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#21 素敵なディナーの帰り道、傘もないのに雨が降る

 ひょっとしたら。

 少し。

 もしかして。

 どうやら。

「ちょっと曇ってきたみてぇだな、パピー。」

「曇って? 空がですの?」

 アーサーの言葉に、メアリーはそう言うと車の窓の外に視線を向けた。メアリーはまだ気が付いていなかったけれど、アーサーの言う通り、ブラッドフィールドの空は雲ってきているようだった。アーサーは、そのことには、少し前から気が付いていた、そういうことに対してアーサーは非常に……目敏いのだった、本人がそれを望んでいるといないとにかかわらず。

 アーサーとメアリーの乗っている、代り映えのしない、いつもの覆面社用車、まるで一筋の黒い光のようにして速やかに、既にしてベッドストリートを後にしていた。コート・バスクからホテル・レベッカの残骸、ヴィレッジの仮捜索本部へと向かう途上。ピーカンのフルーツケーキを食べ終えて、スーレ氏に勘定を払い、夜警公社宛に領収書を切ってもらって。「まあ、アーサーさまったら。お食事のお金を経費で落とすつもりなんですの!」「当然だろ? 捜査の一環として飲み食いした金なんだから……なあ、ムッシュー・スーレ。経費で落としたって問題ねぇよな」「それは……もちろんですサー・アーサー……」、そして今、二人の乗った車はアップタウンのアベニューを走っている。

 行き過ぎた多指症の神々が、一斉に空を削り取ろうと手を伸ばしているように、アベニューの両岸には幾つも幾つもの摩天楼。その摩天楼の窓、窓、窓、一面の窓には、怠惰な猿から進化したホモ・サピエンスではなく、勤勉で無表情な蟻から進化したとしか思えないような、虫殻色のような色のスーツに身を包んだホモ・エコノミクスたちが残業の光を灯している。光、光、光、一面の光は一般的に、空の星の光よりも、より一層明るく、より一層冷たい。そのせいで、ブラッドフィールドのアップタウン、(ほとんど)眠ることのないこの街で、星空を見上げるということは(ほとんど)できることではない……掻き消された星の光、その残響さえも曖昧な闇の中に消えてしまうせいで。ならばなぜ、アーサーは空が曇ってきていることに気が付いたのか? 星の光はあらかじめ隠されていたのに? 何を目印にしてアーサーは気が付いたのか?

 答えは非常に単純だ。

 靄のような雲。

 こぼしてしまったコーヒー。

 二つの月、空の唯一の光を。

 黒く、しみのように汚し始めて。

「このままだと雨になるかもしれねぇな。」

「本当ですの、アーサーさま? 天気予報ではまだしばらく晴れと聞いてましたのに。」

「俺の勘は悪い方については当たりやすいからな。いい方はちっとも当たらねぇっつーのに。」

 ぼやくようにアーサーはメアリーにそう答えた。メアリーは何といえばいいのか非常に曖昧な色をした目を向けて、そのアーサーの答えを聞くと、見るとも見ないともないようにして窓の外にまた目を戻す。光が引きずられている。後ろへ、後ろへと。光の上には何人かのホモ・エコノミクス達がしがみつくように歩いていて、生活という名の仕事を続けているようだ。誰もかれもが変わり映えもしないような姿をしているように見えるけれど、メアリーは知っていた、その一人一人が、生きている。アーサーと同じように、メアリーと同じように。そのことについて、メアリーは今日もまた……純粋な驚きを感じた……夜警官をしていると……特にそれが分かる……彼らは生きている……死ぬまでは生きている……けれど、アーサーさまの悪い勘が当たってしまったら……一体、この街に何が起こるのだろう……思考が滑る……そして思考が滑る時には……いつも悪い方へ、悪い方へと……引きずられていく……光が……後ろへ、後ろへと……メアリーは、そんなことを考えていた。メアリーはいつも純粋なのだ、本人が自分で自分のことを純粋だと思っていないにしても。

 それから。

 偶然開いてしまったような口が。

 メアリーにこんな疑問を言わせる。

「アーサーさま。」

「なんだよ、パピー。」

「これからどうしますの?」

「さっき言っただろ? サヴァン隊長のところを冷やかしに行くのさ。その前になんか差し入れでも買って……」

「それから、ですわ。」

「それから?」

「アーサーさまは、サヴァン隊長さまから、何か情報を得られるとお思いですか?」

「いや、思わねぇよ……まあ、万に一つくらいは有るかもしれねぇけどな、よっぽどうまい差し入れを持っていったりして、はは。」

「じゃあ、それなら、一体どうすれば……」

「まあ、待つんだな。」

「待つ? 何をです?」

「何をって、決まってんだろ? 先生からの贈り物だよ。」

「贈り物?」

「先生、言ってただろ? 今日、何かを知っている人間を渡そうって。それが誰なのかはわかんねぇけど、先生はたぶん、俺に誰か……情報提供者を渡してくれるつもりらしい、今回の件に関する、な。今のところ、俺にはそれしか頼れる線はない、だから、それを待つのさ。」

「グールの線は?」

「ああ、そっちか。そっちを追うのは……ちょっと難しいだろうな。今、ダレット列聖者は完全にシャットアウトされていて俺達どころかケンネルの連中も連絡を取れねぇらしい。ま、他にも方法はあるにはあるが……いつものやつだよ、現場百篇ってな……だが、今は下手にあいつらを刺激しない方がいいだろう。ほら、ちょっと状況がまずいことになってるし、いくら俺だって水鬼角の落雷になるのはごめんだよ。」

「そうですか……分かりましたわ。」

「なあ、ところでパピー。」

「はい、アーサーさま。」

「隊長への差し入れは何がいいと思う?」

 アーサーはそう言いながら、緩やかに引いていく眠りかけの波のようにして滑らかに車の速度を落とし、やがてそれを止めた。夜の半ば、中途半端な場所に繋ぎとめられた信号機が、三つの目のうち、真ん中の黄色い目を開き、そしてすぐにそれを閉じてから、赤い目を意味ありげに目くばせしてきたせいで。黒い車の目の前、車のヘッドライト、あるいはビルから漏れだす蛍光灯、排気ガスで汚れた外套の光、とにかくさんざめく人工の光、に照らし出されて。横断歩道の上をホモ・エコノミクスたちが渡り行く。それを不思議そうな目で眺めたままで、メアリーはアーサーの質問に答える。

「ええと、わたくしは……そうですわね、バーソウのチョコレートなんかがいいと思いますわ。今の時間だとちょっと並ぶかもしれませんけれど。それか、ありきたりですけど蜥易堂の八卦焼。」

「八卦焼か、いいな。だが残念なことに蜥易堂はもう閉まっちまってるだろうな。」

「まあ、そういえばそうでしたわ!」

「バーソウも悪くはないが……ちょっと値が張りすぎるな。サヴァン隊長には勿体ねぇよ。」

「アーサーさまは何がいいと思いますの?」

「そうだな、この時間でも店が開いていて、そしてそれほど値が張らず、その上誰にも喜ばれる……となると、答えは一つしかねえぇんじゃねぇか?」

 とんとんとん、と別にイラついた様子もなく。アーサーは人差し指の先でシフトレバーを叩いている。メアリーは意図せざる可愛らし気さで、すこしとがらせたような口の先を手のひらで隠すようなポーズをしながら考えていたけれど、やがて、ぱっとひらめく花びらのように答える。

「ファンディ・マンディのドーナツ詰め合わせ!」

「正解。」

「もう、アーサーさまったら、いつもドーナツばかりですわね!」

「あのな、パピー。夜警官ってのはドーナツが好きなもんなんだよ、世界の摂理みてぇなもんさ。ドラマとかに出てくるやつらだって大体ドーナツ食ってるだろ?」

「でも、昨日もドーナツを差し入れましてよ!」

「うまいもんは毎日もらったって嬉しいもんさ。違うか?」

 そんなことを言いながら。

 けれど、ふとアーサーは。

 その思考を感じた。

 まるで音もなく、一台の車。

 二人の乗る車の後ろについて。

「なあ、パピー。」

「はい、アーサーさま。」

「後ろの車、見えるか?」

「ええと、ちょっと待ってくださいましね。」

「いや、振り向くな。」

「え?」

「ミラー。使え。」

 信号は、まだ赤い目くばせを続けている。

 もう少し、もう少しだ。

 もう少しで、その色は、青い色に変わる。

「まあ!」

「分かったか?」

「そんな、アーサーさま!」

「シートベルト、絞めとけよ。」

 三。

 二。

 一。

 ゼロの瞬間に、三つのことがほぼ同時に起こった。最初に起こったこととして、信号が青い色に変わった。これに関しては特にいうべきこともない、信号というものは変わるものだし、赤の次は青になるものだし、よって全く理にかなった現象だ。しかし、その他の二つのことが多少普通の現象とは異なっていた。まず、アーサーが思いっきりアクセルを踏み込んで、全速力で車を発進させた。そして次に、その全速力で発信する直前までアーサー達の車がいたところ、その道路上、テンプルワーカーの掃射によって蜂の巣状の穴が開いた。

 唸るエンジンの轟くような音。

 弾丸がコンクリートを引き裂くような音。

 二つの音が重なって、響き渡る。

 掃射をしたのは、アーサーとメアリーのすぐ後ろ、音もなく地下よって来たその車だった。例の安物のマシンガンを構えた男が、サンルーフから一人、右側の窓から一人、計二人。まるで切り株に映えた出来損ないのキノコのようにして体をつきだしていた。メアリーの目には、スポットライトのように照らし出した街灯の光の中で、その車に描かれた模様が良く見て取れた……ここ数日でおなじみになったマーク、五枚の花弁、逆五角形、白い薔薇の花。

「ホワイトローズ・ギャングの方々ですわ!」

「方々は別につけなくていいんじゃねぇか?」

「そうでしたわね! えーと、ホワイトローズ・ギャングですわ!」

「素直でよろしい。」

 言いながら、アーサーはアベニューの三つの車線を、右だろうが左だろうがお構いすることもなく縦横に走り回って、前を走る車を次々と追い越していく。交通マナーから言って褒められたことではないけれど、まあ緊急事態なので仕方がないといえば仕方がないことだろう。しかし、それでもホワイトローズ・ギャングの車はぴったりとアーサーたちの車の後ろについて、全く離れる様子もない、しかも彼らはアーサー達の車を狙って、テンプルワーカーを乱射し続けている。アベニューからすればたまったものではない、ああ、今ちょうどタイヤに流れ弾に当たったらしく、一台の車がスピンして路肩に突っ込んでいった。

「一体なぜ!?」

「なぜも何も、グロスターのガキにとって俺たちの捜査が本格的に邪魔になってきたからじゃねぇか? ほら、一回、警告は受けてただろ、何日か前に。」

「そう言えばそうでしたわね!」

「まあ、理由は何にせよちょっと不味い状況ってわけだ……っておい、何やってんだよパピー?」

 そう言いながら、アーサーは前方から目を離してメアリーの方を見た。一般的なドライバーであれば、この状況で前方から目を離すことなど自殺行為以外の何物でもないのだが、アーサーに限ってはその例外と言えるようだ、前を見ていようが見ていまいが、華麗なドライビングテクニックで前を走る車とと、後ろからの機関銃掃射を避け続けている。一方で見られたメアリーはというと、シートベルトを外して自分の座る席の横の窓を開き始めていた。

「わたくしが何とかしてきますわ! アーサーさまを守るのはわたくしの役目! 大丈夫でしてよ、あの程度の方々……えーと、ギャングさんたちならちょちょいのちょいで……」

「ちょっと待てよ、おい! こんな人が多いところであいつに暴れさせたらちょっと不味いじゃすまないぜ!」

「そ、それは……」

 口を淀ませながらメアリーは、そう言われてあたりを見回した。ホワイトローズ・ギャングの連中が気持ちよさそうに何の憂いもなくマシンガンを乱射している周囲、アーサーがめちゃくちゃに見えつつも周囲の犠牲を最小限に抑えている走行経路のその周囲は、まぎれもなくアップタウンのど真ん中、からちょっと外れてはいるけれどとにかく人通りの多いアベニューであることは間違いなかった。先ほどメアリーが窓から眺めたように、深夜にもかかわらず人通りは多く、そして人々は道路に伏せて頭を押さえていたり、近くの建物に駆け込んで逃げたりと、さまざまにこの事態に対処している、まあブラッドフィールドではいつものことといえばいつものことなのだけれど、彼ら彼女らの命が危険にさらされていることは確かだった。

 ここで戦闘を繰り広げれば?

