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#14 虫を潰して素敵な絵を描く

 フラナガンの(公には本人は関係を否定している)組織の名前は。

 正式にはニガー・クイーン・コーシャー・カフェという。

 けれど、長すぎるのでみなコーシャー・カフェと呼んでいる。

 フラナガン的には若干、不満の残るところだ。

 さて、そのコーシャー・カフェはブラッドフィールドの五つの他の大ギャングと同じように、ブラッドフィールドの他にも世界各地に拠点を持っている(正確に言うと二年前までは持っていた)。そもそも、便宜的にブラッドフィールドの六大ギャングとは呼ばれているが、実際はその全てが国際的なギャングであって、決してパンピュリア共和国のブラッドフィールド一都市だけに納まっているわけではない。

 ブラッドフィールドは、ノスフェラトゥの非・感情的な人間への管理によって非常に世界的な港湾都市になっている。けれど、そのノスフェラトゥが、人間が罪悪と思うことに関してかなり無頓着であるが故の、犯罪への無関心とさえいえる寛大さ、あるいは夜警局内の汚職のはびこり、そういった幾つかの要因のせいで、犯罪組織がオーダー・ヘイヴンとして非常に使いやすいという理由。そのためにこの世界における、主要な五つのギャングが、自然と本部をこの街に置くことになった、つまりはそういうことだったのだ。

 コーシャーカフェは、世界中に拠点を持っている。

 そして、その拠点ごとの本部と言えるものは。

 全てが、トラヴィール教会の地下室に作られている。

 もともとトラヴィール教会は、ほとんどの国々(Beezeutに加入している集団に関しては月光国、エスカリア、ASK、それにブルーバード自治区を除いて全て)で、ある程度の教会内自治権が認められている。そのため、教会の置かれている現地警察機関が手を出しにくい。そういった、政治的な網目を、教会の権威によって潜り抜けるようにして、コーシャー・カフェは組織を広げていった。

 そして、その地区本部の全てを統括している。

 オールナイト・ニガー・クイーン・コーシャー・カフェ。

 長すぎるのでみな「オールナイト」とだけ呼んでいるが。

 ブラッドフィールド中央教会に巣食うようにして。

 その全体を覆う腫瘍のような形で作られている。

 司祭館の寝室に、銀門塔へ至る身廊に。

 そして、このドゥルーグの聖堂の、地下に。

 グールたちに、知られぬようにして。

 グールたちの、知らないうちに。

 グールたちの、知らない場所に。

 作ったわけでなく、ちゃんと許可を取りました。

 ペティラティスは、エプロンのポケットからマッチの箱を取りだすと、まるで虫が墓地の上を這うような、そんな甘やかな手つきで一本、その棒の先の燐に火をつけた。火はゆらゆらと揺れながらオレンジがかった赤色で燃えて、それからペティラティスは、自分の手のひらの上にその火を付けた。手のひらに浸された油が、ほうっと聞こえるか聞こえないかくらいのかすかな音を立てて燃え上がって、やがて手首から先の全てが、まるで松明のようにして燃え上がる。ペティラティスは火のついたマッチを、舌の上にのせて飲み下して。そして、ペティラティスはその燃える手の火をフラナガンのための光とした。

 けれどフラナガン神父様に光がいるのでしょうか?

 フラナガン神父様の、そのご自身がお光だというのに?

 ペティラティスは、防腐処置を施した脳で。

 例えばそんな夢を見ている。

 ペティラティスのひらめくような手の炎によって照らし出されたその場所は、湿ったような黴の匂いによってとろとろと空気を曲げられたような、石をくりぬいただけの、自然の洞窟のような、地下へ地下へと向かう、螺旋の階段だった。明かりのようなものは、一切その階段にはついていなかった。ただただ、暗い地の世界が獣だとしたら、その肉を食い破って、その内臓へと達しようとする、一匹の寄生虫の潜り込んだ、その軌跡のような道筋であった。その道筋を、その螺旋状の階段を、一段一段と、フラナガンと大手の先に立って、ペティラティスはゆっくりと降りていく。メードキャップから、二筋の飛行機雲のように流れて落ちていく二本の長い布が、淡く淡く闇の中に溶け去って行ってしまいそうに、二人を導いているように見えた。

