#10 君の世界はいつだって希望に満ち溢れている
「考えられる限りでの話だけれど。」
フラナガンは呟くように。
口の先に言葉を遊ばせる。
「最悪の状況だよ。」
シープ・サンクチュアリの。
闇の中に蹲るみたいにして。
「まさか、サー・アーサーにあんな所を見られるなんて……」
顔を覆うヴェールの上、それを更に手のひらで隠すように覆って、苦痛と後悔と屈辱の思い出すこともしたくないその記憶を振り払うように、頭をゆっくりと左右にゆすらせながら、フラナガンはそう言った。アーサーから危機一髪(というほどの状況ではなかったが)のところで逃げ出したフラナガンとブラックシープは、つい先ほどこの場所にまで帰ってきたところだ。そして、フラナガンにようやく今日の出来事を系統立てて思い出すだけの余裕ができてきたのだけれど、いざそれを系統立てて思い出してみると、あまりにも恥ずかしいというか、人生における(今のところでは)(本当に一体これから僕はどうなってしまうのだろう?)最高の汚点としか言うことができない出来事であったことを、冷静に受け止めなければいけないという事実に、はたと気が付いたのだった。ちなみに、冷静に受け止めていなければ、それこそ恥ずかしさのあまり喉を掻っ切って自裁して果てていただろう。
そもそも、この僕が、なぜヒーローごっこを? かつてはブラッドフィールドの最悪の悪魔と呼ばれていたこの僕が? かつてはED・女半・アルフォンシーヌと共にブラッドフィールドの全ての運命を三等分していたといっても過言ではない、ニガー・クイーン・コーシャー・カフェの支配人たる僕が(僕とカフェとの関係はあくまで噂にすぎません)? その僕が、なんだかわからない羊の仮装(羊! よりにもよって羊!)をしたなんだかわからない金持ちらしい人と、夜の悪を殲滅するための戦いに勇ましくコートをひるがえし馳せ参じ、挙句の果てにその姿をサー・アーサーに見られてしまうなんて! いくら生き延びるためとはいえ、そして比類なきケイト・マクロードのためとはいえ、これは、これは、おぞましいことだ、あまりにもおぞましい、おぞましすぎておぞましいくらいだ! そんな風に、考えれば考えるほど、あまりの恥ずかしさに思考がだんだんとまともでなくなってきていたフラナガンだったけれど、ブラックシープはそんなフラナガンの恥ずかしさを理解してあげようというという様子はさらっさらになく、とても上機嫌にスキップなんかしちゃって、背に羽が生えていたら空の果て、太陽の方にまで飛んでいってしまいそうなくらいだった(ここには空はないけれど)。
「今日は本当に、最高で最高だったね、ファーザー・フラナガン!」
誰彼かまわずキスをする馬鹿みたいな口調で。
ブラックシープは天花底抜けにそう言った。
顔を覆った指の間からちらとそちらを見て。
フラナガンは感情をなくしたような声で言う。
「君が喜んでいるようなら、何よりだよブラックシープ。」
「ジャスティス! 喜んでいる? 喜んでいるなんて言葉では言い表せないね、ファーザー・フラナガン! 今までの私は、完全な状態ではなかったんだよ、例えていうのならね。例えていうなら、半身を失っていたようなものだった……そして、いうまでもなくあなたがその半身さ、今日、初めて私はこの肉体が完全であることの喜びを知ったんだ! そう、確かにそれは喜びだよ、ファーザー・フラナガン、けれどそれは決して喜びなどという言葉では言い表せない!」
踊るような口調でそう言いながら、ブラックシープは蹲っていたフラナガンの体、かわいらしい子供が親の背に覆いかぶさるようにして抱き付いた。フラナガンはいきなりのブラックシープの肉体の重量に、ちょっとだけバランスを崩して前に揺らめくようにして「危ないよ、ブラックシープ」と言ったけれど、当のブラックシープは夢見心地な表情で、まるでそんなことは聞いていなかった。そぎ落とされた金属の刃のように冷たく筋肉質な体で、フラナガンに押し被さりながら続ける。