 彼ら彼女らの命の危険は。

 その戦闘の経時に従って。

 壊滅的に大きくなっていくだろう。

「す、すみませんアーサーさま。」

「謝るこたねぇよ、俺のことを考えてくれたんだろ? 俺がお礼を言わなきゃな。とにかく、あいつらを人通りが少ない所まで引き付けて……」

(運命に関係する神々はテンペストを好むようだ。

 全ての災害の上にたらたらと涎を垂らして。

 そこで無意味に抗う人々を見て、嗤う。)

 どんっと、アーサーの言葉を遮るようにして二人の乗った車の天井が凹んだ。夜警公社ブラッドフィールド本社の社用車にかけられた車両保険の額は既にパンピュリア共和国保険史上最高額を突破しており、新たに「夜警公社ブラッドフィールド本社用車両保険」という一ジャンルを築いているほどなので今更ちょっとくらいの傷がついたところで何を気にすることもないのだけれど、そういうこととは別に純粋にびっくりしてメアリーは言った。

「な、何事ですの!?」

「何かが! 飛び乗って! 来たみてぇだな!」

 アーサーはというとその急な衝撃のせいで狂ってしまった車の進行方向を何とか制御しようと、決死の思いでハンドルにかじりついていた。こちらの都合とは全く関係なく、右に左に揺れようとするそれを強く押さえつけている。メアリーは、車のことに関してはそんな感じのアーサーに任せて、天井に飛び乗ってきたという何かが何であるかを確かめてみることにした。

 先ほどそこから飛び出ようとした窓から。

 ぐっと身を乗り出して、天井の上へ目を向ける。

 すごいスピードで横を駆け抜けていく風に。

 ネックレスの先のダブルハート。

 かちゃかちゃと音を立てて弄ばれる。

 オペラグローブは既に外していて。

 その素手で、メアリーは髪を抑えながら。

 破滅の天使を見た。

「弱き者よ、虐げられし者よ!」

 鳴り響く声が夜を切り裂く。

 それは悪を殺す刃のように。

「その声を上げよ、正義は決して聞き逃さない!」

 メアリーはその姿に目を焼きながら、辛うじて口を開く「アーサーさま……」「聞こえたよ。どうやら……ヒーローのお出ましみてぇだな」、アーサーはそう答えながら笑った。地獄の炎の上を綱渡りで渡っていく綱渡り師が、足を滑らせた時に浮かべるような笑みで。

 ブラックシープだった、二人の乗った車の天井。

 本人がかっこいいと思ってるらしいポーズをして。

 朗々と、いつもの名乗りを上げているのは。

 呆然と見上げるメアリーの視線の先で。

 恍惚とした美声は、その「言葉」の先を続ける

「仮に太陽がその目を……」

 しかし、その口が音に乗せられた「言葉」はそこまでだった。いきなり現れたよく分からないものに対して、一瞬だけホワイトローズ・ギャングの皆さんはひるんだようだったけれど、その一瞬の間が過ぎるとすぐに気を取り直して、そのよく分からないものに向かってテンプルワーカーをぶちかまし始めたのだ。メアリーは耳のすぐ横を駆け抜けていく安物の銃弾に、慌てて顔を車の中に引っ込める。

 一方で、ブラックシープは優雅で、感傷的なほどの弧を描いてその足の下の天井を蹴り、ダニエルの雨のように降り注ぐ出来損ないのライフル弾を避けた。「宣誓」「名乗り」「誓いの咆哮」あるいは「ヒーローコール」、まあなんでもいいのだけれど、とにかくいつものやつを言い終わる前に邪魔をされることは、ブラックシープにとっては良くあることだったので(常識で考えれば分かると思うが全部良い終われる方がまれだ)、特にそのことを気にすることもなく。

 ブラックシープの体は。

 狩人の軌道を描きながら。

 ただ、この単語を言う。

「中略!」

 そのまま、銀と金と黒。

 それは、虹、あるいは。

 ラゼノ=コペアが見せる幻。

 アーサーの車と、白薔薇の車。

 二台の車の間を、橋のように渡し。

 それを渡るのは、破滅。

 破滅の天使。

 テンペストの女神の。

 類まれなる一人子供。

「ブラックシープ、ここに見参!」

 「言葉」と共にブラックシープの肉体と精神はホワイトローズ・ギャングの車の、やはり天井に、どんっと降り立った。もちろんそれに対する歓迎の声は聞こえず、その代わりにマシンガンが唸り声を上げて金属の弾丸を雨あられと吹き注がせていたのだけれど、それもブラックシープがその場に降り立つまでのことだった。ブラックシープは天井にたどり着くと同時に、金の蹄を街の光に冷たくきらめかせて、そして二つの首をその持ち主の首の上から落としていたから。

 窓から身を乗り出していた方のチンピラは、そのまま車道に首を落として、その首は後続の車両にひき潰されて、彼が生きていくのに重要だった色々なもの(オブラートに包んだいい方)をまき散らした。体は暫く惰性のようにしてテンプルワーカーを方向も定めず乱射していたけれど、そのうちに力が抜けたのかそれをがしゃんと音を立てて落として、それからだらんと窓から垂れ下がった。そのせいでバランスが崩れるからちょっと運転の邪魔だった。

「一善!」

 サンルーフから体を乗り出していた男の方は、すぐ目の前に飛んできたまるで獣のような姿に恐慌して、テンプルワーカーをめちゃくちゃにぶちかましていたのだけれど、その全てをブラックシープの腕は派手なボディランゲージのようにして、金の蹄(窓の方のチンピラを殺したのとは別の方)で受け流した。そして、そのまま流れるような経路をたどり、金の蹄はサンルーフの方のチンピラの首を掻き切る。ごろん、とチンピラの頭は天井に落ちた。その首を、ブラックシープは慈悲の欠片も見えない態度で車の上から蹴り落とした(首は歩道の方に向かって吹っ飛んでいって、そしてそこを歩いていたサラリーマンがすとん、と何だか分からないままにそれをキャッチし、それからそれが何なのかを理解して、慌てて放り棄てた)。

「二善!」

 ブラックシープは晴れやかな笑顔を浮かべて、空に向かって右手の金の蹄を掲げて見せた。残念なことに曇り空の上に二つの月は隠れていて、だから夜自身の大きな眼球はそれを見ることなくただ眠っていたのだけれど、その代わりにビルの壁に穿たれている、不眠症を患った、千の、万の目は……、節電という目的以外では決して蛍光灯の光を消すことのない千のオフィス、万のオフィスが、ブラックシープのための観客となった。

「聞け、悪よ! 私は正義がその手に持つ剣! この地の表よりあなたたちをぬぐうもの! そして今、この耳は正しき者の声なき声を聞き届けた! それゆえに私は、あなたたちの牙を折り、その口の中から弱き犠牲者を救うためにここに表れたのだ!」

 ブラックシープは芝居じみた明快さでそう叫んだ。良く通る明星役者のような声は、周囲で叫び声をあげて駆けていく風の音に蒔けることもなく、あたりに響き渡る。そして、その声を聞くとともに、そのオフィスらは見た。ブラックシープの殺戮の凶器が、一瞬、鋭く光の刃でアベニューの内臓を引き破っていくさまを、見た。

「受けよ、これぞ正義が放つ滅びの矢!」

 そして、その凶器が。

 鉄槌のようにして。

 車の天井に打ち込まれるさまを。

 ブラックシープは、正確に狙いを定めて、運転席に座っていた男の上、天井を突き破ってその蹄を叩きこんだ。そして、「三ぜ……」という正義執行の叫び声を上げかけたのだけれど、ふとその声を途中で止めた。何かがおかしい。確かに、その手の正義が怒りの印を悪しき者の罪深き肉体に刻み付けた手ごたえはあったはずなのに、その運転手の制御の下にある車は進路を乱すこともなく、ましてやブラックシープが期待したようにどこかのビルにぶつかって派手に爆発炎上しそれを見る全ての人々に正義の力を思い知らせるようなこともまるでなく、相も変わらずアーサーとメアリーの乗った車を追いかけ続けていたのだ。

「ジャスティス、これは一体……」

「よく考えれば、車は必要ない。」

 訝し気に言いかけたブラックシープの声を遮るようにして、車の中、ブラックシープが穿った穴の中から声が聞こえた。それは人間にしては少しおかしいところのある声だった。何というか、全体的に……平板すぎるのだ。人間であれば当然込めるはずの抑揚、というかむしろ感情が少し足りていないように思われた。

 つまり。

 それは。

「ノスフェラトゥ!」

 ブラックシープがそう声を上げるのと。

 天井を突き破って黒い塊が飛び上がるのは。

 ほぼ同時だった。

「理由は、必要としている※※※人間が死んだため。」

 その黒い塊は、車の内部から天へ、通り道にいたブラックシープを両手で掻き抱くようにして引っ掴むと、そのままコップから闇をこぼして覆い尽くしたような夜の曇り空へと飛翔した。背に生えているのは二枚の羽、薄く研ぎ澄ました、黒い水晶でできたような羽。それは、紛うこともなく彼の鬼が純種のノスフェラトゥであるという印、つまり、このブラッドフィールドの、真の支配者の印……例え彼の鬼が林檎の木から落ちた、腐った林檎であったとしても、とにかく林檎はその木からさして遠いところに落ちるわけではないのだから。

 そして、彼の鬼を、支配者を失った車は、ブラックシープの遥か眼下できりもみのスカレタル・バレエを踊るようにして回転し、周囲の車を数台巻き込んで、そしてやがて、先ほどブラックシープが期待した通りに、道路の右岸にあるビルに激突して派手に爆発炎上した。しかし、ブラックシープは全く満足の心を抱くことはなかった、むしろ、逆に屈辱を感じていた。当然だ、これは、この花火は……正義の勝利にたいする祝福ではなく、むしろ狡知にたけた悪の仕組んだ、巧妙な恐怖のプロパガンダなのだから。

