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#17 不具の子供達は革命を遊ぶ

 ベルヴィル記念暦985年2章15節。

 夜は底の方へ、深く深く、沈んで。

 まるでその重さに耐えきれぬように。

 日付は次の日へと変わる。

 それは、例えば乾いた死体に取り付けられたペースメーカーに似ているのかもしれない。まるで、この街を生き返らせようとしているかのように、光と音はその場所から、この街に、不規則な鼓動を吹き込んでいた。その鼓動は、役立たずの血管のようにして、光と音の小さな切片を幾つか、街の奥へと送り込んでいて……けれど、乾いた死体に取り付けられたペースメーカーが、何かの役に立つことがあるのだろうか? この街の、他の場所は、まるでひしめいている黒猫のようにして、夜が隅々に満ちていた……静かな夜が、生きていない夜が、骨だけになって、誰かから見捨てられた夜が。

 この乾いた死体はグールタウンで。

 このペースメーカーはヴィレッジだった。

 早朝から始められていたホテル・レベッカの瓦礫の捜索は、すでにかなりの部分が終了していた、少なくとも派手な作業に関していえば。昼の間に奏でられていた騒音のシンフォニー・オーケストラは、すでにチェンバー・オーケストラ程度の小規模なものになってしまっている、そこら中にまるで蛆虫のようにたかっていた重機も、ほとんどが片付けられてしまっていて、鑑識官のような専門的な調査を行う人間が、そこここに取り残されたようにして蹲っているだけで。

 その代わりに、ヴィレッジは。

 グールタウンの三つの場所に。

 捜索隊を送り出していた。

 それは、鼓動の塊となって。

 この街に埋め込まれていく。

 ホテル・レベッカの目の前の大通り(だったもの)(今は人通りなどない)、建てられていた二つの仮設テントのうちの一つ、連絡用のテントの中、サヴァンはテーブルに両手を置いて、それに寄り掛かるみたいにして立っていた。サヴァンの強迫観念のせいで、誰も見ていないにもかかわらず、その立ち姿はある種の彫像であるかのように、完璧なバランスを保っていた。いや、完璧なバランスを崩していた。まるで右足だけがその彫像から切り落とされて、後から別の石膏で、稚拙に修正を施されたかのようにして。サヴァンのじっと見下しているテーブルの上には、一枚の、紙でできた地図が置かれていた。それはブラッドフィールドの地図で、特にグールタウンを強調して書かれているタイプのものだ。

 地図の上に描かれたグールタウンは、後から書き加えられたと思しき赤い線によって五つの区画に分けられていた。その五つの区画のうちの二つには、すでに黒い色の、大きなバツ印がつけられている。その二つの区画は、それぞれがコーヴェル・ストリートと、それからホテル・レベッカを中心としていて、それは、つまり、そういうことだった。つまり、その区画には、捜索隊は既に必要はないということだ。

 残りの三つの区画。

 サヴァンは、捜索隊を送っていた。

 それぞれに、二隊ずつ。

 合計、六つの隊を。

 例の、装置を、探させるために。

 サヴァンは、ゆっくりと顔を上げた。そして、テーブルから、そっと手を離した。オルゴール仕掛けの人形のように、ただし静寂だけを背に負ったオルゴール仕掛けの人形のように、夜が世界に満ちてきた音を感じていた。もちろん、とうに夜はこの場所に来ていた。けれど、満ちてはいなかった。深い夜ではなかった。サヴァンは、今、この時に、深い夜の音を聞いたのだ。

 夕方から送り出していた捜索隊からは、まだ連絡はなかった。サヴァンも、夕方のうちに、というか、世界を日の光が照らしているうちに、何らかの連絡があるとは思ってはいなかった、地下へと潜る正当な理由がない間は、ヴィレッジといえどグールの領域を犯すわけにはいかない。つまり、ハッピートリガーが、動き始めるまでは、捜索隊はただ待機しているしかない、ということだ。そして、ハッピートリガーが動き始めるとすれば、それは夜の時間だ。

 そして、サヴァンは、今が。

 深い夜であることを知っていた。

 サヴァンは、そのまま、テーブルから離れた人形の動作のままで、その中を横切って、テントの外へと、夜の方向へと出て行った。それはサヴァンらしい、芝居じみた理由で、要するに月を見るためだった。テントを出ると、すぐに空が見える。ホテル・レベッカの残骸を照らし出している急ごしらえの照明のせいで満点の星空というわけにはいかなかったけれど、少なくとも月は見えていた。アノヒュプスは恐らく、もう一節か二節で満月に達するだろう。一方で、ナリメシアは昨日よりもなお衰えてる。二つの月の、満ち欠けには確かにまだ差があった。けれど、その差は、どうやらごくわずかになっているようだった。バルトケ=イセムは、確かに近づいている。SPBの発表によれば、確か今年中に、その時を迎えるはずだ。しかも、その夜は、このブラッドフィールドで……サヴァンはそれを知っていた。

「ミスター・サヴァン。いかがいたしましたか?」

 テントの前で番をしていた、ミス・ポンゼが退屈そうな声で声をかけてきた。それほど太っているわけではないが大女で、もともとが移民であるせいか、少しダニッチ大陸の方の血が入っていて、浅黒い色と縮れた髪をしている。サヴァンはそちらの方に振り向いて、舞台上の役者のようにミス・ポンゼの顔を仰々しく見つめてから、他愛もないことのようにしてこう答える。

「少し月を見ようと思っただけだ。」

 ミス・ポンゼは分かったような分からなかったような顔をして頷きながら、そのまま瓦礫の方へと歩いていくサヴァンの後に従った。一方でサヴァンは、歩きながら思考を続ける。バルトケ=イセムの夜は、何かが起こる夜だ。世界の全てを、代えてしまうような何かが。それまでに、その夜までに、サヴァンは少しでも多くの情報をつかんでおく必要があった。それは、絶対に必要なことだった。前回のバルトケ=イセムの時には、サヴァンは右足を失っていた……それは、サヴァンの持っていた情報が、他の人間や、鬼や、神や、外宇宙の生命体たちが持っていたそれよりも、はるかに弱いものだったからだ。何かが変わる時には、弱者は奪われ、強者は奪うものだ。そして、サヴァンは、もう弱者になる気はなかった。この右足を、補って余りあるものを、サヴァンは、次こそは、奪う、それは、絶対に、必要な、ことで……

