#16 タキシード・ハンサムボーイの拝謁
ベルヴィル記念暦985年2章14節。
夜。
そもそも、ノスフェラトゥは政治・社会・文化・経済という、人間集団における混沌調整のための、四種の平面的秩序を必要としていない。それを必要とするほどに、彼の鬼たちは多くも、弱くも、また愚かでもないからだ。
一般的に、人間は、多く、弱く、愚かだ。だから、その無意味な量を統率し、また敵わない外敵に抵抗し、そして愚かさのゆえに互いを殺しあうことを恐れて。その生存のために秩序を作り出す。未来に訪れるであろう脅威を可能な限り排除するために、権力を作り出し計画的な決断へと導く。自然からやって来る無秩序を可能な限り排除するために、貨幣を作り出し技術的な計算へと導く。身体に訪れるであろう暴力を可能な限り排除するために、価値を作り出し象徴的にそれを意味付ける。過去からやって来る洪水を可能な限り排除するために、役割を作り出し慣習的にそれを反復する。
しかし、ノスフェラトゥは。
それを必要とするには。
あまりにも強すぎる。
人が牙と爪を必要としないように。
ノスフェラトゥは秩序を必要としない。
そのため、過去においては、つまりそれは第一次神人間大戦が起こる前の話ということだけれど、ノスフェラトゥは世界の各地に散らばっていた。集団を作ることなく、孤立し、そしてただ生きていた。ノスフェラトゥの存在意義はたった二つ、生存と殺戮だ、それをするには一人で事足りるものだし、それに万物の霊長であるノスフェラトゥを殺せるほど強い何者かは、それがたった一鬼であったとしても、少なくともそれほど多いものではない、つまり、彼の鬼らには、集団を作る意味がなかったのだ。
しかし、状況は変わるものだ。
神は鬼を殺せる。
鬼が神を殺せるように。
第一次神人間戦争が起こった時に、ノスフェラトゥは否応なしにそれに巻き込まれた。さすがのノスフェラトゥであっても、対神兵器(その頃はまだかなり原始的なものだったが)や、あるいは神自身からの攻撃を受けて、己の存在意義である生存が、脅かされるものとなってきた。また、殺戮もまたノスフェラトゥの存在意義であり、神を殺すというのは、ことのほか甘美な快感を与える物でもある。
彼の鬼は次第に集まり始めた。
一つの場所に。
彼の鬼たちが作り出された場所。
本能に従って。
集団を作り始めた。
それが、後のパンピュリア共和国だった。
第一次神人間対戦が終わったその後も、パンピュリア共和国の体制は続いた。人は対神兵器を持つようになり、そして神々や、他のあらゆる脅威が跋扈する世界で、国家という方法は、ノスフェラトゥにとってもそれなりに有用な武器となりえたからだ。けれど、それは人間たちの作る一般的な国家とは、少し性質が違ったものだった。それは、どちらかというと家に似ていた。人間を奴隷として使役する家に。あるいは牧場に似ていた。人間を家畜として育成する牧場に。
ノスフェラトゥはそれほど数が多くない、いわゆる「野良ノスフェラトゥ」と呼ばれている者達を別にすれば、その他の全てがアップルに納まる程度の数でしかない。また、ノスフェラトゥは同族殺しを躊躇うことはない、種の保存は、彼の鬼の気に掛けるところではないからだ。だから、彼らの中では秩序は必要ではない。秩序を必要としているのは、家畜である人間の方だった。ノスフェラトゥのために戦い、そしてノスフェラトゥに饗するスナイシャクをその身の内に作り出す、人間達のためにノスフェラトゥは秩序を作り出したのだった。
そして、その秩序の紡ぎ手が。
四つの始祖家、フォウンダーだったのだ。
「くれぐれも、くれぐれも失礼のないようにしてね?」
「もちろんだともファーザー・フラナガ……」
「だから、フラナガン神父。」
「フラナガン神父!」
「っていうかもう喋らないで。」
「任せておきたまえ!」
自信満々な顔をしてそう言ったブラックシープであったが、フラナガンにはその満々な自信がどこから出てきたものであるのかさっぱり分からなかった。確かに、服装に関してはフラナガンの決死の説得によって、まともになっていた……タキシードを着て、その中には白い縦襟のついた、フリルのドレスシャツ。足には側章が一本入ったスラックスを通している。手には白い皮手袋に、足にはエナメルのパンプス、胸ポケットからは白抜きのポケットチーフがのぞいていて、首元にはブラックタイ。そして、ここが一番重要なところだけれど、もちろん顔にはあの金の仮面をつけておらず、素顔だった。つまり、今日のブラックシープはブラックシープではなく、P・B・ジョーンズとしてこの場所にやってきていたのだ。
