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#11 誰でも少しくらい狂っているところがあるものです

 ベルヴィル記念暦985年2章14節。

 日の欠片が地平線に、夜をかみ殺す口のようにして、姿を現し始めるその早朝の話。ここには鳥の声は聞こえない。車が通り過ぎていく音も。自然が構成し始めるはずの、行動の前奏曲、そう言ったものは、このグールタウンには存在するはずもなかった。この場所は、誰もが知っている、まるで、凍り付いた時間の中に存在している、死にかけた砂時計のようなものだ。全ての物質が、本来の形として、静止し、静かに朽ちていく場所。

 けれど、その朝は。

 けれど、この場所に。

 異物としての、運動が紛れ込んでいる。

 ただ、黙々と、人の動く音だけが、静寂の中で響いている、その響きは、どこへ行く当てもなく、ただ異物としてのその存在を、居所もなく漂わせているとしても。瓦礫が互いにぶつかり合い、鳴らすありあわせの打楽器のような音。まるでこの静寂を切り裂かないようにと、自然と囁き声になる人と人の声。それから、人が運ぶことができないくらい大きな残骸を運ぶための、重機の唸り声。

 そして、その異常の音楽を。

 指揮している、一人の男がいた。

 ホテル・レベッカの、というかホテル・レベッカであったものの、目の前にある大通りにその男は立っていた。腕に付けている、まるで腕時計のような形をした(実際それは腕時計としての機能もついているという噂なのだが)通信機に向かって、それぞれの持ち場についている、それぞれの隊員たちに支持を出しているのは、まるでわざとらしく作り上げられた、ほとんど完璧な体つきでありつつも、一か所だけ歪んだように、まるで右足を引きずるように、そういった歩き方をしているために、かえってその歪みがまるで許容されえない世界の歪みであるかのように、全体までもが恐ろしく歪にみえている、つまりそのオーケストラの指揮者は、サヴァン・エトワールであった。

 ホテル・レベッカの爆発現場の。

 後片付けと、捜査をしている。

「ああ、ミスター・アザレ。その通りだ。何度も言っているように、「仮にこの空を日の光が支配していた場合、その日の光が照らし出し得る範囲」から下へは、決して入ってはならない。例えそれがパンピュリア共和国とグールとの協定であったとしても、パンピュリア共和国がBeezeutの加盟国である以上は、私達もそれを破ることは許されないのだから……待て、どうやら彼らが戻ってきたようだ。現場の指示は任せる、何かがあったらまた連絡してくるように。サヴァン、以上だ。」

 そういうと、サヴァンは。

 通信を切って、そちらを見た。

 大通りの一方から一台の車がこちらの方へと向かってきていたのだった。少しだけ世界の形象を明らかにし始めたようなこの早暁の元で、まるで塗り残されたような黒い色をしたその車は、見間違えるはずもなく、夜警公社の社用車だった。サヴァンが指示をしている場所の、すぐそばに騒々しくその図体を停止させると、中から出てきたのは、運転席からはアーサー・レッドハウス、それから助手席からメアリー・ウィルソン、いつもの二人だった。ちなみにメアリーの方は、いつものようにドーナツの箱をピクニックバックのようにしてぶら下げている。

 サヴァンは気を付けをして。

 右手のひらを顔の横に掲げ。

 左の拳を背骨の上に当てて。

 ヴィレッジ式の敬礼をする。

「サー・アーサー。それに、メアリー嬢。お二人とも、ご無沙汰をいたしております。」

「おー久しぶりだな、隊長。」

「お久しぶりですわ、サヴァン隊長さま。」

 二人とも、サヴァンの姿勢とは対照的に。

 気の抜けた返事で、挨拶を返した。

 アーサーは、特に急ぐ様子もなくサヴァンの元に近づいていくと、無造作にその手を取って、割合と粗雑に握手をした。サヴァンも、こう言ったアーサーの性格にはそれなりに慣れているので、特に逆らうこともなくその手を握り返す。

