#23 忘れられた少女のまどろみの歌
それは歌だった。
しかし勘違いしないで欲しい。それは決して地上の音楽ではない、あるいは天井の音楽でも。それは調和された理性による存在の賛美とはかけ離れている。それは肉でできたフルートが歌う歌。単調で甲高く、決してまじりあう幾つも幾つもの不協和音。時折、苔の生えた舌の先が、死皮のこびりついた上顎に擦れる様な音が混じる。それは無秩序に組み上げられた騒音であり、単純さによって破られた静寂に過ぎない。
しかし、それは確かに歌だった。
神々に捧げられるための歌。
グール達の神である、蛇たちに。
ダレット・セルに広がった墓地の中、裏切者のケレイズィの墓地、に、その歌は響いていた。ばらばらと崩れた世界の欠片のようにして、延々と突き刺すような光を闇の中に放ち続ける、今ではその本当の用途さえも忘れられてしまった、モニター画面のような仮の墓石の上、はるかかなたの昔にその主さえも失った忘却の戦争廃棄物の上、その全ての上に……その歌は響いていた。その全ての上に、「蛇たちを起こす歌の歌い手」(グールの言葉を仮に意訳した言葉で正確な名前ではない)達が蹲り、そしてグールの心の中に住まう神を目覚めさせるための歌を歌っていたのだ、グールの祈りの姿勢、薄汚い獣の爪の生えた指を組み合わせて、その親指の付け根を額に当てる、額の奥にいる神と話すための器官をより深く感じるために作り出されたその祈りの姿勢をとって、彼らがその口で歌うべき歌を歌っていたのだ。プラスチックと金属でできたからくり仕掛けの虫たちは、その歌に耳を傾けるかのように、あるいはただ単純に発条が切れたかのようにして、全てが全てその動きを止めて、その場にじっととどまっている。わずかに体の中の光を、モニターの光と同期させているだけで。
ダレットセルには、四人のノスフェラトゥと一匹のライカーン、それから言うまでもなく無数のグールが蠢いていた。これは非常におかしなことだ、(ライカーンはともかくとして)グールとノスフェラトゥはまさに「空の鬼と地の鬼のごとく」敵対しあう関係であり、その崩れかけた城壁の上を駆ける足の骨の折れた伝令のように危ういバランスは、かろうじて協定によって保たれているにすぎないのだから。普通のノスフェラトゥはダレット・セルに入るどころか、ハニカムに足を踏み入れることさえもしない、協定がある限り、別にグールに不快な感情を抱くことはないのであるが(ノスフェラトゥの感情は徹底的に戦闘のために特化された道具に過ぎないから生理的嫌悪感の様なものは存在しない)、わざわざ争いの種を植える穴を己の爪先で穿つようなことをする必要性もないために。
しかし、ここにいるノスフェラトゥは。
普通のノスフェラトゥではない。
己の不完全さのせいで追放され。
今、それゆえに革命を起こそうとする。
白い薔薇を身に着けた鬼。
「いつ来てもうるせぇな。」
「仕方ないんですよ、ハッピートリガー。彼の鬼たちは蛇たちに命令されないと何もできないんですから。もちろん、蛇たちなんてとっくにみんな死んでしまって、もう彼の鬼らの心の中にしかいないんですけどね。」
「解ってるよ、でもうるせぇもんはうるせぇだろ。」
「まあ、それは否定しないですけど。」
パイプドリームはそう言うと軽く肩をすくめて見せた。グールの王台の前に広がった、ダレット列聖者のための謁見の場のような場所に、彼ら、四人のノスフェラトゥと一匹のライカーンはいた。パイプドリームは胡坐をかいて地面の上に座り込み、その膝の上に、まるで甘える猫のようにして頭を乗せているのがヴァイオリンだ。両の手であやすように体を愛撫して、その度にヴァイオリンは「続き、が、欲しい、です」だの「心地、良い、です」だのと、言葉を鳴き声のようにして漏らす。ヴァイオリンはなぜか知らないがパイプドリームだけには懐いているのだ。床の上に寝そべった姿は、戦闘の時の張りつめた姿が見る影もなく、だらしなく弛緩しきっている。
