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#26 閉じ箱の二羽の孔雀

 雨の粒が冷たく濡れた金属の上に落ちると、その先端がその金属を叩き、潰れ、破れて、そして表面に、まるで斑のあるマニキュアのように塗り潰された雨の水に薄い冠を作って死んでいく。数えきれないほどの水滴の断末魔が、数える暇もないほどに融け合わさって、その声はざあざあと、意識の端に継ぎとめられることもないノイズ。幾つも幾つも、瞬く間の冠を戴いたその金属は……お世辞にも豪邸ということはできない、それどころかまともな建築物ということもできそうにない、そんな建物を構成している、その天井部分だった。

 しかし、それでも。

 他の建物よりは。

 随分と美しい姿をしている。

 ここはペナンズ・ハーバー、ブラッドフィールドの歴史の中で初めてできた、国防の為でなく交易の為の港の、そのすぐ近くにある倉庫群の中心から少し外れたところ。ペナンズ・ハーバーは、ウォッチクリフとは違いダウンタウン側の海に作られた港で、もちろんその近くにある倉庫群というものは下層階級に住むけだものども、餌を隠し込む洞穴のようなものだ。幾つも幾つも並べたてられた倉庫は、形を整えることもなく列を整えることもなく、ただ雑然とした印象の集合体のように見える。海水のにおいがする雨に霞んだ安っぽいカーテンの向こう側に見えているのは、例えばエトワール支局長の「戦略倉庫」やアッシュ・ペナンズ氏の「慈善事業に使われる薬品用倉庫」といった、要するに中に何が入っているのかわからないようなものばかりだ。夜警公社の人間であっても、この近辺にある倉庫の中身に関しては、国家の存亡にかかわるようなことでも起こらない限りは、暗黙の了解として触れないようにしている。

 ほとんどが慌てて作られた掘っ立て小屋、大災害が起こった後に建てられたバラックのような、粗雑な作りの建物が並ぶ(ASKの私有倉庫だけは例外的に詳細のよく分からない材質でできた甲虫のようなつくりをしている)その中で……それは、その建物は、随分と、美しい姿をしていた。優美な直線と、直角で構成された、黄金比の長方形と、正方形を組み合わせてできた、立方体。その表面は、熱して濁ったミルクのような白い色の金属、白イヴェール合金によって覆われてていて、出入り口が一つあるほかは、窓の類は一切見当たらなかった。そして、表面に刻まれたマークは……中の鳥を失った、虚ろの鳥籠を模したようなそのマークは……この建物がヘンハウスの所有物であることを示している。

 雨の音。

 クラウンメーカー。

 集団自殺。

 つまりはそう言ったこと。

 聞こえてくる。

 それと、これは海の匂い。

 フラナガンは、薄く笑う。

「おはよう、ピーコック。」

 フラナガンは今、その建物の内側にいた。内側は、外側とは全く違って、どちらかというと……かなり雑然としていた。そもそも薄っ暗い、窓がない上に、照明器具が天井に煌々と光るたぐいの照明ではなく、骨だけになった腕のような棒の先のスタンドライト、それが例えばテーブルの上だとか、そう言ったそこここの主要な場所を、そこそこに照らし出しているだけだからだ。

 その照らし出している光の輪のうちの一つ。

 その中に静かに立って、フラナガンは柔らく笑う。

「ねえピーコック、知ってる? 今日はさ、聖無知の日なんだよ。本当は、トラヴィール教徒は、知を生むような行動をしちゃいけない日なんだ。君は違うのだろうけれど、ピーコック、僕は、ほら、これ、どう? 見ての通り、トラヴィールの聖なる救いを代理する黒い手のうちの一人ってわけだし、そういう人が今日、この日に「お仕事」をするのは、本当はあんまりよくないことなんだよ……まあでも、他ならぬ君が今日を望んでいるのだから、それだけが理由じゃないんだけれど、仕方なく僕も、今日この日に来たってわけなんだけれどね。」

