#24 地の底で足掻くことの必要性について
ベルヴィル記念暦985年2章15節。
夜が明けて、朝になっても。
その雨の音は続いていた。
いつまでも、いつまでも。
それはまるで美しきヴールの御国の門を叩く前、頭の中にある全ての知を切除してもらうために、聖なる無知、無知の幸、その門の横に置かれた手術台の前に並んでいる、哀れな子羊たちの列のように蜿蜒と続き、そしてこの世界を涙で濡らしていた。屋根と壁に囲われた部屋の中からその音に耳を傾けていると……少しばかりの優越感を感じることもある。安全に対する感覚、それはちょっとした贅沢だ。外側にいる人間たちは、雨に濡れる危険を冒している、しかしこの内側にいれば。少なくとも雨からは守られている。そんな、細やかな幸福感。そのせいで、雨の日は、すこしだれたような、怠惰な空気が漂うものだ。
もちろん、ここもその例外ではない。
OUTに割り当てられた班室の中でも。
「アーサーさま、遅いですわね……」
デスクに肘をついて、パソコンの画面、書きかけの報告書の末尾、ちかちかと点滅を繰り返すカーソルをぼんやりと眺めながら、メアリーは誰にともなくそう言った。
ちなみにメアリーはとっくの昔にシャワーを浴び終えていて、心なしか気持ちがほこほこしている上に石鹸のふんわりとしたいい香りが、少し漂ってきているような気がする。着ていたドレスだのなんだのは、もったいないけれどたぶんもう血の染みが取れることはないと思ったので、今までありがとうございましたわの気持ちを込めながらゴミ箱へとさようならしていた。今はロッカーに入れておいた、身体訓練とか近接格闘術の全体演習とかをする時に着る用の夜警官の訓練服を着ていて、まあいってしまえば黒一色のジャージにスニーカーみたいなやぼったい服装だった。しかもなぜか体にサイズがあっておらず、すごいぶかぶかしてる。
「そうアルねー。」
「はっ、まさか何かあったのでは!?」
「またアルか? 大丈夫のことよ、メアリーサンは本当に心配性のことね。」
もう何度目になるか分からないメアリーの胸騒ぎ発動に、春杏は我ちょっと眠いアルなぁという想いを隠すことなく、明らかにぼけっとした口調でそう言った。春杏的にはもう本日のお仕事は終了という感じだったので(アーサーの尋問が終わるまで念のために残っているだけだ)、その態度もかなりだらだらとだらけたものになっている、極限までぐったりと椅子の背もたれに寄り掛かり、片方の足をテーブルの上に乗せて、おなかの上に乗せた業務用の袋の中から、小さい錠剤のようなものをしきりと口の方へ運んで、がりがりと噛みつぶしては飲み込んでいる。ちなみにこの錠剤のようなものは、確かに錠剤であって、春杏の中のスペキエースへの渇望を抑えるために、体内に偏在している神経塊の一部分を刺激するように人工的に合成された、一種の抑制剤だった。性的オーガズムに近しいあの絶頂感が味わえるわけではないが、これによって少なくとも、耐え切れずに誰彼の別なくスペキエースに襲い掛かるほどの欲求は抑えられる。
しかし、確かにメアリーの言う通り。
少し、時間がかかっているようだった。
アーサーが尋問を始めてから。
既に、二時間は経過している。
「第一、アーサーさんはあれでもノスのことよ? 文化系スピーキーごときにどうにかできる相手じゃないアルね。」
「春杏、いつも言っていることですがアーサーの出自についてはあまり軽く口を滑らせないようにしてください。」
「大丈夫アルよー、ここには眷属郎党しかいないのことよ? 誰も聞いちゃいないアル、アランサンも心配性のことねー、メアリーサンといい勝負よ。」
まるで透明な影が囁くようにして語りかけてきたアランに対して、馬鹿にしたように手を天井に向かって差し上げて、ひらひらと揺らしながら春杏は答えた。アランはどうやら班長であるグレースへの報告を終えて、ついさっき班室に帰ってきていたのだが、いつものように全く存在感を見せることなく、半身が妖精の国にでも入っているかのような静かさで自分のデスクについていた。ちなみにアランの席はメアリーの目の前である。
「でも、でも、もしかしてセカンド・スペキオーススが起こって……新しい能力がとても凶悪な力を持ったものだったら……アーサーさまが敵わないくらいの能力だったら……!」
「お客さんはもう既にダブルアルから正確に言うとサード・スペキオーススになるのことね。」
「もう我慢できませんわ! わたくし、中に入ります!」
ほとんど悲鳴のようにそう言うと、ばんっと自分のデスクを両手で叩くようにして勢いよくメアリーは立ち上がった。その勢いに跳ね飛ばされて、キャスター付きの椅子ががらがらーっと後ろにキャスターを転がしていき、べしっと情けない音を立てて壁に当たる、この部屋はそれほど広い部屋ではない。
「アランさま、春杏さま、止めても無駄ですことよ!」
「うん、別に止めないアルね。」
ほとんどお義理のように、どうでもいいし興味もないアル~といった口調で春杏はメアリーの悲痛な決意に答えた。アランはというと、何の反応も返さずにパソコンに向かって黙々とキーボードを叩いているだけだった、たぶん報告書を書いているのだろう、自分の分ではなく春杏の分の報告書を。
春杏の反応にもアランの無反応にも構うことなく、メアリーは能力をフル活用して、だだーっと、目にもとまらぬ速さで駆け抜けた、自分の席の後ろ、若干斜め右の位置にある「懺悔室」の扉へと。しかし、さっきも言及したが、この部屋はそれほど広くないので、メアリーが能力をフル活用して走る必要は全くないというか、要するに二歩か三歩のところで、すぐにメアリーは扉の目の前についてしまった。
