prologos
静かに体の中の氷河が引いていく。
最初は脳漿の、端の方から。
体はその冷たい冷血に慣れていたから、まるで太った白い蛆虫みたいにして温度が骨の中をゆっくりと、脊髄から踵の方へ、降りていく。その時に体は初めて冷度を感じるのだ。低温が体の節々に口づけを落とすたびに、鳥が性愛の希求のために羽を揺さぶるようにして、彼の体は鳥肌を立てた。
水の底で腐っていて、ぶよぶよとしているような、頭蓋骨の中身の思考は形をなさず、彼はただひたすらに感覚を感じていた。それは六つに分かれていた……もちろん、彼自身は五つしか認めはしなかったが。汚らわしい、汚らわしい……彼の否認するその最後の感覚を除いて、一番最初に戻ってきたのは聴覚だった。働いていない、思考に近い場所で、薄い膜はその音にしたがい震えていた。耳の奥底にいる巻貝の形の器官に情報を伝えるために。
カツン。
カツン。
カツン。
鈍色と透明な靴音。
この音を知っている(ここで腕は麻痺を示す。痺れたあくびのような甘い欠損の感覚)。この音を知っている(ここで舌は苦さを感じる。乾いた口は唾液で汚れている)。この音を知っている(ここで鼻の奥に消毒薬の匂いを感じる。子供のころに連れてこられたあの病院と同じ匂い)。
この音を知っている?
ここで彼は、自分が思考しているということに気が付く。思考、暫く使っていなかった蛇口から、最初に赤錆色の液体が流れ出すようにして、彼の思考の中で、夢の記憶は全てを流し落とす洪水のように流れ込む。それが夢と知覚できるまで、数秒かかる……その鋭角と曲線でできた印象の集積物が。何の感情も呼び起こすわけではない。それはただひたすら記憶としての内在物だ。それは淡く、ちょっとした現実の温度で消えていく、氷河の冷度の残りのもの。
そして、彼はまた音を聞く。
聞きなれた音。
いや、音よりももっと複雑なもの。
情報のために記号化された音節の数列。
記号群。
声。
「フラナガン神父。」
彼は目を開く。
聴覚、触覚、味覚、嗅覚、そのどれよりも鮮やかで、そのどれよりも強烈な印象が、彼の眼球から衝撃の感覚として映し出される。それは視覚だ。彼のまぶたがまるで蜜のようにねとついて、その向こう側にあるもの。現実の色彩、現実のひかり。
薄くよどんだ青い色。
冷たい銀色。
濁ったように揺れる白。
そこは機械仕掛けの内臓の奥深くのように見えた。
ここはどこだろう?
どこだろう? 疑問。だんだんと、自分が何かを取り戻していることを彼は感じる。それは、曖昧で不確かなものなのだけれど、けれど彼にとっては笑ってしまうほど単純なもの。彼の精神の主食。それは、彼が他人から貪ってきたもの。
彼は笑った。
口の端をゆがめて。
その口の端から言葉を滑り落とす。
「おはよう、大手くん。良い朝だね。」
そして、彼は目覚める。
人間の。いや、他の生物の。いや、生起的な物質の。その存在の欠片さえも感じさせない、金属でできた方形の部屋はかろうじて人が一人この中で生活できるかどうかという程度の、三ダブルキュビト四方程度のサイズの部屋だった。壁の全てはなにか青い光にゆがんだような銀の金属で覆われていて、天井の蛍光灯が鈍く光を反射させている。
彼は……フラナガンと呼ばれた男はちょうどその中で着替えを終えたところだった。いつもの服装に。まず、黒いスーツを着て黒いネクタイを締める。黒い靴下を履いて、よく磨かれて艶のある黒い革靴をはく。その上に、「無知の幸」を……つまり、黒いロングコートを羽織る。そして、真白の手袋をはめてから、その手で黒く長い髪を一本のポニーテールにまとめて、垂らす。黒い一枚の布で見えないようにその顔を覆い、その紐を後頭部で止める。最後に、銀色の鍵、「ランドルフ・カーターの鍵」のついた、ネックレスを、その首にかける。
主に仕える者の服装。
古い古い、トラヴィール教会の神父の服装。
「終わったよ、大手くん。」
「では、まいりましょうか。」
「ああ、その前に。」
「何ですか?」
