#19 カップ一杯余計な奇跡
ベルヴィル記念暦985年2章15節。
時を戻して、まだその夜が。
日付を変えたばかりの時間。
「まあ、予想の範囲内だな。それで? その件に関してはお前の「情報提供者」はなんて言ってんだよ。」
『何よ、それ。棘のある言い方じゃない?』
「おっと、そりゃ失礼。」
『別にいいけど、気にしてないわ。』
支給品、仕事用携帯から聞こえてくるエリスの声を聞きながら、アーサーはゆっくりと洗面台に手のひらを寄り掛かけた。その視線は、目の前にある磨き抜かれた鏡をじっと見つめている……その必要がないので、普段はあまりじっくりと自分の姿を見ることはなかったけれど、こうやって改めてみると……その、なんていうか、あまり紳士的とは言えねぇな、とアーサーは思った。少なくとも、ノスフェラティックなレストランに入る時に、しているべき姿ではない。ごまかし程度、ぼさぼさの髪に手櫛を通してみる。まあ、思った通り非紳士的状況はほとんど変わらない。携帯の向こう側に聞こえないようにして、そっとため息をついてみる。
一方でその向こう側でエリスは。
アーサーの内心に気が付くこともなく。
ただ、淡々と問いかけに答える。
『一応断っておくけれどね、これは屍食鬼公社の正式な見解じゃないわ。でも、やっぱり全体の意見としてサヴァン隊長にハニカムの通行権を渡す方向に傾いているみたいね。確かにノスフェラトゥ的に考えれば、それが一番正しい選択なのかもしれないわ、通行権を渡した後のことは、何にせよヴィレッジが勝手にやったことになって、夜警公社には責任はないわけだし、ほら、いつものあれよ……こちらとしては、ノスフェラトゥとグールの間に再び戦争が起こるようなことは極力避けたいのです、もしそれを避ける方法があるというのならば、こちらとしても受け入れるという選択肢をどーしたこーした云々官官。官僚的なお役所仕事ね。』
ここは、アーサーが今いるこの場所は。
コート・バスクの男性用化粧室だった。
アーサーは洗面台の前に立っている。洗面台は二つあって、それぞれの上には黄金比の形をした、長方形の鏡が据え付けられている。それほど広い場所ではない、入ってすぐにアーサーのいる洗面台があって、その奥、向かって左側に例の立ってする感じのやつが、右側に個室のトイレットが、それぞれ四つずつ設置されている。全体としては、少し奥に長い水槽の様な形をしていた……水槽、水槽、その水槽には、ゆらゆらと揺らぎ満ちる、血が満たされているように見えていて……けれど、もちろんそれは気のせいだ。
化粧室は、二色に塗り分けられている、天井と床、そして陶器でできたトイレットそのものは、白。それから、一面の壁と、例の立ってする感じのやつを分ける仕切り板の色は、赤。その二色だけだ。そのせいで、その場所は、赤によって満たされた、白い水槽のように見えているのだ。その色の配置はもちろん、ノスフェラトゥの最も好む色が、若い血液の鮮烈な赤であることに由来している。
そして水槽の中で。
その鮮血を泳いでいるのは。
今はアーサー一人だけだった。
くるっと体を回して鏡に背を向けて。
アーサーは洗面台に体をよりかける。
「それにハニカムなら、例えエトワール支局長殿に明け渡したところでうちに迷惑が来ることもねぇだろうしな。」
『正直な意見ね。』
「グレースには言うなよ。」
『ええ、分かっているわ。』
「だが……さすがにそんなこと、グールの方が承知しねぇだろ。通行権をグールタウンの一部に限るっつったって、自分の家にフィッシャーキングが土足で入り込むってことだぜ? 俺なら車庫の中だってごめんだぜ。」
『そう、実はその話をしようと思っていたのだけれど……そのことが今、ケンネルの連中の一番の問題になってるらしいの。噂で聞いた話では、最近のケンネルの協議要請にダレットが応じてこないんだって。』
「は? どういうことだよ、それ。」
アーサーはこの事態を予測していたかのようにして、あまり驚く様子もなくそう言った。それから、ゆっくりと洗面台から離れて、くるっと体の向きをトイレの奥の方向へと向ける。ちなみに、エリスの言ったケンネルとは屍食鬼公社の俗称のことだ。
『私に聞かないでよ、とにかくケンネルが何を言っても全くレスポンスがないらしいの。どうやら話が全部ピックマンのところで止まってるらしいのね、あなたも知ってるでしょう? これまでも時々、そういうことはあったってことは。つまり向こうの「儀式上の都合」のため「協議には日が悪い」っていうあれよ。例の儀式条項のせいでそう言われたらこっちにはもうどうしようもないんだけれど、今の状況が状況だから、何か他に理由があって時間を稼いでるんじゃないかって公社もほとんどヒステリーを起こしちゃってるらしいの。抗議だけ出してきて、こっちの話は聞かないのかって。たぶん、今回の通行権の話も、その問題が理由の一つになってると思うわ。』