「アーサーさま! 今メアリーが助けに行きますわ!」
「メアリーサンはいつも楽しそうでいいアルなぁ。」
メアリーがそう叫んで。
がっとドアのノブを掴んだ時。
まさにそれを見計らったようにして。
そのドアが、内側から開いた。
「はわっ!」
メアリーが驚いてとっとっと後ろに転びそうになる。
出てきたアーサーが、呆れたような視線を向ける。
「お前、何やってんだ?」
「ご無事でしたのね、アーサーさま!」
ステルス隕石の驚くべき――サプライズ――衝突――ストライク――がごとく急に与えられた衝撃、歓喜に身を貫かれたかのように、メアリーは躍り上がる心からそう言うと、ひっしとアーサーに抱き付いた。アーサーはそんなメアリーを腰のあたりに引っ付けたまま、引きずるようにして歩いて自分の席にまで戻ると、とんっとデスクの上に持っていたドーナツの箱を置いた。ちなみに「懺悔室」のドアはオートロック(電気式でなく機械のからくり式、「懺悔室」には一切の電気は通されていない、なので内部を監視できる装置もない)なので、いちいち鍵を閉める必要はない。その箱を開けて、中からドーナツを一つ取り出しながら、落ち着かせるような口調でメアリーに言う。
「無事もなにも、危険な要素がねぇだろ。」
「でも、相手はホワイトローズ・ギャングの幹部の方でしてよ! もしも、もしも万が一のことがあったら……」
そこまでメアリーが喋ったところで、アーサーが取り出したドーナツをぽんっとメアリーの口の中に放り込んだ。バターと卵白でふんわりと仕上げたフィナンシェ生地のドーナツで、ココナッツのパウダーがかかったやつだ。メアリーはいきなり口をふさがれて「むむーっ」っと意味をなさない抗議の声を上げたが、やがて薫り高いアーモンドの味わいが有無を言わさず口の中に広がったのか、喋るためではなく、もむもむとおいしそうにドーナツを食べるために口を動かし始めた。
「はいはい、ありがとうな、心配してくれたんだろ。」
あやすようにメアリーの頭をぽんぽんと叩きながらアーサーはそう言った。メアリーはというと、そのアーサーの手の感触にようやく落ち着いて安心し始めたのか、アーサーをしっかり掴んでいた腕を次第に離して、ドーナツを両手で持ち始める。
「まあ、どっちにせよ鍵もないのに入れねぇだろうけどな。」
そう言いながら、アーサーはポケットの中から何かを取り出すと、メアリーに対して見せるようにして、親指と人差し指でつまんで振った。それは手のひらほどの大きさもある、古めかしい鍵だった、青く揺らめく黒い青銅、つまりバルザイウムでできた「懺悔室」の鍵。
「あー、そういえばさっき中に入る時に持って入ってたね! アーサーサン、まーた規則違反アルか。」
「おいおい春杏、お前に言われたかねぇな。というか、わざわざ出る時に、外のやつに開けてくれーって頼むのも馬鹿みてぇだろ?」
軽く笑うような口調で春杏に向かってそう言うと、アーサーはふとようやく気がついたように、アランの方に目を向けた。アランは相変わらずキーボードを叩いてはいたが、目だけはアーサーの方に向けていた。なにせアランは春杏を任されるくらいの優秀な男だ、ブラインドタッチくらいはたしなみのうちというわけで。
「お疲れ様です、アーサー。」
「おおーラ・モール、お疲れ。聞いてるぜ、大活躍だったそうだな。」
「ありがとうございます。でも、全てが私達の活躍というわけでもないんですよ。」
「は? どういうことだよ。」
「それは、私にも分かりませんが。とにかく、今回の件には誰か別の存在の介入があったということです。」
「別の人間? ああ、いつものごとくノヴェンバーか?」
「いえ、不明です。」
「不明? どういうことだよ。」
「見る限り、介入してきたのは標準タイプのリビングデッドのようでした。オーダーメイド品と思しきメード服を着ていることからアンダー・テーブルズの一員と推測されますが、所属を示すものは身に着けておらず、持ち主を推測するところまでは行きませんでした。そのリビングデッドは、春杏がリチャード・サードの相手をしている間、他に一人と一匹いたホワイトローズ・ギャングのうちの……」
「そうそう、アーサーサン、要・要・要汝聞、聞いてほしいのことよ! 我、レベロクのスピーキーの話しか聞いてなかったのに、行ってみたらそれ以外にライカーンにレベヨンのスピーキーまでいたのことね! さすがの我もライカーンと一緒にスピーキー二匹なんて不能アルよ! 真是的、情報はもっとしっかりしたものを渡してほしいアル!」
「他に一人と一匹いたホワイトローズ・ギャングのうちの一匹、ライカーンを足止めし、そして崩落する現場から私たちが空手で逃げ出した後に、パウタウ、現在「懺悔室」に拘束されている容疑者を渡してくれたんです。言うまでもないことですが、その行動の目的も不明です。しかしそのおかげで、私たちは容疑者を拘束できたというわけです。」
「へえ……なるほどな。」
アーサーはアランのその話を聞くと、少し妙な顔をしてそこで言葉を切った。何かとても複雑なことを考えているように、複雑に組み上げられたドミノの城が崩れる先をじっと見定めるように、暫くの間黙って天井を見つめていたが、やがてまた目をアランの方へと戻して続ける。
「まあ、奇特な奴もいるってことだな。」
それ以上考えるのが。
面倒になったとでもいうように。
ちょうどその時に、ドーナツを半分ほど食べ終えたメアリーが、何か知らないうちにアーサーの隣にある自分の席にちょこんと座り込んでいたのだが、ふいっと顔を上げて立ったままのアーサーの方を見上げると、そういえばですわ、といった感じに口を開く。
