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#22 ジェントル・オーファンズ・エンターテインメント

 既に夜は明け染めている時間のはずだった。

 しかし、あたりは濁ったように重い闇が垂れている。

 先ほどから降り始めた雨のせいだろう。

 ここからでも雨が、鉄の骨を体のうちに抱いたコンクリートを叩く音が聞こえる。雨は女々しく、執念深く、そして自閉症の子供のように偏執狂じみた規則正しさで叩き続ける、夜警公社ブラッドフィールド本社、公社ビルのことを。ぽつぽつと降り始めた雨は瞬く間に激しくなり、今では本降りになっていた。しかし、それは豪雨というわけではなかった。もっと、すっきりとしない、腐りかけた死体が生理的に流している、深い意味のない涙のような、そんな降り方の雨。

 ここからでも。

 地下一階。

 廊下に敷き詰められたリノリウムの上。まるでアンドロイドの腸壁のような踏み心地だ。アンドロイドの腸壁は踏んだことがなくても、少しでも知恵があり、そしてまたその知恵を巡らせるだけの精神的な余裕があればその二つがそっくりであることは容易に理解できるだろう。雨の音の蜿蜒と混じり合うように、自販機の声の蜿蜒が合唱する、不思議とそれは不協和音ではなかった、あまり愉快な音楽ではないことには変わりないが、とにかく不協和音ではない。きっと、どちらも同じように、ブラッドフィールドには実に相応しいBGMだからだろう。

 廊下の奥、一枚の扉。

 金のプレートのかかった扉。

 薄汚れた金、のプレート。

 「通常化班」、実用的な書体。

「どうしまして、アーサーさま? 入りませんの?」

 胸にドーナツの箱(十二個入り)を抱えたメアリーがきょとんとした顔で問いかける。人差し指でその扉、OUTへの入り口の扉の心臓のあたりを指さしたまま、アーサーはにへらっと笑いながらそれに答える。

「そりゃ、入らないで済むなら入りたくねぇだろ?」

「まあ、アーサー。そんな事をおっしゃってはいけませんわ。」

「はははっ、真面目だなぁお前は。」

 あるいは、いつものように、何もかもをあきらめたような半笑い。そう言うとアーサーは扉を開いた、目の前の扉、自分の家の扉よりも、より多くの回数を開いては閉じ、閉じては開きしてきたその扉。OUTの部屋は、その小所帯に比してみると、思ったよりも大きい部屋といってもいいくらいの広さの部屋だ。大会社の会議室くらいの大きさはあるだろう。入り口から入って見て、左右両方の横壁にはそれぞれ扉がついている、右に二つ、左に一つ。部署自体が四つの区画に分かれているからだ。右の手前の扉にはトイレのマークがついていて、そのとおりトイレだ、男女共用の。奥の扉には何のマークもついていないが、この全体的に疲れ切った部屋には少し不似合いな、その部分だけが他の場所から、例えばモハーベ・デザート能力者拘束センターから切り取ってきたかのように、頑丈そうな金属の扉だ。左の扉には「会議室」のプレート。

 入口入ってすぐの大部屋。

 ここがメインのオフィス。

 六つの机が並べられている。

 そして、そのうちの一つに女が座っている。

「よお、春聯。」

「アーサーサン、メアリーサン! おかえりなさいのことよ!」

「電話で聞いたぜ、随分とまあご活躍のことだったそうじゃねぇか。」

「至極光栄、実際悦楽! そう言ってくれるのはすごく嬉しいのことよ! でも残念ながら真実サンの息子サンは逃してしまったのことね……屈辱無念!」

 春聯はそう言うと、さも無念そうな顔をして手のひらで、ばんばんばんと机の上を叩いた。アーサーはその様に見やるともなしに目を向けながら、軽く肩をすくめて続ける。

「いや、マジで御手柄だと思うぜ。ちょっと表の通りを見てきてみろって、ヴィレッジの連中が昼飯にたかる蠅みてぇに群がってるぜ。サヴァン隊長がどれだけ悔しがってるか目に見える様だよ。あれじゃ市民様の交通の邪魔以外の何物でもねぇと思うが、まあ外交特権があるんだから文句も言えねぇわな。とにかくそういうこったよ、なあ、メアリー。」