「共同捜査になったんだってな。グレースから聞いたぜ。」

「はい、これからよろしくお願いいたします。」

「そんな堅苦しくなんなよ、隊長。」

「わたくしも! わたくしも握手しますわ!」

 アーサーとサヴァンが握手する横でぴょんぴょんとメアリーが飛び跳ねるようにしてまとわりつき、言った。アーサーは「しょうがねぇやつだなぁ」と言いつつもサヴァンの手を離し、そのまますべるように滑らかな手つきでメアリーと握手をした。メアリーは、一瞬だけ、え?という顔をしたのだけれど、それはメアリー的に握手をしようとしていたのは、アーサーとではなくサヴァンと、であったからで、でもまあ握手自体はできたので、それはそれとして良しとすることにした。

「オールドマン班長からは、どこまでをお聞きですか?」

「ああ、こっちの方じゃそんな人員も避けないから……なんせ七人の小所帯だからな……それに予算もそんなに使えるわけでもねぇし、力仕事はお前んところでやってくれることになったんだろ? ありがとうよ、感謝するぜ。」

 アーサーはメアリーの手をぶんぶん振り回すように握手しながらそう言った。メアリーはきゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでいたのだけれど、やがてはっと、その握手をしていない左手にぶら下げて、しかもはしゃいでいたせいでぶんぶんと振り回してしまっていたドーナツの箱に気が付いたようにして、はわわっと慌ててアーサーの手を離した。そして、取り繕ったようにしてドーナツの箱を両手で持って、サヴァンの方に向かってそれを、少しだけ恥ずかしそうに指し出す。

「これ、その、ヴィレッジの皆さまに差し入れですわ。」

「俺の発案だぜ。」

「まあ、アーサーさまったら。お金は二人で出したでしょう?」

「ありがとうございます。作業が終わったら、皆で頂きます。」

 サヴァンは、二人のこの呑気具合に、さすがに少しイライラしてきたような声で、それでも感謝の言葉を述べてそれを受け取った。受け取った後でよく考えてみると、この近くにはドーナツの箱を置くところもないし、少なくともこの会見が終わるまでは、いかにも阿呆らしくこのドーナツの箱を、右の手か左の手にぶら下げて持っていなければいけなくなる。ぎっと、苦々しげな顔をしてアーサーの顔を見てみると、にやにやとサヴァンの方を向いて、してやったりの笑い顔を浮かべていた。

 けれど、もうどうしようもない。

 サヴァンは少し考えた後で。

 左の手にぶら下げて持っていることにした。

「ところで、サー・アーサー。先ほどの続きですが。」

「あーと、何の話をしてたんだっけな。」

「これから、共同捜査についての話です。」

「そうだったそうだった。」

「念のため要点をまとめさせていただくならば。オールドマン班長の発案により、互いの利点をいかして、それぞれが別個の捜査をしつつも、最新の情報に関しては共有していく、という内容で合意に至りました。ここまではよろしいですね。」

「ああ、よろしいぜ。」

「ありがとうございます。さて、それでは……」

 サヴァンは、芝居じみた感じで。

 そこで、一度言葉を切ると。

 暫く、効果的な間をとってから。

 また、口を開いた。

「ここで、一体何があったのですか?」

「おー、さっそく情報共有ってわけか。」

「その通りです。」

「全く、仕事熱心な男だな。」

「それで?」

「大体のことは知ってんだろ? ヴィレッジさんは何だって知ってるもんだ。今回の事件だって、こっちから何の連絡もしてねぇうちに、もうこれだもんな。」

 アーサーはそういうと、馬鹿にしたように肩をすくめた。サヴァンはその言葉に対して、明らかにイライラしているように右手の指を、小指からゆっくりと親指に向かって折りたたみ、またパッと手のひらを開いて、そしてまた折りたたむ、という動作を繰り返し始めた。言うまでもないが、これはサヴァンがイライラしている時の目印である。

