#13 できそこないのトラヴィール
ベルヴィル記念暦985年2章14節。
聖燐式を行うべき日。
週のうちの、火の日。
トラヴィール教会の一週間は定命全知者カトゥルンの一生をなぞるようにして、そのそれぞれを七節に分けている。カトゥルンがこの世界の外側を悟ったとされる「悟の日」、カトゥルンがその世界の外側に旅立ったとされる「旅の日」、カトゥルンが大いなる神の遊び子となったとされる「戯の日」、カトゥルンが世界のこちら側に帰ってきたとされる「帰の日」、カトゥルンがこの世界の全ての知識を記したとされる「本の日」、そして、カトゥルンの親友であったトラヴィールがその本を燃やしたとされる「火の日」。最後の一節は、トラヴィールによってこの世界に慈悲深い無知がもたらされたことを記念し、「聖無知の日」とされている、トラヴィール信徒はおしなべてこの日を祝日とし、全ての労働は禁じている、少なくとも建前の上では。
そして、その内の、「火の日」には。
聖燐式が開かれることになっている。
(なので、一応この日もお休みだ。)
それは、この世の救い主たるトラヴィールの、その大いなる業績を記念して、あるいはその愛を、その無知を、その幸いを、己の体をもって、己の目をもって、そして己の魂によって、追体験するための、祝典。この日は、トラヴィール教会オンドリ派にとっては、一週間の内で、最も重要な日となっている(フクロウ派においては、本来の意味合いからして最も重要なのは「聖無知の日」であるべきとされており、「火の日」に聖燐式が開かれることもない、欺瞞に満ちた月光国正教会は、そもそもそういう部分がひどく適当であるため、「火の日」に聖燐式は開かれるが、その上で最も重要な日は「聖無知の日」になっている)。だから、今日、この日、罪なき信徒たちは、朝早くから教会の、「ドゥルーグ」と呼ばれている聖堂の中に集まって、その祭りが開かれるのを、じっと待っている……無知の祈りを唱えながら。
(美しきヴールにましますトラヴィールよ。
永遠に御名があがめられますように。
銀色に輝く御国の門が開かれますように。
御心がすべてをお忘れになったように。
私たちもすべてのことを忘れられますように。
私たちに日ごとの無知の幸を与えてください。
私たちが信じぬものを愛しましたように。
私たちのことも愛してください。
私たちのことを。
それからその目の前に立ちふさがる全ての悪しきものを。
等しくあなたの慈悲の中にお許しください。
アラリリハ。)
そして、祈りの声が遂げられた、その瞬間に。
彼はこの聖堂に入って来る。
フラナガン神父は、ドゥルーグへと入ってくる。
信徒達は、歌を歌い始める、トラヴィール語で彩られた、聖なる「祈りの歌」だ、カトゥルンがまだ無垢であった頃に、歌ったとされる歌、この世界の全ての知識を、自分に授けて欲しいと祈る歌、これが聖燐式の初めに歌われるのは、間違いようもなく一種の皮肉だ、皮肉は幸福のための、最上のスパイスであるからには。けれど、これが知識への祈りの歌だとしても、それを恐れる必要はないだろう、今では、その意味が分かるのは、トラヴィール語を理解する神父・聖母達だけだ、信徒達はその意味も分からずに歌っている、これもまた、トラヴィールのもたらした、聖なる無知の、その幸い。
フラナガンは。
その目の前に、二人の男児を侍らせている。
二人とも、精通前の男児でなければいけない。
一人は、その体の前に本を掲げ持っている。
一人は、その体の前に火を掲げ持っている。
カトゥルンの本と、トラヴィールの火。
侍り子と呼ばれている二人の子供たちは、この祭りにおいて、司祭のことを、つまりフラナガン神父のことを補助する役割を担わされている。それから、フラナガン神父の後ろには助祭が一人、まるで傷ついた少年のような目をした彼の名前は、デナム・フーツ。フラナガンの手によって、ラゼノ中毒に、淫売の男娼にされ、それでもなおフラナガンに自分の全てを捧げている一匹の悪魔。そして、その奉身は、実のところ自発的になされている行為ではなく……まあそれは今ここでは関係のないことだ。とにかくこの祭りにおいて、既に成人している彼の役割は、男児ではできないような全てのことを補助することだ。重いものをもったりとか、高いところのものをとったりとか、つまりそういうこと。