「アーサーさま、取り調べはいかがでしたの?」
「あー、まああれだな、色々聞けたぜ。」
「聞いた? 唖鈴、心を読んだの間違いアルね。」
春杏が悪気なさげにアーサーに茶々を入れる。
アランは軽く眉根を寄せるが無駄なので注意はしない。
「そういうことだな。」
「では、ホワイトローズ・ギャングの方々……えーと、ホワイトローズ・ギャングが何をしようとしているのか、分かりましたのね?」
「まあ、大体は。」
「さすがアーサーさまですわ!」
アーサーは、メアリーの言葉を聞くと、へらっと顔をゆがめて、苦笑いというか、何かそれほど愉快そうではない、どちらかと言えば精神の全体に苦痛を帯びているような顔をして笑った。メアリーは、その顔を見ると、はっ、とどうしていいか分からないような気持ちになって言葉を止めた。アーサーはそのまま顔を俯けて、テーブルの上、開いたままのドーナツの箱を見下ろしていたが、やがてその箱をゆっくりと閉じ始めた。
「俺はこれから報告に行かなきゃならない、取り調べの内容を、アメージング・グレースにな。」
「そうですか、あの、わたくし、お待ちいたしますわ。」
「いや、お前は帰れ。」
「え? まだわたくし、勤務時間が……」
「今日は色々あって疲れただろ? それになんだよその服は、年頃の女が部屋着ならともかく、ジャージで仕事するなんてーのは頂けねぇな。その報告書を書き終わったら、家に帰って休め。それから服を着替えろ。」
「でもアーサーさま……」
「なあ、メアリー。悪いことは言わねぇよ。今のうち、嵐が起こる前の静かなうちに休んどけ。これから先、相当疲れることになりそうだからな。」
メアリーは尚も何か言おうと口を開いたが、ドーナツの箱を閉じ終わったアーサーが視線をメアリーの方に戻して向けると、そのアーサーの目を見てその口を閉じた。
「分かりましたわ、アーサーさま。携帯電話は肌身離さず身につけておきます、何かあったら必ずメアリーを呼んでくださいましね、メアリーはアーサーさまのお役に立つために生きているのですから。」
「はは。嬉しいが、そんなことは言うもんじゃねぇぞパピー。」
誤魔化すようにしてアーサーはそう言うと、テーブルの上のドーナツの箱をひょいっと取り上げた。自分の席から離れて、班室の出入り口のドアへと向かう。グレースは……普段は、班室にはいないからだ。班長クラスの人間は、全員が支局ビルの最上階、マネージング・フロアに個室を持っていて、そこにいる。ぶらんぶらんとドーナツの箱を呑気そうに振りながら、そのドアを開く。メアリーが、口を開く。
「アーサーさま。」
「あ? なんだよ?」
「あの……いえ、何でもありませんわ。」
アーサーは少し頭を傾げて。
メアリーに視線を向けていたが。
静かに首を振って、こう言う。
「大丈夫だぜ、パピー。いつだって、何とかなるもんさ。」
「何とかならなくたって、死ねば終わりアルしね。」
春杏が口の中で錠剤をかみ砕きながら付け加える。
それには答えることなく、アーサーは。
蛍光灯の下の影のようにドアの向こうへ消える
朝の光は世界を照らし出していて、けれど夜中に叩き起こされたブラッドフィールドは、ただその眩しさに目をぱちくりさせているだけのようにも見える。見える、見える……そう、この部屋からだと、ブラッドフィールドの街並みを非常によく見渡すことができた。全てではないにせよ、とにかく、これがブラッドフィールドであるという偽りの感覚を与えてくれる程度には。どちらにせよ、ブラッドフィールドの全てを見渡したところで、それでブラッドフィールドの全てを知ることはできるわけでもない、ブラッドフィールドの、その内側の、奥底までは。それならば、この光景でも、十分ではないだろうか?
十分ではなかったとしても。
とにかく、雨が降っていることは分かる。
これは、たぶん先ぶれの雨。
これから起こる何事かを。
覆い隠すための、幕のような雨。
「PAINの連中には随分迷惑かけちまったみてぇだな。ま、バブルボムにはお前から謝っといてくれよ。」
扉から入って正面、部屋の一番奥の壁、ちょうど腰のあたりから上を一枚の鏡のように覆っている窓。ブラインドの隙間から外の光景を見下ろしながら、アーサーはガレスに向かってそう言った。窓からは……ブラッドフィールドは、ちょうどパンピュリア大陸の最西部、三方向の海に面した、半島の先端に位置している……その半島の方向が見渡せる。
その姿はまるで、じわじわと海へその体を伸態していくアメーバのよう。人魚のような形をした大陸の、尾びれのような部分にある半島は、ラメ入りの鱗で着飾っているかのように、きらきらと際立って眩しく光るのは、ネオンライト、蛍光灯、その他の人の手で作られた光、光、光。蟻が作ったミニチュアの街のように精巧で、そしてこの街は空虚だ。空っぽの箱を、地下から照らす光のように、すかすかの光が弱々しく街の中で光っている。ただし、その内側が本当に嘘と偽りの空漠が広がっているのか? それは、誰にも分からない、金属でできた蟻の塚はさながら牢獄の格子のごとく、この都市の内側の事柄、その内臓を、閉じ込めて離すことがない。コンクリートのカーテン、アスファルトのフローリング、それからガラスと鉄、直線と直角、それはティンダロスの猟犬の慰め物なのか? だから、それは誰にも分からない。
それが、普段の光景だ。
しかし、今日は少しだけ違った。