「当然ですが、このホテル・レベッカの爆発が……」

「これ、ホテル・レベッカだったのか? へえ、随分と変わっちまったもんだな。瓦礫の山にしか見えなかったよ。」

「アーサーさまったら。ダメですわよ、隊長さまのお話に口をはさんでは!」

「そりゃそうだったな。すまねぇ、隊長。」

「……爆発が、先日のダレット列聖者殺害に直接関係がある証拠はどこにもありません。しかし、グールタウンで起こった事件、事故は、まずは例の殺害に結び付けて考える、それがヴィレッジの基本的な捜査方針だと思ってください。そして今回の爆発は、仮に街の反対にいても、ハニカムを伝わって伝導されてくるほどに、大きな爆発でした。つまり、今ここで私達が捜査を開始していることは、私達の情報収集能力とは何の関係もありません。」

「はっはー、そうかそうか、なるほどな。」

「従って、こちらとしては少しでも情報が欲しい状況なのです。お分かりいただけますね?」

「もちろんだよ、隊長。」

「それでは……」

「情報ってやつは何より大切だからな。俺たちはどうやら、ここにいてもお邪魔みたいだし、これからすぐに報告書を作りに帰るよ。それがうち組織の上の方にまで吸い上げられていって、幾つも幾つも承認の判子を押されたのちに、最終的には丁重謹呈、ヴィレッジさんのところに届けられるだろうさ。ま、それまで待っててくれよ。組織ってやつはそういうもんだろ?」

 アーサーのからかうようなその口調を聞いているうちに、サヴァンの開いたり閉じたりする指の動作の速度が、どんどんと早まっていって、アーサーがそれを言い終えた直後に、ついにそれがぴたりと止まった。そして、その手のひらは親指をぴんと立てて、人差し指をアーサーに向けて、指さす形になった。反対の手を握りこぶしの形にして、サヴァンは自分の口に口付ける様にそれをつける。イライラが最高潮になった時に、サヴァンの体がその爆発を抑えるために、いわば自己防衛の形として自然と取る姿だった、それを見て、アーサーはますますにへらけた笑顔をにへらけさせる。

「サー・アーサー。」

「なんだよ、隊長。俺たちがさっさと帰って報告書を仕上げないと、それだけお前のところに報告書が行くのも遅くなるぜ? なあ、メアリー。」

「そうですわね、隊長さまにご迷惑を掛けないように、すぐに報告書を仕上げないといけませんわ!」

「報告書はもちろん頂きたいと思っていますよ、メアリー嬢。もちろんです。ただ、それとは別にここでもあなたのお話を聞きたいと思っているのです、サー・アーサー。」

「俺の話?」

「ええ。あなたの話を、です。」

「そんなこと言われたってなぁ……特に話すことはねぇよ。俺がここに着いた時には、もうこうなってたんだ。特に見るべきものは残ってなかったよ。その後はすぐに現場を離れちまってたしな。」

