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#15 無原罪の青

 その少女は退屈そうに笑って。

 「悪い話をするつもりはないわ」と。

 その少女は真っ黒な髪をしていた。その少女は真っ黒な目をしていた。その黒い色は、まるで……それ以外の世界の、全てを拒否しているような黒だった。その黒には何物も触れることができず、その黒は、ただ独立してそこに存在しているだけの黒い色だった。髪は首のあたりでぱっつんと切りそろえられていて、そしてその下には存在そのものが薄らいで溶けてしまいそうな白色の肢体が繋がっている。その肢体を包んでいるのは、これもまた、体の色と変わるところがなく、境目もほとんどわからないくらいの白いひらひらとしたくらげみたいなワンピース。ガラスでできたような透明の靴と、それから透明な手袋で手足を包んでいて、その白の内側を切り裂いているかのように、真っ黒なリボンが一本、プレゼントみたいな蝶々結びで体を結んでいて、あるいはその少女の体を、この世界に繋ぎとめているのかもしれない。それから、青いヘッドバンドをしている。まるで愛を失った女の目を通してみた、世界の色のような青いヘッドバンドを。

 その少女は、ルーシー・バトラーと名乗ったその少女は、初めてハッピートリガーに向かって口を開いた時に、まるで透き通ってひび割れたような、どこか遠いところのような声をして「悪い話をするつもりはないわ」と言ったのだ。すうっと目を細めて、薄く笑いながら「あなたと取引をしたいの」、と。でもそれはもう何日も前の話だった、そして今日、あの時と同じようにして、その少女は、ルーシーは、ハッピーの目の前にいた。

 ここは、ダウンタウンにある幾つかのクラブのうちの一つ、その幾つかのクラブの中でも、ハッピートリガーの持っているクラブのうちの一つだった。ブラッドフィールドにあるクラブの種類は、此の世にある他の全てのものと違い(例えば人間であれば搾取する人間と、搾取される人間といったように)二種類に分かれることなく、たった一種類しか存在していない、つまり、その全ては搾取するためのクラブだ。エンプティ・ダンプティが経営しているものであれ、スローターハウスが経営しているものであれ、その目的は一つしかない、ダウンタウンで生まれ、ダウンタウンで育った不運な若者たちを、この中に呼び込んで、堕落させ、薬漬けにし、そしてやがては組織の歯車として取り込むための装置の一つでしかない。この場所も、やはり。

 建物の外にまで流れる大音量の音楽は犠牲者を惑わせて呼び込むための蜜の匂いのようなもので、名ばかりの会員制はそれらの犠牲者に対して自分は特別だと思わせるためのシステムで。そして、この装置はまるで夜道の自動販売機のように良く働くのだ。今も、この装置の内側には、犠牲者が満ちていた。皆が皆、何か原始的な宗教の儀式ででもあるかのように、閉じ箱のようなホールの内側に流れている、心臓のテンポとまるで同じテンポで流れる、電子的に合成された重低音に合わせて、両手を振り、両足を踏みしめている。大半が薬を使っていて、残りは薬を買う金がない。

 そのホールの奥まったところ。

 目立たない廊下の方を進んでいく。

 光の雨で飾り立てられたホールを抜けて。

 その先の、鋼鉄でできたドアの向こう側。

 ホワイトローズ・ギャングの拠点の一つ。

 そこに、ハッピートリガーとルーシーはいた。

 その部屋は、まあまあ大きい部屋だった、本当は、倉庫として使われていた部屋だったからだ。部屋に入ってすぐ、たくさんの檻が積み重ねられて、並べられているのが分かる、その檻は、中に入っている物の種類によって一応は分けられている、少年と、少女と、ライカーンと、それからスペキエース。少年と少女、ライカーンとスペキエースは、それぞれで大体購買層が一緒で、大まかに二つに分けられるけれど、もちろん少年や少女の使用用途でライカーンやスペキエースを買う人達もいるので、そこら辺の区別は余り徹底していない。むわっと、閉じ込められた人間の体臭と、それから檻に繋がれたパイプに垂れ流された糞尿の匂いが、部屋の中に漂っていた、それから、檻の中ですすり泣く人々の声と。もう無意味だということは知っているから、叫んだりして、助けを呼ぶような商品はいない。