ブラックシープは強硬なまでに、あのよく分からない羊だかなんだかをモチーフにしたというヒーローコスチュームを着てきたがったのだけれど(「ファーザー・フラナガン! あなたの言うことも解るよ、つまり(略)ということだろう?」「いえ、違いますけど」「しかしだよ、ファーザー・フラナガン! 私たちは(略)であって、つまり(略)なんだ! 私はこのコスチュームを脱ぐわけにはいかないのだよ! 分かってくれるかい、ファーザー・フラナガン!」「あのですね、僕が言いたいのはそういうことではなくて……」「解ってくれたかい! ありがとう、ファーザー・フラナガン!」(熱い抱擁))フラナガンは何とか説得して(「ほら、僕は今日の面会をヒーローであるファーザー・フラナガンとしてではなく、トラヴィール教会の一神父であるフラナガン神父として申し込んでいるだろう? もし君がブラックシープの格好で来たら、フラナガン神父とブラックシープとの関係が疑われてしまう、そしてもしかしたらそこから僕たちの真の正体がばれてしまうかもしれない……だから、君にはP・B・ジョーンズとしてついてきて欲しいんだ。財界の有名人であるP・B・ジョーンズなら、フラナガン神父と交際があっても何もおかしくないだろう? つまり、そういうことさ。」「なるほどファーザー・フラナガン……あなたの言う通りだね、分かったよ、私はP・B・ジョーンズとして会見に臨もう!」「え、納得早すぎない?」)この状態にまで持ってきていたのだった。
基本的に、例えフォウンダーと出会う時であってもノスフェラトゥとの謁見にはドレスコートというものは存在しない、ノスフェラトゥがそういうことを毛ほども気にしないからだ。猿はどんな服を着ていても猿に過ぎない。つまりはそういった類の理由で。けれどまあ、常識ってやつは常識ってやつで、それは別の話であって、どう考えても普通に正装をしてくるべきものなのだ。そして、フラナガンは何とかそこまでは成功していた。ブラックシープに、正装を着せて、そしてP・B・ジョーンズとして連れてくること。そこまでは。
正直なところ、フラナガンは少しだけ期待していた。ブラックシープがあの妙に絡みづらい常識外れのテンションを維持しているのは、実はブラックシープの姿をしている時だけで、P・B・ジョーンズの姿をしている時は、きちんとその姿に見合った落ち着きと、(一応は)世界に冠たるジョーンズ財団の責任者としての雰囲気を身にまとうのではないかと。その性格は、ブラックシープの時とP・B・ジョーンズの時で全く分かたれていて、まるで二重人格であるかのように、「P・B・ジョーンズ」はまともな人間なのではないかと。
まるで甘かった。
全然そんなことはなかった。
ブラックシープは、ブラックシープだった。
ふーっと、まだ何一つ始まってすらいないのにも関わらず、フラナガンは疲れ切ったため息をついて、シガレット・ケースからラゼノ・シガーを取りだそうとした。けれど、ふっと気が付いてそれをやめて、コートのポケットにシガーケースを戻す。それからその建物を見上げた。
「君、コート・バスクは初めてだったっけ?」
「いや、何度か来たことがあるよ!」
「じゃあ、ムッシュー・スーレとも会ったことがあるのかい?」
「ムッシュー・スーレ?」
「ああ、会ったことはないのね。分かった。」
ラ・コート・バスク。
アップルと、ベッド・ストリートとの、唯一の接点。
ノスフェラトゥと、人間との、唯一の接点。
コート・バスクは、この世界では最高のレストランだ。けれど、それほど大きな店、というわけではない。小さな入口を入ると、入ったその部分が大きく開けた日当りのいいホールになっており、そこにくつろげる長椅子が幾つか置いてある。その左側に作り付けのバーカウンター、それからアーチ状の通路を通った奥に大きな赤いダイニング・ルーム。その更に奥には、いくつかの個室があって、ここには秘密の会合を持ちたい客たちが通される。コート・バスクは上客の秘密を決して他に明かさないことで有名で、その有名が最高のレストランである理由の一つなのだけれど(もちろん禁煙でないこともその理由の一つだね、とフラナガンは思っている)、こういった部屋には様々な利用者が訪れるのだ。ノスフェラトゥに関係がある人間だけでなく、例えばBeezeutの高官やファニオンズ、国際的大企業のCEO、果ては愛党の幹部たちさえも、ここで料理を楽しむことがあるらしい。基本的にはその四つの部分から成り立った(他に一つだけちょっと特殊なVIPルームがあるのだけれど、その話は今、関係のないことなので、ここでは省略する)こじんまりとした店だ。
けれど、実は。
その奥には。
地下へと至る、エレベーターがある。
フラナガンはドアを引いて中に入る。
ブラックシープもその後に続く。
店の中に、入っていく。
口に含めば舌触りがとてもよさそうな、まるでおまんじゅうのような顔が二人のことを出迎えた。アンリ・スーレ、コート・バスクのレストラン主だ。コート・バスクでは最上の客はスーレ氏その人によってエスコートされる。Beezeutの高官? 頭でっかちの宦官もどき。ファニオンズ? 機械仕掛けの人形と何が違うのか。国際的大企業のCEO? 所詮は成金に過ぎない。愛党の幹部? 田舎者の猿。そんな連中は、全て、スーレ氏のエスコートには値しない。しかし、エドワード・ジョセフ・フラナガンは?
