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#18 きっと彼女は陽気な怪物

 一般的にいって純種のノスフェラトゥ同士であれば、パンピュリア共和国のどこにいようとも、アップルタウンからのテレパシーによる思考伝達が可能だ。というか、そもそもパンピュリア共和国の国境自体が、どこにいたとしてもアップルタウンからノスフェラトゥ同士が連絡しあえる距離、ということで定められている(ノスフェラトゥには自分の手のひらに余るような大きさのものを持とうという考えはない)。そしてもちろん、雑種であっても(かなりの個体差はあるけれど)ある程度の距離を思考伝達することが可能だ。

 そのため、ホワイトローズ・ギャングの。

 ノスフェラトゥ間の連絡は。

 ほとんどがテレパシーによって行われている。

 そして、今、ハッピートリガーは。

 己の思考を、まずはパイプドリームへと飛ばした。

 ノスフェラトゥ同士のテレパシー伝達は、それが雑種と雑種の間で行われるものに関しては、ある意味では一連の言葉の繋がりであって、人間にも理解できるものであることが多い、それは、雑種が元は人間だからであって、習慣によって固定されたその脳の構造が、人間的な言語ベースの思考に慣れてしまっているためである。しかし、純種の使うテレパシーはそういったものとはまるで違っている、それは、抽象的で、刹那的で、そしてどちらかといえば論理的な言語ではなく、感情的な本能のようなものだ。それは、決して言語化することはできず、また雑種であってもパイプドリームのような、一部のものにしか理解することはできない。

 しかし、あえてハッピートリガーとパイプドリームの間での思考を言葉にすると、つまりこういうことになる。ハッピートリガーからパイプドリームに対しては、第一に、サヴァンにもちかけた「話」の結果を問いかけ、第二に、その「話」はどうせご破算になるだろうから、あらかじめ定めておいた計画通りに、こちらの要件が終わるまでサヴァンの注意をそらしておくことを命じた。パイプドリームからハッピートリガーに対しては、第一に、サヴァンにもちかけた「話」は当初の想定通り受け入れられなかったこと、第二に、現在サヴァンたちの部隊と交戦中で、こちらは二人やられたが向こうの人間を三人殺したということを返した。

 まずまず状況は悪くなかった。

 ハッピートリガーは口の端で笑う。

 次に、キューカンバーにテレパシーを繋ぐ。

 ハッピートリガーからキューカンバーに対しては、アーサーとメアリーの状況を問いかけた。キューカンバーからハッピートリガーに対しては、二人は先ほどまでと変わらずコート・バスクの中にいる、もしも状況が変わったらまたテレパシーを送る、ということを返した。

 これも、いい返事だった。

 ハッピートリガーは、喉の奥で笑う。

 最後に、ヴァイオリンにテレパシーを繋ぐ。

 ハッピートリガーからヴァイオリンに対しては、ヴィレッジの捜索班の足止めの状況を問いかけた。ヴァイオリンからハッピートリガーに対しては、殺戮の快楽と、そして口を濡らす血液の甘美さ、砕ける骨の音楽に、引き裂かれた肉の濁った色、そして今日は本当にいい夜である旨が返ってきた。

 非常に、悪くない。

 ハッピートリガーは声を上げて笑った。

 そして、テレパシーを終えた。

「どうだったー?」

 その笑い声を聞いて、ハッピートリガーの足元、まるで蜥蜴と人間の中間のような姿勢、両手を地について、長すぎる足を窮屈そうに軽く曲げてかがんだ、そんな姿勢のままで、パウタウがいつもの通りの呑気な口調で問いかけてきた。サングラスの奥の目は、さも人が良さそうな色をして笑っている。

「問題ねぇよ。万事AKだ。」

「そっかー。でも本当によかったよねー、なんか、今日はフラナガン神父様も、こっちに来てないみたいだし。安心してお仕事ができるよねー。」

「ああ……そうだな。」

 パウタウのその無邪気そうな言葉に対して、多少口ごもるようにしてハッピートリガーは答える。確かに、本当に偶然のことではあったけれど、アーサーとメアリーを追跡していたキューカンバーからの連絡によって、今日はフラナガンが、なぜかベッドストリート、それもコート・バスクに行っていることがハッピートリガーたちには解っていた。だから、その二人については、少なくとも今日のところは心配する必要はなかった。

 しかし、ハッピートリガーには気に食わなかった。

 なぜ、このタイミングでコート・バスクに行く?

 フラナガンは、一体何を考えている?

 それに、ブラックシープはどうした?

 ハッピートリガーは、昨日、それを聞いた時から、ことあるごとに、無意識にフラナガンの言葉を思い出していた。これはノスフェラトゥにとっては非常に珍しい状況だった。本来の純種のノスフェラトゥであれば、頭蓋骨の内容物を完全に制御することができる。必要な事柄を必要な時にだけ呼び出してくる、不要な事柄を不要な時に思い出してくることはない。しかし、ハッピートリガーは、その背の翼を切り落として、人間の言葉と、そしてその破綻した思考パターンを学んでから、ごくまれにそういった現象に悩まされるようになった。それは、自分の必要・不必要とは関係なしに、まるで破滅を予告する不気味な亡霊のようにして、たびたびに頭蓋骨の中で、ゆらゆらと揺らめいて踊るのだった。

 俺は、操られているのか?

 フラナガンは、何を知っている?

 この装置を作ったやつは、誰だ?

 ルーシー・バトラーは、なぜ笑った?

 まるで人間のように、乱雑で整除されていない思考が、ハッピートリガーの頭の中、空を跳梁し、地を跋扈しているように。ハッピートリガーは、その思考を追い出すかのようにして、片方の手で強く頭を掻きむしった。そして、ただ黙って後ろに控えているグレイと、不思議そうな顔をして見上げてくるパウタウに向かって、何でもないような口調を装って、言う。

「さ、行くぞ。仕事の時間だぜ。」

 今、ハッピートリガー、パウタウ、グレイの三人は、グールタウン、バンクス・リバー沿いの道筋に立っていた。ヴァイオリンとミスター・アドニスが戦闘を繰り広げている場所から、もう少し海の方に近い場所、つまり、もう少し他の街よりも遠く、もう少し闇が深く、もう少し静寂が深い場所。ハッピートリガーはその場所で、川の欄干に両手をよりかけて、川を見下ろしている。

 と、ハッピートリガーは。

 そこから無造作に跳ねて。

 川の方へ向かって飛び降りていく。

 石造りの欄干を支点にして、くるんと、体を回すように、川の方へ向かって体を落とす、しかしハッピートリガーは、その体を水面へと沈めるつもりではなかった。器用に体を曲げて、それから落ちていくその部分の空を軽く踏むようにして、川への落下の途中で、もう一度、その体は、今度は下へではなく、横ざまに、川と道を隔てている岸の、その方へと跳んだ。川の横、道を作っている堤防のような高い岸の、その部分、ハッピートリガーが体を向けたその部分に、ぽっかりと、一つ、黒々とした穴が開いていた、それは元はこの街の生活水の排水溝として作られた穴だ。川へと流し出す下水道、そこに向けて、ハッピートリガーは二度目の跳躍、空っぽの跳躍をしたのだ。

 ぱしゃりと、片方の足で、優雅に。

 ハッピートリガーはその中に降りた。

 それは、下水道にしては随分と広いように見えた。人間の成人男性であれば、背丈二つ分くらいはあっただろう。後を追いかけるようにして、まずはグレイが飛び降りてきた。ハッピートリガーと違って、どちらかというと力づくの印象が強い飛び降り方だった、壁を滑り落ちてきて、壁に手をひっかけて、無理やり体を押し入れてくる。次に、パウタウが後をついてくる。パウタウは飛び降りてくるわけではなかった、いつものように、その壁に爬虫類のようにひっついて、かさこそと擦れるような音を立てて這い進んで中へと入ってきたのだ。

 三人とも、その下水道の入り口に立つ。

 下は乾ききらない水が溜まり、濡れている。

 奥は黒々としていて、水滴の音が聞こえる。

「ここで間違いねぇのか?」

 天井に張り付いたパウタウに向かってハッピートリガーは問いかけた。パウタウはその質問を聞くと、ひっついていた両手を離して、ぶらんとぶら下がるような形でハッピートリガーの方を向いた。のんびりとした口調で答える。

「うん、たぶんねー。元データはたぶんオーバー・バイオレットだから、さすがにぼくでもアクセスできなかったけど、でもブリスターとHOTのやり取りとか見てみると、ここなんじゃないかなーって思うよー。」