 その檻の山から、一つだけ。

 他の檻から、離されたようにして。

 小さな小箱のように、檻が、置かれている。

 大型の動物を閉じ込めておくような、その檻の中。

 ゆったりとした、ソファーが一つ置いてある。

 そして、そのソファーの上に。

 ルーシーは横たわっていた。

 ハッピートリガーと、向かい合うようにして。

 ハッピートリガーは、その檻のすぐ目の前に、わざとらしく置かれたテーブルをはさんで、その向こう側のソファーに座っていた。檻の中のソファーと檻の外のソファーは、テーブルをはさんで向かい合っている、まるで二人が対等のものであるかのようにして。ハッピートリガーの座っている方のソファーの後ろにはグレイが控えている、彼女はハッピートリガーのボディーガードみたいなものだったので、いつも一緒にいた、パウタウはいなかった、彼は別のところで別の仕事をしていた。ルーシーと、ハッピートリガーと、グレイと、それから、ハッピートリガーはその腕の中に、というか膝の上に寄りかか掛けるようにして、一人の女を抱いていた、素裸の、人間の女で、別にこの女について長々と描写することもできるけれど、それは無駄なことだ、この女、は、ハッピートリガーがその中のスナイシャクを喰うための、ちょっとした菓子のようなもの、軽食的なものに過ぎない。なので、ここでは仮に軽食Aと呼ぶにとどめる。

 さて、舞台装置の説明は終わった。

 止めていた時間を、物語を進めよう。

「それで?」

 ルーシーはソファーの肘掛に肘をついて、その先の手のひらで、退屈そうな表情を隠そうともしない顔を支えていた。ほとんど寝椅子に横たわったような格好で、足だけがかろうじてゆらゆらとソファーの下で揺れていた。ガラスの靴がきらきらと、檻に差し込む蛍光灯の光を反射する。

「何か、言いたいことがあるみたいね。」

「ああ、まあな。」

 ハッピートリガーは不機嫌そうにそう言うと、くうっと吸痕牙をむき出しにして、腕の内側でもてあそんでいた軽食Aに口をつけた。一際大きく軽食Aの体は痙攣して、白い眼をむく。口の端からは、よだれが滴っていたけれど、これは下ごしらえとして注がれていたある種の薬のせいだった。本当にそれを体の内側に取り込むことで味が変わるのかは分からなかったけれど、少なくともハッピートリガーはスナイシャクが濁るような、そんな味になるのだと主張している。

 一口分のスナイシャクを吸うと。

 またその首筋から口を離して。

 ハッピートリガーはルーシーに言う。

「気に食わねぇんだよ。」

「気に食わない?」

「ああ。」

「何が?」

「全てが、だ。」

 ルーシーはふうっとため息をつく。

 小さい口を、陽炎のように揺らめいて。

「あなた、まるで聞き分けのない子供みたいね。」

 すうっと、癖のようにして目を細める。

 あくまでも退屈そうな顔のままで。

「何が、気に、食わないの?」

「今日、二つ目の鍵を開けた。」

「そう、それは良かったじゃない。」

「フラナガンに会った。」

「フラナガン? 誰のことかしら。」

「エドワード・ジョセフ・フラナガン。」

「そう、知らない人ね。」

「とぼけるな。お前があの男を知らないはずは……」

「知らないと。」

 ハッピートリガーの声を途中で遮るように。

 ルーシーはそう言った。

「言ったはずよ。」

 自分の手の先、爪の先を。

 つまらなそうな顔で、見下したままで。

「あなたが……あたしがそのフラナガンという人間について知っていると思うのは、個人の自由だけれど、その思い込みを私に押し付けるのはやめて頂戴。話の通じない馬鹿は、とても嫌いなの。」