最高の毛並みを持つ雄猫。
ブラッドフィールドの全ての司祭を束ねる糸。
そして、なによりも。
待ち合わせの相手は。
アイナ・クールバース。
まさに、スーレ氏のエスコートに、ふさわしい。
「フラナガン神父……とても素晴らしい……とても素晴らしく光栄です……フラナガン神父。」
スーレ氏は感極まったようにそう言うと、フラナガンに対して恭しく優雅な一礼をした。フラナガンは、そんなスーレ氏の様子を見ながら、たいへん居心地の悪そうな声で、こう言う。
「あーとムッシュー・スーレ、ちょっと言ってなかったんだけれどね、今日の拝息に、僕の他にもう一人……」
「なるほど、あなたがムッシュー・スーレだね!」
初対面の人間に向かって「なるほど」かよ~!とフラナガンが心の中で突っ込みを入れる隙も有らばこそと無かりせば、ブラックシープはつかつかとスーレ氏に近づいていき、そしてがっし、とその手を掴んだ。
「今日はよろしく頼むよ、ムッシュー・スーレ!」
「え? あの、はい、えーと……」
「彼の名前はP・B・ジョーンズ。ジョーンズ財団の最高責任者で、僕の友人だよ。この店にも何度か来たことはあるらしい。」
「えーと……かしこまりました、ジョーンズ様……ご期待に沿えますように……」
明らかにスーレ氏は、今までの人生で出会ったことのないほどの馴れ馴れしさに遭遇して、困惑の色を隠せない人の顔をしていた。額ににじみ出てきた汗を、お高く留まった絹のハンカチーフでぬぐいながら、失礼にならない程度に、しかしちらちらとブラックシープの方を伺っている。その行為にはありありと疑問の色が現れていた、つまりこういう疑問だ。この男が、財団の最高責任者……? うーん、実にもっともな疑問だね、とフラナガンは思ったけれど、それに対して何かフォローを入れようとすることもなく(そんなことをしても無駄だし、より話がこんがらがるから)代わりにスーレ氏に向かってこう言う。
「席まで案内してくれるかな、ムッシュー・スーレ。」
「そうだとも、ムッシュー・スーレ。」
「その……かしこまりました、こちらへ。」
スーレ氏は口ごもりながらも、それでもさすがにプロのレストラン主らしく、芝居がかった礼儀正しさで二人を店の奥へと、先に立って導き始めた。月の明かりが波打つ海水のように差し込むホールを抜けて、止まり木に数人が座ったバーカウンターが左目の端を通り過ぎ、アーチ状の通路、赤いダイニング・ルーム、並んだ個室のその先へと。その先に、あるのは。
その扉はスーレ氏にとっての誇りだ。
それは、ノスフェラトゥから送られたもの。
遥か昔、殺されたパンピュリアの神。
アルディアイオスの城であった。
その世界樹の残骸。
欠片を、磨いて作られた扉。
それは磨き抜かれた鏡板の扉だった。無駄な装飾は全くついていない。ただの、木造りの扉だった。スーレ氏は、ノブに手をかける。その扉を開く。
「今日のワゴンの料理は、ライカーンのレバーですが……」
「いいね。ワインは、そうだな、ティクオンの赤はあるかい?」
「もちろんですとも、フラナガン神父……もちろんです……! 64年のものと72年のものを用意しております……」
扉の向こう側にあるものは、まるでどこかから流れ出した血の奔流のように、赤くそして趣味の良い絨毯の敷かれた廊下だった。その廊下には、ふかふかしたソファーが二つ、左右対称に備え付けられていて、その後ろの壁、ソファーに座ったら頭の上になるあたりに、木彫りの額縁に入った絵画がかかっている。右側はカトゥルン聖書から、左側はトラヴィール聖書から、それぞれ題をとったもので、壁は天井まで白い壁紙で覆われていた。
そして、その奥には。
エレベーターが二つ。
備え付けられている。
階数の表示は、デジタル式ではなく、いまどき珍しい、アナログ時計のように、針を数字で指す機械式のものだった。エレベーター自体は深い色をした木造りの枠の様なものの内側に、絨毯と同じような赤い色の扉がはめ込まれているものだった。
「ファーザー・フラナガ……」
「フラナガン神父。」
「フラナガン神父!」
「なに。」
「私たちは、一体どこへ向かっているんだい?」
「えーと、まあ、特別席だよ。」
「なるほど、分かったよ!」
誤魔化すようにして、フラナガンは口ごもる。ここから先、これから行く場所については、あまりブラックシープには説明しない方がいいからだ。スーレ氏はエレベーターを操作してこの階にまで呼び寄せると、二人をその中に入れてから、自分も中に入った。このエレベーターが行ける場所は、二つしかない、この階と、その下の階。それだけだ、だからスーレ氏はエレベーターを、下の階へと向かわせる。機械仕掛けのエレベーターが、まるで動いていないとでも思わせるように音もなく、スムーズに、下の階へと向かう。
たどり着く。
扉が開く。
声が聞こえる。
まるで、野良犬が二匹。
互いの腹を食い破るような。
それは、人間の声。
エレベーターの扉が開いた先にあったのは、乗る前にあったのとまるで同じような光景だった。つまり、赤い絨毯、二つのソファー、二枚の絵画、白壁。そして、その廊下の奥にあるものだけが少し違っていた、上の階にあったのは、木造りの一枚扉だったけれど、こちらのものは、黒イヴェール合金でできた、両開きの、二枚扉だった。その扉の先から、その二つの声は、聞こえてきていた。
「フラナガン神父!」
「あの声については気にしなくていいよ。なんでもないから。」
「なるほど、分かったよ!」
スーレ氏は二人を導く。
廊下の先に。
その扉を開く。
声が大きくなる。
それは、本能の声。
叫び、唸り、あがき。
二つの声。
ぶつかりあい、はじけるような。
そこは、その場所は。
「ジャスティス! ここは……」
「闘技場だね。」
