#12 ここよりも暗い場所の祈り
「春聯のやつ、随分とご機嫌だったぜ。」
会議室のドアを閉めるなり、アーサーは開口一番そう言った。
白々しい蛍光灯の光が照らす中、座っているガレスに。
「久しぶりのお仕事アル~ってよ。」
「殺害の命令ではない、あくまで捕獲だ。」
「おいおい、アメージング・グレース。俺がいくらおめでたい人間だからって、夜警公社の一班長風情がハウス・オブ・トゥルースに喧嘩を売るとは思っちゃいないさ、どうせお前が決めたことでさえないんだろ? フォウンダーの連中の共通意思が決めたことが、ここまでエレベーターで降りてきただけじゃねぇか? いつもは故障しやすい上に、随分と遅い割には、こういう時だけスムーズで高速なエレベーターで、な。」
会議用のテーブル、ガレスの目の前に置かれたテーブルの上にぽんっと無造作にドーナツの箱を置くと、アーサーはその中から一つ、自分が食べるためにドーナツを取りだした。ドーナツを形作る生地がクロワッサンのように層状になっている、四角い形をしたドーナツで、上にはたっぷりとホワイトチョコレートがかかっている。それからその箱をずずいっとガレスの方に押し出して、一言言う。
「好きなやつを食えよ。」
けれどガレスは手を伸ばすこともしない。
アーサーとしても、社交辞令で勧めただけだった。
だから、気にも留めないで、話を続ける。
「お前はいちいち気にしすぎなんだよ、グレース。俺たちがどうにかしようとしても、どうにもならないことでこの世界ってやつは構成されてんだ。それを運命と呼ぼうが偶然と呼ぼうが俺の知ったことじゃねぇが、つまりはそういうことだ、俺たちにはどうしようもないってことさ。ただ、俺たちは、流されて行けばいい、楽な話だろ? どこにたどり着こうと、俺たちの責任じゃねぇんだからな。ところで、春聯が例の件の担当になったってことは、俺とメアリーは晴れてお払い箱、担当を外されるっていうことか?」
ガレスは、両の肘をテーブルの上について、その腕の先で組んだ指の上に額をつけて、じっとしているような姿勢を取っていたのだが、アーサーのその言葉を聞いて、ふと顔を上げた。アーサーの顔に、静かに目を向けながら、口を開く。
「いや、この件に関しては、君たちにもまだ担当を続けてもらう。」
「つまり、どういうことだ?」
「春杏とアランは、君たち二人のバックアップとして動いてもらうことになっている。つまり、ホワイトローズ・ギャング捜索の実働隊、という形だ。この事件についてのその他の捜査については、引き続き君たちに担当してもらう。そして、その他の全ての事件に関しては、今後はエリスとピートの二人だけで担当してもらうことになる。」
「そりゃあ、随分と思い切ったことをするもんだな。」
ドーナツを片手に持ったままで、アーサーはたんったんっと後ろ向きに数歩歩いた、やがて、その背が会議室の壁につく、その壁に、べったりと、アーサーはくっつくようにして寄り掛かった。
「今朝がた、HOGに連絡が入った。」
「連絡? どこからだよ。」
「ピックマン・セルからだ。」
「グールの連中から? 一体なんで?」
「春杏を動かすことになったのも、その連絡が原因になっている。例のダレット列聖者殺害の現場で、グールたちの方で独自に組織していた事件の捜査班が、白い薔薇の絵を見つけた、ということだ。」
「グールの連中が「捜査」? は、世も末だなグレース。あいつらがそんな見え見えの嘘をつくなんて。ああ、嘘じゃないか、あいつらは嘘をつかないからな、なんていうんだったっけな「別の観点での現実」だったか? ああ、「ピックマン的観点での現実」か。」
「今までは、夜警官や、ヴィレッジの人間がいたせいで、地上での操作を行えなかったため、グールたちによる発見は遅くなってしまったということだった。その白い薔薇の絵は、ホワイトローズ・ギャングの関与を示している、つまり、リチャード・グロスター・サードの関与を。」
「グールの連中は全部承知の上だぜ、グレース、あいつらは全部知ってるよ、というか俺は、今回の件は、グロスターの馬鹿息子とグールの連中が、グルになって仕組んだことだと思っている、つまり、その……詳しいことは言えねぇが、つまりそういうことだ。」
「それが本当であっても嘘であっても、政治の上では何の関係もないんだよ、アーサー。君が一番よく知っているだろう? 明らかになっていない真実には、一片の価値もないということを。」