「おいおい、随分と適当だな。」

「えへへー。」

「まあいい、とにかく進むか。」

 ぱしゃり、ぱしゃり、と水音を立てながら、ハッピートリガーは歩き始めた。グレイとパウタウも、それに従って下水口の、その奥へと進みだす。グールタウンで生活する者がいなくなった今でも、この下水道は、時折、大雨や洪水が起こった時などに、大量の水が流れることがある。そのせいでそれほど濁ったような、埃っぽい空気が満ちているわけではない。けれど、それでもどこか荒廃したような、死んだような空気が満ちているのはグールタウンの他の場所と同じだった。「ずっとまっすぐか?」「うん、ずっとまっすぐー」幾つか細い支道が分かれていたけれど、それは無視してその太い本道だけを進んでいく。

 そして、やがて。

 パウタウは足を止めた。

 下水道の横壁に。

 四角く掘られた、窪み。

 それは例えば、粗雑な作りの神殿の、聖者を安置するための壁龕の様なものにも見えた。飾りなく、ただこの下水道の壁を、くりぬいただけの壁龕、しかしその中にあったのは、一枚の扉であった。長方の形をして、人一人が通り抜けられる程度の大きさ。下水の水圧に耐えられるように、どっしりと頑丈な金属でできていて、下水による浸食のせいで、古錆びた色をした扉。しかし、それなのに、その扉には。長の年月を経てきたはずのその扉にまるで似合わない、真新しいペンキの、真っ白な色で、一つの絵が描かれていた。

 薔薇の絵。

 白い薔薇の絵。

 ホワイトローズ。

 その薔薇の絵を見て。

 ハッピートリガーは言う。

「ここか。」

「そうだねー。」

「開けろ。」

「分かったー。」

 間延びした声でそういうと、パウタウはすたん、と天井から床の方に、軽く飛び降りてきた。それから壁龕の中、扉の前に立つ。暫く手のひらで扉の表面を探るようにして触っていたのだけれど、やがて小さな声で「あったー」と呟いた。とんっとその一部を叩くと、扉の一部分、そのパウタウが叩いたところが、ちょうど手のひらと同じくらいの大きさで、ぱかっと開いた。中から、扉を開くためのナンバー錠が出てくる。パウタウはにっこりと笑うと、素早く、ある一連の番号を打ち込んだ。古い昔に失われた数字、かつては、このグールタウンにも割り振られていた地帯番号を。その地帯番号を打ち込むと、扉の錠の部分が、まるでくたびれた老人の咳払いのような音を響かせた。それは鍵の開く音で、パウタウはナンバー錠のへこみに指をかけて(そのへこみはドアの取っ手の役割も果たしていた)、少し力をかける。

 軋むような音を立てて。

 扉は渋々ながら、開く。

「開いたよー。」

 パウタウは、そう言うとハッピートリガーに笑いかけた。しかし、ハッピートリガーはそれに返事もせずに、ただづかづかとパウタウの横を過ぎてその扉の中に入っただけだった。まあ、気にすることでもない。ハッピートリガーがパウタウに対してお礼一つ言わないのは、いつものことだった。ハッピートリガーとグレイが中に入った後に、パウタウはにっこりと笑ったままでその扉の中に入って、静かにそれを閉じた。


 した、した、と。天井から水滴が滴り落ちてきて、ハッピートリガーとグレイの頭を濡らしていた。先ほどから、パウタウも濡れた天井を嫌ってか、横壁の方に移動してそちらを這って進んでいる。パウタウが開いたあの扉の先は、人が二人ようやく擦れ違える程度の細い道が坂のようになって、ずっと下の方に向かって曲がりくねった通路になっていたのだけれど、どうやらいつの間にかその道は、川の丁度、下のあたりに来ていたらしかった。それなりに地の底へと至っているため、それほど多くではないけれど、それでも川の水はこの場所に、ごつごつと掘り抜かれただけの岩壁から染み出して、通路を濡らしていた。鼻の先にも湿ったような匂いがしている。

 通路は今のところまるで真っ暗だった。ハッピートリガーとグレイにはそもそものところ光は必要なく、またパウタウのかけている飴玉色のサングラスは実のところそこそこ高性能な多機能グラスであったので、別に進むのに困ることはなかったけれど、それでもやはりこの通路もグールタウンの一部、巨大な肢体を構成している白骨の一部であることが、その事実によって示されていた。

 いや、本当にそうだろうか?

 その骨の内側に?

 何かの寄生虫が宿っている?

 赤い色をして?

 檻の形をした夢をみる?

 そしてその赤い色は、やがて三人の視界の中に入ってくる。今まで通ってきた細い坂道は、地底を通る別の通路へと丁字に接続していた、その接点が見えてきたのだ。細い坂道に繋がった、その地底通路はもちろんグールが作ったハニカムの下層地区で、赤い色はもちろん、赤イヴェール合金の放つ淡い色をした赤であった。他の場所の赤イヴェール合金よりも、より暗い色をしている。強い、強い、夢の負荷がかかっている。

 二本の、赤イヴェール合金、ハッピートリガーの為の、道標。それを見て、だからハッピートリガーは、口の端を曲げるようにして軽く笑う。そのハニカムの通路は、かなり狭いもののように見えた。今まで通ってきた細い坂道と、同じくらいの幅と高さしかない。その事実は、この場所が末端も末端、ほとんど指先の毛細血管みたいなものであるということを表していた。しかしそれでも、あの色を見れば、この先で間違いないということがハッピートリガーには解った。

 その証拠に。

 坂道から通路へと降りて。

 すぐに、それが見えた。

 赤い色と独立したように光る。

 緑の光。

 三人はそちらへ進み。

 やがて、そのセルに達する。

 「装置」の「鍵」に。

 今までの狭い通路から目の前に急に広がるようにして、そのセルは、ホテル・レベッカの地下にあったものとまるで同じだった。もっと言ってしまえば、コーヴェル・ストリートの地下にあったものとも。白い色をした、何かしらの生物の筋肉のような床。機械でできた脊髄、肉体の欠けらを纏わせたような、五つの巨大な塔。その五つの塔に囲われて、巨大な手でできた花弁。その上に果実のようにして乗せられた、女性の頭部と、内臓の様なものを混ぜたような巨大な何か。

 そして、その口の中に。

 捕えられたグール。

 緑色の、まがい物の体液の中。

 静かに浮かんでいる。

 三つ目の「鍵」。

「パウタウ。」

「なーにー?」

「解除しろ。」

 精神安定剤を種として、狂人の頭の上に咲いたような、そんな花の形をした装置を見上げながら。ハッピートリガーは記号みたいな声でそう言った。普段は努めて人間の真似をして、感情をこめたような口調で喋るようにしているのだが、こういった時に、つまり周りにグレイとパウタウしかいないような時に、ふとハッピートリガーは、ノスフェラトゥだったころみたいな、感情の籠らない喋り方に返ってしまうことがある。それから左の腕を、やはり感情の籠らない動作のままで自分の前に持ちあげる。

 一方でパウタウは、ハッピートリガーの言葉を受けてその虚空に向かって差し出された左腕の下に、這いつくばるようにしてしゃがみ込むと、ボタンダウンの胸ポケットから何か鈍く光るものを取りだした。細長い何か、それは、どうやら安っぽい金属でできた試験管のようなものらしかった。ただ、その安っぽさの割には錆び付いておらず、凹んでもいない、そこそこ頑丈な材質でできている。そして、パウタウはその試験管をハッピートリガーの左腕の下に、何かを待ち構えるようにして指し出した。

 ハッピートリガーは右手。

 人差し指を左腕の上に置く。

 まるで、ケーキを切り分けるように。

 そっと左腕の上に置く。

 と、その指が、形を変える。

 爪が伸び、ひしゃげ、ナイフのように・

 すうっと、ハッピートリガーはナイフを引く。

 左の腕に、赤い色をした線ができる。

 その赤色は、傷口の上で盛り上がり。

 やがて、腕を滴って、落ちていく。

 パウタウの持つ、試験管の中に。

 したり、したり、やがて、たら、たら、赤い糸を引いているようにして、パウタウの試験管の中にその細い流れは溜まっていき、そしてその全ての内側を満たして溢れた。試験管の縁を伝って、パウタウの指先はハッピートリガーの血液で濡れる……いや、それは正確に言えば純粋な血液ではなかった、もちろん血液ではあるが、血液だけではなかった。もっと根源的なもの、生命の底流を流れる物、ノスフェラトゥの血液には……つまり、ハッピートリガーのスナイシャクが含有されている。