不器用な脱獄者? 錆びたやすり? この光景は、恐らくはそういったものだろう。ブラッドフィールドを内側に孕む格子のいくつかが、削られて崩れて熱を帯びているのが見えた。摩天楼はその指を切り落とされて、柔らかく静めいて苦鳴の声を上げている、その疼痛の歌は耳で聞くことはできない、その代り目を焼く。ざらざらと流れ落ちるような雨によっても消えることのない、炎の形をとって、傷口に開いた幾つもの口が合唱している。その上の空、慌ててその騒がしい口を封鎖しようといくつかのヘリコプターが飛び交って、朝もやに煙るサーチライトの光の糸で縫い合わせていた。
それは尾びれに通った一番太い血管に沿って、すっと伸びた傷口、アベニューに沿った傷口……つまり、アーサー・メアリー・ブラックシープとホワイトローズギャングとの何やかんやによって無残にも切り裂かれた傷口であることに間違いなかった。ヘリコプターは特殊鎮圧班、通称PAINが事態の掌握のために飛ばしているヘリコプターだったし、ここからはあまりよく見えない、かろうじてちかちかと光る、雨に霞んだ淡い赤の光としてしか見えなかったが、同じくPAINのものであるところの緊急車両も、菓子の食いかすにあつまる蟻のように、悲劇に群がっているようだった。
「彼らはライカーンの鎮圧を既に終了している。今は防災公社と協力体制を取って、市民の安全を確保しているところだ。」
聞かれるともなく、ガレスはそう言った。
アーサーは肩をすくめ、ブラインドから指を離す。
ガレス・オールドマンの、つまり通常化班班長のマネージングルームは、それほど狭いわけではない。各々に与えられたマネージングルームは、その地位に見合った十分な広さを与えられているからだ。しかし、ガレスの部屋は……どこか、広さを感じられなかった。狭いわけではない、窮屈なわけではない、圧迫してくるわけでもない、しかし、物理的な広さとは違う、何かしらの精神的な……そう、確かに精神的な広さがあった。その精神的な広さは、自戒の味がする、禁欲と節度であった。この部屋の内側にある全てのものに、それは乾ききったヤドリギの舌のように巻きついている。右の壁のすり減って錆びの匂いがするファイルキャビネット、左の壁の埃一つ見えない本棚、窓のすぐそば、他の夜警官達が使っているのと変わらないシンプルなキャスター付きの椅子と、書類が山積みになった机で構成されたデスク。書類、書類、書類、しかしその書類は春杏のテーブルにあるものとは違い、少しばかり神経質なまでの秩序によって整理されていた。私物の類は一切見当たらない、写真立て一つない、あるのは書類と、電話機、それから慎重に高さを調節されたと思しき、デスクトップパソコンのモニター。その机の前には、向かい合うようにして古びたソファーが一つ置いてあって、そのソファーにアーサーは座った。
「そういえば、サヴァン隊長も随分と派手にやってるみてぇだな。聞いた話じゃ、対神兵器を持ち出してきたって? 一丁や二丁なら分からねぇこともないが、あんだけの量どっから持ってきたんだよ……ま、さすがはフィッシャーキングってことだな。」
「その呼び方は、控えた方がいい。」
ガレスの特に感情のこもっていないその言葉に、アーサーはまた軽く肩を竦めた。それから座った膝の上に置いておいた、ドーナツの箱を開いて、中からドーナツを一つ取り出す。中心に穴の開いていない、ふっくらとした形のパンのようなドーナツで、中にホイップクリームがたっぷり詰まっているやつだった。
「それに、対神兵器の使用は公式には確認されていない。」
「ああ、そりゃそうだろうよ。「パンピュリア共和国内でのヴィレッジによる対神兵器の使用」が「公式に確認」されたら、まぁたBeezeutとの関係がややこしくなるし、そうなるとただでさえお忙しいHOLの仕事が増えるだろうからな……それにしてもBeezeutの連中はどうしてサヴァン隊長のことをあんだけ見ない見ないできるんだろうな、グレース? どうせ今回のだってどっかに横流しするためにSPBかなんかから勝手に失敬してきたやつだろ? まあ……そのおかげで、今回俺たちは随分と助かることになるだろうけれどな。」
「アーサー、それはどういう意味だ。」
「言った通りの意味だよ。」
「つまり……何か、情報を得られたということだな。春杏とアランが拘束した、あの被疑者から。」
「それなりに。」
「話してくれ、アーサー。」
「まあ端的にいうとな、あいつらは革命を起こそうとしてる。」
アーサーはそこで口を止めるとホイップクリームのドーナツを前の歯で少し噛みとった。ふっくらとした柔らかい生地の中から、ふわふわの綿毛みたいなクリームが楽しそうにあふれ出して、アーサーの口の周りを少しだけ白く汚す。
「考えてみりゃ当然だよな、追放されたノスフェラトゥに飼い主のいないライカーン、それにテンプルフィールズで一山いくらのスペキエース……エルに告げ口するんじゃねぇぞ?……とにかく、ブラッドフィールドに虐げられ続けた連中が身を寄せ合って作った寄り合い所帯だぜ? そりゃあやることっつったら、自分たちを虐げてきた連中に復讐することだろうさ。」
「具体的には……どういうことだ。」
「いつものことだが、随分と冷静だなグレース。もっと驚けよ、甲斐のねぇ奴だな、革命だぜ?」
言いながら、アーサーはへらへらと笑いながら顔の横で指を振った。口の周りにクリームをつけたままで、けれどガレスの鼈甲縁の眼鏡は、身動きの欠けらも見せることなく、ただじっとアーサーのことを見つめているだけだった。
「グレース、お前は俺に聞いたよな、「ブラッドフィールドに、何が起こっているんだ」って。どうやら、それに答えることができそうだぜ、運よくあいつと……ジョンの馬鹿野郎と話すことなくな。」
「やはり、今回の事件には……」
「そう、お前の推測通りだよ、関わってた、例のレベル・バイオレットの機密ってやつがな。思い出したんだ。」