 ふ、とサヴァンは。

 猫の声を聞いた気がした。

 この街にひしめいている、黒猫の一匹。

 まるで、甘えるようにして鳴いている。

 サヴァンは、その方を向いた。

 テントの建てられた大通りの奥の方。

 何か、光るものが見えている。

 二つの、青い、光が、揺れている。

「ミス・ポンゼ。」

「はい、ミスター・サヴァン。」

「あれは何だ?」

「え……誰かが……?」

 ミス・ポンゼはサヴァンの前に立ちふさがるように、その二つの光に向かって歩いていく。それは、投光器の光の届かぬ夜の暗さの中、ちょうど、例えば、人の顔の位置、そういった高さの、その場所で、揺れていた。いや、だんだんと闇に慣れてきた目で見る、それは、間違い用もなく、人の顔の、それは、目であった。しかし、あの目は明らかにヴィレッジの隊員たちのだれの目でもない、いや、それどころか人間の目でさえもない。それは、例えば、まるで……ミス・ポンゼは、素早くエネベクト式ピストルを腰のホルスターから抜き取った。そして、威嚇のためにその青い二つの光、その体の持ち主に銃口を向ける。

「誰だ!」

 その光は、答える代わりに。

 ゆっくりとこちらに近づいてきて。

「止まれ!」

 その時に。

 まるで図ったかのようにして。

 サヴァンの腕の通信機が、サヴァンに対して連絡が入ってきたことを伝えた。サヴァンはその二つの青い光と、それからミス・ポンゼから目を離すことなく、腕を、手首のあたりを、つまり通信機を口のすぐそばに持ってきて通信を開始した。

「サヴァンだ。」

『ミスター・サヴァン、こちらミモザです! 現れました、ホワイトローズ所属らしきノスフェラトゥです!』

「リチャード・サードか?」

『いえ、それが相手は一鬼では……』

「ちょっと待て、別の通信が入った。」

 そう言うと、サヴァンは一度その通信を切った。ミス・ミモザに言った通り、別の隊からも連絡が入っていたからだ。その連絡はミスター・アドニスの隊からの連絡で、ミモザ・アドニスの両隊は、五つに分かれた区画、捜索隊が派遣された三つの内で、それぞれがそれぞれとも同じ区画に送り込まれていた。サヴァンは、少し、何かが起こり始めていることを感じながら、ミスター・アドニスからの通信を繋いだ。

「サヴァンだ。」

『ミスター・サヴァン、アドニスです! ノスフェラトゥが現れました、今現在、隊は交戦中で……』

「リチャード・サードか?」

『違います! 対象は女です!』

「女?」

『現在、隊は交戦中で……あれはまさか……他にもいるのか……ノスフェラトゥが何匹も……そんな……くそっ、隠れろ!』

 ミスター・アドニスのセリフと共に通信機から、まるでなにかノイズのような雑音が紛れて、そしてミスター・アドニスの何か叫ぶ声で、意味の分かる言葉は覆い隠されてしまった。ちっ、と舌の先を口蓋の裏に弾かせて、まるで口づけの音のようにして舌打ちを鳴らしてから、ミス・ミモザの接続を通信に戻す。

「サヴァンだ。ミス・ミモザ、聞こえるか?」

 しかし、ミス・ミモザの方の通信も。

 ミスター・アドニスのそれと同じように。

 叫び声と、銃撃の音で満たされて。

 意味の取れる声は、聞こえなくなっていた。

 サヴァンは、忌々し気に通信機を口から離した。そして、そのまま、今まで目を向けていた青い二つの光を、じっと見つめる。ゆらゆらと揺れるその目は、次第に闇から、投光器の人工的な光の中に、その姿を現してきた。一方で、ミス・ポンゼのただならぬ声を聞きつけて、捜索隊として駆り出されなかった隊員たちの内、鑑識系ではない実働系の隊員たちが、こちらの方、サヴァンのすぐ後ろに数人集まってきていた。

 ミス・ポンゼはエネベクトを向けたまま。

 なおも青い二つの目に向かって叫ぶ。

「今すぐ止まれ、止まらないと撃つぞ!」

「ミス・ポンゼ、銃を下げろ。」

「しかし、ミスター……」

「そんなものは無意味だ。それに、一応話だけは聞いておきたい。」

 ミス・ポンゼは、しぶしぶ銃を下げた。

 二つの目の持ち主は、すっかりその体を光にさらして。

 そして、サヴァンの目の前、少し先で立ち止った。

 サヴァンは、一歩前に出て、そして挨拶をする。

「ご無沙汰をいたしております、パイプドリーム。」

「やあ、久しぶりですね、フィッシャーキング。」

 その男は、新品に近いような、ぴしっと糊のついた黒い色のスーツを着ていた。そして真っ黒なネクタイをして、投光器の光を照り返すほど磨かれた黒い革靴を履いている。髪はまるで少年のもののようにふわふわとした、金色のくせっ毛で、少し巻き髪のようになっている。その髪の下には、まるで驚いた梟のように、あるいは少し頭が悪そうに見えるくらいにまん丸の、青い色の目が光っていた。

 そして、その黒いネクタイを。

 白い薔薇を模ったタイピンで止めている。

 この男の名前はパイプドリーム。

 ホワイトローズ・ギャング、三人の幹部の一人。

「今日は、ハッピートリガーに頼まれましてね、あなたと少し話をしに来たんですよ? お時間はありますか?」

「ええ、少しであれば時間を取ることができます。」

「そうですか、それは良かった。」

 そういうと、パイプドリームは。

 深い青色の目を笑わせて笑った。

 サヴァンはその口元に目をやる。

 滴るように、二本の、吸痕牙。

 この男も、確かに、ノスフェラトゥだ。

 しかし、赤い目を持つ純種ではなく。

 青い目をした、雑種。

 パイプドリームは。

 またその口を開く。

「端的に申し上げますとね、フィッシャーキング。あなたたちヴィレッジにはこの街から……つまりグールタウンから、という意味ですが、とにかく、この街から出て行って欲しいのですよ。」

「この街から? なぜです?」

「俺達の計画を実行するにあたって、あなたたちの存在が非常に邪魔になっているのです。」

「あなた達の計画とは?」

「いえ、大したことではありませんよ。少し革命を起こそうと思っていましてね。」

 サヴァンの腕の通信機は、どうやらまだ通信自体が切れていないために、歪んだ音楽のように向こう側の騒音が流れ出していて、静寂の中でそれだけが二人の間のBGMになっていた。サヴァンはゆっくりと、わざとらしく肩をすくめると、言う。

