#20 常識的で親切な悪魔
フラナガンは、どうやら一人ではないようだった。いや、もちろんその前をスーレ氏がエスコートしていたのだけれど、スーレ氏だけではなく、もう一人。その横に誰かを連れていた。その男はうろちょろとフラナガンにまとわりつくようにして、さも嬉しそうな、楽しそうな、幸せそうな顔をして何かを話しかけていた。そしてフラナガンは、その男の肩に片手を置いて、軽くあしらっていた……紗で隠したその顔は見えなかったけれど、その動作でそこそこうんざりとしている様子が見て取れた。
その男は、きっちりと身づくろいをしたように正装をしていた。糊のきいたタキシード、洒落たフリルのドレスシャツを着て、気障に側章を入れたスラックス。ちらちらと空を舐める白い炎のようにして白抜きのポケットチーフが胸から見えている。エナメルのパンプスが、シャンデリアの光を受けてゆらゆらと踊る足元で光る。そう、身づくろいをして、踊るように。その男は、そういう男だった。正装をしているにもかかわらず、例えば、サーカスに飼われた獣の様な動き方をしている。そして、その様子がもっとも顕著なのは……その男の顔だった。その顔は、間違いようもなく無垢な子供の顔をしていた。一片の混じり物もない金色をした髪の毛は、跳ね上がり揺れて、母親の櫛から逃れてきたばかりのようにして遊んでいる。口元は下らない悪戯を今思いついたばかりだとでもいうようにしてくすくすと笑っている。そして、何よりも、その目。青く青くどこまでも澄んでいる。何一つ……何一つ、現実世界の醜いこと、をその目には映し出したたことがないように、どこまでも澄んでいる。そんなことを許されるのは、子供の目だけだ……それも、美しい子供の目……あるいは、醜さを理解するだけの知性も有さない……獣の目……だから、その男は、サーカスの獣に似ていた。
「アーサーさま、フラナガン神父様の隣にいらっしゃるのは……」
「ああ、そうだな。」
その男の顔は。
アーサーもメアリーも見たことがあった。
例えば、新聞に載せられた写真。
このコートバスクで、盛大に開かれた夜会の写真。
その男が、夜会の主役だった。
もちろん、その男の名前を知っている。
その男の名前は。
「P・B・ジョーンズだ。」
「ジョーンズ財団の? でもなぜ?」
「さあな、教会の寄進者の関係じゃねぇか……っつーことは、今日の拝息はとりなしだったってことか? いや、それだけのはずはねぇよな、このタイミングでアイナと会うってことは……まあ、何にせよ直接聞くのが一番早ぇな。」
独り言のようにそう言いながら、アーサーは赤い絨毯の上をすべるようにして、ソファーとソファーの間をたどって歩いていった。メアリーが慌てて、とてとてと、慣れない靴に苦労しながらその後をついていく……ソファーにはそれぞれ白鳥達がとまっている、人の姿をして、美しく着飾った白鳥達が、このブラッドフィールドで、最も美しく、最も選ばれた、スーレ氏の上客たち。けだるげに背もたれに寄りかかって、口からは淡い煙草の煙と、上品な笑い声を漏らしながら、アーサーとメアリーの姿を横目で見ている、見つめているわけではない。そして、アーサーもその白鳥達を見ていない。アーサーが見ているのは、フラナガンだけで、そして、アーサーは、なんでもない夜の挨拶のようにして。
「良い夜だな、フラナガン先生。まるで今日から永遠が始まりそうなくらいに。」
こう、口を開いた。
フラナガンに向けて。
どうやらブラックシープ(現:ジョーンズ、以下ジョーンズ)に注意をかまけていて、声をかけられるまで全くアーサーに気が付いていなかったらしいフラナガンは、凍結の呪文をかけられた蛙の死体のようにして、一瞬だけびくっとして固まった、顔は見えないにせよ明らかに恐る恐るといった態度でアーサーの方に振り返って、そして挨拶を返す。
「良い夜だね、サー・アーサー。永遠はもう、ずっと前から始まっているけれど」
「こういう夜には、どこで過ごしたくなるかっつーとやっぱりコート・バスクに限るよな。うまい料理と最高のワイン、世界でもこの店くらい、その二つがそろってる店はねぇからな。なあ、ムッシュー・スーレ。」
「あの……はい、ありがとうございますサー・アーサー……」
今まで何のためらいもなくエスコートをしていたムッシュー・スーレだったが、この新しい展開に、どう反応していいやら測りかねて、少ししどもどした口調で、当たり障りなくそう答えた。そんなスーレ氏に向かって、フラナガンはさもこんなことを言うのは気まずいのだけれども、とでも言いたげな声で言う。
「ムッシュー・スーレ。」
「はい、なんでしょうかフラナガン神父……」
「食事は今度にするよ、残念だけれどね。どうやら僕は、これからサー・アーサーと少し話をしなければいけないみたいだから……それと、ちょっと外してくれるかな。」
「その……かしこまりました、フラナガン神父……」
「ありがとう、ムッシュー・スーレ。」
スーレ氏は、フラナガンがライカーンのレバー(全くもって自信がある料理だった)を食べて行かないと聞いて、かなり残念そうな落胆の顔を見せたけれど、それでもフラナガンの言った通りに、ハンカチで額の汗を拭きながら一礼をすると、自分の部屋へと引き上げていった。
それを見送りながら。
フラナガンは、アーサーに言う。
「なんで。」
あくまでも丁寧な口調だ。
けれど、どこかで笑っているような声。