「あなたの活躍は本当に素晴らしかったよ、ファーザー・フラナガン! 惜しいところで、最後の最後で、悪は私たち正義の手のひらからまるで滑り落ちるようにして逃げて行ってしまったけれど……それでも本当に素晴らしかった! 特に、あの炎はかっこよかったね。悪の放った弾丸を、正義の化身である君の下に届く前に、全て焼き尽くしたあの黒い炎のことさ! 私はこれから覚えておくよ、正義の炎はまるで、悪を飲み込み噛み砕く、あの無慈悲な夜のように黒く燃え盛るということを!」
「ああ、うん、お褒めに頂き感謝するよ。」
「あれは魔法の炎かな? あなたは魔法も使えたのかい?」
「確かに魔法も、使えないこともないけれどね。一応、これでも僕は神父だから。ただあれは魔法ではないよ、土蜘蛛さ。昔、葛木のお姫様からもらったんだ。仕事の関係で、月光国政府とは色々と付き合いがあったから、ボディーガードの代わりにって。」
「土蜘蛛?」
「えーと、加工されたヌミノーゼ・ディメンションの破片だね。」
「ヌミノーゼ・ディメンション?」
「えーと。」
「何かどこかで聞いたことがあるような気がするね! それはともかくとして、あなたがまことの正義の人だということが証明された今日という日は、本当に最高の一節だった、というわけさ! あとは、うまうまと正義の裁きの刃から逃げ出した、あの三人の連中をどうにかして……」
そんなこんなのどうしたこうした。
話していた二人に向かって。
ぱっと、コンピューターの画面が光り。
そして、影法師のように浮かび上がる。
NHOEの、欠損した肉体の姿が。
『おかえりなさい、ブラックシープ。』
「ただいま、ノーハンズ・オンリーアイ!」
『そして、ファーザー・フラナガン。』
「えーと、はい。」
『どうでしたか、正義の執行者としての最初のパトロールは。』
「まあ、悪くはなかったね。」
「悪くはない? どうしてあなたはそう謙遜が過ぎるんだい、ファーザー・フラナガン! ノーハンズ・オンリーアイ、あなたが言った通りだったよ、彼は最高だった、真実の正義をその胸に抱いた、最高のヒーローだよ!」
そう言うと、ブラックシープはいじけたように蹲っていたフラナガンの体を、ぽんってな感じで軽々と抱きかかえた。お姫様抱っこのような形で、フラナガンはまたもやの突然のことに「え? なに?」って言ったけれど、そんなのにお構いするブラックシープなわけもなく、フラナガンを抱きかかえたままで、とっ、とっ、と音もなく、足場と足場を飛ぶように伝って、そして一番奥まった足場、一番大きな足場、つまり、NHOEが今いる、巨大なコンピューターのための足場にまで辿りついた。
すたり、とその場にフラナガンを下すと。
NHOEに向かって指し示し、そして言う。
「見て見たまえ、ノーハンズ・オンリーアイ! 正義に燃えるこのまなこを! そして今にも悪に飛び掛らんばかりのこの体を!」
「えーと、正義に燃えるまなこと悪に飛び掛らんばかりの体です。」
若干やけくそ気味に。
フラナガンはそう言った。
『それは素晴らしい。』
ブラックシープの熱い感動と、それからフラナガンの熱い困惑を、その一言で軽く受け流すと、NHOEはどこかしらかに設置されたスピーカーから流れてくる音声を、感情によって一ミリも動かすことなく、話の先を続ける。
『ところでブラックシープ。』
「なんだい、NHOE?」
『先ほど、三人の人間が悪を働きながらも、正義の裁きから逃れた、という内容の話をあなたはしていましたが、それは事実ですか?』
「くっ……」
ブラックシープは、いかにも悔しさに溢れた声を。
喉の奥から、かろうじて絞り出すようにして。
その、くっ……という声を呟いた。
そして苦悶に満ちた口調で、こう続ける。
「あなたの言う通りだよ、NHOE。それは事実だ。」
『一体、何があったのですか。私に詳しく聞かせてください。』
「私とファーザー・フラナガンは、二人でグール・タウンをパトロールしていた。とても心強かったよ、隣りに相棒がいるというのは。いつも、私一人でこの街の全てをパトロールしていたからね。それはともかく、アップルを中心とした時に、グールタウンの北、少し東寄りの場所に、一つのホテルがあった。名前は、ホテル・レベッカ。グールタウンのどこにでもあるような、何の特徴もない、朽ち果てて崩れかけた建物だった。ファーザー・フラナガンの発案により、私たちは建物の中、一つ一つの部屋まで、その深淵をきちんと覗きこんで、この世界の全ての悪を、虱潰しにすることにしていたからだよ……そういう腐りはてた建物の、そういう一室こそが、悪がその腐敗の温床とするには、まさに特に格好の場所だからね!」