「エーケー。」

 そういうと、パウタウはくっと試験管を傾けて、その細流を手元で切った。たらたらと流れる血液は受け止める皿を失って、そのまま地の底を覆う、白いテクノ・イヴェールの床に流れ落ちたけれど、それもやがては止まった。ハッピートリガーが、不要になった己の傷を塞いだのだった。

「じゃ、ちょっと待っててねー。」

 パウタウはそういうと、ぺろり、と舌を出した、その舌は、蛇の舌のように先が二つに分かれていて、その又になった部分で器用に試験管を持つと、そのまま蜥蜴の類のようにして這いずりながら、セルの中心、ゆらゆらと穏やかな風に吹かれているように揺れている、巨大な、多関節の、指でできた花弁の方へと向かっていった。蓋もしていない試験管は、ゆらゆらと揺れては少しだけ中の血液をこぼして、パウタウの舌を濡らしているけれど、右に左に揺らしている割には意外なほどこぼす量が少ない。

 花弁にたどり着く。

 パウタウは、花の指先に手をかけて。

 それに、よじ登る。

 ホテル・レベッカの地下にあったものとは、少し違っているように見えた。ホテル・レベッカの方は、二つの女性の頭部が三分の二、残りの三分の一は、肝臓のような組織で覆われていたけれど、こちらの装置は、女性の頭部のようなものは一つしかなく、装置の三分の一しか占めていない。残りの三分の二は、つぶつぶとした脂肪が固まったようなものと、それから欠けた肺のようなものが、ぐちゃぐちゃに混ざってでできている。肺のようなものは、まるで呼吸をしているかのように、静かに膨らんだり、しぼんだりを繰り返している。

 パウタウは、装置の後ろ側に回り。

 そのうちの、女性の頭部の方によじ登る。

 まるで、繁茂する触手のように。

 人間のものよりも遥かに太い髪をかき分けて。

 やがて、パウタウは。

「いーうえあ。」

 目当てのものを見つけた。

 それほど大きいわけではない。せいぜいがパウタウが両手を指し出せば、その全てを隠せるくらいの大きさ。しかし、その部分だけが、まるで何か交通事故か何かに遭って、ひどく擦り向けてしまっているようになっているように見えた、髪がごっそりと抜け、皮膚が剥がれ、例えばそう言った意味で。ぶよぶよとした白い肉塊の上に、血管だかシナプスだか、とにかく網目のように張り付いていて、そこに何かが流れているように見える。いくつか虫に食われたような穴が開いていて。それは、この装置のコントロールパネルだった。血管だかシナプスだかのように見えるのは回路みたいなもので、虫食い穴のようなものはレセプターみたいなものだ。

 パウタウは、いつものようににっこり笑うと。

 人差し指の先をそのレセプターに突っ込んで。

 そっと、自分の目をつむった。

 それは、パウタウにとっては慣れた感覚だった。例えば、上空遥か高く、大気圏から海に飛び込み、そのままの勢いで深く深く沈み込んでいくのに少し似ている。そして、それは静かな静かなコミュニケーションだ。決して激しい侵略ではない、蝕むような浸食。パウタウは、己を、装置の内側に、ディープインする。

 パウタウは、いわゆる「ダブル・スピーキー」だった。

 二つの能力をもつ特殊なスペキエース。

 一つは見ての通り、爬虫類とのゼネプラス。

 そして、もう一つがテレサイバー。

 簡単に言えば、機械へのテレパス能力。

 「鍵」にディープインするのはもう三度目だったので、パウタウとしてもとっくに理解していたのだけれど、この機械は(これが仮に機械と呼ぶにふさわしいものならば、だけれど)現在の、この星の、このディメンションに、存在しているあらゆる機械とは、少し異なった種類の代物だった。以前にパウタウはテクノ・イヴェールでできた機械にディープインしたこともある、しかし、所詮それが現代の、この星の、このディメンションが作った機械であるのならば、その……精神構造は、やはりほかの機械と同じように理解可能な代物であるはずだった。しかし、この「鍵」は、異質だった、いかなる天才が作ったものとしても。

 例えるならば、人間の構成しうる構造というよりも、むしろイス・ディバイターズの本拠地である、惑星ナコタスの構造に似ていた、もちろんパウタウはそれに直接入ったことがあるわけではなかったが、以前一度だけSPBのレベルブルーファイル群の中に……しかし、本当に驚くべきことは、その似ている、ということではなかった。この装置は、惑星ナコタスのそれよりも、はるかに複雑な技術で作られているようにパウタウには思われたのだ。宇宙、あるいはこの時間線といってもかまわないだろう、もっとも進んだ技術力を持つ集団であるイス・ディバイターズよりも進んだ技術が存在している? そんなものが存在しているとしたら、それは「フェテラシカ」や「バートルビーの子供たち」といったこの世界の前の世界の技術か、それとも、現在より遥かに遠く、そして隠されている未来からもたらされたものとしか考えることができない。そうなるとこの機械を作ったのは……

 しかし、この機械が何であるかは。

 パウタウには関係のないことだ。

 パウタウの仕事は一つだけ。

 この鍵を、開くこと、それだけだ。

 パウタウはまるで、音声で会話する生物が光で会話する生物の群れの中に落とされたような感覚を抱きながら、その目的の場所へと己の力を向けていく。それは、言語というよりも、むしろ芸術だった。優美で、無駄がなく、そして愚かなほどに巨大で異質な光景だ。人間の作る機械は大体が単純で、有りと無しだけでコミュニケーションが成り立つ。少し複雑なものでも、有り、無し、その両方の状態、この三つさえ覚えておけばまずは問題ない。しかし、この機械は違う、パウタウには説明できないが、もっと……完全なのだ。そうとしか言えない、とにかくこの機械は人間の理で動いているわけではなかった、この世界の理で動いていた。

 もしもハッピートリガーからこの機械の精神の「辞書」を受け取っていなかったら(もちろんハッピートリガーはそれをルーシーから受け取った)パウタウにこの理を理解することは叶わなかっただろう、しかし、パウタウは幸運なことにそれを受け取っていた。「辞書」はパウタウの力の中に花畑のように咲き誇り、目的の場所へと先導する。

 やがてパウタウは。

 それを見つける。

 それに「力」を突き入れ。

 戯れるように伝える。

 夜に似た仕草でそれが広がる。

 パウタウは溺れそうになる。

 波を、水を、夜を、理解する。

 パウタウの「力」が広がる。

 それを包み込み。

 それを支配する。

 パウタウは、そこでぱっと目を開いた。装置の解除の第一段階が終了したからだ、第二段階では、とくにこの装置の精神に関わる必要はない、鍵穴に鍵を入れればそれで済むことだからだ。第一段階の解除を受けて、次第次第にパウタウの下で、装置が蠢動し始めるのを感じる。震え、ふくらみ、そして……パウタウから見て右側、肺と脂肪の塊のような部分が大きく動き始めた。何か、その表面にぽつぽつと、裂け目のようなものができ始める。裂け目の両側が盛り上がり、それはよく見ると唇のような形に見え始める。裂け目は数えきれないくらい、内臓的な部分の全体に広がって、そしてやがて、ぱっくりと開いた。

 口だ。

 歯のない口。

 幾つも幾つも。

 一斉に、唸り声を上げる。

 なにかの、サイレンのようにして。

 パウタウは、それを見て満足そうに一つ頷くと、よじよじと髪の上をかき分けるように這って、内臓的な部分へと向かう。二股の舌に挟んでいた試験管を手に持ち替えて、そしてたくさん開いている口のうちの一つへと近づいた。

 口の中に。

 それを垂らす。

 ハッピートリガーの血液を。

 始祖のスナイシャクを。

 口はそれを受け入れ。

 己の内側に、飲み下す。

 それと同時に、唸り声は一層大きなものになる、口、口、口、その内臓の表面の小さな口は感情のこもらないその声を張り上げて、そして……一際、大きな、口、つまり、今開いた口ではなく、歪んだ女の顔のようなそれが開いた、透明な水槽を含んだ口、その口が淡い色だった光を強く、強く、し始める。ホテル・レベッカの時と同じだ、水槽を覆う、透明な隔壁を、溶かすための光

 光の目的の通り。

 グールを捕えていた水槽は。

 だらりだらりと溶けて。

 そして、いつもの通り、破ける。

 グールが、出産される。

「ハッピー、こっちはおっけー。」

 パウタウが、まるで自分のペースを崩すことなく、いつものように調子が狂うような呑気な声でそう報告をした。別に報告をする必要はなかったのだけれど。既にハッピートリガーの目の前には、かろうじて導線のようなもので装置に繋がれている以外は無力で無防備なグールが、つまり三つ目の鍵が、獲物として転がっていたのだから。