確かに闘技場だった。蟻地獄の巣のようにすり鉢状で、斜面は幾つかの段に分かれて観客席になっている、大きなホール(円形食堂)のような形をしていて、その中心では、二人の人間が、見世物としての戦いを繰り広げている、つまりその場所は、そういう場所だった。もう少し分かりやすそうなたとえを使えば、オペラハウスを二つ持ってきて、それをぴったりとつけて円形にしたような、そんな形だ。スーレ氏が二人を導いたその場所は、大体斜面の真ん中に会って、そこから下がいわゆるシート席で、上がボックス席になっている。ただし、そのシート席も、安っぽくきっちりと並んだ、せまっ苦しい形ではなく、どちらかといえば、ディナーショーを見るときの、ゆったりとしたテーブル席の様な形をしている。
見下ろせるシート席はほとんど満席であった。
そこにいる人間は、ラ・コート・バスクの最上客たち。
パンピュリアの空に羽を広げる、美しい白鳥。
高価なスーツに身を包んだ。
ノスフェラトゥのお気に入りのペット。
そこにいる人間たちは、皆が笑顔だった。皆が皆、柔らかい笑みを頬笑ませながら、グラスを傾けている。そして、そのホールの、底を見ていた。誰かが世界の底に落ちたのだとしたら、その誰かはもう這いあがれないだろう、世界はそういう風にできているものだ、それが人間であっても、それ以外であっても、その誰かはもう二度と、這いあがれないだろう。そしてこのホールの底は、そういった場所の一つだ。
今日見世物になっているのは。
二人の男だった。
二人とも、素裸の姿で。
互いの喉を狙っている。
組みつき、転がりまわり、掴みかかり。
そして、互いを殺そうとしている。
「フラナガン神父!」
「なんだい、ジョーンズ。」
「これは一体どういうことだい!」
「どういうことだい、って?」
「あれを見て見たまえ! 二人の男が、確かにお互いを殺しあっているよ! そしてそれを、ここにいる彼らは見世物ででもあるかのように楽し気に眺めている! フラナガン神父、これは、人間の命を玩具のように扱っているこの場の状況は、まさか悪の祭典と呼ぶべきものではないのかい!」
「ジョーンズ。」
明らかに不審そうな目を向けるスーレ氏を制して。
人差し指をブラックシープの唇に当てて。
優しく、優しく、耳に海月の毒を注ぐように優しく。
フラナガンは口を開く。
「僕がそんな場所に君を連れてくるとでも?」
「……いや、ありえないね! 正義の人たるあなたが、そんなことをするわけがない!」
「だろう?」
「では、これは一体どういうことなんだい?」
「ジョーンズ、君に聞きたいことがあるんだ。」
「何だい、フラナガン神父!」
「人間は、正しい生き物かい?」
「正しい生き物?」
「そう、人間は、生まれた時から、完全に正しい生き物なのかな? その身に一片の悪も宿すことなく、ただ正義だけで構成された生き物として、生まれてくるのかな?」
「フラナガン神父……それは悲しい質問だね。そして、正義追及者たるあなたらしい質問だよ……確かにあなたの言う通りだ、フラナガン神父。人間は、正義だけで形作られた生き物ではない、どんな人間であっても、必ずその身に一片の悪を宿している。それを、私は知っているよ、フラナガン神父。」
フラナガンは、黒い紗の奥で。
「人間は、死を求める。」
にっこりと、柔らかく微笑む。
「他人の死を、あるいは自分の死を。」
「その通りだよ、フラナガン神父。」
「勘違いしないでね? ジョーンズ、僕はそれを責めるつもりはないよ。それは、仕方のないことだから。この精神の奥底の、本能のどろどろと沈む、甘い匂いをしたその海で、エロスとタナトスは双子の天使のように僕たちを見つめているのだから。人間には、どうしようもないことなんだ、」
そこで、フラナガンはふっと口を止めて。
それから、軽く肩をすくめる。
「かといって悪を野放しにするわけにはいかないよね。」
「もちろんだよ、フラナガン神父!」
「だから人間たちは、例えば法律を作ったんだ。そういった悪の衝動を、人間の内側に縛り付けて解き放たないようにするためにね。これで一件落着ってわけで……でもね、ジョーンズ。本当に、それは、それだけで、正しいことなのかな?」
「どういうことだい、フラナガン神父!」
「人間は、死を求める。それは、どうしようもない、本能の衝動で、人間には、まるで罪はなくて、人間は、悲しい、生き物で、それなのに、無理やり、それを、押さえ、つけて、ねえ、ジョーンズ、それだけですませてしまうのは、本当に正しいことなのかな? もちろん、僕はそれを責めているわけじゃないよ、ジョーンズ。僕も、それはしょうがないことだと思う、殺人は悪だ、まごうことなき悪だ、けれど、一方で、誰かを無理やり押さえつけることも、やっぱり……それは……ねえ、ジョーンズ……悪なんじゃないかな?」
その言葉に、顎に拳を当てて暫く考えてから。
ブラックシープは、吐き出すようにこう言う。
「確かに……あなたの言う通りだよ、フラナガン神父。」
「僕は、抑圧の秩序の側面を否定するわけじゃない。けれど、それは例えば双頭の子供のようなもので、善と悪の両方の顔を持っている、ということを指摘したいだけで、それにこの世界を最善のものにするのは、最も良いものにするには、それが不可能にみえたとしても、何らかの解決策を考えるべきだよね。つまり、僕が言いたいのはこういうことなんだ。何らかの手段で……」
その時に、フラナガンがそこまで言葉を紡いだ時に。
シート席の方で、ほうっと息をのむ音が聞こえた。
すり鉢の底、世界の底で。
一人が、もう一人にのしかかって、強く首を絞めていた。
一人は殺そうとしていて、もう一人は逃れる術がない。
勝負は決まったようなものだった。
もう一人は、すでに、死んだようなもので。
「いけない、フラナガン神父! 彼を助けなければ!」
「ジョーンズ、ジョーンズ。その必要はないよ。」
「なぜだい、フラナガン神父! このままでは……」
「彼は死んでしまうね、けれど、それがこの場所の目的なんだ。」
静かにブラックシープの肩の上に手を置いて。
ポニーテールをゆらゆらと揺らしながら。
フラナガンは、黒い紗の奥で、囁く。