『それは素晴らしい提案ですね、ファーザー・フラナガン。』
「ははは、まあね。」
「そして、私たちはそのホテルに入っていった。一室一室を調べて行こうとしたその矢先、恐らく従業員の控室と思われる場所に入ったその時に、私たちはそれを見つけたんだ……その薄暗い壁に、大輪の花が咲いているのを……白い薔薇、まるで五角形のように冷酷な、白い白い薔薇の花……そう、それはまさに、ホワイトローズ・ギャングの刻印!」
『ホワイトローズ・ギャング?』
「知らないのかい、ノーハンズ・オンリーアイ!」
『あなたは知っているのですか、ブラックシープ?』
「もちろんだとも、ファーザー・フラナガンに教わったからね!」
『なるほど、そういうことですね。』
「まあ、教えてあげたってわけでもないんだけどね。」
『分かりました、続けてくださいブラックシープ。』
「ホワイトローズ・ギャングは、恐ろしい悪の秘密結社だよ、ノーハンズ・オンリーアイ。彼らはこのブラッドフィールドに巣食う邪悪そのものだ、私は誓ったんだ、ノーハンズ・オンリーアイ……この悪の組織を根絶やしにし、その混沌の音楽をかき鳴らす楽隊の、おぞましい指揮者を血祭りにあげるまでは、決してこの心臓の鼓動を止めることはあるまいと……けれどこれはどうでもいいことだったね。」
「あーNHOE、誤解のないように言っておくけど、彼が勝手に誤解しているだけだからね?」
「とにかく先を続けよう。私とファーザー・フラナガンは、すぐにその悪の匂いを嗅ぎつけた。そして、速やかにハニカムへと降りて行った……ノーハンズ・オンリーアイ、あなたはハニカムを知っているかな? ハニカムとはこのブラッドフィールドの地下を網目のように駆け巡っている、グール達の棲み処のことだよ。」
『あなたは色々なことを知っていますね、ブラックシープ。』
「えーと、これは僕が教えたんだけど。」
「私とファーザー・フラナガンは、薄暗くじとじとと湿ったそのハニカムを進んでいったんだ、ノーハンズ・オンリーアイ……その洞窟には、確かに悪の気配が満ちていたよ、匂いがした、腐りはてた悪の、そのぶよぶよとした精神が放つ、淀み切った匂いが……勘違いしないで欲しい、グールのハニカムは、決してそれ自体が悪というわけではないんだ、そうではなく、それは、その悪の気配は、ただ単純に、その奥にいる悪のせいだったんだ。そして、その奥で、私たちは一つの装置を見つけた。」
『装置?』
「そう、装置だ。それは、まるでなにかの生き物の肉体のような姿をしていた。しかし、確かに何かの目的を持った、装置でもあったんだ。なぜならそれはテクノ・イヴェールで作られていたからね、ノーハンズ・オンリーアイ。生起的な方法で構成された、機械のことだよ。私たちは見た……その装置は、花びらのような指先に包まれた、その巨大な顔、口の中に、一鬼のグールの姿を幽閉していた。唾液のようにガラスの中に溜まった、緑色の光を放つ、透明な液体の中に、そのグールはまるで胎児のようにして浮かんでいたんだ、ノーハンズ・オンリーアイ。」
『それは、一体なんの装置だったんですか?』
「それは、ファーザー・フラナガンにさえ分からなかったよ。」
「僕にさえ分かりませんでした。」
「もちろん、ファーザー・フラナガンに分からないことが私に分かるはずもない。けれど、私たち二人にも、確かに分かったことが一つだけある……それは、そのグールが、苦痛に悶え、苦しんでいたということだ。私たちは二人とも、すぐにそれを察した。彼の鬼は苦しんでいる。その装置は何本ものケーブルを彼の鬼の頭に差していた、恐らくあれは何かしらの伝導体だったのだろう、そのケーブルを通じて、その苦痛は彼の鬼へと運ばれていたに違いない……そう、彼の鬼は苦悶の表情を浮かべていたんだ、ノーハンズ・オンリーアイ! 誰かが誰かを苦しめたり、痛い目に合わせているとしたら、それはためらうことなく悪と断定していい事実だろう? だから、私とファーザー・フラナガンはためらうことなくその装置を破壊して、彼の鬼を開放することにした。」
「ちょっとここら辺、事実と齟齬があるからね。」