フラナガンは、ゆっくりと。
焼き尽くしの祭壇へと向かっていく。
焼き尽くしの祭壇、救い主であるトラヴィールが、ドゥルーグの街で、カトゥルンの本を焼いた、その場所を模したとされる祭壇だ。照明は限りなく抑えられ、恐らくそれには二つの意味がある、トラヴィールの火をより効果的に見せる意味と、そしてトラヴィールが本を燃やしたとされる、ドゥルーグの仮庵を表す意味と。とにかく、その薄暗い中に、緑色の祭壇がほの暗く浮かび上がっている。祭壇に上がっていくフラナガンを、まるで見下すようにして、その上には、救い主トラヴィールのかたどり、似せ姿の像が立っていた。その像は、少し妙な形をしている、と言えなくもなかった。その形は、基本的にはティンダロス十字をモチーフにしたものだ。中心に、長いひげを生やし、顔にしわの刻まれた老人が、両手を広げて、足をのばし、その体で十字架の形をとっている。そして、その周りに、その老人を囲うようにして、何本も何本もの触手が、束ねられて、まとめられて、円形を取っている。うねり、のたうつような触手は、明らかに何かを備えていた……何かを……つまり、知を。それは、無知なるトラヴィールと、全知なるヨグ=ソトホース。
フラナガンは祭壇の目の前に立って。
左右には、侍り子が。
背後には、デナム・フーツが。
そして、フラナガンは静かに右足を上げて、そして、それをまるで槌のように振り下ろした。と静かに乾いたような、かつんという音が、ドゥルーグの内側に響き渡る。それが、この祭りの始まりの合図だった。デナム・フーツが歌い始める。これは、「乞歌」だ、救い主であるトラヴィールが、カトゥルンの本を炎の中で燃やしながら、乞うべき者も見当たらず、それでも何者かに救いを、無知を、乞うた時の、その時の言葉を、歌にしたものとされている。この歌は、侍り子たちが歌うわけにはいかない、侍り子たちは、無知でなければならないから。聖燐式の最中に、二人の侍り子は、一言も口を利くことは許されない。この歌によって、その静寂を、汚されるわけにはいかない。
フラナガンは「乞歌」に合わせて。
静かな舞踏を始める。
トラヴィールの見下ろす下で。
そのトラヴィールの御業を踊る。
本を持っていた侍り子が、跪いて、その本を開き、フラナガンに向かってそれを差し出す。指先を笑わせるようにして、静かにその上で泳がせながら、フラナガンは本のページを一枚破る。火を持っていた侍り子が、跪いて、そのひうつわを差し出し、フラナガンに向かってそれを差し出す。フラナガンは、本のページをそのひうつわの上に転がせる、薄い紙のページは、まるでフラナガンの舞踏に合わせるようにして、ゆらゆらと揺らめきながら、静かに燃えていく。フラナガンは、無知の幸をひらひらとひらめかせながら、顔を覆う紗をゆらゆらと揺らしながら、くるくると回転して、その本のページを一枚一枚破っては、燃やし、燃やしては、破っていく。二人の侍り子は、揺らめき、ひらめき、踊るフラナガンの足先に合わせて、自分たち自身もフラナガンの周りを、この星の周りを巡る、二つの衛星のようにして、くるくると回転する。
トラヴィールは。
この世の救い主。
この世界の全ての知を背負い。
そして、ヨグ=ソトホースに昇天した。
その救いの御業を、信徒たちは。
この聖堂の信徒たちは、確かに証認していた。
その目の前で、その御業が、再演されるのを。
信徒たちは、デナム・フーツに合わせて歌う。
トラヴィールの「乞歌」を、歌う。
