアル来るアル来るアル……」

「来た。」

 何か恐ろしく大きな、そして恐ろしく純粋なエネルギーのかたまりが激突したような音がする、それと共に班室の天井が半径一ダブルキュビト程度の巨人の指に突っつかれたようにして、くりぬかれて落下してきた。ちょうど六人分のテーブル、三人がその周りにいるテーブルの真上で、アーサーは身軽に壁の方に飛び退ると、その落下物を軽く避けた。春杏は横っ飛びに飛び込んで、真下にいたアランの体をひっつかんで奪うように庇った。

 天井にぽっかりと開いた穴から。

 次々に、五つの影が下りて来る。

 瓦礫埃で曇った灰煙の中。

 一つの影が、口を開く。

「よお、俺たちの仲間を返しに貰いに来たぜ。」

 次第に屑霧は晴れてきて。

 そこに立っている姿が見える。

 アーサーは、苦笑いをしながら。

 その影に向かって言う。

「せめて階段を降りて来いよ、馬鹿ガキ。」

 口を開いた影、もちろんハッピートリガーだ。春杏の弱体化毒がまだ効いているせいで、どうやらまだ全力といい難いのか、少し無理をしているような感じがしなくもない。その横には、灰色の毛と薔薇の刺繍をほどこされたジャージにくるまれたライカーンの姿があった、グレイだ。その一鬼と一匹の後ろに、更に三鬼の姿がある。パイプドリーム、ヴァイオリン、キューカンバー。ハッピートリガーとヴァイオリン、それにキューカンバーは、どこかしら存在感が薄いというか、掴みどころのない、認識の境界線にいるような、そんな姿をしていたが、次第次第とその焦点をはっきりとさせてきている。それはノスフェラトゥの純種が太陽光から受ける影響が、地下にやってきたためにその影響が薄れてきているところなのだった。つまりいうまでもなく、アーサーの予想通り、この五つの影はホワイトローズ・ギャングの五人の幹部だった。

「どこにいる? パウタウは。」

「教えると思うか?」

「ふうん、そこか。」

 ちらり、と視線を「懺悔室」の方に向けた。

 アーサーは、ちっと舌打ちをする。

 ハッピートリガーは舌打ちを聞くと、アーサーの方に目を向けた。アーサーと目が合うと、しぃっと口の端が裂けるようにして満面の笑みで嘲笑う。その笑顔のままで、自分の精神拡張空間(現状で夜警公社本社ビルの全体に伸びてる)の方に神経を向けて、このビル全体の、兵力を探る。

「あ? 切り裂きメアリーはいないのか? 何だよ舐めてんな、せっかくこっちが全力でお迎えに上がったっつーのに、お前らはその程度の警戒しかしてねぇのか?」

「なあ、馬鹿ガキ。」

 ハッピートリガーのその言葉が空気に溶けて消えていくその瞬間さえ与えることなく、アーサーの姿が消えた。その一瞬後には、ハッピートリガーの体が、グレイの手から引きはがされて吹き飛んで、後ろの壁に強く激突していた。攻撃が加えられてから、ようやくはっとグレイが気がついたように横に立っている姿、ハッピートリガーの体を蹴り飛ばした姿を見た。揺らめいている、くたびれ切ったフロックコート、その上の、くたびれ切った笑顔。口を開いて、はっきりと一言一言を区切るような口調で、言う。

「パピーのことをその名前で呼ぶんじゃねぇよ。」

「グレイ、構うな!」

 考える間も持つことをせずに、グレイはアーサーに飛び掛っていた。六つの机を押し潰しているせいで変に傾いた角度になっている、元天井の一部の上で。互いに貪りあうような団子状になってグレイとアーサーの体は乱れて転がって。そのグレイに向かって、号令を発する様な口調でハッピートリガーは叫んでいた。

「作戦通りにやれ!」

 ふっとその声で、ようやく正気に戻ったようにして、グレイは忠実な狼の顔を上げた。体の下には組み敷いた形になっているアーサーがいたが、そのアーサーがグレイの見せた一瞬の隙をついて、ぽんっと本当に軽い感じでその体を蹴ると、まるでゴム弾の砲撃でも食らったかのようにして吹っ飛ばされる。

「激しいのは嫌いじゃねぇがな、お嬢ちゃん。今は勤務中なんでな。」

 グレイは飛びながらも空中で体勢を整えて、優雅に着地する。それから、跳ぶような素早さでハッピートリガーのすぐ横にまで近づくと、その体をまた支えて起こす。よろけながらもハッピートリガーは立ち上がり、そしてまた令を発する。

