94話:孤狼と獅子子 その1
「さてと──」
商会の補填を終えたラグナは学院に戻る準備を終わらせて後にする。子供達は名残惜しそうにしているが、また来るとだけ伝えて彼は正面から家を出た。
午前の授業には間に合わないだろうと踏ん切りをつけてゆっくりと歩いて学院に向かうラグナは、恐らく変わっていない日常を送っているだろう人々の姿を見つめる。否、彼らを見つめているのではなく、そうした当たり前の生活すらできず、路地裏や物陰に姿を隠し味噌潜める者達に目を向ける。
学院に通い始める前──ラグナはそうした人間達の中から自分から生きようとする者達を率先して保護した時期がある。哀れみなどからではなく、生きる為に懸命な者への共感からだ。怪我を負ったヨハンもその一人だった。
(家に戻ってからは籠りきりだったが、変わらないな)
そう心中で呟くが、この国にも都にも愛着などない。どちらかといえば軽蔑などの不快感のような者に近い。自分の事ばかりで手がいっぱいなのも分かる。寧ろ、それが当然なのだとこの王都で暮らして直ぐに理解したのがそれだ。
優劣や強弱ではなく、貧富で全てが決まる歪な世界──その根幹にあるものが上流階級として暮らす者達の厚顔無恥だ。
人の上に立つ者としての矜持も全うせず、それに付き従うのは甘い蜜を啜る知恵も力も、誇りも無い。ラグナが最も嫌悪する連中だ。
それが聖教などという嘘で固まった歴史で人の在り方を示した者達の末路だ。
(いや、違うな……)
そう自分に言い聞かせていたに過ぎない。そう考える事で自分が他の人間とは違うのだと思わせていた。
ジークフリードは教えてくれた。人間は神の模倣だと──絶大な力があったが故に過ってしまった事から、この世で最も脆弱な存在に世界の在り方を委ねたのだと。
ごく僅かな違いであり、自分のその枠からは外に出ることは出来ない。自分の正しい道を貫く強さは──逆にいえば、自分の悪辣さから目を背ける弱さだ。だから、フェレグスはそんなラグナの事を「甘い」と断じた。その真意を言葉で突きつけられて返す言葉も無かった。
だが、それでもラグナは踏み出せなかった。その言葉を言われたからと、直ぐにそれを克服できるのか? 踏み出せるのか? 否、知恵を持つ者ならばそれはできない──苦悩するのが当たり前だ。それをしないのは、考える力を持たない傀儡だ。
だから決められなかった。その一歩を踏ませたのはアリステラの存在だった。
コートの裏ポケットにはアリステラからの預かり物がある。正直な事を言ってしまえば何故、今になって彼女が自分にそんなものを託したのかは分からなった。それでも彼女の大事な物だから守らないといけないという決意は迷わず抱けた。
恐らく──いや、間違いなくアリステラの事は貴族達の耳に入るだろう。大公の娘という立場でありながら彼女は未だに蔑まれることに変わりはない。ましてや今回の相手は王太子である。彼女に、彼女の家に何か起こる前にラグナはユリウスとの一見にケリを付けると腹を括ったのだ。
何故そう思うのかは分からないが──ただ、彼女を守りたいと思ったからだ。
「…………」
それに気付いてラグナは足を止めた。
正門の前には馬車があり──馬が引く車はアリステラが乗っていた物よりも豪奢だった。誰が乗っているのか? 彼女よりも上の地位だと考えれば、誰が乗っているのかなど容易く至った。
ハッキリと顔を覚えている──ユリウス・フォン・ユーグ・ロイ・ロムルスが馬車から降りて来る。それを守るように取り巻き共が迎える。その両者は対照的だった。
一人の従者がラグナに気付きユリウスに告げ口したことでユリウスもラグナに目を向ける。ようやく両者の視線が交差した。
互いにその唇が開かれる事無くただ睨み合うのみ……ただ違うのはユリウスの方には彼に付き従う者が居るという事だ。そしてそいつらこそがラグナが最も卑下する輩である。ユリウスを守るでもなく、奴らは主の後ろからラグナに悪意に満ちた視線を送る。
やがてラグナは前へと歩き始める。その行動に対してユリウス達は動かない。
いや違う。ユリウスは逸れに動じず、従者たちはただ立ち竦んで動けないだけだ。
両者の距離が縮まるに比例してその間の空気は張りつめていく。ピリピリと、電のような何かが駆け巡りただでさえ動けない身体を委縮させる。
実際にラグナには怒りがあった。目の前に居るだろう元凶達に対する噴き出しそうなほどの怒りが今か今かと暴れている。
それでも、まだその時ではないとラグナは自制した。だから何もせず、ただその横を、府警上等だと素通りするだけに留めた。
「き、貴様ァ! 殿下に礼もせずその脇を通るとは何事かぁ!」
何もしてこなかった。それにいち早く気付いた従者がラグナに向けて吠え立てる。ラグナがそいつの顔へと視線を向ければ、優越感を隠しきれていない表情で此方を指差す滑稽な姿が映る。そして、それに他の何人かが同調し捲くし立てる。
相手にするのも馬鹿馬鹿しいと、ラグナは一瞬止めた歩みを再開しようとしたときだ。
「止めろ」
意外な人物がその言葉を止めた。静かだが威厳を備えたその声は連中の長であるユリウス本人のものだった。何のつもりかとはラグナも少し思ったが、どうでも良いと直ぐに思考を切り捨ててさっさと学院に向かおうとする。