「ああ、見りゃ分かるぜ。」

 わざわざ口に出す必要のないことを口にして、ハッピートリガーは無理やり口を歪ませて笑う真似事をした。皮肉なことにノスフェラトゥとしての制御を外したハッピートリガーの精神は、興奮してくると、薄い糊で張り付けたように身に着けた人間の精神構造が、次第にその温度で剥がれてきてしまうみたいな気がする。理論的にはそれがなぜ行われる行為なのかは分かるのだけれど、どこまでも上滑りするように意味がつかめなくなる。しかし、とにかく今はそれはどうでもいいことだ。

 横たわったグールに向けて。

 まるで、無知を授ける神父のように。

 ハッピートリガーは右手を差し上げた。

 その手のひらに、金属の光がまとわり。

 ライフェルド・ガンを構成する。

「こいつで三匹目。」

 ハッピートリガーは、指の先で。

 象徴としての引き金を引く。

 グールの頭がはじける。

 緑色の血液が飛び散る。

「残りは、あと二匹か。」

「そうだねー。あとちょっと、がんばれ、がんばれ!」

 ハッピートリガーのほとんど独り言のようなセリフに、義理堅く返事をしながら。パウタウが装置の頭の上から降りて、近づいてきた。床にべとべとと広がった、水槽の中に満たされていた液体を避けながら、相変わらず地面を手と足で這いまわるみたいにして。

「ここは爆破しなくてもよさそうだな。」

「下手にぼーんってして、ばれるとあれだしねー。」

「あれってなんだよ。」

「つまり、えーと、この場所がばれるってこと。」

 その時に、ふと。

 グレイが、顔を上げた。

 その顔は、目が光り、ぎっと牙をむき出している。

 まるで、何か、敵意を感じ取った狼のように。

「どうしたのー?」

「どうした、グレイ。」

「何かが来る、何か、危険なものが。」

「危険なもの? 何も感じねぇけどな。」

「ハッピートリガー、これは……」

 グレイの声に、被さるようにして。

 くすくすと、笑い声が聞こえてきた。

 それは、まるで、鎌と鎌が掠れるような声だった。

 獲物の首を刈り取る鎌を、こすり合わせるような。

 そして、その声が、そのまま形を取って。

 ハッピートリガーたちに、こう言う。

「招福招福!」

 ばっと、ハッピートリガーとグレイはその声がした方を振り向いた。三人がこのセルに来た通路、その通路から少しずれたところにもう一本の通路があり、その通路の奥で、何かが光って、揺れていた。ちょうど、人の首当たりの位置で、あれは……ネックレスだった。金属製のネックレス、いや、本当は少しだけ違う。あれは、首輪だ。その女に、ノスフェラトゥ達がつけた、可塑的な、金属の首輪。パンピュリア共和国にとってあまりにも危険な野獣なので、首輪をつけずに、野放しにはできなかったのだ。

 その女が、通路の奥からこちらに向かってくる。

 長く、黒く、乱れた髪、愛国人の切れ長の目。

 そして、常ににやにやと笑っている口元。

 ハッピートリガーが、ちっと舌打ちをする。

 そして、その女の名前を、その舌に乗せる。

「まさか、楊春杏が出てくるとはな。」

「え? 楊春杏!?」

 ハッピートリガーの言葉に、明らかにパウタウが動揺したような声でそう言った。パウタウが動揺するのは珍しいことだったけれど、その珍事を驚いている余裕はハッピートリガーにもグレイにもなく、ただじっと春杏に目を向けていた。その春杏は、明らかに浮き浮きしているらしかった、ハッピートリガーと、それからその横のパウタウにかわるがわる目を向けながら(グレイの方には視線を向けることもしない)、軽くスキップを踏んで三人の方へとやってきた。

「党愛我常。やっと見つけたのことね、真実サンの息子サン、こーんなところに隠れていたのことね、真実サンの息子サン。元気だったアルか? ちゃんと元気だったアルか? 病気とかしてないアルか? ダメあるよ、ちゃんと元気じゃないと。弱ったスピーキーは味が悪いのことね。」

「別に隠れたわけじゃねぇよ。」

「我はとても鼻が利く良い猫アルね、寝猫知鼠匂、真実サンの息子サンの匂い、寝ていても分かるのことよ。素晴らしい匂い、等級6の極上のスピーキーの匂いね。」

 全くハッピートリガーの話を聞くこともなく、春杏はニヤニヤした笑い顔を顔に浮かべたままで、両手をばーっと胸の前で開いた。ばんざいでもするようにして、それからパウタウの方にちらと横目を向けると、軽く首を傾げる。

「真実サンの息子サンについては生け捕りにするように言われているけれど、もう一人のスピーキーについては我、何も聞いていないのことね。食べてしまってもいいアルか? あとでアランサンに聞いてみるのことよ。」

「ハッピーどうしようー、楊春杏がぼくのこと見てるー……」

 怯えるようにして寄り添ってくるパウタウ。

 一方でハッピートリガーは、世間話でもするようにして。

 笑いながら、春杏に話を向ける。

「いいのかよ。」

「何がアルか?」

「人間が、グールタウンのハニカムなんかに入り込んで。しかも、お前はHOGの人間だろ? 明らかに協定違反じゃないのか。」

「ああー、そのことアルね。問題ないのことよ。ちゃんと屍食鬼公社から許可は取ってるのことよ。」

 そう言いながら春杏は自分のよれよれのスーツのポケットを探り始めた、まず上着の右ポケットに、次に左のポケット。「あれ、おかしいのことね」と言いながら、ズボンの右ポケット、左ポケットと探し、「ああ、そうアルそうアル」と言いながら、最後に胸ポケットに手を突っ込んで、それを取りだした。「ほら」と言いながらそれを指の先に撮んで、ハッピートリガーに見せる。それは、小さな匂い袋だった。屍食鬼公社が発行しているグールタウンの通行許可証で、この匂いはグールに対して、この匂い袋の所有者が協定で定めた「ダレット列聖者に対して敵意のない通行者」であることを示している。

「順便教題。」

 ポケットにまた匂い袋をしまいながら春杏は話を続ける。まるで何でもないことのようにして、右手の人差し指を、このセル中を指さしているようにして、くるくると回しながら。

「汝達がセットした爆弾はもう使えないアル。全部アランさんが解除したのことよ。だから、おとなしく我に捕まるのことね、真実さんの息子さん。そうすれば、右手一本もぐもぐくらいで勘弁してやるアル。」

 くすくすと、春杏はまた笑った。

 しかし、その笑い声が、弾け飛ぶようにして。

 春杏の体は、その場から弾き飛ばされた。

「万難!?」

 唐突な攻撃に春杏は訳も分からずそう叫びながらセルの壁に叩きつけられる。その春杏が立っていた場所に、その春杏を蹴り飛ばした、灰色の狼が一匹立っていた、それは、春杏と同じように首輪をつけられた化け物、要するに、月変りをして狼の姿になったグレイの姿だった。ハッピートリガーは、春杏に忍び寄っていたグレイから注意をそらすために会話を続けていたにすぎなかったのだ。そして、そのグレイは、その灰色の獣毛にふさわしい、冷たい熾火のような目で。牙をむき出しにしたままで。

 壁の方、春杏の姿を睨んだ。

 さも痛そうに、背を撫でさすりながら。

 春杏は、ゆっくりと立ち上がる。

「痛感、痛感、大痛感……いきなりでびっくりしたのことよ。」

 特にダメージを負った様子もなく。

 淡々とした口調で、続ける。

「ライカーンアルか? 聞いてなかったのことね、我はてっきりスピーキーだけのお仕事と思ってたアル……あんまりライカーンは得意じゃないのことね、しかもレベロク、レベヨン、ライカーン、イー、アル、サン……全部ひっくるめて三人も相手にしなきゃいけないアルか? これはさすがの我でもちょっと……まあ、でもしょうがないのことね。」

 さっきまでのご機嫌な感じとは打って変わって、多少、声の中に苛立ちが混じった声だった。ぎっと歯をむいて、軽く指の先で頭を掻いている、その掻いている部分から、じわっと血液が流れ出して額を濡らした、どうやらさっき壁にぶつかった時に、擦りむいていたらしい、血に濡れた指先を、軽く舐める、それから、春杏は、その味に気を取り直したようにくすくすと笑った。

「パウタウ。」

 ハッピートリガーが。

 その笑顔を見て言う。

「なーに?」

「グレイに任せて、逃げるぞ。」

「え?」

 きょとんとした声でそう言ったパウタウを、無理やり脇に抱えて、ハッピートリガーはノスフェラトゥの跳躍力で跳んだ。「うわわー、ハッピー、痛いよー!」「黙ってろ!」、そんなことを言いながら、出口の穴の方に向かう。その行動に、春杏がぱっと表情を変えて、慌てたような顔になって追いかけようとする。

「あ、こら、待つアル!」

 しかし、その春杏が動き出す前に。

 グレイが春杏の体に飛び掛り、のしかかる。

「ライカーン! 何するアル! 離すのことね!」

 ハッピートリガーとパウタウは、一直線に出口の方に走る。このままなら、いくら一人抱えていようと、ノスフェラトゥの速さだ、それにグレイが春杏を抑えている、逃げ切れるだろう、ハッピートリガーがそう思った時に。二人が向かっていた出口の奥で、闇が、動いた。

 闇が?