「ラゼノ・シガーはあるかい?」
「ここにはありません。」
「そうかい、それは残念だな。」
フラナガンの傍らに立っている、眼鏡をかけた、すっとした顔の男。オールバックの髪の下に、海果系の人種に特有の黄色い無表情、その大手と呼ばれた男は、静かに金属の部屋の扉を開いた。フラナガンはゆっくりと、焦ることなくその扉から外へと出る。
外は暗い廊下だった。リノリウムに独特の、足の下にキュッキュッという感触。緑色の消毒された音だ。誰もいないその廊下は、ただ人工色の蛍光灯の下で確定的に横たわっているだけだ。フラナガンはくっくっと軽く首を動かして左右の廊下の先を見ると、くるっと振り向いて、大手に向かってお手上げのポーズを示した。
「そういえばさ。」
「何ですか?」
「どこに行けばいいんだい、大手くん。」
「こちらです。」
大手は特に何かの感情を示すこともなくそう言うと、フラナガンを先導するようにして歩き始めた。脇に抱えていたパッド型情報端末を自分の目の前に持ってきて、そしてそれを起動させながら話し始める。
「まだ貴方は、正式にはレメゲトンから退院していません。」
「そうなの?」
「ええ。」
「じゃあ、これからどこに行くのかな。」
「ある人に会っていただきます。」
「誰?」
「ジョーンズ財団のことは覚えていらっしゃいますか?」
「え、何だっけそれ。」
「黒と白の舞踏会。父と母。黒い羊の仮装をした子供。」
「あー、はいはいはい。あの人達か。献金パーティを開いてくれた人達だね? 覚えているよ。」
「当時の理事長と奥方はお亡くなりになり、そのご子息であるP・B・ジョーンズという方がジョーンズ財団を率いています。そのP・B・ジョーンズ氏が、ブリスターに対して貴方を釈放するよう手続きをとって下さいました。」
「へー、そうなんだ。でも、なんで僕を?」
「ただで、という訳ではありません。」
「まあ、だろうね。」
「一つ条件があるとのことです。」
「その条件って?」
「今から、貴方にはジョーンズ氏の代理人の方に会って頂きます。その方から条件を聞き、それを飲むかどうか判断してください。条件を飲むならば、貴方は釈放されます。飲まないのなら、またレメゲトンに戻ることになります。」
フラナガンは、大手のその言葉を聞くと肩をすくめた。
そして半分笑ったような声で言う。
「冷たい話だね。」
廊下は、直線でどこまでも続くように長かった。どこまでも続くようなその通路の両側には、整序された数式のように完全な等間隔で扉がついていた。扉? しかし、それはある意味では扉ではなかった。あまりに静かすぎるのだ。その先に、扉の先に何かの空間があるとは、思えないほどに。それは、その意味では壁に書かれた絵とほとんど同意義の存在であった。
しかし、その中でフラナガンは、一つだけ他と違った扉があることに気が付いた。右の壁、少し先、あとちょっとでそこにたどり着く、その扉。その先にも同じような扉は続いているし、その手前にももちろん扉は続いていた。しかし、その扉だけは違った。
例えるならば純粋な火の燃える音だった。
不純物は混じっていない。だから、パチパチとはぜる音もしない。
周りに風も起こっていない。だから、ごうごうという音もしない。
ただ、その火が燃える時の音。
歌われなかった子守唄のようなもの。
その音が、この扉の向こうで燃えている。
「こちらです。」
「だろうね。」
「私はここでお待ちしています。」
「一緒に来てくれないのかい?」
「お一人で中にお入りください。」
「ま、いいけど。」
フラナガンはその扉のノブに手をかけた。
火の温度を肌で感じる。
さっきまで自分がいた場所の、氷河とまるで同じような温度。
けれど、その温度とは明らかに違う種類の温度。
この場所には似つかわしくなかった。
あまりにも、生きているのだ。その火の温度は。
フラナガンは口の端で笑う。
それから、扉を開いた。
ベルヴィル記念暦983年2章11節。
ちょうどその、カトゥルンの夜に。