 その建物の中。

 まるで、低予算映画か何か。

 奇妙な実験室の、セット。

 安っぽい組み立て式の金属棚が壁際に幾つも幾つも並べられていて、その中には分厚いスペキエース関連の研究書や、あるいは色とりどりの薬液の中に保存された、何らかの生命体の一部。下の方には脚や頭が丸ごと入っていたり、そういう大きく重たいものが入っていて、上の方には眼球や特に肥大していない内臓といった、軽く小さいものが詰め込まれている。部屋の奥のほうにはいかにも軽そうな真鍮色のテーブルが置かれていて、その上にはキーボードと開きっぱなしの本、転がされた何かの薬品の瓶と、アンプルの様なものが乗せられている。下には家庭用とはとても思えないような巨大なハードディスクドライブが唸り声を上げている。奥の壁それ自体には十数枚のモニター画面が取り付けられていて、そこには色々なものが映し出されている、形相子のモデル、いつまでも続く数式の羅列、どこかの論文を切り取った画像に、動き続けるグラフの様なもの。例えばそう言ったものが。

 それから、部屋の中心には。

 一つのベッドが置かれている。

 病院などで使われる、手術台の様なものを想像して欲しい。そこから、顧客満足度や、患者様は神様だという想い、サービス精神などを完全に抜き取ったもの。もう少し簡単に言えば、検視台のようなもの、それがそのベッドだった。シンプルな金属の板で、直視すれば目が焼けてしまいそうな照明が照り付ける、そこに寝そべってしばらくすれば、体中がぎしぎしといいだしそうな、そんな寝にくさでは他の追随を許さないようなベッド。そのベッドは昨今の商業主義的な病院の経営体制に強い否を突きつけているとかそういうわけではなく、単純に実利的な意味合いでその形状をしているに過ぎなかった。たかが実験台に寝心地の良いベッドはいらない、つまりはそういうことだ。

 そして、そのベッドの横。

 血液や、他の体液。

 べとべとと汚れた白衣を着た。

 一人の男。

 ピーコック。

 ヘンハウスのピーコック。

 目立つような姿かたちをした男ではなかった。どちらかと言えば、他の人間たちの中に紛れて消えてしまいそうな程度の存在感しかない。生まれた時からずっと虐げられ続けてきたため、その痕跡がしっかりと染みついてしまったような、被害者に相応しいその顔つきは、チューブの様なもので必要最低限の栄養しか摂取していないかのように、青白い色をしている。ただでさえ細く長い顔、こけて痩せているせいでなお一層その印象は強まる。白衣の下に隠れて見えないが、その先の手も骨か何かのように痩せているように見えるから、たぶん全身がそんな感じなのだろうと思われた。ぼさぼさで鳥のとさかのようにけば立っている髪は、灰色の混じった薄い黒の色、ベッドの方に、その頭を傾けていたが、フラナガンのその声を聞くと、薄い水色をした目を上げて、その方を見る。