あーっと、アーサーはどうやら気がついたようだった、口の周りのクリームの存在に。長い長いノスフェラトゥの舌を出して、べろん、と口の周りを舐める。それからもう一口、今度は口に含めるだけドーナツを口に含むと、それを噛みとった。その塊を咀嚼しながら、ガレスに向かって、その話を続ける。
「それは、Lと呼ばれている。」
「L?」
「ああ、Lだ。この世界で最も危険な兵器のうちの一つ。ある種の現実改変装置、しかもできることがぎちぎちに締め付けられた限定的な改変じゃない、この世界の全てを、ただ考えるだけで改変することができる装置。誰が作ったのか、何の目的で作られたのか、そういったことは残念だが分からない、けれどとにかくそれは存在する。このブラッドフィールドの、地の底にな。トラヴィール教会がブラッドフィールドに封印したんだ、九年前に。九年前の、あの事件の時に。」
「九年前の?」
「ああ。」
「九年前の事件というと、グールの……」
「そう、俺たちはあの事件について、グール達が起こした反乱だとしか覚えていない。ノスフェラトゥとグールの間で起こった、小競り合いではないにせよ、一国の内側で行われた内戦でしかないと、そう覚えている。しかし事実はそうじゃなかった、らしい。あれは、全てを巻き込んで滅ぼす寸前までいった、テンペストの最後の一局面でしかなかった、らしい。」
「つまり、そのLの力によってその現実は改変されて、そして私達の記憶はぬぐわれたというわけか?」
「物分かりが良いな、グレース。その通りだ。Lの封印を知ってるやつがいると、必ずその封印を解こうとするやつが出てくる。それを避けるために、この世界の、あるいは別の世界の、一定の地位にある存在以外の全ての記憶が消し去られたってわけだ。」
アーサーは自分の頭と、それからグレースの頭を順繰りに指さしてそれから肩をすくめた。グレースは、ふーっとため息をつくと両手を祈るように顔の前で組んで、口の端から漏らすようにして言葉を紡ぐ。
「にわかには信じがたい話だな。」
「ああ、俺もだよ。でもどうやら事実らしい。信じ難くはあるが、まあ納得できる話じゃねぇか? そりゃ世界を滅ぼせる兵器の話なら、レベル・バイオレットの機密になってもおかしくねぇよな。そして……そして、それをあいつらは……あいつらは、そのLの封印を、解こうとしている。付け加えるまでもないが、サヴァン隊長の狙いも恐らくそれだろうな。」
「なぜリチャード・グロスター・サードはそれを知っている? まさか、その事件の時の記憶が残っていたのか?」
「いや、違う。何者かが奴の記憶の封印を解いたんだ。今日、あのパウタウってやつの記憶で俺の記憶の封印の……全部じゃないにせよ一部が解かれたように、それはどうやら不可能なことじゃないらしい。」
「それは誰だ?」
「分からない。」
「分からない?」
「何かイメージはあった、残り香みたいなもの。そのイメージは青、この世界のものではないような青、何か、それはもしかして、ひょっとすると……いや、違うな、気にしないでくれ。とにかく、それ以上のものはあのお客さんの頭ん中にはなかった。もしくはあったとしても、俺が侵入できる範囲内ではなく、もっと別の所だろうな。知ってるかグレース? 人の頭ん中ってのは思いのほか複雑なんだぜ、ノスフェラトゥであっても、見られんのはほんの一部だ。」
「その話は一度、君から聞いたことがある。」
「そうだったっけか? へえ、老いると物忘れがひどくなるもんなんだな。」
アーサーはそう言うと、手のひらの中に残っていたドーナツの残りの部分を口の中に押し込んだ。少しだけクリームが生地の中から漏れて、そのクリームは今度は、アーサーの指の先を汚した。しきりと口の中で物を噛みながら、それでも随分とまあ器用にアーサーは喋りつづける。
「そのイメージさえも、少しずつ少しずつ消えていく。何か、俺達の世界から……そう、そいつは俺達の世界から完全に切り離された何かのように、まるで掴めない、掴むことができない。そいつが、知られることを、望まない限りには。しかし、俺はひとまずこいつのことは置いておいて構わないと思う。理由はないが、俺達が考えるべき世界を超えた存在について、俺達が考えても意味がないだろう? つまり、そういうことだ。」
「アーサー、君には言ってなかったかもしれないが。」
「なんだよ、グレース。」
「私には時折……君がノスフェラトゥであるかのように見えることがある。」
「おいおい、こんな時に冗談か?」
指先のクリームをなめとりながら。
アーサーは、へらへらと笑った。
グレースは気を取り直したように。
両手を机の上に置いて、続ける。
「話を戻そう。」
「いいぜ。で、どこまでだ?」
「君は先ほど、エトワール支局長が対神兵器を保有していることについて「随分と助かることになるだろうけれどな」と言った。それは、一体どういう意味だ? 答えてくれ。君はまだ、この問いに答えていない。」
「ああ、その話か。簡単なことさ。俺達だけじゃ、手に余る。」
「手に余る?」
「このブラッドフィールドに施された、Lの封印は全部で五つある。そのうちの三つは既に解かれた。残るは二つだ。何があっても、この二つをあいつらに解かせるわけにはいかない。あいつらはそれを使って、Lを使って、アップルにいる連中を全員殺すつもりだからだ。そして、この国を乗っ取る、子供じみた、馬鹿みたいな話だよな、世界征服をたくらむ、悪の組織の話、昔よく漫画であったよな、そういうのって、なんだっけ、ノーベル・コミックスっつったっけ? ドクター・アインシュタインとかゴルバチョフ・ザ・グレーターとか。まあお前は読んでないか、ガキの頃から頭が固そうだし。ちなみに、あのクソガキは読んでたぜ、人間の文字が読めなかったころから、よく俺にせがんで……まあ、その話はおいておこう。肝心なことは、こういうことだ。あいつらは、Lを使って林檎を木から撃ち落とすつもりで、恐らくそれは不可能じゃないだろう。例えノスフェラトゥの四つの始祖家と、そして……パンピュリアの三羽の天使たちがいたとしても、な。だから、それを俺たちは何としても阻止しなければいけない。そのために、給料をもらってるんだし。」