 そして、ブラックシープは。

 その怜悧狡猾なる悪を。

 ぎっと、仮面の奥から睨み付けた。

 彼の鬼は……ブラックシープの推測した通りノスフェラトゥだ、しかも純種の。その姿かたちはすでに人間の形であることをやめていて、ケレイズィの殺戮兵器としての、ノスフェラトゥとしての真のかたちになっていた(詳しい外形に関しては#17のヴァイオリンに関する描写をご参照下さい)。頭は先ほどのブラックシープの一撃によって、赤く沈んだ右の眼球と左の眼球の間、真ん中から二つに裂けており、たらりたらりと下の街に血液を滴らせていたけれど、その傷口を気にする様子もなく、またその傷口はすでに半分程度が盛り上がった肉のようなもので繋がれて治りかけていた。髪型は……その頭が割れていなかったら、雄のノスフェラトゥらしい髪型、上品に(つまり何かを殺す時に邪魔にならないように)固められたリーゼント。少し着古して体になじんだような、それでもオーダーメイドの高級品だと分かる真っ黒なスーツを着て、同じように履き古したような黒い革靴を履いて、絞め古したような赤いネクタイを絞めていた。そして、そのネクタイをパイプドリームと同じように、白い薔薇を模ったタイピンで止めている。

「ここから落下すれば。」

 彼の鬼は、独り言のようにして口を開いた。

 ブラックシープと共に、どんどんと高度を上げながら。

 口を動かすと、額の傷口の肉が蠢くのが見える。

 まるでそれは、群がって膿を食う蛆虫のようだ。

「死ぬか?」

 純種のノスフェラトゥ……

 しかし、その口調は……

 純種のものにしてはおかしかった。

 まるで、それは雑種。

 人間が混ざったような口調だ。

 感情が、決定的に欠けているわけではない。

 そう、彼の鬼は病に侵されていた。

 人間という、病に。

 彼の鬼は、ヴァイオリンとは違う。

 体に不具があるわけではない。

 その精神が、出来損ないだった。

 純種であるにもかかわらず、まるで人間のように。

 生まれた時から、その精神は、蒙昧に抱かれていた。

「愚問だねっ!」

 しかし、もちろんのことブラックシープがそんなことを気にかけるわけもない。ブラックシープの頭の中にある存在の区別はたった一つしかない、正義か、悪か。単純そのものだ、しかも非常に効率的。実際のところブラックシープのように生きていると、それ以外の区別には思考を割く価値すらもないように思えるものだ。そして、目の前の、自分の体を掴んで離さないこの鬼は……悪! だから、彼の鬼が純種だろうが雑種だろうが、ブラックシープはたった一言そう叫ぶと、軽く右腕に力を入れて、拘束から引き抜いた。

「正義は死なないっ!」

 そして、金の蹄を躍らせて。

 彼の鬼の腕を切って捨てた。

 まるで口の端から滑り落ちた煙草の吸殻のようにして、彼の鬼の二本の腕は夜の空から、夜の街に向かって落下していく。さすがのノスフェラトゥであっても、まあ当然のことながら、腕がなければ対象を抱えることはできない。ブラックシープの体は必然的にその束縛から解かれる。ブラックシープの体はそれから、闇に溶ける一筋の悲鳴のように姿勢をのけぞらせて、彼の鬼の体を思いっきり蹴り飛ばした。

 彼の鬼の体は傾ぐ。

 ブラックシープの体は落ちる。

 遥か下に霞んだ摩天楼。

 普通に落ちれば、確実に死ぬだろう。

 けれど、この男はブラックシープだ。

 ブラックシープは正義。

 そして、正義は死なない。

 ブラックシープは、さっと手を例の腰のベルト、今更ながら名前を紹介するとシープ・ユーティリティーベルトというのだが、それはともかくとして幾つかのシープ・ポーチのうちの一つを開き、シープ・便利アイテムを繊細な指先で器用に探った。そして中から取り出したのは……シープ・グラップル! ブラックシープの頼りになる味方だ! 手にはめる籠手の様な形をした射出装置で、その先端からシープ・ロープに接続したシープ・フックを射出する。そのシープ・フックをビルや崖のとっかかりに引っ掛けたり突き刺したりすることで、シープ・ロープを固定し、一種のスイングロープや命綱のようにして使うことができる。また、籠手の部分にシープ・緩衝装置が埋め込まれているため、引っ掛かったり突き刺さったりした時に使用者の腕や肩にかかる衝撃を最小限に抑えることもできる。

 ブラックシープはそのシープ・グラップルを手にはめて。

 くっと、視線を眼下の街並みに向けた。

 籠手の先をその方向に向けて、タイミングを計る。

 摩天楼の一筋、町の指の一本が近付いてくる。

 もう少し、もう少し、もう少し。

 今だ!

 ブラックシープは、自分の落下の軌跡に一番接近したビルディングの先端が自分の体に寄り添うようにしてその爪の先を差し出してきた時に、そのビルディングの窓の一つに向かってシープ・フックを射出した。シープ・フックはその窓を突き破り、その窓の内側にいた疲れ切った顔をしたOLは疲れ切った顔を驚き切った顔に変え、その窓の中にいたサラリーマンはちょうどそのタイミングにオンライン対戦でティアー・トータを決めて、きらきらと節電のために照明を切り詰めたオフィスの内側にガラスの破片がきらめいて、そしてシープ・フックは見事に窓枠に引っかかりシープ・ロープを命綱として固定することに成功した。弛んだシープ・ロープが見る見るうちに緊張していき、ビルの中ほどまでブラックシープの体が落ちて行った時に、その緊張は最高点に達した。びぃいいいん、とシープ・ロープは音を立てて弾んで、ブラックシープの体を重力に抗って支える。籠手の内部でシープ・緩衝装置が働きブラックシープの腕に伝わる衝撃を最小限にしたが、さすがに今回は落下の開始地点が少し高すぎたようだった。

 その手がシープ・グラップルを嵌めた方。

 がくっと肩が嫌な音を立てる。

 どうやら、肩が外れたらしい。

 しかし、シープ・マスクの中で。

 ブラックシープの表情は微塵も揺らがない。

 正義への信念が麻薬のように働き。

 彼に痛みを感じさせないのだ。

 そのままブラックシープの体はビルディングとビルディングの間、夜の街を切るようにスイングして、そのスイングが最高地点に達したところでブラックシープはシープ・グラップルからシープ・ロープを切断した。蛍光灯のきらめく光の海の中に投げ出される、眼下に広がっているのは大動脈のように八車線の車を流し続けるアベニュー。昼間や夕刻よりははるかに車の数は少ないが、それでも数台の車が隙間の空いたネックレスのようにして駆け抜けていくそのアベニューに、ブラックシープは目を凝らす。

 視線の先の車々は……まるでストック・ティッカー・マシンを駆け抜けていくティッカー・シンボルのように(ただし、それほど取引は活発ではないようだ、昨日あたりからパラライズ・デイズに入っているのかもしれない)。そしてブラックシープは、その相場の上下の全てを把握しようとしている、エコン族の神々に呪われた相場師のように(パラライズ・デイズに休暇を取り忘れる相場師なんて、エコン族の神々に呪われた相場師以外にはいないだろう)。サリートマト社はいつもの通り上がり調子だ、そろそろどこか戦争が始まるのだろう、そのわりにはディープ・ネットの値は下降している、「国家(略)統合組織」がまた何かスペキエース保護の条約を結んだのかもしれない。そんな顔をして。そして、その相場師の視点が、ようやく定まる……シープ・マスクの奥、ようやく自分の探し求めてきた銘柄を見つけたかのように。

 重力に抗うために体をひねる。

 金の蹄の重量を振り子のようにして。

 自分の落下の角度を捻じ曲げる。

 そのティッカー・シンボルに。

 その車の天井に、体を導くために。

 オール・ヘイル・モネータ、耳にエコン族の戦闘の歌が聞こえてくる、全ての金をあの株につぎ込め。相場師は笑う、呪いが彼の顔を覆うがゆえに。つまり、ブラックシープの体は、柔らかく大気圏の抱擁を受けるブラック・ダイヤモンドの隕石のようにして、やがて一台の車の天井に落下した。

 どんっ。

 音と衝撃。

「うおっと!」

「またですの!?」

 メアリーが跳ねる体を何とかシートに押さえつけながらそう叫んだ。一方で、さすがにアーサーのハンドルさばきにも限界というものがあり、そしてブラックシープ落下の衝撃によって運転障害係数のようなものがその限界値を軽く超えて跳ね上がった。アーサーとメアリーの乗った車は、ブラックシープの入射角に従ってめちゃくちゃにスリップして、派手に隣の車線の車に激突した。

「きゃあっ!」

「おいおい、シートベルト絞めとけっつっただろ?」

 メアリーの体がアーサーの座る席の方に思いっきり投げ出される、何とかその体を傷付かないようにして片手で抱きしめ受け止めながらも、その上で反対の手、アーサーは車を何とか制御下に戻そうとする。ちなみに夜警公社の車はブラッドフィールドで通常想定される衝撃に耐えられる程度には頑丈にできていて、つまりロケットランチャーでミサイルをぶち込まれた上に、それによってできた穴に風刃式手榴弾を突っ込まれて、そしてその風刃式手榴弾が特に故障個所もなく、無事に爆発してそこら中に超音波の刃をまき散らした場合に運転不可能になるということだ。そのため、隣り車線の車に激突したぐらいでは傷一つつかない。まあ、激突された方の車にとってはご愁傷な結末に終わってしまったが、幸いなことに搭乗者は全員死ぬことはなかった、それもアーサーの運転技術の賜物と言ってもかまわないだろう、そして死ぬことはなかったとしか記述できないところに、アーサーの運転技術の限界も垣間見えてくる。

「すまねぇな! 夜警公社に被害届を出す時は「アーサーにやられた」っつってくれよ! たぶん普通よりは早く処理されるから!」

「アーサーさま! 前、前、前を見てくださいまし!」

「わぁーってるよ! ちょっと待てって!」

 そんなことを言いながらアーサーとメアリーの乗った車は、軽く何度か宙を翔けて、そして次々と無差別にパートナーを変えながらワルツを踊るかのように、周りの車を更に数台犠牲者として巻き込みながらも(かろうじて死者は零名だ)、なんとかもともとの車線上に落ち着くことができた。

「ふう……何とかなりましたわね……」

「ああ、何とかなったな。」

「それで……」

 そう言いながら、またメアリーは窓から首を出して、上に落っこちてきたものが何かを(もう九割がたブラックシープだろうなとは思っていたけれど)確認することにした。そしてその目が見たものは案の定ブラックシープで、どうやら今まで車から振り落とされないように天井にしがみついていたようだった。車が普通の運転に戻ったのを見計らって、すっくりと、堂々とした、まるで不死鳥の再誕とも見紛う大げささで、ブラックシープは立ち上がる。けれどその中で一か所だけ変というか、ちょっと情けない感じのところがあって、それはだらん、と肩からぶら下がるように垂れている片方の腕だったけれど、それは恐らくさっき外れた方の肩なのだった。