 薄く笑う。

 黒いリボンが揺れる。

 ハッピートリガーは苛立ち紛れに

 軽食Aの小指を折る。

 軽食Aは口の中で。

 夢を見る様に唸る。

「フラナガンは言っていた。」

「何て。」

「俺が、誰かの思い通りに動いていると。俺は、そいつの計画の……そいつの計画のために動いている操り人形に過ぎないと。ちなみに、その誰かってーのはあの装置を作ったやつだそうだ。」

「そう。」

「それは……」

 ハッピートリガーは、口の端を歪めるようにして。

 非常に不愉快そうな顔を作って、続ける。

「お前か?」

 ルーシーは、爪の先を見ていた目を外して。

 見下すようにして、ハッピーに向ける。

 ハッピートリガーは、そんなルーシーの視線に向かって。

 挑むような口調で、もう一度問いかける。

「あの装置を作ったのは、お前なのか。」

「残念ね。見当を違えている。」

「それなら誰があれを作ったんだ?」

「あれは、私が作ったものではない。」

 軽く首を傾けて、ルーシーは椅子の肘掛に寄りかかった。

 うっとりとした唇で、淡く笑いながら言葉を続ける。

「それ以上を、あなたに教えるつもりはないわ。」

 そのルーシーの言葉を聞いた瞬間に、ハッピートリガーは逆上したようにして、座っていたソファーから跳ねた。檻のソファーと外のそれとの境になっていたテーブルに、片方の膝をついて獲物に襲い掛かるような姿で飛び乗る。伸ばした右手の先、マグナム弾を放つような大型拳銃の、その概念のような、そんな形をしたライフェルドガンを握っていて、そしてそれをルーシーに向けている。ぎりっと奥の歯を噛みしめて、けれどルーシーは、そんなハッピートリガーのことを気にするようなそぶりも見せず、いかにも眠そうな目つきのままで、あくびをするように口を開く。

「少しは面白いことをするのね。ほんの少しだけど。」

 それからソファーの上に起き上がって。

 首を手のひらで押さえながら、続ける。

「その指先で、その引き金を引いてみればいいのに。」

 ルーシーのその言葉に反応するようにして、ハッピートリガーの膝から転げ落ちた軽食Aが、今更あえぐような声を上げていた。何か薄ぼんやりとして、爪の先で雲をそぎ落とそうとするような、そんな声だった。グレイは後ろで、ただじっと立ったまま、その光景を見ているだけで。ハッピートリガーは、銃口をルーシーに向けたままで話を続ける。

「お前は俺に何をさせようとしている?」

「私はあなたにLの封印を解いてほしいの。それだけ。」

「それがお前にどんな利益をもたらすんだ?」

「私の利益のことは私が考えればいいことじゃないかしら?」

「俺は他人様の思い通りに動くつもりはない。」

「奇遇ね、私もよ。」

「話を混ぜっ返すんじゃねぇよ。」

 ハッピートリガーはそういうと、少し落ち着いたらしく狩りをする動物のような姿勢を解いた。屈めていた膝や背を伸ばして、机の上にすっくと立ちあがる。右手を軽く自分の顔の横で振って、ライフェルドガンをまた自分の精神の中に溶け込ませ、消す。

「俺も、お前が思っているほどには愚かじゃない。」

「そうであることを願っているけれど。」

「つまり、フラナガンの言うこと、あの男が言ったことを疑うほど愚かじゃないという意味だ。この話は何か気に食わないところがある。俺に見えないところ、俺を操ろうとする誰かの匂いがする。」

 そう言いながら、ハッピートリガーは机の上から床の上に、軽く跳ぶようにして降りた。その床の上に、ぐったりと寝転がるようにして、膝から滑り落ちた時のままの姿勢だった軽食Aの首を攫うようにして片方の手で掴んで、ソファーの上に引きずり上げる。その隣に自分も座ってから、少しルーシーの方に乗り出すようにして、それからまた言葉を発する。