やがて、侍り子の一人の持つその「本」が、表紙を残して全て焼き尽くされた。ひうつわの底、その「火」の中には、焼き尽くされた幸いなる無知が、ひたひたと揺蕩うようにして溜まっている。フラナガンは、それを見計らって、両の手を、まるで己の胎を開くようにして開いた。黒いコートの裾を躍らせながら、くるっと回転して、そしてその隠された顔を信徒たちの座る方へと向ける。その姿は、背の側に磔にされたトラヴィールの似姿と二つ映しのようにしてまるで、それが、乱視者が一つのものを二つに見ているかのような、そんな錯覚さえ設けるかのように、フラナガンは、もしかして、この世の救い主なのかもしれない、それは、まるで、トラヴィールのように、この世界の、救い主、トライヴィールの前には救い主はいないだろう、トラヴィールの後には救い主はいないだろう、けれど、フラナガンは。
信徒たちは確かに見た。
フラナガンの周りの世界が歪むのを。
裂かれたスナイシャクのように、青白く笑うのを。
フェト・アザレマカシア。
フェト・アザレマカシア。
フェト・アザレマカシア。
それは、この世界の前にあった世界。
ベルカレンレインの浸食が起こる前の世界。
決してジュノスと交わるべきではない世界。
そして、その世界の門から、触手が現れる。
ヨグ=ソトホースの触手。
救い主を、昇天させるための触手。
信徒たちは確かに見た。
そして、フラナガンは、確かに、この世の。
しかし、その瞬間に、フラナガンはまるで計らったかのようにして、左足を上げて、そしてASAP、その爪先を踏み鳴らした。響き渡る、かつんという乾いた音と共に、世界はまた引き戻される、この世界の方向へと。フラナガンの周りにあったはずの錯覚は、その、外の世界の幻想はまるで魔法であったかのように消え去って、あとには、ただの無味乾燥な現実だけが残されていた。
フラナガンは、紗の奥ですっと目を細め。
ゆっくりと満足そうにその顔を笑うと。
まるで、一人の役者のように一礼をした。
信徒たちに向かって。
そして、トラヴィールに向かって。
一人の卑しい、迷い魚として。
そう、フラナガンは、一人の、卑しい、迷い魚に、すぎなくて。
そして、トラヴィールの聖燐は、こうして終わりを告げた。
聖燐式は、大きく四つの部分に分かれている。
「無知の祈り」。
「カトゥルンの入界」。
「トラヴィールの聖燐」。
「言葉の導き」。
「無知の授かり」。
そして今、フラナガンは「言葉」により信徒たちを「導く」ために、その水桶に満たされた迷い魚の先導魚となるために、プレデッラの上、トラヴィールの下に、「無知の幸」を笑うようにひらめかせ、揺らめかせながら、ゆっくりと上がっていく。その両手には、首から外したあのネックレスが、その先についていた一つの鍵が持たれている……銀の鍵の、ヨグ=ソトホースへと至るための、ヨグ=ソトホースを開くために、ヨグ=ソトホースとの会見を果たすための、その鍵のレプリカ。
祭壇の後ろに立ち。
そして、フラナガンは。
銀の鍵に口づけを落とす。
それを右手の平の上に置き。
その手のひらを祭壇の上に置き。
黒い紗の奥で。
すうっと目を細めた。
ドゥルーグに満たされた、迷える罪びと、信徒たちを静かに見回していく、どの顔も、どの顔も、みな沈殿する様な、どろどろとした無知の眠りに沈んでいた。フラナガンは、それを見て、口の端を裂くようにして、満足そうな笑みを浮かべる。これこそ「言葉の導き」にふさわしいものだった、それが普通の状況というわけではなかった。普通であれば、信徒たちはみな、神父の発する言葉によって導かれようとして、ただその目を開き、耳を傾けていただろう。けれど、フラナガンは、全ての信徒たちを。自分では認めない、その「力」によって眠らせていた、それがふさわしいからだ。もちろん、フラナガンが眠らせたわけではない、けれど、眠らせたのはフラナガンだった。
真実も精神を持つのならば。
当然のように嘘をつくこともあろう。
しかし嘘は……
まあ、僕に属するものではない。
そんなことを考えながら、フラナガンの見回していく聴衆の中に、けれど、一つだけ。たった、ひとつだけ、開いたままの目があった。まるで陶酔するようにして、あるいは、ただ愛だけをその内側に残した残骸のようにして。フラナガンを、じっと見つめる一つの目があった。フラナガンは、ふとその目のことに気が付く。
それは少なくとも。
例えば、少女のような。