鼈甲縁の眼鏡の奥から、静かな否の感情で、ガレスはアーサーのことを見つめ返した。アーサーは、そのガレスの目から歯切れ悪く目をそらすと、手に持っていたドーナツを、一口噛み捌いた、まるで力のかけるべき位置を知っているかのようにして、まるでそのドーナツが、どういう風に崩れているかを知っているかのようにして、クロワッサンの生地を一欠けらも落とすことなく。
グレースは、そんなアーサーのことを
見つめながら言葉を続ける。
「さすがにHOGとしても、グールからの正式の抗議を無視するわけにはいかなかった。特にこの件は、放っておいて拗らせたらどうなるか分からないからね、君も分かるだろう? 例え真実がどうあったとしても、フォウンダーの子供がダレット列聖者を殺した、というのが正当な推測の上に成り立ちうる全てだ。そして、もしもこれが事実として政治的に認識されてしまえば、それはノスフェラトゥとグールの間に再び戦争を起こすには、十分な事実として取り扱われるだろう。」
「俺は政治の話は知らねぇよ。」
アーサーはいーっと。
さも嫌そうに奥の歯を。
噛みしめながらそう言った。
それから、ようやくもたれかかっていた壁から離れて、つかつかとテーブルに近づいていく。そのテーブルの、イスのうちの一つを雑な手つきで引きずり出すと、どしん、と体を落とし込むようにして、その椅子に座った。場所としては、ガレスから見て右側、ぽっかりと空いた席を一つ挟んで、その隣に。
そして、荒っぽく一口。
またドーナツを噛みとる。
ざりざりと砂を噛むような音。
咀嚼した塊を飲み込んだ後。
アーサーは、また口を開く。
「それで。」
喉をそらすように、ぐっと椅子に寄りかかる。
ぼさぼさで真っ白の髪が、背の方に流れる。
「言いたいことがあるんだろ、言えよ。」
ガレスはアーサーのその言葉を受けて、組んでいた指先をゆっくりとほどいた。そしてその両方の手のひらを、今度は静かに合わせる、まるで、自分自身だけで握手をするかのような形で、じっと見つめていたアーサーの顔から、ガレスは左の方に目をそらす。そして、やがて口を開く。
「先ほど電話でも話した通り、今後の捜査はヴィレッジと共同で行うことになった。捜査本部や情報、あるいは行動を共にすることなく、捜査自体は別々に行い、事件に進展があれば、その情報だけを共有する、という形での協力だ。」
「知ってるよ。それから?」
それから?と促され。
けれどガレスの言葉はそこで止まった。
何か、言いにくいことでもあるかのように。
縫い合わせたように、口を開かない。
アーサーは、にへらっと笑って。
ガレスに、また促すように言う。
「フィッシャーキングから、何か要求を受けたんだろ?」
「君は……何でも知っているな。」
「まあ、少なくとも、普通の人間よりはな。」
ふーっと深く、ガレスはため息をついた。
それから、目をアーサーの方に向ける。
目をそらして、話すような話ではないからだ。
背をすっと伸ばし、結んでいた口をほどく。
「フィッシャーキングは、ノスフェラトゥとの会見を望んでいる。」
「それも、可能なら、フォウンダーと話したいってんだろ?」
「そうだ。」
「やっぱりな。」
「アーサー。」
「なんだよ、改まって。」
「ブラッドフィールドに、何が起こっているんだ。」
ガレスは動作こそ、身を乗り出しはしなかったが。
アーサーを見つめる視線を、強くして。
そして、はっきりとした口調で、口を動かす。
「フィッシャーキングは、今回のこの事件は、過去に起こった事件とかかわりがあると言っていた……過去に、この、ブラッドフィールドで起こった事件と。しかもそれは、レベル・バイオレットの機密だということだ。それなのに、私はその事件について知らない、過去に起こったという事件について、何も、思い当たる節がない。」
「グレース。」
「ノスフェラトゥはその過去の事件について知っているそうだ、アーサー。だから、フィッシャーキングは、ノスフェラトゥと話をしたいと言っていた。」
「聞いてくれ。」
「もちろん、私もあの男の話を頭から信じているわけではない。それに、あの男の誘いに乗ったところで、恐らくこちらには損しかないだろうということも解っている。しかし、このままでは……私は、ほとんど何も知らないのだ、何も分からない。動きが取れなくなってしまっている。アーサー、教えてくれ。一体ここで、このブラッドフィールドで、何があったんだ? そして、今、何が起こっている?」