『解っていますよ、ファーザー・フラナガン。』
「その作業は困難を極めた。テクノ・イヴェールで形作られたその檻は、決して破壊することができなかったんだ。私のこの金の蹄さえも、それはやすやすとはじき返した……私たち二人は、その装置を探り、何か解除の方法はないだろうかと、それも探してみた。しかし、何一つ見つけ出すことはできなかったよ。何一つね。そして、私たち二人があがき、無為に時間を過ごしているうちに……その後ろには彼らが迫っていたんだよ、ノーハンズ・オンリーアイ!」
そこでブラックシープは、どうやら話しているうちに、テンションがすごい上がってきてしまったらしく、がっと右の手を、その金の蹄を天に向かって突き上げた。
「ジャスティス、彼らが迫っていたんだ、ノーハンズ・オンリーアイ! 悪の化身、腐りきった精神と、歪み切った肉体を有した、おぞましい三人の邪悪よ!」
そして、ブラックシープは何の必要もなく、無意味に跳んだ! マジで本当に、その美しい跳躍には何の意味合いも存在していなかった、ただブラックシープは優雅に体を宙に投げ出し、そして、今いる足場よりも少し高いところにある、小さな足場の上に飛び乗った。それはまるで演説台の様な場所で、ブラックシープがNHOEに何かを説明していて、テンションが上がった時に、そこから名乗りを上げたり宣誓をしたりする時のように、気のすむまで朗々と説明するための……まあ、確かに演説台の様な場所だった。
「彼らは卑怯にも、一発の銃弾を私の後ろから浴びせかけた、私がまるで気が付いていない時に、だ! 危なかったよ、ノーハンズ・オンリーアイ、私は危なく、その悪逆非道な悪によって命を落とすところだった! しかし、その時に、だ! ジャスティス、この世の正義よ! 彼の者こそあなたのまことに使者なり! ファーザー・フラナガンが、私を救ってくれたのだ!」
『本当ですか、ファーザー・フラナガン?』
「えーと、僕が救いました。」
『それは素晴らしい。実に素晴らしいことです、ファーザー・フラナガン。』
「私は辛くも一命をとりとめた、最高の相棒のおかげでね。そして、私は、その弾丸が放たれた方向を見た。つまり、私を殺そうとした、私の正義の炎を消そうとした、その何者かがいる方向を見た……そこにあの三人がいたのだよ、ノーハンズ・オンリーアイ。」
そこで、ブラックシープは一度言葉を切った。
ちらっと、NHOEの方を伺って。
自分の言葉に、重力を持たせようとするかのように。
そして、十分に効果が出たと判断すると。
また、口を切って口上を始める。
「一人目は、ハッピートリガーと名乗った。恐らくノスフェラトゥだと思う、Gセンサーが彼の体からゼティウスを感知したからね。そして、それだけではないよ、ノーハンズ・オンリーアイ。彼は、レベル6のスペキエースでもあったんだ。能力は銃砲具心だ、そして、彼が具心した銃砲こそ、私の命を狙った武器そのものだった。二人目はパウタウと呼ばれていた。彼は人間だろう、ただし、彼もやはりスペキエースだった。レベル4、能力はジェネプラス。ある種の爬虫類のように体表に鱗が生じていて、そして壁面にへばりつくこともできるようだった。ただしこれだけの能力でレベル4に到達するほどのオーディナリウム反応を発することはできないから、ダブルの能力者の可能性が非常に高い。その場合の、もう一つの能力はいまだ不明だ。三人目は、グレイと呼ばれていた。彼女は、ライカーンだった、しかも月がなくても体を獣の姿にすることができる、希少種のね。彼女は実に手ごわかったよ、ノーハンズ・オンリーアイ……この私でさえも、実力の十パーセントを出さざるを得なかったほどにね! 彼女もやはり特殊な訓練を受けていると思われた、あの音のない身のこなしからいって、ライカーンたちが使う、例の名前のない暗殺術だろうね。この三人が、私の見た方向に立っていたのだよ、ノーハンズ・オンリーアイ。そしてだよ、ノーハンズ・オンリーアイ。ハッピートリガーと呼ばれる男の胸には一本の薔薇が挿されていた……白い、白い、薔薇の花が……つまり、つまりだよ、ノーハンズ・オンリーアイ! 彼らこそが、あの邪悪な、ホワイトローズ・ギャングだったのだよ!」
