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#9 誰も彼もが夜に飲まれて

 昨日よりもアノヒュプスの光は強く。

 ナリメシアは噛み千切られたかのように欠けている。

 月と月は互いを喰い散らかして。

 周りに、きらきらと、星の光を落としていく。

 バルトケ=イセムはまた遠のいた。

 けれど、それほど遠いわけではない。

 オイコノミアの到来は近い。

 が、そんな空の様子を気にすることもなく、今日も今日とて、夜警公社の覆面社用車はダウンタウンの道を一直線に……曲がりくねった道なので一直線ではないけれど、とにかく飛ぶように走っていた。運転しているのは昨日と全く同じような服装(よれよれのフロックコートと安っぽいストライプのスーツ、それから一度も櫛を入れたことのないようなぼさぼさの白髪)をしていて、全く同じようにドーナツを食べながら運転している。昨日と違っている点とすれば、今日のドーナツはジャムの入ったイチゴのアフランシクルーラーだということくらいだろう。あと無精ひげも少し伸びているかもしれないけれど、気に掛けるには微々たる差だった。

 一方で、隣りの助手席はというと、少し見栄えが変わっていた。昨日は花柄のワンピースにつっかけサンダルだったメアリーだが、今日の服装は赤いリボンのついた白いブラウスに、黒くてふんわりとしたフレアスカート、そしてぽっくりのようにやぼったいローファーを履いている。昨日といい今日といい、メアリーの服装はちょっとどこかしらずれているというか、男の目線で選んでいるために少し度が過ぎていて、自然なところがない、とでもいうような服装をしている。少なくとも社会人が着る服装ではないだろう、まあそれはともかくとして、ちょこんとドーナツの箱を膝の上に置くには、まあまあの服と言えないこともないのかもしれないが。

「と、いうわけなんだよ。」

 二人で何かを話していたらしく、アーサーはメアリーに向かってそう言うと、一息ついてドーナツを噛みとった。歯に押されたせいで、中からイチゴのジャムが飛び出て、フロックコートに少しついてしまう。メアリーが慌ててポケットから黒い猫の刺繍の入ったハンカチを取り出すと、そのイチゴジャムをふき取った。「おお、すまねぇな」「もう、アーサーさまったら!」というやり取りをした後で、メアリーはポケットにハンカチをしまうと、話を続ける。

「では、地下に何かがあるかもしれないということですの?」

「ああ、何があるかは分からねぇけど、とにかく何かがあるのは確実だと思うぜ。しかも今夜上がってきた証拠検証班の報告によれば、どうやら殺害現場も死体が見つかった場所じゃなくて、その地下らしいぜ。穴から現場まで、てんてんと続いていたっぽい血液の痕跡があったらしい。」

「グールに、ノスフェラトゥに、スペキエースの方々まで……」

「まさにOUT向けの事件ってことだな。この上、あいつが関わってきたら……」

「あいつ?」

「いや、何でもねぇよ。」

 アーサーは軽く誤魔化すようにしてそう言った。

 メアリーは特に深く追求することもなく、また口を開く。

「でも、なぜわたくしたちが現場に戻りますの? 証拠検証班の方々にお任せして、わたくしたちはもっと別のことをすればよろしいのではありません? 例えばホワイトローズ・ギャングの手入れとか……」

「そう言うなよ。現場百辺っていうだろ?」

「もしかしてアーサーさま、その穴の中に入るつもりでは?」

 そういうと、ふっとメアリーはアーサーの顔を見上げた。背の高いアーサーの顔は、座ってもメアリーよりも少し高い位置にある。アーサーは、いつものようにへらへらと気の抜けたような笑顔で笑ったまま、何も答えなかった。

 メアリーはぷんすこと。

 怒ったような口調で言う。

「ダメでしてよ、アーサーさま! オールドマン班長にまた怒られてしまいますわ!」

「人聞き悪いな、まだ入るとは言ってないだろ?」

「いいえ、アーサーさまは穴の中に入るおつもりですわ! グールの方々に見つかったら、協定違反で色々と大変なことになるのは目に見えていましてよ! 九年前の事件の時みたいに……」

「おいおいパピー、お前、九年前にはOUTにいなかったじゃねぇか。」

「それとこれとは話が別ですわ!」

 ぷんすこし続けながら、なおも何かをアーサーに向かって言いつのろうとしているメアリーの口の中に、アーサーはいつものように、ぽいっと自分の食べていたドーナツを放り込んだ。メアリーは基本的に単純な性格をしているので、いつものように放り込まれたものに関しては、なんとなく食べなくてはという、本能的な義務感が生まれるらしく、両手でそれを持って、もくもくと、静かに食べ始めた。

 アーサーはグールタウンへと向かう道。

 ハンドルを切って、角を曲がりながら言う。

「まあ、もしかしたら何か緊急の事態が起こって、穴の中に入らざる状況が生まれるかもしれねぇけどな、例えば人影の様なものが、その穴の中に入っていくのを見た気がしたり……ほら、一般の人間がグールの穴の中に入っていくのは、防がなきゃいけねぇ緊急の事態だろ? 下手すりゃグールに殺されちまうからな。」

「そんな子供みたいな言い訳はグールの方々に通じませんわ。」

 ぷすーっと頬を膨らませたままで、ドーナツを両手に持ったままで、メアリーはぶーたれるようにそう言った。それから、また一口ドーナツを食べようとするけれど、その時に、はっと気が付いたようにしてアーサーの方を見た。そして、おずおずと口を開いて、「アーサーさま、もう一つお食べになります?」「いや、今はいいよ」、というやり取りをした後に、ふふーっと安心したように笑った。そして、ようやくもう一口、自分の口の中にドーナツを運ぶ。