「そうですわよ、楊さま! このタイミングでホワイトローズ・ギャングの中心メンバーを逮捕したなんて、すごいことですわよ! きっと表彰とかされちゃいますわ!」

「アイヤー、そんなに褒めないで欲しいアルよ二人とも、照れちゃうのことね! そうアルか? そうアルかね? 春杏頑張ったアルか?」

 アーサーとメアリーのお世辞(メアリーは本気で褒めているが)を聞いてあっという間に気を良くしたのか、春杏はぱっと顔を不満顔からえへえへ顔に変えて、照れてることを全身で表現するために、自分で自分を抱きしめるように気持ち悪く体をくねくねとさせながらそう言った。実際の話として……夜警公社支局ビルの前ではヴィレッジの隊員達が、まるで神墓を見守る兵馬の俑のように、あるいはビルが象徴する夜警公社組織に対してじっとりと圧力をかけるように、きっちりと整列したままで並び立っていた。彼らが何をしているのかというと、彼らは引き渡しを待っているのだ……春杏が今夜逮捕したあの男、ホワイトローズ・ギャングの中心メンバーの一人と目されている男、つまり、パウタウの。

 サヴァンの指示によってミスター・アザレ及びミズ・アネモネの部隊が三番地区に向かい、その場所を見つけた時には、既に遅すぎた、全てが終わった後だったのだ。それに、仮に全てが終わる前にたどり着いていたとしても、何ができたというのだろう? 例の協定のせいで、ヴィレッジはグールの領域を侵犯するわけにはいかない、サヴァンの狙いは、ホワイトローズ・ギャングの連中がグールの領土に入る前に取り押さえることだった。そのために、とても目の狭い網を張りめぐらせたのだ。しかし、その網はパイプドリームとヴァイオリンとによって無残にも切り裂かれ、魚はいともやすやすと逃げ出して……そして別の漁師がそれを掬い取った、というわけだった。ヴィレッジとしては、指をくわえて春杏とアランがパイプドリームを逮捕したパウタウを拘引していく様を見ていることしかできなかった。

 しかし、サヴァンにまだ方法がないわけではない。

 HOGとBeezeutの間に結ばれた引き渡し条約だ。

 今、サヴァンはその交渉を行っている。

 それが達成されたら、パウタウは引き渡される。

 それが達成されるのを、隊員達は待っている。

「そういえば、アランさまはどういたしまして?」

「アランサン? ああ、今報告書を出しに行ってるところアルよ。」

「さすがアランさま、いつも仕事が早いですわ!」

「アイヤー、メアリーサン、さっきからちょっとほめ過ぎアルよ!」

「何でお前が照れてんだよ。」

 アーサーは呆れたような顔をしてそう言った。それから、はーっと、きょう一節の出来事のせいで疲れ切ったようなため息をつきながら、自分の席のところまでつかつかと近づいていく。メアリーもその後に従って、とてとてとアーサーの隣の席、自分の席のほうへと向かう。

「それで、奴さんは懺悔室にいるのか?」

「その通りのことね。アーサーサンのことを待っているアルよ。」

「おいおいメアリー、その服で座ったら椅子がべっとべとになっちまうぜ。」

「え? あっ! そういえばそうでしたわ!」

 そのままのありのままの自分ですとんと自分の席に座りかけたメアリーに言ったアーサーの言葉、はっと気がついたようにメアリーは自分の姿を見下ろした。今日の始まりには、お人形さんのようにすっかりと着飾っていたはずのその姿は、ちょっと何というか、曰くいいがたい例えがたい悲惨な有様になり果てていた。オーダーメイドの可愛らしいイブニングドレスはライカーンの返り血が上半身にべとりと染みている上に、海水で一度洗ったようにびしょびしょに濡れていた。おしゃれなヒールの夜会靴は中に入り込んだ水を一度脱いで流し出したはずだったが、まだ少し残っていて歩くたびにびっしょびっしょと音を立てる。肩かけのポーチからはオペラグローブがはみ出して覗いていて、それももちろんじっとりと湿っているせいで、哀れにも海藻が絡みついているみたいに見えた。