「それは……ちょっとまずいかもしれねぇな。」
いいながら、アーサーは先ほどまで(一応、形だけは)手櫛で直していたはずの髪の毛を、今度は指先でがしゃがしゃとかき回しはじめた。別に、動揺しているわけではない、ただの癖だ。ほんの少しだけ収まっていたその髪型は、またあっという間に、だらしのない触手の宴のような状態に戻ってしまう。携帯の向こうで、エリスの問いかける声がする。
『何よアーサー、まずいって。何か心当たりでもあるの?』
「まあな。」
『やっぱり、あの女がハニカムで何かしたとか? だから言ったのに、いくらグールから抗議があったって、あの女が関わると碌なことがないって……』
「いや、春聯の件っつーかな、もう少し……」
『はっきり言ってよ。』
「俺にだって完全に分かってるわけじゃねぇんだよ。でもうすうすは……お前にだって分かってんだろ? 向こうは、独自にハッピートリガーの件を捜査している、と言ってる。グールが捜査だぜ? そして、こちらが知らせていない都合の悪い情報を掘り出してきて、こっちに突きつけてきている、まるで何か……これからグールがこちらに仕掛けてくる行為を、正当化しようとしてるみたいに。」
『あなた、もしかしてグールが例の事件の共謀者だって言いたいの?』
エリスが、飲み込んだ息を吐き出すようにそう言った。まるで冗談を言うふりをして、首筋に滑らかな刃物を突き立てるような口調だ、アーサーは、トイレの奥へ、個室と、例の立ってする感じのやつの、間を、不必要なまでにゆっくりと進んでいく。
「今は勤務中だぜ、エル? 俺は下手なことは言わねぇよ。」
『じゃあ、何でグールはあの女の通行を許可したわけ?』
「断るわけにはいかねぇからさ。こっちが善意でやってることだ、下手に断れば後々怪しまれる。それに、グールの連中はあの事件を知らないんだぜ? 結局のところ、春聯がどんな……やつか知らねぇんだよ。」
『どんな、化け物、か。』
エリスは、忌々し気にそう吐き捨てた。アーサーは、そのエリスのセリフには特に何も言わないで、ただ携帯に耳を当てて、そして耳を傾けているだけで。やがて、少し気分が落ち着いてきたのか、エリスがまた口を開く。
『もしあなたの推測が正しいとして……』
「おいおい、俺は何も言ってないだろ?」
『いいわ、とにかくグールの連中が今回の件に関わってたとして、それならあいつらの目的は何なの? というか、今回の件はいったい、何が起こっているの? あなた、何か知っているんでしょう?』
トイレの中、その天井には。
まるで異物のようにして、一か所。
薄く盛り上がった枠と、真四角の穴。
それは、換気扇の、通風孔。
「ああ、知ってるよ。でも知らないんだ。」
『意味が分からないわ。何を言ってるの。』
「詳しく言ったって分かんねぇよ、とにかく、俺は本当はそれを知っているはずなんだ。でも、何かによって知らないことにされている。俺だけでなく、この世界の全てがな。だから、俺には何も話すことができないんだ。」
『そう、まあ別にどうでもいいんだけど。』
「嘘じゃねぇよ、信じてくれ。」
『嘘でも嘘でなくても、どっちでも構わないわ。どうせ私はあなたの飼い犬の一匹なんだから。望むものをあなたに渡したら、それでおしまい。そういうことでしょ?』
エリスの声が、軽く傷ついたような調子になって、そう言った。いつものことだ、アーサーがどんなに努力をしても、エリスは……自分の首に首輪をつけたままでいる、アーサーにそのリードを持たせて、いつまでもいつまでも、アーサーがトランクィルの手のひらに銀貨を置いたその時から。アーサーは今度は、電話の向こう側にも聞こえる様な声でため息をついた。そして、言い聞かせるようにして口を開く。
「エル。」
『なに?』
「これだけは言える、もしも俺の勘が当たってれば、この件はもうOUTで何とかできることじゃなくなる。たぶん、否応なしに屍食鬼公社の方にバトンタッチすることになるだろう。とにかく、俺がお前に言えるのはこれだけだ……戸締りはちゃんとしておいた方がいいぜ。」
『分かった。ありがとう。』
つっけんどんな感じでエリスはそう言った。
悪くはない、すこし機嫌が直った証拠だ。
それから、考え直したように、またエリスは言う。
『他に何かある? ないんなら、私、仕事に戻りたいんだけど。』
「いや、大丈夫だ。ありがとうな、助かったよ。フロッグにもよろしく頼む。」