 その時だった。

 沈むようにたまったナイトライトの群れ。

 社会的な昆虫の巣の様なビルの群れ。

 その上、黒い液状の闇がべっとりと浸す空に。

 一筋の光が上がった。

 それはまるで花火のように見えた。けれど、それはまるで音を立てなかった。光る、一筋の、煙の、筋、それは、空に、向かって、放たれた、弾丸だった。中天、月と月とのその間で、その弾丸は破裂して、そして先ほどまでよりも、より一層強く光を放つ煙を、当たりにまき散らし始める。それは、その中から吐き出された光る煙は、ふわふわと、何かの意思を中心にしたように、一点に集まり始める。ふわふわと、恐らくそれは羊毛のように。

 それは。

 羊のように。

 シープ・マーク。

「アーサーさま、あれをご覧くださいましっ!」

「ああ、見てるよ。」

 シープ・マークは見る限りダウンタウンの、今アーサー達がいる方から、七十二度ほどずれた位置、やはりグールタウンに近い場所、そのあたりで上がったようだった。アーサーは、一瞬だけ逡巡したようだったけれど、ふーっと大きくため息をつくと、ハンドルを切り替えて、そちらの方向へと車の向きを変えて、強くアクセルを踏んだ、車は跳ねる荒馬のようにして、急加速する。

「アーサーさま、あそこへ向かいますの?」

「シープ・マークはOUTの最優先事項だろ?」

「確かにそうですわね!」

 アーサーのその言葉を聞くと、メアリーは安心したような、ほっとしたような顔をした。これで、暫くの間は例のグールの穴に入らなくて済むだろう。アーサーのせいで始末書は何枚も書かされていたけれど、何枚書いたところでそれに慣れることはない、書かなくて済むのならば、書かないで済ませたいものだった。一方で、アーサーは全く別のことを考えていた。ノヴェンバーは何と言っていたか? NHOEが、フラナガンに接触した。そして、NHOEとフラナガンは、今回のグール殺害に、何か関係があるらしい。そんな意味のことを言っていた。

 そして、ノヴェンバーの言っていなかったこと。

 ブラックシープは、NHOEと、関係がある。

 全ての出来事がつながって、星座になって行く。

 不吉な形をした、歪な形の星座に。

 アーサーは、更に車を加速させながら。

 ぽつん、と一つ呟くようにして言う。

「ついに、あいつが関わってきたってわけか。」


 シープ・マークはOUTの最優先事項とされている、まあ、一応。ブラックシープ、夜の街に潜む大量殺人鬼へと至る、現状での唯一の手段という公式見解だからだ、実際のところ他に方法がないのかという点については、まあ、ここでは述べることはしない。役所というものは、まあ、そういうなあなあの成果主義で構成されているものだ。

 ブラックシープは一部の過激な人間、いかなる手を使ってもこの世界から犯罪をなくそうとする人間にとっては崇拝の対象かもしれないが、それでもやはり凶悪な殺人犯であるという事実にかわりがない。なぜなら、ブラックシープは、夜警官さえも殺すのだ……心無いルーマー達は、ブラックシープの被害者である夜警官は、劣悪な汚職警官たちだけだと噂しているのだけれど、そのような噂は明確に否定することができる。

 二度、だ。まだ凶悪犯罪対策班がブラックシープの担当班であった頃に、彼を逮捕しようとして。二度の大規模な作戦が決行された。彼は、NHOEと違って、あまりにもいろいろな隙があったため、そういった作戦を立てるだけの情報を夜警公社も収集できたから。けれど、結果は、とても口にできるものではなかった。夜が笑った。骨の砕ける音が響き、血の雨が降り、内臓の沼ができ、夜警公社の求人が増え、そして町の清掃業者がそれなりに潤った。生き残った人間は、勇気のある人間は体のどこかが欠けているか、臆病な人間は精神病院に通院しているか、そのどちらかだ。まさかその作戦に参加した、全ての夜警官が、劣悪な汚職警官だと、ルーマー達はそれでもそう言うのか?

 その後、ブラックシープの担当はOUTに移された。

 夜警公社の威信をかけて、OUTの最優先事項とされた。

 要するに、OUTに押し付けられたのだ。

 正確にいうとするのならば。

 ガレス・オールドマンに。

「それにしても……」

「ん?」

「ブラックシープって、一体何者なのですかしら。」

「それが分かればこれほど苦労してねぇだろうな。」

 そんなことを言いながら、アーサーとメアリーの乗った車は、ダウンタウンの夜を貫く一筋の黒い弾丸のように。その夜もやはり、

幾夜も連なっている、ブラッドフィールドの有り触れた夜と、まるで変りがないように見えた。車は紙屑を吹き飛ばし、空き缶を踏みつぶし、そして軒並み頭が悪そうな、ストリートギャング達によって壁面に描かれた落書きは、窓の外を駆け抜ける、一瞬の色彩へと変貌する。

「どうやらこのへんみたいですわね。」

「そうだな。だが……」

 そう言うと、言葉の端でアーサーは口を止めて。ききーっと、絞殺される直前の怪鳥の悲鳴のような音を立てて、車に急ブレーキをかけた。あまりにスピードを出しすぎていたせいなのか、その瞬間に後部車輪がちょっと浮き上がって、そして車が止まりきったくらいのタイミングで、どしんと踏み下ろされる。メアリーが「はわっ」と、どういう口の動き方をしたのかわからない声を漏らした。

「これ以上は、車では進めねぇみたいだ。」

 アーサーが独白のように漏らした通り、確かにこの先にある路地は狭すぎて、この社用車が入る余地はとてもじゃないけれどなさそうだった。アーサーはギアをパーキングに入れて、キーでエンジンを止めると、自分のしていたシートベルトを外し始める。

「降りて、歩くんですの?」

「ああ、それしかねぇからな。」

「かしこまりましたわ。」

 そう言いながら、メアリーも。

 自分のシートベルトを外した。

 それほど悪い夜、というわけでもなかった。月は二つとも美しく輝いている。ビルとビルの間を疫病のように吹き抜ける風も、今日はそれほど強くない。アーサーのフロックコートは、その体の動きに合わせて。まるで駄々をこねているメアリーのように、ひらひらと揺れる。アーサーは、その裾を片方の手で押さえるとも押さえないともなく、そしてもう片方の手を、眉の上にのせて、遠くを見渡すように、シープ・マークを見上げた。あれは、どんな物質でできているのだろう、夜の中、まるで闇の帳を裂いた、その跡のようにして、未だきらきらと、光る羊の形を保っている、シープ・マークはかなり長時間にわたって夜の空を光で汚すことが知られている、けれどそれが何の物質で構成されているのかは、未だ明らかにされていない。