「革命ですか。」

「ええ。」

「それは知らなかった。しかし残念なことに、「国家・企業体及びその他の集団による緩やかな統合組織」に所属する国家の安定を保つことは、条約で定められたヴィレッジの業務行為の一つです。もしもあなたたちの計画が革命であるというのならば、私達はあなた達の計画を邪魔せざるを得ないことになります。」

「それは俺も知っていますよ。ハッピートリガーが知っているかどうかは分かりませんが……けれど、そこを何とかして欲しいんです。」

「もちろん私としましても、何らかの理由があれば隊を撤退させることにやぶさかであるわけでは有りません。しかし、何も理由なくそれをしてしまったら、私は馘首されかねませんからね。」

「あなたの言いたいことは。」

 パイプドリームが軽く首を傾けた。きらきら光る青い目が、斜めの軌道を描いてそれは瞬間に瞬いて消える弧になる。ほうっと、ミス・ミモザは息をのんだ。それから、慌ててその光景から目をそらす。ノスフェラトゥの目には、魅了の力がある、あまり長いこと見ていたら、取り込まれてしまう。

 そしてパイプドリームは。

 言葉を続ける。

「見返りの話ですね。」

「あなたは随分と率直な方ですね。」

「そちらの方が話が早いでしょう?」

「私としても立場があります。どちらかというと、理由という言葉を使っていただきたいですね。私たちが、ここから出ていく、正当な理由を提示していただきたい、という話です。」

「見返りでも理由でも構わないですが、用意していますよ。」

「それは、何ですか?」

「あなた方の生存と安全です。」

 そういうと、パイプドリームは軽く片手を上げた。ミス・ミモザと、それからサヴァンの後ろに控えていた十人弱の隊員たちが、一斉にエネベクト式ピストルを掲げて、パイプドリームに向ける。しかし、フィッシャーキングは身動き一つせず、その指先だけを見ていた。その指先は、静かにサヴァンの腕、通信機を指さす。

「ヴァイオリンが、野良ノスフェラトゥを率いてあなた方の部隊の殲滅を開始しています。彼女は俺と違って、非常に血の気が多い……純種ですからね。それも仕方のないことですが、とにかく、あなたの部隊は今夜を過ぎることもないうちに全滅する可能性が高い。所詮は人間です、ノスフェラトゥに敵うはずもありません。しかし、もしもあなたが一言、今日を限りに部隊を全てグールタウンから撤退させると言えば、その殲滅を停止させて、俺達は引き上げることにしましょう……互いに、余計な被害は出したくないんじゃないですか、違いますか? フィッシャーキング。」

「非常に魅力的な申し出です。」

「ありがたい社交辞令ですね。で、あなたの答えは?」

「そうですね、私の答えは……」

 そういうと、サヴァンはパイプドリームの目から自分の目を離さないままで、腕を静かに持ち上げて、自分の口の端に持ってきた。そして、芝居役者のようにして、口の形を大げさなくらいに分かりやすく動かして、しっかりとした口調で、パイプドリームにも聞こえるように、こう言う。

「こちらサヴァン。ミス・ミモザ、ミスター・アドニス、および全部隊に告ぐ。ノスフェラトゥによる攻撃が開始された。天狼級対神兵器の使用を許可する。繰り返す、天狼級対神兵器の使用を許可する。リチャード・サード以外のノスフェラトゥに関しては、全てを殺害してもかまわない。リチャード・サードに関しては、引き続きの対応とする。なんとしても、楊春杏よりも先に手に入れろ。」

 別に驚いたような顔もせず、パイプドリームは指示をするサヴァンのことを、口を笑わせた顔のままで見つめていた。サヴァンは、その笑顔から目をそらさずに、通信機に向かって指示を続ける。

「また、ミスター・アザレ、ミス・アネモネの各部隊は三番地区に急行せよ。恐らく今回の襲撃は、三番地区の部隊の注意をそらすためのものと思われる、リチャード・サードは三番地区に現れる可能性が非常に高い。陽動の可能性もわずかながら存在しているため、ミスター・リラ、ミス・マルグリットの各部隊は現場で引き続き待機すること。サヴァン、以上だ。」

 サヴァンは、そう言うと。

 その通信を切った。

 それと同時に、サヴァンの後ろに控えていた部隊と、それからミス・ポンゼが、一斉に手に持っていたエネベクト式ピストルをホルスターにしまった。それから、着ていたスーツの右肩にはまっている外骨格の様な肩当に、手のひら全体を、ぴったりとくっつけるようにして置く。肩当は、その隊員たちの手の平の温度を感覚すると、静かに溶けだして、ゆっくりとその形を変えていく。その骨格じみた液体は、腕に流れ出して、やがて手のひらの方までそのゴムのスーツに覆ってかかって、そして、何かの形をづくりはじめる。また、溶けだした肩当のあたりには、むき出しになった、多角形の黄色い水晶のようなものが姿を見せる。

 それが隊員達の手の先で。

 歪に歪んだ姿を見せる。

 月光国で「保護」した魔法少女の理論を応用し、SPBが作り出した対神兵器「アリストファネス・シリーズ」の中でもかなり旧式のものだ(Beezeut内でかなり顔が効くサヴァンと言えども、さすがに最新式でこれだけの数をそろえることはできなかった)。それは、まるで五指に接続した、それぞれが銃口となっている、何らかの銃砲の様なものに見えた。肩でまるでこの世界の物質ではないような色をして光る、黄水晶から。腕にのたくる触手のような導線を通じて送られてくるエネルギーによって、この世界の神々を殺すための、ゼティウス形而上体を殺すための、兵器。それを見て、パイプドリームは笑った顔のままで、口を開く。

「なるほど。ま、思った通りですね。」

「パイプドリーム、この場から帰ったら速やかにリチャード・サードに伝えろ。こちらにもお前たちと話をする気がないわけではない。ただ、それは対等な条件で対話のテーブルを作った場合の話だ。私は脅されるのが好きではない。それに、お前達が考えているほど愚かなわけでもない。」