「この場所の目的は、人の死を、それを望む者たちに、提供する場所なんだよ。ここでの殺人は、人の身にかけられた抑圧を、もちろん正しい方法で、一時的に排除するための、ある種の善なんだ。ここにいる、彼ら、席に座っている、観客たちの顔を見てごらん? 皆が皆、笑顔を浮かべているだろう? あの笑顔は、解放の笑顔なんだよ、ジョーンズ。これは、この闘技場は、必要悪と呼ばれるものへの唯一の武器、それを殺すことは無理だとしても、それにせめて一太刀浴びせるための、正義の剣なんだ。」
「しかし、フラナガン神父、殺しあっている彼らは……」
「ジョーンズ、僕はさっき言ったよね? 人の死を、正しい方法で、提供しているって。彼らについて心配することは、まるでないんだ。なぜなら、彼らは望んであの場所にいるんだから。」
「望んで?」
「そう、彼らは望んであの場所にいるんだよ、ジョーンズ。つまり、彼らは、本当に、抑えきれないほどの誰かを殺したいという欲望を、その身に抱いている人たちなんだ。そして、もしも彼らがそれを抑えきれずに、この場所の外で誰かを殺してしまったとしたら? 彼らはその瞬間に、間違いもなく悪となってしまう。だから、この場所は、彼らが悪とならないように、彼らに欲望を果たさせてあげようと、殺人の欲望を果たさせてあげようという、そういう意味も持っているんだ。つまり、彼らこそが、この闘技場で最も幸福な人間たちなんだよ、ジョーンズ。」
「なるほど!」
そう言いながら、ブラックシープは。
改めて闘技場の方に目を向けてみた。
世界の底で、一人の人間が死にかけている。
ぱくぱくと、口を閉めたり開けたり。
絞められた喉に、何とか空気を送ろうとして。
抑えられた血管のせいで顔色は黒く濁り。
目はひっくり返って、白目になっている。
それを見ると、ブラックシープは。
うんうんと、何か納得したように。
しきりと頷いて、そして口を開く。
「確かに、あなたの言う通りだね、フラナガン神父! そう思って彼らの顔を見てみると、生き生きとして幸せそうな顔をしているように見えてきたよ!」
「そ、そうだねジョーンズ。」
え? この人マジで言ってるの……? さっき言った「望んで」っていうの、本当は嘘で、確かあそこにいるのって二人ともどっかから買ってきた奴隷とかだったはずなんだけど……しかも片っぽ死にかけてるし、もう片っぽの顔は恐怖におびえてるし、どう見ても生き生きとして幸せそうな顔には見えないけど……? とは思いながらも、今までの話の流れからそう言うわけにはいかないので、フラナガンはこう、何ていうか当たり障りのない言葉でブラックシープの感想を受け止めた。それからこほん、と一度気を取り直して、それから続ける。
「そんな彼らの、最後の幸せを、僕たちに邪魔する権利はない。違うかい? ジョーンズ?」
「ジャスティス! 全く、何もかもあなたの言う通りだよ、フラナガン神父! 今回の件に関しては、完全に私が間違っていたようだ! あなたは本当に、いつも正しいね!」
「僕も間違うことはあるよ、ジョーンズ。その時には、きっと君が、僕のことを正しく導いてくれると信じている……けれど、今回に関しては、君が納得してくれたみたいで、とてもうれしいよ。」
「私も、あたかも正義それ自体であるかのような、あなたと相棒であることを、改めて誇りに思ったよ、フラナガン神父!」
そういうと、ブラックシープはまたもや、フラナガンの手をがっしと掴んで、ぶんぶんと雑にぶん回してシェイク・ハンドした。フラナガンは、ふーっと一仕事やり終えたような、深い深いため息をつくと、ふっとスーレ氏の方に視線を、というか黒い紗を向けて。
「さて、ムッシュー・スーレ。」
「は、はい、フラナガン神父……」
「行こうか、彼女が待っている。」
その時、ちょうど下の闘技場では、のしかかられていた男がのしかかっていた男の体を跳ね除けたところだった。手の跡のついた首筋を庇うように抑えながら、ふらふらと立ち上がり、一方でもう一人の男は軽く受け身を取って、再び男に相対している。まだ、暫くの間は楽しめそうだった。観客席からはひそやかに、上品な笑い声が漏れて聞こえてきた。
コート・バスクの地下闘技場。
観客席は、二つの部分に分かれている。
一つは、人間たちのためのシート席。
もう一つは、ボックス席。
ノスフェラトゥのための。
スーレ氏は、二人を、ボックス席の中でも一番眺めがよく、闘技場で殺しあう人間たちも、あるいは観客席でそれを楽しげに見つめる人間たちも、どちらも見渡せる、この場所の一番高いところ、入り口の体面に配置された、たった一つしかない最高のボックス席につれてきた。そのボックス席の扉には黒でできた文字でこう書かれている、「BEAUTY」と。
ハウス・オブ・ビューティ。
四つの始祖家のうちの一つ。
扉は空気のように滑らかに開く。
そのボックス席には、席といいながらも椅子のようなものはまるでなかった。ただ、黒く塗りつぶされて、手すりで外の空間と切り離された、四角い空間があるだけだった。ノスフェラトゥに、椅子は必要ないから。彼の鬼らの体は、永遠に立っていようと疲れることはない。スーレ氏は自分の目を手のひらで抑えたままで、扉を開けて二人を中に入れると、自らは中に入ることもなく、その扉を静かに閉める。例えスーレ氏といえども、何の理由もなく、その姿を見ることは許されない。
彼女を。
彼女の姿を。
黒い四角形の中で。
彼女は静かに振り返る。
ひどく、背が高い。
物知りな人間が言うことには、スーツその他は元はノスフェラトゥの正装として生まれたものだということだ。体にぴったりとした真っ黒なスーツは、身の動きをしなやかにして夜の闇に紛れるためのもの。固い革靴はどんな場所でも靴が壊れないように、赤いネクタイは口についた血を拭うためのもの。そして、彼女はその正装をしていた。真っ黒で、皺ひとつないパンツスーツに身を包み、その下にはシャツを着ていない。白いシャツは、夜の色に目立つからで、裸の素肌、天上の陶器のような首筋の上に赤一色のネクタイをしていて、そして真っ黒な革靴を履いている。それから、その体を、全身を覆うような、それはマントのような……長い長い、二枚の羽であった。黒く、まるで皮膜のようなその羽は、肩甲骨のあたりから伸びていて、ゆったりと彼女の全身を覆って、なお余るほどの長さだった。