「たぶん、この路地の先だな。」

「そうですわね、行ってみましょう!」

 割合と元気めにメアリーはそう言うと、懐中電灯に火を入れた。そして、てってけてってけと、アーサーの先に立って路地へと入っていってしまう。一方のアーサーはというと、ふーっと一度深くため息をつきながら、ベルトに引っ掛けてあった懐中電灯を取りだす。メアリーの後、追うようにして光をつけると、路地へと続いた。ビルとビルの間のその狭い路地は、広い路地よりも遥かにうす暗く、そしてまた……匂いがした。いや、正確にいえば、アーサーはもう随分と前からその匂いに気が付いていたのだけれど、それは冷酷なほど正確な金属製の道標のようにして、その路地の奥から、漂ってくる匂い。アーサーはビルを形作る煉瓦、その上に描かれた頭の悪そうな落書きにゆっくりと指を這わせながら、その匂いをたどって歩いていく。

「アーサーさま、この匂い……」

「まあ、血の匂いだな。」

 アーサーは懐中電灯の光を軽く揺らめかせながら、肩を竦めるような口調でそう言った。メアリーはそれを聞いて、てってけてってけとした無造作な歩き方から、ちょっと慎重な足の運び方に切り替える。そろり、そろり。抜き足差し足で足を進めて、その次の角を曲がった時に、あまりに想定通りの唐突さで、その光景がメアリーの目に、そしてその後に続くアーサーの目に飛び込んできた。

 そこにはシープマークの下にあるべきものがあった。

 つまり、それは、惨状だ。

 あたり一面が、夜に淀むどろどろとした血液で浸された、底の浅いスープ皿だった。浸されたパンの最後のひとかけのようにして、明らかにこと切れているだろう二つの死体が落ちている。一つは、道の真ん中に仰向けに倒れていた。胸には大きな赤いしみができていて、その真ん中には何かで突き刺したような大きな穴が開いていた。もうほとんど血液が体外に流出してしまった後なのか、もうその穴から血液が流れ出してはいなかったのだけれど、その姿は大地に串刺しにされた、昆虫採集の対象物のように見えた。もう一つは、膝をついて、両手をだらんと垂らして、まるで何かに許しを請うようにして、そのままの姿で死んでいた……そう、それが死んでいることについてはまず間違いはなかった。首から上、頭がなかったのだ。その頭は、というと、少し離れたところに、転がるみたいにして落ちていた。すぱっと何か、鋭い刃物で断ち切られたような断面のせいで、失敗したパノラマ写真の如く見えなくもなかった。ビルとビルに挟まれたその狭い隙間は、まるでアンジェリカ・ベインが通り過ぎた後のように、殺戮で満たされていた。

 そして、メアリーは、その顔に。

 懐中電灯を向けた。

 その顔が、一番むごたらしい。

 特に危害を加えられているわけではない。

 けれど、見る影もなく、歪んでいた。

 それは、恐怖に歪んでいた。

「間違いありませんわね。」

「ああ、あいつの仕業だな。」

 そう言いながら、アーサーは。

 ちらと、メアリーの方に光を向けた。

「お前、ここ。」

「ここ?」

 メアリーは、きょとんとした顔をアーサーに向ける。

 アーサーは、自分の左の頬を指し、言葉を続ける。

「ついてるぜ、ジャム。」

「本当ですの!?」

 メアリーは、慌ててポケットからハンカチを取り出すと、自分の右頬をぬぐい始める。「そっちじゃねぇよ、こっちだって」「こっち?」「左だよ左」「左って、どっちでしたっけ」「しょうがねぇな、ハンカチ貸せよ」というやり取りの後、やっとアーサーに頬のジャムを拭いてもらって、メアリーはふんっと満足そうに鼻を鳴らした。おかげで少しテンションも上がってきたのか、恐る恐るではありつつも、ぽっくり靴を血だまりの中に歩め始める。

「まあ、救急車は呼んでも無駄そうだな。」

「そうですわね。」

 そんなことを言いながら、メアリーはゆっくりと、まずは首が切断された死体の方へと近づく。膝をついたまま、座ったままの死体の方へ。懐中電灯を向けて、一回り、その姿を眺める。と、その背中の方に回り込んだ時に、「まあ!」と口に手を当てて、驚きの声を上げた。

「どうした?」

「これを見てくださいまし!」

 アーサーも、メアリーの隣に来る。

 そして、メアリーの見たものを見る。

「アーサーさま、これは……」

「ホワイトローズ、だな。」

 それは、その死体ジャケット。

 背に書かれた、大輪の白い薔薇。

 逆転された五角形の様な花びらの配置、見間違えるわけもない、それは、ホワイトローズ・ギャングのシンボルである、白い薔薇のマークだった。そして、この模様が描かれたジャケットを着ているということは、この死体の男は、ホワイトローズ・ギャングの構成員であったことに、ほとんど間違いがないことになる。

「これは偶然ですの? それとも……」

「偶然にしては、ちょいとグールタウンに近すぎるな。」

 そう言いながら、アーサーは手にゴム手袋をつけて、その死体を色々と探り始めた。本来は証拠検証班が来るまで極力現場を荒らしてはいけないということになっているため、これは明確な規則違反なのだけれど、メアリーにとってはアーサーのこれくらいの行為はいつものことだったので、特に何か注意することもしなかった。