その横で、キューカンバーが少し居心地悪そうに突っ立っている、純種のノスフェラトゥに突っ立っているという単語を適用できるのは珍しいことだ、普通はただ、特殊な金属で鋳だされた彫像のように、身動きもせずその場に佇むという表現のほうがふさわしい。しかし、キューカンバーは確かに突っ立っていた。確かに、もし純種のノスフェラトゥが人間のように制御できない感情を持っていたとすれば、グールに囲まれてグールの巣の中にいる圧迫感は、非常に居心地の悪いものとして感じられるだろう、そしてキューカンバーは出来損ないで、人間のように制御できない感情を持っている。だから、居心地悪く突っ立っているのだ。キューカンバーは少し足を広げて、背で手を組み、そしてたまに足の位置を若干ずらす、もちろんノスフェラトゥは永遠に一つの姿勢を保ち続けても何の痛痒も感じないため、この行為は居心地の悪さをほんの少し軽減させる意味しか持たない。
彼ら三人の少し前には、ハッピートリガーがいる、そばに忠実な犬のようなグレイを控えさせていて(人の姿をしていてもグレイは実質は忠実な狼なのでこの例えは事実に非常に近い)、イライラとしたように行ったり来たりを繰り返し、その場でうろついている。暫くそうやって、自分の足元に目を向けたままうろついていたが、やがてふと気がついたようにしてその目を上げる。
王台。
蛇たちの骨で組み上げられた。
グールの高き所。
その目の前には、グール達が立っていた。何も知らない人間が見ても、他のグール達とは大して違わないように見えるだろう、せいぜい他のグール達よりも、体の大きさが一回りか二回り大きく、そして体表にむした苔が少しだけ厚いように思われるくらいで。しかし、もしもその見るものが、そのグール達が着る巻服に描かれた絵を、文字を読み解くだけの力を持っていれば……それらのグール達が、皆が皆ダレット列聖者であることを知っただろう。しかもグールの社会構造について少し突っ込んだ知識を有していれば、そこに二人を除く全てのダレット列聖者が立っていることも解るだろう。その場に立っているのが十五人で、ダレット列聖者の数は、常に十七匹と決まっているからだ。グールたちにとって最も聖なる数字、この数字はトラヴィール教会でも聖なる数字とされているが、その奇妙な一致の理由に関しては慈悲深いヨグ=ソトホースに対する不敬となるため、何者にも知られることはない。
しかし、ハッピーが見上げたのは。
ダレット列聖者ではなく。
赤い、赤い、王台の、更に上。
固定され、閉鎖された。
「概念」の球体の方。
王台の上、五つの鉤爪によってその場所にとどめられた、世界より喪失された色の球形、透明でさえないその感覚の、ハッピートリガーに目を向けられたそれの、今の姿は、アーサーとメアリーが目にした一昨日の夜の葬儀の時間帯よりも、少しだけ違った姿をしているように見えた。現実ではないベクトルへと、似せ物でありまがい物であり、物質世界の下手な模倣をしているようなその方向へ、静かに回転を続ける曲線と角度と直線の構成は、その密度を……失っているように……動脈からの喪血……穿たれた穴から流れ落ちていったスナイシャク……そぎ落とされた肉のかたまり……アスペクト……堕落したアスペクト……食いちぎられる魂……そういった事態の表象と何処か似てはいるが、似ているというだけで決定的に違ったその球体の失われは、そうであっても確かに失われではあった。もしも、もしも仮にその球体が檻だとすれば? 何か、現実ではない何かを閉じ込めるための、似せ物で、まがい物で、作られた檻だったとすれば? その檻の鍵は……その檻の扉は……もしかしたら開かれ始めているのかもしれなかった……
そして、仮に檻と呼ぶとすれば。
檻の内側に囚われたもの。
その、何かに向かって。
ハッピートリガーは。
吐き捨てるようにして口を開く。
「お前らが、楊春杏の介入を、許した。」
王台の下では、十五人のダレット列聖者たちがその体を、海の底で揺らめくラゼノクラゲのようにして揺らしている。「蛇たちを起こす歌の歌い手」たちの歌に合わせて、その体々が揺れるたびに、身にまとった巻服が地の底に擦れて、ずぅ、ずぅ、と蛆虫が這いまわるような音を立てた。一種のトランス状態に入っているのだ、蛇たちと繋がるための、グールのトランス。グールの脳には、蛇たちと話すための器官がある。しかし正確にはその器官は、もう遥か昔に、既に蛇たちと話す器官ではなくなっていて、蛇たちの幻のようなものをグールの脳内に作り出し、それを投影する器官となってしまっている。その幻が、グールになすべきこと、欲望、そういったものを指示する、人間でいえば、意識のようなものだった。グールには(ピックマン階級を除いて)個人的な意識といったものは存在しない、ただ蛇たちの元にまとめられている、女王を中心としてその行動をなす、蜂や蟻といった、昆虫のようにして。そして、今、ここにいるグール達は地の底に響く死骸のような音楽に身をゆだねて、一体化して神の幻を見ているというわけだった。