アーサーはその、ガレスの言葉に向かって、とでもいうように。すっと、ドーナツを自分の顔の前に持ちあげた。四角いその形の真ん中、ぽっかりと開いたドーナツ的な穴の中から。右の目で、のぞき込むようにしてグレースを見る。
「グレース。」
「なんだ。」
「お前は、俺に、あいつと話してほしいのか?」
アーサーはそういうと、目をドーナツから離した。
そして、そのドーナツを一口、噛もうとする。
その前に、一言を発する。
「お前が話してほしいっていうんなら、話すぜ。たぶん、こちらに損しかないっていうのは悲観的過ぎる見方だな。俺は、何かこちらにも得ることがあると思う。もちろん、フィッシャーキングも何かを、こちらよりも多く手に入れることになるだろうがな。」
そう言うと、アーサーはドーナツを一口噛みとった。ガレスは、じっとアーサーがそのドーナツを口の中でざりざりと噛む音に耳を傾けていた、ざりざり、ざりざり、ざりざり、擬似的な砂時計の音のそれは、次第に柔らかく消えて行って、アーサーの喉の奥に、嚥下の聞こえぬ音と共に消えていく。その一通りが終わってから、ガレスはアーサーに言う。
「つまり、君は何も話せないということか?」
「お前は主を信じるか、グレース?」
「知っているだろう、アーサー。私は無信論者だ。」
「じゃあ、お前は主のことは信じないわけだ。」
「ああ。」
「じゃあ、その代わりに今から俺が言うことを信じてくれよ。それくらいはいいだろう? グレース、今回のこの事件、これは俺が言うことを許されていないし、その上で俺が言っても無駄なことなんだ。あの事件は、封印を施されている、あらゆる人間の内側、あらゆるものの内側に。もちろん、俺の中にも封印がある……ただ、俺の内側にある封印は、普通の人間よりも少し弱い封印なんだ。まあ、俺は普通の人間じゃねぇからな。それはともかく、つまりはそういうことなんだ。俺も、お前と同じように、全てを知っているわけではないし、知っていることを話すこともできない。したくないんじゃなくて、しようとしていないんでもない。本当の意味で、できないんだ。けれど、フォウンダーの連中は違う。あいつらの封印は、俺のものよりも遥かに弱い……そして、恐らくフィッシャーキングの封印も、俺のよりは弱いはずだ。」
「では、なぜあの男はフォウンダーと話したがっている?」
「分からねぇよ、たぶん……何かがあったんだろう、お前が言う、レベル・バイオレットの事件の後にな。何か状況が変わることが起きたんだ、フィッシャーキングの知らないうちに、あいつの頭越しに、な。」
そういうと、もう既に手のひらにすっぽり収まるほどの小ささになったドーナツを、アーサーはぽんっと自分の口の中に放り込んだ。素早くそれを咀嚼して、そして飲み込む。指の先についた欠片をべろべろと舐めながら(結局、アーサーは一欠けらも会議室にドーナツの屑を落とさずに食べ終えていた)話を続ける。
「俺が言ったのは、そういう意味だ。フォウンダーと、フィッシャーキングが話しているのを聞けば、もしかしたら俺の封印されていない部分の、輪郭を掴むことができるかもしれない、少なくとも、今ほど曖昧な状況ではなくなると思う。ただ、俺はあいつとは話したくないし、あいつだって俺とは話したくないだろう。ああ、勘違いするなよ、あいつが俺を嫌っているわけじゃない、俺はあいつが嫌いだけどな。ただ、会うべきではないから会いたくないんだ。それはともかく、何か正当な理由をこじつけない限りは無理だろうな、例えばヴィレッジ部隊の隊長が面会を求めているとか……知ってるか、グレース? ノスフェラトゥっていうのは思いのほか正当な理由ってやつに弱いもんだぜ? 数式のイコールの後に、必ず同じ答えを出してくるタイプの奴らだ、あいつらには感情ってもんが、ほとんどないからな。」
そう言うと、手のひらについた屑まで綺麗に舐め終えたアーサーは、くしゃくしゃのコートのポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して手を拭いた。拭き終わると、そのまま畳みもせずにまたポケットの中に突っ込む。
「アーサー。」
「なんだよ。」
「君は長い間、ハウス・オブ・トゥルースとは……」
「アメージング・グレース。よしてくれよ、夜警公社は民事不介入だろ? それに、確かに俺はあいつのことが嫌いだが、仕事にプライベートを持ち込むほどじゃねぇぜ。」