そこでアーサーは言葉を止めると、開きっぱなしのドーナツの箱をまた覗きこんだ。暫く品定めをするようにして、中に残っているドーナツを一つずつ指さして、選ぶようなそぶりをしていたけれど、やがて箱の中に目を下したままでガレスに向かって話を再開する。
「グレース。」
「なんだ。」
「ホワイトローズ・ギャングの今のメンバーを知ってるか?」
「今までに夜警公社が掴んだ情報では、幹部は四人のノスフェラトゥで構成されているということだった。リチャード・グロスター・サード、キューカンバー、ヴァイオリン、それに純種ではないがパイプドリーム。それに今日、アランと春杏が拘束したパウタウというスペキエース、詳細は不明だがグレイと呼ばれているライカーン、その二人がリチャード・グロスター・サードの側近として、少なくとも確認されている。断言はできないが、この六人が中核のメンバーと考えていいだろう。」
アーサーは「あんまり食い過ぎると体に毒だよな」と独り言のように言ってから、ようやくドーナツの箱から顔を上げた。実際は、ドーナツごときがノスフェラトゥの体に毒になるわけがないのだが、それでもアーサーはドーナツの箱を閉じて、更に「あーと」「なんだっけ」「そうそう」と三つほどのつぶやきを挟んでから、ガレスの方に向かって人差し指を突き出して、ふるふると二回ほど振って、言葉を引き継ぐ。
「心配するなよグレース、断言していいぜ。俺が保証する、その六人が幹部だ。ただ、組織ってやつは幹部だけで成り立ってるだけじゃねぇよな。組織犯罪対策班のやつらに聞けば嫌って程教えてくれるだろうが、有象無象の雑魚どもがほとんど大半を占めてるもんだ。さて、ホワイトローズの場合はどうかな? さっきも一度言ったが、もう少し詳しく、構成要素を一つずつ挙げてってやろう。えーと、まずはホワイトローズが活動を始める前にはどこにも属さずに、独立して幾つかのストリート・ギャングを構成していた野良ノスども。それからフラナガン先生がブリスターにとっつかまったせいで頭を失った連中、特にスペキエース人身売買組織の一部をちゃっかり吸収してる。最後に、赤ノスの連中から逃げ出した元奴隷のライカーン達。これが、主な構成員だ。合計すれば、かなりの数に上るだろう。さすがにヴィレッジ指定の四大ギャングと、忘れちゃいけないサヴァン隊長ご自慢の「組織」ほどの勢力があるとは言えねぇが……おい、そんな目で見るなよグレース、分かってるよ、本人には言わねぇって……とにかく、その全ての構成メンバーが、パンピュリア共和国内に集中しているんだ。ボウリングクラブの連中は世界各地に分散させているから、かえってブラッドフィールドは薄くなってるだろ? まあ、この街であいつらに手を出すような奴がいるわけもないから、当然っちゃ当然なんだが、今のダウンタウンなんて、ほとんどホワイトローズの縄張りになっちまってる。ブルーフリークが行方不明になる前のブルーフリーク・サーカスや、アトラク・ナクアが一掃する前の左道曼荼羅くらいには脅威的なだろ? つまり……あいつらが本気を出せば、俺たちの手じゃ抑えきれないくらい厄介な連中だってことだよ。」
「君は……」
ガレスは、ため息をつくかのように。
その言葉を、静かに吐き出す。
「あのサヴァン・エトワールに協力を要請しようというのか?」
「まあ、要はそういうことだな。」
へらへらと、アーサーは。
いつものように笑っていて。
けれど、その目の色は。
淡く淡く沈み、ちらとも光ることがない。
間違いもなく、ノスフェラトゥの目だった。
揺らめかず、ひらめかず、揺蕩うこともない。
ただその場にじっと蹲る、陥穽のようなもの。
「グレース、一応言っとくが、俺は冗談を言っているわけじゃねぇぜ。珍しく本気だ、百パーセント。」
「しかし今までの話からすれば、エトワール支局長もやはりその……Lを狙っているのではないか?」
「ああ、それは間違いないな。」
「ならば、彼に協力を頼むのは……」
「心配ねぇよ。サヴァン隊長はあの封印を解けない。」
「なぜ断言できる。」
「Lの封印は始祖の血の鍵によって閉じられている。だから、その鍵を持たない者には開くことはできない。さすがのフィッシャーキングだって、SPBのレベル・ブルーさえ持ってないものを手に入れることはできないだろ? もう一つ別の要因もあるが、とにかく、当面はそっちの理由だけで十分だ、とりあえずのところは、心配する必要はないのさ。」
「しかし、それでもあの男を信頼するのは危険だ。」
「百も承知だよ、それに信頼するとは言ってねぇだろ? あくまで、協力してもらうだけだ、こちらの都合の良いように、な。PAINと組対、それに俺達OUTを合わせた全部の夜警官を投入したって、恐らくこれから起こることに対応しきれるとは思えない。どうしても必要というわけじゃねぇが、それにしてもサヴァン隊長の持っている力があれば、随分と楽になるはずだ。」
「これから起こること?」
「ああ。」
「一体何が起こるというんだ。」
「言っただろ、グレース。革命だよ。」
「アーサー。」