特に重要な意思決定の時に。
グール達は、このような儀式を行う。
より深く、蛇たちの御姿と繋がるために。
普通ならば、己が身の内の神に問いかけるだけだ。
しかし、今は普通の状況ではない。
それはともかくとして、つまり、グールは己の作り出したアバターに過ぎない幻の神を中心に、その行動の指針を決定している。だから本来であれば彼の鬼らに直接言葉をかけても無駄なのだ。彼の鬼ら自身には意識がない、個人というものは存在しない、こちらが当該のグールに話しかけていると考えていても、実際のところはそうではなく、当該グールの存在に投影された、蛇たちに話しかけていることになっている、少なくとも、グール達にとってはそういうことだ。だから、ハッピートリガーは無駄なことをしない、グールに、ダレット列聖者に、話しかける様な愚かな真似はしない。その代り、直接に、彼の鬼らの神(蛇たちは消えてしまった)に話しかける。
少なくとも。
彼の鬼らが。
神と認識してきたものに。
「これは、お前らが、招いた、事態だ。」
一言一言を区切るようにして、はっきりとハッピートリガーは言葉を紡いでは、球体に投げつけるようにして捨てていく。地べたに座り込んだままのパイプドリームが、何か口を挟もうとしたが、ふと、ハッピートリガーの精神が自分の内側に流れ込んできたために、その口をつぐんだ。今は何も言わない方がいい、あの炎がこちらにまで飛び火して来たらとてもかなわない。更にして、ハッピートリガーは言葉を続ける。
「俺にお前らの言い訳を聞く気はない、別の観点での現実なんて話にはもううんざりしてんだよ。腐った林檎の蛆虫どもを追い詰め過ぎたのは軽率だった。しかも、その理由はお前らの責任逃れのせいだ。それ以外にどんな理由もない。ただ、お前らがこの件に関わっていないと主張したいがためだけに、お前らは何も知らないふりをして抗議し、白々しく内戦をちらつかせた。それだけじゃない、お前らは楊春杏の介入を阻止しようともしなかった。あの女がどんな存在か知っていながら。あの女が今回の計画にどれほどの障害になるかということを知っていながら。」
ハッピートリガーはそう言うと、まるで人間のチンピラのように唾を吐き捨てた。神聖性を汚す仕草、相手を貶めるための仕草として、自分の思考の中にインプットしていたのだ。そして確かにそれは神聖性を汚す仕草、相手を貶めるための仕草だった。パイプドリームは眉をひそめた。そんなことはしない方がいいのに。しかし、やはり口を挟むような愚かな真似はしなかった。
「そのせいで、パウタウをあいつらに奪われた。」
ヴァイオリンが、そのハッピートリガーの言葉に合わせるようなタイミングで、笑った。音も立てず声も立てず、ただ闇の中に消えていくような、ノスフェラトゥの笑みで笑った。その口の先が、ふっと揺らめいてパイプドリームの指先に歯を立てる。パイプドリームは、少し痛そうに顔をしかめる。
「だから、この件は、お前らが責任を取れ。」
蛇たちは答えることができない。
蛇たちはその姿を消してしまったからだ。
また、神も答えることができない。
神は、眠っているからだ。
今は、まだ。
だから、その代わりに、ダレット列聖者たちが答える。その頭蓋骨の中に存在する、偽りの、似せ物の、自分たちの思考が作り出し、映し出した、仮の蛇たちの投影物の言葉を、代わりにその口が言葉するのだ。地の底のフルートと、それから這いずり回る虫のような声が、六つの音階、空の虹の六色と同じ数の音階を重ね合わせる。十五の口が、かわるがわるその音を乗せていく、ある時は幾つかの口が同時に開き、ある時はただ一つの口が開き。それは例えば、何かの合唱のように聞こえないこともない……しかし、決して調和することのない合唱、破れた太鼓を叩くような、無秩序な喧噪ではあったが。
その言葉は、こう言っていた。
お前は、一体、何を、求めるのか?