 そのことに気が付いたらしく。

 ブラックシープはふと自分の腕を見た。

 そして、それを反対の手で引っ掴むと。

 がこん、と外れていた肩を嵌め直した。

 これで、問題ない。

 まさに、ヒーローの姿だ。

 だから、ブラックシープは堂々と叫ぶ。

「アーサー・レッドハウス! メアリー・ウィルソン! 私が来たからにはもう安心したまえ! 悪しき者の目の前にある間は、この蹄が血に乾くことはないのだから!」

 メアリーは聞き終わると首を車の中に引っ込めて。

 そしてぐったりと椅子の背もたれに寄りかかった。

「アーサーさま、ブラックシープさんはどうやらご無事のご様子ですわ。」

「ヒーローってのは死なないもんだからな。だが、それだけじゃねぇみてぇだぜ……参ったな、あいつもせめて、もう少し人通りが少ねぇところで襲ってくれりゃあいいのに。」

 アーサーは、含んで笑うような、その笑みはもちろんスープに浸したパンのように自嘲をたっぷりと含んだものだったけれど、とにかくそんな声でメアリーに言いながら、目を軽く車の進行方向の、斜め上、空の方に向けた。メアリーもつられて、疲れ切ったような顔のままでその方を見る。

 腕のない人影のようなもの。

 その代わりに二枚の羽が生えて。

 合成された絵のように浮かんでいる。

 常に、一定の距離。

 アーサーの視線から保ったままで。

 最高速度で突っ走る車から保ったままで。

 何事も、ないかのようにして。

「純種の……ノスフェラトゥ?」

「キューカンバー。」

 アーサーは苦り切った笑顔のままその名を言った。

 ホワイトローズ・ギャング、四人の幹部の一人。

 彼の鬼の名前はキューカンバー。

 その名の通り、空虚な鬼だ。

 メアリーは、キューカンバーの口が、小さく動いたような気がした。その瞬間に、キーンと割れるように頭が痛む。思考がかき乱されて、まるで叩き割られたガラスにように、とがって、きらめいて、まき散らされる。そのガラスの一枚一枚に、自分の思考が映し出されれているのだ、叩きつけられた拳によって、粉々に砕かれて、その拳のことを、メアリーは知っていた。これは、純種のノスフェラトゥの言葉だ。人間には理解できない、言語以前の概念が、カッターの替え刃のように鋭く研ぎ澄まされた思念の波動として襲いかかってくる。メアリーは、声にならない悲鳴を上げて、頭を強く抑えた。何の意味もない行為だったが、反射的に体が動いたのだ。それから、身をよじるようにして隣の、運転席のアーサーを見た。

 話しかけられたのはアーサーだ。

 そして、アーサーの声が聞こえる。

「なんだよ、キューカンバー。」

 そのアーサーの言葉に対するキューカンバーの返答を翻訳するとこういうことになる、アーサー・レッドハウスはホワイトローズ・ギャングの計画する革命の脅威となりうるため排除される。排除の執行者はキューカンバーが担当する。抵抗は無意味ではないが、キューカンバーはその抵抗を無効化する用意がある。従って、余計な手間を省くためにも無抵抗であることを推薦する。

「そうか、わざわざ説明してくれてありがとうよ。でもまあ、抵抗させてもらうよ、この付近をご通行中の皆さんにはちょっとばかし迷惑をかけちまうかもしれねぇが……まあ、ここはブラッドフィールドだし、そこらへんはいつものことって許してくれるだろ。今日の俺は、滞りなくまな板の上で調理される魚の気分じゃねぇんだ、なんといってもこっちには正義のヒーローがついてるからな。なあ、ブラックシープ!」

 アーサーは、最後の言葉を天井に向けての呼びかけにしてそういった。天井の上から、ブラックシープからは、頼りがいがありそうな声だとブラックシープ自身としては考えているだろう声で(その割には少年のように鈴やかなこえではあるのだが)こういう答えが返って来る。

「もちろんだとも、アーサー・レッドハウス! あなたたちには正義のヒーローがついている!」

 そして、ブラックシープは頭上斜め上の方に浮かんでいるキューカンバーに向かって金の蹄を掲げるようにして見せつけた(ここで念のため補足しておくが、ブラックシープはアーサーとキューカンバーの会話を理解してこのポーズを取ったわけではない、ブラックシープはノスフェラトゥの言葉を理解できないし、ただ単純にこのタイミングで金の蹄をキューカンバーに向けて掲げたらかっこいいかな、と思っただけだ)。

 それに対してキューカンバーはため息をついた。

 非常に人間らしい態度だ。

 ノスフェラトゥに似合わない。

 それから、切り落とされた二本の腕を、まるで絡みつく触手のような筋肉と骨を束ねて、こともなげに再生すると、その両手を指揮者のようにして夜の闇、今では厚い雲の層に覆われて、今にも雨が降りそうな、漆黒に塗りこめられた夜の闇に向けて差し上げた。そしてその喉は、兵器の歌を歌う。喉の奥の弦を舌先の弓で爪弾いて、ヴァイオリンが歌ったのとまるで同じ、長く長く、尾を引く、殺戮の音楽を奏でる。

 その音楽に合わせて。

 影が泳ぐ。

 オフィスの光、看板を照らす光。

 そういった、人口の光の中。

 ビルの屋上を、幾つも、幾つも。

 影が泳ぐ。

 人の形をした、人でないもの。

 いや、既に人の形さえしていないもの。

 ビルの屋上から屋上を飛ぶように伝って、アーサー達の車にぴったりと並走している影の存在にいち早く気が付いていたブラックシープは、シープ・マスクの望遠機能を使ってその姿を拡大した。ちらちらとひらめく異様なその姿を、後ろ脚と前脚を使って、より効率的に駆け抜けていくその姿を、よくしつけられ、調教されたその姿を。それは……まさしく……間違いもなく……狩りを行う側の生き物……肉食の獣……つまり、ライカーンの群れだった。しかも、月変りをした後の姿をした。彼らの目は、まるでひび割れたように血走っている、これはライカーンが狼化剤を使用している時に出る特徴のうちの一つだった。

「アーサーさま、ライカーンの群れですわ!」

「へえ、マジか。てっきり野良の連中を差し向けてくると思ったんだけどな、思ったよりあいつらも賢かったってことか……しかも月が隠れてるってーのに、もう犬の姿になってんじゃねぇか。高い薬を使ってるみてぇだ、あいつらも……よっぽど俺を殺してぇらしいな。何かしたか、俺? まあ、したんだろうな。もしくは何かする可能性があるのか。」

「アーサーさま、確かにライカーン相手だとちょっと不利かもですけれど、それでもわたくし戦えますわ! メアリー、行ってまいります!」

「だーかーらー、言ってるだろ、パピー。こんな町のど真ん中であいつを呼び出すなって。」

「そんなことをいっている場合じゃありませんことよ! アーサーさまを守るのがわたくしの務め、他の何物に変えても! それに、どちらにせよブラックシープさんが暴れ遊ばしますわけですから、メアリーが暴れてもそれほど変わりませんわ!」

「まあ、お前の言うことも一理あるがな、パピー。しかしブラックシープが暴れるのとメアリー・ウィルソンが暴れるんじゃあ世間の反応も大分変わって来るだろ? つい最近もヘンハウスの手入れでやらかしたばっかりじゃねぇか。夜警公社にも評判ってやつがあるんだよ。」

「それは……そうですけれど……!」

「大丈夫だって、ブラックシープに任せとけ。間違いなく犯罪者だが、それでもあいつは……」

 そういうと、アーサーはハンドルを握ったままで、ちらっと一瞬だけ天井の方、ブラックシープがその上にいると思われる個所に目をやった。それから、言葉の続きを口にする。

「思いのほか強いからな。」

 さて、その間違いなく犯罪者で思いのほか強いブラックシープだが、アーサーとメアリーの頭上で何をしているかというと、シープ・ポーチをごそごそとあさっていた。そして、やがて目当てのものを見つけたのかひっぱり出す、それはどうやらスプレー缶のように見えた。ててーんっ!といった感じの手つきでそれをキューカンバーに見せつけるようにして掲げてから、おもむろにそのスプレー缶を自分の金の蹄に向けて吹き付け始める。スプレー缶からは……まるで燃え盛る瞋恚のような色をした炎が噴き出される、そしてその炎はまるでねとねとと粘着する、液晶で出来たスライムのようにして、ブラックシープの蹄にまとわりついて、次第に馴染んでいき、そのまわりに落ち付いた。

 金の蹄は炎を纏った。

 あるいは神を殺すことができなくとも。

 仮にその姿に触れるための炎。

 いや、正確にいえばこれは炎ではなかった。これは、フロギストン。神や鬼といった存在への対抗手段として、科学者たちが未だ錬銀術師や占秘術師と呼ばれていたころに、初めて発見した物質のうちの一つだ。現代の対神兵器には遠く及ばないが、少なくともこの炎に似た物質は、ゼティウス形而上体へダメージを与えることができる。もちろん、ブラックシープはこの物質の名前や、その由来などは全く知らなかったけれど(シープ・ノスフェラトゥ撃退スプレーと呼んでいる)これを使えば通常攻撃がほとんど聞かない純種のノスフェラトゥに対してもダメージを与えられるということは知っていた。そして、確かにそれだけを知っていれば十分なのだ。

「さあ、正義は私の蹄に口づけを施した! 有翼の悪鬼よ、正義の光から最も遠き者よ、その悪しき業にふさわしい辱めを受けよ!」

 高らかに、オペレッタの歌手が歌い上げるように、そう宣告を下したブラックシープに対して、キューカンバーはまるで人の腹から生まれた子のように、訝し気な態度で首を傾げた。それから、その美しい歌には伴奏が欠けているとでも思ったのだろうか、また舌を軽く喉の奥に触れさせて、己の弦楽器をはじくように演奏する。

 影が揺れる。

 一、二、三、その先はたくさん。

 十数匹のライカーン。

 それぞれアベニューの両岸。

 ビルの上で、駆けている。

 そのライカーンたちが、一斉にその身を躍らせて、ビルの壁を引きはがすようなスピードで伝い降りてきた。ライカーンの体によって、窓の明かりが幾つか蓋がれて、開いて、蓋がれて、開いて、それは何かの意思を伝える光の信号のようにも見えた。その信号が実際のところは何の意味を伝えていなかったとしても、ブラックシープは確かにその伝えるところを受け取っていた……つまり、ちょっとしたダンスパーティの始まりだ、というわけだ。

「くっ……何と卑劣な、私一人に対してライカーンの群れを叩き付けるつもりだね! しかし、私は決して負けるわけがないよ、なぜなら私は一人であって一人ではない……私には、正義が付いている、そして正義は常にその手で万軍を率いている!」

 ブラックシープがべんべけべんべけと楽しそうに、燃え盛る蹄を振り回しながらそのセリフを言い終わる。するとまるでそれを待っていたかのようなタイミングで、ライカーンの最初の一匹が壁を伝い終わり、地へと降り立ってきた。たまたま通りかかったサラリーマン姿の男を片手で放り投げるように押しのけながら、ヨグ=ソトホースの摂理が作りたもうたとは思えないスピードで追いかけている。ちなみに押しのけられた男はふっとんで、車道と歩道とを分ける柵に体を強く打ち付け、どこかの骨を何本か折ったのだが、それはともかくとしてその最初の一匹の後も、次々にライカーン達が続いていく。