楽しいから笑っているわけじゃない。
その笑顔が、一番恐ろしいものだと知っていて。
「僕がここに来たって知っているんだい、サー・アーサー?」
すっと、ポニーテールを揺らしながら、フラナガンは顔の紗をアーサーの方に向けた。沈んだような黒の奥で、冷たい刃を喉に押し付けるような声が、幽霊のように歪んでいる。例えば普通のチンピラであれば、こういった様子で、こういう風に声をかけられたなら、その時にフラナガンがブラッドフィールドでなぜ悪魔と呼ばれているのかを知るだろう。しかし、アーサーは、チンピラでもないし、普通でもない、だから、フラナガンのこういった様子も、こういう風もまったくどこ吹く風といった調子で言葉を返す。
「ちょっと待ってくれよ、先生! 俺たちがここにいるのはあくまでも偶然だよ、偶然。ただ料理を楽しみに来ただけさ。」
「ふうん、なるほどね。ああ、こんばんはミズ・メアリー。久しぶりだね。調子はどうだい?」
「こんばんは、神父さま! わたくし、神父さまのおかげでとても元気ですことよ!」
「そうかい、それは良かった。」
アーサーの隣でにこにこと笑っているメアリーに向かって、フラナガンは(今度は、アーサーに向けた声とは打って変わって、まるで幼子を包み込む柔らかい毛布のように優しげな声で)そう言った。それから、胸の前で小指から人差し指まで、四本の指を組み合わせて、右の手の親指と左手の親指を軽く触れ合わせるようにして、フラナガンはアーサーの方に向いて静かに立った。話をしよう、君がそう望むのならね、そういった態度だった。アーサーも、それに対してへらへらと笑いながら背の後ろで手を組んで、休めの姿勢でフラナガンに向き合った。少しだけ、張りつめたような緊張が両者の間に走る。
けれど、その横から。
まるでその緊張の糸をぶった切るように。
底の抜けた青空のように。
ジョーンズが割って入る。
「やあ、アーサー・レッドハウス! 元気だったかい!」
「はい?」
唐突なジョーンズのその挨拶に、「はい?」と言ったフラナガンは「はい?」という風な顔をした。そしてそのまま何をどうしていいのかがちょっと出てこないで、固まってしまった。突然のことで頭が回らなかったのだ、。そんなフラナガンの代わりに、アーサーが少し困ったような顔をしてジョーンズに答える。
「えーと、ミスター・ジョーンズ……であってるか?」
「もちろんそうだとも、今の私はP・B・ジョーンズだよ!」
「今の私?」
「ちなみに、今の彼はフラナガン神父だ!」
「今の彼?」
「メアリー・ウィルソンも、こんばんは!」
「あの、えと、こんばんは、ですわミスター・ジョーンズ。」
おずおずとメアリーは答える。
アーサーから感染したように少し困った顔をして。
それから言葉を継ぐようにして、アーサーが言う。
「ミスター・ジョーンズ、たぶん俺たちとは初対面だったと思うが……前に会ったことがあったっけか?」
「わたくしも、たぶん初めてお会いしたと……」
「あーと、サー・アーサー、ミズ・メアリー?」
アーサーの言葉に、ようやく固まりが解除されたフラナガンが慌てて口をはさんだ、これ以上ジョーンズが口を滑らせないように、口先と舌先も出鱈目に滑らかに、慌てて言葉を続ける。
「こちらはP・B・ジョーンズ、ああ、紹介しなくても知っていたらしいね、まあそれもそうか、彼は有名人だからね、なんといっても知らぬ者のいない……ほとんどいない、ジョーンズ財団の理事長。」
「そう、その通りだよ、ファーザじゃなかったフラナガン神父! 今の私は断じてブラッ……」
「君はちょっと黙っててくれるかなジョーンズ? 彼は僕の、何ていえばいいのかな、ちょっとした友人というか、ジョーンズ財団は教会の友人でもあるしね。それはともかくとして、彼がハウス・オブ・ビューティとのコネクションが欲しいということだったんだ、彼のその……「仕事」の都合上ね。分かるだろう? 彼の「仕事」は非常に繊細で複雑なものだから、ハウス・オブ・ビューティのような存在と知り合っていることはとても有用なんだよ。だから今日、僕は拝息をセッティングしたってわけさ、彼のためにね……僕の言っていることは百パーセント正しいよね、ジョーンズ?」
「あなたはいつも百パーセント正しいとも、フラナガン神父!」
「へえ、そうだったのか。」
アーサーはフラナガンのそのまくし立てるような言葉に対して、対して興味もないといったような口調で、ありていな相槌を打った。一方で、ジョーンズの方に向かっては少し訝し気、どこかでこの感じの人間を、こういった感じの人間を見たことがあるといった表情で睨んでいた……どこかで……そう、月の下で……夜の元で……血の雨が降る中で……この男によく似た人間を……それに対して、フラナガンはぐっとアーサーの肩を掴んで引き寄せて、ついでにメアリーも背に手を回して引き寄せて、何とかその疑いを煙にまこうと二人の耳元に囁く。
「それはそれとしてサー・アーサー、ミズ・メアリー。ちょっとこの話はここだけにしておいて欲しいのだけれどね……ジョーンズは、えーと、どうしようかな、何て言えばいいんだろう、ほら、あれだよ、精神を病んでいるんだよ。これは本当に、ここだけの話にしておいて欲しいんだ、ジョーンズ財団の理事長が、その、ちょっとしたご不自由な人間だっていう話は、軽々なスキャンダルになりかねないからね。もちろん、財団の運営には何の支障もないんだよ? でも何ていうんだろう、あーとちょっと待ってね、今考えるから……そうだ、彼は、ジョーンズは「どこかで会ったことがあるような気がする病」と「何かよく訳の分からないことを言ってしまう病」を併発してるんだよ! だから、初対面の君たちに向かってさも知人であるかのようにふるまっても、何かよく訳の分からないことを言っても、それは全部彼の病気のせいなんだよ、つまりそういうことさ。」