 ピーコックは。

 呆けたような顔をして。

 淡く口を開く。

「聖フラナガン。」

 まるで、夢遊病の患者のように。

 ピーコックはフラナガンに近づいていく。

 そして、その足元に跪いて。

 右の手を取り、甲に口づけをする。

「美しい、聖フラナガン。」

「あ、り、が、と、う、ピーコック。」

 少し歪んだ笑顔のような声をして。

 フラナガンはそう言った。

 ピーコック。ブラッドフィールド六大ギャング(今は五大ギャングだけど)のうちの一つ、ヘンハウスのボス。ヘンハウスは、主に等級3(小規模戦闘装備級)以上のスペキエースの、軍事目的での人身売買によって利益を上げている組織だ。また、それだけではなく人体実験などの研究を行うことで、世界でも有数のスペキエース関連データを有している、そのデータから大抵の国では違法とされている薬品などを構成し、それを売りさばいたりもしている。そして、そのボスであるピーコックは……かなりの部分が謎に包まれた男だった。この男に関する情報は、この世界には一切、痕跡さえも残されていない。どこで生まれたのか、どこで育ったのか、そういったことが一切不明なのだ。ある日(確かそれは春聯事件が起こってからすぐのことだったはずだ)唐突に表れて、まだブラッドフィールドがED、女半、フラン、ゴリラ・ダンディ(アルフォンシーヌの通称)の四大ギャング体制だったところを、主にスペキエース関連の異様なほどに先進的な技術によってどんどんとのし上がって、その体制の一角に食い込んできた。

 色々な噂がある、1・もともとギルマン・ハウスの研究員だった、2・優秀な人間の形相子を組み合わせて作られたクローンだ、3・シャボアキンの操り人形の一つ。そう言った噂の中で、もっとも突飛なものはピーコックが……別の世界の人間だという噂だった。この世界とは全く違う可能性をたどったその世界では、スペキエースが世界を支配していて、そのせいでピーコックはこれほどまでにスペキエースに関しての知識を有しているのだ、と。しかし、どれもこれも噂に過ぎない。ピーコックの正体は、未だに明らかになっていない。

 ピーコックは、フラナガンの手から顔を上げて。

 膝を地に屈したままで、見上げる。

 まるで、畏れを抱いて光を見上げるように。

 そのピーコックに対して、フラナガンは。

 その口は、また言葉を紡ぐ。

「ピーコック。」

「はい、ここにおります。」

「それで、電話では言ったことなんだけどね。しばらく他の所に行っていて、それで僕がこの街に帰ってきたら……もともと僕のものだったはずのものが、みんな誰かに取られていたんだ。みんなみんな、みーんなだよ、ピーコック。ひどいと思わない? これじゃ、ほら、さすがに僕もさ、ね? だから、それを取っていった人たちから、返してもらおうとしているんだ。つまり、そういうわけでね、僕はここにいるんだけど。僕の言いたいことは分かるかな、ピーコック?」

 ゆらゆらと、眠くなるような振り子、ポニーテールがフラナガンの言葉と共に、ゆっくりと揺れた。その黒い周期に、魅入られたように目を向けながら、ピーコックは静かに膝を上げて、立ち上がる。それから、その振り子の軌道のようにして、ゆっくりと歩き始める。

 先ほどは全く触れなかったが、この部屋には、この箱の中には……その中で、最も目立つもの、最も異質なもの、あるいは最も異様といってもいいような、その特徴は、絵だった。棚のない所、テーブルのない所、モニター画面のない所、つまりその何もあるべきではないところには、その空白を埋めるようにして何枚も何枚も、絵が貼られていた。その絵はあらゆる技法、あらゆる画風、あらゆる色で描かれたピーコック自身によく似ている男の絵だった。そう、その男はピーコックによく似ていた……いや、ピーコック以外の人間が見れば、それはピーコックだと言っただろう。実際、その絵のモデルとなったのも、ピーコックであったのだから。違いと言えば、絵に描かれたその男は、ピーコックのような白衣を着ておらず、その代わりにオレンジ色のマントでその身を覆っている、というところくらいで。そしてそれだけではなく、しかし、それは実のところは違った。その絵は、ピーコックの絵ではなかった。その絵は、例えピーコックを描いたものだったとしても、ピーコックを描いた絵ではなかった。天井に、壁に、あるいは床まで少しはみ出して。そこら中にべたべたと貼りつめられた絵のうちの一つにピーコックは近づいていく。