『そういうことなのですか、ファーザー・フラナガン。』
「えーと、まあ間違っちゃいないね。」
「彼ら三人の内、パウタウと呼ばれた彼が、私たちが解除することのできなかった装置をいとも簡単に解除して見せた。このことから類推するに、パウタウのもう一つの能力はテレサイバーの可能性もある……まあ推測に過ぎないけれどね。とにかく、装置は解除された、そして、その緑の唾液をたたえた口の中からグールが、彼の鬼が吐き出され……そして、ハッピートリガーの無慈悲な弾丸によって、殺されてしまった……くっ、ノーハンズ・オンリーアイ……私はこの殺鬼を止めることができなかった……ただ無力だったんだよ、ノーハンズ・オンリーアイ……私は、私は……!」
『ブラックシープ、誰にでも失敗はあります。』
「普通に実力の百パーセントを出していればよかったのでは?」
「しかし……しかしだよ、ノーハンズ・オンリーアイ! 私たちは、吐気をもよおすほど腐りきったその三人の極悪人たちと、かくも懸命に、かくも雄々しく、そしてかくも……そう、かくもジャスティスに戦いを繰り広げたんだ! 悪の芽を叩き潰すために……いや、悪の巨木を切り倒すために! そう、特にファーザー・フラナガン、あなたの戦いは実にジャスティスだったよ! 私があのグレイというライカーンに襲われ身動きが取れなくなっている時に、ファーザー・フラナガンは敵のリーダーであるハッピートリガーに果敢にも立ち向かっていった。ファーザー・フラナガンのライターから放たれる、黒い炎! その炎がハッピートリガーを襲う! 逃げるハッピートリガー、彼の鬼は防戦一方だ! そこだ、行け、焼き尽くせ正義の炎よ! その名は土蜘蛛、ヌミノーゼディメンションの欠片! あと少し、あと少しでファーザー・フラナガンが彼の鬼に引導を渡す、その時に……卑劣にも彼の鬼は、その洞窟自体を爆破することで、私たち二人の正義の刃から逃れることに成功したんだ……! 何たる屈辱、かくも悪は姑息になれるものなのか……! 崩れ行く壁、落ちてくる天井、私たち二人は、ただ逃げ出すことしかできなかった……こうして、私たち二人は、あの三人をおめおめと逃がしてしまったのだよ、ノーハンズ・オンリーアイ。」
ブラックシープは、そこまでを話すと。どうやらその失敗のことを思いだしてしまい、急にしゅんとなってしまったらしい。演説台の上で肩を落とし、見るからに元気をなくしたブラックシープは、とんっとその足場を蹴って、それからくるんっと、一度宙で回転をしたあとで、すたり、とまたNHOEとフラナガンのいる足場へと降りて戻ってきた。一方でNHOEはそんなブラックシープのことを慰める様子もなく、ただ静かに冷たい、氷の底に潜むようなあの声を、スピーカーから発する。
『なるほど、分かりましたブラックシープ。』
それから、声の対象を。
変えて、話を続ける。
『何か付け加えることはありますか、ファーザー・フラナガン?』
「さあ、どうだろうね。僕は、君がどこまでを知っているのかということを、知らないから。」
『あなたの知っていることを、話して頂きたいのです。』
フラナガンは、ふーんと吐息をあまやいで。
それから、軽く首を傾げてから、こう言う。
「ハッピートリガーは、リチャード・サードだよ。」
『それは、グロスター家の?』
「うん、そうだね。そして、彼がホワイトローズ・ギャングのリーダーだっていう話だよ。僕も詳しいことは知らないんだけど、彼はコーシャー・カフェの残りのものを取っていったらしい。」
『あなたのいないうちに?』
「まあね。」
まるで探り合うようにして。
フラナガンと、NHOEは。
ゆっくりと、言葉を交わす。
『彼の鬼がハウス・オブ・トゥルースから追放を受けたという話は、本当だったのですね。』
「君がそれを知らないわけがないと思うけれどね。」
『ええ、知っていましたよ。』
「だろうね。」
『それから?』
フラナガンは、軽く指を振った。
右手の人差し指を、NHOEに向かって。
きゅっ、きゅっ、と。
笑いごとの代わりのように。
その空間の深さを測るように。
やがて、フラナガンは、また。
口を開いて、話し始める。