「まあ、「どこかで会ったことがあるような気がする病」と「何かよく訳の分からないことを言ってしまう病」を?」
「その通り。」
「なんてお気の毒なことですかしら!」
「いや、そんな病気本当にあるのかよ?」
「僕も病名を聞いた時は驚いたんだけれどね、どうやら本当に本当の話のようなんだよ。まあ、この事実は現実の世界というものはどこまでも不可思議な事象で溢れているということの一つの証明になるだろうね。」
「つーかそれ以前の話として、あいつ……あいつって言っていいのか分かんねぇけど……俺とメアリーの名前、フルネームで知ってたぜ? それはどういうことだよ。」
「あー、どっかで聞いたんじゃない? ほら、君たちって有名人だろう?」
アーサーは明らかに不審そうな顔をしたままで、肩を掴んだままのフラナガンの体越しにジョーンズの方にちらっと視線を向けたのだけれど(メアリーは即信じた)、やがて、まあどうでもいいか、みたいな顔をしてフラナガンに向かって囁き返す。
「分かったよ、先生。たぶんあんたの言う通りなんだろうな。」
「ありがとう、サー・アーサー。信じてくれたんだね。」
「まあ、どっちにしても……俺が首をつっこむ話でもないみてぇだしだな。財団のスキャンダルなんて話は。」
「何度も言うようだけれど、くれぐれもこの話は他の人には漏らさないようにしてね、サー・アーサー、それにミズ・メアリー。」
「ああ、分かったよ先生。」
「かしこまりましてですわ!」
そこまで話し終わると、フラナガンはようやく満足したように、というかまあ何とかごまかしきったと安堵のため息をついて、アーサーとメアリーの体を離した。すると、それを目途にして、どうやら三人が話を追えたようだと見計らったのか、ジョーンズがぱっと割り込むように三人の間に入って来て、問いかける。
「何を話していたんだい、フラナガン神父!」
「なんでもないよ、本当に、なんでもないんだ、ジョーンズ。」
「なるほど、何でもないんだね! 分かったよ、フラナガン神父!」
ジョーンズに向かって、フラナガンは優しく言い聞かせるような口調だった。ジョーンズは素直に納得すると、フラナガンの柔らかい手つきに従って、割って入ったその体をわきによけた。そしてそれから、気を取り直してフラナガンはアーサーとメアリーに対して何かを言おうとしたのだけれどふと言葉が出てこなかったらしく、軽く首をかしげてアーサーとメアリーに向かって問いかける。
「えーと、どこまで話したっけ。」
「あー、確か何で先生がここに来たのか知ってるのかって話まではしたよな、パピー?」
「そうですわね、アーサーさま!」
「ああ、はいはいそこまでね。分かった。」
フラナガンは二人の言葉に対して何度か頷くと、仕切り直し、とでも言うようにして、例の「話をしよう、君がそう望むのならね」的な姿勢に戻り、またなんか場を緊張させよう!という意気込みに満ちた感じの声(その試みはフラナガンの持ち前の冷酷さのおかげで何とか成功している)で、言う。
「なんで。」
あくまでも丁寧な口調だ。
けれど、どこかで笑っているような声。
楽しいから笑っているわけじゃない。
一番恐ろしいその笑顔に、アーサーは口を挟む。
「それは飛ばしていいんじゃねぇか?」
「いや、一応さ。」
「まあ、いいけどな。」
「続けて良い?」
「どうぞ。」
「僕がここに来たって知っているんだい、サー・アーサー?」
「ちょっと待ってくれよ、先生! 俺たちがここにいるのはあくまでも偶然だよ、偶然。ただ料理を楽しみに来ただけさ。」
「ふうん、なるほどね……じゃあ、僕とジョーンズはこれで失礼してもかまわないっていうことかな? 今日は、今夜は、この夜は、色々と……しなければいけないことがあってね。」
「おいおい、せっかく偶然の神秘が俺たちを引き合わせてくれたんだぜ? あんたらがどんなに忙しかろうが、ちょっとくらいの世間話をしたって……ほら、ばちは当たらねぇんじゃないか?」
「世間話?」
「世間話。」
「世間話を?」
「ああ、世間話を。」
「僕と君、ジョーンズ、それにミズ・メアリー。四人、コート・バスクのホール。美しい夜だね、素晴らしい夜だ、二つの月は……まあ、バルトケ=イセムではないにしても。淡く、甘く、綾い紫煙が漂っている。僕はそんな場所に立っている、君と向き合って。世間話、そうだね、君がそれを望むのならば、この状況で僕はそれを断ることはしないだろう。ああ、もちろんジョーンズが構わないのならば、だけれど……ジョーンズ、どうだい? 君は構わないかい?」
「聞くまでもないことだろう、フラナガン神父! あなたがAKということは、それすなわち私もAKということさ! 世間話、どんとこいだよっ!」
「世間話はそういう心構えで行うものではないと思うけれど、ありがとうジョーンズ。君が同意してくれて嬉しいよ。」