 この螺旋階段の、先には。

 フラナガンが、ドロウイング・ルームと。

 呼んでいる、場所がある。

 階段をどこまでもどこまでも、まるで地の底に至るようにして、二人と一匹が進んでいくと、やがてその先に、ようやく光が見えてきた。それは……赤い光だった。火の光のようには見えない。電気の光のようにも見えない。ただ、それ自体として存在しているような、世界に充満する赤い色の光。螺旋は平面へと接して、岩をくりぬいたような階段は、レンガ造りの狭い廊下へと至る。本当に狭い廊下で、人が二人、すれ違うのがやっとというくらいだろう。ペティラティスは、その廊下の先へと、やはり口一つ開かずに、足音一つ立てずに、進んでいく。

 廊下の、両方の壁には。

 幾つも、扉が付いていた。

 錆びついたような色をした。

 鈍い、鈍い、金属の扉。

 一つ、二つ、三つ、それから先は数えきれないくらい。その扉は、まるで秩序か何かのように整列として、永遠のように赤い光の彼方まで並んでいる。その間隔からすると、それほど広くもない部屋だろうけれど、狭くもない部屋のように思われた。懺悔をするには広すぎるが、許しを与えるには狭すぎるほどの部屋。例えば、それくらいの大きさの部屋だ。そして、その部屋の、幾つかは静寂に沈んでいたのだけれど、その部屋の、幾つかからは、何か、遠い国のおとぎ話のような、声が聞こえた。その音色は、色々な段階に分かれていたけれど、術遍く形で、それは人間の恐怖と苦痛であった。例えば、すすり泣く声、例えば、うめき声、例えば、絶叫。絶叫は、助けを求め、あるいは罵り、あるいはへつらい、暴れまわるような音と共に。うめき声は、濁ったような匂いを放つ、血と肉の声であった、かろうじて意味をなしているが、それは訴えかけるものではなく、その人間が人間ではない状態になる、その過程をあらわしているようだった。すすり泣く声は、途切れがちに消え失せる様に溶け込んでいて、それは死にかけてはいるが、死ぬことは許されていない声。そして、静寂は静寂だった。

 このいくつも並ぶ金属の扉が。

 ドロウイング・ルームだった。

 フラナガンが、もてなしをする部屋。

 そして、そのハーモニカに開いた穴のように、幾つも並んでいる扉のうちの一つの前で、やがてペティラティスは立ち止った。フラナガンと大手もその前で立ち止って、フラナガンは大手に向かって、こう問いかける。

「ここかい? 大手くん。」

「はい。ここから続き三つの部屋に、それぞれ一人ずつお通ししました。また、この部屋にお通ししたのは……」

「ああ、名前はいいよ。どうせ、聞いても分からないからさ。」

 軽く困ったようにして。

 フラナガンはそう肩を竦めると。

 大手に向かって、こう依頼する。

「じゃあ、扉を開いて。」

 その言葉を聞くと、すっとペティラティスは手のひらを握って、今までフラナガンの足元を照らしていた炎を消した。そして、ポケットの中から錆びついた、妙に大きな鍵束を取りだす。じゃらじゃらと音を立てるその鍵束には、ほとんど数えることも不可能と思うくらいの、大量の鍵が取り付けられていて、しかもこの鍵束は決して唯一のものではなかった。つまりこれは、ドロウイング・ルームそれぞれの扉を開くための鍵で、その内の一つを器用にも取り分けて、ペティラティスは目の前の扉に差し込んだ。