「一応、俺もそう言ってみたんですけどね。彼もなかなか強情な男だから……まあ、仕事を終えて、この場から帰ったら、もう一度言ってみますよ。」

「仕事? お前の持ってきた話は反故だ。それでもまだ何かやることが残っているのか?」

「ええ、もう一つだけ。話が反故に終わった場合は、あなた達の一人でも多くを殺して、その数を減らすことです。やりがいのある仕事じゃないですけどね、まあ命令されたんだからやらなきゃいけないってわけで。」

 そういうと、パイプドリームは軽く両手を広げた。そして、仰ぐようにして空を見る。青い目が、一際青く輝く。何か、パイプドリームの体の内側から、外側に向かって、オーラのようなものが漏れ出し始める、口から滴り落ちるように、あるいは全ての体の表面から噴き出すように。そして、パイプドリームの体は、歪むようにして変形していく。普通の体から、殺戮のための体に。

 隊員たちは。

 本能的に恐怖を覚える。

 捕食者の匂いだった。

 しかも、それだけではなかった。そのパイプドリームの変容とともに、後ろの闇、夜の方向が、まるで意志あるもののように蠢くのが見えた……まるで? いや、それは比喩ではなかった。確かに、意思あるものだった。ぱっ、ぱっ、と火花が飛び散るようにして、闇の中で幾つも幾つも光が開かれた。それは、目だった。何鬼も何鬼も、おそらく十数鬼程度だろう、そこにはノスフェラトゥがいた。ホワイトローズ・ギャング所属の、野良で、雑種で、そんなノスフェラトゥ達が、ゆっくりとその姿を現して、パイプドリームの後ろに侍るようにして。

 ノスフェラトゥ達は。

 隊員達に向かって。

 思い思いに吸痕牙をむき出して。

 そして、パイプドリームは。

 捕食者の声で、口を開く。

「さぁて、フィッシャーキング。」

 サヴァンはその声を聞きながら。

 ふと、気が付いた。

 空が、月の光、を隠すようにして。

 曇ってきたような。

「はじめましょうか。」


 その時計の針を、少しだけ戻して。

 猫が一匹、すぐそばを逃げていく。

 やせた猫で、灰色の体毛は凍えている。

 ミスター・アドニスは見るともなく見ないともなく、ただ目の端でそれを、視界の外に消えていくまで追っていた。熱赤外線方式の暗視ゴーグルを通してみたとしても、猫の体はまるで夜の闇に紛れているようで、主を持たない影法師だったかのようにして、川に沿った通りを一ブロックほど進んで、それから角を曲がって消えていった。猫が見えなくなると、ミスター・アドニスはふーっと冷たいため息を吐いた。彼の後ろでは、残り九人の捜索隊がさも退屈そうに控えている。その九人に合図をすると、ミスター・アドニスは、また……何度目になるだろうか、十何度目になるだろうか、パトロール経路を一周するために歩き始めた。

 彼らが通る道の横には。

 一本の川が流れている。

 名前は、バンクス・リバー。

 それはグールタウンを通っている時の名前で、他の「タウン」を流れている時にはまた別の名前で呼ばれている。パンピュリア共和国をクエスチョンマークのような曲がりくねった形、一応は横断するようにして流れている川で、アップル以外の全ての「タウン」を流れている。このグールタウンを流れている時はなかなか広い幅を持っていて、中型船ならばすれ違えるくらいの大きさはあるだろう。その水は、まるで腐りつくして骨だけになった死体の脊髄を二つに割って、その中から滴り落ちる髄液の最後の一滴のようにして濁っている。両側は舗装された道になっていて、川を見下ろしながら歩くことができる。その道を、ミスター・アドニスは歩いていた。

 サヴァンの命令に従って、バンクス・リバーの周辺の捜索隊として派遣されてから、既に何時間が経過していたのか。時計を見れば、それもすぐに分かるのだけれど、既にミスター・アドニスは時刻の確認を最低限の回数に収めることにしていた。そうしなければ、ただでさえ憂鬱なこの任務が耐え切れないことになってしまうだろう。後ろでは、他の隊員たちが無言でミスター・アドニスについてきている。

 ブラッドフィールドのヴィレッジ隊員は他の支局とは違って、それを構成する隊員の五十パーセントが、世界のどこかしらで何かしらの犯罪を犯した者の中から、サヴァンによる法的な取引によってヴィレッジの隊員という公の立場にまで引き上げられた、ほとんど荒くれ者といってもいいような連中だ。もちろん、ミスター・アドニスもその一人で、この(ミスター・アドニスを除いて)十人の捜索隊のうち六人は犯罪者、しかもブラッドフィールドの出身だ、恐らく土地勘がある地元の人間を使った方がいいと、サヴァンが考えたのだろう。けれど、その荒くれ者たちでさえ、このグールタウンの空気に感染して、街の一部分に取り込まれてしまったような、生ける屍になってしまったのだろうか。まるで夜のある種の断片、亡霊のような静かな歩き方になっていた。ちなみに、どうでもいいことだがミスター・アドニスは、元々は娼婦のヒモをして暮らしていた、ミス・ポンゼのヒモだ。今ではミス・ポンゼは新しい庇護者を手に入れて、それはサヴァンになってしまったようだけれど。

 そんな下らない冗談を考えながら。

 ふ、とミスター・アドニスは。

 ようやく、そのことに気が付いた。

 猫が逃げている?

 一体、何から?

「おい、皆。用心しろよ。」

「なんだって?」

「何か、いる、気がする。」

 囁くようにミスター・アドニスは隊員たちに言う。

 そして、猫が逃げてきた方角に目を向ける。

 まず、感覚は、聴覚で、音。

 長く尾を引く、弦楽器のような、音。

 それは、例えば何かしらの。

 機械仕掛けの猛獣の、鳴き声のような。

 その猛獣は喉の奥に四本の弦を隠し。

 そして、その舌を弓の代わりにして。

 その、音楽を奏でていた。

「おい、聞こえたか、何の音だ!」

「まさか……」

 ミスター・アドニスは。

 その音を、聞いたことがある。

 そして、(ミスター・アドニスを含めて)十一ある隊員の体のうちの一つが、音もなく裂けた。左の首の付け根から、右の横腹のあたりまで、まるでスプーンでケーキを掬うようにして、その体は甘く滑らかにちぎれて飛んだ。その音楽が、その弦楽器の音が、一際近くに聞こえてきて、まるで背筋にそのメロディを、冷たい冷たいその音色を、直接流し込まれたかのように。怯え、恐怖、不快感、そう言ったものの全ての集合を本能で感じとって、隊員たちは、その千切れた隊員の体を振り返る。不思議そうな顔をしたままで、どうやら死にかけているらしい隊員の頭を無造作に右手の先で持って、眼窩に指を差し込んで、ボウリングの玉のように。それから、これはすでに血の上に倒れている下半身の上に立って。そこに一人の女がいた。