 黒だ。

 黒いロングスカート。

 踊るように、ドレスが揺れる。

 そして、その上に白いエプロンが掠れる。

 ハッピートリガーは、それを見ていた。

 白と黒は、まじりあうように。

 そのハッピートリガーの視界を切り裂くように。

 まだ装置が発している、緑の光の中を揺蕩って。

 そして、その白と黒の色は。

 グレイの灰色とまじりあった。

「な……!」

 グレイの口から驚いたような声が漏れた。ライカーンは基本的に、五感の全てが動物的な発達を遂げている、しかも月変りしている時は特に。よほどのことがなければ、相手のたてる音や、漂わせる匂いを感じ取れないことはないはずだった。しかし、この白と黒は、そんなグレイの感覚に、全く触れることもなく、ただそこにいた。

 「それ」はグレイの体にまとわりついて。

 そのまま、春杏の体から転がり落とす。

 つまり、春杏の体は自由になる。

「助かったのことね、誰か知らないけれど多謝!」

 軽く両手を合わせてそちらの方に礼をすると。

 春杏は「それ」が何かに注意を払うこともなく。

 きっと、顔をハッピートリガーたちに向けた。

 ばんっと、飛び上がるようにして立ち上がり。

 くすくすと笑いながら、こう言う。

「逃げるなんて悪い子アルね、お仕置きが必要のことよ。」

 ちっと、ハッピートリガーは舌打ちをする。

 それから、抱えていたパウタウをその場に下した。

「ど、どうしたのハッピー?」

「もう無理だ。」

「え?」

「邪魔だ、お前は先に逃げろ。」

 そういうと、ハッピートリガーは両手を体の前に開いた。光の触手が、体のあちこちから揺らぐようにひしめいて。そして、その両手の両方に、まとわりつき始める。春杏は、それを見ながらくんくんと、鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。その顔は、くすくすとした笑いから、にいっと引き裂けるような、満面の笑顔に変わる。いい匂いがする、スピーキーの匂いだ。甘く滴り落ちていく蜜のような匂い? ふっくらと焼けたパンの香ばしい匂い? 獲物から切り出したすぐあとの肉の塊の匂い? いや、それはそのどれとも違う、エネルギーそのものが発する、どこまでも澄んだような、薬品のような匂いだ。やがて、ハッピートリガーの両手にライフェルド・ガンが形成される、ハンド・キャノンのように、太い腕ほどもある銃身と、拳ほどもある銃口に、片手で持てるようなグリップとトリガーが付いたもの。あまりに不恰好な形だ、しかし威力はある。

 ハッピートリガーは、何も言わずに。

 即座に、二つの銃口。

 春杏に向けて、概念の魔弾……魔砲を放つ。

 春杏は、その砲弾に向かって。

 顔色一つ変えずに、こう呟く。

「爪広。」

 言葉は春杏の体の内で、普段は「力」を抑え込んでいる肉体の器官に感応する。まるでその言葉が炎であり、その封印が淡雪であったかのようにして、「力」を抑え込んでいた器官はそれを開放する。春杏の体の、その内側から何か……溶けた真鍮のようにどろどろとした、うっすらと黄色い液体が流れ出してくる。その液体は、緊急時の速やかさで春杏の体を覆っていき、外付けの筋肉のような形をとっていく。その液体が体の全てを覆う前に、十分に足を覆い尽くした時点で、春杏はその場から、跳んだ。

 まるで機械仕掛けの肉食獣のようだった。

 シャープであるが、鋭すぎない跳躍。

 ハッピートリガーの二発の銃弾を避ける。

 宙を舞っている間にも春杏の変容は続いていた。その体はさっきまでより一回りも二回りも大きくなっていた、全身の無駄なラインを覆い隠していく、その黄色い真鍮の液体のせいで膨らんでいたのだ。体の後ろに長い尾のようなものを形成して、それから……特に変容が大きいと思われるのは、その顔だった。長く黒い髪も、同じように黒い色をした眼球も、ひくひくと動かしている鼻も。その全てを金属のような液体は覆い隠していく。その代わりに、それらがあった場所には何か……空虚が構成されていく。顔らしきものは口を残して全てが塗りつぶされて、その場所には、鈍く輝く黄色の空虚が出来上がる。それでは、口は? 口にも、もちろんその液体は浸食していく。それぞれの歯に覆いかぶさり、乱雑に、しかし確かに捕食者としての牙に変形させていく……それは、霊長類に似ていただろう、もしも霊長類が最も祖型的な猿から、知性ではなく暴力の方向に進化していたら、このような姿になっていたに違いない。

 そして、再び地に降り立った時には。

 春杏の「力」は、春杏を覆い尽くしていた。

 「力」の名前はビューティフル。

 スペキエースを狩るためだけに作られた。

 殺戮のための、完璧な生命体。

 あるいは、ただ単純に、捕食者。

 その形相子が、春杏には埋め込まれている。

「楊春杏、人間とビューティフルの融合体。スペキエースだけを狙った連続殺人事件「春聯事件」の犯人、愛党は否定しているが、恐らくあいつらが作り出して制御が効かなくなった、知性を持った対スペキエース兵器。現在は夜警公社の制御の元、OUTでスペキエース犯罪の「対策」に当たっている。」

 ハッピートリガーがその姿を見上げて呟く。

 純種のノスフェラトゥの声だった。

 またライフェルドガンを構えなおす。

「初めて見たな。」

「初次加面。」

「そうだな、よろしく頼むよ。」

 感情の色を見せずにハッピートリガーはそういうと、スーツを着たままの怪獣に向かって、もう一発砲弾を放つ。春杏は、全く動じることもなく、すっと体を少しだけ横に動かしてから、手のひらを向けて軽く持ち上げた。その砲弾が、指を一本だけ吹き飛ばす位置に身をそらしたのだ。春杏の思い通り、ハッピートリガーの魔砲はその手の上をかすめていき、人差し指の先、一本だけを吹き飛ばした。瞬間に、潮汐に揺らぐ波のように、春杏の体を覆っていた金属の液体が波打つ。

「如意。」

 ビューティフルは、人工的に作り上げられた完全な生命体だ。ここにおいて完全とは、周囲の環境に合わせて常に適応することを意味している。そして、今の春杏は、ビューティフルの能力を持つ人間で、だから、周囲の環境が変化し、己の身体を傷つける状況になると、その脅威に対してそのたびに「進化」することができる……春杏の体は、ハッピートリガーのライフェルドガンを脅威とみなした(指を一本吹き飛ばされたのだから当然だ)、そして、進化を開始したのだ。

 一方で、ハッピートリガーは。

 その砲弾に春杏の注意を向けて。

 いつの間にか、その背後に回っていた。

 始祖の血を継いでいるノスフェラトゥが本気を出せば、その動きは(アンジェリカ・ベインやP・B・ジョーンズのような極端な例外を除けば)あらゆる形而下生物の動体視力では追いかけることはできない。ハッピートリガーは、片方のハンドキャノンを春杏の頭に、もう片方のハンドキャノンを春杏の背に押し付けて、トリガーを引いた。二発の砲弾が春杏に軽々と撃ちこまれて、その体は弾き飛ばされる。ハッピートリガーの体も、その反動で吹き飛ばされて、春杏からは離れてしまう。くるんと、空中で回転して姿勢を整えると、そのままバランスを崩すこともなくハッピートリガーは着地した。