『分かったわ、それじゃあ……』
エリスがそう言って通話を切ろうとした時に、アーサーはふと携帯の向こう側で誰か男の声がしたのを聞いた。エリスに向かって、割合親しそうな声で、でも敬語を使っている、アーサーはそれが誰かを知っていた……ピートだ。ピートが何かをエリスに伝えると、エリスは「あー、あれね」と小さな声で呟いてから、また電話へと戻って来る。
『そうそう、忘れるところだったわ。』
「なんだよ、何かあったのか?」
『何かあったって程でもないわ、あなた今フラナガンも追ってるんでしょう? 大した話じゃないっていうか、私たちにはあまり関係のない話なんだけれど、一応教えてあげる。ついさっき、組対が上を下への大騒動になったの。理由は、アップタウンにあるシナルビルディングに一つの贈り物が届けられたから。送り主は不明だし、どうやって届けられたのかもわかっていない。いつの間にか地下駐車場の、監視カメラから死角になるところに置かれていたって。ビルの管理人が見回りの時に発見したんだけれど、その前の時にはそんなところにそんなものは存在しなかったって話よ。で、管理人はまずはそのビルの持ち主であるアッシュ・ペナンズ氏に連絡して、そしてアッシュ・ペナンズ氏がその贈り物を確認した後で、ご自分で夜警公社に通報なさったわけ。』
「ブラッドフィールド随一の慈善事業家であるアッシュ・ペナンズ氏が御自らの御通報か、そりゃただ事じゃねぇな。一体何が届けられたんだよ。」
『外見は大体縦と横がそれぞれ六十ハーフフィンガーくらいで、高さが百八十ハーフフィンガーくらいの、ちょっと大きめの普通の箱って感じ。でも、その白い箱に、かなり派手目の真っ赤なリボンが結び付けられてるわ。そうね、まるでカトゥルンパーティのサプライズプレゼントって感じよ。そんなのドラマでしか見たことがないけれど。とにかくアッシュ・ペナンズ氏は……当然自分でやったわけじゃないと思うけれど、そのリボンを切ったらしいわ、そうすると、ぱたんと箱の前面が開いて中のものが転がり出てきたんだって。』
「何が出てきたんだ?」
『人間。』
「人間?」
『そうね、辛うじてその時には人間だったはずよ。』
「辛うじてってどういうことだよ。」
『大体想像つくでしょ?』
「さあな、想像もつかないぜ。」
『私の口から言わせたいの? 随分と悪趣味ね。』
「じらさないで教えてくれって。」
『ほとんど人間の形をしてなかったってことよ。言ってしまえば肉の袋って感じね、皮膚上には一切傷口が開いていないけれど、内側はぐちゃぐちゃだったって。鈍器のようなもので長時間、しかも体中を殴打され続けたらしいわ。骨が全て砕かれて、筋繊維はちぎれて柔らかくなって、それでいて主要な器官は無事だったから、プレゼントの箱が開いた時にはまだ生きていたって。幸いなことに私は見ていないけれど、恐らく見ていて気持ちのいい光景じゃなかったでしょうね。』
「その……「贈り物」は誰だったか特定はできたのか?」
『確実なところはまだみたいね。でも箱の中には「贈り物」と一緒に、一枚のアイデンティティ・カードも入っていたそうよ。そのカードは誰の物だったかっていうと、なんと組対がずーっと追っていた大物のうちの一人。ディープネットの兵器を紛争地帯に密輸していた組織のボスと目されていたんだけれど、今までずっとしっぽを出さなかったせいで、手出しができなかったっていう曰く付きの人物。』
「なるほどな。」
『そして、その組織はもともとコーシャー・カフェのひも付きの組織だったけれど、フラナガンの入院の時に裏切って別の組織に鞍替えしていたらしい、とのことよ。』
「だろうな。ちなみに、どこの組織だよ。」
エリスはその質問には答えずに、電話の向こう側で「ピート、あの写真は?」と独り言のように呟いた。その後、何かがさがさと紙の束を探るような音がして、また「あったあった」というエリスの声が聞こえて、それからアーサーに向かって言葉はその話を続ける。
『プレゼントボックスにはもう一枚、カードが入っていたらしいわ、今手元にその写真があるんだけれど、えーと、たぶんこれはデパートとかで売ってる量産品のカトゥルンカードね。こう書かれているわ、今読んであげる……親愛なるEDへ。すこし遅れてしまったけれど、受け取って欲しい。メリー・カトゥルン。』
はっ、と軽く息を吐き出すようにして。
短くアーサーは笑った。