ノスフェラトゥの赤い目。
ノスフェラトゥの黒い髪。
ノスフェラトゥの吸痕牙。
全てが完璧だった。
そして、その顔に、頬笑みを浮かべている。
薄く、動きのない、偽物じみた笑み。
張り付いて、儀式めいた笑み。
笑みは、人を安心させる、らしい。
それを、プログラムしただけの笑み。
そして、頭には冠をかぶっている。
黒でできた、「美しい」冠を。
彼女の名前は。
アイナ・クールバース。
ハウス・オブ・ビューティ。
「ユア・マジェスティ。」
フラナガンは、アイナのすぐ近くへ。
両手を前で祈るように組んで。
くっと傾げて、白い首筋をさらけ出す。
ポニーテールがゆらゆらと揺れる。
美しい、美しいアイナはその姿をしたフラナガンに向かって、何も言わない砂糖菓子のお面のような、静かで冷たい微笑みのままで。ゆっくりと、ゆっくりとその羽を広げた。その羽は、まるでどこまでも沈んでいくような深海であった。あるいは、ただ単純に、真黒のケープ。その真黒のケープは、フラナガンの体をゆっくりと包んで、アイナの方に引き寄せる。包み込んで、覆い隠して、それからフラナガンのむき出しの首の方に、近づいてくる、白色をした、宝石のようなもの、それは、尖っていて、透明なくらいの白で、フラナガンは知っている、それは、ノスフェラトゥの吸痕牙。
アイナは、覆い隠した羽の内側で。
フラナガンの首筋に、口づけをする。
フラナガンの口から、声が漏れる。
まるで、喘ぐような、一瞬の悲鳴。
アイナの顔は、まるで変らない。
そのままの、砂糖細工の顔で。
そして、それが終わり。
アイナは、口を離した。
「感謝。」
そっ、と音も立てずにフラナガンを開放する羽の中で、フラナガンは、精液で濡れた蛇の鱗のような声でそう言った。失礼のないよう、赤いネクタイで口元をぬぐっているアイナの方に、体の向きは向けたままで、後ろ向きに三歩戻って、ブラックシープのいる場所にまで戻って来る。発条仕掛けの玩具のようにして、アイナの羽はまたアイナの体を包むマントの姿に戻っていく。
一方で、ブラックシープはフラナガンのしていることを、何もかも分かっているよとでも言わんばかりに、しきりとうんうん頷きながら、どう見ても何も分かっていなそうな顔をしたままで、それをずっと見ていたのだけれど、フラナガンが自分の方に戻ってきたのを見計らって、「よしっ!」と小声で呟いて、さっきフラナガンがしていたのと同じようにアイナのすぐそばに近づいてった。
は? って顔をするフラナガン。
何してんの? って顔をするフラナガン。
ブラックシープは自信満々な顔をして。
アイナのすぐ近くに立つ。
「ゆあ! まじぇすてぃ!」
ユア・マジェスティという言葉の意味も解っていなそうな声で(実際はさすがのブラックシープでも、一応ジョーンズ家の人間なので知っていることは知っている)、ふんすっと息も荒くそう言うと、ブラックシープは目をつぶって、それからアイナに向かって、ほらっとでも言わんばかりに自分の首筋を差し出した。
「ちょ、ちょっとジョーンズ!」
明らかに想定外の展開に焦りの色を隠せないフラナガンだったが、その一方でアイナの手首で、まるで夜の海、波打ち際でしゃらしゃらと些喚く砂浜が、砂時計の内側で落ちていくような、そんな音がした。それは、アイナの手首で、二本の銀の鎖が揺れて擦れあって立てる音だった。
アイナはその手首に、二本の銀の鎖を絡みつかせている。
その長い長い銀の鎖は、アイナの右横と、左横に伸びている。
そして、右の銀の鎖、左の銀の鎖、その先に。
二匹の、犬を繋げている。
鎖と同じ、銀の首輪。
音も立てず、ただアイナの横に、奴隷のように侍る。
奴隷? いや、それは二匹の飼い犬。
あるいは、二匹のライカーン。
それは、最高級のライカーンだった。決して、奴隷市場に出回ることのないような、人間が、あるいは通常のノスフェラトゥであっても、手に入れることのできないような。その二匹の犬は、始祖家に仕えるためだけに交配された、血統書付き(例えの話です、ノスフェラトゥは血統書とかは作りませんので)の、純血種のライカーンだ。艶めいて、光るような灰色の毛並み。甘腐りした香水に浸したような、肉の匂い。音を立てずに動き、その牙は白イヴェール有機金属も引き裂き、決して主人に逆らうことがなく、もちろん月の影響がなくても月変りができる、狼化剤中毒者でもない。
そしてそのアイナの二匹のライカーンは。
アイナの目の前に出てきた、異物を認めた。
二匹は音もなくアイナのその横に立って。
素裸に首輪だけをした人間の姿を。
静かに狼に変える。
「ジョーンズってば!」
「どうだい、フラナガン神父! 任せておきたまえと言っただろう! 確かに私はフォウンダーと会うのは初めてだけれど、あなたのやり方を見ていればおのずとやり方を……」
「君はやらなくていいんだよ!」
「へ?」
フラナガンは、この場のただならぬ状況を何とかするために、必至でブラックシープにそう訴えた。やばい、想定外にやばい、想定外って言うか、いや、まさか僕とおんなじことをするなんて思わなかった、ノスフェラトゥだって誰彼となく血を吸うわけじゃないし、第一フォウンダーの近くにあんなにづかづかと近づいてくなんて、一般常識と照らし合わせてみれば想定するはずもないじゃないか、などと思いながら。一方で、ブラックシープは「へ?」というその言葉のままに「へ?」という顔をして、改めてつぶっていた目を開いてみた。アイナはこちらに羽を伸ばしてくる様子はなかった。ただその笑顔を崩さないままで。暫く考えてから、ぴこーんといった感じで、ブラックシープはその気づきを得る。
そうか。
私はやらなくていいのか。
「なんと! そうだったのか!」