ハッピートリガーは口の端を曲げて。
不愉快そうな笑みを見せる。
「お前らの兵隊を地上に送り出せ、全部だ。」
そう言って、何もない空間に腰掛けた。正確には、空間に微存するゼティウスの波動を操って、その何もない空間の中に腰掛けられるような形象を作り出し、それに座ったのだった。それを見て、またパイプドリームは眉をひそめた。全くの力の無駄遣いだ、始祖家のノスフェラトゥであるハッピートリガーにとっては何ほどのことでもないにせよ。ハッピートリガーは、その上で膝を組んで話を続ける。
「少し計画を早めるってことだ。Lを復活させる前に、グールとノスフェラトゥの衝突を起こす。そして、その混乱に乗じてパウタウを取り戻す。つまりそういうことだ。安心しろ、パウタウが戻ってきたらすぐにLを起こしてやるよ、そうしたら、計画通りに革命を起こせばいい。俺の言ってること、分かるよな?」
ダレット列聖者たちはまた歌う。
この歌は次のような意味だ。
少し待て、蛇たちの答えがあるまで。
「俺の我慢が続くまでに答えを出せ。」
脅しかけるように、ハッピートリガーは言った。一方で、その後ろに控えていたキューカンバーは、ハッピートリガーのその言葉を聞いて不愉快そうに奥の歯を噛んだ。ハッピートリガーの放つ感情の波動のせいだ、あまりに大げさで芝居がかりすぎている、まるで壊れかけのレコードプレイヤーが、針の先で金切り声を上げているみたいだ。それに、わざとらしすぎる。
ハッピートリガーは振り返る。
歯を噛みしめる音を耳ざとく聞きつけて。
キューカンバーの方を。
そして、睨み付ける様な口調で言う。
「なんだよ、キューカンバー。なんか文句あんのか?」
「知らない。」
少し唐突な感じで、キューカンバーはそう言った。ハッピートリガーの問いかけには、あまり似つかわしくなセリフだ。しかし、会話の跳躍はノスフェラトゥにはよくあることであり、ハッピートリガーは特にそれを気にもせず、吸痕牙を見せつけるように口を開きながら、キューカンバーに問いかける。
「何を。」
「計画。」
キューカンバーは背の後ろで組んでいた手をほどいて、体の前に持ってきた。片方の手は人差し指を伸ばして、何かを指さすような形にして、そしてもう片方の手は開いたまま、手のひらを見せるように差し出した。特に意味のないポーズだったが、とにかく自分の姿勢を変えたかったらしい。そして、言葉を続ける。
「ハッピートリガー以外には、計画の全てを、知らない。それは、計画と呼べるのか? いきあたりばったりに見える。パイプドリームも、同意見だ。ヴァイオリンのことは知らない。Lがあれば革命を起こせるという。あの林檎を踏みつぶせると。生存に有利な状況を作り出せると。しかし、Lとは何だ? グールにとっての神が、役に立つのか?」
その問いにすぐに答えずに。
ハッピートリガーは牙を見せたままで。
パイプドリームの方を振り返った。
「パイプドリームどうなんだ、キューカンバーはお前も同意見だっつってるが。」
「まあ、俺も少し不安なのは事実ですよ。」
そういうとパイプドリームは言い訳でもするかのように肩を竦めた。それを聞いて、ハッピートリガーは忌々し気に舌打ちをする。それから、少し考える様な素振りをする。実際は考えるような素振りをする必要などないのではあったが、とにかく考えるような素振りをする。ふと顔を上げて、グレイの方に目を向ける。
「グレイ。」
「何だ。」
「いや、何でもない。」
ゼティウスの微細な流出で作った椅子の上で体を軽く回転させて、体を他の三鬼のノスフェラトゥの方に向ける。まだ、少し時間はあるだろう、グールたちが要求に対する回答を出して来るまでには。少なくとも、Lのことを話すくらいの時間は。俺は、あいつ等とは違う、アップルにいる連中とは違う。何もかもを、論理と理性に従って動かす、機械仕掛けの碾臼のような連中とは違う。求められれば答えよう。だから、ハッピートリガーは思考によってではなく、言葉によって、その話を、Lについての話を始める。