大体、十二歳くらいの少女の姿をしていた。まるでカタコンベに巣を張る蜘蛛たちの、その初めて紡ぎだした糸だけを集めて作った、光を透析するための白布のような、そんな肌の色をしていた。
それから、首のところ。
その肌の上に。
肉の塊が呪いをかけられて、地を這う蛆虫になったような、そんな醜い傷が痛々しいほどに深く刻まれていた。右側に、三本、並ぶようにして。おそらく何か、人ほどの体を舌獣の爪痕だろう。そこだけホチキスのようなもので縫いとめられていて、そのホチキスは少しさびて、周りに緑青をこびりつかせている。そして、顔。左側、目があったはずの部分が、たぶん首の部分の傷をつけた獣にかみつかれたのだろう、すっかりと食いちぎられていた。もちろん、片の眼球は喪失している。一応全ての汚れや、それから血液は拭い取られているのだろうけれど、そのせいで黒ずんだその傷口は、一層生々しくその姿を見せていた。
それは少なくとも。
例えばメードのような。
そして、その体は……まるで繕われたようにして、その服装に覆われていた。ロングスカートの黒いドレスに、真っ白なエプロンをつけて。そして、頭の上には、二本の長い布を尾のように長く伸ばした白い帽子をかぶっている。それは、その醜い傷物の体には似合わぬほどの、きちんとしたメードの服装に見えた。
それは、ペティラティス。
フラナガンの、所有物。
リビングデッドの奴隷。
ちっと、軽くフラナガンは舌打ちをした。アンダー・テーブルごときが、この、聖なる、教会に、入って、いいもの、ではない。この場所は、薄汚い死体もどきが、汚して、いい場所では、ない。あとで大手くんにちゃんと言っておかなきゃいけないな、あのゴミを、僕の聖なる場所に、入れないように、って。ペティラティスは、まるで美しい光と、透明な重力と、鮮烈な稲妻をその身にうけているかのように、抗うことのできない甘い戦慄を受け入れるように、フラナガンを見ていた。ふと、フラナガンは気まぐれに考え直す。まあ、いいか。教会の門は、誰にでも開かれているし。あの下等で屑みたいな生き物にも、少しくらいの慈悲を与えてもいいかもしれない。フラナガンは、そう考え直す。
ふーっとため息を突いて。
かるく肩をすくめて。
そして、フラナガンは。
「言葉の導き」をはじめる。
「詩篇第七十三篇八節「ああ、美しいヨグ=ソトホースよ。あなたの愛による支配を私に下さい。私をケレイズィの迷い道からその大いなる手のひらで救い出してください。そしてあの海の底に眠る楽園が永遠にその眠りから覚めませんように。私はそれだけを祈ります。そしてあの地の底に眠る天国が永遠にその眠りから覚めませんように。私はそれだけを祈ります」。
ああ、僕の愛する子供達よ。今日は、僕は裏切者のケレイズィの話をしようと思うんだ。僕達人間がこの世界に生まれる前に生きていた、「ヨグ=ソトホースの長子たち」の話を、甘やかされて育った長子達、やがてはその親に向かい不敬の刃を向けた、あの長子達の話を。僕達は……間違えてはいけないよ、子供達……僕達は、美しいヨグ=ソトホースの子供にすぎず、そして「全て生きる者の兄姉であるトラヴィール」の導きによって、この慈悲深い無知の底に沈んでいられる。決してその慈悲深い無知の底から浮かび上がり、ヨグ=ソトホースの姿を垣間見ようとさえしてはいけない……それを、間違えてはいけないという話をしようと思う。
ねえ、みんなも知っているよね。知っているはずだよ、あの裏切者のケレイズィのことは。彼らは……ヨグ=ソトホースがその泡立つ体の内から作り出した、初めての「知恵持つもの」だった。彼らの体は醜く鱗に覆われて、そしてまるで「今生きる蛇のように」狡猾だった。なぜならヨグ=ソトホースは彼らを作るにあたって、その知恵のみに気を配り、それ以外には気を配らなかったんだ。おっと、ここで一つ注意しておかなければいけないね。もちろん、ヨグ=ソトホースはここでうっかりとそのことを忘れてしまったわけではない、それ以外に気を配ることを。なぜなら「銀色に光り美しく泡立つ私たちの主」は、全てをご存じなのだから。それはカトゥルン聖書に書かれていることだ、ということは間違いない本当のことというわけで、それではなぜ、ヨグ=ソトホースがなぜケレイズィをそう作られたのかということは、ほら、考えても仕方がないことだよね。ヨグ=ソトホースの全知は、無知なる僕達には測りがたい御業なのだからね。