はっはっはっ、と底抜けな声で笑うと、ブラックシープはくるっとアイナに背を向けて(フラナガン的にはあわわわわ……って感じだ)そしてのっしのっしとフラナガンの元にまで歩いて帰ってきた。それを見ると、二匹のライカーンはまた狼の姿から素裸の人間の姿に戻り、そしてアイナは特に何の動きも示さずただ微笑みを浮かべているだけだった。
「申し訳なかったね、フラナガン神父!」
「いや、いいんだよジョーンズ。」
まあ、色々と言いたいことはあったのだけれど。
何とかこの場が無事収まったようで。
フラナガンは、ほっと溜息をついた。
「ところで、ジョーンズ。」
「なんだいフラナガン神父?」
「君はノスフェラトゥと会話できる?」
「いや、実はできないのだよ!」
「そうかい……まあいいや、じゃあ、僕が話すね。」
「おおっ! あなたはノスフェラトゥと話せるのかい!」
「まあね。」
フラナガン的には、というか君、僕が話せなかったらどうするつもりだったの? と問いかけたいところだったけれど、そんなことを問いかけても明確な答えが得られるとは思えなかったので黙っていた。その代わりに、ふと、まあどうでもいいんだけど、とでもいった感じの口調で、こう付け加える。
「そういえば君、ノスフェラトゥのテレパシーは大丈夫なの?」
「もちろんだともフラナガン神父! このシープマスクには対精神攻撃無効化の効果もあるのだよ!」
「え? 君それ持ってきたの?」
「もちろんだとも、邪智狡猾な悪は、一体いつ忍び寄って来るか分からないからね!」
ちらり、とブラックシープがタキシードの懐から覗かせたのは、なんと!あの正義の象徴たる金色の仮面だった! 得意満面の顔でふんすっ(二回目)、とこちらを見ているブラックシープの姿を、フラナガンは、これはもう本当にどうしようもないですね、といった顔で見ていたけれど、やがてふーっと深く深くため息をついた。それから、どうでも良さげにこう言う。
「まあリチャード・サードとの時も大丈夫そうだったしね。」
そしてフラナガンはようやく。さてと、と気持ちを入れ替えて。アイナに顔、というか黒い紗を向けなおす。アイナは、まるでなにか、夜を固めて作った像のように身動き一つせず立っていたのだけれど、フラナガンがその顔を向けるとともに、ゆらり、とまるで陽炎のようにして……その口が、開き、動き、言葉を紡ぐ。
「要件。」
「ダレット列聖者、装置。」
フラナガンはそこで軽く首を傾げた。
視線はアイナに向けたまま、続ける。
「不明。」
アイナは、すっと手を伸ばして。
ライカーンのうちの一匹に触れた。
軽く、その頬を手のひらで撫でながら。
似せ物の玩具のように口を動かす。
「詳細。」
「装置、目的。」
「L。」
「装置、動力。」
「夢力。」
「装置、製造者。」
「オイコノミア。」
「詳細。」
「不明。」
「不可能、ノスフェラトゥ。」
「可能、Beezeut。」
「Beezeut?」
「シャボアキン。」
「理解。ノスフェラトゥ、目的。」
「議定書。」
「シャボアキン、目的。」
「フラナガン神父。」
「関係者、他。」
「教会以外、全て。」
「全て?」
「世界。フラナガン神父、L、必然。」
「……求める。」
「不可能。」
「可能?」
「シャボアキン。」
「理解。」
「ノヴェンバー。」
「ノヴェンバー?」
フラナガンは、そのノヴェンバーという言葉を聞いて。少しだけ、何かを考えるようにして言葉を止めた。白い手袋に包まれた、手のひらと手のひらを、顔の前で静かに合わせて、その人差し指のあたりを鼻のあたりに当てる。俯いて、静かに思考する。ノヴェンバー、ノヴェンバー、ノヴェンバー。少し、本当に少し、厄介なことになってきたのかもしれない。けれど、それならばなぜNHOEが? もしかしたら、事態はフラナガンが考えているよりも、実際は複雑なのかもしれなかった。けれども、とにかく、分かったこともある。もしもリチャード・サードの線を追えないようだったら、他に考えられる方法は、二つあるということだ。。
シャボアキンと、ノヴェンバー。
この二人の内であったら。
まだシャボアキンの方がやりやすい。
そこまで、フラナガンが考えた時。
急に、無神経な大声で、思考を破る。
「フラナガン神父!」
「わっ!」
驚いて、フラナガンは声を上げてしまう。
ブラックシープが、その顔、というか黒い紗を。
まじまじと、その夢を見るような顔で覗き込んでいた。
「え、なに? びっくりした……」
「ハウス・オブ・ビューティは何だって!?」
「あーと、ごめん、もうちょっと待っててね。」
そういうと、フラナガンは。
またアイナの方を向いて。
「継続。」
「許可。」
今度は、別の目的で。
その質問を始める。
「リチャード・グロスター・サード。」
「野良。」
「楊春杏?」
「肯定。」
「装置、関係?」
「肯定。」
「求める、解除?」
「肯定。」
「目的。」
「L。」
「不可能。不知。」
「オイコノミア。」
「詳細。」
「不明。」
「……居所。」
「常時変化。」
「ホワイトローズ・ギャング。」
「野良。」
「野良?」
「肯定。」
「メンバー。」
「キューカンバー、パイプドリーム、ヴァイオリン。」
「他。」
「ライカーン、スペキエース、人間。」
「グール。」
「契約。」
「グール、目的。」
「L、再来。」
「理解。装置、解除方法。」
「鍵、五。」
「鍵、解除方法。」
「殺す、夢。」
「鍵、解除方法。」
「始祖、スナイシャク。」
「理解。」
そこまで話すと、フラナガンは。
黒い紗の奥で、すうっと目を細める。
アイナは、ライカーンの首筋を撫でていて。
そして、フラナガンは言う。
「ユア・マジェスティ。」
軽く肩をすくめて。
面白くもない冗談を言うように。
「求める、リチャード・グロスター・サード。」
「許可。無関係。」
アイナの背は至極高い。
ノスフェラトゥの体。
二匹のライカーンよりも。
もちろん、フラナガンよりも。
まるで、全てを見下ろしているように。
フラナガンは、そのアイナに。
深く一礼をして、こう言う。
「感謝。」