 がちゃん、と音を立てて。

 鈍く錆びた音を立てて。

 扉が開く。

 この音は、素晴らしいものだ。

 鍵が入り、金属の扉が響かせる音。

 これは一つの、もてなしの流儀だった。

 フラナガンの、こだわりの一つ。

 電気仕掛けの音などに、代えることはできない。

 扉の中は……やはり赤い光にみちていた。口を開いて舌の上に乗せれば、その光はベリーのような味がするだろう。ラズベリー、ブルーベリー、ストロベリー。どこか酸味があって、そして鼻をつくような、そんな甘い味がする赤い光。初潮が来る前の少女のための、子供部屋くらいの大きさの部屋だ。レンガで組みあわされた、正方形の部屋。その中に、まるで趣味の良い調度品のようにして、飾り付ける様に置かれているのは、様々な拷問用の道具だった。上からつるされているのは、棘だらけの鳥籠のようなもの。床の上に転がっているのは、内側に何本も針がとりつけられた鋼鉄のマスク。端の方には目立たぬように火が立っていて、その上の器の中には、灼熱に熱されて、大量の石が入っている。壁際に置かれている薬棚には種々のガラス瓶が並び、そのすぐ横には何に使うのかわからない、大きな三角形の回し車の様なものが置いてある。ドロウイング・ルーム、ドロウイング・ルーム、ここはドロウイング・ルーム。全て、この部屋にやってきた誰かを、もてなすための道具。

 そして、この中心に。

 その男が、座っていた。

「やあ、久しぶりだったかい? 元気かな。」

 フラナガンはその男に向かって、親し気に話しかけながら近寄っていく(ペティラティスは入口の右側に立って、人形のようにじっと待機していた、大手はドアの外で待っている)。その男は、それほど歳はいっていないだろうと思われた、四十代の後半から、五十代の後半くらい。目立たない程度に白いものが混じった金髪をした、長身で少し太ったくらいの男。暴れまわったかのようにして、その髪型と、着ているスーツは乱れて、それから血と泥のようなもので汚れていて、そしてその男はイスに縛り付けられていた。頭を、金属の締め具のようなもので。両方の腕を、革のベルトのようなもので。ちなみに両足は、イスの下に置かれた何かを注ぎ込む器のようなものに、突っ込まれていた。その器の横には、上等の革靴が一足、左右ともに丁寧に並べて置かれていた。

 その男はフラナガンに向かって挨拶を返す。

 さるぐつわに阻まれた、悲鳴のような喘ぎ。

「そんな緊張しないで。楽にしていいよ。」

 フラナガンはゆらゆらと満足そうにポニーテールを揺らめかせながら、ポケットの中、銀細工のシガレットケースと、銀細工のライターを取りだした。シガーケースの中からラゼノ・シガーを一本人差し指と中指に挟んで、それを口に咥えようとした時に、ふと気が付いたみたいに、両手を(もちろんシガーを挟んだ指以外の部分を)小さく体の前で開いた。男の方を向いて、気遣うように問いかける。

「ああ、ごめんごめん。君も、吸うかい?」

 もちろん、明確な言葉の返答はない。

 ただ、いつまでも連続した、恐怖の呻き。

 涙の向こう側から、懇願する様な瞳。

 縛られた両手を、何とか動かそうとする無駄な努力。

 フラナガンは紗の奥で甘やかに微笑むと。

 ライターで、ラゼノ・シガーに火を付ける。

「大手くんから聞いたよ。いろいろ大変だったんだってね。僕がいない間。特に、オーバーウエポンの流通はお客様との信頼が大切だからね。僕があんなことになってしまって……ああ、もちろん、あんな話、濡れ衣だよ? 誰かが、僕を陥れたんだ。ねえ、言わなくても、君も、きっと、信じてくれていたと思うけれど。」

 男の縛り付けられた椅子の周りを、ゆっくりとした歩みでフラナガンは歩いて、その後ろ側へと回っていく。男の目はその姿を必死で追うようにして、まるで反対側にひっくり返るように。首を動かそうとしても、頭が締め具で止められているので、動かないから。男の視界から、完全に外れた真後ろに立って、男の座った椅子の背にそっとシガーを持っていない方の手を置いて。フラナガンは、シガーを持っている方の手で、軽く口を覆う部分だけ、紗をめくった。

 淡くラゼノ・シガーに口をつけた。

 ふうっと、口から垂らすように煙を。

 吐き出したそれは、男の顔を包む。

「それでも随分と、君達も頑張ってくれたらしいね。大手くんから聞いているよ、全部聞いている。僕がいなかった二年間のことは。僕の美しいニガー・クイーン・コーシャー・カフェがどうなったか、ということは。僕の手塩にかけて育てた、僕の所有物を、君たちがどう扱ったかということは。」