 車にぴったりとついて。

 ライカーンは、両岸の歩道。

 邪魔な人間を、次々に引き飛ばしながら。

 獣毛に覆われた、彗星のように。

 影の尾を引いて、蛍光灯の光を引き裂く。

 ああ、さて、その光を炎の蹄にゆらめかせ……ただその姿は、静かに待ち受けるその姿は、果たして追われるものか、追うものか? いや、そこに疑問の余地はない、正義は常に何かを追う側だ。だからブラックシープは車の上に仁王立ちになって、シープ・マスクの下、透徹な視線を瞼の下で伏せていた。多数の悪を血祭りにあげようという時には、視覚に頼るのはあまり効果的とは言えない。視覚は常にはっきりとした焦点を結び、そしてはっきりとした焦点は多数のものを把握しきれないから。それに対して、聴覚は非常に役に立つ。確かに聴覚にも焦点はあるが、視覚ほど発達しておらず融通が効く上に、耳は顔の両側にあって広範囲を認識するのにことのほか優れている。だから、ブラックシープは目を、視覚を遮断して、その代わりにじっと耳を澄ませていた。

 突き飛ばされた女の悲鳴。

 荒いが整った呼吸。

 時折混ざる唸るような声。

 爪がタイルを掻く音。

 次第に、町を汚す悪の焦点の群れは、左右から正義への距離を狭めて詰めてきた。爪がタイルを掻く音は、金属の柵を跳ねとばす音に代わり、そして最後にアスファルトを掻く音に代わる。ブラックシープの周囲の車が、慌ててブレーキをかける音、道路を引きずるように後ろへと遠のいていくか、その場でスピンしてどこかに激突する音が聞こえる。

 ブラックシープは蹄を反した。

 ダンスに誘う声が聞こえる。

 断るべき理由もない。

 ブラックシープは、優雅に誘いを受ける。

「うおっとぉ!」

「きゃっ!」

 視界を完全に覆うようにして窓に飛び散った血液に、アーサーはたいして驚いた様子もなく声を上げた。車が惑うように進路を揺らめかせて、メアリーはシートから体を放りだされないように掴まりながら、小さく悲鳴を上げる。

 どんっと何かが。

 赤いスクリーンの向こう側で。

 ボンネットの上に落ちた。

 鈍い音を立てて。

 慌てず騒がず、アーサーはワイパーのレバーを一番下まで下げて、更に手前にかちり、と引いた。ガラス窓の下からウォッシャー液が噴き出て、べたべたとねとつく赤い液体とまじりあって、その色を薄める。そして触覚のような二本のワイパーが、そのべとべとを引き延ばしては跳ね飛ばし、己の務めを速やかに果たしていく。次第次第に窓が綺麗になって行く、ほんの少しだけ赤い曇りは残ってはいるが、まあ我慢できないほどではない。

 綺麗になった窓の向こう側。

 ころころと転がっていくそれが見える。

「アーサーさま! ラ、ライカーンの首ですわ!」

「ブラックシープの奴、派手にやってるみてぇだな。」

 首はやがてボンネットから転がり落ちて。

 がくん、とタイヤの下で轢かれて潰れた。

 さて、それはともかくとしてアーサーの言った通り、ブラックシープは随分と派手にやっていた。ライカーンは既にアーサー達が乗る車を取り囲むような陣形を取っていた。その姿はまるで、砂浜に押し寄せては泡立ち砂を己の内側に引きずり込む、波打ち際の波のように密集して、車の後部と、左右の双方に、すこし間を開けてぴったりとくっついてきていた。

 その波の中から。

 撃ち飛ばされる水滴のように。

 ライカーンが襲い掛かって来る。

 ライカーン達の目的は、本来はブラックシープではなかった。彼らは良く調教され、訓練された猟犬だ。命じられた標的を、間違うわけもない。そして、命じられた獲物とは一人だけ、アーサー・レッドハウス。だから、ライカーンたちが群れから跳ねて向かう先は、車の中であって、その天井ではなかった。

 しかし、ライカーン達は、まず。

 屋根の上の妨害者を排除しなければならない。

 なぜなら、悪の咢が弱きものを噛み砕くことを。

 そんなことを許すブラックシープではないから。

 それは……貪欲で、博愛で、瀟洒で、瞋的で、そしてその奥底に哀調を潜ませた聖なる歌に合わせて踊る、あくまでも紳士的なベルヴィル・ワルツだった。手の蹄が車の右側でひらめいて、それと同時に足の蹄が左側で炎を揺らす。しなやかなばねのように、優柔不断な独楽のように、体のそこら中に重心を点々と移して、ブラックシープは舞踏していた。その舞踏は、間違いなく感情的であると同時に、また果てしなく理性的でもあった。呆れるほどに正確な、空間を図る方程式のグラフを、そのまま肉体の動きに写し取ったかのように、ブラックシープの体は、的確に、最小限の動きで、ライカーンの一撃を受け流して、その体を切り裂いていく。喉を、腕を、足を、切断されて落とされたそれらの部位は、あるものはアーサー達の乗る車にぶつかってそこそこ修理に金がかかりそうな傷を作り、あるものはアーサー達の乗る車の後ろを走る車に衝突し、そして今回の事件に計上される負傷者の数と損害金額を着実に増やしていった。

 ブラックシープは順調に、悪を屠っていく。

 アベニューの上に、屍の山と血の海を築いていく。

 今日もまた、特殊清掃業者がどこかで笑みを浮かべている。

 このブラッドフィールドで、最後に笑うのはいつも彼らだ。

 それはともかくとして、兎にも角にもブラックシープはライカーンの群れに対して一歩も引かぬ戦いを繰り広げていた。一歩も引かないというか、一指も触れさせないというか、車の内部は(時折降りかかってくる血しぶきによる視界の遮蔽を除けば)完全に安全を保たれていた。少なくとも、今の時点では。

 しかし。

 これから先はどうか?

「くっ……何ということだ、どんどん増えていく!」

 ブラックシープは大して苦しそうもなく苦しそうな声を上げた。単純なことだ、あまりにも数が多すぎるのだ。最初の一群、最初の十数匹だけだったらそれほど問題はなかっただろう。確かに少ないわけではないが、かといってブラックシープにとっては多いというわけでもない。けれど、アベニューの両側、ビルの上……まるで、何か不吉な水源から湧き出て来る、黒い泉水のようにして、影が、一つ、二つ、それから先はたくさん、首や体のその他の部分を切り裂かれて、使い物にならなくなったライカーン、車の周りを並走し、追い詰める群れは、欠けたところから次々に補充されていく。

「このままでは……全力の十五パーセントを出さざるを得ない!」

 息を荒げることもなく、ヒーローの危機にヒーローが上げるであろう叫び声の叫び方で、ブラックシープはそう叫んだ。一方で……ライカーン達は、次々と仲間を屠っていく燃える蹄に対して、怯えることもひるむこともなかった。それだけではない、正確な戦闘プログラムのようにして、彼らは他のライカーンが殺されていく様から、次第にブラックシープの攻撃パターンを学び始めていた。どの方向から攻撃を仕掛ければ、どうやって防がれるか。一度に相手に出来るライカーンの数は何匹か。一匹当たり、何秒の時間を稼ぐことができるか。つまり、そういったことを。

 そしてやがて。

 その時が来る。

「しまった!」

 ブラックシープが、珍しく声を上げる。

 前後、左右から、一斉に四匹のライカーン。

 取り囲まれて、身動きが取れなくなる。

 そして、それ乗じて、一匹のライカーンが。

 正義の蹄の隙間を合間縫って。

 車の窓を、突き破って、襲いかかったのだ。

「きゃあっ!」

 メアリーが突然のことに対応できず、悲鳴を上げる。

 ライカーンの狼の口、鋭い牙の生えた口が。

 生暖かい涎を滴らせて、車内へと侵入してくる。

 その狙いは、けれどもメアリーではなかった。

 その先、運転席に座っている、アーサー。

「このっ……!」

 それに気が付いたメアリーは、一瞬で顔色を変えた。そして、次第にその目の色も変わっていく。それは、もともとの純粋で、無垢な色から、もっと何か……確かに、純粋で無垢ではあるのだが、まるでベクトルが違った色に、今までがぬいぐるみに取り巻かれた子供部屋の無垢さであったとすれば、今度は……闇だけがそこに蹲っている深海の純粋さに。メアリーの目の色は、そんな風に変わっていく。

 それに気が付いたアーサーは。

 そのメアリーに向かって。

 目覚まし時計のような声で叫ぶ。

「落ち着けパピー!」

 それから、天井で暴れ狂うお荷物のせいでぐらんぐらんと揺れまくるハンドルを、何とか片手だけで押さえつけて、もう片方の手を腰のホルスターに向けた。夜警公社から支給されたHOL-103(サリートマト社製ではなくブラッドフィールド国営企業製造の拳銃、値段の割に時代遅れの構造で、現在では政府関係でしか使用されていない)を抜き、そしてそのまま流れるような挙動でライカーンの額に向け、発射する。

 馬鹿みたいに大きな爆発音が車内に響く。

 ライカーンの頭は吹き飛ばされて。

 血液と脳漿がメアリーの顔にかかる。

 メアリーは、その生暖かい飛沫を浴びると、はっと目が覚めたかのようにもとの顔に、もとの目の色に、パステルカラーのマカロンのようないつものメアリーに戻った。そして慌ててアーサーの方を向いて悲鳴のように叫ぶ。

「大丈夫ですか、大丈夫ですかアーサーさま!」

「だから落ち着けって、俺は大丈夫だよ。それよりお前は怪我ないか?」

「え? ああ、わたくしは大丈夫でしてよ、傷一つありませんわ。」

「そうか、良かったな。ほら、深呼吸しろよ……あー、ちょっと血生ぐせぇけどな、それは我慢して。」

 アーサーの全くもって無事そうな様子を見て、ようやくメアリーも落ち着いてきたのか、ふーっと一つため息をついた。そのため息に繋げて、アーサーの言う通りに深呼吸する。一回、二回、三回。それから、よいしょ、よいしょっと窓から突っ込んだままのライカーンの体を自分の体の上からどかして、それっと小さく呟いて外へ押し出した。ポーチから、いつもの黒猫の刺繍が入ったかわいらしいハンカチーフを取り出して、顔と、それからむき出しの肩に飛び散ったライカーンの体液をふき取る。それから、暫くの間イブニングドレスにも飛び散っていた体液を、一心にハンカチで叩いてしみにならないうちに落とそうとしていたようだったけれど、やがてちょっと小首をかしげて、諦めた。まあ、いいですわ。どうせ、最初からピンク色のドレスでしたしね。

 その時に、屋根の上では。

 ブラックシープは。

 ちょうど三匹目のライカーンの足を切り落としたところだった。バランスを崩したライカーンの腹を蹄で貫いて、そして薙ぎ払うようにしてアベニューに降り落とした。メアリーは、ずた袋のように投げ捨てられたライカーンの体が車の側面に落ちて、そしてアベニューの後ろへと速やかに遠ざかっていくのを見つめながら、アーサーの方に向かってこんなことを言う。