間違いようもない、これはあの男のやり方だ、二年間の空白が開いているが、どうやら悪趣味な冗談の好みは変わっていないらしい。帰ってきたと話には聞いていた。実際にその姿も見た。けれど、その時にはまだ実感がなかった、その相貌ではなかったからだ……昔からそうだった、あの男は三つの姿を持っている、一つ目の姿は、トラヴィール教会の敬虔な信徒、もう一つの姿は、運命に翻弄される滑稽な道化師、そして最後の一つの姿は……今、この時に、改めて、アーサーは実感する。
帰ってきたのだ、ブラッドフィールドに。
あの男の、最も暗い姿が。
コーシャー・カフェのニガー・クイーンが。
『以上よ。何か質問は?』
「いや、特にないな。」
『アッシュ・ペナンズ氏の反応は聞かなくていいの?』
「エンプティ・ダンプティだって馬鹿じゃねぇ、あの二人は長い付き合いだからな、例え全てを失っていたとしても、フラナガン先生がフラナガン先生だってだけで間違いなくこの街で一番危険な人間のうちの一人だってことは理解してるよ。下手に手を出すような真似はしねぇはずだ。特にこんな……本当にちょっとした挨拶に対しては、な。」
『ちょっとした挨拶?』
「どこの世界でも裏切者の命は軽いってことさ。」
『なるほどね。組対はそうは考えてないみたいだけど。』
「あいつらの仕事は最悪を想定することだからな。でもまあ、戦争が起こることはねぇよ、これくらいのことではな。とにかくありがとう、参考にさせてもらうよ、フラナガン先生と話をする時にな。」
アーサーはそう言いながらよっこいしょ、とでも言わんばかりにして、トイレの一番奥、つきあたりの壁に寄りかかった。その壁に寄りかかって、そして上を見上げる。そこはちょうど、アーサーの目にあの換気扇の、通風孔が入って来る位置だ。
『そう、それは良かった。じゃあ、切るわね……私が家の戸締りしなくてもすむように、せいぜい頑張って。』
「おいおい、それにはちょっとした奇跡が必要だな。」
『私は奇跡を信じるのよ。』
そう一言だけ言い残すと。メアリーはいつものように、いかにも雑な切り方で通話を切った。暫くの間、アーサーは携帯電話を耳に当てたままでそのあとに残された、るー、るー、という機械の音を聞いていたのだけれど、やがて自分も携帯の通話を切ってフロックコートのポケットの中にしまって戻した。それから、今まで寄り掛かっていた壁、頭をこつん、と上に傾けるようにして当てると、まるで独り言のようにして呟く。
「リチャードのクソガキは革命を起こすつもりなのか?」
独り言?
いや、返す言葉。
「そうだ。」
アーサーの頭の上。
通風孔の奥から。
それは亡霊のように。
誰とも知れぬものの声。
つまり、ノヴェンバーの声。
「そうか、そりゃやっぱりまずいな。もう俺たちにどうこうできる話じゃないぜ……ああ、俺たちっていうのはOUTにってことだけどな。はははっ、グレースになんて説明すりゃいいんだよ。」
「あなたには。」
通風孔からの声はそこで少し言葉を止めた。何を言うべきか、それとも今言おうとしていることは言ってもいいことなのか。そういったことを、思案しているかのようにして。けれど、やがて決心をつけたのか、言葉を続ける。
「やるべきことがある。」
「やるべきこと? 俺に?」
「時が来れば分かる。」
「なら、あんまりその時ってやつに来て欲しくはねぇな。」
アーサーは余り冗談ではないような口調でそう言うと、そこで二人の会話は少しの間途切れた。トイレの中にはその赤と同量の静寂が漂って、やがてその静寂の内側を破るようにして、アーサーはまた口を開く。
「教えてくれよ、ノヴェンバー。」
答えはない。
アーサーは続ける。
「Lの封印って何なんだ?」
答えはない。
アーサーは続ける。
「俺の頭の中にずっとその言葉がぐるぐる回ってるんだ。俺にはLが何か……とてつもない力を持った何かであることは分かる。それに、今殺されているダレット列聖者が、その兵器を封印している封印の鍵だってことも解る。そして……九年前のあの事件に、それが関わってるっていうことも。けれど、そこまでだ。そのLってやつが……いったい何なのかが分からない、そこの部分だけ、まるで俺の脳みその中を食い荒らした奴がいるみてぇにな。なあ、教えてくれよ、ノヴェンバー。お前、たぶん何か知ってるんだろ? ほら、お前は……まあ、大抵のことを知ってるからな。」
アーサーはそう言って軽く肩をすくめると、そこで言葉を止めた。通風孔の中からは沈黙が落ちてきた。まるでその沈黙は物質ででもあるかのようにして、したしたとアーサーの顔の表に滴って落ちてきているかのように。アーサーは知っていた、ノヴェンバーと会話をする時には、忍耐が必要だということを。そして、往々にしてその忍耐は全くの役立たずになるということを。
案の定、ノヴェンバーは。
全く何も答えてはこない。