「そういえば……」

 くっと、サヴァンの虹彩が。

 少しだけ瞳孔を開げた。

「あなたたちはなぜ現場から離れていたのですか?」

「ああ、すまねぇな、この爆発とは関係ねぇよ。ちょっとダウンタウンの方であった事件の、後始末があってな。」

「被害者の少女を病院まで送り届けていたのですわ、隊長さま。」

「帰りにドーナツ屋によってな。」

「まあ、アーサーさまそのお話は内緒にするって!」

「ははっ、すまねぇすまねぇ。」

「二人、殺害されていたようですね。」

「何だよ、知ってんのか?」

「その二人は、ホワイトローズ・ギャングの構成員だったとか。」

「言っただろ、メアリー。ヴィレッジは何でもお見通しだってな。」

「前回の殺鬼現場にも、彼らの印が残されていたそうですね。」

「そうだな、隊長。」

「何か、関係があるとお思いですか?」

「おいおい、推測で話を進めるやつは夜警官失格だぜ?」

「ブラックシープ。」

「全く、困ったやつだよ。」

「エドワード・ジョセフ・フラナガン。」

 サヴァンの口が、その名を紡いだ時に。

 アーサーが、初めて言葉に詰まった。

 へらへらと笑っていた視線は消えて。

 そして、形だけの笑顔に変わる。

「なんでおまえがそれを知ってんだ?」

「ジョージとメアリーは何処にでもいるのですよ。」

「あいつらはシールズ総管理官のおつきだろ?」

「あなた方が良く使う比喩表現をお借りしただけです。」

 サヴァンは、また、芝居じみた態度。

 両の手を、体の前で広げる。

「さて、サー・アーサー。少し……突っ込んだお話をさせて頂きたいですね。」

「何も話すことはねぇよ。」

「あなたは私が何も知らないとでも思っているのですか?」

「知ってんなら俺が話す必要もないだろ?」

「いい加減にして下さい。九年前の事件について、私が何も知らないとでも? あの事件に、グールと、そしてノスフェラトゥがどうかかわっていたのか知らないとでも? 私は九年前も同じように、ヴィレッジに所属していたのですよ?」

「何を言ってるのか分からねぇな。」

「……なるほど、よく分かりました。」

 最初から期待などしていなかったのだ、サヴァンは、何か話が聞けるかどうかなど。本当に、サヴァンが知りたかったのは、アーサーの反応であった、それも二つ、フラナガンという名前と、そして九年前の事件について……九年前の事件に関しては何ともいえないが、フラナガンという名前に関しては、それはもう得ることができた。若干、不満は残るが、思ったよりも上々の成果だ、特に相手が、サー・アーサーであるのならば。恐らく、いくらサー・アーサーといえども、少し動揺していたに違いない。あとは、私が口にするべきことではない、サヴァンはそう思った。下手に口を出せば、逆効果になってしまう、己が選択したということにしなければ。説得する役は、自分である必要はない、他の人間が、してくれるというのなら特に。だから、サヴァンはこう言う。

「報告書をお待ちいたしております。」

「ああ、特急で仕上げるぜ。なあメアリー?」

「もちろんですわ、アーサーさま!」

「オールドマン班長にも話は通しておきますが、例の、ブラックシープによるホワイトローズ・ギャング構成員二名の殺害に関しても、同じように報告書の提出を望みます。」

「それの可否は俺が決めることじゃ……」

 アーサーがそこまで口を動かした時に。

 ふと、その口を止めた。

 音を、聞いたのだ。

 一台の、車が、近づいて、くる音。

 しかもそれは、ただの車の音ではなかった、アーサーの耳には明白なことであったが、それは、夜警公社の社用車の車がたてる音だった、アーサーとメアリーが乗ってきたものと同じ、覆面社用車のたてる音。ふっと、アーサーはそちらの方に振り返る。つられて、メアリーもそちらの方に目を向ける。

「あれは……楊さまでは?」

「ああ、運転席にはラ・モールがいるしな。」

 目立つことのない運転だった。特にどうといって派手な点はない、ごくありきたりな運転で。けれど、少し耳と勘がいい人間なら、その運転が、あまりにも、目立たなすぎることに気が付くだろう、音を立てず、まるで水の内側にこんにゃくが滑り込むようにして、静かに静かにその場所に止まる、その場所、いつの間にか、その車はアーサーと、メアリーと、それからサヴァンのすぐ近くにまで、近寄ってきていた。