それから、ふっとブラックシープの方に振り返った。ブラックシープはまるで餌を待つ子犬のようなおとなしさ(ブラックシープにしては非常に珍しいことだ)で、フラナガンの方をじっと見ていたのだけれど、それに対してフラナガンは、子犬に投げ与える餌のようにして、他愛もなく口を開く。
「ジョーンズ。」
「なんだい、フラナガン神父!」
「帰ろうか。」
「帰る?」
「聞けることは全部聞いたよ。」
「本当かい!? ハウス・オブ・ビューティは……」
「帰ったら話してあげるよ。」
軽くブラックシープをいなしてから。
フラナガンは、最後に、アイナの方を向く。
アイナは、ふ、と闘技場の方に目を落とす。
その時に、ボックス席の外側、下の光景から、一際大きな叫び声が聞こえてきた。壊れた拡声器が発する甲高い騒音の様なその声の後ろでは、波が静かに満ちていくような、息を飲む時の音ほどに、ささやかな歓声が、少し興奮したように笑っている。フラナガンとブラックシープのいる場所からは見ることができなかったけれど、フラナガンには何が起こったのかは分かっていた。先ほどのしかかられていた男の両の眼球を、もう一人、のしかかっていた男がえぐり出していたのだ。フラナガンは静かに目をつむり、アイナとともにその光景を見ている。両目をなくして、見世物台の上に、のたうち回っている男を見ている。それはフラナガンの趣味ではなかったのだけれど、悪くない、繊細な旋律はないけれど、その分荒々しい鼓動を感じている。
もう、勝負は決まったのだろう。
のたうち回る男に、もう一人が近付いていく。
息も荒く、手を前に付きだすようにして。
己が生きる、ただそれだけのために。
フラナガンは、静かに目を開いた。
そういえば、といったような顔をして。
一つだけ、付け加える、といったように。
目の前のアイナに向かって言う。
「グール、戦争。」
アイナはまがい物の笑顔のままで。
顔を闘技場の方に傾けたままで。
冠は漆黒の輝きを放っていて。
そして、合成音のように無感情の声でこう答える。
「アルフィンテ、ベルケハム、ワルトー。」
当然だった。
この国には、三羽の天使がいる。
何も心配することはない。
フラナガンは、黒い紗の奥で。
薄く笑って、それから言う。
「理解。」
「NHOE、NHOE、NHOE。」
『何ですか、フラナガン神父。』
「君は一体、僕に何を隠しているんだい?」
『隠している?』
「君は一体、このことについて何を知っているんだい?」
『このこと、とは何のことですか?』
「どうやら、この世界は、二年前の世界とはずいぶん変わってしまったようだ。僕の知らないことが多すぎる。そして君はどうやら僕の知らないことを知っていて、それから君は僕を、僕の知らないうちに、何かに利用しようとしているらしい。別にそのこと自体は構わないんだけれどね、何せ、これは平等な契約ではないのだし、雇い主は彼で……NHOE、君は彼の保護者のようだから。けれどやっぱり、少しだけ気になるんだよ、NHOE。僕には、例えばこういうことが……君は、一体、僕に、何を、させようと、して、いるんだい?」
『言ったはずです、フラナガン神父。』
「なんて?」
『まだ、時が来ていないと。』
「NHOE、NHOE、NHOE。確かに君はそう言ったよ、NHOE。けれどね、どうしても気になってしまうんだ、二年前の僕には……知らないことは、何一つなかったから、本当に、何一つ。何か本当のことを僕から誰かが隠している、そういった状況にはあまり慣れていないんだ。」
『時が来れば、お教えすると。』
「じゃあ……NHOE。理由だけでも教えてくれないかい? 今、この場所で、なぜ僕にそのことを教えることができないのか、ただ、その理由だけでも。」
『私があなたにそのことを教えることができない理由については、あなたが一番よくご存じのはずですが。』
「まあ……そうだね。もし僕が君だったら、僕は僕に何かを教えることはしないだろう。」
『ご理解頂けたようですね。』
「……アイナに話を聞いてきたよ、NHOE。君の求めた通りにね。」
『それは、ありがとうございますフラナガン神父。』
「アイナは言っていた。それについて知っている人間は、シャボアキンとノヴェンバーの二人だと。」
『そうですか。』
「ノヴェンバーが、知っている。」
『そうですか。』
「それがとても気に食わないんだ。」
『そうですか。』
「他の誰も知らずに……ことの当事者であるシャボアキンを除いて、って意味だよ……ノヴェンバーだけがそれを知っているっていう時は、たいてい物事が全て悪い方向に行くときだけだ。そうだろう? いつだってそうなんだ、彼はまるで、この世界の、不運の神のようなものだからね、もちろん比喩的な表現で、彼は神ではないけれど。とにかく、何か嫌な予感がするんだよ、例えばこの世界が……僕の美しい世界が壊されてしまうのではないか……そういった、予感がね。」
『そうですか。』
「……君はどうやら、僕に何かを教えるつもりは、まるでないらしいね。少なくとも今の時点では、って意味だけれど。」
『はい。』
「本当に残念だよNHOE。この頭の中に、僕を殺すものさえ埋まってなければ、君に対して色々なことができただろうに。」
『しかしあなたの頭の中には、それが埋まっています。』
「そうだねNHOE、その通りだ……その通りだよ……だから僕は君に口付けさえできないんだ……銀の盆にのせたその首に、僕の、僕の、口付けさえも……けれど、それもやはり些細なことなのかもしれないね、NHOE。この世界はきっと……変わってしまったのだから。」
『そうですね、ファーザー・フラナガン。この世界は、変わってしまったのかもしれません。』
「ねえ、NHOE。」
『なんですか、ファーザー・フラナガン。』
「もう一つだけ質問していいかな?」
『どうぞ、ファーザー・フラナガン。』
「オイコノミアって、なんなんだい?」
『それは時が来ればお教えいたします、ファーザー・フラナガン。』
「そうかい、それは……とても残念だよ、NHOE。」