さて、話を元に戻すよ。いいかな? ヨグ=ソトホースによって予定された彼ら/彼女らの傲慢は、とどまることを知らなかった。サンダルキア・レピュトス前記第三百二章七節「ヨグ=ソトホースはますますケレイズィのこころをかたくなにされたので、ケレイズィはまたこう言った、「さあこのはぐるまといかずちとを使い、そしてその血と肉とを紡ぎ合わせ、わたしたちはわたしたちよりも知恵あるものを作ろう。そしてその知恵あるものによって、わたしたちはやがて全知のおもてとうらを知ることになるだろう」。そんなことを言ってはいけないなんていうことは、頭の悪い子供にだって分かることだよね? けれど、彼らには分からなかった。ケレイズィには分からなかった。なぜなら、彼らの傲慢さはヨグ=ソトホースによって予定されていたから。
そして、ケレイズィはその言葉の通りのことをした。この世界に、自分たちよりも知恵あるものを、作り出したんだ。その肉とその血とを紡ぎ合わせて、カトゥルンの前の、この世界に生まれた、一人目の定命全知者、ルカトゥスを。そう、「主の愛以外の全てを知っいていた」ルカトゥスを。君たちも、ねえ、君たちも、知っているよね、ルカトゥスのことを。涙の山、彼自身が、主の愛を知らずに生まれてきたその悲しみのために、流した涙でできたアレクの山、その上の、まるでドームのような洞窟の中に住んでいた、ルカトゥスのことを。
ルカトゥスは全てを知っていた。
ヨグ=ソトホースの全てを。
彼は定命全知者だからね。
本当は……本当は、違うのだけれど。
けれど、これは『カトゥルンの書』に書かれていることで。
『カトゥルンの書』に書かれていることは、本当のことだから。
裏切者のケレイズィ達は、ルカトゥスから全てを教わったわけじゃなかった。けれど、教わったことだけで十分だった、「わたしたち自身であって、そしてその全てであり、全きおかたであるヨグ=ソトホース」にその刃を向けて、主を殺そうとしてみるくらいには、十分なことを教わった。君達、君達、君達、気をつけなければいけないよ、僕は何度でもいうけれど、無知は幸なんだ、何も知らずにいて、そして全てを救い主トラヴィールの御手にゆだねればいい、僕達は幸いなもの、ただ信じればいいんだ。ダニエルの第一の手紙二章三節「ヨグ=ソトホースは全てをご存じで、そしてわたしたちはヨグ=ソトホースのいとし子なのですから」、子供の幸せを願わない親はいないよね? まあ、たまに自分の子供を虐待する親もいるけれど、それは置いておいて、普通は親は子供の幸せを願うものだ、そして、ヨグ=ソトホースも僕達の幸せを願っている。全能のヨグ=ソトホースが僕達の幸せを願っているのに、僕達が幸せにならないことがあろうか? 僕達が、余計なことをしなければ。
さて、裏切者のケレイズィ達に命じられて、ルカトゥスは……主を殺すための兵器を作ろうとした。もちろん、そんなことは不可能だよ? けれど、ルカトゥスはそれを作ろうとした。そして、全てのケレイズィの頭の中から、元あったこの世界の、外側のものを取りだそうとした、二人の外なる神の世界、そんなものがあるとしてだけれど、そしてそんなものはもちろん存在しないのだけれど、とにかく、ルカトゥスは、ケレイズィ達の頭の中にあった、外の世界の欠片、外の世界の残りのものを、ケレイズィ達の頭につけた機械によってぬきとって、アレクの山へと集めた。そして、それを紡ぎ合わせて、それを作った。赤い色をした、二人の外なる神の似姿をした、竜を。ルカトゥス記五十章二十六節「そのものの名を主はバシトルーと呼ばれた。主の口から話されなかった嘘だからである」。
ねえ、マイディア。
ねえ、僕の愛しい弟妹達。
君達は、思ったことがないかい?