アーサーは、溜息をついて続ける。
「分かったよ、じゃあ質問を変えよう。グロスターのガキは何処まで知ってる?」
「ほぼ全てを知っている。」
「なぜ?」
「協力者がいる。」
「誰だ、グールの誰かか?」
無言。
「違うのか……まあ、いい。次の質問だ。グールの連中はなぜホワイトローズのガキどもに協力してんだ? 千年近く続いたパクス・ノスフェラトゥーナの恨みが爆発したのか、今更? 例えそうだとしても、あのガキどもだって結局はノスフェラトゥじゃねぇか、革命を起こしたところで何も変わらないだろ?」
「Lの復活。」
「は?」
「Lの復活はグールの本能だ。何よりも優先される。」
「何よりも?」
「何よりも。」
「種の保存よりもか?」
「そうだ。」
「なるほどな、思わしくない状況パートツーってわけだ。三つ目の質問、フィッシャーキングは今回のことをどこまで知ってる?」
「あの男はそれほど多くを知っているわけではない。」
「そうか、初めての朗報だな。奴の狙いは?」
「Lの入手と、フラナガンの排除。」
「先生の排除? どういうことだよ。」
「リチャード・サードの協力者はフラナガンを排除することができる、その力を持っている。だから、フィッシャーキングはその協力者と連絡を取ろうとしている。」
「そいつは先生と関係あるやつなのか?」
「まだ分からない。」
「分からない? ははっ、お前が分からないなんて言うこともあるんだな。まあいい、フィッシャーキングはそいつのことを知ってるのか?」
「いや、知らない。恐らくシャボアキンかノスフェラトゥの通信記録からその存在をあぶり出したのだろう。」
「は? その協力者ってやつはシャボアキンだのノスフェラトゥだのとも関係があるのか?」
「……その協力者のうちの誰かが、シャボアキンとノスフェラトゥと共同でLの封印装置を作ったと思われる。」
「装置を? なんだよ、自分で作っておいて解除させようとしてるのか? 意味が分かんねぇな、狙いはなんなんだよ。」
無言。
「まあ、何も言わねぇってことは察しは付いてるってことだな、それだけわかりゃ、最悪の状況じゃないってことだ。俺は欲張りな男じゃないからそれで満足するよ。じゃあ、最後の質問だ。お前、さっき時が来れば俺にもできることが分かるって言ったよな。その時ってのは、大体どれくらいで来るんだよ?」
「すぐにくる。」
「すぐ?」
聞き返すか聞き返さないかのそのタイミングで。
アーサーは通風孔の奥の気配が消えたのを感じた。
どうやら、話はお終いらしい。
ふーっと、長く長くため息を吐く。ノヴェンバーは、いつも唐突に消えてしまう、こちらの都合などお構いなしに。上を向いて、壁に寄りかかっていた頭をとんっと離すと、フロックコートの端がひらりと揺れた、それからぐーっと伸びをする。ノヴェンバーは、すぐに来るといった、アーサーができることが分かる状況が。アーサーはわざとらしくゆっくり歩いて、トイレの出口へと向かう。その途中で、気が付いたようにして鏡にちらっと眼を向けてみた。安物のフロックコート、ぼさぼさの髪の毛、まるでそれは、血液の溜まった金魚鉢の中を泳ぐ、疥癬病を患った金魚のように見える。軽く髪に手櫛を通して、それからコートの裾をぱんぱんと払ってみる。大して状況は変わらない、アーサーは肩をすくめる。
まあ、気にすることはない。
死にかけた金魚であっても。
流れに任せて泳いでいれば。
いつか、どこかにたどり着くだろう。
そんなことを考えながら、アーサーはトイレのドアのノブを回して、その外に出た……その外には、一人の紳士がいて、そして怪訝そうな顔をしてトイレから出てきたアーサーの姿を見た。アーサーは、一瞬なんで紳士がそんな顔をしているのか分からなかったけれど、その一瞬の後にそうか、と思い出して、くるっとトイレのドアを振り返った。そして、邪魔なやつが入ってこないようにそのドアの外側に貼っておいた「清掃中」の紙を引っぺがす。
にっと笑って。
その紳士に言う。
「ああ、清掃は終わりましたよ。」
それほど大きくはないが姫君の冠のように趣味の良いシャンデリアの光は、天井近くに溜まった灰色の紫煙に包まれて、プリズムみたいに七つの色に分けられている。それはそれなりに美しい光景ではあったが、まるで睡眠薬を飲んで午睡したあと、寝過ごして夕方に起きてしまった時、窓の外に見える空のように怠惰で、そして退廃的でもあった。
コート・バスクは盛況だった。
浅い夜はそれなりに、深い夜は特に。
この場所は、つまり、夜に賑わう。
「アーサーさま、おかえりなさいませ!」
「おお、先生はどうだ?」