 助手席から、その静かさとは全くの不似合で。

 ばたーんと、一人の女が出てくる。

 肩の少し下まで、重く流れている、漆黒の髪。

 一度も糊をつけたことがないようなくしゃくしゃのスーツ。

 彼女の名前は、楊春杏。

 夜警公社ブラッドフィールド本社通常化班所属。

「招福招福! アーサーサン、元気にしてるのことアルか?」

「ああ、まあな。」

「こんにちはですわ、楊さま。」

「万雷鳴動! メアリーサン、相変わらずとってもおいしそうアルね! そのせいで我、メアリーさんのこと、とっても食べたいのことよ! ちょっとだけ、ちょっとだけ舐めさせてくれないアルか?」

「まあ、楊さまったら!」

 くんくんと、まるで何かの種類の嗅覚が発達している動物のようにしてメアリーの方の匂いを嗅いでくる楊に、くすぐったそうにして笑いながらメアリーはそう言った。しかし、さりげなくアーサーがメアリーと楊の間に割って入って、それの邪魔をすると、楊は気を取り直したようにぱっと体を起こして、また元気いっぱいに張り上げた声を周囲にまき散らし始める。

「さあさあさあ、元気アルか? 元気アルか? それはいいことね、素晴らしいのことよ! おや、そちらにいるはサヴァン隊長サンアルか? 招福招福! 元気にしてるのことアルか?」

「ええ、楊女士。」

 サヴァンは、うんざりした顔をして言葉を返した。

 サー・アーサーといい、この女といい。

 なぜOUTには、厄介な連中ばかりが集まるのか。

「それは結構、まことに結構のことね!」

「なんだよ、春聯。何でこんなところまで来たんだ? 何か用か? まだシフト変わる時間でもねぇだろ。」

 ちょっと引きつったような笑みを浮かべる変な女だった、首にはぴったりとした、金属製のネックレスのようなものが付いている、おしゃれでつけているとかそういうものよりも、むしろ磁石で肩こりを直すとか、そういったたぐいのやつに似ていた。そのネックレスと首の隙間をしきりと爪の先で引っ掻きながら、春杏はアーサーの方に仰々しく振り返った。

「そうそう、それそれ! 我は用があってここに来たのことよ!」

「だから、その要件を言えって。」

「伝言あるアルよ、グレース班長サンがアーサーサンとメアリーサン、すぐに公社ビルに戻るのことを希望のことね、だから二人とも、早く車に乗って公社ビルに戻るいいアルよ!」

「公社ビルに?」

「そうそう、公社ビルに。」

「何でだよ。」

「それは我の知ることじゃないアルね。でもグレース班長サン、どうやらアーサーサンに用があるみたいアルよ。ごちゃごちゃ言ってないでさっさと戻るアルか!」

「いや、アルか!って言われても……」

 ととんっととんっと、春杏が何をしているかと言えば、その場でスキップを踏んでいる、まるで立ったまま貧乏ゆすりをしてるみたいだ。彼女が何をしたいのか全く分からない。少なくとも、メアリーとサヴァンには。アーサーは、どうしていいのか分からないような顔をして頬を掻いている。春杏は、そんなアーサーをけしかけるように続ける。

「ホワイトローズ・ギャングのことは我とアランサンに任せるのことね、アーサーさんとメアリーさんは早く早く! あ、でもメアリーさんはちょっとだけ我にぺろぺろさせてくれても……」