「一回、シャワー浴びて来いよ。」

「そうですわね……アーサーさまも一緒に行きましょう!」

「いや、俺は仕事を済ませねぇとな。」

「そ、そんなお姿でですか?」

 自分の席の後ろ、椅子の背に手をかけたまま突っ立っているアーサーの姿も、ライカーンのもろもろリキッドが引っかかっていない分メアリーより少しはましだったが、それでも悲劇的な有様であることには変わりがなかった。真っ白の白髪の髪は海水を吸い込んでべったりと頭に引っ付いて、アーサーの頭部に何かしらの呪いをかけている執念深い幽霊のように見える。ただでさえしわっしわのフロックコートは、中に着ているストライプのスーツとともに、濡らして良く絞った雑巾と何ら変わりのない状態だ。そんな自分の格好を見下ろしてから、アーサーは軽く肩をすくめる。

「まあ、奴さんは気にしねぇさ。」

「アーサーさまったら!」

「あんまり時間も残されてねぇだろうしな。聞けることは聞いとかねぇと、サヴァン隊長がいつお手続きを終わらせてお引き取りにいらっしゃるか分かったもんじゃないし。」

「それならメアリーもご一緒しますわ、ホワイトローズ・ギャングの方とアーサーさまを二人っきりにさせるわけにはまいりませんもの!」

「大丈夫だって、本当にお前は心配性だな。春聯、お客さんは戦闘系のスペキエースじゃないんだろ?」

「是的、是的、レベルは結構高いけれど、能力的にはテレサイバーと爬虫類かなんかのジェネプラスだからそれほど危険はないアルね。それに、どっちにしても春杏のキッスが効いているのことよ、猿に血抜きされた神様みたいに安全!」

「ほらな?」

 出来損ないのウインクみたいにしてこっちに片目をつむってきた春杏のことを、あごで指し示しながらアーサーは、ほっぺたを膨らませてちょっと怒っている感じのメアリーに向かってそう言った。そのほっぺたの中の空気をぷすーっととがった唇から吐き出しながら、メアリーはそれでもアーサーに渋々と答える。

「分かりましたわ、アーサーさま。でも春杏さま、アーサーさまに何かがあったらすぐにメアリーを呼んでくださいましね、シャワーの途中でもたちどころに駆けつけますわ!」

「まあ、服は着てきてくれよ。」

 そんなことを言いながら、メアリーはアーサーに、しっかりと抱えていたドーナツの箱をずいっと渡すと(ちなみに、このドーナツはウォッチクリフから支局ビルに帰ってくるまでの道のりでついでに買ってきたものだったが、当然二人は着替えてなどいるわけなく、この服装のままで店の中に入った、しかしブラッドフィールドでは、深夜に血にまみれた女の子と、海水でぐしょぬれの男が二人連れだってドーナツを買いに来ることは結構な頻度で起こることだったので、特に店員からは目立った反応はなかった)ちょっと後ろ髪を引かれるように何度かアーサーのことを振り返りながらも、部署の扉を出て一回のシャワールームへと向かった。