「その匂いの元は、お前か、お前の後ろにいる誰かだ。」

 ルーシーはソファーの背に怠惰に凭れて。

 肘掛に両の手を乗せて。

 行儀の良いお人形のような姿をして。

「あくまであなたは、私と自由意思で取引をしたはずよ。」

「ああ、そうだな。」

「それなら、私に帰るべき責めはないんじゃないかしら。」

「お前が隠し事をしていたなら別だ。」

 ハッピーはイライラと貧乏ゆすりをしながら。

 ぎいっと吸痕牙をむき出しにする。

「俺は余り人間の世界のことに詳しくないんだけどな。公正な取引っていうはその取引を結ぶお互いに、情報が対称な形で所有されてなければいけないはずじゃねぇのか? 今回の件について、俺はほとんど何も知らない、それに対してお前はほとんど全てを知っている、ように見える。もしそうならば、これは、公正な取引じゃないはずだ。」

「別に私としても。」

 いかにも馬鹿に諭すような声で。

 ルーシーはハッピーに言う。

「公正な取引を結んだつもりはないのだけれど。」

「だろうな。」

「あなたはLの力に至る方法を求めた。私はそれを与えた。」

「ああ。」

「あとは、あなたの問題よ。もし私が何か……あなたがその通り動くようなことを望んでいたとして、あなたがその通りに動くかどうかは、あなたの勝手。そうでしょう? そこから先は、私の責任ではないわ。あなたの自由にすればいい。」

 ハッピーは、ぎりっとまた歯を噛みしめて、そして手のひらを強く握りしめた。爪の先が、その手のひらの皮膚を裂いて、血が出るくらいに強く。気に食わない、全てが気に食わなかった、この少女の。この少女は、なぜか……その精神を、ほとんど読むことができなかった。ノスフェラトゥの精神感応能力を超える、何らかの対テレパシー防御技術を持っていることは間違いなかった。しかし、かろうじて読める思考が伝えることは……それが、本当に、この少女の思考であると仮定するのならば……この少女の言っていることは、大体において真実であるということだった。それを信じて良いのか? 分からない、全てが霧の奥に潜んでいるかのように、その奥でこの少女は、笑っていた。そのせいで、もとからハッピートリガーもこの少女から何かの情報を明確な形で得られるとは、さらさら考えていなかった。けれど、ここまで嘲弄されるとはさすがに思ってはいなかった。

 この話の始まりの全ては。

 つまり、この少女がもたらしたものだ。

 檻の内側から、この少女は言った。

 「あなたと取引をしたいの」と。

 それを、ハッピートリガーは受け入れた。

 受け入れるべきではなかったのか? いや、そうではなかった。それ以前の問題だった。この少女に、出会うべきではなかった、つまりそういうことだった。蠅が蜘蛛の巣に近づいてはいけないように。この少女に出会うべきではなかった。けれどハッピートリガーはこの少女に出会ってしまった、つまりはそういうことだった。あとは、蜘蛛に全てを食らい尽くされないうちに、その巣の呪縛から逃げ出すしかない。

 ハッピートリガーは軽食Aの手を取り。

 一本ずつ、指を折り始める。

 さっき折った小指は別にして。

 薬指からゆっくりと。

 スナックは、快楽とも苦痛とも分からない。

 曖昧な喘ぎ声でうめく。

 もしも、もしも何かこの少女か、あるいはこの少女の後ろにいる何者かが求めているものがあるとしたら。恐らく、封印されていたLの力だろう、ハッピートリガーの求めているものと同じもの。この封印を解くことができずに、ハッピートリガーの力を借りて、それを解こうとしている。手に入れようとしている、Lを。それならばハッピートリガーとしては、この少女か、その何者かの裏をかいて、その力を手に入れればいい、ということだ。それしか、方法はなかった、この巣から抜け出る方法は。Lの力はこの世界のルールを変えてしまえるほどのものだ、それさえ手に入れれば、全てはハッピートリガーの思い通りになるはずだった。

 これしかない。

 方法は。

 けれど。

 けれど。

 けれど?

 けれど、けれど、けれど。フラナガンは、この装置を作った者が、ハッピートリガーを操っているといったはずだった。もしも、それが本当のことだとしたら、なぜ? なぜLを封印した者が、その封印を解こうと求める? 封印する前に、それを手に入れればよかったのでは? 左手の、薬指、中指、人差し指、親指。右手の、親指、人差し指、中指、薬指、小指。何かがおかしいはずだった。けれど、ハッピートリガーには、何がおかしいのか分からなかった。もっと……情報を集めなければ、いけないのかも、知れない。しかし、それは、一体、どうやって?