「任せる?」

「そうね。問題あるアルか?」

「それは……お前が仕事を言いつけられたってことか?」

「そうよ! だから我はご機嫌ね! 久しぶりのお仕事!」

「そうか、なるほどな。」

 そういうと、アーサーは少し考えるような顔をした。

 一瞬だけ。それからメアリーの方を見る。

 きょとん、として、全く状況の読み取れていない顔。

 次に、サヴァンの方を見る、そして口を開く。

「どうやら、俺とメアリーはちょっと用ができちまったみたいだ。」

「そのようですね。」

「とにかく、報告書は書くよ、すぐに上にあげるようにする。それがお前んとこに行かなくても、俺のせいじゃねぇよ、苦情は上の方にやってくれ。」

「分かりました。」

「じゃ、またな。」

「ええ、お会いできて光栄でした、サー・アーサー。」

「隊長さま、お元気で。」

「ありがとうございます、メアリー嬢。」

 そうサヴァンに向かって別れの挨拶をすると、アーサーとメアリーの二人は、自分たちが乗ってきた夜警公社の車の方へと戻っていく。そのすぐ近くには、春杏が乗ってきた二代目の社用車も止まっていて……その中に、目立たない風貌の男が乗っていた。どこをとっても普通のサラリーマンにしか見えない男、彼の名前はアラン・スミス。やはり、OUTの捜査官の一人だった。二人は、アランの方に、軽く目で挨拶をする。アランもそれに目礼を返す。

 二人はやがて自分たちが乗ってきた社用車にたどり着いて、そしてアーサーは運転席のドアを、メアリーは助手席のドアを開く。二人が乗り込んで、アーサーがエンジンキーを回した時に。メアリーが囁くようにして、口を開く。

「楊さまがいらっしゃったということは……」

「ああ、そういうことだ。」

 車にエンジンがかかる、身震いをするように車体が揺れる。

 アーサーは、ギアレバーを引いて車を発進させる。

「フィッシャーキングが例の現場で、オーディナリウム反応の検査をしたんだってよ。その結果、等級6のスペキエースがその場所にいたっていう反応が出たそうだ。」

「等級6? ダレット列聖者の方々に、ノスフェラトゥの始祖家の方々、ブラックシープに、この上に等級6のスペキエースまで関わってきますの!」

「全く、物事ってのは、これ以上厄介なことにはならないだろうって思うと、すぐにそれ以上に厄介なことになるもんさ。」

 アーサーは、そこで言葉を止めた、何かを考えているような顔をして。メアリーは、くっと首を傾げて、そんなアーサーのことを、不思議そうに見つめた。アーサーは、メアリーの方を向くことなく、ただ前だけを見ていたけれど、やがて、口を開いて、こう言う。

「グロスターのガキは、スペキエースだ。」

「まあ……! つまり、だから……」

「そうだな、そういうことだ。」

「でも、そうなると、楊さまは……」

「まあ、その辺は上の連中が考えりゃあいいことだよ。」

 ふーっと疲れ切ったようなため息をつきながら、アーサーは車を太陽が上がったばかりの朝の中に滑らせていく。はじめはゆっくりと、次第に早く。ふっと思いついたように、アーサーはメアリーの方に、いたずらっぽくウインクをして付け加える。

「この話は、誰にも話すんじゃねぇぜ?」

「も、もちろんですわ!」

「そのうち秘密でも何でもなくなるだろうけどな。」

 そう言ってアーサーは軽く笑った。

 後ろの方に光景が遠ざかっていく。

 完全に春杏に絡まれているサヴァンの光景。

 少しだけ、アーサーはサヴァンに同情した。


 確かにその動きの様は、自然であった、優雅ですらあった。けれど、それは自然すぎた、優雅すぎたのだ。サヴァンの歩き方は、完璧に計算しつくされた自然であった、ジムのトレーナーか何かに、完璧に計算させつくした自然。過剰さをはらみ、それは不自然へと転落せざるを得ない動作であって、そのせいで、サヴァンの歩き方は、見る者の目を、右足へと、何とはなしに吸い寄せるものだった。それが、サヴァンにとって、溜まらない苦痛であったとしても。サヴァンは、自分が完璧でなければいけないと思っていた、完璧な人間でなければ、もちろん、あの怪物じみた連中とは違い、それは人間の到達しうる最善であったが……しかし、それはここではどうでもいいことだ。