「……ブラックシープが言っていた例の装置は、何かを封印するための装置だと思うよ。そしてどうやら、その封印を、リチャード・サードは解こうとしているようだね。あれを作ったのは僕ではないし、僕があれを作らせたわけでもないから、はっきりしたことを言うつもりもないけれど、あれは恐らく夢力を使った一種の檻のようなものだ。あれに接続されていた赤イヴェール合金には強い負荷がかかっていた……君も知っているよね、赤イヴェール合金は形而上伝導物質だ、つまりそれに負荷がかかっているっていうことは、あの装置が吸い上げた夢を、それがどこかに運んでいる可能性が高いってわけさ。さっきブラックシープが言っていたように、装置の内側に捕えられていたグールの頭蓋骨には、何本かのケーブルが刺さっていた。グールに苦痛の夢を見せて、その夢力を集積するためのものだと思う。苦痛の夢はあらゆる夢力の中でも、最も鮮烈で、そして美しいものだからね……ああ、美しいというのは、あくまでも僕の個人的な感想だけれども。あの赤イヴェールの続く先で、グールから吸い上げた苦痛の夢で格子を作り、そして何かを封印している……とにかく、あの装置は、そういうものだ、と思う。僕はね。」
『その装置は誰が作った装置ですか?』
「言っただろう? あれを作ったのは僕ではないし、僕があれを作らせたわけでもない。」
『その装置は何を封印している装置ですか?』
「言っただろう? あれを作ったのは僕ではないし、僕があれを作らせたわけでもない。」
『その装置は何を目的に作られた装置ですか?』
「言っただろう? あれを作ったのは僕ではないし、僕があれを作らせたわけでもない。」
『そうでしたね、ファーザー・フラナガン。』
NHOEはそこで一度言葉を止めた。
まるで、台本のその場所。
ピリオドが打たれていたかのように。
一呼吸を置いて、また音を鳴らす。
『ところで、その装置が夢力の源泉としていたグールが殺害されたということは、その封印は既に解かれてしまった、ということですか? リチャード・サードの目的は、達成されてしまったと?』
「ああ、それについては、僕はまだだと思うよ。」
『それは、どうしてですか?』
「ブラックシープはさっき言っていなかったけれどね、例の爆発から逃れたすぐ後に、僕と彼はサー・アーサーに会ったんだ。えーと、嫡子じゃなくて妾腹の方のレッドハウス。彼は、何かの事件の捜査をしていたようだったよ。グールの、しかもダレット列聖者の殺鬼に関する事件らしい。」
『ダレット列聖者の?』
「そして、その装置に繋がれていたのも、ダレット列聖者だった。」
『なるほど。』
「もともと一鬼のグールの夢だけでその封印が済むのならば、わざわざ鍵と、それから檻そのものとを、別個にして保管する必要もないだろう? 恐らく、鍵は幾つかあるんだと思う。その全ての鍵が開かれないと、その檻が開かれないようにね。でも、そうなると、封印されているものはよほど重要なものに違いないね。随分と大々的な装置になるから……」
『ファーザー・フラナガン?』
「なんだい、NHOE。」
『その装置について、他に何を知っていますか?』
「ちょっと待って、君はもしかして、僕を疑っているのかな? そうだとしたら残念だけれど、僕は何も知らなかったんだよ、この装置についてね。これは、僕が舌の上に乗せる言葉にしては、珍しく本当のことさ。さっき言っていたことは、全て僕の推測だよ。実はね、NHOE、これは、本当に、本当に珍しいことなんだ。」
そう言うと、ファーザー・フラナガンは。
カチカチ、と軽く、歯を噛んで鳴らした。
指の先と指の先を、口のある前で触れて。
顔を覆う、紗の奥から、夢を見る様に、笑う。
「二年、二年、二年前の話だけれど。二年前までは、ブラッドフィールドで起こっていることについて、僕の知らないことは全くなかった。これは比喩的な意味じゃない、本当に、何も知らないことはなかったんだ。それなのに、僕はあの装置について、何も知らなかった。何一つ。恐らく、二年前のあの日、僕がいなくなる直前にできたものなんだと思う。僕が全く知らないうちに、僕に全く知られないように。だから、僕は、あの装置について、何も知らなかった。これは、本当の、真実だよ。」
『私はあなたの言うことを信じますよ、ファーザー・フラナガン。』
「本当かい? ありがとう、NHOE。」