トイレから帰ってきたアーサーを、お行儀よく席に納まったままで迎えたメアリーに向かってそう言いながら、アーサーは小さなテーブルを挟んでその向かいに座った。今日のメアリーは……いつものちょっとちぐはぐとした服装と比べれば随分ときちんとした格好をしていた。胸元と背中が開いたホルターネックのイブニングドレスは、ちょっとかわいらしさ優先の薄いピンク色をしていたけれど、まあ許容範囲内だ。袖がなく腕を露出したドレスは、その代わりに足元まで裾の伸びたロングで、その裾が柔らかくこすっているのは丸いヒールの夜会靴。胸元にはゴールドチェーンの先にダブルハートのリングが付いたネックレスをしている。そして、肘腕まで隠す、シンプルな黒色のオペラグローブ。
当然だ、ここはコート・バスクなのだから。
世界最高のレストラン、正装で来るのが常識。
店内で正装でないのは、アーサーだけ。
「アーサーさま。」
「何だよ。」
「フラナガン神父さまは……立派な方ですわ。決して皆さまが言うように、悪い方のはずはありません。わたくしはもうトラヴィール教徒ではありませんけれど、あの方のことは、その、尊敬しています。もちろん、あの方はわたくしのことを、あの時に、唯一庇ってくださいました……けれど、それだけじゃなくて。」
「ああ、分かってるさ。」
「フラナガン神父さまは、立派な神父さまで、それなのに……なぜ昨日の夜は、ブラックシープと一緒にいらっしゃったんですの? ブラックシープは……解っていましてよ、アーサーさま。今はまだ、教えることはできないのですわよね。けれど、どうしても……ブラックシープは、その、昨日の夜、人を殺しました。二人も。その現場に、フラナガン神父さまもいらっしゃって……わたくし、本当に、わけが分からなくなってしまって……」
メアリーはそういうと、つっとテーブルの上に視線を落として俯いた。コート・バスクは盛況だ、店の奥の方からは……離れ島のようにこの場所からは離れている、メインのダイニング・ルームからは些喚きの音が流れて来る、まるでひたひたと押し寄せて来ては死んでいく、まどろみの中の夢のようにして。紳士たちが囁く声、淑女たちの笑う声、それにナイフやフォークが皿に当たって鳴らす、時計の歯車のようなカチカチという音、ごくまれに、グラスとグラスが鳴らす透明な響き。そういった音が混ざり合って。
ちなみに、アーサーとメアリーがいるのはドアに近い、長椅子の並べられた大きく開けたホールだった。昼間であれば日の当たるホールは、今は暗く沈んだ夜に見つめられている、二つの目は静かに開いた二つの月で、片方の月は眠そうに瞼を少し落としているけれど、もう片方の月はほとんど見開いているように真円に近づいている。コート・バスクで客たちが通される席は……他の、ブラッドフィールドの高級レストランがどこでもやっているやり方と同じように、ムッシュ・スーレによって、お客様のランクごとに厳密に分かたれている。つまり、頭でっかちの宦官もどき、機械仕掛けの人形、成金、田舎者の猿といった、金は持っているけれどもただそれだけの、端的に言ってしまえば二流の連中はダイニング・ルームやバー・カウンターといった離島へと追いやられる。そして、ブラッドフィールドの最高の白鳥達、コート・バスクにふさわしい一流の客たちは、ドアに最も近い場所、入ってすぐのホール、そのテーブル席へと通される。
アーサー・レッドハウスとメアリー・ウィルソン。
二人は、もちろん最高の場所を用意されていた。
この二人以上にいるだろうか。
この席に、ふさわしいお客様が。
「まあ、ブラックシープだって悪いやつじゃねぇよ。」
そう言いながら、アーサーはワインのグラスを持ち上げると軽く口の方へと傾けた。ティクオンの赤、砕かれた宝石を、静かに元の形に組み上げていく、その時の光のような色をしたそれを、舌先で一救い掬い取って、喉の奥で鳴らす。アーサーがこのワインを注文した時には、「今日のワゴンの料理は? ああ、狼のレバーね。じゃあ……ティクオンの赤かな」「まあアーサーさまったら、お仕事中でしてよ!」「おいおい、コート・バスクに来てワインを頼まねぇつもりか? そりゃ教会に行って祈りを捧げないのと同じくらい不敬だぜ?」「もう、アーサーさまったら……メアリーは知りません!」というやり取りがあったのだけれど、それはここでは特に関係のない話だ。メアリーはふっと目を上げると、そんなアーサーを見ながらまた口を開く。
「それは、メアリーにも分かっていましてよ。ブラックシープは、ただの犯罪者じゃありませんわ。それは分かっていますの。でも、それでもやっぱり……ブラックシープは……人を殺すのはいけないことですわ。だって、死んだ人は、死んだ人は……生き返らないじゃないですか。」