「アーサーさま、ライカーンの数、思ったよりも多いですわよ。これではさすがにブラックシープさんも……」

「そうだな。さすがにちょっと、こっちからも手助けが必要かもしれねぇな。」

「では、やっぱりわたくしが……」

「いや、それよりも良い方法がある。」

「良い方法?」

「犬どもを振り切って、それに速やかに人気のないところに行ける、一石二鳥の画期的な方法さ。」

「え……? アーサーさま、それってもしかして……」

「ところでパピー、お前はいい加減シートベルトをちゃんと絞めとけよ。これからはちょっと……ちょっとじゃねぇか、とにかく、揺れがひどくなると思うからな。」

 そう言いながら、アーサーはシフトレバーを変えて、ギアを更に一段階チェンジした。アーサーがシフトレバーを引いたその先には、安っぽい子供向けのシールでロケットのマークが貼られていた……これは、夜警公社の車にしか配備されていない特別なギアで、正確にいえばギアですらない。名前はそこに貼られたシールにもあるように、ロケット(最初はリバースと同じRで表記されていたが、紛らわしいから後々シールを貼って区別するようにした)という、その名の通りエンジンを通常のエンジンからロケットエンジンにチェンジするためのギア(便宜上の呼称)だ。

 レバーのシフトに従って。

 エンジンが車体内部でチェンジする。

 車の横に翼のようなものが突き出る。

 この見た目は、まるで。

 というか、完全に。

 一昔前の、子供の玩具だ。

「アーサーさま! そ、それは!」

「ブラックシープに加勢しなきゃいけねぇし、それよりなにより市民の皆さまをこれ以上の多大な危険に巻き込むわけにはいかねぇだろ? まあ、あれだ……ちょっとくらいの危険は我慢してもらおうぜ。」

 なぜ夜警公社の車にこんなものが付いているのかは、未だによく分かっていない、はるか昔、まだブラッドフィールドのギャングがED、女半、そしてキラー・フルーツ・ボーティ(フラナガンの前任者であるターナー・ボートライト)の三大巨頭体制だったころに、あまりにギャングからの賄賂の額が多すぎるものできちんと確定申告を出していたのだけれど、その際の税金逃れの手段として配備したのだ、という噂がまことしやかに囁かれているくらいだ。まともな奴であれば、こんなものを街中で使おうとは思わないし、実際にこのギア(便宜上の呼称)が使用された例は過去に五回しか確認されていない。その上、そのうちの三回はアーサーだ。

 そういった夜警公社の裏事情はさておいて。

 今まで頑ななまでにそれを絞めなかったメアリーが。

 慌ててシートベルトを絞めるのとほぼ同時に。

 ロケットエンジンが点火される。

 ぼかんっ!と間抜けかつ鼓膜を突き破るような音がして、アーサーとメアリーとそれから天井にブラックシープを乗せた車ははじけ飛ぶように急加速した。背後に焔の尾を残し、ちょっと常識から考えると公道を走ってはいけないんじゃないか?となるスピードへ、あっさり到達する。ちなみにロケット状態の夜警公社社用車をストップさせることは何者にも不可能だ、目の前の道を障害物(一般の方々が運転する車のことです)が塞いだ時には、この車はその障害物(一般の方々が運転する車のことです)の直前、横に生やした羽で短期の滑空を果たし、軽々と飛び越えてしまうのだ。

 アベニューを突き進むその様は。

 まさにノーデンスの貝殻の戦車のごとく。

 あまりにも当然のことで言及する必要もないと思われるが一応言及しておくとすると、車の後ろと左右とライカーン達はさすがにロケットエンジンの速度に追いついていくことはできず、見る見るうちに後ろに遠ざかって放されていく。一方で、天井にいたライカーン(先ほど飛び掛った四匹のうちの最後の一匹)は急かつ破なその加速に体のバランスを崩して、あっけなくもアベニューに転がり落ちてしまった。その体は哀れにも後ろを走っていた仲間の群れに激突し、ボウリングのように見事なストライクを決めて見せる。

 では、ブラックシープは?

 ライカーンのように無様に転がり落ちたか?

 ご冗談を、そんなことはあり得ない。

 正義は常に己のいるべき場所を心得ている。

 右の手の金の蹄を深々と自分のよって立つ場所に突き立てて(つまり天井のこと、運転席でもなく助手席でもなく後部座席の真上なので搭乗者には被害はありません)ブラックシープは、飛ぶように、というか時折にはまさしく飛んでいるのだが、とにかく驀進する車にしっかりとしがみついていた。

「どうやら犬どもは撒けたみたいだぜ、パピー。」

「あわわわ、あわわ、あわ、あーさーさまっ!」

「ああ、後ろのあれか? 心配すんなって、正義の蹄は悪しき者しか屠らねぇよ。なあ、ブラックシープ!」

 アーサーがしてやったぜ的な口調で言ったが、メアリーとしてはそんな茶目っ気を出せる余裕があるわけもなく。体をこれでもかというほどに押し付けてくる重力定数のせいで、シートにしっかりと収まりがついてしまっていた、かろうじて口に出来ている言葉も、「あーさーさま」という一語以外は事象の地平線の遥か彼方に突き抜けてしまっている。

 まあ、そんな感じのメアリーはいったん置いておいて。

 果たして三人は、ようやく危機的状況から抜け出せたのか?

 いや、残念なことに、まだそういうには尚早のようだ。

 アーサーは、荒れ馬を手綱一つで見事に操りながら。

(見事に、というのは最低限度の犠牲という意味だが)

 ちらり、と前方斜め上に、軽く目を上げる。

 まだ、そこにいた。

「さて、あとはあいつだけだな。」

 まるで、この車が先ほどから全く速度を変えていないとでもいうように。いや、それよりもこの車がただその場に留まっているだけだとでもいうように。キューカンバーは、最初とまるで変らぬ距離のままで、アーサー達の乗る車の前方斜め上、ふわふわとあくまで緩やかな態度で浮かんで、そして赤く沈んだ目でじっと見下していた。ふっと、キューカンバーはその目を静かに動かして、植物の生育状態を確認するアンドロイドの科学者のような視線を、遠ざかっていくライカーン達に向けた、そして、ふーっと、失望した人間のようなため息をつく。

 左の手を、すっと夜の方に差し出す。

 手の先の、蜘蛛のような手のひら。

 夜を噛んで、そこに穴を開けるように。

 次の瞬間に、その姿が消える。

 その次の瞬間に。

 フロントガラスが。

 粉々に砕ける。

「アーサーさま!」

「パピー、大丈夫だ! 落ち着け!」

 キューカンバーが。

 ボンネットの上、すぐ目の前で。

 運転席の方に身を乗り出す。

 少しだけ不満そうな顔をしている。

「そんなことを言ってる場合ではありませんわ!」

「もう少しで海につく! それまではおとなしくして……」

 まるで棚の上のものを取るような手つきで。

 アーサーの目の前、左手を上げて。

 まるで握手のために差し出した手のように。

 アーサーの顔に向かってそれを突き下ろす。

 しかし、アーサーの顔に当たる直前に……

 その左手は、肘の先から切断され、吹き飛ぶ。

「正義のヒーローに任せとけ!」

 いつの間にか自分の手が消え失せていたことに、ありきたりの怪訝さを隠そうともせず、キューカンバーはまじまじと肘の先を眺めている。馬鹿にしたように首を傾げると、イライラしている蛙のように奥の歯を噛む。視線を肘の先から、その奥に伸ばしていく、その奥では何かが燃えている、たぶん金色のものだ、金色の蹄。その蹄が、キューカンバーの左手を切り捨てたのだと思われた。

 ボンネットの上に立ち上がる。

 それが、静止したベッドの上であるかのよう。

 やれやれ、といった感じで首を振り。

 あくまで穏やかな口調で、言う。

「邪魔をされないことを望む。」

「残念ながらその望みが叶うことはないよ!」

 金の蹄の持ち主は。

 高らかに、そう謳い上げた。

 いや、まあ高らかに、そう謳い上げたのは良いのだけれど、それほどブラックシープの状況は有利だとか、少なくとも不利ではないとはいい難い状況にあった。ロケットエンジンによる法定速度外れの速度がもたらしている、とんでもない慣性エネルギーだとか位置エネルギーだとかそのへんのエネルギーのせいで、ブラックシープはその場にしっかりと立っていることができず、楔のように打ち込まれた金の蹄によって、辛うじて車の天井に己をアンカーしているに過ぎない。一方で、キューカンバーはとんでもない慣性エネルギーだとか位置エネルギーだとかそのへんのエネルギーのことを、明らかに軽んじているようだった。この時点で既に状況は不利なものといわざるを得ないし、そしてその上、ブラックシープは、まだ実力の十五パーセントしか出せていない。

「大いなる正義の力によって、悪の使徒の抱く邪悪なる野望は、常に打ち砕かれるのだから!」

 しかしブラックシープは!

 自信満々に、そう叫んだ!

 正義の洗礼を受けたものに恐れるものはない!

 どんな状況でもくじけることはないのだ!

 そんなブラックシープの蛮勇の姿、白痴じみたヒロイズムの発威を見て、キューカンバーは明らかな嫌悪の響きと共に深く深くため息をついた。それから、大地にしっかりと固定された階段を一段だけ上がるようにして、ボンネットの上から車の天井へと足を差し上げて登る。例えば自然の法則に対して、ひれ伏しているような姿のブラックシープの目の前、その自然の法則の顕現ででもあるかのような不遜さで、キューカンバーは見下ろしている。

 その視線の先を、変えて左ひじの先に向けた。金と炎の蹄に切り落とされて、焼け付いた傷口の先、少しずつ新しい腕が萌えいずる。しかしその速度は、あまりにも遅すぎた。ブラックシープのその蹄が何で出来ているかは分からないが、それはどうやらフロギストンの力を借りずとも鬼的ゼティウス形而上体に傷をつけられるものらしかった(神的ゼティウス形而上体に関しては正確なことは言えないが、先ほどの感触からすれば、おそらくそれを傷つけることも可能だろう)。そして、その切り落とした傷口をフロギストンの炎で焼くことによって、再生の速度を極端に落とされているらしい。確かに、少しだけ、普通の人間を相手にするよりも厄介かもしれない、キューカンバーは多くのダメージを受けていた……しかし、そうではあっても再生できないほどではない。

 キューカンバーは重々しくその口を開く。

 ノスフェラトゥに似合わぬ憂鬱そうな顔のままで。

「阻害要因を排除する。」

 そして、斧でできた振り子のように、ブラックシープの頭に向かってその足を振り下ろした。だうっ、と鈍く音がする、しかしそれは有機的な物体が潰れるときの柔らかい音ではなかった、もっと金属的な音、何かを貫くような音、キューカンバーの足は、要するにブラックシープの頭を空振りして、その下の金属板を貫いていただけだった。中からメアリーの悲鳴が聞こえて、驚いたのか何なのかアーサーのハンドルさばきが一瞬だけ揺らめいたが、それだけだった。被害は車の天井の一部と、揺らめいた際にその進行方向にいたためやむを得ず跳ね飛ばした一般の方の乗用車一台、そしてその中に乗っていた会社員男性一名(頭蓋骨以外のほぼ全身を複雑骨折)だけだ。あとバンパーがめちゃくちゃ凹んだ。

 ブラックシープはどこへ?