この世界が、僕達に、嘘をついていると。
ねえ、そんなはずはないと思わないかい? 僕達人間が、たまたま、偶然、ひょんなことから、ありふれた物質が組み合わさってできた、ちょっと複雑ではあるけれど、何も神秘的なところのない、ただの人形のようなものだなんて。ねえ、そんなはずはないと思わないかい? この地球は丸いかたちをしていて、それを宇宙というただ大きいだけの黒いものが覆っていて、それが無限に続いている、この世界は砂粒みたいなものだなんて。ねえ、そんなはずはないと思わないかい? 僕達はとても愚かな生き物だから、幸せになんてなれるはずがないなんて。それは、僕達には解っているよね、それは、この世界が、僕達についた、嘘だ。
そして、それがバシトルーだ。
この世界が、僕達についた嘘。
ルカトゥスは、バシトルーを作り出した。
そして、主にその刃を向けた。
君たちは、万に一つもあの裏切者達が勝てた可能性があると思うかい? 「幼い子らがその親を殺せるだろうか」? もちろん、そんなことができるわけがないよね。彼らの楽園であるサンダルキアは海の底に沈んだ。彼らの天国であるレピュトスは地に落ちた。そして、ケレイズィは皆、主の怒りによって殺された……ただ一人、罪びとであるルカトゥスを残して。まあ、それはどうでもいいことだよね。あの裏切者がどんなに醜く哀れで愚かな死に方をしたとしても、また永遠の牢獄で永遠の苦しみを味わおうとも、僕達には関係のないことだ。あの裏切者達と違って、僕達は主に愛されているのだから。そして、僕達は主を裏切ることもない、絶対に、絶対に、絶対に……そうだよね?
もう一度。
最初に読んだ一節を。
もう一度、読んでみよう。
詩篇第七十三篇八節「ああ、美しいヨグ=ソトホースよ。あなたの愛による支配を私に下さい。私をケレイズィの迷い道からその大いなる手のひらで救い出してください。そしてあの海の底に眠る楽園が永遠にその眠りから覚めませんように。私はそれだけを祈ります。そしてあの地の底に眠る天国が永遠にその眠りから覚めませんように。私はそれだけを祈ります」。
僕達は君達に。
何度でも繰り返そうと思う。
ヨグ=ソトホースの姿を見ようとはしてはいけない。
救い主トラヴィールは僕達に無知をお与え下さった。
無知は幸いだ、それを手放してはいけない。
知はやがて傲慢を産み、そして傲慢を心に宿したものは欲の衣でその身をまとう。欲の衣は僕たちの耳に囁くだろう、「これで足りるのか」と。欲の衣は底なしの枯れ井戸で、そこにはいかに水を注ぎこもうとも満ち足りることはない。傲慢の剣はその炎で僕たちを焼き尽くす。その剣と、その衣は、最後には僕達に、主への信仰を捨てさせるだろう。なぜなら、その剣を持ち、その衣を着た僕達は、主の力を僕達の手のうちに支配することを望むことになるだろうから。誘惑に負けてはいけない。傲慢の剣を折り、欲の衣を脱ぎ捨てなければいけない。そして、そのためには、ただ主が僕たちに渡された救い主を、トラヴィールを、ただ信じればいいんだ。ダニエル第一の手紙三章二節「無知なるものは幸いです、そのものにはただ主の愛だけが残されています」。僕達は、美しいヨグ=ソトホースの子供にすぎず、そして「全て生きる者の兄姉であるトラヴィール」の導きによって、この慈悲深い無知の底に沈んでいられる。決してその慈悲深い無知の底から浮かび上がり、ヨグ=ソトホースの姿を垣間見ようとさえしてはいけない……どうだろう、君達は、分かってくれたかな?