「あーそうだそうだ、グレース。言い忘れてたが、あいつ、あのお客さんはもうフィッシャーキングに渡してもかまわないぜ。聞けることは全部聞いたし、それにサヴァン隊長にはこれから協力してもらうんだから、こっちからも誠意ってものを見せねぇとな……台風の前の日におっ建てた、ベニヤ板の書き割りの誠意だったとしても、台風が吹くのは俺たちのせいじゃねぇし。」
「パウタウというスペキエースのことか?」
「そうだ。」
「アーサー、こんな状況なんだ。もう少し分かりやすく言ってくれ。台風とは何だ? これから何が起こるんだ?」
「そんなイライラすんなよ、わーったって。ここから先はあくまで俺の勘だからな、話半分で聞いてくれよ? たぶん、ホワイトローズ・ギャングは……少なくとも明日までに、総攻撃を仕掛けてくるはずだ。」
アーサーは、何でもない事、明日のピクニックの予定でも話すような口調でそう言った。ガレスの目の色が、鼈甲縁の眼鏡のグラス、その奥で、珍しく感情をあらわにしたように変わったにもかかわらず、アーサーはそんなことを全く気にも留めないで。
「文字通りの総攻撃になるはずだ、革命の前借みたいなもんさ、ホワイトローズが使える者は、鬼だろうが人だろうが狼だろうが、全て動員してくるだろうな。」
「なぜだ、何のために? それは、行動を起こすには速すぎるはずだ、まだLの封印は解かれていないんだろう?」
「そう、そこが問題なのさ。まだLの封印が解かれていない、それなのに、俺たちが、あのパウタウってやつをひっ捕まえちまった……何の関係があるんだ? って顔してんな、グレース。大いに関係があるんだよ、Lの封印には特殊な装置が使われている、その装置は……信じるか信じないかはお前の勝手だがな、グレース、その装置は、神々の技術よりも遥かに進んだ技術によって作られているそうだ。だから、例え鍵、始祖の血を持っていたとしても、その技術について何ほどかの知識があって、装置を操作できなければ、鍵穴さえも見つけることができない、らしい。そして、その装置を操作できる特別な知識、能力を持った、スペキエース、テレサイバーってのが……こっから先は言わなくても分かるよな?」
「あのパウタウというスペキエースを脱獄させるために……」
「ああ、その通りだよ。アメージング・グレース。あのお客さんを脱獄させるために、ホワイトローズどもは総攻撃を仕掛けてくるはずだ。あいつがいなければ、計画は完全に潰れるからな。」
ガレスは手のひらと手のひらを、祈るような形で顔の前で合わせた。そして、その額を親指の付け根につけて、顔を俯ける。息を強く吸い込んで、そして弱々しく吐き出す。アーサーは、そんなガレスのことを見るとも見ないともなく、ふと耳を澄ませてみた。そうだ、このビルの外側では、雨が降っているのだった。その雨の音は、激しくなることも弱くなることもなく、ただ惰性を概念の内側で引きずっているかのように、建物の外壁を偏執的に叩き続けている。
ガレスの後ろ。
その窓の外の光景。
雨か。
好きじゃない。
嫌いでもないが。
口を開く。
「だが、さすがに総攻撃ともなれば兵隊を集めるにもそれなりの時間がかかるはずだ。そのうちに、こちらも準備を済ませておけばいい。」
「準備とは、ヴィレッジに対してあのパウタウという男を押し付けるということか?」
「あーそうだな、だがちょっと待て、押し付けるって言い方は良くないぞ? グレース、確かにうちの懺悔室もそこそこ頑丈だが、それでもホワイトローズどもの脱獄大作戦に耐えられるほどじゃねぇだろ? だから、もっと安全な場所へ移送してもらうんだよ、モハーベ・デザートとかな。」
安全な場所、という言い方も少しおかしい気がする。パウタウという、あの男にとっての安全な場所、という意味で使用しているわけではなく、あのパウタウという男を確実に拘束しておくことで、こちらに安全性が担保されうる、ということ。安全な場所? 例えば、この部屋が、空から降る雨に対して安全であるかのように、安全な場所。その断続的な歯が、外殻に歯を立てつづける音、がりがり、がりがりがりがり、少しずつ、少しずつ、その雨はビルを形づくるコンクリートやガラス、レンガを浸食していく。いつかは……いつかは雨も、ここまで到達することがあるだろう。アーサーがそう言えば、人間たちは笑って言うに違いない、それには永遠に近い時間がかかるだろう、と。しかしノスフェラトゥは知っている、永遠と比べれば、雨がビルの全てを噛み砕き、飲み込んで流してしまうまでの時間など、指の間から流れ落ちる砂粒にしかすぎないということを。そんなことを考えながら、アーサーは夢を見ているように言葉を続ける。
「それに、もちろん「被疑者をより厳重な拘束センターへ移送」することも大事だが、もっと重要なことがある。奴らの手元にパウタウがいないうちに、奴らが鍵穴を探せないうちに、残り二つの封印がある場所を封鎖することだ。誰も近づけないようにする、近づいた奴は誰であれとっ捕まえられるようにする。割ける限りの人員を配置して、夜警官であろうと、ヴィレッジ隊員の皆さんであろうとも。そのために、サヴァン隊長の全面的な協力が必要なのさ。俺の言った協力っていうのは、つまりそういうことだ。」
ガレスは、俯いていた顔を上げる。
祈りのような形の手は、その形のままに。
テーブルに静かに置かれる。
ガラス越しのガレスの目は弱くアーサーを貫く。
アーサーはその目に返すようにため息をつく。
「君は、アーサー、その封印の正確な位置を知ってるのか?」
「ああ、お客さんに教わってな。二つとも知ってるぜ。」
「どこにある。」
「今までと同じだよ。グールタウン、土蜂の巣の底さ。」
「ハニカムか?」