「少数の例外を除いてな。」
「アーサーさまは意地悪ですわ。」
「ははっ、そうでもねぇよ。まあ、そう焦るなってパピー。フラナガン先生が何を考えているのか、わざわざこんなところにまで、今日はそれを聞きに来たんだろ? 本人に直接な。今回の事件にどう関わってるのか、なぜ昨日の夜にブラックシープと一緒に……おっと、忘れてたぜ、これは口止めされてたんだったな。兎にも角にも……」
ぷくっとふくれっ面をしたメアリーに向かって、なだめるように軽く笑いかけながら、アーサーはそこまで話してからふっと口をつぐんだ。そして、メアリーから視線をそらして、テーブルの横へと向ける。そちらから……つまり、店の奥の方から、まるで花畑の上で踊る蝶々のような嬉し気な足取りでこちらに向かって来ていたのは、スーレ氏だった。
「サー・アーサー……それにミズ・ウィルソン……申し訳ございませんでした、その、つまり、お出迎えもできませんでして……」
そう言いながら、スーレ氏は二人に向かって芝居がかった調子でお辞儀をした。アーサーの服装、というか、なんというか全体的な、その、荒廃した雰囲気についてはまるで気にかける様子もない。それはそうだ、スーレ氏のような本当のレストラン主にとっては、客の外見などは関係ないことだ。要は、大事なのは、中身。
アーサーは、軽く手を振って。
そんなスーレ氏に言葉を返す。
「おー、ムッシュー・スーレ。今日はすまなかったな、予約も入れてないのにこんないい席に通してくれてよ。」
「サー・アーサー……とんでもございません、いつでも、いつでも、いらしてください……最上の席をおとりいたします……」
スーレ氏はすっかり煮あがったソーセージのような指先をこすり合わせてそう言いながら、ちらと店全体に目を回した。これは基本的には完全主義者であるスーレ氏の癖の様なもので、例えば生花は萎びていないかとか、皺の寄ったテーブルクロスはないかとか、そういったこと、つまり自分の店が最高級の客にふさわしいレストランのままであるかを常に点検しているということだった。問題ない、今日もスーレ氏のレストランはパーフェクトなレストランだ。まるで問題がない。それを確認して満足すると、ふふん、と(もちろんサー・アーサーに失礼のない程度に)鼻息を鳴らしてからアーサーにまた問いかける。
「それで、お気に召しましたか、その……」
スーレ氏は、ふとそこで言葉を止めて。
一瞬だけメアリーの方に目を向ける。
まるで、歯の妖精を信じている子供を見るような目で。
それから、アーサーの方に目を戻す、問いかけるように。
アーサーは、他愛もない魔法のようにして答える。
「狼のレバー。」
「狼のレバーは。」
「ああ、旨かったよ、皿までなめちまったぜ。ほら見てみろよ、きれいなもんだろ? なあメアリー。」
「もちろんですわ、ムッシュー・スーレ! 今日のお料理は本当に最高でしたことよ!」
メアリーはスーレ氏に向かってそう言うと。
歯の妖精を信じている子供のように笑った。
「それは……大変光栄です、ミズ・ウィルソン……」
「で、今日のデザートは何だったっけ?」
「アーサーさま! 今日のデザートは、なんとフルーツケーキですことよ!」
「おお、フルーツケーキか?」
「フルーツケーキ!」
「ピーカンの?」
「ピーカンの!」
「そりゃあ、今日の俺たちは随分とついてるな。下手したら帰りに馬に蹴られて死んじまうんじゃねぇか?」
「まあ、アーサーさまったら!」
「分かんねぇぜ、メアリー。ここのフルーツケーキはそれくらい絶品だからな。なあ、ムッシュー・スーレ。」
「それは……とても光栄です、サー・アーサー……」
「さあ、さっそく持ってきてくれよムッシュー・スーレ。フルーツケーキって聞いただけで、もう俺の口は待ちきれなくなっちまったみたいだぜ。ああ、もちろんレーズンはカップに一杯余計に入れてくれよ?」
「かしこまりました、サー・アーサー……レーズンをカップ一杯余計に入れるよう、シェフに伝えて参ります……」
そういうと、スーレ氏はさも面白い冗談を聞いたかのようにして、くすくすと笑いながら、またアーサーとメアリーに向けて深々とお辞儀をして、じりじりと後ずさりをするように、二人に極力背を向けないようにその場から立ち去った。
アーサーはその姿を曖昧に目で追っていたけれど。
スーレ氏の姿が厨房の方に消えたのを見送って。
それから、またメアリーの方に目を戻した。
「ピーカン、サクランボ、パイナップル、それにレーズンをカップ一杯余計に……」
「アーサーさま。」
「なんだよ。」