 その姿は、兵器だった。

 本来は、フェト・アザレマカシアを殺すために。

 ケレイズィによって、この世界に生み出された。

 生き物の姿をした、殺戮兵器のうちの一つ。

 種族の名前は、ノスフェラトゥ。

 彼女の名前は、ヴァイオリン。

 ヴァイオリンの姿は、普通のノスフェラトゥよりも随分と小さい。純種ではあったけれど、所詮は野良で、不完全な月足らず、それゆえに捨てられた出来損ないに過ぎなかったからだ(正妻といえど絶対に不具の子を産まないというわけではない)。しかし、それでもヴァイオリンは、確かに純種だった。この世で最も美しい、万物の霊長である、ノスフェラトゥの純種。そして、今のヴァイオリンは、通常生活を送る際の形態のように、人の皮を被ったような、落ち着いた姿ではなくなっていた。それは、間違えようもなく、捕食生物の姿になっていた。

 赤い目が。

 暗く沈んでいる。

 姿かたちを飲み込む。

 底のない沼のように。

 もしもそれが光っていれば。

 獲物に見つかってしまうから。

 命を食らうための口は、耳のあたりまで裂けている、二本の吸痕牙がまるで象牙細工の剣のようにして長く突き出ている。腕から手の先にかけて、しなやかな鋼線が紡ぎ合わされてできたかのように、金属じみた硬質を帯びた筋肉がゆるやかに流れていて、そしてその指先はある種の昆虫のように、獲物をえぐり、掴むのに適した長さにまで伸びている。体自体は黒いスーツに覆われているため、見えない(ちなみにヴァイオリンはネクタイをしていなかった、それほど神経質ではない彼女は、口の周りに獲物の血がつくことを気にしなかったし、第一、ネクタイをつけると首が窮屈だからだ)けれど、その背には……二枚の……羽が……生えていた……それは……夜を……裂く……二枚の……刃のように……長く……皮膜は……緩やかに……揺れて……それは……口を開いた。

「夜、です。」

 ノスフェラトゥらしい顔で。

 感情を感じない、微笑みで。

「良い、夜、です。」

 呆然と見とれていたミスター・アドニスは。

 その声で、ようやくはっと気が付いた。

 ヴァイオリンは、その言葉を発した口を。

 そのまま、あーっと大きく開けて。

 手のひらに持った、獲物から滴る体液を。

 だらだらと垂らして、飲み込みはじめる。

「対ノス強化剤投与!」

 ミスター・アドニスは慌ててそう叫ぶと、自分もポシェットの中を探り、その中から小さなAADBメモリみたいな形をした小型の注射器を取りだした。それを自分の、首筋の動脈あたりに当てると、ぐっとプランジャーを押す。中から、「対ノスフェラトゥ用肉体及び精神強化剤」が噴き出して、速やかにミスター・アドニスの体内に回る。完全な効果が出るまではもう少しかかるだろうが、これで、ひとまずは安心だ。

 それから、ヴァイオリンに向かって。

 無意味とは思われたが。

 エネベクトを向ける。

 ヴァイオリンは。

 口からあふれる体液を。

 喉の奥に飲み下しながら笑う。

 部下たちの様子を見る余裕もなく、ミスター・アドニスは腕の通信機械を自分の口元にまで持ってきた。ヴィレッジの通信機械、サヴァンのつけているものと同じもので、そして、ミスター・アドニスは、そのサヴァンに、通信を求める。そして通信が繋がると、必要もないのに、絶対的な恐怖に促されるみたいにして、叫ぶような大きな声でこう言う。

「ミスター・サヴァン、アドニスです! ノスフェラトゥが現れました、今現在、隊は交戦中で……」

『リチャード・サードか?』

 場違いなほどに落ち着いたサヴァンの声。

 少しいらだったようにして。

 ミスター・アドニスは答える。

「違います! 対象は女です!」

『女?』

 ヴァイオリンは、まだだらだらとその内側から体液の滴っている、死んだ隊員の上半身をぽんっと抛り棄てた。黒いスーツの内側に着ている、白いシャツ、それから、頭に髪飾りのようにしてさしている、造花の白い薔薇、ホワイト・ローズ。両方ともが、赤く、べとべとに汚れていた。それから、顔と、ハッピートリガーみたいに雑な切り方をした、短い髪の毛も。けれど、ヴァイオリンはそれを気にしなかった。それを気にせず、笑顔のままで、あの笑顔のままで、また歌い始めた。弦楽器のような声で、兵器の歌を。

 兵器が。

 別の兵器を呼ぶ歌を。

 夜の奥の方。

 川沿いの、道路の向こう側。

 バンクス・リバーの先から。

 その歌に、答えるように。

 その歌に怯えたのか、二人の隊員(本部から派遣されてきた隊員ではなくサヴァンがこの街から引き上げたごろつきたちのうちの二人)が狂ったようにエネベクトを乱射し始めた。ヴァイオリンに向けて、しかし、それには何の効果もなかった……「ほとんど」何の効果もなかったのではなく、「完全に」何の効果もなかったのだ、光学的に無理やりに方向づけられたエネルギーのベクトルは、ヴァイオリンの体を、まるで陽炎に石を投げつけたかのように、揺らめいて通り過ぎていくだけで。

 ミスター・アドニスは舌打ちをして。

 通信機に向かって、言葉を続ける。

「現在、隊は交戦中で、対象はヴァイオリンと思われます……いや、ちょっと待ってください……あれはまさか、他にもいるのか? ミスター・サヴァン、ノスフェラトゥが何匹もこちらに向かってきます、そんな馬鹿な、そんな馬鹿なことが……くそっ、隠れろ!」

 対ノス強化剤は様々な組織によって開発されている。もちろん、サリートマト社が一般に販売している汎用品も存在しているが、それは色々な条約や、企業間協定に適合したもので、それほど効果が強いわけではない。しかし、たった今、ミスター・アドニス達が使ったものはそれよりも遥かに強力なSPB製のものだった。汎用品とは違って、人体への影響が著しく大きいため、効果の現出時間が非常に短くなっている、せいぜいが二時間から三時間程度だろう。その分、効果は絶大だった。