「そうだ。」
ふと、気がついたようだった。ガレスは、アーサーがどこか心ここにあらずな様子であることに、アーサーの視線が、どこか他の所を見ていることに。視線の先を見定めるようにして、じっとアーサーの目を覗き込む。アーサーは、この部屋に入ってきたからずっと、阿呆のようにへらへらと笑っていて、それだけだ。
「言っただろ、グレース? グールの連中は全部承知の上だって。あいつらがホワイトローズと手を組んで、今度のことを起こしたんだよ。」
「彼の鬼らも、やはりアップルに対して戦争を仕掛けようとしているのか?」
「いや、そういうわけじゃない。そういうわけじゃないが……ちょっと複雑な話でな。グールたちとホワイトローズの目的は、少し違ってる、お客さんもその辺に関しては良く知らないらしい。とにかく、グールはLの封印を解くことを望んでいる、それは、グールにとって何よりも優先される目的だ、たとえグールという種が潰えようとも。」
視線の先を見定める。
ガレスの背の側。
窓の奥。
アーサーが見ている。
音が聞こえる。
そうだ、今日は。
雨が降っている。
「君は、ハニカムにヴィレッジを送り込もうというのか?」
「いや? 俺個人としてはそんなクソ面倒なことをしたいとは思わないな。明日の朝一で屍食鬼公社に話を通して、アホほどあるNG越境関係の書類を全て埋めて提出し、答えを返してくるはずもないグール共に白々しく回答を要求し、思った通り回答が返ってこないことを確認してから、更に緊急時のもろもろの手続きをして、エトセトラ、エトセトラ。うんざりするくらい仕事が増えるぜ、俺は基本的に仕事を増やしたくないタイプなんだよ、お前も知ってる通りな。ただ……ただ残念なことに、それはたぶん必要なことだろうな、もしもなすべきことをなすべきだというのならば。そうは思わないか?」
そうだ、今日は雨が降っている。冬は過ぎて、今は二月、夜はまだ少し寒さは残っているが、そろそろ春にふさわしい服装に目が慣れてくる季節。雨は、春の象徴だ、暖かくなり、雪が溶け、特に世界が白く閉ざされるほど、厳しい冬の季節を知っている、ブラッドフィールドの人間にとっては。けれど、それでも……ブラッドフィールドの雨は、涙の色によく似ている。それは、何かの不幸の前触れだ、暗く閉ざされた空と、服を濡らす冷たさで構成された、精神を掻き抱くための、憂鬱の長い腕。
ガレスはゆっくりと口を開く。
そして、苦しそうに言葉を吐き出す。
「そうだな。その通りだ、アーサー。」
「分かってくれて嬉しいよ、グレース。」
ほっと、アーサーが軽く息をつく。
場を和らげようとでもするように。
窓の外、雨の街から目を離して。
ガレスの方にまた目を向ける。
「よし、俺の報告はこれでおしまいだぜ。とりあえず、今のところは、な。お前から何か質問とか、付け加えることはあるか?」
「いや、特にはない。」
「そうか、良いことだよ。」
「これから私は、エトワール支局長と電話で再度の話し合いを行おうと思う。今後の協力体制について、つまり被疑者の移送と、ハニカムへのヴィレッジ隊員配置について。その話がまとまり次第、屍食鬼公社に対してハニカムへの越境手続きを行う。だから君には、それまでに封印の場所に関して、詳細な位置関係を図示しておいてほしい。」
「かしこまりましたー。」
「頼む。」
「はいよ。」
道化たような口調でそう言うと、アーサーは右の手にドーナツの箱をぶら下げてソファーから立ち上がった。くるっと右足の踵を足の下に留めて、体をガレスの方から、この部屋を出る扉の方へと軽い冗談のように一回転させる。その時に。
その時に、アーサーの目に、壁に止められた一つの額縁が目に入ってきた。特に華美なものではない、どちらかというと、質実、磨き抜かれてニスが塗られた木でできた、飾り一つない単純な長方形。しかし、それはこの部屋の中で……ガレスに与えられたこの部屋の中で、唯一の装飾品だった。その額縁の中には、一枚の記事が入っている。紙は変色し、インクは霞んだような、古い古い、一枚の記事。まだ……まだNHOEがノーハンズ・オンリーアイと呼ばれる前、ブラッドフィールドの人間達がその死神の影に、まだ名前をつける前、後々になって、NHOEが最初に起こしたとされた、ある殺人事件の記事だった。切り離される前、まだ新聞の紙面上で他の記事と一緒だった時には、ほとんど目立たなかっただろう小さな記事。「コーシャー・カフェの構成員/謎のヴィジランテに殺さる?」と見出しをつけられた、誰もその死を気にすることもないであろうギャングの下っ端の、惨殺事件。
その記事はまるで。
トラヴィール異教徒に差し出される踏み絵。
この部屋で唯一、感情の断片が見られるもの。
アーサーは知っている、その感情は……
「グレース。」
「何だ、アーサー。」
「聞かないのか?」
アーサーは、頭だけでガレスの方に振り返る。ガレスは、自分の座った椅子を回して、体の半分を後ろの方に向けていた。片方の肘をデスクの上に乗せて、もう片方の手のひらを拳にして、膝の上に置いて。そして、窓の外を見ていた。春の雨が降りしきる、窓の外の世界を。
答えはない。
アーサーは続ける。
「俺とメアリーを救ったのは誰なのか。ライカーンの死体の山を築いたのは誰なのか。目撃証言の中の、黒い影はいったい誰なのか。」
「今は。」
ガレスは振り向きもせずに口を開く。
アーサーには、その固く締まった肩が
本当にわずかに震えたように見えた。
「今はその件については、関わっている時間はない。」
「なるほどな、アメージング・グレース。」
しかし、恐らく、それは。
いつものように、気のせいだろう。