「やったか?」

 春杏の体から。

 答える声がする。

「否。」

 まるで虫食い穴の開いた紙人形が、糸につられて引っ張られるっようにして。春杏の体が立ち上がるのが見えた。くすくすと、笑い声がする。人間の形をしていた時と違って、まるで鋭い刃と刃を、こすり合わせた時の音にも似た、掠れた金属の不協和音。虫食い穴に見えたのは穴ではなく……巨大なクレーターのような、ただのへこみだった。真鍮色の肉体の中で、いつのまにか盛り上がっていた一部が、べっこりと凹んだクレーター。そのクレーターが次第に均されていき、そして春杏の体は元通りの真鍮の怪物の姿に戻る。

「耻辱、耻辱。」

 春杏は既に、ハッピートリガーの能力に合わせた進化を完了していたのだ。ハッピートリガーが春杏に向かって銃口を押し付けた時に、春杏の外殻は反応した。瞬時にその部分が防御のために盛り上がり、分厚い概念装甲を作り出していた、精神や思考といった、物質的ではない攻撃に対する装甲だ(それを春杏の体が構成できたのは、ハッピートリガーの体を構成しているS-eidosを読み取って、その効果を反転させる形相子を構成したからであり、それこそがビューティフルの能力なのだけれど、ここでは詳細な話は省く)。もちろん、等級6の能力者であるハッピートリガーの攻撃を、完全に防御することなど春杏にもできはしない、しかし一部の攻撃の力を逃がして、その方向をそらすための装甲を作ることくらいはできるのだ。

 春杏は背の方に手を当てた。

 スーツに随分と大きな穴が開いてしまっている。

 まあ、別に構わない。

 後で、車に用意してある予備に着替えればいい。

 ハッピートリガーは、そんな春杏を忌々しげに見つめながら、両手のライフェルドガンの形象をといた。ほどかれた光の触手はゆらゆらと揺らめきながら消えていく。どうやら、スペキエースの力は春杏には……無駄というわけではないが、ほとんど効果がないようだった。もちろん、春杏の存在をかき消すくらいの巨大な砲撃を、ハッピートリガーならば作れないこともない。けれど、こんな狭い場所でそんなものをぶっ放したりすれば、自分たちだって無事では済まないだろう。それなら、別の力で攻撃するしかない。幸運なことに、ハッピートリガーの力はスペキエースの力だけではなかった。

 ノスフェラトゥの力。

 ふっと、またハッピートリガーの姿が消えた。

 そして、春杏は右手を伸ばして差し上げた。

 がいぃんというような、金属を思いっきり強く叩いたような音がセルの中に響き渡った。それは春杏の右手を、ハッピートリガーの右足が蹴り飛ばした音だった。なぜそんな音がしたのか? 春杏の右手は……既に手の形をすることをやめていたからだ。指と指は組み合わさり、手のひらは大きく広がって、それは一枚の盾になっていた。ビューティフルの肉体は、ノスフェラトウやライカーンのそれよりも可変的だ、それはまるで、ただ狩りの道具であるかのようにして次々と変形していく、その肉体の持ち主にとって最も適した姿に、しかも、本能的に。その過程には意識や知性は介在せず、そのためノスフェラトゥの速度にも(辛うじてではあるが)適応することができる。

 春杏はそのまま盾を地に向けて弾く。

 ハッピートリガーの体は叩き付けられる。

 また、ハッピートリガーの姿が消える。

「小鬼来了。」

 春杏は、剣山の針のように口中を覆っている牙の端から、涎のようにして言葉を滴らせながら、上を、岩盤でできた天井を見上げた。凸凹とした岩のくりぬき跡に、さかさまになってハッピートリガーが立っていた、まるで重力が反転しているかのように。そしてセルの中を見回す。グレイの姿を探していたのだ。春杏はとてもじゃないが、本気を出さずに、一人で、殺せる相手ではない。そして本気を出せない状況である以上、グレイにアシストをさせたかった。

 グレイの姿を目の端でとらえる。

 グレイの灰色は。

 まだ白と黒と踊っていた。

 ハッピートリガーは目を凝らしてそちらの方を見た。黒と白の色色は……少なくとも人間の形をしていた。それに、どうやら着ている服も、ありがちで、実用一辺倒のメード服らしい、その点でも非常に人間らしい姿をしている。しかし、その動き方はとても人間とは思えない……といって、ライカーンやノスフェラトゥのようでもない。一般に生命体は、己の体を保全しようという本能がある。そのために、誰かに向かって攻撃をする時にも、一部の意識は防御に向いているものだ。しかし、そのメード服姿の何かは、まるで己の肉体に、生命に、注意を払ってはいなかった。そのせいで、グレイは随分と苦戦しているようだった、まるで腐りかけの死体を相手にしているようなものだ、相手は既に恐怖も苦痛も感じない、だから手ごたえも歯ごたえも何もない、ただその肉体を粘液のようにしてまとわりつかせて来るだけで。

 殴り掛かる鋭いグレイの爪も。

 噛み砕こうとするグレイの牙も。

 避けようともせずに、突っ込んでいく。

 そのせいか、体中が傷だらけだった、ライカーンの爪痕、牙痕……いや、一部の傷は今できたものと思えない、古い古い傷のようにも見えた。例えばホチキスで止められている、黒々とえぐられた首の三本の傷、あれは確かにライカーンの爪痕にも見えるが、明らかに、今グレイによってつけられたものではなかった。それに、あの傷を受けて、その後で生きていられる人間がいるとも思えなかった。その時に、ハッピートリガーはやっと気が付く。あれは、リビングデッドだ。ほとんど己の意思などはなく、何者かに操られるだけの、操り人形のような奴隷。

 そして、ようやくハッピートリガーは匂いを感じた。

 あのリビングデッドに甘くまとわりついた匂いを。

 今まで気が付かなかったのが不思議なくらいに。

 ハッピートリガーのことを、あざけるようにして。

 間違いなく、それは、フラナガンの匂いだった。

「好了?」

 ハッピートリガーは地を蹴って飛び掛ってきた春杏の前脚を、異形に強化した自分の手で払い、そして天井から床へと飛び降り立った。春杏は攻撃を避けられても全く動じる様子もなく、今度は反転するように天井を蹴って床のハッピートリガーへと降り注ぐ、金属でできた水滴のような流線型に形を変えて。ハッピートリガーはその巨大な雨粒を避けるように体をそらしながら、考えていた、今までのハッピートリガーの、人間的な、複雑かつ無意味な思考ではなく、ノスフェラトゥの、簡潔で整然とした思考で。

 エドワード。

 ジョセフ。

 フラナガン。

 あいつは俺を捕えようとしている。

 あいつの求める何かのために。

 つまり、俺にとっての脅威だ。

 俺の知らない何を知っていようと。

 次に出会ったら殺さねばならない。

 騒々しい音を立てて、ハッピートリガーのすぐ横、春杏が衝突の態度で落下した。驚くべきことにその衝撃で、テクノ・イヴェールでできているはずの白い床にはそれほど大きくはないが傷ができている。ふっと、ハッピートリガーは別の方向に俯いていた思考を取り戻して、そちらを振り向いた。落ちたその床の上をころころと全身で転がるように、春杏はまたくすくすと笑っていた。

「気持ちが悪い化け物だな。」

 首を少しだけ斜に傾けてハッピートリガーは言った。

 それから、先ほど異形強化した手を春杏に差し向ける。

「是的。」

 春杏がそう言った直後、その口はハッピートリガーの異形の手を噛んでいた。ハッピートリガーが上顎を切り飛ばそうとしたのだ、しかし、寸でのところで春杏は鋭い牙でハッピートリガーの手を噛み止めたらしい。ハッピートリガーが、今度はかなり大きな音を立てて舌打ちをする。

「離せよ。」

 春杏はハッピートリガーの要求に対して、口の形だけを動かして「不可」と言うと、それから指を繋げて、研ぎ澄ませた剣みたいな形に変えた両の手でその体を貫こうとする。ハッピートリガーは、元から春杏が離すなどとは思ってもいなかったので、とうっと春杏の体を蹴って背中の方に体を回した、春杏の手は空を切る。そのまま、ハッピートリガーは背に回った時の勢いを借りてぐっと春杏の口から自分の手を引き抜いた。

 ばきばきっと音がして。

 突き刺さっていた春杏の牙が折れる。

 噛み口から解放されて、ハッピートリガーは。

 すぐに、真鍮の化け物との間合いを取る。

 とっと、足を滑らせて春杏の方に視線を向けてから、ハッピートリガーは、自分の体に少し違和感があるのを感じた。今まで、感じたことのないような感覚だ。そもそも、ノスフェラトゥは完全ではないとはいえゼティウス形而上体だ、物質上の体は付属物のようなもので決して本体ではない。だから、「体」に対して異常を感じるなんて言うことは本来ならありえないはずの感覚だった。それは、まるで着ていた服が次第に固くなっていって、その上に勝手に細かく振動を始めたような、そんな感覚だった。