「お前らも知ってると思うが、トラヴィール教会には五人の選神枢機卿がいる。奇跡者、偶像者、殺戮者、扇動者、預言者、その五人がそれぞれトラヴィール教会の正統五派を率いていて、正統の教義を定めている。教会の持つ全てを牛耳ってんのはこの五人だ。九年前のある日、そのうちの一人、預言者が教会を裏切った。そいつがなぜ教会を裏切ったのか、目的は一体何だったのかを俺は知らない、しかしそいつが具体的に何をしたのかは知っている。そいつは……」
蛇を起こす者たちは、まるで……例えば伴奏をしているかのようだった、ハッピートリガーの言葉の後ろで、あるいはその内部で、まるで液体の中に浮かぶ、魚の死体のようにして、グール達は歌っていた。グール達は、知っているからだ……ハッピートリガーの言葉が、何を意味しているのか、何を意味し始めているのかを。それが、ハッピートリガーにはことのほか気に食わない、ハッピートリガーは全てを知っているわけではない。ちらり、と視線を王台の方に向ける。
「ある兵器の封印を解いた。」
王台は、相も変わらず。
この世界の存在には理解できない方向。
静かに回転を続けている。
「その兵器は、あまりにも強力だったせいで、教会の連中が五つの部分にわけてこの世界のあらゆる場所に封印していたものだった。世界っつってもこの星だけじゃねぇぜ、本当にあらゆる場所だった、一つは月光国、一つはヌミノーゼ・ディメンション、一つはナコタス、一つはドリームランド、一つはリリヒアント第一階層。そいつは、そいつはっつーのは預言者はってことだが、とにかくその全ての封印を解いて、兵器をもともとの存在、一つの存在にまとめ上げた。そして、この世界の全てを滅ぼしかけた。その時は教会の連中だけじゃなくディアフレンズだのイス・ディバイダーズだの、神々まで出張って来てその兵器をもう一度封印して、何とか無事に収めたみてぇだけどな。」
王台から目をそらす。
また、三鬼に向ける。
思考の波動を読まなくても分かる。
そのうちの一鬼が何も考えていないことと。
そのうちの二鬼が何を考えているか、が。
「全部取っ払って言えばそれは、その兵器の所有者の考える通りに世界の法則を変更させることができる存在らしい。何の制限もなく、思い通りにこの世界を変えることができる、そういった代物だ。お前たちは俺にこう聞きたいんだろ? そんな大事件が起こっていたなら、なぜ俺たちがそれを知らないのか。答えは簡単だ、その時にそれを解決した連中が、その兵器の力を使って、事件そのものをなかったことにしたんだよ。俺達の記憶から、事件の存在を洗い去った。当然だよな、そんな兵器の存在を世界中の人間が知ってたら、いつか不都合なことが起きる、例えば馬鹿な連中がその兵器を使って……その封印を解いて、革命を起こそうとしたりな。つまり、そういうことだ。」
そこで一度言葉を切る。
その先は、言う必要もない。
しかし、また口を開く。
そして、自明の事実を言葉にする。
まるで、人間のように。
「その兵器がLだ。」
その言葉に合わせるようにして、グール達はまるで、笑い声のような音を出した、もちろんそれは、人間の笑い声には似ても似つかないものだった、その笑い声は、危険から逃れられたことを仲間のうちに知らせるための良い感じのアラームを根源とした笑い声ではなかった。もっと、もっと何か不祥な、悪い感じの疑いに似たもの。
キューカンバーがその声を聞いて。
忌まわし気にため息をついた。
それから、ハッピートリガーに顔を向けて。
問いかけるように口を開く。
「その一部が、あれに、封印されてるのか?」
「一部じゃない、全部だ。」
「全部?」
「ああ。」
「おかしい。一点目、なぜ全部が? 五つに分かれた一部ではないのか? 二点目、なぜ、ブラッドフィールドに? フェト・アザレマカシアに、封印すべきでは?」