「全く、メアリーサンも心配性のことね。春杏がいればスピーキーなんてちょちょいのちょいアルのに!」

「ははっ、あいつもあいつなりに頑張ってるんだろうさ。さて、そろそろお仕事に取り掛からないとな……春杏、お前ドーナツ食べるか?」

「能与其於我乎? もちろん食べるアルね!」

「ほら、好きなの取れよ。それで、お客さんのカンペはどこだ?」

「えーと、さっきまではここら辺にあったアルけど……」

 アーサーと春杏の席はちょうど真向かいにある。春杏の席には、まるで剣と炎が荒れ狂う戦乱の世の城塞都市、うず高く築かれた鉄壁の堡塁のごとく、書類の山が積み上げられていたが、アーサーはその上にドーナツの箱をすとんと置いて開いた。中には色とりどりのドーナツが十個入っていて(十二個入りのうちの二つは帰り道でアーサーとメアリーが食べた)、書類の山をこれでもないこれでもないと漁りながら、春杏はその箱の中に手を突っ込んで適当に一つを取り出した。もちもちとした食感が独特の、丸いドーナツをつなげて輪状にしたリングドーナツだった。

「お前一時間もしないうちに書類を無くせるのか? すごいな、それもある種の才能だぜ。」

「えーと、これじゃなくてこれでもなくて、あっ、先月の経費精算っていつまでだったアルっけ? まだ間に合うアルよね? すっかり忘れてたのことよ……ああこれこれ、これのことよ!」

 春杏は喜びの凱歌を上げる。敵将の首を掲げる騎士のように、紙でできた石壁から一枚の紙を抜き取り、それをアーサーに向けて高々と差し上げた。一時間もしない前の書類が、なぜそんな位置に存在していたのかはきっと永遠に謎のままだろうが、それはともかくとしてその書類を引き抜いたせいで堡塁の一部が瓦解し、雪崩を起こして机の他の書類の山に混ざり合った。特に春杏はそれを気にする様子もない。

「おお、サンキューな。あと先月の経費精算はとっくに締まってると思うぜ。」

「真的?」

 アーサーはその書類を無事に春杏から受け取った、それは取り調べ用の調書で取り調べ中に夜警官がその書類にちらちらと目を落としているさまが、まるで学生がカンニングしているように見えるということで、あまり治安のよくない人間たちからはカンニングペーパーという隠語で呼ばれている。調書の人物写真の部分と指紋、それと氏名の部分は既に埋まっていた、写真に写されているのは肩から上のポートレート、ポートレートにしては少しそっけない気もするが。白に黒いラインが刻まれた背景はその人物の身長を指し示すための実に実用的なものだし、それに人物が持っているのは自分の名前が書かれた白いパネルだけだ、そのパネルと、氏名欄に書かれた名前は「パウタウ(自称)」。それともう一つ、埋まっているのは種族欄とそれに付随する能力欄で、「スペキエース(等級4)」「テレサイバー及びジェネプラス(仮)」と書かれている。しかし、埋まっている欄はそれだけだった。

「パウタウ? 聞いたことねぇ名前だな。」

「アーサーサンも聞いたことない名前アルか? それは珍しいのことね。」

「っていうかこれしか分かんなかったのか?」

「顔も指紋も名前も、本部どころかブリスターのデータにも乗ってなかったみたいのことよ。たぶんどっかの売春婦かなんかがこっそり生んで奴隷市かなんかに流した子供じゃないアルか?」

「それにしても情報が少なすぎるだろ。しかも(自称)と(仮)って……写真だってこれちょっとピンボケしてんじゃねぇか?」

「仕方ないのことねー。アランサンの取り調べでも、なぁんにも喋らなかったアルものー。」

 さもどうでもよさそうに言うと、春杏はアーサーから受け取ったドーナツに一口かじりついた。真っ白な健康そうな歯が、ドーナツの一部を噛みとって、それを咀嚼する。アーサーは肩を竦めると、春杏の雪崩れた書類の山の上からドーナツの箱をひょいっと取り上げて、それから言う。

「まあ、文句ばっか言っててもしょうがねぇか。」

「もう始めるのことか?」

「ああ。」

「加油盛火、頑張ってアルー。」

 ぐーっとまるで軟体動物か何かのように、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかって伸びをしながら、春杏はべったりとした口調でそう言った。アーサーはそれに対しては特にコメントせずに、自分の席から離れてその扉へと近づく。入って右手の奥の扉、この小部屋に似合わぬ厳重な、金属製の扉、「懺悔室」の扉に。