 サヴァンは、その完璧な歩行で。

 しかし、少し焦るようにテントの中に入る。

 しつこくまとわりつく春杏から。

 何とか、逃げて出してきたのだ。

「ああ、大丈夫だ。今テントの中に入った。それで?」

 サヴァンは、腕時計に向かって、喋っていた。

 通信の相手は、どうやらミスター・アザレらしい。

 何か、報告があるようだった。

「なるほど、やはり見つかったか。間違いないか? ホワイトローズ・ギャングのものに……そうか、分かった。いや、それはいい、深入りはするな、どうせ例の装置を見つけても、あれは私たちに分かる領域を超えた存在だ。今はグールとの協定の方を優先する。今は、な……例の少女の方はどうなった? そう、フラナガンを見たというあの少女だ。何か新しい話は聞けたか……分かった。いや、そちらはそれほど期待していない。また何かあったら連絡しろ。サヴァン、以上だ。」

 そういうとサヴァンは。

 その通信を、切った。

 ホテル・レベッカ爆破の現場近くには、二つのテントが作られていた。全て、ヴィレッジがつい先ほど作ったばかりの仮設のテントで、一つは鑑識用、もう一つはサヴァン隊長から総管理官への連絡用のテント、そしてもちろん、サヴァンが入ったのは連絡用のテントの方だった。こういった仮設のテントは、ヴィレッジの代名詞ともいえるもので、何とはいえ兎にも角にも、ヴィレッジというものはテントを立てたがるものだった。時々の状況によってもちろん立てるテントの種類は違っているのだけれど(例えば近くに怪我人がいそうな現場であれば医療用テントとかも作る)とにかくそれは幕屋であって、ヴィレッジの秘密主義の象徴のようなものとされている。

 実際、隊長あるいは支局長から総管理官への連絡テントなどといえばその最たるもので、それはただの布などではなく、セカンダリー・ボーヘナイズド・フーバイトを繊維状にしたものを、織り合わせて作った金属製のテントだ。ヴィレッジの通信に使われる以外の波長、盗聴や盗撮に使われる電波を、完全にカットできる便利な代物だった。ほとんど密閉された個室に近い機密を保てる部屋であって、そのためにサヴァンはこのテントの中にいるときに、ことのほか落ち着くことができるのだった。大きさもなかなか広い、折り畳み式の会議用テーブルが一つ置いてあって、小さな車ならば、一台位は収容できそうだ。

 サヴァンは、そのテーブルの上に。

 アーサー達からもらったドーナツの箱を乗せて。

 ふーっとわざとらしくため息をつくと。

 少し顎をそらして、口を開く。

「さて、と。」

 基本的にサヴァンはわざとらしい男だ。

 誰にも見られていない時も。

 もちろん、誰かに見られている時も。

「何か御用ですか? ノヴェンバー。」

 つまり、テントの中には、サヴァン一人ではなかったのだ。まるで夜の闇をその場所だけ塗り残してしまったようにして、その隅の方には黒い色が沈殿し、停滞しているように見えた。黒いフードと、黒いマントで構成されているその闇は、サヴァンが振り向きもせず声をかけた通り、間違いようもなくノヴェンバーだった。いつの間にか、ノヴェンバーは、その闇は、このテントの中にまで忍び込んでいたらしい、外は、ミス・ポンゼがずっと見張っていたはずだけれども、けれども闇というものは、どんな隙間からでも入ってくるものだ。

 ふっと闇が揺らいだ。

 サヴァンの方に向けて。

「この件に手を出すな、フィッシャーキング。」

 夜のような声が感情を表に出さず脅迫した。

 サヴァンは、くるっと体を回して。

 ノヴェンバーの方へと相対する。

「何か誤解があるようですが。」

 それから、気障ったらしくテーブルに寄りかかり。

 セリフじみた口調で、その続きを言う。

「今回に関しては、私の行動に他意はありません。単純に、ヴィレッジ支局長の職務として、混乱した状態を収拾しようとしているだけですよ。Lは、人の身が扱うには危険すぎます。」