 フラナガンは。

 男の肩に、椅子に掛けていた手を。

 揺蕩うように滑らせる。

「全部全部、聞いているんだよ。」

 男は一瞬呼吸できなくなる。

 男は知っているからだ。

 この男がフラナガンであることを。

 その、フラナガンが、親し気に。

 かがみ込んで、そっと、耳元に口を寄せて。

 囁くように、言う。

「裏切者の、汚らわしい虫けら。」

 フラナガンは、またすうっと目を細めると、かがみ込んで曲げていた背を伸ばして、ふっと男の座っている椅子から離れた。その男はフラナガンを知っていたが、フラナガンはその男のことを(非常に残念なことに)知らなかった。顧客の顔はまあまあ覚えていたとしても、いちいち、有象無象の部下のことなど、一人ひとり覚えているはずもないから。ただ、大手くんから聞いたところによれば、オーバーウエポン流通経路を扱っていた三人の幹部のうちの一人で、例のブルーバード協定によって禁止されるディープネット製兵器を売りさばくための、ワトンゴラ・アーガミパータ系ラインを一手に管理していた男だということだった(これは、対スペキエース用オーバーウエポンの六十パーセントを管理していたという意味合いに等しい)(ちなみに残りの四十パーセントのうちの十パーセントはブルーバード自治区とブリスター向けで、フラナガン自身が管理していた)(その十パーセントについては、引き継ぐ暇もなかったけれど、たぶん大手くんか、あるいは……ウィリアム・マイルダーが引き継いでくれているだろう)。そして、フラナガンが「入院」すると、ほとんどそれと同時にエンプティ・ダンプティに寝返った男。武器の密輸ラインを、エンプティ・ダンプティに売って、その代わりに自分の身の安全と、より一層の繁栄を買った男。そういう話だった。

 ただ、その密輸ラインは。

 厳密に言えば、その男のものでなく。

 フラナガンのものであった。

 男は、悲しいことに、それを勘違いしていたらしい。

 フラナガンは、男の後ろから、蛇が地の底を滑るようにして男の横に体を移動させた。指先のシガーの煙がゆっくりと、蛞蝓の舐めた後のようにして、フラナガンの軌跡をたなびいて、それからまたフラナガンの口元に口づけをするように戻っていく。片方の手でシガーを吸いながら、もう片方の手でフラナガンは、男の椅子のすぐ隣に置かれた、テーブルの上を吟味し始めた。

「君は、ねえ、君は、僕との契約を破棄して、それからEDとの契約を結んだらしいね。もちろん、この国では職業の自由が保障されているし、きちんとした労働法も整っている、ああ、偉大なるハウス・オブ・グッドネス、そうだよね? つまり、それは、職業選択の自由は、君の権利だ、それを否定するつもりは、僕にはもちろんないよ。その時に、僕の密輸ラインの一部を勝手に持って行ってしまったらしいけれど……まあ、それはどうでもいいことさ、その時に僕はいなかったし、何にせよ君達は、僕と違って犯罪者なんだからね。犯罪者が物を盗むのは、しごく当たり前なことだ。僕だって、そんな些細なことに目くじらを立てるほど、愚かではないし幼くもないよ。君は完全に正当だし、決して、決して、責められるべき責はない。」

 テーブルの上には金属でできた、四角い盆が載せられていた。その四角い盆の上には、様々な道具が載せられている。ペンチ、のこぎり、針、メス、はさみ、洗剤、出刃包丁、ドリル、例えばそう言ったものだった。特に変哲がないような、どこにでも売っていそうな道具。しかし、これは……「たとえ泥によって枯葉の裏に掛かれようとも、真実はその光を失うことはないだろう」……それゆえに、芸術家のための、フラナガンのための、絵筆であり、また楽器でもあった。花に惑う蝶のようにして、その盆にひらめいていたフラナガンの手のひらは、金鎚の上で止まる。