 その絵に、静かに触れる。

 ゴム手袋をしたままの手で。

 べとべとと、体液が付いた手で。

 そして、耳を傾けるようにして。

 淡い雪がとけるように、瞼を閉じる。

「聖フラナガン。」

「なんだい、ピーコック。」

「兄は、あなたにあなたのものを返すように言っている。」

「君の、とても、聡明な、お兄様。」

 明らかに嘲弄。

 あるいは憐憫。

 そんな言葉でそう言いながら、あるいはその黒い布に覆われている視線の向きを、箱中の絵、ピーコックの絵の方に順々に向けていきながら。フラナガンはゆっくりと箱の中を横切っていく。扉の前から、箱の中心に置かれた、先ほどまでピーコックがその横に立っていた、金属のベッドの方へと。ベッドの横には、一つの台が置いてあった。こちらもベッドのようにシンプル・イズ・ベストの精神で作られた銀色の台で、その上には銀の皿、銀の皿には、メスや鉗子のように精密な手術に使うものから、小さめの糸鋸のようなもの、あるいは金属でできた注射器までもが雑然と散らかっていて、そのどれもがべとべととした液体で汚れていた。

 それから、ベッドの上に乗せられていたのは。

 すはだかで、痩せた体をさらしている。

 一人の少女。

 少女の体は、何者にも覆われていなかった、そのまま、寒々しい姿のままで、そして、その体は毀損されていた。胸は切り開かれて、その中が露出している、幾つかの内臓は抜き取られていて、ベッドの端に無造作に置かれていた、たぶんこれは肺だろう。見た限りでは心臓も抜かれていたようだったが、それは何処にも見当たらなかった。頭は大ざっぱに頭蓋骨を割られて、その中の脳髄のあたりには幾つかの電極のようなものが刺されたままになっていた。明らかにその少女は死んでいるようだったが、死後の状態か何かを確認しているのかもしれないし、それか抜くのを忘れてさしっぱなしにしているだけなのかもしれない。

 顔は、割ときれいなものだった。確かに痩せてはいるが、それに関してはピーコックは全く関与していないだろう。見たところ、テンプルフィールズで買ってきたばかりの少女奴隷に見えた、この少女がスペキエースであるか、あるいはS-eidos挿入系の薬品の効果を確かめるための素体としてホモ・サピエンスを買ってきたのかのどちらかだろう。どちらにせよ、何らかの実験を行うための実験体だ、その証拠に、少女の体の上、脚のあたり、コンピュータが置かれたテーブルの方からケーブルを伸ばして、キーボードが一つ置かれていた。それは、逐次実験結果をコンピュータに入力するために。

 ふっと、フラナガンはその少女の頬に手を伸ばした。まるで、その少女に対して、何らかの祝福を与えるかのような手の動き。ゆっくりとその少女の頬をなぞり上げていき、やがて指先は右目の、瞼の上にまでたどりついた。指を人差し指に変えて、その瞼を指し示すように、その上に指先を当てていたが……やがて、その指をぐっと、眼窩へと押し込んだ。瞼がめくれ上がって、眼球が見えて、その眼球の裏側へと、フラナガンは人差し指を差し込んでいく。親指を眼球の、黒目の部分に押し当て、そして裏側の人差し指と二つの指で挟み込んで、眼球をつまむ形にすると、フラナガンはその眼窩から、その眼球を抜き取った。きゅぽん、と湿った音がして眼球と、そしてその後ろの視神経の束が露出する。フラナガンは銀の皿の上に乗せられたメスの上の一本を右手で取ると、眼球から視神経を切り離した。

 指先でそれをつまんだままで。

 フラナガンはピーコックに言う。

「ピーコック、ねえ。」

 明るい声だ。

 今日の天気に似合わない。

「ちょっとこっちに来てくれる?」

 ピーコックは無言で、目を開いた。

 フラナガンの方に、その目を向ける。

 何も言わずに、その方へと、近づく。

 フラナガンの目の前に立つ。

「あーんってして? 口を。あーんって。」

 無条件の献身のようにして、ピーコックはただその口を開く、フラナガンに言われた通りに、その言葉の求めるとおりに。フラナガンの指先は、白く包み込む手袋の先、赤い血液によってしたしたと汚れ、まるでルリム・シャイコースのように……月光国正教会に伝わっている異端の書のうちの一つ、「黒檀写本」にしか描かれていない、フェト・アザレマカシアからリリヒアント第三階層へと降り立ち、伝説のムートゥーランに雪と氷の荒廃をもたらしたという、あの白い蛆虫の蠢く愛撫のように見える。ルリム・シャイコースの祝福は、氷さえもなお凍るような冷度の口づけ。