「右足を失って、少しは学んだというわけか。」

「私の右足については触れないで頂きたいですね。」

 サヴァンの口調に少し怒りのようなものが混じる。

 演技のメッキが、一瞬だけ剥げるようにして。

 けれど、すぐに自分を取り戻して、続ける。

「こんなことを言う必要もないとは思うのですが、なにしろあなたも九年前のあの事件に関わっているのですからね、とにかく、Lは人間が手に入れられるものではありません、人間だけでなく、ノスフェラトゥであっても、グールであっても、それにあなた方、ディア・フレンズであってもね。私は自分の手に入らないものには興味がありません。むしろ脅威となるくらいだ、あの場所で眠っていて頂くのが、私としても一番都合がいいのですよ。」

「ならなぜ、フォウンダーと連絡を取ろうとしている?」

「よくご存じですね。さすがノヴェンバー。」

「とぼけるな。」

「情報収集ですよ、私の知らないことでも、始祖家の方々ならば知っていると思われますからね……私の言いたいことは解って頂けますよね、ノヴェンバー。つまり、あの装置のことです。」

 サヴァンの指先が、またテーブルを叩く。

 カカカカッ、カカカカッ、という音が響く。

「あの装置に関して、あなたは何かを知っていますか? 少なくとも、私は知りません、それにBeezeutも……シャボアキン事務次官は何かを知っているようですが、あの人は自分が知っていて他人が知らないことを、その知らない他人に教えるような人間ではありません。Beezeutの他に知っている者と言えば……ミスター・ブルーバードもやはり何かをご存じのようですが、私は彼に対して連絡を取る術を知りません。それからダレット列聖者の連中と……ノスフェラトゥのフォウンダー。今回の件は、全てあの装置に関わることです。フラナガン神父の退院、ダレット列聖者の殺害、リチャード・サードの暗躍に、それから……あなたの師と弟弟子の動向に至るまでね。あの装置に関して知らない限りは、この事件を解決することは難しい、私はそう思います、私は間違っていますか、ノヴェンバー?」

 サヴァンは寄り掛かっていたテーブルから。

 体を離して、少し乗り出すように問いかけた。

 けれど、ノヴェンバーは、身動き一つせず答える。

「お前は今回の事件で、二つのものを得ようとしている。」

「二つのもの?」

「Lを手に入れる方法と、フラナガンを葬る方法だ。」

「何度も言っている通り、私は事件を解決したいだけです。」

 くるっと、サヴァンはノヴェンバーに背を向けた。

 それから、テーブルの上にあったドーナツの箱を取る。

「そういえばノヴェンバー。コーヒーもお出しせず失礼いたしましたね。ちょうど、先ほどサー・アーサーから頂いたドーナツがあります。ドーナツはお好きですか、ノヴェンバー。」

 サヴァンの背に向かって。

 ノヴェンバーが声で答える。

「フィッシャーキング、もう一度だけ言う。この件には手を出すな。私はいつもお前を、このブラッドフィールドの全てを、見張っている。」

「あなたもしつこい人ですね。私は……」

 そこまでを口に出して言うと、サヴァンはドーナツの箱を持ったままで、ノヴェンバーの方に振り向いた。けれど、そこからは、既に夜の影は去っていた、蹲るような闇はいつの間にか消えていた。サヴァンは、軽く肩をすくめる。いつものことだ、ノヴェンバーは何も言わず、急にその場から消え去ってしまう。テーブルを振り返りもせず、サヴァンはドーナツを元あった場所に置いて戻した。それから、また静かにそのテーブルに寄りかかる。

 さて、問題は難しくなってきた。

 これから、どうするべきか。

 Lを手に入れる方法、フラナガンを葬る方法。

 前者は無理でも、せめて後者は欲しい。

 そのものは無理でも、せめてそれを知る人間を。

 サヴァンは、目をつむり、ゆっくりと己の思考へ落ちていく。

 右足の先が、一瞬だけ痛んだ気がしたが、気のせいだろう。

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