 ハッピーが、そこまで思考を巡らせた時に。

 すっと、ルーシーは片方の手を持ち上げて。

 天井の方を、指さして、当たり前のように言う。

「気が付いていた?」

「いや。」

 すぐに、精神を右の手のひらにまとわせて。

 ハッピートリガーは「いや」というその声と共に。

 ルーシーが指さした方向に、それを放った。

 片方の手で持つには、あまりにも長すぎるように思われるバレルを、しかしハッピートリガーは右手だけで軽く差し上げていて、それはまるでショットガンのように見えて、そして確かにそのライフェルドガンはショットガンであったらしい。放たれた弾丸は天井に当たる直前に熟しきった金属色の柘榴のようにして弾けて、ルーシーの檻の真上、一キュビトに四方の範囲にまんべんなく被弾した。天井の裏で、まるで金属同士が強くぶつかり合うみたいなリズミカルな音がする、何もない天井を貫く時の、虚ろな金管楽器のような音ではなく、打てば響く打楽器のような音。何かが、天井裏にいる、何かが、潜んでいて、ハッピートリガーとルーシーの話を聞いていた、ようだ。穴だらけになった天井は、やがてその者の、潜む者の体重を支え切れなくなってきたらしい、ぎしぎしと、悲鳴のような音を立て始めて、そしてその瞬間に、その一ダブルキュビト四方程度の範囲だけが、崩れて落ちた。コンクリートやモルタルが破片になって飛び散って、その煙と共に、ルーシーの檻の上、一塊の影が落ちてきた。

 夜よりも暗い黒をしたマントで。

 庇うようにその身を包んだ影。

 その影は、まるで黒に潜む死神のように。

 その球形の防御の形を解くと。

 残骸の上、煙の中に立ち上がる。

 真っ黒なマント。

 真っ黒なフード。

 ノヴェンバー。

「はん、どこから湧いてきやがった?」

 言いながら、ハッピートリガーは自分の体の前に、両方の腕を差し出した、既に右手のショットガンは解いてあって、それからその両方の手のひらの中で、ハッピートリガーの精神は二つの金属の塊を生み出す、どちらの塊も、先ほど激昂した時にルーシーに向かって突きつけたような、大口径の拳銃の形をしていた。ブラッドフィールドの人間なら大抵は知っていることだけれど、ノヴェンバーのマントは防弾性だ、しかしこのマグナム弾なら貫くこともできるだろう。まるで象が蟹の甲羅を踏み砕くようにして。

 二発の弾丸が放たれる。

 檻の上の影に向かって。

 ノヴェンバーに向かって。

 黒い色をした死神の化身のような姿は、まるで夜がこの街の上を進んでいくその軌道みたいに緩やかに、瓦礫の上を足で蹴って跳んだ。弧を描くマントの下隅を、弾丸のうちの一発が貫いて、鈍い音を立てて穴を開ける。しかしノヴェンバーの体のおおむねのところは、かるがるとその二発の弾丸を飛んで避けて、そしてノヴェンバーは、ルーシーの檻の上から、床へと音も立てずに飛び降りた。

「あまり人の頭の上で騒がないで欲しいわね。若いほうのノヴェンバー?」

 ぐったりとソファーの上に横たわって。

 ルーシーはそう言うとくすくすと笑った。

 一方のノヴェンバーは、そのルーシーの言葉に言葉を返すこともなく、片方の手を腰に巻いていたベルトの、そこについている幾つかのポーチのうちの一つにやった。それは、まるでブラックシープが使っているベルトと、それからポーチとほとんど同じような形と、仕組みをしていて、そしてノヴェンバーはその中から三つ、小さなボールのようなものを取りだした。手品師のように指の間に挟む手つきといい、そのボールを放り投げる体の動きといい、それからそのボール自体さえも。それは、まるで、シープ・スモークと同じように見えた。