「何かありまして?」

「いや、特に目立ったもんはないみたいだぜ。大体、俺だって自分が何を探しているかも確信が持てねぇしな。」

 そう言いながら、アーサーは死体から手を離した。

 腰に手を当てて、考え込むようにため息をつく。

「ただ、きっと何かは残されているはずだ。ブラックシープはそういうやつだからな、ヒント、っつーか、何か、自分が何をしたかったのかを、明確に観客に向かって示すものを。」

 言いながら、アーサーは現場をゆっくりと歩き始めた。メアリーはその後を、まるで小鴨のようについていく。血の池の中をしゃぱしゃぱと音を立てて、一通り現場を見回して歩き回った後で、ふと、アーサーは気が付いたようにして懐中電灯の光をその路地の奥の方に向けた。その路地は、奥の奥、終点のところが実は角になっていて、左の方に曲がっていた。そして、その角のところ、今まで注意を向けなかったから全く気が付いていなかったけれど、何か布きれのようなものが、少しだけこちらの方に、覗いていた。

「あれか。」

 アーサーはそう言った。

 そして、その角の方へ向かう。

 角を曲がったその場所に。

 一人の少女が、倒れていた。

 十代の後半くらいだろうか、もしかしたら前半にも見える。随分と露出の多い服を着ていたけれど、それは薄黒い赤色で濡れていた、恐らく、先ほどの死体が死んだときの、返り血を浴びてしまったのだろう。こんな夜にこの街にいるには、あまりにも無防備で、純粋で、無垢な生き物に見えた。どこかしら、何かしらの不審さがある、けれど、今はそんなことを気にしている場合はなかった。アーサーは、その少女の体を抱き起した。ぐったりとして、まるでゴムでできた人形のように力ない体は、抱えるとぐにゃりと揺れる。

「ご存命ですの?」

「ああ、気絶してるだけだ。」

 そう言いながら、アーサーは。

 懐中電灯をメアリーに預けて。

 軽く、少女の頬を叩く。

「おい、大丈夫か?」

「アーサーさま、そんなことをしては……」

「俺だってしたくねぇよ。」

 言いながらも、アーサーは少女に呼びかけ続ける。

 やがて、少女は、ふっと浮かび上がるように。

 その瞼を、ふるっと震わせた。

 ゆっくりと、その体に力が戻って来る。

 人形から、人間の体に。

 ぐにゃりから、しっかりに。

 唐突に、ぱっと、両の目を開く。

「気が付いたか、お嬢ちゃん。」

「え、あの……あたし……?」

 どうやら、少女はまだ自分の置かれている状況とか、そう言うものが掴めていないようだった、まだ、どろりと沈殿した、気絶した意識の底から、浮き上がりきれていないような顔をして、ゆらゆらと目を動かして、あたりの物を見回す。しかし、周囲の夜に浸されているうちに、やがて自分のことを思いだしてきたらしい、自分のこと、つまり、自分が気絶する前に何を見たのか、ということを。思考の中に沈殿していた記憶は少女の動きによって拡散し、眼窩の中、そこに納まっていた目玉の上で、静かに瞳孔が開いていく。

 そして、少女は。

 絶叫する。

「ちょ、待てよ、落ち着けって!」

「やめて、離して! 近寄らないで!」

「大丈夫だって、もう心配ねぇよ!」

 アーサーの腕の内側で、しっかと抱きしめられながらも、その少女はじたばたと暴れた。それほど細く弱いとは思えない、少し締まった筋肉の見える腕の先が、それでも弱々しくアーサーの体を叩く。アーサーは困ったような顔をして、何とか落ち着かせようとしていたが、全くそのかいもなく、けれど、その横からすっとメアリーが顔を出してきた。

 少女の顔を覗き込むようにして。

 メアリーは言葉を注ぎ込む

「大丈夫ですわ、落ち着いて下さいまし。」

 年頃の近そうに見える女の声。

 メアリーの、落ち着いた声に誘われて。

 少女は、少し落ち着いてきたらしい。

 ふっと、アーサーを叩く手を止めて。

 のぞき込んできたメアリーの目を見る。

「わたくしたちは、夜警官ですわ。」

「夜警官……?」

「そうですのよ、あなたを保護しに来ましたの。」

 そう言うと、メアリーはゆっくりと左の手で少女の左の手を取って、指を絡ませた。そして、右の手で、少女の頬に触れ、自分のおでこと少女のおでこをこつんと合わせる。わざとらしいほど細かく震えていた少女の体が、そのメアリーの仕草によって、次第に落ち着いてくる。やがて体の震えが止まり、少女の口から、ほうっと、まるで不安の塊が抜け落ちたようにして、溜息が吐かれる。どうやら少しは安心したらしい、ということを見計らって、メアリーはおでこを少女から離すと、それでも左の手を結んだままで、アーサーの方に向かって、小声で「もう大丈夫そうですわ」と伝えた。

「あー、大丈夫か?」

「え? あ、はい……」

「もし大丈夫なようなら、二、三聞きてぇことがあるんだけどな。」

「はい、大丈夫です。」

「そうか、ならちょっと聞かせて欲しいんだけど……」

 そこでアーサーは一度口を止めて。

 少し何かを考えてから、また口を開く。

「一体ここで、何があったんだ?」

 少女の瞳孔が、また拡大する。

 呼吸が荒くなり、心音が夜に響く。

 メアリーが左手に、少し力を入れる。

 やがて少女は、目を伏せて話し始める。

「あたし、その道を歩いていたら、いきなり二人組のチンピラみたいなやつらに襲われたんです。何もしてないのに、本当に、いきなり、たぶん、グールタウンの方から来たんだと思います。分からないけど、たぶん、あっちの方から来たから。それで、そのチンピラみたいな二人が、あたしのことを、その、手を抑えて、壁に押し付けて色々なことを言ってきました、でもそれは、どういうことを言われたかってことは、言いたくないです……」