 「懺悔室」、つまりそれは容疑者の取調室兼留置室のことだ、OUTが取り扱う容疑者専用の。その扉は黒檀で磨いたように重く黒ずんだ、青銅のような金属色をしていた。しかしそれは青銅にしては……そして黒ずんだ青銅にしては……あまりにも強い光を放っているように見えた。それは揺らめく青い光、物理的な光ではなく、それは月の下で踊る精霊のような光……つまり、もう少し端的にいえば、それはまるでバルザイウムで出来ているように見えたのだが、それはなぜかというとこの扉がバルザイウムで出来ているからだった。もちろん天然のバルザイウムなわけがない、人工的に合成されたセカンダリー・バルザイウムだ。しかし、この「懺悔室」は全体がバルザイウムで覆われた小部屋で出来ていて、それだけの量であればセカンダリーであったとしても、合成するにはかなりの金銭的な負担がかかるはずだった。

 確かに一時期は賄賂でめちゃくちゃ儲かりまくっていたとはいえ、所詮は一地方組織に過ぎない夜警公社が、なぜこんな設備を作ることができたのか? なんのことはない、これはトラヴィール教会からの寄付によってできたのだった。教会の下部組織の一つであり(といっても元はといえばオンドリ派ではなく月光国正教会の付属機関であった)、魔学・科学的な研究機関であるThe Hasturic Order of Silver Twilight(通称HOST)が初めてバルザイウムの合成に成功した時に、トラヴィール教会とパンピュリア共和国(もう少し正確に言えばノスフェラトゥ達)との永遠の友好関係を祈って、教会が共和国に大量のセカンダリー・バルザイウムを寄付してきた。その時の一部が、この「懺悔室」を作るのに使われたのだ。

 備えはしておくに越したことはない。

 なにぶん、ブラッドフィールドは物騒だ。

 どんな怪物が現れるとも知れない。

 そして、それを取り扱うのはOUT。

 アーサーは、ノブに手をかける。

 春杏が、その背に言う。

「まーったく、わざわざアーサーサンを呼ばなくても……」

 アーサーはふと振り返る。

 春杏は笑っていた。

 真っ白い歯を見せて。

 屈託のない笑顔で。

「我に取り調べを任せてくれればすぐに嘔吐させるアルのに。」

「お前に任せたら全部喰っちまうだろ? 奴さんが話す前に。」

 春杏はドーナツを一口噛みとって。

 アーサーはその扉を開いた。


「よお。」

「はじめましてー。」

 まだ随分と幼いように見えた。

 写真で見るよりも、ずっと幼い。

 アーサーは軽く手を上げる。

 パウタウも手を上げて返す。

 「懺悔室」は非常に殺風景な部屋だ。入口入って奥、左側に特に壁などで覆われていないむき出しの便器があり、そして右側は壁から突き出た平たい板のようなものがある。その板は大体膝のあたりから突き出ていて、大きさは人一人がその上に寝転がれる最低のサイズ、つまりこれはベッドだった、これをベッドと呼べる寛大な心があるとすれば。そして真ん中にはテーブルと、向かい合うようにして椅子が二脚、取り調べの時に使うもので、まるで床から生えてきたかのようにしっかりと接着されている、万が一にも留置者に凶器を与えないために。それだけだ。それ以外には何もない。しかも便器の中に張られた水の透明な色以外には、全てがバルザイウムの炎のような銀色で出来ている。

「一つ喰うか?」

「いいのー?」

「ああ、その代り俺も食うぜ。」

「ありがとー。」

 アーサーが、椅子の左側に座りながらドーナツの箱をテーブルに滑らせると、パウタウは顔を花畑の上の柔らかい風みたいにほころばせた。それから、今まで腰掛けていたベッドの上から立ち上がって、アーサーの体面、右側の椅子に座る。ぐーっと腕を伸ばして、蓋が開きっぱなしになってるドーナツの箱をのぞき込んで、嬉しそうに一つずつドーナツを指さす。