「キューカンバー!」

 声と共に。

 空間を薄く切る速度。

 既に完全に肉体化を終えて。

 キューカンバーの形状変化した右手。

 アーサーの首を狙って、襲う。

「お前の不始末はお前が責任を持て。」

「キューカンバーの、不始末では、ない。」

 非常に不愉快そうな口調で言いながらキューカンバーが発した攻撃を、紙一枚が間に入るか入らないかの隙間で辛うじて避けると、アーサーは反撃はせずにバックステップで体一つ分退いた。状況を見定めるためだ、まずは春杏の方にちらりと目を向ける。春杏は……恐らく、これがさっきハッピートリガーの言った「計画」の通りなのだろう、一番脅威になるものは、一番最初に無力化する、計画としては悪くない。

 パイプドリームと、それからこちらも肉体化を果たしたヴァイオリンが、まるで付きまとうように春杏の周りで笑っていた。一鬼は雑種とはいえ、ノスフェラトゥが二匹。しかもどちらもスペキエースではないから、春杏の攻撃は普通の物理攻撃程度にしか通じていない。つまり、ほぼ無力ということだ。ぐがああああああぁっ、と、獣が叫ぶような苛立ちの声を上げながら、靄を殺そうとしているように、春杏は二鬼になんとかダメージを与えようとしている。その斬撃、打撃の間から、二鬼は春杏を嘲るようにして刻む。

「不っ味ぃな。」

 アーサーはそんなことを言いながら、両手と両方の翼から次々と繰り出されるキューカンバーの攻撃を避けていた。奥の歯を噛みしめて、キューカンバーの攻撃の隙間から、右手に持っていた拳銃を突き伸ばして、キューカンバーの左の眼球に押し当てた。そのまま引き金を引く。ぱちゅっという軽く潰れるような音がして、キューカンバーの左目が潰れた。キューカンバーの口から、軽く驚いたような声が漏れる、普通の弾丸ならばノスフェラトゥの体を傷つけられるはずがなく……その弾丸は普通の弾丸ではなかった。

「神力操術?」

「ああ、まあな。」

「雑種が?」

「ただの雑種じゃねぇぜ、あのガキに聞かなかったのか?」

 アーサーが自分の体内のセミフォルテア(正体不明神聖物質、神や半神の力の源とされている)を込めたために、ノスフェラトゥの体を一応は引き裂くことができる弾丸は、キューカンバーの頭蓋骨を突き抜けて、後頭部から排出された。しかしキューカンバーは一時の驚き以外にはそれを気にする様子もない。たとえ両目が潰れても、精神拡張空間があればノスフェラトゥは相手の位置が分かる。

 一方で、アランはノスフェラトゥ達の視線と精神から逃れて、天井に潰された春杏のテーブルのあたり、何かを探しているようだったのだが、ようやくその対象物を見つけたようだった。天井落下の衝撃でひしゃげた何かスプレー状の缶詰のようなもので、外見的には例のシープ・ノスフェラトゥ撃退スプレーと同じようなものに見えた。そう、それは間違いもなくフロギストン・スプレー(正式名称)だったのだ(ちなみにブラックシープの使っているシープ・ノスフェラトゥ撃退スプレーは、ジョーンズ財団の色々なコネを使って、最終的にHOLから合法的に譲り受けた品物を、違法に私的流用しているものだ)。瓦礫の中から取り出して、自分の手に収めたそのスプレーをすぐに春杏に向けて投げる、そして援護のためにHOL-103Nでヴァイオリンとパイプドリームに向かい一発ずつ打ち込む。

 ヴァイオリンとパイプドリームが。

 一瞬だけ、アランの方に気を取られる。

 その瞬間に、春杏の手の中に。

 フロギストン・スプレーが渡る。

「僥倖!」

 真鍮仕掛けの化物の手で、スプレー缶はばきん、と握り潰される、その潰された中からは、まるで生きている、骨のない軟体動物か何かのように一気に炎があふれ出して、春杏の体を覆っていく。普通の人間であったら、その炎に耐え切れずに焼き尽くされてしまうだろう。しかし春杏の体は……ビューティフル、美しく完全に進化した生き物の体だ。そんな炎ごときが焼き尽くせるものではない。