「裏切者の、汚らわしい虫けら。」

 すっと、空を笑う蛇のように。

 フラナガンは、その金鎚を取り上げる。

「ただ、ただ、君のその顔が気に食わないんだよ。」

 ゆらゆらと陽炎のように。

 真夏の陽炎のように揺らめいて。

 フラナガンは、紗の奥で笑う。

「ぶよぶよと太って、醜く歪んだ、その君の顔が。」

 すっとフラナガンは、指先のシガーを落とした。

 その先には、いつの間にかペティラティスが跪いて。

 両掌を差し出して、灰皿のようにそれを受け止める。

 シガーを落とした指先は、そのままゆっくりと蠢いて。

 そして、拘束されたその男の手に触れる。

「ふふふ、大手くん、この皮膚の下に、ねえ、大手くん、骨があるのはおかしいと思わない? この手の持ち主は虫けらで、脊椎動物でなくて、無脊椎動物なんだから。虫けらに、ねえ、大手くん、骨があるのは、おかしいと思わないかい?」

 男の手は、よく見ると、手首だけが拘束されているのではなかった。その椅子の肘掛には、手首を止める大きなベルトが一つと、それから、指の先を止めるための、小さなベルトが五つ、それぞれついていて、男の手は、手首だけではなく、その指の先も拘束されていたのだった。フラナガンは、手の甲から、白い手袋の指先で愛撫するようにして、その男の指先へと、滑らせて。男の、親指から、人差し指、中指、薬指、そして小指へとたどり着き。

 そして、フラナガンは。

 金鎚で、その小指を叩き砕いた。

 さるぐつわの奥で絶叫が潰れる。

「関節を一つずつつぶしていこうね。骨を、少しずつ砕いていくんだ、指の先から。ねえ、大手くん。そういえば、あの万力は残っているかな? 特注で作らせたじゃないか、肉体の、他の組織を極力傷つけないように、骨だけをつぶせるようにして……ああ、あったあった、こんなところに隠していたんだね、大手くん。」

 そう言いながら、フラナガンは男の足元にかがみ込む。男の足先、くすぐるようにして指を走らせる。それを受けている、受け皿の中をのぞき込む。男の足は、フラナガンの言う通り、受け皿の中で、万力に挟まれて留められていた。一方で、その男自体は、がたがたと椅子全体を揺らすようにして暴れまわっている、きっと、何かを考えての動きではないのだろう、痛みを紛らわせるとか、この拘束から抜け出ようとしているとか、そんな小賢しい考えは、もう男の頭からは抜け落ちているのだろう。もしそんなことを考えているとしたら、そうだとして、男の動きは、あまりにも本能的に過ぎる。ただ、指の先の激痛と、それからこれから起こることへの恐怖が、危険な場所のゼリービーンズのように跳ねまわっていて、そのせいで体全体が暴走するのを、止めることができない、ただそれだけのことで。

 フラナガンは立ち上がって。

 柔らかく微笑むと。

 また男の耳元に口を寄せた。

 紗の向こう側、くっくっと。

 喉の奥を鳴らして笑うような声で。

 優しく、優しく、囁く。

「きっと汚い肉の袋みたいになるよ、べとべととした汚らわしい液体と、この男の腐った肉は、体の中で、骨と、血と、とても醜くまじりあって……大手くん、それが、僕が、EDへと送るプレゼントの袋なんだ。ねえ、大手くん、ねえ、大手くん、EDは、きっと、喜んで、くれるかな?」

 暴れていた男の体が、一度止まる。

 きっと、体力が続かず、疲れてしまったのだろう。

 男の目から、涙が一筋流れ落ちる。

 フラナガンは、それを指の先で舐める様に掬い取ってから。

 また、甘く匂う人間のような動作で。

 金鎚を、男の目に見えるようにして、振り上げる。


「失礼いたします。」

 大手の声がして、フラナガンはふ、と「それ」から振り返った。「それ」は椅子に縛り付けられた、ぶよぶよとした何かの塊だった。ところどころが打たれた後の痣のように赤く黒く染まっていて、あるいはその色で染め抜いた部分のように。それは、何かの袋に見えた、袋にしては、色々なところが多岐に分かれている、複雑な形をしていた。中には、何か動くものが入っているようだった。ぴくぴくと、チック症患者の口元のように痙攣している。