「どれがいいかなー?」

「俺のおすすめはその赤いやつだな。」

「これー?」

「そうそう。」

「じゃあこれにするー。」

 素直にそう言うと、パウタウは赤い色のつやつやしたゼリーがかかっているドーナツを選んだ。ジャムのしたはふわふわとしたケーキのようなスポンジ生地で、イチゴジャムの焼ドーナツだ。一方でアーサーはその隣にあった、ハチミツがけのチュロスを真ん中でねじって、無理やりドーナツの形にしたみたいなドーナツを選んで取った。食感はオールドファッションに似ている、外はサクサクしているが、中はふわふわしているあの感じだ、しかしオールドファッションよりはもう少し柔らかい。

 パウタウは……差別的な思考をするわけじゃないが、と前置きをしながらアーサーは、パウタウのことを確かにスペキエースのようだな、と思った。目を見ればわかる。かけていたサングラスはここに運ばれてくる途中で失ったのか、それとも警察署についた時点で没収されたのか、とにかく無くなっていて、パウタウの素の目を見通せる。その目は(差別的な思考をするわけじゃないが)一般的な人間のものと違って、どちらかというと有機物というよりも鉱物のように見えた。灰色のざらざらとしたノイズの混じった、髪の色と同じ茶色の眼球の真ん中に、まるで黒い切れ目のように瞳孔が入っている。それは、爬虫類の目だった、比喩的な表現ではなく、まさにそれは人間の眼窩に埋め込まれた爬虫類の目だった。それだけではなく、泥にまみれた薄汚れたストライプのボタンダウンの下に見えている肌は、全体的にうっすらと鱗のようなものに覆われている。その口は引き裂かれたように横に長く、そして、その口が開いて、ちらちらとろうそくの炎のような舌が見えた、その部分だけ異物のように明るい色をしていて、先が二股に分かれた舌が……その下が、揺らめいて、やがて間延びした言葉がその上に踊る。

「あなたがアーサー・レッドハウス?」

「ああ、そうだ。」

「やっぱりねー、すぐわかったよー。ハッピーから聞いた通りの人だー。」

「ハッピー?」

「えーと、ハッピーってなんて名前だったっけなー……」

「ああ、グロスターんとこのクソガキか。」

 アーサーはそう呟くように言うと、ハニーチュロの楕円形、丸い頭の方ではなくとがった尾の方を一口かじりとった。パウタウもそれにつられたようにして焼ドーナツのジャムの部分を舌の先でぺろりと舐めた後で、スポンジ部分と一緒にあぐっと噛みとる。

「あいつは元気してるか?」

「うん、まあまあかなー。」

「そうか。一人称使う時に一瞬フリーズする癖は治ったか?」

「なにそれー? ぼく、知らないよー。」

「あいつがまだ人間の言葉を習い始めたころ、一度頭ん中で自分自身ってものを考えてからじゃねぇと「俺」って言えなかったんだよ。まあ、あいつも一応純種だからな。しょうがないっつっちゃーしょうがないんだが、「俺」って言おうとするたびに一回止まって考え事するもんだから、面白かったぜ? だから、ピタリ、俺が言いたいのはだなーみてぇな感じでな。」

「ほんとうー? はははっ、面白いー!」

 そう言うと、パウタウはまるで手を叩くようにして(実際は手にドーナツを持っていたので掌底を打ち合わせただけだったが)笑った。アーサーもそれに合わせるようにして、しかしそれほど面白くもなさそうに笑顔を見せる。

 ちなみに補足しておくと、ノスフェラトゥというものは周囲の環境も含めて「自分の操作範囲内」という概念でとらえるため、世界と自分自身を分離して思考しない。純種は特にそうで、一応「リチャード・グロスター・サード」や「アイナ・クールバース」といった名前は持っているが、それは「そこにある机」や「食べられる生き物」といった言葉と同じように、環境の状態を表す記号に過ぎない。そのため、ハッピートリガーが人間の言葉を覚え始めたころは、どうしても一人称という概念を理解することができず(普通は自分のことを言葉で表現することはないし、あったとしても「リチャード・グロスター・サード、右腕、損傷」というような表現をする)一度思考の中で自分と世界を分離する光景を思い描いてからでなければ「俺」という単語を発することができなかったのだ。

