91話:怒り
ラグナとユリウスが邂逅した事、ラグナが茶会にてグリンブル家などと交流を持った事、学院にグリンブル家の末妹がやって来た事──それは普段の日常から起きた変化だろう。
だが、その変化は多くの日数の中から見れば些細なものでしかない。そしてその日も多くの者が過ごす中で変化が起きようとしていた。
「どうなっているんだ」
疑問ではなく、問いかけでもない。不機嫌──そんな感情を隠すことなく放たれた主の言葉に、その言葉をぶつけられた従者はびくりと肩を震わせる。それはその言葉をぶつけられた当人だけではなく控えている他の者達も同じだ。
「どうした、答えよ」
追及する主の言葉に従者であるその男は背中から冷や汗を流しながらも言葉を考える。しかし、どう語るべきか、何と答えれば主の貧酌を買わないか、その考えがまとまらずに開きかけた口は閉じてしまう。従者はそれを何度も繰り返す。
同僚は大勢いるが、味方は一人もいない。当然助けは無い──酷な言葉で従者を差すならば、生贄だ。
彼は主からの密命を受けていた。主の顰蹙を買ったとウェールズ商会という数年前に王都に設けられた商会を陥れるというものだ。
手始めに、男は王都の大手商会に秘密裏に援助を行った。主の威光を利用して彼らを従わせ、次に秘密裏に醜聞を流しウェールズ商会の客足を減らす手段を取った。
だが、実際にそれが功を成したのは精々一週間程度だった……あれからさらに週が経過しているが、何をしたのかウェールズ商会は既に立ち直りが済んでいた。それから彼はさらなる妨害を行うが、それらは全て頓挫している。
所詮、十歳を超えた若造が支配者となっている商会などあっさり潰せると高を括っていたが実際相手をしているのは、その若造にあらゆる知識・道徳心を教え込んだ賢人である。凡人の彼では、相手が悪過ぎるのだが……彼らは、相手が何者であるかを知らない。精々、支配者の代理として長く仕えている腕だけはあるが先の短い老いぼれを筆頭に商会の経営をしている程度の情報しか持ち合わせていなかった。
そもそもこの従者を含めて肩を振るわせる連中は主の威光を借りるだけに近づいて来た者がほとんどだ。忠誠よりも利己によって動く連中であり、優秀とは言い難い者達だ。
だから何でうまくいかないのか? 何故悉く失敗するのか? 根本的な部分の思考が辿り着いていない
(何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだッ!)
言葉が出ず、思案が浮かばず……苛立ちだけが心に蓄積されて行き、いつしか従者の思考は自分に降りかかるこの理不尽への怒りで埋められていく。役に立たない協力者達、敵である商会、その商会の支配者である平民生の若造と彼を支える代理人──。
思考を投げ出しただただ自分をこの境遇に追い込んだ者達と挙句、目の前の自分よりも若い立場だけは圧倒的に格上の主への罵倒を並べ立てていた。
「早くしろ、余も暇ではないんだ」
「ッ、そ、それは──」
冷淡な主の言葉が彼を妄想から現実へと引っ張り上げる。散々心の中で罵倒を吐き出し、喚き散らしていた為、取り繕う言葉が浮かんでいる訳でもない。言い淀んだ末に、彼は低身低頭で許しを請うのだった。
主である少年は端正な顔立ちで自分に頭を下げる男の後頭部を見下しながら鼻を鳴らす。
「ならば、成果を見せろ。お前の後ろ頭を眺める為にさせているのではないのだからな」
その言葉に対して、ただただ言葉で「はい」と返すが、その心中はドス黒いものによって塗りつぶされていた、甚だ一方的な逆恨み同然の悪意ではあるが、その中には恐怖も混じっていた。
従者の主──王子ユリウスはつまらぬという表情のまま、未だ面を上げない従者の男を見下ろす。
そんな出来事から数日が経過した。その日、パーシー(パーシヴァル)は珍しく早起きをした。
否、させられた。というのが正しい。さっきにも近い怒気を肌で感じた彼は、未だ深い眠りに就いていたにも関わらず、瞬時に体を起こして臨戦態勢に入った。それは魔物という脅威に晒されてきた戦う貴族の家に生まれた者としての条件反射だった。
目を覚ましてすぐに疑問を抱いたのは、この殺気が誰のものなのかだった……答えはすぐに分かった。この部屋にいる自分以外の人物は一人しかいない。
何時も通り朝の自己鍛錬から戻ってきた筈のラグナ手紙を読んでいたのだろうが、その姿勢のまま固まっていた。自然とあふれ出ただろう怒りは、かつてラグナが決闘裁判で放っていたものよりも大きなものだ
「ラグナ……いったい、どうした」
パーシーの問いかけにラグナは言葉を返さなかった。パーシーもそれを追求せず、ラグナの口から言葉が返って来るのを待つ事を選択した。怒りは安易に触れてはならない感情だ。それでもラグナが怒る事は、何か尋常ではない何かが起きたのだと言う事は分かる。
ラグナの怒りは、彼が幼い頃に見た記憶が重なる。