 ミスター・アドニスと、よく訓練されている本部からの派遣隊員四人は、ミスター・アドニスの「くそっ、隠れろ!」という叫び声とほぼ同時に、すばやくその場から飛び退いて、それぞれが建物の影に飛び込んで姿を隠した。しかし、それ以外の人間たち、もともとがダウンタウンの出身だった成上りの犯罪者達(ミスター・アドニスもそうなのだが、彼は他の連中とは別にそこそこの訓練を受けていた)のうち、三人はその場から飛んで、その時の勢いを制御しきれず近くの建物の壁に思いっきり突っ込むか、あるいは川の方に落ちて行った。あまりに強くなりすぎた身体能力を制御できず、また対テレパシー効果のせいで頭の中に靄がかかったようになり、思うように思考することもできなかったせいだった。

 そして、成上りものの残り二人。

 エネベクトを乱射していた二人。

 その場から、動くこともできなかった。

「うご、うご、アドニス、体、うご……」

「何、嫌、どう、どう、どうして?」

 まるで、バグを起こしたオートマタか何かのように、言いたいことはなんとなく分かるのだけれど、ほとんどがぶつぶつと切れ切れの、ある種のモザイク模様のような声だった。そして、その体もまた、変な動き方をしていた。その場に倒れ込んで、横たわり、全体が痙攣していて、しかも手や足は、それぞれが不規則に、まるで全体を統一していた機能が破損したかのように、でたらめに、ばらばらに動いている。そして、その二人の隊員の手には、対ノス強化剤が強く強く握られていた。中には液体が満たされたままで、つまり、それを、己の首筋に、注射する前の状態で……間に合わなかったのだ、怯えて、エネベクトでヴァイオリンを攻撃することに気を取られていて。その二人は、ヴァイオリンの、テレパシーの域内に囚われる前に、対ノス強化剤を己の体の中に注ぎ入れることができなかったのだった。

 ノスフェラトゥの純種は、非常に強力なテレパシー能力を有している(雑種もある程度の能力を持っているのだけれど、純種ほど、つまり人体に強力な影響を与えたり、純粋な思考を伝達しあえるほどではない)。それは、もちろん兵器として生まれてきた彼らにふさわしく、闘争のために使用されるべきものだった。ノスフェラトゥがその精神の波動を、周囲に向かって強く強く放つと、例え一度であってもその衝撃に耐えきれずに、人間や、あるいは他の脆弱な精神は一時的な、あるいは恒久的な破綻をきたす。通常の動作を行うことができなくなり、混乱し、そして、今ここで、二人の隊員たちが陥っているような状況になるわけだった。

 しかし、ミスター・アドニスには。

 彼らを気遣っている余裕はない。

「ミスター・サヴァン、対神兵器の使用許可を!」

 通信機に向かって、押し殺したような声で言う。ほとんどお守り代わりに構えてはいるが、エネベクト式ピストルでは、雑種にならば対抗できるかもしれないけれど、ヴァイオリンに対しては子猫の肉球ほどにも効果がないだろう。しかし、通信機の向こう側からは何の返答もなかった。何らかの理由で通信が切れてしまっているらしい……実際のところはサヴァンが一度通信を切り替えて、ミス・ミモザの方の状況を確認していただけだったのだけれど、そんなことをミスター・アドニスが知る由もなかった。

 それに、考える、余裕もない。

 夜の奥の方。

 川沿いの、道路の向こう側。

 バンクス・リバーの先から。

 その歌に、答えるように。

 まるで、蝙蝠の影のようにして。

 数人の、野良ノスフェラトゥ達が。

 月の光の下に、姿を現したから。

 どれもこれも、その姿は、月の光に反射しない濁ったような目の色で、ノスフェラトゥのものと知れた……そうでなくても、その動きは人間のものではなかった。壁に張り付くようにして、それを伝ってこちらに来るもの、蛙か何かのように、高く高く飛び跳ねて来るもの、そういった、まるでこちらに向かって力を誇示してくるかのように、その姿はこちらへと向かって来ていた(しかし恐らく、純種ではないだろう、きっちりとしたスーツではなく、ダウンタウンの下層民が着ているかのような、Tシャツや破れたジーンズ、薄汚れたパーカーのように、だらしない服装をしていたし、それに、その背にはヴァイオリンのような、美しい羽も見えなかった。彼らは、恐らく、雑種、しかもリーヴオーバー、純種たちにもてあそばれた挙句、道端にぽいっと捨てられた、哀れな哀れな片屑ども……しかし、少なくとも人間よりは上位の存在)。

「ミモザ、聞こえるか! すぐにこちらに応援をよこしてくれ、野良ノスフェラトゥ数人に襲われていて……」

 ミスター・サヴァンとの連絡をあきらめて、同じ地区にいるはずのミス・ミモザにも通信を繋いでみたが、それもやはり無駄だった。何を訴えようと、何の返答もない。恐らく、ミス・ミモザの班もこちらと同じように襲われているのだろう、とミスター・アドニスは考えて、通信を切った(そして、実際にその通りだった)。

 ふっと、ミスター・アドニスは。

 その時に、気が付く。

 ヴァイオリンが奏でる音楽が。

 今まで一定だった調子を変えた。

 低い音から、少しだけ高い音へ

 どちらにせよ、何の感情も感じさせない。

 人工甘味料のような、甘い音。

 ミスター・アドニスと同じように感じ取ったのか、その、機械的切断面のように後腐れのない音程の変化とともに、ふっと視界からかき消えるようにして、野良ノスフェラトゥ達の姿が散開した。そして……ヴァイオリンの姿も、その場から、まるでそれ自体が、子供じみた魔法であったかのようにして、消えた。

「私。」

「は。」

「あなた。」

「複数。」

「を。」

「殺す。」

「です。」

 ヴァイオリンの声。

 ノスフェラトゥの言葉。

 ミスター・アドニスは。

 その瞬間に叫ぶ。

「天狼アリスの使用を許可! 総員、速やかに装備せよ!」

 もちろん、許可を得ているわけではなかった。

 また、ミスター・アドニスにその権限もない。

 しかし、どんな規定上の罰を受けようとも。

 ここで死を甘受するよりは、ましなはずだ。

 ミスター・アドニス本人もエネベクトをしまう余裕さえなく、それをただそこら辺に投げ捨てて、そしてスーツの右肩、外骨格に手を置いた。即座にその装備を開放する。歪んで光る黄色い水晶、腕の先の五指に絡みつく触手。魔法少女の力の源、きいろいおひめさま、はすてせしあからの導管、神々を殺す機械、フェト・アザレマカシア系対神兵器アリストファネス・シリーズ天狼級No.1。無粋に単語を並べただけのような極端に長い名前はほとんど使われることなく、その代わりの通称は「天狼アリス」。それから、その右腕を、その方向に向かって構える。