「それは別に必要ねぇよ。」

「言わなくても大丈夫ですわ。」

「あたし、叫びました、助けてほしくて、でも誰も来ませんでした。チンピラは、ナイフみたいなのを持ってて、それで、それをあたしにあの、このあたりです、このあたりに、突きつけてきたんです。それで、また、あの、あたし、叫んで、そうしたら、あの方向、ちょうど、あの時には、月がかかっていました。月がかかってて、その前で、きらって、何か、冷たいものが光った気がしたんです。冷たいって、その、冷たい色っていうか、銀色だったんです、銀色のものがきらっとひかって、それで、それが、こっちに向けて、なんていうんだろう、お芝居みたいによく通る声で、何か叫んだんです。弱きもの、だとか、太陽、だとか、正義の話をして、それで、その銀色の光が、きらっとまた光って、こっちに飛び降りてきて、それで、黒い羊って名乗って、本当に、それは、黒い羊でした、ブラックシープと……そうだ、それともう一人。」

「もう一人?」

「ブラックシープの他に、か?」

「あの、そっちの人は、後から来たんです。ビルの上から飛び降りてきたんじゃなくって、あの、さっきの黒い羊の人も、ビルの上にいたんですけど、とにかく、あたし、ほとんどみえなくて、もう一人の人は、目を凝らしてみると、真っ黒な服を着ていました。黒い服……そうだ、あれは教会の、神父様の服装でした。でも、少し変な気がしました、顔も真っ黒な布で覆ってて、神父様はそんなことしないし、それに長い、しっぽみたいなものが後ろで揺れてて、たぶんあれは、長い髪の毛を後ろでぐってして、それで結んだものだったと思います。とにかく、普通の神父様じゃなくて、それで、その人は……」

 アーサーはぎっと奥の歯を噛んで。

 それから、少女の話に口を挟む。

「そいつは名乗ったか?」

「名前、その人は言わなかったんですけど。羊の人が。」

「何て?」

「えと、その……」

 少女はそこで目をつむった。

 何かを必死で思い出そうとするように。

 やがて、ふと思い出したらしく。

 ぱっと目を開く。

「ファーザー・フラナガン。」

「え?」

 今度は、メアリーが変な声を上げた。

 けれど、アーサーはちらとメアリーを見て。

 口を閉じるように目を合図する。

 そして、少女に向かって口を開く。

「それで、それから何があった?」

「それでブラックシープって名乗った人が、手とそれから足の先に、金色の鎌みたいなのをつけてて、こう、すごい鈍い色をして光りました、踊ってるみたいに、それで、それで……」

 少女は、そこで口ごもった。

 アーサーは、何でもないことのように。

 少女の言葉の、その続きを言う。

「あいつらを殺したんだな。」

「フラナガンっていう人は、見てただけでした。何か、チンピラの一人と話してたような気もしますけど、それでも何もしませんでした……と思います、あたし、そこまで見てから、気を失ってしまったんです、怖くて、何も分からなくなっちゃって、それで、あたしももしかして、殺されるんじゃないかって、逃げようとしたんですけど、でも全然体が動かなくて、黒い、黒い、何かが、すごい速くて、それで逃げても無駄なような気がして、チンピラの人は二人とも、その、殺されてしまって、でも、今、あたし、死んでない、死んでないんですよね、ブラックシープは、そういえば言っていた気がします、弱いものを守るって、正義はいつも見守っているって……夜警さん、あの。」

「何だ?」

「あの人は、あたしを守ってくれたんですか?」

 アーサーはふーっとため息をついた。

 この少女から聞けることは、これが全てだろう。

 だから、少女の問いかけに、答える。

「ああ、ブラックシープは正義の味方だからな。」

 少女ははっと気が付いたようにして、どうやら自分がずっとアーサーの腕の中にいたことに気が付いたらしく、慌てて自分の足で地に立った。アーサーは少女が自分の足で立つに任せて、その体を話すと、屈んでいた足を延ばして立ち上がった。ぐーっと伸びをして、それからまだ呆然とした顔をしているメアリーの方を向く。アーサーは、メアリーに、軽口を叩くように口を開く。

「聞いたか?」

「あの、ファーザー・フラナガンって……」

「まだ決まったわけじゃねぇけどな。」

「でも、フラナガンなんて名前の神父さまは……」

「俺の意見を聞きてぇか?」

「はい、聞きとうございますわ。」

「フラナガン先生は、この事件に、関わってるぜ。」

 アーサーはそう言いながら。

 また、ふーっとため息をついた。

 疲れ切ったような、いつもの感じで。

 それから、思考を切り替えるように。

 明るい声をして、話を変える。

「まあ、その話は後でもできるとして、このお嬢ちゃんを保護することがまず優先だぜ。こんな格好は、この夜にはちょっとばかし寒すぎるだろうしな。」

 そう言って、アーサーは少女の肩を二度、ぽんぽんと叩いた、親し気に、けれどどこかしら曖昧な感じに。メアリーは、何かもっとその話を追求していきたそうな顔をしていたけれど、ちらと少女の方を見た後で、その言葉は口をついてくることなく、安物の煙のように消えていった。

「そうですわね、とにかく病院にお連れしましょう。念のため体に異常がないか検査をしてもらって、それで問題がないとなってから色々なことをもう一度、お聞きさせて頂くのがよろしいですわ。」

「決まりだな。じゃあ、車の方に……」

 アーサーの言葉を遮って。

 轟音が響く。

 地が震えた。

「な、なんですの?」

「おい、今度は何だよ!」

 アーサーはそんな風に悪態をつきながら、少女の体を支える様にして捕まえた。少女は何の言葉も出ずに、ただ軋るように歯を食いしばって、アーサーの体をしっかと抱きしめた。それは、人の立つ地の面の全てを揺さぶるような、巨大な振動だった。地の底から響いてくるような、巨大な爆発音だった。どぉん、どぉん、どぉん、と、まるでミリアムがそのタンバリンを鳴らしたかのようにして地は三度震えて、そしてまた静まった。余韻がそこら中の空気の中を行き所なく鳴り響いている、そしてその音は確かに取り戻されてはいたけれど、元あった静寂とは全く違った音色をしている。それは、何か、充満した、不安の音色だった。