「一点目に対する回答、そもそもその兵器は……その兵器自体で何らかの意思を持っている物らしい。自己破壊を強制することはできなかった、かといってその事件を解決した連中に、その兵器を五つに引き裂くだけの力もなかった。だから、丸ごと封印するしかなかったのさ。二点目に対する回答、装置の問題だ、封印できる装置を作れるのがこの場所しかなかったんだよ、入り組んだ結界を構成する赤イヴェール合金と、それからグールの夢による封印、それを作れるのは、ブラッドフィールドの、巨大なハニカムの中だけだった、それだけの理由さ。フェト・アザレマカシアならもしかして封印できたかもしれないが……そんな物騒なものは、主もお断りだったんだろうよ。」
そのハッピートリガーの言葉に、今度はパイプドリームが反応した。少し身動きをすると、胡坐をかいた膝の上のヴァイオリンが抗議をするように思考の波動を精神に送り込んでくる。それを軽く受け流しながら、ハッピートリガーに向かって質問する。
「今、その兵器が何らかの意思を持っていると言いましたよね。」
「ああ、言ったよ。」
「それは……危険ではないのですか? 世界を変えるほどの力を持つ何かに意思があったとしたら、俺達みたいな存在の言うことを聞くとは思えないんですが。えーと、つまり俺達みたいな有限な存在のって意味です。」
「それは大丈夫だ。」
そう言うと、ハッピートリガーは襤褸布を継いで接いだようなスーツの胸ポケットに手を突っ込む、暫く何かを探っているようなしぐさをして、そこから引き抜いた手の中には……ティンダロス十字のロザリオが握られていた。しかし、そのロザリオは普通のロザリオとは少し違っていた。普通のロザリオならば、聖なるヨグ=ソトホースを表す銀の色をしているはずだ、しかしそのロザリオは……穢れの赤。この世界を、穢した赤の色。淡く、その中で別の世界の存在が蠢いているような、深い深い赤の色をしていた。
そのロザリオを。
見せつけるように掲げる。
「なんです、それ?」
「預言者が使っていたロザリオ。」
「預言者が?」
「ああ。」
「だからどうしたっていうんです?」
「つまりだな、これは預言者がLを操作するのに使っていたロザリオなんだよ。Lは元々が、兵器として作られたもんだ。兵器なのにこっちの都合で動かなかったら意味がねぇだろ? だから、その兵器を動かすためのコントローラーがあるんだよ。それが、これだ。簡単に言えば、Lはこれを持つ者の意思に従って動く。まあ、さっきも言ったように自分を殺せだとか、そういった命令以外はっていう意味だがな、しかしそれで十分だろ? 俺達はLを利用しようってんであって、殺そうってわけじゃねぇんだからな。」
ハッピートリガーの回答に対して、パイプドリームは呟くように「なるほどね」とだけ口にすると、それ以上は追及することはしなかった、例えばそれをどこから手に入れたのか、ということや、それで本当にLが操作できるのか、ということは。前者の質問については、そのコントローラーが実際にハッピートリガーの手の中にある以上は、自分の好奇心を満たす以外の意味はないほぼ無意味な質問であったし、後者については、そのティンダロス十字の持つ……何か、特有な、普通の物質でもない、かといってフェト・アザレマカシアの存在であるとも思えない、そんな色をした赤を見れば、それで十分回答を得られたと思ったからだ。
それを、見たことがなかった。
いや、一度見たことがあったかもしれない。
いつのことだったろう。
その色を、けれど、赤い色ではなかった。
もっと、何か違う色をしていて……
「つまり、計画は大ざっぱに言えばこういうことだ。」
何かを考えようとしていたパイプドリームの思考を破って、ハッピートリガーが口を開いた。キューカンバーの方を睨んでいるようだった、キューカンバーはというと、特にその視線に対して反応することもなく、ただじっと見返していただけだった。
「グール集めた兵隊どもを地上に放って、俺達の配下のチンピラどもと一緒にひと暴れさせる。ブラッドフィールド中に一時的な混乱が起こって、その鎮圧に夜警官どもと、ヴィレッジの連中は鎮圧に忙殺されるだろう。その間に俺達でパウタウを奪い返し……パウタウがいねぇとあの装置にアクセスができないからだ……そしてその後で一気に残り二つの封印を解く。そうすれば、俺たちの手にLが手に入る、世界を自由気ままにかえるだけの力だ。その後はゆっくりと目的を果たせばいい、俺達にとって、捨てられたノスフェラトゥとライカーン、それにスピーキーにとって都合の良い世界にする、ノスフェラトゥの言い回しで言えば、生存に適した環境に変えるってことだ、俺達を捨てた連中に復讐をした後でな。」