トラヴィール教会ブラッドフィールド教区長、エドワード・ジョセフ・フラナガンは、ブリスターによって「隔離」された。簡易キットの検査によって、彼が等級6のスペキエースであることが示されたからだ。以前から、フラナガンがいわゆる「緊急措置入院必要患者」に該当するスペキエースなのではないかという噂はあった。けれどそもそも彼の誕生時の精密検査では、彼は等級N……つまり非スペキエースだという結果が出ていたため、ブリスターは動くことができずにいたのだ。それだけではない、パンピュリア共和国内のハウス・オブ・グッドネスとの関係もあった。HOGは、コーシャー・カフェの件で以前から、フラナガンを「逮捕」しようと監視していた。少なくともブリスターと同じくらい、以前から。そこで起こるのは、Beezeutとパンピュリア共和国との、いわゆる管轄争いだ。
けれど、最終的にフラナガンは「隔離」された。
レメゲトンに。
「噂には聞いていたけれど。」
フラナガンは開いた扉をゆっくりと閉じながら、明るい声でそう言った。先ほど、彼が着替えを行っていたのと同じような、四方を金属でできた機械の内臓のような部屋だった。
「本当の本当に実在するとはね。」
部屋の真ん中には、棒と板だけでできていますといった感じの金属の机と、同じようにシンプルな椅子が二脚、机の両側に向かい合うように置かれている。
片方の椅子には誰かが座っていた。
「初めまして、ノーハンズ・オンリーアイ。」
『初めまして、フラナガン神父。』
机の上に置かれたスピーカーから、その椅子に座っていた男の声が流れた。合成された、鉛の錆びのような味がする音声。抑揚は排除され、まるで凪いでいる空のように静かな声。
その男には、両の手がなかった。囚人の拘束着のような服を着ていて、その服にはちょうど袖がないけれど、それだけではなくて、実際に彼の両の腕は存在していなかった。つまり、肩から先が完全に失われているのだ。そして顔は、黒い、ぼろぼろの、袋のようなもので覆われていた。顔の全面をすっぽりと覆い隠すような袋の上、片方の目、左目の部分にだけ穴が開いている。鏡に映った月の底のように暗い、青い瞳の、その目の周りの皮膚は、火傷の色で濁っていた。
両方の手がなく、目が片方しかない。
ノーハンズ、オンリーアイ。
つまり彼の名前は、ノーハンズ・オンリーアイ。
単純な話だ。
暗い夜のおとぎ話。
良く通っている略称で呼べばNHOE。それが今、フラナガンの目の前にいる。実在して。そして、フラナガンには、彼が本物のNHOEであるということが解っていた。もし仮に、本物のNHOEなんていうものがいるのだとすれば。
「思っていたよりも若いんだ。僕と同じか、それか僕よりも少し年上くらい、そんな風に見える。」
フラナガンはさざめく春の風のように笑うと、静かにその椅子に座った。テーブルを挟み、向き合うように置かれた椅子に。机の上に肘をつき、手を組んで自分の顔の前に持ってくる。そして、NHOEに向けてゆっくりと首を傾げた。フラナガンの顔の前で、ひらりと黒い布が揺れる。
「つまり、君がP・B・ジョーンズの代理人っていうことかい?」
『ええ。』
「そうかい。随分、君らしくない仕事をしているんだね。」
『私のことをあなたは知っているのですか?』
「まあね。君は、有名人だから。」
フラナガンは組んでいた手を外す。それから左手の甲を自分の顎の下に持ってきて、その顎を甲の上に乗せた。右手は、人差し指、パンにつけるクリームを掬うようにしてNHOEの目の前に置かれているスピーカーをなぜる。
「で。」
『はい。』
「条件って何?」
『P・B・ジョーンズのことは知っていますか?』
「まあね、でもそんなに詳しくは。」
『彼の両親が死んでいることは?』
「ああ、それはさっき大手くんから聞いたよ。」
『彼は彼の両親の遺産を継ぎ、この世界でも有数の富豪の一人となっています。』
「だろうね。」
『そして今、彼はその遺産を特別な目的のために使っています。』
「特別な目的?」