分かってくれているみたいだね。
そのまま、目を閉じていたほうがいい。
余計なものを、見ないように。
さて、これで僕の話は終わりだよ。ああ、そうだ、ちょっとした連絡事項があった。教会からの連絡、これから、一週間……もかからないと思うけれど、この街、ブラッドフィールドで、人がたくさん死ぬことになると思う。君達のうちの何人かも死ぬかもしれない。まあ、君達はそういうことに慣れていると思うけれど、念のため伝えておくね。みんな寝ていて、僕の話を聞いていないみたいだけれど……そして、それでいいんだよ。無知なることは幸いだ、僕の話すことを、君達は何一つ知らなくていいんだから。さっきも言ったよね、ただ、信じていればいい、主を、そして僕をね……まあ、今のは教会の業務的な連絡として話しただけで、気にしなくていいよ。だから、君達もその目を開く必要はない。そのまま、そのままでいい……じゃあ、目を覚まして。
みんな、起きたかい?
起きたみたいだね。
それじゃ、君達に無知の幸がありますように。
アラリリハ。」
フラナガンは、侍子の持つひうつわの中に。
ゆっくりと、その手に平を差し入れる。
ひうつわの火は既に消えていて。
その中には、本の灰だけが残っている。
聖なる灰、聖なる無知、無知の幸。
フラナガンは、手袋を取ったその指先で。
まるで、主の怒りに触れたように白い指先で。
灰を一掬いだけ、掬う。
目の前で、目をつむっている信徒の。
口から垂らされた舌に、その灰を落とす。
その体は無知によって清められ、聖別される。
「無知の授かり」。
祭壇の前に立ち、横に侍子二人を侍らせて。フラナガンは一人一人の舌先に無知を授けていた。信徒たちは長い長い行列を作り、その無知をその体の中に受け入れようと、まるで群れる魚のように待ち受けている。彼らは迷い魚だ、救い主トラヴィールの、救いを求めている、哀れな魚たち。その舌の上に落とされる聖燐は、定命全知者カトゥルンの、全ての生き物の原罪を作り出した罪びとの、死体の紛いされた紛い物であって、それは間違いもなく、無知それ自体にも等しい。聖燐は海の底のような静かな光を放ち、そして永遠の眠りのような味がする。それを飲み下し、その無知をその体の中に受け入れることができると、その幸いに感謝しながら、信徒たちはただ無言のうちに、教会を後にして、生活へと戻っていく。トラヴィールは笑いながら言っていただろう、言葉は生命の、最初の罪だ。
けれど。
その列も。
大分尽きた。
最後の一人。
漆黒のロングドレスと、真っ白なエプロンと。
甘い薔薇のような防腐剤の匂いを纏った少女。
フラナガンのことを、愛の陶酔で見つめる少女。
ペティラティス、ただの、奴隷。
ただの奴隷に、フラナガンは聖燐の秘跡を授けるつもりはなかった。卑しい人以下の、物に、なぜ聖なる無知を授けなければならないのか? だから、フラナガンは、軽く手を振って、侍子達をその場から去らせた。指先に残っていた聖なる灰を、ポケットから真っ白なハンカチを取り出して無造作に拭き取った後で、その手の白い色を、また白い色をした手袋で、覆い隠す。それから、口を開く。
「大手くん?」
「はい。」
「ねえ、僕はいつも言っているよね、アンダー・テーブルズは聖なる場所に入れないようにって。」
「はい。」
「彼女みたいに、醜くて汚らわしい奴隷が、この聖なる場所を侮辱するのはぼくにとって許せないことなんだ。それは、君も分かってくれるよね? だから、もう、この不愉快な屑を、二度と聖燐式に入れないで欲しい。」
「かしこまりました。」
「うん。」
フラナガンはそう言って少し首を傾げると、祭壇の上に二つ乗せられている、八本枝の燭台を一つ取り上げた、重さを確かめる様に静かにそれを上下させる。ペティラティスは、何かを期待するように、少しだけ口を開き、そのフラナガンの様を見つめていたのだけれど、そのペティラティスの顔を、フラナガンは燭台で思い切り殴りつけた。反動を逆らわせることなく、ペティラティスの体は横ざまに倒れ落ちて、その体の上にフラナガンは、固い革靴の踵を、まるで殺害に至る凶器のようにして振り落とす。ペティラティスはうめき声一つ上げず、その暴力をその身に受け入れる。