そこで、NHOEのスピーカーは。
音をつぐみ、少しだけ沈黙した。
まるで、何かを考えるようにして。
そして、その考えがまとまったのか。
スピーカーは、また音を発し始まる。
『けれど、そうなると困ったことになりますね。正義の裁きから逃れた悪しき者を追う、その唯一の手掛かりが、その封印に関することなのですが。』
「心配することはないよノーハンズ・オンリーアイ! 正義はいついかなる時も勝利する……どんな困難がその前に立ちふさがっていようとね!」
『その通りです、ブラックシープ。』
能天気という基本スタンスを崩すことなく、いきなり会話にクソの役にも立たない意見をさしはさんできたブラックシープのその言葉を、いつもの通り軽く受け流すと、NHOEは非・感情的な音をした声で、ファーザー・フラナガンに言う。
『ファーザー・フラナガン』
「なんだい、NHOE。」
『悪しき者は、滅ぼさなければいけない。そうですね?』
「まあ、同意せざるを得ないね。」
『ありがとうございます、ファーザー・フラナガン。ところで、このブラッドフィールドのことについて、二年前のあなたと同じくらい、良く知っているものがいるとしたら、それは誰になるでしょうか。』
「僕と同じくらい? それは随分と難しいことを聞くね、NHOE。少なくとも僕は、人間で思い当たる人はないな。まあ、いるとしたらノスフェラトゥの、しかも……フォウンダーくらいだろうね。」
そのフォウンダー、という単語を発した時に、フラナガンは少しだけ嫌な予感が背筋を這い上った気がした、まるでぬめぬめとした蛞蝓を、脊髄の中に放り込まれたような、そんな感覚だった、何か、どうやら、NHOEの仕掛けた罠のようなものに、はまってしまったような。NHOEはそんなフラナガンに隙を与えることなく、その言葉を続ける。
『フォウンダー、ですか。ブラックシープの表の顔であるP・B・ジョーンズも、確かに社会的なつながりは非常に広いのですが、残念なことにフォウンダーにつてがあるほどではありません。そうですね、ブラックシープ。』
「それは確かに本当だよ、ノーハンズ・オンリーアイ!」
『困ったことになりましたね、ブラックシープ。』
「確かに私たちは苦境に追い込まれているね、ノーハンズ・オンリーアイ。まるで目の前に、あの邪智暴虐たる悪の前に、分厚く巨大な壁が立ちふさがっているかのようだよ……くっ……この壁を叩き壊せるような方法が、何かないものだろうか……!」
『ファーザー・フラナガン、何かないものでしょうか。』
「あー、えーと。」
フラナガンは、その身に絡みつく触手のようなものを感じた。巧妙に張り巡らされたクモの巣のようなもの。思わず口を滑らせてしまったがためにフラナガンが落ち込んだのは、ねとつく食虫植物の口に似ているのかもしれない。フラナガンは、何とか口先でそれを切り抜けようとするが、その言葉もまるで出てこないうちに。NHOEがそんなことを許すはずもなく。
『そういえば、ファーザー・フラナガン。』
「あ、うん、何かな?」
『あなたは昔、とても……輝かしいコネクションを持っていましたね、このブラッドフィールドの全域にわたる、それはそれは素晴らしいコネクションを。』
「えーと、そうだったかなー?」
「そうだったのかい、ファーザー・フラナガン!」
フラナガンは、なんとなくNHOEが何をしようとしているのか、というよりもフラナガンに何をさせようとしているのかを、察し始めていた。けれど、それは極力ご遠慮したいというか、つまり、その、そういう系統のことだった。
『ブラックシープ、そうだったのですよ。』
「その……それほどでもないよ。」
それは、間違いようもなしに。
フラナガンの、既になけなしになった。
プライドに関わってくるような。
NHOEは容赦を見せもせずに。
言葉の牙をむき出しにして襲い掛かる。
『そうだ、ブラックシープ。もしかしたら、その輝かしいコネクションの中に、フォウンダーとの繋がりがあるかもしれません。』
「フォウンダーとの!」
「いや、何ていうか、ちょっと待ってくれるかな、NHOE……」