微笑んだような口調でそう言うと、フラナガンはまた、軽くジョーンズの肩に手を置いた。囁くような、くすくすと笑うような、あるいは羽毛の扇が空気を掠るような、そんな音を立てて舞台が軋んでいる気がする。コート・バスクの客たちは、その上に玄関ホールの長椅子に寄りかかるようにして座る乗客たちは、もちろんフラナガン神父とサー・アーサーの立ち話に聞き耳を立てるような優雅さに欠ける真似はしない。第一、特に興味もない。熟して茎から落ちた薔薇の花のような倦怠感だけをワイングラスに注いで、それをシャンデリアに透かして覗き見ている。全てが始まる時には大体こういう感じなのかもしれない。今が全ての始まりではないにせよ。アーサーは、フラナガンとジョーンズの間には、何かとても特殊な関係性があるように思われたのだけれど、特にそれについて追及する気も起きずに、最初の言口を発した。
「ああ、ところで、まだちゃんとした挨拶はしてなかったよな、あんたに対して、ここに帰ってきて嬉しいっていうさ。ああ、嬉しいっていうのは本当だぜ、半分くらいはな、おかえり、フラナガン神父。ブラッドフィールドにおかえり。良く戻ったな。」
「ああ、そうですわ、わたくしもすっかり忘れていましたわ! おかえりなさい、フラナガン神父さま! わたくし、神父さまがおかえりになって本当にうれしく思っていますわ……アーサーさま、半分だなんて意地悪なことを言ってはダメでしてよ、神父さま、アーサーさまもわたくしも、百パーセント喜んでいましてよ!」
「みんな寂しがってたよな? パピー。」
「その通りですわ!」
「それは……ありがとう、サー・アーサー。ミズ・メアリー。僕も君たち二人にまた会えて、百パーセントの喜びを感じているよ。それから……それが何にせよ、真実が真実だと理解されて、本当に良かった。」
喜びの意思を体現しようとしているのか、ぴょんぴょんと小さく跳ねているメアリーに向かって、軽く洗礼を施すように手を振ると、フラナガンはそう言って軽く首を傾げて、ポニーテールを揺らした。メアリーは、その言葉を聞くと、花が咲くように笑って、それから自分の今の行動が少し(少しではないが)はしたなかったことに気が付いて、ぱっと顔を赤らめた。
そんなメアリーに向かって。
にやりと笑った目を向けて。
けれど、アーサーは続ける。
「それにしても、あんたってやつは本当に働き者だな、先生。軽く小耳に挟んだんだが、退院して何日も立ってないのに、もう挨拶回りをはじめてるっらしいじゃねぇか。」
「まあ、そうなんですの?」
「ああ、らしいぜ。今日なんて、慈善家のペナンズ氏のところに随分と立派なプレゼントが届いたって話だ。ペナンズ氏は大層大喜びしたそうだぜ。」
「あー、ちょっとその話はここではやめて欲しいかな。」
ジョーンズにちらっと顔を向けて、フラナガンはそう言った。一方のジョーンズは、きょとんとした顔をして、どうやら話の意味が特につかめているようには見えなかったけれど、それでもとりあえず、張り渡された一本のロープを落ちないように伝っていく話であることには違いない。そんなフラナガンを見ながら、アーサーはとぼける様な口調で言う。
「何だよ、大した意味もない世間話だろ? 先生。」
「そうなんだけれど。」
「ま、あんたがそう言うなら違う話にするか。」
「ありがとう、サー・アーサー。」
「そういえば……本当に、世間話ってやつは大体「そういえば」っていう言葉から始まるよな、どうでもいいことだけどさ。そういえば、さっきあんたも言ってたけれど、先生。今日はアイナに会ってきたんだって?」
「ハウス・オブ・ビューティに、拝息をして頂いたよ。」
「どうだった? 元気だったか?」
「ハウス・オブ・ビューティは、息災のようだったね。」
「そりゃあ良かった。ここ何年もあいつとは会ってないからな、あいつに限った話でもねぇけれど。それで、どんな話をしたんだよ。」
「うーん、別に話してもいいんだけれどね、まあ、それは職業上の秘密にしておこうかな……ねえ、ジョーンズ。」
「そうだね、フラナガン神父!」
「ありがとう、ジョーンズ。」
そう言うと、フラナガンはジョーンズの肩に親しげに片方の手をかけたままで、アーサーの方に向かってもう片方の手のひらを、ゆっくりと開いて見せた。アーサーは片方の奥の歯をぎっと噛みつぶすような顔をして「全く先生、あんたってやつは食えねぇやつだな」とでもいったような表情をして見せたが、もちろんそれは舞台上の演技に過ぎない。その証拠に、その口はすぐに次の言葉を吐き出す。
「あーと、ミスター・ジョーンズ?」
「なんだい、アーサー・レッドハウス!」
「あんたは、ノスフェラトゥの言葉を理解できるのか?」
「いや、実は私はノスフェラトゥの言葉を理解できないんだよ、アーサー・レッドハウス。しかし私は全くそのことについて心配する必要はないんだ……なぜならば、ジャスティス! 私の相棒たるフラナガン神父は、なんとノスフェラトゥの言葉を理解できるのだからね! 全く、素晴らしい相棒だと思わないかい、アーサー・レッドハウス! そして、自分の半身が理解していることは、自分も理解できているといっても決して過言ではないだろう? つまり、私はノスフェラトゥの言葉を理解できるんだ!」
「それ、最初と結論変わってない?」
「はーん、そうなのか。実際、フラナガン先生は本当に何でもできるやつだからな、あんたは良い相棒を持ったよ。それで、今日の拝息の内容……えー、つまり今日、フラナガン先生とクールバースが話したことについて、もう教わったか?」