 ぷしゅーっと音を立てて。

 ボールから、黒い煙が噴き出す。

「ルーシー・バトラー。」

「なあに、若い方のノヴェンバー。」

「私はオイコノミアの正体を突き止める。」

「そう、楽しみにしているわ。」

「必ず。」

 声をかき消すように。

 煙は部屋中に充満して。

 ねとつく液体のように感覚を奪う。

 想定しうる全ての感覚を。

「グレイ!」

 煙で姿が消える直前に、ハッピートリガーは辛うじてそれだけを叫ぶことができた。けれど、グレイはその命令が発せられる前にすでに動いていた。ノヴェンバーがシープ・スモークっぽいものを放ったその直後には、獣のようにその姿は跳ねて、そしてノヴェンバーの方に襲い掛かっていた。煙はそのルーシーと、飛び掛られたノヴェンバーの姿を覆って、それを次第に隠していく、そのノヴェンバーの逃走のための闘争の、姿と形だけでなく、音さえも吸い取っていく。何が起こっているかは分からない、けれどグレイは、確かにその腕の中に、何かの手ごたえを感じていた。

 一方で、ハッピートリガーはこの部屋に設置してある煙幕換気用空調機器(ブラッドフィールドのギャングの秘密基地にはたいていこういった便利なものが取り付けられている、他にも色々なものが、費用対効果の通じる限りにおいて)の方へと、手さぐりで煙を引き裂いて進んでいく。何も見えない、感覚さえも惑わす煙を。

「ハッピー?」

「なんだよ!」

「そこから右へ三歩進んだところよ。」

 そして、ルーシーの声だけが、まるでこの光景の全てを茶番として認識していて、そしてそれを楽しんでいるかのような口調で、ハッピートリガーに向かってそう言ったのだった。けれど、この声はどうやって聞こえているのか? この煙に吸い込まれることもなく? いや、それ以前にルーシーは、この黒煙の中、見えているのか? ハッピートリガーは、一瞬だけ、それを訝しんだ、けれど、今はそんなことを気にしている状況ではなかった、言われた通り右へ三歩進むと、その手の先、換気用のレバーに当たる。

 強く、そのレバーを引く。

 カタカタカタン、と音を立てて。

 ブラインドのように壁の片側が開く。

 ごうっと、そこに向かって。

 部屋中の空気が吸い込まれていくように。

 ねとつく黒い煙が、あっという間に排出されていった。顔を腕で覆って、ハッピートリガーはその風に巻き込まれないように足を強く支えにしていたけれど、やがて風の勢いは収まって、ようやく目を開くことができる。黒い煙が払われた部屋を見渡して……けれどすでに、そこにはノヴェンバーの姿は見えなかった。ただ、部屋の真ん中でグレイが、その本当の存在から切り離されてしまった影のようにへたりと残されている、ノヴェンバーのマントを組み敷いているだけで。ハッピートリガーは、さも忌々し気に舌打ちをする。

「すまない、リチャード。」

 グレイは、そのマントを軽く手に持ったままで立ち上がって、ハッピートリガーに向かってそう言ったけれど、言われた方のハッピートリガー自身はそれをまるで気にすることもなくルーシーの方を見た。ルーシーはソファーの上に長く横たわっていて、くすくすと、まるで喉の奥を鳴らすように笑っていた。さも面白そうにして。

「何が面白れぇんだよ。」

「あら、ハッピートリガー。ご機嫌斜めね。」

「何が面白れぇのかって聞いてんだよ。」

「ふふふ、なんでもかんでも思い通りにいってしまったら、まるで面白くないじゃない。」

 くすくすと笑い、そしてルーシーはまるでハッピートリガーの言葉にまともな返事を返すつもりがないかのようにして。ハッピートリガーは苛立たし気に奥の歯をぎりっと噛みしめて、それからつかつかとルーシーの入っている檻へと威圧するように近づいていく。