「さてと。」

 それから、アーサーは。

 その笑顔のままで言う。

「いつまでも世間話を続けていたいところだが……俺たちも時間がないもんでな。ヴィレッジの連中がお前さんをこっからふんだくろうとうずうずしてるし、それでなくても俺は夜勤なんだ、もうそろそろ夜も明けるだろ? あがりの時間すぎたらすぐに帰りたいタイプなんだよ。」

 アーサーはドーナツの箱に手を突っ込んで、紙ナプキンを二枚取り出した。「使うか?」「うん、もらうー」というやり取りをして、そのうちの一枚をパウタウに渡して、自分の方はテーブルの上に敷くと、その上に持っていた食べかけのドーナツを置いた。

「そうだねー。」

 パウタウもアーサーと同じようにして。

 テーブルの上に紙ナプキンを置いて。

 その上に、ドーナツを置く。

「本当はー、ずーっと黙ってなくちゃいけないんだけどー。」

 言いながら、パウタウはテーブルに肘をつき。

 手の甲の上に顎を置いて、にっこりと笑う。

 まるで、パステルカラーの子供みたいに。

「始祖家のノスフェラトゥに隠し事はできないよねー。」

「今は始祖家じゃねぇよ。とっくの昔に勘当されたぜ。」

 アーサー・レッドハウス。

 始祖家の一つレッドハウス家のノスフェラトゥ。

 ハウス・オブ・グッドネスたるジョンの弟。

 それも、全て昔の話だ。

 今ではただの夜警官の一人に過ぎない。

「雑種だからー?」

「おいおい、そういう質問は本人にするもんじゃねぇよ。」

「ごめんねー。」

「別にいいさ。色々と複雑な事情があるんだよ。」

「なるほどー。」

「まあ、勘当されたっつっても体はノスフェラトゥのままだ、一応各種の能力は残ってるし、っつーことはつまりお前の心を読もうと思えば読めるわけで、言われてるほどはっきりってわけでもねぇが、これまでそこそこ役にたってきたくらいにはな。」

 そう言うと、ふーっとため息をつく。アーサーは確かに雑種のノスフェラトゥだ。一般的に雑種のノスフェラトゥはテレパシー関連の能力が純種ほど優れておらず、従って抵抗する対象の心を読むといったような繊細なことは行うことができないとされている。しかし、アーサーは「一般的な雑種のノスフェラトゥ」ではない。「始祖家の雑種のノスフェラトゥ」で、しかも勘当された際の色々と複雑な事情と関連して、その能力は非自然的に加工されている特殊なマウスだ。テレパス系のスペキエースや、純種のノスフェラトゥでもない限りは、大抵の対象の心を読むことができる。

「それでもやっぱりぼくから喋ることはできないよー、やっぱりハッピーを裏切ることになっちゃうしー。」

「じゃあ、心ん中を覗いてもかまわねぇか?」

「ダメー。」

「だろうな。」

 パウタウはくすくすと笑う。

 アーサーは懐に手を入れて、夜警手帳を取り出す。

 ぱらぱらとめくって、該当のページを開く。

「ノスフェラトゥ抑止法第八条、ノスフェラトゥは他者の同意を得ずにその精神に侵入及び干渉をしてはならない。但し、侵入及び干渉をしようとするノスフェラトゥが始祖家の場合又は別に法律で定める場合を除く。」