 ミスター・アドニスの体内の神経系は対ノス強化剤によって異常強化されているため、その瞬発力も、また動体視力もほぼノスフェラトゥと同程度に強化されているはずだった、それでも、その姿は余りにも素早くて、一瞬だけ反応が遅れてしまった(ノスフェラトゥにとっては、その一瞬でかなり多くのことができる)。

 ミスター・アドニスの視界に。

 女の顔、いっぱいに微笑み。

 出来損ないの人形のような顔。

 感情をまねようとしている笑顔。

 襲い掛かって来るヴァイオリンに向かって、ミスター・アドニスはその右手の天狼アリスを使用した。黄色い水晶から、その力の奔流が、あちらの世界からこちらの世界へと、流れ込んでくる。ミスター・アドニスの右腕は、世界の根源、概念形成以前、そのエネルギーを感じる。そして、それが放たれる。それは、例えばすべてが歪んでいた世界から、全てがまっすぐな世界に戻ってきた時に、その直線を歪んでいると感じる、その感覚に似ていて。それは、この世界の、訂正のエネルギーだった。

 天狼アリスの放った。

 黄色い色をした歪みは。

 この世界を歪めて。

 ヴァイオリンに向かう。

 しかし、ヴァイオリンはミスター・アドニスの反応が一瞬だけ遅れていたことを知っていた。そして、先ほどもいったように、その一瞬があれば、ノスフェラトゥには色々なことができる。純種であれば、特に。ヴァイオリンは、包み込むように広げていた羽で、軽く一度、その夜の空を打った。ヴァイオリンの体は、ゆっくりと回転しながら、空に沈み込むように跳んだ。黄色い世界の歪みは、跳ぶ前にヴァイオリンがいたはずのその空間を、虚しく引き裂いていき、そして遠くへと消えていく。

「良い。」

 ミスター・アドニスは心臓の温度が下がるのを感じた。

 慌てて、装甲じみた触手で覆われた右手で上方を庇う。

 まるで、巨大な夜に踏みつけられたような衝撃。

 ヴァイオリンが、その足で、蹴りつけてきたのだ。

「夜。」

 ミスター・アドニスは、衝撃を受け止めきれず、その体は弾かれるようにして吹き飛んだ。隠れていたビルの物陰から、川沿いの道の方向へ、その姿が顕かにされる方向へと、ヴァイオリンの思った通りに投げ出される。かろうじて受け身を取って、ミスター・アドニスはすぐに体制を立て直す……しかし、そのミスター・アドニスの目に入ってきたのは、ほとんど絶望的な光景だった。

 瞬間で、ミスター・アドニスは数を数えていた。

 ここにいる、敵の数と、味方の数を。

 ヴァイオリンを除いて、雑種が五人。

 それに対して、こちらの数は十一人いたはずだった。

 今は、六人に減っていた。

「です。」

 そして、しかも、ヴァイオリンが、偽物じみた笑みで笑いながら、こちらへと近づいてくる。まるで獲物をいたぶる肉食の幼獣のように。確かに、ヴァイオリンの体の大きさは、幼獣のように小さいな、とミスター・アドニスは頭の端でそんなことを考えていた。普通のノスフェラトゥに比べても、あるいは、人間の成人女性に比べても少し小さいくらいだ。そんなことを考えながら、ミスター・アドニスは本能的に天狼アリスをヴァイオリンの方に向けて、その力をヴァイオリンに向かって乱射していた。

 発条仕掛けの人形のように跳ねて。

 ヴァイオリンはその歪みを避ける。

 ミスター・アドニスは時間を稼ぎながら。

 通信機に向かって、すがるように叫ぶ。

「ミスター・サヴァン! こちらアドニスです! 聞こえますか、お願いです、応答してください!」

『サヴァンだ。』

 あっさりと、その声は通信機から帰ってきた。ミスター・アドニスは主に感謝しながら(ミスター・アドニスは、元は敬虔なトラヴィール教会の家庭に生まれていたため、ここでいう主とはもちろん本当に主のことである)その声に答える。

「良かった、ミスター・サヴァン、こちらアドニスです。」

『ミスター・アドニスか。聞こえているが、対ノス強化剤を使っているな? 言葉が早すぎる、調整するから少し待て。』

 とんっとんっとステップを踏んでいたヴァイオリンが、そのダンスに飽きてしまったかのようにして、ふわっとその羽を一度羽ばたかせた。その時に、数発の黄色い歪みがヴァイオリンの羽をかすめた。エネベクトによる攻撃の時とは違って、天狼アリスでの攻撃は、例えゼティウス形而上体であっても傷をつけることができる。それは、物理的な衝撃ではなく、根源的な訂正だからだ、ヴァイオリンの羽は、まるで刃物で切り付けられた柔布のようにして、幾つかの切れ目が入る。しかし、ヴァイオリンが、その程度のことを気にするわけではない。

「そんな悠長なことをいってる暇はありません! ヴァイオリンが現れました、また、あの化け物は五人も他の野良連中を連れてきてんですよ!? こちらは既に五人死にました、ミス・ミモザとも連絡がつきません! すぐに応援をよこしてください!」

『先ほどの通信を聞いていなかったのか? すでにミスター・アザレとミス・アネモネを三番地区に急行させている。』

「本当ですか!?」

 ヴァイオリンが羽を夜と戯れさせるようにして、月の方に緩やかに飛んで、その体を預けた。それから、まるで直滑降のようにして空を滑り落ちてくる、また、同じように、ミスター・アドニスの方に。しかし、先ほどとは違っていて、つまりミスターアドニスには、少しだけ余裕が残っていた、ヴァイオリンがこちらに到達する前に、天狼アリスの、近接戦闘モードを起動するだけの余裕が。黄色い水晶から、その触手へとエネルギーが供給されて、その触手は、やがて泡立つようにうねり、そして水晶と同じような黄色の光を放ちながら、右腕を覆い隠すようにして展開する。