「噫々……アランサン、謝々ね!」

「おっとこれはやばいですね。」

 燃え盛る春杏の体の方に、目を細めて振り返りながらパイプドリームがそう言った。体ではなく、スナイシャクが燃えて焦げていくような、そんな鼻をやすりで削るような匂いが部屋の中に漂ってくる、えろり、と半分しかない人間の口から、金属色に汚れた舌がはみ出て春杏の唇をぬぐう。純種のノスフェラトゥならともかく……パイプドリームは所詮は雑種だ、一度二度ならどうにかなるが、とてもではないがフロギストンの斬撃を何度もその身に受けて、無事でいられるとは思えない。

 ひらり、とそのパイプドリームの懸念を感じ取ったのか。

 春杏はそちらの方に笑いながら目を向ける。

 くすくすと、魂を噛み潰すような笑い声。

 そして、薙ぎ払うように右手でパイプドリームを襲う。

「うおっ!」

「老感?」

 しかし、パイプドリームにその巨大な刃が激突する前に、それを一枚の羽が受け止めた。空間を黒く切り取ったような、真闇色のカーテン、ヴァイオリンの左羽。ヴァイオリンは、まるで生き物ではないかのような薄く硬い笑顔を浮かべたままで、虫を払うように春杏の右手を払った。しかし、その時の、フロギストンから加えられる強い圧力に耐え切れず、左羽は焼き裂かれてしまう。

「ちぃっ! 野良が……」

「これは、ヴァイオリンの、お人形。」

 ヴァイオリンは、右足のつま先を静かに床の面につけた。そして、それを中心として、お辞儀をするように優雅に一度回転する、残っていた右羽を伸ばしたままで……食肉を切り刻む裁断機のようにして、その羽は春杏の体に美しい一本の線を残す。春杏は、かろうじて飛び退り、その攻撃を半分だけ避けた、胸のあたりが肋骨ごと半分引き裂かれて、春杏は片方の手でそれを押さえつける。

「噪傲ね!」

 抑えていない方の手が、水道に直接口を当てて流れる水を飲み干していく水風船のように勢いよく肥大化していく、屠獅子刀のように巨大になったその刃で、春杏は叩き付ける様にヴァイオリンを攻撃した、しかしそのあまり優雅ではない攻撃は、ヴァイオリンの優雅な身のこなしで軽く避けられてしまう。焼き尽くす炎の斬撃は、床をえぐり取っただけで終わってしまう。そんな春杏の横腹、切り残された残り半分を狙うようにして、滑り寄ってきたパイプドリームがカッターのような鋭さに変形した手の平で突き刺す、春杏が軽く悲鳴を上げて、残りの部分が断絶されて、春杏の体は真っ二つに切り裂かれる。

「自由、平等、博愛!」

 支えきれずに上半身が下半身から滑り落ちて、春杏はなぜこのタイミングで言うのか訳が分からないし特にこのタイミングで言った意味もないであろう言葉を上げた。それを見つめながら、アーサーはまた奥の歯を強く噛む。不味い、実際にひどく不味い状況だ。ただ、春杏の腹の中からは鍵が零れ落ちることはなかった、恐らく春杏が自分の体を操作して、懺悔室の鍵を肉体の一部に埋め込んでしまっていたらしいことだけが唯一の救いだろう……セミフォルテアを集中させた右手でキューカンバーの羽を受け止めながら、アーサーはそんなことを思った。

 そして、ふと気がつく。

 ハッピートリガーとグレイは?

 部屋の中、視線を回す。

 そして、それを見つける。

 懺悔室の目の前で、グレイの体に寄生する巨大な寄生虫のようにして、完全に寄りかかってハッピートリガーは立っていた。その口は、グレイの喉に牙を突き立てて、スナイシャクを飲み落としているようだ、そしてハッピートリガーは両手を開いて、その両手の先には何か、今までハッピートリガーが作り出していた小型の、手で持てるくらいのサイズの武器ではなく、その胸の高さほどの大きさもある光の塊が浮かび上がっていて……

「あれは、まさか……!」

 ぐっと、春杏の方を振り返る。キューカンバーの羽を受け流して、そのまま自分の体ごとキューカンバーを床にたたきつけながら、アーサーは春杏に向かって叫ぶ。

「春杏! グロスターのガキを止めろ!」

「え? 今なんて言ったアルか?」

 春杏は、傷口にビューティフルの細胞を集中させて真っ二つになった体を治そうとしていた。もう二本の手を生やして、周りでなおも攻撃を続けて来る二鬼のノスフェラトゥをあしらいながら。その他に、体を支える手が二本、上半身と下半身をくっつける手が二本、傷口を抑える手が二本、合計で八本の腕が、上半身中から無秩序な触手のように生えている。