「収まったみてぇだな。」

「一体、今のは何だったんですの?」

「あの、あれ……!」

 揺れの余韻でまだふらふらしているメアリーと、それから少女の体を自分に抱き寄せたままのアーサーに向かって、その少女がおずおずと口を開いた。二人はその少女の姿を思い出したように認めて、そして次にその少女が指さす指の先に視線を向けた。遠く、遠くの方。並び立つビルの上に、もわもわと土埃のようなものが、空に向かって煙のように踊っているのが見えた。

「あれは、何か煙のようなものが見えますわ。」

「そうだな……たぶん、あそこで何かが爆発したんだ。そのせいで、地下のハニカムに反響して揺れたんだろう。地崩れを起こさなかったのが奇跡みてぇなもんだよ。」

 アーサーはそう言いながら少女の体を離した。少女はふらっと一瞬だけ体が傾いだけれど、その後はしっかりと、自分の足で立てるようだった。メアリーがその隣に立って、そしてまた優しく手を取って、きゅっと握る。少女がその手を握り返し、そしてアーサーは苦々しげな顔をして言う。

「方向からいってグールタウンの方だな。」

「もしかして例の事件に関係が……?」

「メアリー?」

「なんですの?」

「そのお嬢ちゃんを連れて車の方に戻っててくれねぇか? 俺はちょっと、あそこで何があったのか見てくる。」

「そんな、お一人でなんて危険すぎますわ! 何度も申しますけれど、わたくしの役目は……」

「大丈夫だって、俺だってガキじゃねぇんだ。危ねぇと思ったらすぐに戻って来るよ。そのお嬢ちゃんを一人でダウンタウンに残してく方がよっぽど危険だろ?」

「でも!」

「それにな、今からあそこに行くにはちっとばかし……」

 そういうとアーサーは。

 また、へらっと笑った。

「早く走らねぇといけないからな。」


 とん、とん、とんと。

 右の足で三度、突き刺すように地を蹴って。

 アーサーはようやくその場所に止まった。

「こりゃあ……」

 アーサーは、思わず、といった感じで、そう声を漏らした。アーサーがその時に立ち止ったその場所は、既にダウンタウンの中、少し奥に入ったところで、小さな路地が大通りに対して丁字に接続している場所だ。そして、そのすぐ目の前に、瓦礫の山が築かれていた。もうもうと土煙が舞っていて、その上に沈殿していた黴が強くかき混ぜられたような、そんな匂いまでが混ざっているせいで、鼻先をくすぐられただけですぐに咳をしてしまいそうな、そんな空気の中で。

「ひでぇな。」

 確かにアーサーの言う通り。

 それは、ひどい有様だった。

 鉄筋が何本か、空の月を掴もうとする指の骨のように伸びている。モルタルだかコンクリートだかセメントも分からない色をした、何かの灰色の塊がそこら中に散らばっていて、そしてその隙間を埋めるようにして赤い煉瓦が、血に染まった脂肪のように崩れている。割れたガラスと、それから鍍金された金属のようなものが月に照らされて、瓦礫の隙間から、きらきらと暗く光っている。煉瓦の色合いや、それから金属の鍍金から見ると、ここは雑居ビルの様な建物ではなく、もとは、たぶん、何かホテルの様な建物だったのだろうと思われた。少し洒落た建物だった痕跡が見えて、それだけに崩れ去った残骸は痛々しくも感じられた。

 ただし、例えば火事になっているとか、炎のようなものは見えなかった。恐らく、先ほどの爆発はこの建物の下、その地の底で起こったのだろう。そう考えれば、あれほど遠くまで、爆発の反響が届いたのも説明がつく、グールたちのハニカムの中で何かが爆発したのだ。そして、そのせいでこの場所の地盤が崩れて、この建物までも崩れたに違いない。爆発の炎は地上の物質に燃え移ることもなく、ただこの世界を揺らした後、静かに地の底で死んでいった。

「いったい何があったっつーんだよ……まあ、何があったも何も、何かが爆発したんだろうが……」

 そんなことを言いながら、アーサーはその建物だったはずの瓦礫の山に近づいていく。もうもうとした土煙は、アーサーがこの場所に到着したその時点で最高潮であったのか、とにかく次第に晴れてきていて、その現場には二つの月の光が差し込み始めている。そのせいで、アーサーの目には十分すぎるほどその場所の状態は見えていた。

 だからアーサーは。

 その残骸のすぐ前。

 二人の人影に気が付く。

「あれは……?」

 じっと目を凝らすと、次第にその姿がはっきりと見えてくる。アーサーは、ふざけたようにして、ひゅーと軽く口笛を吹いた。それは予想されていた出来事だ、決して好ましい出来事ではないが。なんということもない、アーサーにはその両方に見覚えがあった、その両方を、己の目で見たことがあったのだ。片方を見たのはごく最近だった気がする。もう片方は二年以上前だ。片方は、金色に光る羊、金色に光る蹄。もう片方は全身を黒に包み、尾に似たポニーテールを結わえている。

 つまり、片方は。

「よお、ブラックシープ!」

 そして、もう片方は。

「それに、フラナガン先生?」

 二つの人影が、アーサーの呼びかけに反応して。

 びくり、と揺れた、慌ててこちらに体を向けたらしい。

 片方が、朗々とした素直さで、声を発する。

「あなたは、アーサー・レッドハウス!」

 その声に、疲れきったような声を重ねて。

 もう片方の人影が、唱和する。

「え、ちょっと待ってサー・アーサー?」

「久しぶりだな、先生。」

 アーサーはゆっくりと二人の方に歩みを寄せる。二人はどうしていいのか分からないのだろうか、とにかくその場に突っ立ったままでアーサーが近付くままにしていた。ブラックシープの黒い衣装と、フラナガンの黒いコートが、次第に闇の中に、異物のようにして浮き出してきて……その両方共が、何者かの返り血で、濁ったような赤の色で染まっていた。フラナガンの方の服の、その埃がべとつく赤を見ながら、アーサーは軽くウインクをして見せる。