「……ありがとう、アーサー。」
グレースは、ふっと小さく息を吐いた、その吐いた息の中には、少しだけ落ち着きとか、安心とか、例えばそういったものの欠片が確かに混ざっているようだった。それから、少しだけ背を後ろにそらして、アーサーに向かって言う。
「アーサー。」
「だから何だって。」
「君は、フィッシャーキングが何をしようとしているか分かるか? つまり、フォウンダーと会うことで、一体なんの情報を得ようとしているのかを。」
「いや……推測はつくが、まだはっきりしたことは分からねぇよ。」
「あの男が、何を考えているのか、それが分からないうちに動くのは、あまりに危険だ。だから、君にはそれを探ってもらいたい。もちろん、今の捜査に平行して。君にフォウンダーとの会見を開いてもらうかどうか決めるのは、それが分かってからにするよ。」
ガレスはそこまで言うと、言葉を切った。そして、目を開いたままで、じっと目の前のテーブルの、平のところを見下ろした。これはガレスのいつもの癖で、考え事をまとめている時のポーズの様なものだった。アーサーは、それを見ると、わりあいと満足そうな顔をして笑った。
ガレスは。
やがてまた口を開く。
「これからの捜査方針は、大きく分けて三つ。まず一つ目が、ホワイトローズ・ギャングの線。これはアランと春杏に任せる。二つ目が、今まで通りの捜査だ、グールたちとその周囲にあるものから、この事件の輪郭を推測する。三つ目にフィッシャーキングが何を考えているのか、そして何をしようとしているのかを探る。二つ目と三つ目を、君とメアリーに任せる。これで、いいな?」
「ああ、分かった。」
「私たちはこの世界に比べれば蟻のように無力だ。しかし……」
「しかし、それでも存在していないわけではない。」
アーサーは満足そうな笑みのままで。
ガレスの言葉に、言葉を継いだ。
「それでこそアメージング・グレースだよ。」
そういうと、アーサーは椅子の背にもたれかかって、ぐーっと伸びをした。ふわーあと、ついでに大きなあくびまでして、極限まで体をリラックスさせてから、さてと、という感じでドーナツの箱に手を伸ばす、その時に、ふ、と何かに気が付いたような顔をした。わざとらしいほどの、表情の変化だった。それから、居心地悪そうな表情をしてガレスの方に顔を向けると、そういえば、とでもいわんばかりの声で、言う。
「そういえば、グレース。言ってなかったことがあるんだが。」
「なにかな、アーサー。」
「今日、ホテル・レベッカに行く前に一人少女を保護した。」
「少女を? それがどうしたんだね。」
「そのお嬢ちゃんが倒れていた場所で、二人のチンピラが殺されていた。一人は首を切られた状態で、もう一人は胸を刺されていた。どうやら凶器は、鎌か何かのような鋭利な刃物だと思われる。」
そこまでアーサーが言うと。
ガレスは何かを感じ取った。
口を閉じたままで。
アーサーの次の言葉を待つ。
アーサーは歯切れ悪く言う。
「被害者は、二人とも同じジャケットを着ていた。背に白い薔薇、逆さペンタゴンの形をした、白い花弁、分かるよな、ホワイトローズ・ギャングの下っ端が良く着てるやつだよ。まさか支給品の制服とは思わねぇけど、何であいつらみんな同じような服着てるんだろうな。それはともかく、その殺害現場が例の爆破現場から随分近かったことから、恐らくこの二つの事件には何らかの関係があるものとにらんでいる。俺の勘だがね。」
決定的な言葉をなるべく避けているかのように。
けれど、ガレスは何も言わない。
ただ鼈甲縁の眼鏡、アーサーをじっと見ている。
仕方なく、アーサーはふーっとため息をつく。
そして、その言葉を。
「現場はシープ・マークのすぐ下にあった。」
口にする。
「容疑者はブラックシープだ。」
「つまり君は、ブラックシープも今回の事件に関わっているだろうというのか?」
「正直な俺の意見を聞きてぇか? 十中八九間違いなくかかわっているよ、あいつは……というか、NHOEがな。」
「何か根拠があるのか?」
「まあな。」
ガレスは、何も言わずにアーサーから目をそらした。
アーサーは、構うことなくその先を続ける。
「それに、それが最悪の話というわけでもない。」
「どういうことだ?」