「ああ、大手くん。」

 そういうと、フラナガンはその手に持っていた金鎚を、一度、四角い盆の上に戻して置いた。特に汚れは見られない、血の一滴もついていなかった……それは、まさに、フラナガンが芸術家であることの証明でもあったのだけれど、それは今はどうでもいいことだった。

「何か用かな?」

「お電話が入っています、ファーザー・フラナガン。」

 大手は静かにフラナガンに近づいていく。

 その手のひらの上には、黒い盆を乗せていた。

 そして、その黒い盆の上には、不恰好に大きく、いまどきダイヤル式の、これも黒い色をした電話が乗っていた。大手が持ってきたこの電話は、時代遅れの、骨董品のような電話は、コーシャー・カフェの中でも特にフラナガンが直接取引をしている人々、「セルフ・サービス」リストに記載された人々しか、かけてくることができない電話だった。その電話は、大手の言う通り、まるで夜に鳴く夜鷹の鳴き声のようにして、静かに静かに部屋の中に音を鳴り響かせていた。

「ありがとう、大手くん。」

 すぐ隣までやってきた大手に向かってそう言うと。

 フラナガンは、その電話の受話器を取り上げた。

 送音口を耳に当てて、通話口を口に当てて。

「ユア・マジェスティ。」

 電話の向こう側にいる人間に向かって、そう言葉を言った。

 フラナガンは、電話に向かう一方で、軽く、人差し指と中指を大手に見せる様に振る。その合図に印されたようにして、ドアのすぐ横で待機していたペティラティスは、音もなく動く落ちていく流星の流れる星のようにして、すっとフラナガンの近くにまでやってくる。エプロンのポケットから手品か何かのようにして、ラゼノ・シガーを一本だけ取り出すと、フラナガンのその人差し指と中指の間に挟んで、そしてそれに、同じく手品のように取りだしたマッチの火で、火を付ける。

 受話器の向こう側で。

 女性の声がした。

 ただ一言だけ、その声は。

 フラナガンに、何かを告げるようにして。

 あるいは、犬に餌を投げ与えるように。

 フラナガンは、薄く笑いながら。

 そのシガーを、口につけて。

 一息吸い込んだ、煙を。

 口の端から、甘く垂らして。

 それから、それから、フラナガンは。

 電話の向こう側に向かって。

 その高貴なる女性に向かって。

 一言だけこう答える。

「感謝。」

 そして、向こう側から通話が切られたのを確認した後で。

 ゆっくりと、音を立てないようにして、受話器を戻した。

 その後で、フラナガンは……黒い紗の奥、その表情で、口をいーっと嫌そうな曲線を描いて、曲げさせた。それから、何ともいえないような感情を、ありありと、何ともいわせずに、軽くシガーの先を何度か大手に向かって振った。

「ハウス・オブ・ビューティだったよ、大手くん。」

「そうですか。」

「明日の夜の拝息を、お許しくださるみたいだ。」

「それは良かったですね。」

「良かった? 大手くん……君は今、良かったって言ったかい? 良かった……うーん、そうだね、考えようによっては良かったのかもしれない。僕としても、僕がいなかった二年間については、何一つ知らないのだし、あんな装置を始祖の許可もなく設置できるわけもないのだから。僕を陥れた人間について知っているとして……でもね、大手くん。よく考えてみて欲しいんだ。僕は、ブラックシープを合わせなければいけないんだよ? 彼、ノスフェラトゥに会う時のマナーとか知ってるのかな?」

「一応は、あのお方もジョーンズ家のお一人です。一通りのマナーは知っているのではないですか?」

「それはそうだけどさ。ちょっと不安だよね、何か失礼なことがあったら僕まで常識知らずと思われそうじゃない? 仮にも、っていうかまさしくっていうか、とにかくハウス・オブ・ビューティだよ?」