 キューカンバーは殺意を感じた。

 己の頭上を見上げた。

 流星のように炎が。

 全き闇を泳ぐのが見える。

 寸でのところで、キューカンバーはそれを避けた。普通の人間が行使する物理的な暴力であれば避けるまでもないが、このフロギストンに包まれた正体不明の物質に関してはノスフェラトゥの構造的優位がそれほど強く関与してくるわけではない。流星は既に大きな穴が二つ開いている天井にもう一つ穴を付け足して(やはり後部座席のほう)、そしてブラックシープの体をまたその場にアンカーした。そこでブラックシープの攻撃が終わるわけもない、蹄によるアンカーを支点として軽く天井を蹴り、コンパスのような形で体を回転させた。足の刃は外周を研ぎ澄ましたコマのようにキューカンバーの足を狙い、それを切りつける。

 キューカンバーはその場で跳んだ。

 くるん、と身を丸める。

 二枚の翼を垂直に立てる。

 二枚刃のシャリテ・ド・ギヨタン。

 体を回転させる。

 風車のように、刃を立てたまま。

 車を引き裂くようにして。

 その刃を叩きこむ。

 今度はさすがにブラックシープも避けるわけにはいかなかった。もしもこれを避ければ、二枚の刃は正確に車を三枚におろすだろう、しかもその過程で、アーサーとメアリーの体も真っ二つにしたうえで。アンカーにしていた手の蹄を引き抜くと同時に、両足のそれを深く踏み込んで体を固定する、両腕を自分の体の目の前で交差させて強度を高めた上で、その先の二つの蹄でキューカンバーの二枚の翼を受け止める。翼は車の後ろにしっかりと爪を立てつつも、ブラックシープによって何とか防がれる。

「くっ……卑劣だぞノスフェラトゥ! 関係ない人々を巻き込むな!」

 関係ないも何もキューカンバーの目的は最初からアーサーだったし、その意味ではブラックシープのほうが遥かに関係ない人なのだが、そういう論理的な思考を求めるのは少し高望み過ぎるらしく、とにかくブラックシープはキューカンバーに対して全く苦しんでいなそうな苦し気な口調で言い放った。一方の卑劣判定されたキューカンバーの方だが、特に戯言に耳を貸すつもりもないらしく、受け止められた二枚の翼を即座に自分の肩から切断した。自由になったその体は、軽々しくブラックシープの背後に着地した、そのあまりにも無防備になってしまっていた背後に。

 先ほどは避けられた足。

 振り子仕掛けの斧。

 思う存分、その背に叩き込む。

「ぐわあっ!」

 正義の味方が悪の手先に攻撃されたらたぶんこういう声を上げるんじゃないかという感じのぐわあっで、ブラックシープは声を上げた。大して痛そうな悲鳴でもなかったが、とにかく悲鳴は悲鳴だ、その悲鳴は天井にいっぱい開いている穴を通じて、車内にまで届けられる。

「アーサーさま! ブラックシープさんが!」

 メアリーがシートベルトの抱擁の中、身じろぎをしながらそう叫んだ、ブラックシープの悲鳴とは違って全くもって悲痛に聞こえる叫びだ、そんなメアリーに向かってか、それとも天井のブラックシープに向かってか、アーサーは一瞬たりとも前方から目を離すことなく、言う。

「あと少しだ!」

 あと少し?

 そう、確かに、あと少しだった。

 車は既にアベニューを抜けていた。海のそば、シーサイドの高級住宅街、その通り、ブラッドフィールドの人間は誰もかれも猫も杓子も(ベッドストリートに住める一握りの人間は除いて)海の近くに家を持ちたがるものだ。実際のところはダウンタウンの海辺は貨物用の港とそれに付随する倉庫群にほとんど完全に塞がれてしまっているため、本当に海のそばに家を持てるのはアップタウンに住居を所持できるくらいの金か権力かコネクションがある人間だけなのだが、それでも夢を持つのは悪くないことである。

 ちなみにその理由は、本人達はきちんと理解していないのではあるが簡単なことで、これはブラッドフィールドの人間に入植者時代からの本能として刻まれていることなのだけれど、彼らはつまり神々からの復讐を恐れているのだ。実際はアルディアイオス王を筆頭にパンピュリアの神々は皆がノスフェラトゥに処分されていてゲマトリア第九階層からのセカンド・カミングもしないようにその力を封じられているのだが(その封印にはちょっとした便利な副産物もついてきている、そもそものところパンピュリアの神々はゲマトリア第九階層にさえいないのだ、これに関しては後々説明することもあるだろう)、さらに第二次神人間大戦から先ほとんどの神々はゲマトリア第一階層に昇天してしまい現在では神々という存在を知っている人間のほうが少ない状況だが、それでも神々への恐怖は人間の深い深い頭蓋骨の底に定礎のように埋め込まれた確定的な事実だ。だからブラッドフィールドの人間は神々の復讐を恐れている、神々がいつかブラッドフィールドに帰ってきた時に、地震の気配を察知した柱噛みの鼠たちに似た態度で、すぐに逃げ出すことが出来るように海の近くにその身を置いておきたいのだ。

 それはともかくとして、アーサー達の乗った車は住宅街を一直線に突き刺す、まるで広大な面積の布に打ち込まれる工業用ミシンの針のようにして。住宅街は……似ているものがあるとすれば、子供たちの夢に出てくる妖精たちの小さなドールハウスみたいな世界だろう、その妖精たちが良い妖精であるか、それとも悪い妖精であるかは置いておいて。石畳を敷かれてでこぼことした、実用よりも景観を重視した道に区切られて、人間の背丈の二倍近くある高い塀、その上に有刺鉄線を張り巡らした高い塀が個人所有の住宅街を囲っている。塀に囲われて守られた土地の中には、プールやらヤシの木やらペットハウスやら、必要はないにせよ金持ちとしては揃えておかなければならない贅沢必需品が広々と詰め込まれている。大体の家が白とガラスを基調とした、直線と曲線の小数点以下を人工的に整除した、シンプルでモダンな形をしていて、各々の住宅の形状にはほとんど個性の様なものは見られないのだけれど、これはこの住宅街の住民達が自分達で定めた景観条例のせいだった。

 背後には灰色の悪夢の欠片のようにして、曇り空のせいで黒く塗りつぶされた空の背景、オフィス街のぎっしりと密集したビルディングがこちらを圧迫するように見下ろしてきている。それに対して住宅街にある家々の、無力なほど広大なことよ。寒気がするほど快適で、吐気がするほどゆったりとしている。ここに住めば、怖気を振るうほど心地よく、胃がひっくり返りそうになるほど余裕がある生を送れそうだ。

 そして、この道の先には。

 住宅と住宅の、狭間。

 ひたひたと注がれたように。

 水平線が覗いている。

 そう、確かに、あと少しだった。

「確かにあと少しですわね!」

「だろ!」

「でも、海に着いたらどうするつもりですの!」

「考えてねぇよ!」

「えっ!」

「着いてから考えりゃいいだろそんなこと!」

「アーサーさまっ!」

「人生目的がある奴のほうが少ねぇもんだぜ、パピー! それを思えば目先の目的があるだけ俺たちは幸せってもんだろ!」

「アーサーさまっ! 意味が分かりませんわ! いくらなんでもめちゃくちゃすぎますことよ!」

「だーって掴まってろ! ブラックシープ! もう少しだぜ、大丈夫か!」

 大丈夫ではなかった。

 ブラックシープは、端的にいえばスーパー危機的状況タイムであった。キューカンバーは既にブラックシープに数回、打撃をくわえていて、純種のノスフェラトゥの打撃を数回たたき込まれれば、普通の人間だったら確実にその回数だけ死んでいるだろう。しかしブラックシープはその体を覆う素晴らしいシープ・スーツの衝撃吸収力と、そして持ち前の我慢強さのおかげで何とか死なずに済んでいた。

「くっ……その手を離せノスフェラトゥ!」

「拒否する。」

 暗い目は揺らめきもせず揺蕩う。

 今、ブラックシープの体は。

 キューカンバーの片手に、吊り下げられていた。

 キューカンバーはブラックシープの喉を掴み。

 強く、強く締めあげていた。

 普通の人間だったら少しつままれただけで死んでいた。

 しかし、ブラックシープはその体を覆う(以下略)。

 キューカンバーはそのせいで、ブラックシープのことを完全に不審なものを見る目でしげしげと見つめていた。この手のひらの中にある、藁のように細い喉の持ち主は、なぜ死なないのか? 訝し気に首を傾げる、見た目は普通の人間に見える。スナイシャクの匂いも普通の人間のものだ。それなのに、全く死ぬ気配がない、たしかに体を包んでいるこの黒いスーツの様なものは衝撃を吸収する性質があるようだが、しかしいくら何でもそろそろ死んでもいいころだろう。

 奥の歯を噛みしめ、軽く舌打ちをする。

 面倒事を背負ったと言わんばかりに。

 しかしまあ、別に構わない。この男が何者であろうとも、それほど大きな問題ではない。大した違いはない。やるべきことがあり、それをやればいいだけだ。単純化された目的と実行の意識に切り替える、するとおのずとやるべきことも理解できる。今やるべきことは一つ、この男を速やかに無力化すること。一番確実な方法は殺すことだが、それが無理ならば他の方法を取ればいい。他に考えられる方法の内で、最もシンプルな方法を思考の中で選択・理解する。

 車から放り落とせばいい。

 ロケットエンジンで駆動する車。

 人間ならば追いつくのは不可能だ。

 さすがにこの男でも、追いつくには時間がかかる。

 少なくとも、対象を殺す時間くらいは稼げるだろう。

 決定された行為を、キューカンバーは実行に移そうとする。

 喉元を掴んだ腕を、子猫と遊ぶように、振り上げる。

 しかし、その時に、道の先に視線を向けた。

「アーサーさまっ! 何をなさるおつもりですか!」

「さあな! とりあえず突っ込んどくぜ!」

「どこに!?」

 道の先は……良く視界の開けた展望台のような場所になっていた、アップルからベッドストリートを通り、その先のアベニューを抜けてダウンタウンに行く前に曲がったその先、海を見下ろす崖の一番高い所、一番遠くまであの海を見通せるところ、この場所はウォッチクリフと呼ばれている。それは夜の闇に溶け込むような黒い色をしていて、驚くべきことにその土台の全てが黒イヴェール合金でできていた。もちろんセカンダリー品、量産用の質の悪いものではあるが、それでもこれだけの量を作るには恐ろしいほどの何かしらの犠牲が費やされたものだった。そこまでの犠牲を費やした理由は……つまり、ここは第一次神人間大戦の時に、パンピュリアの外から来る神々を見張り、そしてそれを迎え撃った場所だった。今ではただの観光名所になっている。この付近だけは高級住宅街ではなく、どんな観光地にでも湧いて出るような土産物屋がたくさんあって、そのどれを覗いても、全く同じものにしか見えない絵ハガキを売っている。ウォッチクリフから海を遥か見渡した光景の絵ハガキだ。

「海だよ、海!」

「海!?」

「それ以外にないだろ!」

「アーサーさまっ! とりあえずの感覚で海に突っ込んではいけませんことよ!」

「そうだな、俺もそう思うよ!」

 そんな、内容だけは極めて呑気に聞こえる言葉をながらも、車は躊躇いがちな様子さえ見せずそのまま展望台へと突っ込んだ。戦後に置かれて、その後の長い年月の中で何度か取り換えられた木製のベンチを跳ね飛ばし、中心に置かれた石碑を華麗なドライビングテクニックで避けて、そしてそのままその先へと向かう。