「まだ教わっていないよ! シープ・サンクチュアリに……おっと、違う違う、私とフラナガン神父の愛の巣に帰ってから、じっくりと教えてもらうつもりさ!」
「えーとサー・アーサー、誤解のないように言っておくけれど、決して愛の巣ではないからね、共同で使ってる……その、仕事場みたいなものっていう意味だから。」
「別に俺はあんたらの関係についてあれこれ口を出すつもりはねぇよ。当人たちが幸せならそれでいいさ。」
「メアリーも! メアリーもお二人の関係に口を出すつもりはありませんわ! どうぞお幸せに、フラナガン神父さま!」
「ちょっと待ってよ! それは完全に誤解だってば!」
「二人とも、ありがとう! 私達は幸せになるよ!」
「君は余計なことを言わないでよ!」
「で、話を戻すけどな、ミスター・ジョーンズは今日の拝息の内容を理解できてねぇってわけだ、先生。」
「まあ、それは事実だね。僕とジョーンズの関係について君たちが推測していることは完全に事実と異なるけれど。」
アーサーはぼさぼさの白髪に指をかき入れるようにして、頭のてっぺんから首の方に手櫛を下していくようにして。三度、髪を均すように掻いた。顔は、既にいつものにやにやとした笑い顔に戻っていて、それから口の先で噛み砕くようにして言葉を続ける。
「あんたが何を話したとしても、理解できてない。」
「どういう意味だい? サー・アーサー。」
「言葉通りの意味さ。」
「なるほどね。」
「ところで、今日ももちろん良い夜だけどな、昨日の夜も随分と良い夜だったよな。」
「サー・アーサー。」
「クールバースとそういう話はしたのか、先生? 昨日は良い夜だったって話をさ……実はな、先生。俺が今、世間話としてしたい話も昨日の夜の話なんだ……つまり、昨日の夜が良い夜だったって話さ。」
「サー・アーサー。」
フラナガンは顔を俯かせて、敬称をつけたアーサーの名前、二つの部分に区切って、その部分の一つ一つを、ゆっくりと区切るようにしてそう言った。別に、その行為に何らかの感情がこもっているわけではない。逆にそれは、全くの無感情であった。真夜中の、開きっぱなしの冷蔵庫が、波一つない静かな海に向かって、口を開けて吐き出したようにして、全くの冷酷さだった。それから、俯けた顔をふっと上げた、アーサーの方に向かって。軽く首をかしげて、それから、先ほどの続き、言葉を続ける。
「シガーを吸ってもいいかい?」
「シガー? ああ、別に構わねぇよ。」
「ありがとう。」
アーサーの快い答えに対してそう礼の言葉を返すと、フラナガンは花の上、くすぐるようにしてひらひらと泳ぐ蝶々のようにして、柔らかく優しくジョーンズの肩から手を離した。その手、滑らせるようにしてポケットを探って、何でもないことのようにして中からあの銀細工のシガレットケースと、あの銀細工のライガーを取りだした。小指と薬指の間にライターを挟んで、残りの指でシガレットケースのふたを、舐めるように滑らせる。反対の手のひらは、手袋に包まれたままで、シガレットケースから、ラゼノ・シガーを人差し指と中指に挟む。
「君が話をしたいのは、サー・アーサー。」
ライター。
火。
シガーに火が付く。
紗をめくる。
少しだけ。
口のところだけ。
シガーをくわえる。
煙。
揺らめく。
淡く。
甘く。
綾く。
「ブラックシープの話かな?」
「ブラックシープの!?」
「そうだよ、ジョーンズ。どうやらサー・アーサーはブラックシープの話をしたいようだ。ああ、ところで君はブラックシープについて知っているかい? ジョーンズ?」
「もちろんだよ、フラナガン神父! ブラッドフィールドにおいて、暗き闇を引き裂き照らす一筋の光、深き堕落の底に蠢く悪が恐れるべき正義の使徒、そう、彼の名こそがブラックシープ! 違うかい、フラナガン神父?」
「全く、完璧に、君の言う通りだよ、ジョーンズ。さて、ところで僕が聞くところによると……ちょっとした町の噂のようなものだよ、とにかく、どうやら昨日の夜、ブラックシープがまたその金の蹄で彼の正義を執行したらしいね。」
それだけを言うと、フラナガンはまた。
笑うようにして、口の先でシガーを舐めた。
一息分の、煙を体の奥にまで吸い込んで。
それから、軽く口を開けて天井に垂らす。
アーサーは、その煙の向こう側で言う。
「ああ、あんたの言う通りだよ先生。昨日の夜、ブラックシープが現れた。グールタウンの、ホテル・レベッカのあたりだ。昔はあれでもなかなか洒落たホテルだったんだけどな、バーでは最高の蜂蜜酒が飲めたもんだった、今じゃもう見る影もない瓦礫の山になっちまったがな。全く、時の流れってーのは残酷なもんだぜ……それはともかく、なあ、ミスター・ジョーンズ。」
「何だい、アーサー・レッドハウス!」
「俺達の、えーと、つまり夜警公社のっていうわけだけれどな、夜警公社のブラックシープに対する公式な見解? ってやつを、あんたと、その……ご友人のフラナガン先生は知ってるかな?」
「なんで今、ご友人っていう前に口ごもったの? ご友人であってるからね、サー・アーサー?」
「夜警公社の正式な見解としては、ブラックシープは犯罪者だ。だよな、パピー。」
「そうですわね、アーサーさま。夜警公社の公式見解では、ブラックシープさんは犯罪者ということになっていますわ。」
「な、なんだってアーサー・レッドハウスっ、ミズ・メアリーっ! 犯罪者だって!?」
「法を破ってるからな、ミスター・ジョーンズ。」