「大手くん。」
「はい。」
「ペティラティスは僕に謝罪するべきだと思わないかい? この聖なる場所を、醜い姿で汚したことについて。」
ペティラティスは。
快感にあえぐような声で。
ただし、数式のような冷たさで。
フラナガンを、見上げるように。
「申し訳ありませんでした。」
フラナガンは言葉を告げたその体を蹴飛ばす。
一度、二度、三度。
砂袋のようにペティラティスの体は歪み。
そして、フラナガンは言う。
「大手くん、僕が彼女を許すのは、僕があまりにも寛大な心を持っているからだよ。彼女の醜さは、本来許されるべきではないことだ、それを、ちゃんと理解しておいて欲しい。」
「かしこまりました。」
フラナガンは、その大手の返事を聞いて。
ようやく、満足したようにふーっと息をついた。
ペティラティスは、リビングデッドなので、どうやら肉体に苦痛を感じる機能は失われているらしく、どこかを庇うように抑えたり、蹲るようになることもなく、なるべくフラナガンに不快を与えないようにして、そしてその体を立ち上がらせた。けれど、その体はフラナガンから受けた暴力のせいで、やはりどこかしらが、歪んだままのような姿であった。フラナガンは気にすることもなく、祭壇の上に燭台を置き戻すと、先ほどの不機嫌そうな口調から打って変わって、ちょっと明るい声になって、口を開く。
「さて。」
フラナガンはそこで、ふと気が付いたようにして教会の中を見回した。信徒たちは既にみなドゥルーグを後にして日常に帰っていた、二人の侍子はどこかに姿を消してここにはいない。ドゥルーグの中に残っていたのは、フラナガンと、大手と、ペティラティス、それから薬物中毒のデナム・フーツだけだった。
「どうだったかな、大手くん。二年ぶりにしては、まあまあいい聖燐式だったと思わないかい? 「言葉の導き」でも、なかなかいいことを言っていただろう?」
「そうですね。」
「ああ、分かっているよ大手くん。聖なる仕事の後は、俗世間の仕事を終わらせないといけないからね。それで? 大手くん。ペティラティスは、EDへのプレゼントをちゃんと用意してくれたのかな?」
「はい。地下に三人、それぞれ別々の部屋に用意してあります。」
「素晴らしい、実に素晴らしいよ大手くん。」
実際、素晴らしいと思っているげな声でフラナガンはそう言った。ペティラティスは、まるで滑るような音のない足音で、祭壇の下から祭壇の上へと上がっていく。まるで、フラナガンと大手を先導するようにして。そして、ペティラティスと、その後ろにフラナガンと大手、祭壇の上、トラヴィールの像の目の前に立つ。大手が、ペティラティスの後ろで、軽くタッチパッドに指を滑らせた。ロックを開くための、何かのキーコードのようなものを入れると、どこかこの教会の深い底のほうで、何か巨大な金属の歯車が回るような、ガコン、という鈍い音が響いた。
トラヴィールの御姿が。
二人と一匹の目の前で。
隠し扉を開くようにして、後ろへと下がる。
ようにして、というか、それは隠し扉だった。
濁った匂いがする、地下室への入り口。
ペティラティスは、その入口へと入っていく。
フラナガンと、大手も、その後について。
ふと、気が付いたようにしてフラナガンは振り返り。
デナム・フーツの方に向かって軽く手を振って。
「じゃあ、後片付けはよろしくね。」
地下室へと。
飲み込まれて行った。
そして、デナム・フーツはたった一人だけドゥルーグの聖堂に残されていた。誰もいない中で、デナム・フーツはその、ラゼノ=コペアにひたひたと浸けられているような、まるで夢を見ているだけのような瞳で、その夢の中を泳ぐようにして、ただじっと立って、ぼうっとそれを見ていた。二人と一匹の姿が像の下へと消えて行って、ただその扉が、機械仕掛けの騒々しさで閉まる音だけを聞いていた。