 すっと、その指先はピーコックの唇をなぞり。

 赤く滑らかな一本の線を描く。

 ピーコックは、従順に舌を伸ばす。

 その舌の上に、フラナガンは。

 血に濡れた眼球を乗せる。

「その嘘と偽りに汚れた舌、僕はこの聖餐を授けよう。」

 ピーコックは、蓋がれた口。

 眼球を口に含んで、夢を見るように唸る。

 その姿を、軽蔑するような目で見下ろしながら。

 フラナガンは言葉を続ける。

「君のように醜く低劣な人間は、例え僕の秘跡によっても救われるに足る人間になれるとは思えないけれど、まあそれでも僕は人を救うことが使命だからね。トラヴィールの黒い手のひらは、例えばこんな薄汚い鳥かごの中にも等しく祝福を与える……ああ、ピーコック、よく噛んで飲み込まないと、喉に詰まらせて死んでしまうよ。」

 ピーコックは、フラナガンに言われた通り奥の歯で、その眼球を噛み潰すようにして強く噛む、何度も何度も。ぐちゅ、ぐちゅっと、その度に口の中でなんかちょっとあれな感じの音がして、それでもなかなか飲み込めるほどの大きさに咀嚼するのは、随分と難しいことらしかった。フラナガンは満足そうにピーコックのその姿を見つめていたが、やがて、ああ、と言った感じに、気がついたようにして、また話し始める。

「そうそう、忘れるところだった。EDと女半と、それからスローターハウスの代表アドレスにはもうメールしておいたんだけれどね、君には今日会うから、会った時に話をすればいいかなってカーボンコピーに入れてなかったんだ。今日の、たぶんお昼頃に……ああ、もうお昼か、だから、たぶんもうすぐなんだけれど、ブラッドフィールドで革命が起きるよ。えーと何て言ったっけな、リチャード・サードが使ってるスピーキー・ネームは……ハッピートリガー? だったっけ。とにかく、ホワイトローズ・ギャングの連中がアップル・シティのノスフェラトゥ達に対して革命を起こす。結構大規模なことになるんじゃないかな、なんかグールの皆さんがヘルプで入るらしいし、そこらへんは僕は大して興味がないんだけれど、でもちょっとリチャード・サード……つまりハッピートリガーには、聞きたいことがあるんだ。だからね、ピーコック。ちょっとしたお願いなんだけれど、君達には手を出して欲しくないんだよ。本当はサヴァンくんにもお願いしたかったんだけれど、彼はもう既にこの件に巻き込まれているみたいだし、それに……ほら、僕が道を通るためには、交通整理をしてくれるような人達も、やっぱりちょっと必要になってくるからね。そういうことだから、お願いできるかな? 今日はほら、聖無知の日だから一節お休みしたいけど、遅くとも明日までには終わらせるからさ。その間は何が起こっても、ホワイトローズ・ギャングには手を出さないで。あれは、僕の、ものだ……」

 フラナガンはそう言うと、一度口を止めた。その声は、むしろ非常に優しげといえるような声だった……それなのに、その声は、どこか聞くものの脊髄をやすりでなぞるような、そんな怖気の感情を揺り起こす音を含んでいた。目の前の、黒い布の先で、フラナガンはどういう顔をしているのか? それが分からないことが、幸福であるかのように思わせる、そんな声。