 またぱらぱらとめくって、次のページを開く。

「刑事訴訟法第百八十八条第一項、検察官、検察事務官又は司法夜警職員は死刑または無期もしくは長期三年以上の懲役もしくは禁固にあたる罪を犯したことを十分に疑うに足りる十分な理由がある場合で、急速を有し、かつHouse Of Goodnessの許可を求めることができないときは、その理由を告げて被疑者の精神に侵入することができる。この場合には、直ちにHouse Of Goodnessの許可を求める手続きをしなければならない。House Of Goodnessの許可が発せられないときは、直ちに容疑者を釈放しなければならない。刑事訴訟規則のほうにも一応規定があるが読むか?」

「大丈夫ー。」

「そうか。一応なんかあった時のために法律の条文を手帳に書き写しといてるんだよ。あんまり役に立たねぇけどな。」

 言って、アーサーは懐に夜警手帳を戻した。

 ナプキンの上のドーナツを取り上げる。

 不思議なものでも見るように、眺めまわす。

 ドーナツに、特に不思議な点はない。

「と、いうわけでだ。法律的な観点から見てみると、今回のケースでは、俺はお前の同意を得ずにお前の精神に侵入しても問題はないわけだ、あとでHOGに出向いてクソ面倒な手続きをしなければならないにせよな。聞いた話によると……お前らは革命を犯そうとしているらしいじゃないか、残念ながら使う機会がないと思って手帳に写してはいないが、確か俺の記憶では、革命は国家反逆罪に該当して、国家反逆罪は「死刑または無期もしくは長期三年以上の懲役もしくは禁固にあたる罪」に該当するからな。っつーか死刑だな。そして、急速の場合であることは言わずもがなだ、さっき説明したし、俺のあがりの時間まであと……四時間もねぇし。結構あるな、まあいいか。」

 パウタウもナプキンの上からドーナツを取り上げた。

 あぐっと口を開いて一口分だけ噛みとって。

 また、ナプキンの上に下す。

 もぐもぐ、という感じで噛んで。

 ごっくん、とそれを飲み込む。

 それから、その口で、言葉を話す。

「法律で決まってるならしょうがないよねー。」

「物分かりが良いな。」

「ありがとうー。」

「全く、パンピュリア共和国が成文法主義でよかったぜ。」

 アーサーは、手に持っていたドーナツを急いで口の中に詰め込み始めた。一口、二口、三口で全部を口の中に収めて、それから強靭なノスフェラトゥの顎の力を駆使して(その力は時に、傷つけないように絹でできた折り鶴を撫でるような繊細さを持つこともできる)それを咀嚼し、嚥下する。最後の一欠けらまで飲み込むと、ぺろりと口の周りを舌で舐めて綺麗にして(あまり綺麗にはなってないが)それから満足そうにもう一度ため息をついた。

 首を軽く回して。

 パウタウに言う。

「じゃあ、始めるぜ。」

「だめー。」

 にっこりと笑ったままでそう言ったアーサーに、少し呆れたような顔をしたままで、アーサーは手を伸ばした。ぐっと開いた手のひらの先、中指の腹をパウタウの額に当てる。ふと、考える。このパウタウという男が、フラナガン先生の言っていた、何かを知っている人間なのか? 恐らくそうだろう、フラナガン先生はいつでも約束を守る、悪魔がいつも約束を守るのと同じように。と、いうことはこの贈り物にも何らかの……代償のようなものが伴ってくるのだろうか? いや、代償ではない、フラナガン先生は、誰かから何かを得るときに、代償や契約なんていうものを必要としないからだ。それは等価交換ですらない、ただの、悪い、冗談のようなもの。それが、ついてくるのか? 恐らくは……ついてくるのだろう。けれど、まあ、それは、ハッピートリガーの起こす革命よりはましなもののはずだ。少なくとも、フラナガン先生はこの国を滅ぼそうとはしないから。

 アーサーは、そこまで考えると。

 少しおかしくなって、くすくすと笑った。

 なんだかおかしかったのだ。

 何がおかしいのか分からなかったが。

 パウタウも、つられてくすくすと笑う。

 それから、アーサーに問いかける。

「この指で触るやつ、必要あるのー?」

「いや? でも気分が出るだろ?」

 そしてアーサーは。

 パウタウの心に沈む。

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