「おいおい、なんだよこれは……?」

 体の制御がつかず、軽く開いた形で構えた足、耐え切れずに膝を屈する。その様を、春杏はくすくすと擦れるような音を立てながら見ていた。にいっと笑っているように裂けた口の中の牙は、まるで鍾乳石ができる映像の早回しのようにして生えて、また形を整え始めている。

「お前、何をした……?」

「秘密。」

 春杏はそういうと、人差し指を差し上げて自分の口に当てた。ちなみにその指は、先ほどハッピートリガーの魔砲が指先を吹き飛ばしたはずの指で、それもまた既に元通り治っていた。ハッピートリガーは一方で、気が付いたような顔をして先ほど噛まれていた自分の腕を見下ろした。まだ異形化を解いていないその腕は、その重さを支え切れないようにだらりと肩から垂れ下がっていて、そしてその一の腕のあたりには春杏の口からもぎ取ってきた牙が数本刺さっていた。

「これか。」

 ハッピートリガーは軽く呟いた。

 春杏は、人間だった時のようにして。

 軽くスキップを踏むように近づいてくる。

 やがて、春杏はハッピートリガーが膝をついて見上げているそのすぐ目の前にまでやってきた。春杏の影が、重さを持っているようにハッピートリガーにのしかかる。

「絶望的状況?」

「さあ、どうだかな。」

 ハッピートリガーは。

 口の端を曲げるように笑った。

 春杏はその言葉に対して。

 よく分かったとでもいうように。

 うんうんと頷きながら口を開く。

「希望有随時。」

 そして、ハッピートリガーの左腕を引きちぎった。左腕だったのには特に深い意味はない、たまたま春杏が右利きで、右手を使って引きちぎるのは左腕の方が簡単だっただけで。ハッピートリガーは唸り声一つ上げず、他人事のようにその光景を見上げている。春杏はその左腕をあーっと開いた自分の口で、一口分を食い取った。そして、ずちゅずちゅと肉をつぶす音、がりがりと骨をかみ砕く音、そんな音を立てながら咀嚼し始める。春杏の口の中にあの味が広がる……ビューティフルの感覚で感じる、スペキーエスの味が。便宜上、味と書いたのだけれど、それは少し正確ではない。人間の感覚に直すとすれば、その感覚は性的な絶頂に近いだろう。ビューティフルの神経器官は、生殖時に快感を受けることはない(そもそも生殖をしない、兵器が勝手に増殖しては困るからだ)。その代わりに、スペキエースを殺害した時にそれに匹敵する悦楽を得るようにあらかじめ設定されている。そのせいで、持っていた左腕を無心に噛み千切る春杏は、まるで性の交わりの時の、嬌声のようにして声を漏らしていた。

 そして、その時に。

 ほんの一瞬だけ。

 生まれた、隙をついて。

「嚇一跳!?」

 ハッピートリガーの目の前で、急に春杏の体が何かによって持ち上げられた。驚いたように叫んだ春杏は、たぶん反射的にだろうけれど、意地汚くハッピートリガーの左腕を口の中に押し込んでから、浮きあがった宙でじたばたもがき始める。何かが春杏に絡まりついていた、白くて、長い、多関節の触手のようなものが……ハッピートリガーの目は、うねうねと動き回るそれを正確に捉えていた。それは、指だった。関節が多すぎる指が、一本、二本、三本、伸びてきて春杏の体中に巻き付いている、そして、それが伸びてきているもとは、もちろんあの装置、「鍵」だった。

 すたりっと、ハッピートリガーの背後に。

 天井から何かの体が落下してきた。

 いつものようなのんびりとした声で。

 その何かは言う。

「ハッピー、おまたせ!」

「おせぇよ、パウタウ。」

「ちょっと手間取っちゃってさー。やっぱり言葉の通じないひとに何かやってもらうのって、すっごく難しいよねー。」

 そう言いながら、パウタウはぐっとハッピートリガーの頭を横に倒して、むき出しになった首に、いつの間にか手に持っていた注射器の針を当てた。ハッピートリガーは特に反抗することなく、代わりにパウタウにこう問いかける。

「何だ、これは?」

「ビューティフルの唾液の効果を打ち消すワクチンと、S-eidosの再生促進剤を混ぜたものだよー。」

「へえ、何でお前そんなもん持ってんだよ。」

「スペキエースのたしなみってやつだよー。」

 いいながら、パウタウは手早く中身をハッピートリガーに注射した。ハッピートリガーは、その液体が入ってきたところから、徐々に体が熱くなっていくのを感じる、まるで、その液体に反応して、自分の細胞が急に叩き起こされたでもいうように、少し乱暴なくらいのその感覚は、ゆっくりと全身へと回っていく。そして、さっきまでただの濡れた布きれですと言わんばかりに言うことを聞かなかった体が、徐々にきちんと動く、使える道具に戻っていく。

「よく効くじゃねぇか、これ。」

「ヘンハウスのやつだからねー。」

「ヘンハウスの? おいおい、奴隷に使う薬かよ。」

「えへへー、まぁねー。」

 ハッピートリガーは下らない冗談でも言うように。

 パウタウに向かって、にっと笑う。

「それで、一応言っておくけど……逃げろって言ったよな?」

「いいよいいよ、お礼なんてー。」

 ぽわぽわと笑いながらそう返すと、パウタウは空になった注射器をぽんっと放り投げて捨てた。ハッピートリガーは、少しふらつきながらも立ち上がると、取り戻した感覚を確かめるようにして手のひらをぐーぱーと開いたり閉じたりしながら、ふっと気が付いたようにして春杏の声がする方を見上げる。

「撤手、徹手!」

 獣のような叫び声を上げながら、春杏は宙づりになったままでふらふらと揺さぶられていた。さすがの春杏もテクノ・イヴェールでできた指を切り離すことはできないらしく、手も足も封じられたまま、まるでミノムシのように無力に見えた。

「あれは大丈夫そうだな。」

「そうだねー、暫くの間は言うことを聞いてくれると思うよー。」

「なら、その暫くの間のうちに逃げねぇとな。グレイは……」

 そう言って、ハッピートリガーが。

 グレイの方に顔を向けたその時に。

 ふわり、と泳ぐようにして視界の端で揺らめく。

「ハッピー、危ないー!」

 パウタウが、ハッピートリガーの体に体当たりして突き飛ばした。黒と白の金魚のようにして空気の中を泳いでいた、その何かがハッピートリガーがいたところ、今パウタウがいるところに向かって、優雅に突進してくる。パウタウの体は、跳ね飛ばされて地面にたたきつけられる。

 お人形、お人形。

 フラナガンの、お人形。

「パウタウ!」

 普段のハッピートリガーなら間違いなくよけられた攻撃だった、いくら不意を打つように襲われたとはいえ、所詮はリビングデッドだ、純種のノスフェラトゥに敵う速さではない。しかし、今のハッピートリガーは回復の途上にあった、もう少しありていに言えば弱っていて、立ったり歩いたりするので精いっぱいだった。それでも、力を振り絞って、パウタウに向かって駆け寄ろうとする。

「だめ! ハッピー逃げて!」

「大丈夫か、パウタウ!」

「大丈夫じゃないけど!」

 ハッピートリガーはぎっと奥歯を噛みしめた、確かにパウタウの言う通りだ、今のハッピートリガーでは何もできないだろう、だからくるっと振り向いてグレイの方にすがるように視線を向けた。

「グレイ!」

 グレイはハッピートリガーに言われなくとも、すでに動いていた。今までべとべとと引っ付いて妨害してきていたのに、いきなり突き放すようにして離れたリビングデッドに向かって、追いかけるようにして飛び掛ろうとして。

 しかし、その時に。

 一発の銃声が邪魔をした。

 グレイはくっと身を引いて。

 その銃弾を避ける。

「今度は何だよ!」

 ハッピートリガーは激昂したように叫んだ。

 銃声がした方を振り向く。

 洞窟の影に隠れて、その姿は普通の目にはほとんどインクが掠れた汚れのようにしか見えなかった、しかしハッピートリーガーの目にはそれは良く見えていた……それは、どこをとっても目立つところのない、普通のサラリーマンのような男だった。見覚えのある顔ではない、というか見覚えはある顔だ、世界中の街角の、どこででもこの顔を見ることができるだろう、人間という種族の、最大公約数のような顔。