「あれだよ! あいつは懺悔室の扉を壊そうとしてる!」

「あー、はいはい、そういうことのことね、でもちょっと難しいのことよ。ほら、この状態だと。」

 確かに春杏のこの状況では、ちょっと難しいというか完全に無理そうだった。アーサーは声にならない声を上げつつ、なおも攻撃を展開してくるキューカンバーの体を組み敷いて押さえつける。ハッピートリガーは……レベル6のスペキエースだ、レベル5のスペキエースは大規模戦闘施設級と呼ばれ、戦時において例えば空母や前線基地といった戦闘施設の役割を(ビューティフル等の特殊な妨害がない場合に)一人で完全に代替できる程度の力を持ったスペキエースを差す。そして、レベル6の定義は「レベル5以上」。特に具体的な定めはないが、とにかくそれ以上の能力を持つものとされている、つまり、あくまでも可能性の範囲内にとどまるが、レベル6と判定された以上、その力がどの程度の力を持ちうるものかということはアーサーには判断しようがない……もしかしたら、持っているのかもしれない、(プライマリーは破壊不可能としても)セカンダリー・バルザイウムを破壊できる程度の力ならば。

 この場でスペキエースを止められるのは春杏の力だけ。

 アーサーは何とかキューカンバーを振り払おうとする。

 しかし、キューカンバーは執拗に狙ってくる。

 まるで、ねとねとと絡みつく粘性の液体のように。

 振り払えない、どうしても。

 その間にも、ハッピートリガーの紡いでいる光の織物は、着々とその形を現し始めていた。それは、重力などというものを知りもしないようにして、ふわふわと浮かびながら、体を丸めて眠っている球形のけだものの姿に似ていたのかもしれない。サイズとしては直径一.五ダブルキュビト程度で、ハッピートリガーの体の目の前に浮かんでいる、ハッピートリガーの手の先から光の糸が巻きあがり、そしてその糸がその光の玉を作り出しているのだ。あるいは……一台の、巨大な砲台だった。そして、その砲台は、懺悔室の扉を向いていた。

「おーふこひ、おーふこひあ。」

 グレイの首筋に噛みついたまま、その生命の力を湧き水のようにして汲み出し続けながら、ハッピートリガーはそう言った。二本の吸痕牙の間から、言葉の一節ごとにべっとりとした唾液が滴る。確かに、もう少しだった、砲台はもうほとんどが紡がれて、ハッピートリガーの両手はその起動ハンドルをしっかりと掴んでいる。アーサーは銃口をそちらへと向けるが、キューカンバーの羽にそれを遮られる。春杏が砲台に向かって、フロギストンに燃え盛る口で咆哮を上げるも、その声はヴァイオリンとパイプドリームに掻き消される。どちらとも、無意味で無力な行為だ、二人にはハッピートリガーを、止める術はない、付きまとうノスフェラトゥ達が邪魔をする。

 しかし。

 アランは邪魔されていない。

 一発の弾丸が、部屋を横切る。

 ハッピートリガーの首を貫く。

「おお、ラ・モール!」

「アランサン!」

 秩序堅持側の二人が歓声を上げた。アランは春杏の援護でヴァイオリンとパイプドリームに向かって二発の弾丸を放ってはいたが、その弾丸もどうやらノスフェラトゥに対してダメージを与えるものではなかったし、それにたかが人間だということで無力化の優先順位を低く設定され、今まで無視されていた。しかし、それはどうやら……判断ミスだったようだったらしい。ハッピーは、喉の奥を削り取るような、かすれた呻き声を上げる、口を開いたせいでグレイの喉から吸痕牙が離れてしまう。

「ハッピー!」

「ハッピー、どうしました!?」

 グレイとパイプドリームが声を上げた。さて、ハッピートリガーはどうしたのか? 確かにアランの銃弾はノスフェラトゥには効果を与えるものではなかった。セミフォルテアやフロギストンによって形づくられたものではなかった。それは……春杏の体液から、ビューティフルの体液から作られたものだったのだ。SKILLバレット、わざと脆い構造で作られたその弾丸は、被弾者の体の中で砕け散り、ビューティフルの体液をまき散らす、そしてその体液は、貪欲に、被弾者の体の中のS-eidosを食らい尽くそうとする。