 海へと向かう。

 キューカンバーは不思議そうに首を傾げる。

 メアリーは「きゃうあああ!」という悲鳴を上げる。

 アーサーはアクセルを最奥まで踏み続ける。

 ブラックシープは「ジャスティス!」と叫ぶ。

 海へと向かう。

 柵を突き破る。

 飛ぶ。

 暗い海。

 ロケットエンジンの炎を映し出してきらめく。

 暗い空。

 黒一色の車は溶けるように空を飛んでいる。

 重力が手を伸ばす。

 車は前に傾く。

 斜めに緩い弧を描く。

 そして、落下する。

 キューカンバーは二度目のため息をつくと、ブラックシープの体を放り投げた。それほど強く放ったとは思えない動作だったが、ブラックシープの体はかなり勢いよく投げ出されて、車と同じようにして海へと落ちていく。それから、キューカンバーは天井を蹴って飛んだ。夜の闇を再び二枚の羽で包み込み、そして落下していく車とブラックシープの姿を、見下すような目で見下ろしている。

「パピー!」

「何ですのアーサーさまっ!?」

「シートベルト、外した方がいいかもな!」

 どっぼーん。

 少し後に、ばっしゃーん。

 キューカンバーの足の下で。

 派手に、二つの水しぶきが上がった。

 ぶくぶくぶく、と泡が見える。

 ふと、その時に。

 キューカンバーは。

 囁くように小さく口を開いた。「ハッピートリガー?」ハッピートリガーを感じたのだ。ハッピートリガーの思考を、そのテレパシーを。思考は……乱れていた。切れ切れに断片化された事実の欠けらが、燃え盛る感情を反射してきらきらと光りながら降り注ぐ。その炎は、怒りだった。ノスフェラトゥが道具としての感情の中で研ぎ澄ます純粋な怒りとは違う、制御が効かず暴走を抑えきれない、人間の怒りを感じる。「パウタウが?」キューカンバーは囁く。ガラス片のような事実の中で映し出されているのはパウタウが銀色の怪物の足元で跪いている光景。その銀色の怪物は楊春杏らしい、初めて見た、これがビューティフルか。興味深いが今はそれに裂いている思考はない。「今?」巨大な手がキューカンバーを掴んで引き寄せる。その手の持ち主はハッピートリガーだ。有無をいわさぬ力。「余計なレッドハウスの血を絶っていない」しかしハッピートリガーの思考がキューカンバーの思考の表す意味をはっきりと受け取ったとは思えなかった。「今後の計画の不確定材料になる」ハッピートリガーの思考は、ただただガラス片の雨の中で燃える炎と巨大な手で、それはキューカンバーが任務を途中で切り上げて、すぐにこちらへと戻ってくることを求めていた。「分かった、戻る」三度目のため息。

 そして、キューカンバーの姿は。

 揺らめく陽炎のように、消えた。

 沈黙。

 静寂。

 それから。

 じゃぶん!という音と共に、海を漂う闇を裂いて、その上の沈黙と静寂をも引き裂いて、始めに浮き上がってきたのはブラックシープだった。「ぷはーっ」と拍子の抜ける様な音を立てて顔を出すと、きーっ私は怒ってますよーっ的なジェスチャーか何かだろうか、水ごときでは消せるはずもないフロギストンの炎をかがり火のごとく闇の中で振り回し、ばしゃばしゃとあたりの水面を水浴びで遊ぶ子供のように叩きながら、わめき散らして叫ぶ。

「ジャスティス! おのれノスフェラトゥ! 正義の使者をまるで空き缶のようにぽいっと放り棄てるとはっ! 許されざるべき蛮行だぞっ! 許されざるべき蛮行だっ!」

 暫くそんな感じで叫びまくってから。

 ふっと気がついたように。

 あたりをきょときょとと見回し始める。

 許されざるキューカンバーの姿が見えないことに気がつく。

「ノスフェラトゥ、どこにいるっ! 見ての通り、私は未だ健在だぞっ! あなたのような悪の息吹に吹き消されるほど正義の炎は薄弱にあらずっ! それとも、奸悪なるあなたの魂を焼き尽くすべきその炎の絢爛に恐れをなして逃げ出したかっ! 出て来い、そして己の罪をその命によって償えっ!」

 しかし、いくらブラックシープが叫ぼうとも闇はその身の内からキューカンバーの欠片さえも吐き出さない。駄々っ子のようにじたばたと海の上でもがきまわっているさまはまるで馬鹿のごとく、いや、まるでという言葉を使わずともいいほどに馬鹿そのものだったが、やがて、ひとしきり暴れまわってなんとなく満足してきたのか、だんだんとブラックシープも落ち着いてきた。さぱさぱと体にぶつかっては砕ける小さなさざ波に揺らされて、ぷかぷかぼんやりこんと浮かびながら、落ち着いてきたブラックシープは、そしてようやっとのこと重要なことに気がつく。

「はっ! そういえばアーサー・レッドハウスとメアリー・ウィルソンは!?」

 そのブラックシープの間抜けな気づきに感応したかのようにして、すぐ近くでじゃぶん!じゃぶん!と二つの頭が水面を突き破って姿を見せた。それは間違いなく、メアリーとその腕に抱えられたアーサーの頭だった。うんうん、良かった良かった。

「アーサーさま! アーサーさま! ご無事でして!?」

「はいはい、大丈夫だよ、大丈夫だってパピー。それよりそんな強く掴むなよ、骨が砕けちまう。」

 慌てふためきながら耳元できゃんきゃん叫ぶメアリーに向かって、落ち着かせるようにアーサーはそう言った。二人とも少し焦燥していて、疲れ切ったような顔付きだったが、それだけで特に怪我はなく、おおむねのところ健康そうに見えた。どうやら被害はないらしい、夜警公社社用車(ロケットエンジン据え付け特別改造費も含めて一台一万タラント)以外には。まあ、何物であっても命には代えがたいものだ、ブラックシープは安心したようにほっと息をついて、それからすいーっと二人の浮かぶ近くにまで波をかいて泳いでいく。

「アーサー・レッドハウス! メアリー・ウィルソン!」

「おおー、ブラックシープか。正義のヒーロー、今日ばかりはお前を逮捕しようとするわけにはいかねぇみたいだな。」

「それを聞いて安心したよアーサー・レッドハウス!」

「ありがとうございますわ、ブラックシープさん。」

「いやいや、こちらこそお礼を言わざるを得ないね! 実に危ないところだったよ、あなたたちが機転を利かせて車を海に飛び込ませてくれたから、危機一髪のところで私の体の中に光り輝く正義の魂は救われたのだよ! ありがとう、アーサー・レッドハウス! メアリー・ウィルソン!」

「そりゃよかったぜ、なあメアリー。」

「……もうこんなこと、しちゃダメですわよ。」

 それから、アーサーはふっと気がつく。

 感覚の内側に、ノスフェラトゥの気配がない。

「キューカンバーはどうした?」

「キューカンバーとは?」

「ああーっと、あのノスフェラトゥの名前だよ。」

「はっはっは、あのノスフェラトゥのことかい! 大丈夫、安心したまえ、彼の鬼は私達のシープ正義コンビネーションに恐れをなして逃げ出したよ! 全く、姑息な悪の魂にふさわしいふるまいであることだ!」

「シープ正義コンビネーション?」

「シープ正義コンビネーション?」

 シープ正義コンビネーションはともかくとして、それは少しおかしいようにアーサーには思われた。ライカーンの大軍を率いて、純種のノスフェラトゥまで投入して、それほどまでにアーサーを殺したがっていたホワイトローズ・ギャングの連中が、こうもあっさりと目的を諦めて引き上げるものか? きっと……何かあったに違いがなかった、何か、奴らにとって予想外で、対応しがたい出来事が。それは、もしかしたら、きっと、あの約束に関係があることなのだろうか? あの、フラナガンの口が静かに紡ぎ落した、悪魔のものであるかのように優しい約束に?

 しかしそんなことは。

 アーサーが考えて分かるようなことではない。

 それに、少しすれば分かるはずのことだ。

 悪魔の約束は、いつだって守られるものなのだから。

 それが、いかような形で守られるものにせよ。

 だから、アーサーは今のところはこう言うに留める。

「まあ、そりゃなんにせよ良かったよ。」

「アーサーさま、どうかなさいまして?」

「いや、別に?」

 さて、そんなこんなを三人が話しているうちに、向こうの方、つまり海から見て陸地の方、摩天楼でできた企業戦士達の巣のあたりが何やら騒がしくなってきた。いや、騒がしかったのはアーサー達がてんやわんややってた頃から随分と騒がしくはあったのだけれど、それとはまた別種の騒がしさだった、あれが混沌とカオスの饗宴だったとしたら、今度はもう少し秩序だった、例えば世界が自浄効果を表し始めた時に、その血流の中で白血球が整列して、足並みをそろえて行進しているような音。

 もう少し具体的にいうならば。

 ウォッチカーのサイレンと。

 そして、ヘリコプターの羽音。

「おー、ブラックシープ。」

「なんだい、アーサー・レッドハウス。」

「お前さん、そろそろ逃げた方がいいかも知んねぇな。」

 あれだけ暴れ狂って、しかもダウンタウンのスラム街ならまだしも、アップタウンのアベニュー沿い、ブラッドフィールドの大動脈、大企業が軒並み雁首をそろえているその場所、道路交通はめちゃくちゃになるし、そこら中のビルに車だのなんだのが突っ込むし、それはさすがのさすがにちょっとした出来事であった。誰しも彼しもから連絡されてきた通報の電話が夜警公社の電話のベルを対応不可能なほどに鳴り響かせたため、可及的速やかに状況を制圧する部隊が、夜警公社特殊鎮圧班を中心として編成されて、差し向けられてきたらしい。当然と言えば当然のことではあるが、ようやく部隊が整って現場に着いたのが、状況が大体収まってからというのが皮肉なものだ。

 サーチライトで照らし出すヘリコプターが。

 こちらに向かってくるのを見て。

 ブラックシープはやれやれと言ったように首を振る。

「確かに、そのようだねアーサー・レッドハウス。」

「命の恩人にこんなことを言うのも心苦しいがな。」

「いやなに、気にすることはないよアーサー・レッドハウス! 正義の道は常に荒れ狂う嵐に襲われている海のようなものだ、これもまた私を試す正義の試練の一つに過ぎない。それではアーサー・レッドハウス、それにメアリー・ウィルソン、また会おう! あなたたちが正義の息によって生きている限りは!」

 悲劇役者の幕引き口上のようにそう謳い上げると、とうっと既に飛び込んでいる海の中にもう一度飛び込んでるらしい動きと共に、しゃぷん、とブラックシープは暗い水面の下に消えた。その様を見送ってから、はへーっと擦り切れ調子でアーサーはため息をついた。メアリーがそんなアーサーに向かって、同じく疲れ切ったような口調で言う。

「これで、何とか助かったんですの?」

「まあ、今のところはな。」

「良かったですわ……アーサーさまがご無事で……」

「まあ、他の所が大分ご無事じゃねぇけどな。」

 そんなことを言っているアーサーの。

 胸元が、震えた、携帯の、バイブレーション。

 錯覚か? いや、錯覚じゃない。

 錯覚のほうが、良かったのかもしれないが。

「あら、携帯も無事でしたのね。」

「ああ、まあ防水だからな。」

 アーサーは携帯の通話ボタンを押して、耳に当てる。

 その時に、じっとりと重くかかっていた雲が。

 その重みに耐えきれず、その空の底を破れて。

 ついに、ぽつぽつと、雨が降ってきた。

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