「変わってなさそうで安心したぜ、先生。」

「あー、えーと、その、久しぶりだね。」

 フラナガンは、ちょっと照れたような声で。

 そんなことを言って場を濁した。

 アーサーはその言葉の穂をついて。

 世間話でもするようにして、会話を続ける。

「ところで先生、何でブラックシープなんかと一緒にいるんだよ。」

「ちょっとその、色々と事情があって。」

 はははっ、と乾いた声で、アーサーの言葉に対してフラナガンは誤魔化すようにして笑った。そんなフラナガンの前に、あるいはアーサーの視界に、ずいっとブラックシープは、庇うようにして体を押し込んでくる。

「アーサー・レッドハウス!」

「おー、ブラックシープ。」

「あなたは正義の人だ。私も傷つけたくはない。ここは、黙って引いてくれないか!」

 小声でフラナガンが「あ、サー・アーサーは正義の人認定なんだ」と呟いたが、一方でアーサーはふーっとわざとらしくため息をついた。それから、やれやれといったように肩をすくめる。ブラックシープの方に向かって、口を開く。

「ちょっとな、俺の方でもそうはいかねぇ事情があるんだよ。」

 ブラックシープが、脅すように蹄を構える。

 アーサーは、気に留める様子もなく続ける。

「先生。」

「え、僕?」

「ノヴェンバーから聞いたぜ。」

「ノ、ノヴェンバーから? 何を?」

「一体、何が起こってるんだ?」

「いや、僕が聞きたいんだけど。」

「あんたはどうかかわってるんだ?」

「ちょっと待ってよ、なんで君、僕が何かを知ってる前提なの?」

 アーサーはまた、ふーっとため息をついた。

 あくまで誤魔化すのか、と言わんばかりに。

 それから、今度は二人に向かって話し始める。

「昨日、グールタウンで一人、ダレット列聖者が殺された。詳しいことをいうわけにはいかねぇんだが、その事件にはどうやら……先生は名前を知ってるか解んねぇけど……ホワイトローズ・ギャングが関わっているらしい。グロスターの馬鹿息子がリーダーをやってる。ここまで言えば、ことの重要性は解ってもらえるよな? 下手したら、ノスフェラトゥとグールの連中の間で、また戦争が起こってもおかしくねぇ事態だ。」

「昨日? そういえばリチャード・サードも二匹目って……」

「二匹目? 何の話だ?」

「何でもないよ、独り言さ。」

「水くせぇな先生、俺とあんたの仲じゃねぇか。」

「別に僕たち親しくはなかったよね?」

「何か知ってるんだろ? 教えてくれよ。今日になって、グールタウンで大爆発が起こった。たぶんこの感じだと、ハニカムのほうで起こった爆発だろう、違うか? 向こうではホワイトローズ・ギャングの構成員らしい奴らが二人、殺されてたぜ。ブラックシープ、お前のやり口でな。なあ、教えてくれよ。今回の事件は、昨日の殺鬼にどうかかわって来るんだ? そもそも、ここで何が起こったんだ? 奴らは、お前らは、何をしようとしてるんだ?」

「何度も言っているだろう、それは僕が聞きたい……」

「彼らは何かの封印を解こうとしているらしいよ!」

「封印?」

 アーサーとフラナガン二人だけで話を進めていることに疎外感を隠せなくなったのか、いきなりブラックシープが言葉を挟んできた。えっへん、私も色々なことを知ってるんだぞ!とでも言わんばかりに胸を張る。フラナガンは小声で「あ、君ちゃんとあの人たちの話、聞いてたんだ」と呟いたが、一方で、アーサーはそんなことに関わっているような余裕がある表情ではなかった。ぎっと奥の歯を噛んで、その奥の歯で苦虫を強く噛み潰しているみたいな顔をしている。雑に切られた白髪に指を突っ込んで、それをかき上げる。それから、絞り出すように、やっぱりか、と口を動かした後で、声を発する。

「Lだな。」

 その時に。

 その苦悶の表情の内に。

 一瞬だけ、隙ができた。

 そして、その隙を見逃すブラックシープではなかった。さっと、目に見えないほどの(あくまで比喩的な表現で実際には十分に目に見えたが)素早さで腰のポーチのうちの一つを開いて、そこから三つ、何か小さなボールのようなものを、手品師のように指に挟んで取りだした。それらを、とうっ、とアーサーの方に抛って投げる。

「な……こりゃなんだ!」

「シープ・スモークさ!」

「何にでもシープつけるんだね。」

 ぷしゅーっと音を立てて、三つ、アーサーのことを取り囲むようにして落ちたボールの中から黒い煙のようなものが噴出した。もうもうと、その煙はアーサーの視界を取り囲み、ブラックシープとフラナガンの姿を隠す。煙は、まるでそれ自体がねとつく液体のようにしてまとわりつき、光の全てのスペクトルを覆いこみ、音を乱反射させ、匂いを隠し、そして思考の漏出を塞いだ。つまり、あらゆる方法で、逃げ出そうとしている二人の姿を隠した。アーサーは軽く舌打ちをしながら、両手で何とか煙を払おうとする。

「これじゃ何も見えねぇ……!」

「今だ、ファーザー・フラナガン! 逃げるよ!」

「ちょっと待ってよ、僕も何も見えないから、これ!」

「私の手に掴まり給え!」

 掴まり給え、と言っておきながら、いつもの通りがしっとフラナガンの腕をつかんだのはもちろんブラックシープの方で、ひっつかまえて引っ張るようにしてフラナガンの体と共に、ブラックシープはその場所から逃げ出す。