「アーサーさまは、その……寂しくはないんですか?」
「寂しい?」
「アーサーさまは……それはもちろん、メアリーはいつもアーサーさまのおそばにいますわ、何があっても、メアリーはアーサーさまからは離れません。」
「おー、嬉しいこと言ってくれんな。」
「でも、それでも、アーサーさまは……わたくしたちとは違います、もっと、多くのことをご存知です。わたくしたちの知らないことを、アーサーさまだけが知っていて、しかもそれをご自分だけの中にとどめていらっしゃいます……誰にも言えずに、言うことができずに……」
「俺は大したことは知らないよ。お前たちよりも知ってるかもしれないけどな、俺よりももっと多くのことを知ってる連中がいるんだぜ、まあ、それがいいか悪いかは別にしてな。」
いいながら、アーサーは軽くグラスを持ち上げた。
そして、軽くシャンデリアの方に向かって掲げる。
きらきらとして、紫煙で濁った煙が赤く揺れる。
その光を、にやりと笑った目でじっと見ている。
メアリーは、机に視線を伏せたままで。
そんなアーサーに、たどたどしく言う。
「でもアーサーさまは……たまに、すごく寂しそうな目を……」
「そりゃ、俺だって生きてるんだぜ、パピー? 生きてりゃ誰だって、はは、ノスフェラトゥだって、たまにはすごく寂しくなる時もあるさ。だろ?」
「アーサーさま……」
「ああ、そうそう、すっかり忘れてたぜ。アンドリューから検視報告の第二弾が来てたんだったな。デザートが来るまでにちょっと目を通しておかねぇと。パピー、出してくれよ。」
アーサーはそう言って、なおも何かを言おうとしたメアリーの言葉を途中で遮った。パピーは、口をぱくぱくと動かして、何か言うべきか、それともどうするべきか少し悩んでいたみたいだったけれど、やがてその口を閉じて、イスの下に置いておいた小さなポシェットをひっぱり出した。これに関しては特に正装といった感じでもない、いつもメアリーが肩からかけているポシェットで、その中から丸めた茶色い紙の挟みファイルを一枚取り出すと、アーサーにそれを手渡した。
「どうぞ、アーサーさま。」
「ありがとよ。」
言いながら、アーサーはメアリーから受け取った紙のファイルを開いた。中には何枚かの紙が挟まれていて、それは例の最初の被害者、コーヴェル・ストリートで発見されたダレット列聖者の、正式な検視報告書のコピーだった。きっちりとあるべきように、定型にまとめられた報告書の一番初めには、几帳面に角ばったような文字でアンドリューのサインがしてある。アーサーは、あまりにアンドリューらしく神経質に作り上げられたその報告書にちょっと苦笑いをしながら、ゆっくりと目を通していく。
「どれどれ。ふぅん、特に目新しいことは分かってねぇみたいだな……いや、ちょっと待てよ、これは……」
「どうしまして、アーサーさま? 何かありましたの?」
「死因になった胸部の銃痕から、オーディナリウム反応が検出されたみてぇだ……白イヴェール有機金属の残留物は発見されていないことから、凶器となった魔弾はスペキエースによって具現された概念形成物であると推察される。また、検出されたオーディナリウム反応の強さから、当該スペキエースは等級6以上の非常に強力な存在だとも推察される。」
「等級6以上のスペキエース……」
「ああ。」
「確か、アーサーさま、おっしゃってましたよね。リチャード・サードも、その、スペキエースだって。」
「そうだな。どうやら、この殺しは、グロスターのガキが直々にやった確率が高いみてぇだ。」
「直々に? でもなぜ?」
「そりゃあ、ちょっと難しい質問だな、パピー。何かの理由は有るだろうが……」
そこまで口を動かすと、アーサーはまた何かを目の端に止めたらしく、言葉を止めた。にっといつものように、人をからかうような笑みを浮かべた。メアリーも、そんなアーサーの様子に気が付いて、アーサーが見ていた店の奥の方、ダイニングルームへとつながるアーチ状の通路の方に目を向ける。
アーサーがテーブルの上にグラスを置く。
いいアイデアを思いついたとでも言うように。
ゆっくりと、席から腰を上げて。
「パピー、おい、ちょうど良かったな。その理由を知ってそうな人が来たぜ? 聞いてみるか。」
アーサーの視線の先、そしてパピーが見たその視線の先。アーチ状の通路を抜けて、ちょうど誰かが、スーレ氏につれられてこちらにやってくるところだった。黒い色に包まれた神父の姿をした男、アーサーとメアリーが今までその男を待っていた男、その顔を紗で隠し、背に尾のようにしてポニーテールを揺らした男。
つまり。
エドワード・ジョセフ・フラナガンが。