「少女はブラックシープの他にもう一人を目撃している。そのもう一人はこういう姿をしていたそうだ、真っ黒な服を着て、真っ黒な布で顔を覆い、そして黒く長い髪を背にまとめて。恐らく神父の格好だが、それにしては全身を黒で覆い隠した姿。」
アーサーはそこで一度言葉を切る。
ガレスは目をそらしたままだ。
アーサーはまた口を開く。
「ファーザー・フラナガンと名乗ったそうだ。」
それからアーサーは、ぐっと手を伸ばしてガレスの目の前に置いてあったドーナツの箱を自分の手元に引っ張って持ってきた。膝の上にすとんとそれを乗っけると、開きっぱなしになっていた箱の中からドーナツを一つ取りだす。先ほど食べたドーナツとまるで同じようなクロワッサンドーナツだったけれど、上にかかっているチョコレートが、今度はホワイトチョコレートだった、双子の兄弟のようなもの。
ガレスは目の前で握っていた両手を、ゆっくりとほどいて離した。どうやら、いつの間にか強く握りしめてしまっていたらしい、両方の手のひら、まるで固い枯れ木のようなその手のひらは、鬱血してしまい、少し赤みがかかっていた。そのまま、開いた手のひらに目を落としたままで、クロワッサンドーナツの一口目を口の中でざりざりと咀嚼しているアーサーに向かって、口を開いた。
「あの……あの男が、なぜそんな場所にいたんだ。」
「とある情報筋から聞いたことだが、フランガン先生は、今回の件と関係してNHOEが退院させたんだそうだ。俺としては恐らくホワイトローズと、それからグールの連中への対抗策としての行為だと思ってる。だから今夜、先生はブラックシープと一緒に、ホワイトローズのチンピラどもを殺したんだ。」
「ノヴェンバーか?」
「とある情報筋だよ。」
「そうか。」
「なあグレース。あんたが過去にあいつと……あいつっていうのはNHOEと、っていう意味だけど、とにかく、あいつと何があったのかは知らねぇけどな、あいつだっていい大人なんだぜ? いつまでも、あいつのすることに、お前が責任を感じている必要なんてないだろ? それに今回の件に関しては、恐らくあいつのしていることは正しいものだぜ? 俺の推測に過ぎないけど、たぶんあいつは、ホワイトローズのやることを阻止しようとしているんだからな。」
「既に二人を殺している。」
「そんなこと言ったら春聯はどうなるんだよ。」
「少なくとも彼女の行為は法の下での決定だ。」
「おいおいグレース。NHOEが法を持ってないっていうのか? 俺たちが戴いている法がノスフェラトゥの作ったもので、あいつの戴いている法が自分の作ったものだっていう違いがあるにせよ。」
「法は契約だ、国家と我々との。つまり、我々が求めている秩序だ。けれど、彼が戴いているそれは、ただの独りよがりにすぎない。秩序を壊すものは、混沌であって、法ではない。」
「アメージング・グレース。」
「なんだね。」
「お前さ、NHOEのこと、NHOEって呼ばねぇんだな。」
アーサーはそう言ってにへらっと笑うと。
また、一口分のドーナツを口の中に噛みとった。
「アーサーさま!」
いつものように、会議室から出てきたアーサーを見て、メアリーはしっぽを振りながら飼い主に飛びつく子犬のような顔をした。今回は、ぴょんっていう感じで、はしたなく立ち上がるようなことはせず、優雅に椅子を引いて立ち上がると、とてとてとぽっくり靴でアーサーに近づいていき、そして思う存分にぎゅっと抱き付いた。
「おー、パピー。待たせたな。」
アーサーもいつものようにそういうと、メアリーの背を抱いて、ぽんぽんと叩いた。こすりつけるようにしていたメアリーは、その顔を上げると、あごをとんっとアーサーの胸のあたりに乗せたままで問いかける。
「それで、ガレスさまはなんておっしゃってまして?」
「ああ、別に目新しいことは何も言われなかったぜ。」
「本当ですの? わざわざお呼び出しをされましたのに!」
「これからの捜査方針についてだよ。ほら、例の、春聯が動き始めただろう? あいつらとの住み分けについてご指示承ってたのさ。ホワイトローズの方の線は、これからは春聯とアランが追うことになった。俺たちが追うのは、グールの線と、サヴァン隊長の線、それからブラックシープとフラナガン先生の線だ。つまり、これから例の件に関しては、俺たちとアランたちの、二班に分かれて操作するってわけさ。」
「まあ、そういうお話でしたのね。」
「これが片付くまでは他の事件は全部エルとフロッグに回されるんだそうだ。全く、あの二人も貧乏くじばっか引かされてんな。」