そう言って、ハッピートリガーは、いつものように口の形を歪めて笑った。他人を馬鹿にして、軽蔑して、貶めるような嘲笑で。ノスフェラトゥの笑顔からは最も遠い笑顔、その為に、人からその笑顔を学んで以来、ハッピートリガーが最も好んでいる笑顔。キューカンバーは、その顔を見て、少し苛ついたように眉根に皺を寄せたが、特にコメントをすることはしなかった。その反応に満足したように、そして更にパイプドリームとヴァイオリンにもおざなりに視線を向けた後で、ハッピートリガーは、ゼティウスの椅子から立ち上がった。そして、両腕を体の前で指し出すように開いてから、更に言葉を続ける。
「それで? 他に質問はあるか。」
キューカンバーは、黙ったまま首を横に振る。
パイプドリームは「いえ、特には」と言う。
それから、考え直したように言いなおす。
「ああ、すみません一点だけ。」
「何だ。」
ちっと、不愉快そうに舌打ちをしながらハッピートリガーが問いかけた。その反応に対しては特に何も反応を反すこともなく、パイプドリームは自分の疑問に思っていることを口にする。
「グール達はそれでいいんですか?」
「は?」
「つまり、Lは……彼の鬼らにとっては神なんでしょう? 彼の鬼らはそれでいいんですか? 俺達がLを、彼の鬼らの神を兵器として、道具として使うことに対して不快感を覚えないんですか? いくらアップルからこの国を奪い取るためとはいえ。」
「こいつらは……」
ハッピートリガーはぎっと奥の歯を噛み、吸痕牙をむき出しにしながら、右手を雑に振り回すようにして周囲にいるグールたちを指示した。グール達の歌は、蛇たちを起こす歌は、その時には恐らく最高潮に達していた。全ての口が、全ての獣の肉の笛が、単一の音を耳障りに叫びあげて、それらの全ての騒音が……まじりあわずに、不協和の喧騒を作り出している、それは地獄の音楽だ、天上の調和とは程遠い、地の底に繋がれた、壊れかけの楽器が鳴らす音。全ての口が、全ての口で……問いかけていた、地の底に繋がれた、偽りの神に、彼の鬼らが、グール達が、進むべき道を。
「それでいいんだよ。」
「というと? どういう意味です?」
「知らねぇよ、俺にグールの連中が考えてることが分かると思うか? とにかく、こいつらはそれで構わないらしい。こいつらは神が、つまりLがってことだが、封印から解き放たれれば、その後がどうなろうと知ったことじゃねぇそうだ。はっきりいえば、グールの連中はこの国にさえ興味はない、俺達の革命にも興味がないんだ、こいつらの興味はただ一つ、Lの封印が解かれるかどうか、それだけだ。だから、俺達がLの封印を解けばそれで構わないんだよ。」
そう言いながら、ハッピートリガーは「俺達の革命」という言葉を口にする時、またちらりとグレイに視線を向けた。グレイは……いつものように。金色がかった薄いブラウンの目で、忠実な飼い犬のような目でハッピートリガーを見返しただけだった。何か甘くて重いものを胸の奥のほうに隠したような顔をしたままで目を逸らし、ハッピートリガーはまたパイプドリームの方に視線を戻して言葉を続ける。
「分かったか?」
「理解はしてませんが納得はしましたよ。」
「ふん、じゃあ……俺の説明はこれで終わりだ、いいな?」
ふと、ハッピートリガーは口を止めた。
全ての音が、止まっていた。
静寂だった、グールたちは歌をやめていた。
地の底の歌を、死骸の中で紡がれる歌を。
どうやら、存在もしていない蛇たちは。
そのオラクルを、下したらしい。
ハッピートリガーは、吸痕牙をむき出して。
馬鹿にしたように、ダレット列聖者を振り返り。
不遜な態度で、こう、言葉を舌の上に乗せる。
「さて、蛇ども。お前らの答えを聞こうじゃねぇか。」