「法だって、アーサー・レッドハウスっ! 確かにそれは、時に秩序を維持するのに有効なこともあるだろうね。しかしだよ、アーサー・レッドハウス……法というものは、時にあまりにも無力な時があるのだよ、なぜならね、アーサー・レッドハウス、法は、それ自体が正義であるわけではないからだ、それは例えるならば、巨大ながらんどうに過ぎない、巨大ながらんどうの体を持った、機械仕掛けの怪物、それが法だ。もちろん、その内側に正義を迎え入れることができれば、それは正義の使者ともなりうるだろう。けれど、もしも悪をその身の内に宿してしまったら? まるで寄生虫のように、卑劣な悪にその意思を乗っ取られてしまったら……? ジャスティス! そうだよ、その通りだ、アーサー・レッドハウスっ! その時に、確定的に、法は悪の手先となりうるのだよっ!」
この人下手なこと言って正体ばらすような真似しないかな、と隣でめっちゃはらはらしてるフラナガンをよそに、非常に気持ちよさそうに身振り手振りを交えながら演説をぶちかましたジョーンズは、そこで言葉を切るとびしっとアーサーに向けて、人差し指で指さした。
「まあ、それについては否定はしねぇよ。ミスター・ジョーンズ。」
アーサーは、しかし特に面食らうようなこともなく、非常に慎ましい言葉でそう言った。その答えに対してジョーンズは満足そうにうんうんと頷くと、抑えきれぬ衝動の為かくるっとその場で、優雅に一回転した。え、この人何してるの?という感じの顔をしてその様を見ているフラナガンをよそに、ジョーンズは芝居仕掛けの回転を終えると、話を続ける。
「しかしだね、アーサー・レッドハウス……ブラックシープは、驚くべきことに、驚嘆すべきことに、アメイジングなことにっ! ジャスティス、彼は、彼自体が正義なのだよっ! 彼は法と違って間違うことがない。なぜなら彼自体が正義なのだからね、彼の内側には悪が巣食う余地などないっ! 彼は法よりも優れた存在なのだよっ! つまりだね、アーサー・レッドハウスっ! ブラックシープが犯罪者の烙印を押されることはっ、彼を悪の別名で呼ぶことはっ、有り得てはいけないことなのだっ!」
こいつ史上最強のナルシストかよ~みたいな顔をしてジョーンズを見つめるフラナガンであったが、それはともかくとしてアーサーは、そんなジョーンズに向かって別に苦笑いをするでもなくちょっと肩をすくめただけでこう答える。
「おいおい、勘違いしないで欲しいな、ミスター・ジョーンズ。俺は別にブラックシープのことを悪の別名で呼んだつもりはないぜ。ただ犯罪者って言っただけだ。」
「え? それはどういうことだい、アーサー・レッドハウス?」
「犯罪者は悪の別名じゃないってことだよ、ミスター・ジョーンズ。夜警公社が判断するのは正義か悪かじゃない、法を破ったか破らないかだ。法を破ったら犯罪者、法を破らなければそれ以外。単純な話だ。犯罪者であって正義の使者である奴だって、まあいないことはないだろうな。」
「なるほど、アーサー・レッドハウス、そういうことかい! それなら、まあブラックシープは間違いなく犯罪者だろうね、法を破っているのだから!」
この人やっぱりちょっと素直すぎない?みたいな顔をして見つめるフラナガンをよそに、ジョーンズはアーサーの言葉に素直に納得したらしく、またもやうんうんと頷いていた。
「どうやら、俺の言うことに納得してもらえたようだな?」
「そうだね、アーサー・レッドハウス! あなたの言うことに、私は百パーセント納得したよ!」
「そりゃ、良かったぜ。なあ、パピー?」
「良かったですわ、アーサーさま!」
「俺たちの友情の最初の一歩にひびが入ったら、たまんねぇもんな、パピー。」
「わたくしたちの友情の最初の一歩にひびが入ったら、たまりませんものね、アーサーさま!」
「じゃあ、安心して話を続けさせてもらうぜ……えーと、どこまで話したっけか、ああ、ブラックシープは犯罪者だってところだな。ということは、だ。つまりブラックシープとその行動を共にするものも、犯罪者であることになるわけだ、共犯者ってやつだな。なあ、先生、そういうことになるよな?」
「え? ああ、そうだろうね。君の言う通りだよ。」
フラナガンは急にまた自分に話を振られたために、ちょっと驚いたような素振りを見せたけれど、すぐに気を取り直してそう答えた。それから、ああ、そういえば、といった感じで人差し指を中指の間に挟んでいたシガーについて思い出したらしく、軽く顔を覆う紗を小指と薬指で持ち上げて、その隙間から舌の先、静かに燃える煙を淡く舐めた。
吐き出した紫煙の先で。
いつもの顔でアーサーは笑う。
「ところで、だ。昨日の夜の話だがな? 実は、まさにブラックシープと共に行動していた人物の姿が確認されているんだよ。その人物については、ちょっとした筋の人間から口止めされているんで詳細を明かすことはできねぇんだが……俺の事情は分かってくれるよな、先生……俺たちが今、整理した話の内容からすると、そいつは、まあ正義の使者かどうかってのは置いておいて犯罪者ってことになるよな? 俺とパピー、まあ一応のところ夜警官であって、夜警官の仕事の主なところってのは犯罪者の逮捕だ。つまり、結論として、俺とパピーはその人間を逮捕しなきゃあいけない立場にあるってわけだ。どうだい? ここまでで、何か俺が間違ってたら正してくれよ。」
「君はここまでのところ、完璧に正しいよサー・アーサー。」