 それから、フラナガンは口調を変えて。

 また、明るい感じの声に戻して。

 言葉を、続ける。

「どう? 分かってくれたかな。」

 ピーコックは相変わらず口の中に眼球を含んでいたのだけれど、フラナガンの言葉に、小さくうめくような声で答えた。その声はほとんど意味をなしていなかったのだけれど、それでもそれは、フラナガンの言った「お願い」に関して、「理解」したということを言いたいのだろうということは、確定的に明らかだった。フラナガンは、その答え、うめくような声を聞くと、ピーコックのすぐ目の前のあたり、満足そうに手のひらをひらひらと泳がせるような仕草をした。

「ありがとう、ピーコック。」

 それから、ふっと傾げて、ポニーテールをゆらん、と揺らめかせた、首にかけたランドルフ・カーターの鍵に手を伸ばそうとして、それから白い手袋の指の先があの少女の血液で汚れたままだったことに気がついたらしく、ふとその手を止めた。聖なるランドルフ・カーターの鍵を汚すことに、当然のためらいを覚えたのだ。やりどころのない手のひら、ピーコックに向けてちょっと肩を竦めて見せてから、フラナガンは軽い世間話のような口調でまた話し始める。

「さて、これでようやく僕も安心して今日一節休めるよ。何せ久しぶりにブラッドフィールドに帰って来てからのここ何日か、色々とあったせいでずっと働き通しだったからね。今日はね、ピーコック、僕はウォッチクリフの方に行こうと思っているんだよ。君は海が好きかな? 僕は、それなりに好きだよ。あそこから見る海はとても、とても美しいんだ。本当だよ、ピーコック、一節中見ていたって飽きないくらいで……」

 そんなこんな喋っていたフラナガンの腕。

 突き刺すような、バイブレーション。

 びくっと、フラナガンは腕を驚かせる。

 そして、そのことに気がつく。

「え? ちょっと……マジ?」

 この振動は、まず間違いなかった。小数点以下四捨五入すれば百パーセント、フラナガンの予想通りだろう。しかし、その四捨五入された小数点以下、万が一の他の可能性があることを信じて(例えばいきなりワームホールを通ってめっちゃ震えるけど声は出さない蝉的な宇宙生命体がフラナガンの腕にワープしてきたとか)、フラナガンは腕を恐る恐る持ち上げて、自分の顔の前に持ってくる。

 ああ! それは!

 非情なる現実よ!

 彼の者の腕で光るは!

 正義の羊なる紋章!

 シープ・ウォッチ!

「嘘でしょ……今日、聖無知の日だよ……? 夜のパトロールさえも断ろうとしてたくらいだよ……? 何で今日に限って……?」

 何て言うか、打ちのめされたような声音でそう言うと、フラナガンはよろよろとよろけて、すぐそばのベッドの上、体を支えるために片手をついた。反対側、シープ・ウォッチのついている方の腕の腕の先は、すっと顔を撫でるようにして動いて、手のひらでその顔の前の布を覆うように動く。呆然とした、嘆くようなその声は、独り言のような虚ろな響きで言葉を続ける。

「街に野良だのグールだのが出しゃばってきたくらい、危機的状況でも何でもないでしょ……大げさすぎだよ、それぐらいで騒がないでよ……休ませてよ一節くらい……っていうか何なのシープ・ウォッチって……名前そのまますぎるでしょ……いや、それは別にいいんだけどさ……」

「どうか、されましたか?」

 なんとかかんとかでフラナガンの聖餐を飲み込むことができたらしく、ピーコックがそう声をかけてきた。大して心配をしているような口調でもなかったが、それはピーコックがほとんどの場合において無感情であるためであったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。

 フラナガンは。

 ちらり、と指の間から。

 黒い布の奥から。

 その視線を、ピーコックに向けて。

「いや、その、何でもないよ。」

 ため息をつくように。

 自分に言い聞かせるように。

「それなりの地位にある人間は……まあ、そう簡単には休めないってことさ。」

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