だが、ユリウスはラグナに対して「待て」と呼び止める。
「お前の商会の事は聞いた……大変だったな」
「──それは、本気で言っているのか?」
「怪我人が出たと聞いた……大丈夫なのか?」
「馬車に轢かれた人間がただの怪我で済むと思うか?」
耳が早いなとは思ったがその後に続いた言葉を聞いて振り返って殴ってやろうかという考えが過ったのを何とか抑えて皮肉を込めてそう言葉を返した。
「そもそも、お前に関係あるのか」
「…………いや」
濁した返答に怪訝な表情になりながらもラグナは振り返ることはしなかった。ラグナの不遜な態度に対して再び従者共が喚くが、当然ラグナは無視する。そうしているとユリウスが止めさせる。
初対面の時から印象は悪かったが、どうにも歯切れの悪さを感じ取る。何を考えているのか……ユリウスのそれが読めない。
そして次に飛んできたのは提案だった
「ラグナ・ウェールズ。貴様と話がしたい」
その言葉に当然ながら従者たちは驚いた。止めるべきと進言する者も居るがユリウスはそれらを遮った。
「二人きりと言う訳にはいかないが、余はお前と言葉を交わしたい」
「話だと?」
「そうだ。二人きりでだ」
「…………断る」
当然だがラグナは断った。
「何故だ?」
「今更、お前と話して何になる? お前が賽に対して俺ももう賽を投げ返した。会話など、もはや不要だ」
「確かに、その通りかもしれない。だが、余はお前と今一度言葉を交わしたい。それがせめてもの礼儀だ」
「礼儀? その唯我の態度で礼儀を宣うのか? 野良犬ですら多少の弁えはするぞ?」
「当然だ。この国の次代を担う者が、おいそれと頼みなど出来ようか」
「ほお? つまり、お前は俺に頼んでいるのか?」
「そうだ」
此処まで会話をして、初めてラグナはユリウスという人間にほんの僅かだが興味を持った。そして、恐らくこれがこの男と言葉を交わす最初で最後の機会だろうとも判断する。
敵ではあるが……それは些か惜しいとも思った。恐らく話したところでユリウスに対する人物評価は大して変わらないだろうが……それでも、頼み事など出来ないと言った上で頼みごとをするこの男の口車に乗るのも一興と考えた。
「だが、今すぐ言葉を交わす時間は無い。今日の昼下がりでどうだ?」
「構わない。余も今から赴く場所がある。場所は追って伝える」
「…………好きにしろ」
それだけ言ってラグナはそれ以上先の言葉を無視してさっさと歩く。
散々の不敬に対する罵声もすべて無視してさっさとアデル教員達の所に行き、休んだ理由の仔細を報告したうえで教室に戻った。
ほんの数日だったが、それでも大分様変わりしたように感じる教室風景にラグナは大きくため息を吐いた。
それからラグナが次に接触したのは、当然だがパーシーだ。唯一、ラグナの身に何が起きたのかを知っていた彼だけだったので、細かな事も知らせておくことにした。
「成る程、本当に大変だったんだね」
「後は任せて、俺のすべき役割をする。それでお終いだ」
そして聞き終えたパーシーはと言うと何ともニヤついた顔でラグナを覗き込む。
「それで、グラニム家のご令嬢が態々お越しになったのに何も無かったのかい?」
「…………何も無かった」
「えぇ、ほんとに? どうしてすぐに答えなかったのか気になるなぁ」
「気のせいだ」
その一点にやけに喰いついて来ることに鬱陶しいと思いつつ、実際には大事な預かり物を預かった事などの事については口には出さなかった。
尚もしつこく聞いて来るパーシーの言葉を遮り、そのまま正門での出来事を話す。ユリウスの名前が出てきた瞬間にニヤついていた顔が一変して心底嫌そうな顔になるのは面白かった。
「君も面白い人だよね」
「甘いと言われた次は面白いか……」
「そう言われても仕方ないよ。態々相手の提案を飲むなんて、さ」
「二度とないかもしれない機会だと思った。まあ、有意義になるかは分からないがな」
「大蛞蝓共が煩いだろうが、気を付けてね。なんならついて行ってあげようか?」
「お前が来たら正体がバレるだろ」
「確かに」
「後、大蛞蝓って何だ?」
「森にいる魔物だよ。幼児位の大きさで樹木とかに張り付いて生きているのだけど、その粘液が木々を痛めるわ、腐らせるわ……おまけにヌルヌルした身体は斬撃も打撃も効き辛いし、倒したところで最後に異臭がする上に武器はおろか防具にもならない。アイツらを例えるのにピッタリさ」
「成る程、ユリウスという木に張り付く奴らか」
あれらは確かにラグナも嫌いだ。何せ思考が無いのだ。ただ引っ付いて害を及ぼす連中だというのならその例えは大いに的を射ている。
ただ、あのやかましいのをユリウスが止めていたのは記憶に新しい。話をしたいというのにあれらが吼えても、主人が止めるだろう。
そもそもそうしなければ、話など成立しない筈だ。
(まあ、行けばすべてが分かるか)
「……ところで、本当にグラニム家の令嬢とは何も無かったのかい?」
「しつこいぞ」
それでもパーシーは執拗にアリステラとの出来事を掘り出そうと聞くので、さっさと退散した。