『ああ、恐らく、リチャード・サードは三番地区に出現する可能性が高い。人員を集中させ、徹底的に捜索を行わせる。ミスター・アドニス、くれぐれもリチャード・サードを逃さないように。楊春杏が投入されたということは、もうこちらには、ほとんど時間は残されていないのだから……ところで、天狼級対神兵器の使用許可は聞こえているか?』

「あ……ええ大丈夫です! それは聞こえました!」

 ミスター・アドニスは、どこかしらサヴァンとの話がかみ合っていないように感じた。ミスター・アザレとミス・アネモネは、本当に「応援」としてこちらに来るのか? しかし、それを追及しているだけの余裕は、もう残ってはいなかった。ヴァイオリンの体が、ミスター・アドニスの体に衝突する、その寸前に、ミスター・アドニスは右手を振り上げる。天狼アリスはまるで獲物を襲おうとする蛸の足のようにしてがばっとその口を開いた。ミスター・アドニスに寄生している、増えすぎた寄生虫のように増殖した触手が、ヴァイオリンの体を包み込み衝撃を緩和する。

 しかし、全ては受け止めきれない。

 ミスター・アドニスと、ヴァイオリン。

 体がもつれ合って、川に向かって投げ出される。

『そうか、なら良い。サヴァン、以上だ。』

 通信機の向こう側で、サヴァンが一方的に通信を切る声が聞こえた。ミスター・アドニスには、それにかまっている余裕はなかった。それほど深い川というわけではない、もしちゃんと立つことさえできれば、せいぜいが胸のあたりまでだろう。しかし、暴れ狂う右腕の先のせいで暫く水の中で姿勢が保てず、溺れるように息ができない。

 そして、その水を伝って。

 何かの音が聞こえてくる。

 右手の先の触手群は蠢いて、ヴァイオリンの体を包み込み、消化しようとしている音、ヴァイオリンの体が、少しだけ訂正エネルギーによって歪み、溶けだしてくるような音が聞こえる。しかし、ミスター・アドニスに聞こえてくる音は、それだけではなかった。ぶちっぶちっ、という音。何かを何かが千切り取るような音。つまり、それは、ヴァイオリンが、天狼アリスの、触手を……いや、そんなはずは……しかし、この音は間違いなく……天狼アリスを? いくら天狼級とはいえ、対神兵器を? ヴァイオリンは、食いちぎっているのか?

 ミスター・アドニスは。

 今までに感じた事のない感情を覚えていた。

 それは、内臓が体の内側から逃げ出して。

 思考の奥が、細かく振動しているような。

 それは、ありていに言えば恐怖だった。

 キャンプ・ベルヴィルでの集中訓練で、確かにミスター・アドニスは対ノス訓練を受けていた。しかし、ノスフェラトゥの純種との戦闘訓練といっても、それはあくまでシュミレーターによる仮想現実プログラムの内部での話だ。あるいは実戦で、雑種の集団と何度か小競り合いのような戦闘を行ったこともある。しかし、こちらのことを殺そうとしているノスフェラトゥの純種との戦闘は、これが初めてだった。

 全く、違うものだった。

 雑種が幼稚園児であれば。

 純種は肉食の恐竜だった。

 人間は、柔らかいミートパイに過ぎない。

「アドニス! 大丈夫か!」

 ざばっと、誰かに体を掴まれて。

 水の内側から引き上げられた。

「早く、触手を切り離すんだ!」

 声が聞こえる。

 意味を理解する前に動いていた。

 天狼アリスの先端の触手。

 ヴァイオリンにまとわりついている部分を切断する。

 ようやく右手が自由になって、姿勢が安定した。川の中になんとか立ち上がって、呼吸器官の方に飲み込んでしまった水を吐き出すようにして、げぼっげぼっと咳をする。喉が焼け付くように痛い、右手にまだ何かが暴れているような感触が残っている。しかし、まだ生きている。ふっと、ミスター・アドニスは、そのことに気が付いて、自分を助け上げた人間の顔を見上げた。

「大丈夫か?」

「……ああ、なんとかな。」

 一瞬だけ、救援班が来たのかと思った。

 しかし、そういうわけではなかった。

 失望した顔を気取らせないように伏せる。

 その男はミスター・アドニスの班のうちの生き残りの一人で、本部から派遣されてきていた男だった。普段であれば、本部からの出向組は気取った嫌な奴らだと思っていたのに、こういう時に頼りになるのは、やはり自分と同じような成上りの連中ではなく、きちんとした訓練を受けたエリートの連中なんだなと、ミスター・アドニスは心の隅で思う。それもそれで、やはり忸怩たる思いがするものだった。

 その男はアドニスのことを庇うようにして抱えながらも、触手にまとわりつかれて動きが取れなくなっているヴァイオリンに向かって、天狼アリスの銃撃を雨のように撃ちまくっていた。ヴァイオリンの体に、幾つも穴が開いていく、しかし、その穴は開いた直後に少しずつ治り始めていく。エネベクトの攻撃を受けている時とは違い、実体に穴が開くだけでも、どうやら確かにダメージを受けてはいるようだった。しかし、それでも、ヴァイオリンは、その攻撃で、死ぬわけでは、ないようだった。

「状況はどうだ?」

「悪い。既に五人が死んだ。こちらも何とか三匹を仕留めたが、残りの雑種は二匹いる。それに何より、ヴァイオリンが残っている。」

「なあ。」

「なんだ?」

「お前、以前に純種と戦ったこと、あるか?」

「いや、一度もない。」

「そうか。」

 いいながら、またアドニスは天狼アリスをヴァイオリンの方に向けた。そして、その男と同じようにエネルギーの攻撃を可能な限りの速度と量で、ヴァイオリンに向かって降り注がせ始める。ヴァイオリンは、しかし、顔色一つ変えていなかった。相も変わらず、社交辞令のような張り付いた笑顔のままで、体にまとわりついている触手を、自分の体から、冷静に、一本一本引きはがしているだけで。それから、声も聞こえた。「良い、夜、です」「私、は、あなた、を、殺す、です」「良い、夜、です」口から流れ落ちていく言葉はまるで、砂糖細工のように甘く、そして何の価値もない。まごうこともない、ノスフェラトゥの言葉。

 アドニスは。

 その姿を見ながら。

 男に向かって言う。

「それはあまり良い情報じゃないな。」

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