「おい、待て!」

 アーサーがでたらめな方向に向かって叫ぶ。

 けれど、待てと言われて待つ奴はいない。

 その代わりに、フラナガンの声が。

 煙の奥の方から、鈍く響くように聞こえてくる。

「あーと、サー・アーサー! 僕のことは極力誰にも言わないようにしてね? さすがに僕もこういうのは恥ずかしいからさ!」

 そのまま、声は小さく吸い込まれて行き……そして、その場にはアーサーだけが残された。次第に煙が、というかシープ・スモークが晴れてきて、アーサーの視界と、聴覚と、それから他の感覚も戻ってきた。瓦礫の山の前には、もう誰もいなくて、そして月の光だけが、土煙の残り物だの、シープ・スモークの残り物だのせいで、薄ぼんやりと照らし出していた。アーサーは小声で悪態をつくと、それから大きなため息を一つ漏らした、ここ二節ばかりため息ばかりついているなと思いながら。

 そのため息に被さるように。

 背の方で、声がした。

「アーサーさま……!」

「あ? パピーか?」

 アーサーが、くるっと後ろを向くと、そこには確かにメアリーの姿があった。はーはーと荒い息を肩で吐き出すようにして、恐らくよほど急いで走ってきたのだろう、しかも、あのぽこぽこ靴で。足ががくがく揺れていて、その膝の上に手をついて、今にも倒れんばかりの姿勢だった。アーサーは呆れたような顔をすると、メアリーの方に向かって近づいていく。

「お前、こんなところで何やってんだよ。」

「アーサー、さまを、追いかけて、きたのですわ……」

 必死に呼吸するその隙間をついて、メアリーは切れ切れに言葉を吐き出しながら、何とかそう言った。アーサーはメアリーの方に手を差し出すとメアリーはその手をぎゅっと握って、それからアーサーの体の中に自分の体を放り込むようにして凭れかけさせてくる。

「今にも死にそうだな、おい。」

「なんの、これしき、でしてよ……わたくしの、役目の、重要さに、比べれば……お父さまに、怒られて、しまいますもの、アーサーさまを、お一人にしては……!」

「そんなに頑張んなくても俺は死にはしないぜ? 滅多なことじゃな。まあ、でも気持ちは嬉しいぜ。ありがとうよ。」

「どう、いたしまして……ですわ……」

 次第に呼吸も落ち着いてきたのか、メアリーはただ寄りかかり、抱き付いただけの体の位置を直して、自分が一番楽な姿勢を取り始めた。頭をアーサーのコートの中に突っ込んで、それから押し付けるようにする。アーサーの手を自分の体にたすき掛けにさせるようにして、それからもっと強く体を支えてくれるように引っ張る。アーサーはされるがままになりつつも、会話を続ける。

「あのお嬢ちゃんはどうしたんだ?」

「お車の中で寝ていらっしゃいますわ。ちゃんと鍵もかけてまいりました。さすがのダウンタウンでも、夜警公社のお車を何とかできるような方はいらっしゃいませんもの、特に危険はありませんことよ。」

「まあ、それならいいか。」

「一体全体何があったんですの、アーサーさま。このお建物の……崩れた跡、瓦礫の山、今さっき崩れたばかりみたいですけれど、このお建物が爆発いたしまして?」

 そう言いながら、メアリーは目の前の残骸を指さす。

 アーサーは、空いてる方の手で頬を掻きながら答える。

「まあ、そんなところだな。」

「これにも、ホワイトローズ・ギャングが関わっていますの?」

「たぶんそうだな。」

「なぜ? 彼らは何をしようとしていますの?」

「それを調べるのが俺たちの役目だろ?」

 アーサーはメアリーの体をいつものようにぽんぽんと叩きながら、少し誤魔化すような口調でそう言った。メアリーは、そのアーサーの口調に少し訝し気な顔をしてから、それからつい先ほどまで視線を向けていた、例のホテルの瓦礫の山から目をそらして、ぐっと顔を押し付けてアーサーのスーツに鼻を当てた。少し目をつむり、そのスーツの匂いを嗅ぐように鼻を鳴らしていたのだけれど、やがて薄く目を開いて、それからアーサーに向かって言う。

「……アーサーさま、ブラックシープにお会いになりましたわね。」

「まあな、何で分かった?」

「わたくしに隠し事はできませんことよ。」

「シープ・スモークの匂いだな。」

 アーサーはにへらっと笑いながらそう言った。しかし、メアリーはそんなアーサーの笑顔にごまかされることなく、アーサーの体から自分の体をゆっくりと離した。アーサーも、メアリーの体を抱きしめていた手を離して、メアリーのする通りにさせてやる。そして、少し距離を置いた位置から、目をそらしたままで、メアリーは話を続ける。

「フラナガン神父さまはご一緒でしたの?」

「それは言えねぇな。誰にも言うなって言われたんだよ。」

「……あのお方は皆様がおっしゃるような方ではありません。立派な方です、もしもフラナガン神父さまがこの件に関わっているとしたらば、きっと何か理由があるはずですわ。」

「だろうな。」

 そらしていた目を、しっと上げて。

 アーサーのことを見つめてから。

 メアリーは、言葉を続ける。

「アーサーさまは。」

「何だよ、改まって。」

「何かをご存じですわね。」

「ああ、まあな。」

「何をご存じですの、それはわたくしには言えないことですの?」

「ちょっと事情があって、今は教えられねぇんだよ。」

「でも、わたくしは……」

「いつか教えられるようになったら、必ずお前にも教えてやるよ。ただ、それでも全部について言うことはできねぇと思うがな。今のところは、これしか約束できねぇし、これ以上のことは言うわけにはいかねぇんだ。これじゃ、ダメか?」

 アーサーは、しっと見つめていたメアリーの目を、覗き込むようにして見つめ返しながら、少し困ったような口調でそう言った。メアリーは、そのアーサーの顔に、それ以上は何も言うことができず、ぐっと口をつぐんで黙ってしまう。アーサーからまた目をそらし、自分のつま先をじっと見つめていたけれど、やがて、ようやくまた口を開いた。

「分かりました、アーサーさま。」

 決して納得はしていないが。

 しぶしぶ、といった感じで。

「その時まで、お待ちいたしますわ。」

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