 横たわって見上げるルーシー。

 鉄格子を掴んで見下ろすハッピートリガー。

「若い方のノヴェンバーっつーのはどういう意味だ?」

「さあ。」

「オイコノミアっつーのは何なんだ?」

「なぁに、それ。」

 ハッピートリガーは強く檻を蹴り飛ばした。

 がぁんという大きな音が響いて。

 鉄でできた格子がぐにゃりと凹む。

 けれど、ルーシーはまるで気にすることもなく。

 くすくすと、笑いながら身をよじるだけで。

 ハッピートリガーはぶすっとむくれたような顔をしたままで、またソファーの方に戻る。両方の手の全ての指が折れていて、その部分が変な色に変色しているスナックの体は、まるで空気人形みたいにしてソファーにぐったりと寄りかかっているだけで。そのスナックの頭と肩を掴んで、むき出しの首に吸痕牙を突き立てて。

 スナイシャクをその体から吸い出しながら。

 ハッピートリガーは静かに考える。

 自分の今の動きは? Lの封印を解くことだ。つまり、ハッピートリガーの動きを操って人間がいるとすれば、論理的に考えて、その目的はLの封印を解くこと、ということになる。自分はなぜそれを開始した? 目の前にいるこの少女、ルーシー・バトラーに、それを教えられて。それならば、論理的に考えて、ハッピートリガーを操っている誰かは、この少女、ルーシー・バトラーか、もしくはこの少女が操られていたとしても、その後ろにいる誰か、ということになる。ここまではいい、ここまでは。けれど、フラナガンは、言っていた、Lの封印を作った人間が、ハッピートリガーを動かしていると。ハッピートリガーは、その人間に所有されている、一挺の拳銃に過ぎないのかもしれない、と。

 なぜ? なぜ封印をしたその当人が、封印を剥がそうとする? 何の理由があって? 何の目的で? いくつか理由は考えられる。その当時には何らかの理由があって、封印せざるを得なかったけれど、今になって封印を解いてもいい状況になった、という理由が。説明はつく、つけようと思えば。けれど、ハッピートリガーにはどうにも気に食わなかった、何かがおかしいという感覚、まるでそれを、フラナガンに埋め込まれたかのようにして。まるで肉の中にうずめられた石の欠片のようにして、不信はその頭の中に巣食っていた。誰かが、ハッピートリガーを、操っている。そして、ハッピートリガーは、その、思い通りに。

 全てが気に食わないことだった。

 けれど、今の段階ではどうしようもない。

 ハッピートリガーに今できることは、Lの封印を解くその作業だけであった。Lの封印の要石になっている、夢を見るグール五鬼を、全て殺すこと。それが今のハッピートリガーの理由であり、目的であった。そうすれば、Lの力を、ハッピートリガーは手に入れられる、九年前にその欠片を身に宿した、月光国の二人の魔法少女のようにして。疑うのなら、実例はあるわ、とルーシーは言った。見せてあげる、とルーシーは言った。そして、それをハッピートリガーは見た。今少しでフェト・アザレマカシアの眷属を殺すことができたほどの力。しかもそれは、たった五分の一の欠片によって。Lをその身に宿せるということに、今ではハッピーの疑いはない。そのものが持つ、力にも。もっと、疑うべきは、別のところに。

 しかし今は、どうしようもなかった。

 とにかく、封印を解くこと。

 それまで、何もできない。

 向こうが動かない限りは。

 ハッピーにも、何もできないのだから。

 そして、封印が解けて。

 収穫のために向こうが姿を見せてきたら。

 その時に、それを殺せばいいだけのこと。

 そこまで考えた時に、まるでそれを見通しているかのようにして、またくすくすという、ルーシーの笑い声が聞こえた。何もかも、自分の思い通りになってしまっている、というように、少し退屈そうな、そんな響きを声ににじませた音。吸痕牙をスナックから抜き取ると、ハッピートリガーは野良犬の唸り声のようにルーシーに向かって言う。

「何、が、面白れぇん、だよ。」

「何も面白くないわ。」

 ルーシーは相も変わらずくすくすと笑いながら。

 まるでそれを隠すようにソファーに顔をつけて。

 ハッピートリガーに、こう言う。

「至極、退屈。」

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