 そのままハッピーの体は一瞬揺らいで、けれど何とか足を踏み込んで倒れずにとどまった。両手はしっかりと砲台のハンドルを握ったままで。それを見たアランがなおもハッピーに向かって銃弾を放とうとするが、グレイがそちらへと飛び掛ったせいで阻まれた。思いっきり押し倒されて、背中を床にしたたかに打ち付ける。グレイは喉を狙って牙を突き立てようとするが、アランはちょうどグレイの腹に銃口が押し付けられた形になっている、その拳銃の引き金を引く。

 グレイの腹がはじける。

 しかし、その程度の傷。

 致命傷にはならない。

 くぐもった鳴き声を上げて。

 一度、アランから離れる。

「人間の割には腕がいいじゃねぇか。」

 ハッピートリガーが馬鹿にしたように笑う。

 手の中のハンドルを、いっそう強く握る。

「でもちょっと遅かったみてぇだぜ。」

 ライフェルドキャノンに向かって。

 己の思考を、伝達する。

 キャノンは冷たい太陽のように輝いて。

 そして、濾過されたような、純粋な色の光。

 音もなく、破壊の意思を放つ。

 世界が止まったような、音。

 狭い部屋の中で、終わりの鐘のように響き渡る。

「うおっ!?」

「驚愕的絶叫!」

 アーサーと春杏が耳に響き渡る虚空の大音声に悲鳴を上げて転倒し、そのままごろごろと転がっていく。グレイの体と、パイプドリームの体が吹き飛ばされて壁に叩き付けられる。キューカンバーとヴァイオリンは吹き飛ばされはしながったが、それでもさすがにその光に、軽く目を庇うようにして顔の前を手のひらで覆った。そして、その光景を見た。

 破片の、欠片すら残さずに。

 その扉には穴が開いていた。

 懺悔室の扉に。

 セカンダリー・バルザイウムの扉に。

 まるで、そこに局所的な虚無ができて。

 直径一ダブルキュビトの円を描いたかのように。

 ハッピートリガーは、軽くハンドルから手を離した、それとともに、役目を終えたキャノンはほどけた光の糸になって、世界の底に吸い込まれるようにして消えて行く。ハッピートリガーは、満足げに口の端でにやりと笑う。そして、そのままその場に倒れる、力を使い尽くしたようにして。

「やばいぜ、春杏!」

「明白了!」

 ようやくのことで衝撃から立ち直って、起き上がりながら二人はそう言ったが、しかしそれでも体に受けたダメージは相当なものだったようで、よろよろとよろけるような体の運び方だった。つまり、純種のノスフェラトゥであればやすやすと止められる程度だということだ、春杏はヴァイオリンが、アーサーはキューカンバーが、それぞれに覆いかぶさるようにして、その場にくぎ付けする。ちなみにアランは、さすがにアラン・スミスの身では耐え切れなかったのか、どこかその辺で倒れてると思うのだが、いつもの通りその姿は目立たないところ、瓦礫の隙間あたりに隠れていて見えなかった。

「グレイ、パウタウを……!」

 ハッピートリガーが振り絞るようにグレイにそう言った。グレイはまずはその体に滑るように寄って、どこからか取り出した注射器を押し当てて、腕のあたりに突き刺した。プランジャーを押して、中が空になるまで液体を注ぎ込む。それが終わると、空っぽの注射器を放り棄てて、それからぽっかりと空いた穴から懺悔室の中へと入っていく。

「あー、また奴隷の薬にお世話になるとはな。」

 ごろん、と仰向けになって、ふーっと軽い音のため息を吐きながら、ハッピートリガーは自嘲気味にそう笑った。グレイが流し込んだその液体は、昨日の夜にパウタウが流し込んだものと同じ、ヘンハウスの解毒剤だったのだ。薬のおかげでだんだんと体がよくなって行くのか、ハッピートリガーはぐっと体に力を入れて、上半身だけを起こす。

 ちょうどその時に。

 懺悔室の穴の中から。

 グレイが出てきた。

 腹から血のしずくを垂らしながら。

 腕に、パウタウを抱えて。

 ハッピートリガーは、パウタウに向かって。

 親し気に笑いかける。

「迎えに来たぜ、お姫様。」

「ありがとー。待ってたよ、ぼくのナイト。」

 パウタウは、グレイの首に腕を巻き付けたまま。

 いつものように笑って、ハッピートリガーにそう言った。

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