それを聞くと、メアリーは納得しましたわ、とでも言わんばかりに何度も頷いてから、ようやくアーサーの体から、ぺりっと剥がれるようにして、離れた。とっとっと、後ろ向きに跳ねるようにして下がった後で、とん、とん、と、ぽっくり靴のつま先で、何度か床を叩く。そして、それから、ちょっと何かを悩んでいるかのような顔をして、アーサーの方に向かって、首を傾げる。
まるで正しいものが。
正しいところに、なかった時のようにして。
本当に、とても、不思議そうな声をして。
メアリーは、言う。
「あのお方は、フラナガン神父さまは……」
「あ?」
「フラナガン神父さまは、きっと何か理由があってあそこにいらっしゃったのですわ。ブリスターの、あの場所から出られてから、まだ何日も経っていないのに……フラナガン神父さまは、とても優しい方です。きっと、何か、理由があって……」
そこで、口を止めると。
メアリーは、下を俯いて黙ってしまった。
アーサーは、そんなメアリーの肩に手を置いて。
ゆらりと、言葉を滑らせるようにして、言う。
「フラナガン先生はな。」
この言葉だけを、アーサーは。
けれど、そこで言葉を切って。
何か、ひどく、複雑そうな顔をする。
奥の歯をぎっと噛んでから、口を開く。
「特別な男なんだってよ。」
「特別?」
「ああ、ひどく、特別な男だそうだ。」
自分は、とアーサーは言いながら考える。自分は、まるで、ノヴェンバーみたいに話すな、と、他人事を考えるようにして、そう考える。何かを隠そうとしているかのように。そして実際のところ、アーサーは隠そうとしているのだった、自分の知らなかったことを、隠している。どこに地雷が埋まっているのかわからない地雷原を、ゆっくりと、手さぐりで這って行くようにして。自分がとんでもない間違いを、とんでもない愚かなことを、とんでもない取り返しのつかないことを、口にしないようにして。
けれど、それに果たして何か意味があるのだろうか? 全ての事柄は、アーサーには測りがたかった。アーサーは、己が駒であることを知っている、そして、そのことを、とうの昔に受け入れている。サヴァンや、ノヴェンバーのようには生きていない。だから、だからこそ、己のものではない重力をその身に受けて、その重さを知っている。それは、ただ知っているというそれだけのことだ、ただひたすらに、流されていくように、その体に他人の体を巻き付けたまま、暗い海へと流されていくかのように。アーサーは、その水の、温度を知っている。
そして、メアリーは。
アーサーが、その水の温度を。
知っていることを知っている。
だから、メアリーは肩に置かれたアーサーの手を両手できゅっと掴んで、自分の顔の前に持ってくる。アーサーの指を、一つ一つ折りたたんでいって、人差し指だけがぴんと伸ばされた形にする。その人差し指を、例えば、しーっと、聞き分けのない幼児を黙らせるときのようにして唇に当てて、それから、片目をいたずらっぽくつむった。にっと、口の形を笑わせた形にして、それから、アーサーに向かって、こう言う。
「解っていましてよ、アーサーさま。」
透明な飴玉のような声を。
舌の上に淡く乗せるように。
「アーサーさまがおしゃべりできるようになるまで、わたくし、いい子で待っていますわ。」
そう言うと、メアリーはぱっとアーサーの手を離した。
ふふふ、と無邪気な笑顔で笑いかけたままで。
アーサーは、その笑顔に一瞬だけ虚を突かれた顔をして。
それから、にへらっと、笑い返すようにメアリーに笑う。
「ありがとうよ、パピー。」
ふーっとため息をつきながら、アーサーはふと、自分が左の手、メアリーの方に乗せてなかった方の手で、ドーナツの箱をぶら下げたままだったことに気が付いた。少し考えるようにして、んーっと首を傾けてから、それを、んっと付きだして、メアリーの方へ。メアリーは、それをもむっと両手で受け取って、しっかと胸に抱きしめた。えへへ、というメアリーのいつもの笑顔に向かって、アーサーも、いつもの口調、どこかふざけたような口調に戻って、言う。
「ま、悩むのはお偉いさんに任せときゃいいよな。そんな高い給料もらってるわけじゃなし、俺たちは俺たちの仕事に戻るとするか。」
「はいっ、アーサーさま!」
「とりあえずはサヴァンと約束した報告書をまとめねぇとな……いや、それは後で良いか。」
「まあ、アーサーさまったら!」