 春杏がその顔を見て。

 饗宴の肉食獣のように叫ぶ。

「アラン!」

 声だけがそれに返す。

 特徴のない、一般人の声。

「春杏、爪装を解いてください。先ほどの対象者達の会話を聞く限り、この装置に対してそれほど複雑な操作を行えていないはずです。恐らく外見による目標決定がせいぜいのところでしょう。外見が変われば、恐らく装置はあなたを識別できなくなります。」

「原来如此!」

 アラン・スミス捜査官の言葉にそう答えると、春杏は口の中で噛み含めるようにして「爪収」と呟いた。その言葉を発動のキーとして、春杏の体を覆っていた、真鍮色の肉体が波打つように揺れ蠢いた。それは、まるで目に見えないほど細かい虫の大群が、一斉に巣を目指して些喚き始めたかのようにして……春杏の体の内側へと戻っていく。それと共に春杏の体は目に見えて小さくなっていって、やがて多関節の指と指の拘束の間は、それを取り落とすようにしてするんと滑り落とした。

「アランサン!」

 言いながら、春杏はとうっと白い床の上に飛び降りて。

 そして、顔一面を裂いたような笑顔で笑う。

「汝の言う通りアルね!」

「春杏、装置の捕縛圏内にいる間は全身爪装は控えてください。部分爪装なら大丈夫なはずです。」

「理解、了解、半知半解!」

 半知半解では駄目だと思うのだが、とにかく春杏は「鍵」から伸びた指を振り仰いだ。どうやらアランの言う通り、三本伸びた指たちは姿を変えた春杏の形を見失ってしまったらしく、その頭の上でぼんやりと揺れているだけだの存在になり果てていた。春杏は満足そうにうんうんと頷いて、また視線をもとの方向に戻した……つまり、ハッピートリガーの方向に。

「真実サンの息子サン、色々と頑張ってみたみたいアルけれど、それももうお終いのことね。タネはお終い、仕掛けもお終い、つまり手品はこれまでってことアルよ。」

 春杏は、そう言いながら手の先、人差し指をかりかりと痒そうに掻いていた。いうまでもないと思うが、それは先ほどハッピートリガーに吹き飛ばされたところで、爪装による組織再生が行われたばかりであったため、神経過敏になっているせいだった。それはそれとして……春杏の視線の先で、ハッピートリガーは笑っていた。ノスフェラトゥの笑顔で、まるで人の顔を忘れたような、あの感情のこもってない、絵を貼り付けただけの笑顔で。それは、つまり、ハッピートリガーが、人間の、顔を、している、だけの、余裕が、なくなった、時の、顔だ。

 リビングデッドに押さえつけられたパウタウが。

 その光景を見て、グレイと一瞬だけ目を交わす。

 パウタウが一つ頷き。

 グレイがそれに頷き返す。

「ハッピー。」

「なんだよ。」

「いったんさ、ぼくをおいて逃げてー。」

「は?」

 グレイがパウタウの方向から、跳ねてハッピートリガーのすぐ隣にやって来た。狼の前腕、深く毛が生えたその腕で、ハッピートリガーをお姫様抱っこの形で抱き上げる。まだそれほど力が戻ってきていないハッピートリガーは、抵抗するだけの余裕もない。

「おい、何すんだよグレイ。」

「ここは退くぞ、リチャード。」

 ハッピートリガーはグレイのその言葉に一瞬だけ反論しようとしたが、ぐっと口をつぐんだ。そして、あたりの状況を見る。敵は三人、一人はただのアラン・スミスだが、もう一人は得体のしれないリビングデッドで、最後の一人は対スペキエースに特化した兵器だ。それに対して、こちらも三人。一人はライカーンで十分戦える。しかし、もう一人は技術要員で戦闘向きではなく、最後の一人は……ほぼ無力化されている。ハッピートリガーは、また舌打ちをした、少しだけわざとらしく。それから、パウタウの方を見て、言う。

「パウタウ、すまない。」

「いいよいいよー。でもちゃんと迎えに来てね。」

「ああ、必ず迎えに行くぜ。お前がいねぇとあと二つ、鍵が開けねぇからな。それからグレイ?」

「何だ。」

「首出せ。」

 グレイは、軽くハッピートリガーの頭を持ち上げて、自分の首を差し出すようにして指し出した。ハッピートリガーはふわり、と笑い揺らめくようにして唇を開いて、そしてそのグレイの首筋、銀色でふわふわとした毛皮に自分の吸痕牙を当てた。「おあえ、うおいえうあういえーあ?」「黙って吸え」グレイの顔が瞬間だけ歪む、魂に忍び込むような恍惚と、その痛みに。

「なーにこそこそやってるアルか真実サンの息子サン!」

 春杏は、笑っているような大声でそう言うとぱっと道化師のようにして両の腕を開いた。その腕を、くるくると液体の渦が巻き取るようにして、あの真鍮の液体が、爪装がまとわりついていく。アランの先ほどの忠告通りに、腕だけを部分的にビューティフルの形態にするつもりだった。ハッピートリガーは、しかしそれを見てもまるで動揺する様子もなく、ただすっと手のひらを天に向けて持ち上げただけだった。

 確かに、今の自分は、まだ使い物にならない。

 しかし、グレイはまだ万全の状態だ。

 まるで、こんこんと水が湧き出る井戸のように。

 その井戸から、ハッピートリガーは汲み出す。

 スナイシャクを、魂を。

 それから、意思のようなものを。

 その意思を自分の手の先に編み上げていく。

 概念上でしか存在しえない、銃の形に。

 ライフェルド・ガンの形に。

「嗚呼? そんな、まさか、有り得ないのことよ!」

 そう言って、慌てて春杏はハッピートリガーとグレイの二人に飛び掛った。しかし遅かった、ハッピートリガーの手のひらを覆う繭めいた光の糸は、その軌跡で既に一つの銃を描き出していた。それは、巨大なキャノンに似ていた……急ごしらえで作ったその形は、まるで子供の落書きのようにして物理法則を完全に無視していた、ハッピートリガーの手元では楕円形をした銃身は、なぜか先端では完全な真円を描いている、しかしそれは確かに存在していた、なぜならそれは、ライフェルド・ガンだからだ。

「有り得ない? 馬鹿かお前。」

 吸い終えたハッピートリガーは。

 首筋から口を離して。

 軽くキャノンを振って見せて。

 そして、春杏に言う。

「ここに、有るだろ。」

 そして、キャノンが天井に向けて火を噴いた。春杏の腕は、もう少しでハッピートリガーの体にまでたどり着いていただろう、編み上げられた真鍮の液体は、まるで獲物に向かって襲い掛かる触手のように春杏の腕を伸ばしていたから。けれど、本当に一瞬だけそれは遅かった。光の弾丸は、テクノ・イヴェールで強化されていないセルの天井を貫いた。一点に穴を開き、そこに構造の弱点を作ったドーム形は、その点によって衝撃を支え切れなくなって、崩落を始める。

 岩石が、春杏の腕を。

 黄色い真鍮の触手を。

 二人の目の前で、押しとめるように叩き潰す。

「しまったアル!」

「グレイ!」

「ああ。」

 ハッピートリガーを抱えたままで、グレイはセルにいくつも接続している洞窟通路のうちの一つに、逃げて消えていくようにして飛び込んだ。一方で春杏はというと、崩れた天井に押しつぶされてその場所に留められた腕を、トカゲのしっぽか何かのようにして切除して自由に身動きが取れるようになると、しかしそんな二人を追うこともなく、体を反転させて別の口の方に走った。足にまるで奔流のようにビューティフルの肉体を巻き付かせて走る、その向かった先はアランのいる通路だった、春杏にとってはこの程度の崩落は何ともないが、アラン・スミスであるアランには非常に危険な状況だからだ。

 そんな、大混乱の中。

 一方で、リビングデッドは。

 崩れ行く瓦礫と砂の雨の下を。

 優雅な体のこなしで、パウタウを肩に抱え上げた。

 パウタウは、抱え上げられたままで。

 いつもと変わらず、呑気に口を開く。

「久しぶりー、ペティラティス。」

「お久しぶりです、パウタウ。」

「仕事のほうは上手くいってるー?」

「ええ、全てフラナガン神父様の思いの通りです。」

「それでー? これからどこにいくのー。」

「あの女を、追います。そして、あなたを渡します。」

 ペティラティスは目に見えない誰かに囁くようにそう言うと。

 春杏の後を追って、オルゴールのように駆け出した。

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