もう間違いない、NHOEの目的は、間違いもなく、ブラックシープを彼の鬼に合わせることだった、その仲介役として、フラナガンを使おうとしているのだった。けれど。しかし。そうであろうと。フラナガンとしては、合わせるわけにいかなかった、彼の鬼と、ブラックシープとを。それは、フラナガンにとって、一生の汚点となってしまうだろう……ぞっとする、考えただけで……こんなアホまるだしの人物と、正義の味方ごっこをしている、おぞましいほどに恥ずかしい状況が、彼の鬼にばれてしまうなんて……サー・アーサーに知られてしまっただけでも、十分に最悪の状況なのに。
そんなことを考えているフラナガンの。
そんな考えを斟酌する様子もなく。
NHOEは非情にも話を進める。
『そうすれば、もしかしたらあの悪を、おめおめと逃げおおせたあの悪をまた正義の光で照らし出すことができるかもしれません。』
「ジャスティス! それは、なんて素晴らしいことなんだろう! どうなんだいファーザー・フラナガン! あなたのコネクションには、フォウンダーとの繋がりがあるのかい!?」
くっしゅくしゅに興奮したような、というか、何というかめちゃくちゃほしかったけれど売り切れだった玩具を、偶然近所のおもちゃ屋で見つけた子供のような、そんな声でブラックシープはそう言うと、例にも例によってフラナガンの腰のところに縋り付くようにして抱き付いた。ちなみにこの行為に全く理由はなく、ただ溢れんばかりの感情の、その感情表現の一形態という、どうでもいい意味しか存在していない。
「ちょっと! 君、いきなり抱き付かないでよ!」
「どうなんだい、ファーザー・フラナガン!」
ぎゅっぎゅっと手のひらで、フラナガンはブラックシープのことを押しのけようとするけれど、そのしなやかでありつつも強靭な肢体にかなうはずもなく、しがみついたブラックシープは全く離れようともしない。フラナガンが必死にブラックシープを引きはがそうとする、ブラックシープはまるでからかっているかのようにしがみつく。そんな攻防を、そこそこ長い間つづけているうちに。
ついには、フラナガンは。
根負けしたかのようにして。
こう、呟くように言う。
「あー、そのー、無きにしも非ずっていうか……」
「本当かい、ファーザー・フラナガン!」
「でも、二年前のやつだし……まだ繋がってるかどうか……」
「やったよ、ノーハンズ・オンリーアイ! ファーザー・フラナガンがやってくれたんだ! 悪を守る壁はいとも簡単に叩き壊された! ファーザー・フラナガン、あなたは本当に素晴らしい相棒だ私はあなたの相棒であることを、誇りに思うよ!」
「えーと、一応、連絡は取ってみるけど……そんなに期待しないでね、君……ほら、今もあれかどうかは、あれだから……」
「ありがとう、ファーザー・フラナガン!」
フラナガンは、言葉を濁しながら。
ふーっと深くため息をついた。
生きるということは、かくも無慈悲で残酷なものであるか。先ほど、人生で最悪だと思った状況が降りかかってきたのに、既にして、その最悪が更新されようとしているのだから。彼らは僕の命をその手のひらの中に握っている。最初から、僕には拒否する余地などなかったのだ。諦め切ったようにして、フラナガンは静かに首を振った。それから、腰のあたりにこすこすと体をこすりつけてくるブラックシープの優雅で温かい肢体に向かって、言う。
「君が喜んでくれるなら、嬉しいよ。ブラックシープ。」
そんな様子を見ていたNHOEは。
静かに、スピーカーから声を鳴らす。
『ファーザー・フラナガン?』
「なんだい、NHOE。」
『ありがとうございます、そして、よろしくお願いいたします。』
「分かったよ。けれどね、返事は早くても、明日の夜になると思うよ。ノスフェラトゥは夜しか活動しないし、今日はほら、もうそろそろ夜が明けるからね。」
『分かりました、ファーザー・フラナガン。それでは、また明日も、よろしくお願いいたします。』
ファーザー・フラナガンは。
ぎゅっとして離れないブラックシープを。
何とかその体から引き離しながら。
例えば、こんなことを思っていた。
一刻も早く、コーシャー・カフェを、僕の落ち着ける場所を再建しなければいけない。そうしなければ、そうしなければ、そうしなければ、僕は、この気違いパーティみたいな状況に、僕自身まで気が狂って、そのうちに死んでしまうだろう。