「私もフラナガン神父と同意見だよ、アーサー・レッドハウス!」
「ありがとうよ、諸君。」
そう言いながら、アーサーはちらり、とメアリーの方に目を向けた。メアリーは、不安と疑念が入り混じったような顔をしてアーサーの方を見ていた。一体、アーサーは何を言おうとしているのだろう、フラナガン本人を目の前にして、面と向かって……これではお前を逮捕する、と言っているのと同じだ。アーサーは心配するな、という感じに軽くメアリーに向かってウインクすると、また話を続ける。
「しかし、だ。ここにいるパピーが保証してくれると思うんだけれどな、その人物ってやつは、何て言えばいいのかな……結構、立派な人間なんだよ。少なくともパピーは悪いやつじゃないって言ってるし、尊敬もしてるらしい。」
「尊敬を?」
「ああ。」
「そうなのかい、ミズ・メアリー?」
「ええ、フラナガン神父さま。わたくし、その方は……決して悪い方ではないと思っております。」
「そうなんだ……へえ。それは、それを聞けば、きっとその人物も喜ぶと思うよ、ミズ・メアリー。」
フラナガンは薄く笑った。
悪魔が他愛ない喜びを咀嚼する顔。
紗に隠れてメアリーには見えない。
アーサーは知っているとしても。
「俺がそいつのことをどう思ってるかは聞かないでくれよ、先生。」
「そうだね、まあなんとなく分かるからいいよ。」
「そこで、だ。俺としてはその人物がただ何の理由もなくブラックシープに協力するとは思えないわけなんだよ、何か理由がなければ……少なくとも、その人物が自分に不利益があることを、何の理由もなしにすることがないってのは、その人物の名前を明かせばだれもが納得してくれることだと思う。ということは、その理由次第では、その理由次第ではひょっとして……違法性が阻却される、なんて事態が起こる可能性もある。だろ? 例えば何かしら、自分の生命に窮迫の状況が迫っていたための正当防衛とかな。法律ってやつはとかく杓子定規で面倒なもんだ……えーと、何だっけ、構成要件該当性、違法性、責任だったか? その三つがそろわなければ、祖の犯罪は、刑法上裁けるもんじゃない。つまり、俺の最終的な結論としては……つまり、だ、先生。その人物に、なぜブラックシープと一緒にいたのかっていう理由を知りたいんだよ。昨日の夜は、その人物は随分急いでいたらしく、それを詳しく聞けなかったからな。今日は……それほど急いでなさそうだし。なあ、先生?」
アーサーはそこまで言うと、少し口を止めた。そして、にやり、と笑ったままでフラナガンの方をすっと見つめる。フラナガンは、その視線には答えることなく、シガーの紫煙をゆらゆらと揺らす、その紫煙は、まるでフラナガンが今まで殺してきた人間たちの魂、あるいはスナイシャクといってもいい、そういったものの集合体であるかのようにアーサーには見えた。けれど、それでもアーサーには今のフラナガンが……どのフラナガンであるかを測りかねた、危険なフラナガンか、それとも寛大な(その寛大さが無関心か、あるいは軽蔑の為だとしても)フラナガンか。なぜなら、どちらのフラナガンであっても……結局のところ、自分以外の人間の生命を、あまりにも多く奪って来ていたのだから。
つまり、今アーサーのしている賭けは。
それほど安全な賭けではないということだ。
フラナガンを相手にしての賭けは。
いつも気まぐれな悪魔を相手にする。
やがて、ルーレットが音を立てて止まる。
カードがテーブルに配り終えられる。
そして。
(僕もそう多くを知ってるわけじゃない。)
(なんか言ったかい、先生?)
フラナガンが口を開く。
「ジョーンズ、ジョーンジー?」
「なんだい、フラナガン神父!」
「君は、サー・アーサーについてどう思うかな?」
「どう、というのは?」
「つまり、彼は信頼できる男だと思うかい?」
「もちろんだよ、フラナガン神父! アーサー・レッドハウスはブラッドフィールドの夜警官の中で、最も信頼に足る男さっ! ガレス・オールドマンと並んでねっ!」
「なるほどね、そして、僕は君を信頼している。」
フラナガンは、そう言いながらシガーを口の端から離した。煙は無重力の中で拡散する唾液のようにしたしたと漂って、それから、まるで偶然が指先に触れたようにして、フラナガンはシガーを取り落とした。ゆっくりと直線を描きながらシガーは床の上、絨毯の上にぽとり、と落下して、そのまま火の先でちりちりとそれを焼く。
「ああ。」
夢を見るように。
フラナガンは笑う。
「シガーを落としてしまった。」
靴の踵で。
静かに。
踏みにじる。
「あとで、ムッシュー・スーレに謝らないとね。それはそうとサー・アーサー。」
「なんだい、先生?」
「昨日の夜も言ったように、僕は今回の件についてほとんど知らないんだ。残念なことにね。だから、君に何かを教えることは、とても難しいことなんだよ。認めるのは苛立たしいことだけれど、たぶん僕よりも、ノヴェンバーの方がもっと多くのことを知っているだろう。ノヴェンバーが何て言っていたとしてもね。」
「そうか、残念だな。」
「けれど……ジョーンズが、君のことを、信頼できると言っている。そして、僕はジョーンズを信頼している。そんな、君の期待を裏切るのはとても忍びない。だから……君に、今日、何かを知っている人間を渡そう、と思う。本当は、もう少し別のことを考えていたんだけれどね、けれど、まあ、どちらにせよ僕の仕事に支障はないから。どうせ、白い薔薇の花は、いつかは僕のものになる……ブラッドフィールドの他のものと同じようにして、ね。あとで大手くんに伝えて、変更しておくよ。今日、君に、それを、夜警公社のブラッドフィールド本社に届けさせるように手配しておく。」