『あなたには、彼がその目的を達成することを手伝って欲しいのです。それが、ここからの釈放の条件です。』
NHOEは身動き一つしなかった。本当に、身動き一つさえ。そのせいで、その光景は、人の形をしたマネキン、その目の前に置かれたスピーカーから、どこか遠隔地にいる誰かのしゃべる言葉を転送して発しているようにさえ見えた。しかし、フラナガンにはそうではないことが分かっていた。
「なるほどね。」
黒い布の奥で、そっと瞬きをした。
一度、二度、三度。
それから、口を開く。
「僕でいいのかい?」
『ええ。』
すっとフラナガンは背筋を伸ばした。それから右の手のひらと左の手のひらを顔の前で合わせて、布の上、唇のあるあたりに、人差し指の横のところを当てた。それから、NHOEに向かってもう一度首をかしげる。
「僕の噂は聞いているよね。」
『ええ。』
「ジョーンズくん?の特別な目的に、本当に僕がふさわしいのかな。その、僕に関する噂を勘案した上で。僕にはそうは思えないけれど。」
『コーシャー・カフェは現在、完全に消滅しています。貪欲なブラッドフィールドの夜によって、コーシャー・カフェの元領地であるブラッドフィールドは切り分けられて、それぞれ他の組織へと咀嚼されました。つまり、現状でのあなたの危険度は、既にゼロの状態です。』
「僕とコーシャー・カフェとの関係はあくまで噂だよ。」
フラナガンは腕を広げて、ふざけた様な口調で軽くお手上げのポーズをする。それに対してもやはり何も反応せずに、合成音でNHOEは言葉を返す。
『それはこの際どうでもいいことです。現在のあなたは、どちらにせよ無力な人間です。』
「で、その無力な人間に君は何をさせようっていうんだい?」
『具体的なことは、あなたが「特別な目的」に対して協力するという了承を得てから話します。』
「具体的なことも知らずに、YESかNOかを判断しろっていうのかい?」
『はい。』
「ふぅん。それはまあいいけどね。それよりも、僕は釈放されてから、君たちに従わないかもしれないよ? ここから出たらすぐに逃げて、そのまま行方をくらますかもしれない。何といっても、僕は生まれつきのブラッドフィールドの人間だから。」
フラナガンは馬鹿にしたようにいうと、くうっとひとつ伸びをした。その体の動きに合わせて、頭の後ろではポニーテールがゆらゆらと揺れる。
『それは問題ありません。もしあなたが条件にYESを提示し、ここから釈放されることになった場合は、一つの手術を受けていただきます。』
「手術を?」
『ええ、手術を。』
「……心臓のそば? それともこっちかな?」
フラナガンはそういうと、真っ白な手袋に覆われた人差し指をひらひらとさせて、その先で自分の頭をこんこんこんと三回叩いた。
『そちらです。』
「それなら安心だね。」
『ええ。』
NHOEのその無表情な答えに対して、暫く何も言わずに右手の人差し指の背の、第二関節で金属のテーブルをかんかんと叩いていたけれど、やがてフラナガンはすっとその椅子から立ち上がった。それから、ゆっくりとした歩き方で机の反対側へと向かう。
「そういえば、さっき大手くんに聞くのを忘れていたのだけれど。」
NHOEのいる方へ。
まるで人形のように動かない、拘束着をまとった男の方に。
拘束着と頭巾。
NHOEの、コスチューム。
それでは、NHOEは一体何に拘束されているのだろうか?
フラナガンには自明のことだった。
そして、自分が何に拘束されているのかも。
簡単なことだ。
黒い布の向こう側で、フラナガンは言葉を滑り落とす。
「今日って、何年の何章何節?」
『ベルヴィル記念暦985年2章11節。』
「へぇ、もう二年もたっていたんだ。」
そう、すべてはとても簡単なことだ。
考える必要性もないくらいに。
フラナガンは、NHOEの耳元に口を近づける。
NHOEの耳を、黒い布が擦れる。
「じゃあ、そろそろ僕もここから出ていい頃だね。」
そしてフラナガンは地を這うなめくじのように笑う。