 大手に向かってそう言いながら、フラナガンはまたシガーの煙を口に含んだ。その部屋の赤い光の中で、その光に浸食していくようにして、フラナガンが吐き出すシガーの煙は、赤く赤く消えていく。

「まあ、ノスフェラトゥは余りそういうことを気にしないけどね。」

 灰を、とんとんと叩いて。

 コンクリートの床の上に落とす。

 大手の方から目を離して。

 その落ちていく灰を見つめながら。

「どちらかというと僕の尊厳の問題かな。」

 そう言って、フラナガンは。

 軽く肩をすくめた。

 それから、ああ、そう言えば、とでも言う感じで。シガーを挟んだ指の先は当てないようにして、手の平の部分だけを、ぱんっと合わせると、床の方にうつむけていた視線をまた大手の方に戻す。小さく首をかしげて、紗の奥で軽く口を笑わせる。

「そうだ、大手くん。ついでに聞いておきたいことがあったんだよ。えーと、あっちの動きはどうなってるんだい? ほら、さっき調べておくように頼んだ。」

「楊春杏が動き出し始めました。」

「え? 楊女士が?」

「はい、どうやらフォウンダーからの許可があったようです。」

「ふうん、ノスフェラトゥにしては優雅じゃないね。」

「そうですね。」

「ちなみに生死は問うのかな?」

「はい。生きたまま、とのことです。」

「まあそうだろうね……そうか、楊女士が動き出したか……微妙なところだね。等級6が一人だったら楊女士でもなんとかできるだろうけれど、ライカーンと等級4が一緒についている状態だから。どうしようかな。僕としては本当は、偉大なノスフェラトゥであり、可愛い後輩でもあるリチャード・サードを応援したいところなんだけれど……というか、それ以前に面倒なことには関わり合いになりたくないから、本当の本当としてはほっときたいところなんだけれど……状況が変わってしまったからね。そうも言っていられないってことだよ、大手くん。夜警局が彼を無力化してくれるなら、その分だけ僕も……楽になるからね、つまり、あっちの仕事がっていう意味だけれど。ああ、誤解しないでよ、大手くん。あっちの仕事が楽になれば、こっちの仕事に裂く時間が増えるだろう? つまり、そういうことさ。」

「誤解していませんよ。」

「良かった。それで、どうすればいいと思う?」

「さあ、私には分かりかねますね。」

「もう、大手くん。」

 そういうと、フラナガンはまたシガーに口をつけた。

 シガーを持っている方の、紗をのかす指先が踊るように。

 一息深く吸って、一息淡く吐き出す。

 それから、よしっとでもいうように、口を開く。

「大手くん。」

「はい、なんですか。」

「ペティラティスに、楊女士を追わせてくれるかな? そして、もし楊女士がてこずる状況になったら、手を貸すようにと。」

 シガーの先を静かに向けるようにして。

 フラナガンは大手に向かってそう言った。

 大手に向かったその言葉に対して。

 扉の横に控えていた、ペティラティスが答える。

「全て、仰せのままに。」

 それから、水を引き裂くように赤い光を裂いて。

 あるいは海の底に降る雪のように静かに。

 この部屋から、その外へと出て行った。

 フラナガンはそのペティラティスの姿を、目の端にさえ追うようなことはせず、しかしそれでもその紗の奥で、満足そうに口の端を歪めて笑った。まだそれほど吸ってもいないシガーを床の上に、取り落とすようにして落とすと、革靴の底で、踵で踏む。「さてと」とさもおかしそうに、含み笑いでもしているような声で言って、手の指先を胸の先で組んだまま、くるっと、そのシガーを踏んでいる踵を起点に踊るようにして自分の体を回転させると、その視線の先には「それ」があった。椅子に座ったまま、死にかけたようにして、けれど生きているままで。

「大手くん。」

「はい、ファーザー・フラナガン。」

「他に、何かあるかな?」

「いえ、何も。」

「そうかい、大変結構。じゃあ、僕はプレゼントの準備に戻るよ。」

 フラナガンはゆっくりと「それ」に近づいて行って。

 そして、また四角い盆の上、金槌を取り上げた。

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