そういうと、フラナガンは。
踵を、やはり静かに、上げた。
まるで弄ばれた死体のように。
内臓をまき散らしたシガーの残骸。
フラナガンは肩をすくめる。
「これでいいかい?」
紗の奥の顔は見えない。
けれど、まるで。
なんでもない世間話をするような声。
アーサーは、震えるように笑う。
「ああ、俺にはできすぎた申し出だよ。先生。」
「そうかい、それは良かった。喜んでくれたのなら、僕も嬉しいよ。」
フラナガンはそういうと、軽く首を傾げた。
ポニーテールが軽く揺れる。
まるで、全てを馬鹿にしたようにして。
それから、両手を体の前に広げる。
まるで、全てを馬鹿にするようにして。
「じゃあ、僕はそろそろ失礼していいかな? 実は今日の夜も、他にやるべきことがたまっていてね。僕と、それからジョーンズとの、その……共同の仕事がね。ああ、変な意味じゃないよ? ねえ、ジョーンズ?」
「全くあなたの言う通りだよ、フラナガン神父! 正義には人と来たりとも休みの時はないのだ……そして、あなたが私たちの仕事に対する使命感に満ち満ちていることを再確認できて、今の私は感動に打ち振るえているよっ!」
「夜は、忙しい。」
人差し指を、すっと立てると。
まるで、静かに、というようにして。
それを紗の前、口のあたりに当てた。
アーサーは、メアリーの方を振り返って。
努めて何でもないような言う。
「もちろんだぜ、先生。お前はなんかあるか、パピー?」
「わたくし? いえ、何もありませんわ! 今日はお元気な姿を見ることができてとっても嬉しかったですわ、神父さま!」
「僕も君の元気そうな姿を見られて良かったよ、ミズ・メアリー……もちろん、直接挨拶に行くつもりだけれども、お父さまには、よろしく言っておいてね。」
「くれぐれも伝えておきましてよ、神父さま! 神父さまにそう言っていただければ、父も喜びますわ!」
「君たちはまだ帰らないのかい? サー・アーサー?」
「ああ、まだデザートが残ってるんだよ。今日のデザートはピーカンのフルーツケーキだからな。そりゃあ喰い逃すわけにはいかねぇだろ?」
「今日のデザートはピーカンのフルーツケーキなのか。それは残念だな、ここのフルーツケーキは、それを食べるには何人か人を殺してもかまわないくらいにおいしいのに……もちろん冗談だよ、ジョーンズ……でも、仕方がないね、仕事があるのだから。フルーツケーキはまた今度食べに来ることにしよう、暇な時にゆっくりとね。じゃアーサー・レッドハウス、ミズ・メアリー。僕たちはこれで。」
「また会おう! アーサー・レッドハウス、ミズ・メアリー!」
フラナガンは歩き出す。その横にはジョーンズが、まるで飼われている犬のように付きまとっていて、そしてその肩の上にフラナガンは手のひらを置いて。二人は、親し気な調子だった。アーサーには、二人、まるで、何かしら、その間に、不適切な関係があるかのように見えた……不適切な関係、例えばそれは、人の死にまつわる絆があるかのように。二人はアーサーとメアリーの横を通り過ぎる、アーサーとメアリーはその後ろ姿を見送る、蛍光灯が作り出す影のようにして、二人の姿は揺れて、遠のいて、そして、コート・バスクの小さな入り口の扉が開いて、閉まった。
「アーサーさま。」
「なんだよ、パピー。」
「わたくし、ジョーンズさまのこと、どこかで見たことがあるような気がしますわ。」
「ああ、俺もだ。」
「でも、どうしてもそれを思い出せませんの。」
「俺もだよ。それからな、大体そういう時は思い出さない方がいいのさ、パピー。そういうもんなんだよ……特にフラナガン先生が関わってる時はな。」
言いながら、やれやれ、とでも言うようにアーサーは横に首を振った。ため息をつきながら、疲れ切ったように。悪魔の住んでいる崩れかけた小屋の中から、命からがら無事に戻ってきたように。
「大丈夫でして、アーサーさま?」
「まあな。」
「フラナガン神父さまは……その、アーサーさまの聞きたいと思っていたことは……今日の、その、事情聴取は……成功しましたの?」
「間違いなく、俺はまだ生きてるよな?」
「え? それは……そうですわ、アーサーさまはご存命です。」
「最悪の状況じゃないっていう意味さ。つまり、成功だよ。とりあえず、このブラッドフィールドでは俺はそれ以上のことは望まねぇよ。さ、席に戻るぜパピー。そろそろフルーツケーキもできあがるだろ……ケーキにせよ何にせよ、料理ってーのはできたてが一番うまいんだ。だろ?」
そう言うと、アーサーは。
メアリーにウインクをした。
コート・バスクの夜は静かに沈殿していく。揺れて、崩れて、ひらめいて、腐って。金持ちたちの巣、権力者たちの巣、そういったものに特有の、氷がとけていくような、その過程で中に溜まった空気を吐き出していくような音を立てながら。気が付くと、機械仕掛けのような顔をしたウエイターが一人、アーサーとメアリーのすぐそばに、音を立てることもなく近づいてきていた。ゴムでできたような彼の口が「失礼いたします」という音を立てて動くと、ばね仕掛けのようにして彼の足はその場に屈んで、フラナガンが落として、踏みにじったシガーの欠片を拾い上げた。