魔境と隣接するベルン公国で魔物による被害も多いそれはまさしく災害規模となる時もある。パーシーもその爪痕を見た。死んだ人、蹂躙された村と壊された家屋、死体の前で泣き崩れる家族──。そして、瀕死でありながら憎悪と憤怒で目を輝かせる強大な黒毛の猪の魔物を見た。
その魔物は最期に動けなくなるまで弱ったところを討たれたが、当時まだ六歳だったパーシヴァル達には、その光景は記憶に深く刻まれる凄惨なものだった。
あらゆる生き物であっても、怒りという感情には安易に触れていい者ではない。パーシーからラグナの目は見えないが、彼が身に纏う気には、かつて自分が遠巻きに見た怒り狂う魔猪が放っていた怒りを感じさせる。
それからしばらくして、落ち着きを取り戻すかのようにラグナの口からため息がこぼれる。
「……何でも、ない」
ラグナは振り返ることなくパーシーに言葉を返した。それが嘘だと、子供にもわかる嘘だ。だが、これでもパーシーはラグナとはこの学院以来の友人だ。その声音から普段の彼からは感じられない感情を読み取っていた。
だから「分かった」と、敢えてその嘘を真実として呑み込んだ。
「……今日は、いや、ほんの少しの間だけ学院を休む、かもしれない」
「そうか、アデル先生には僕から伝えておくよ。早く、行ってやれ」
「…………すまない、ありがとう」
それだけ言ってラグナは僅かな荷物も持たずにラグナは部屋から飛び出した。それを無言で見送ってから、パーシーはベッドから這い出る。閉まっていた窓を開け放つ。
朝の寒気は容赦なく部屋に侵入し、彼の身体を凍てつかせる。パーシーはその寒さに北の故郷を思い出しながらも、雲行きの怪しい空を見上げる。
パーシーに学院での事を託してから、ラグナはその足でウェールズ商会の本館に直帰した。働く者達は、学院にて勉学に励んでいる筈の主が何の連絡も入れずに戻ってきたことに多少の驚きつつも、彼を奥へと通す。
ただ、こういう時は後任の全てを託しているフェレグスに取り次ぐ筈なのだが、今回のラグナはその必要はないと言って、ある人物の下に案内を命じた。
自分の部屋でもなく、フェレグスの部屋でもなく、執務室でもない。その部屋はウェールズ商会で働く一部の人物にラグナ達が許可を与えて貸し出している貸し部屋の一つだ。否、だったというのが正しい。その人物は既にこの部屋を引き払い、これまたラグナ達が門出と厚意から買い与えた小さな家に妻となった女性と移り住んでいた。
そのかつての部屋の主は、額や手足を包帯で覆われ、ベッドで横になっており傍らにて看病していた女性は入って来たラグナの姿を見て立ち上がり、深くお辞儀をする。
それをラグナは制し、ゆっくりとベッドに近づいた。
「──ヨハン」
ラグナの呼び掛けにベッドにて眠っていたヨハンは、ゆっくりと瞼を開けてこちらを見下ろすラグナへと視線を向ける。
「ラグナ、様? どうして?」
「フェレグスから、お前が大怪我を負ったという連絡が来たんだ」
「そうでしたか、申し訳ありません……」
「謝るな。その体勢のまま、喋るだけでいい」
無理に体を起こそうとするヨハンを制してラグナは、ヨハンの妻に部屋に出ているように命じる。
「馬車に轢かれたと聞いた」
「……はい」
フェレグスからの手紙にはヨハンの身に何が起きたのかが大まかにだが記されていた。
この一日前──ヨハンの管理する支店に乗り手を失い暴走した馬車が突っ込んできた。その暴走に彼は巻き込まれたのだ。
フェレグスは現在、破壊された支店の様子を見に行っており、此処には居ない。
「……すまない」
「何故、ラグナ様が謝るのですか」
「お前が怪我をしたのは……俺に原因があるのだろう」
手紙を読んだ時、ラグナの脳裏には自然とユリウスの姿が過った。微かに臭った悪意をあの文面を読んだときに抱いたから、ラグナは驚きよりも怒りをいだいたのだ。
証拠もないし確証もない……ただ、自分の勘がユリウスという黒幕が居るというのを察知した。
それから心を落ち着かせると、今度は自分がユリウスと敵対する姿勢をとらなければ、こうしてヨハンが大怪我を負う事は無かったのだと立ち返り、自責の念を抱く。
だが、その言葉にヨハンは首を横に振って否定の意を示す。
「ラグナ様が、お気に病む事はありません。私達は貴方への恩をまだ返せていないのですから」
「恩ならば、もう返している。俺の留守を、フェレグス達と共に守ってくれている。それに、お前が此処で築き上げたものは他でもないヨハンが、自分の手で築いたものだ」
「それでも、それが出来る場所に私を掬い上げられなかったら、私はきっと今も居場所なく腐り果てていました。返しても返せないものなのです。仮に貴方の言う通り、私がラグナ様に返すべき恩を返していると言われても──私は、貴方の為に働きたいのです」
ヨハンはそう言って、弱弱しくもラグナに手を差し出す。ラグナは何も言わずその手を優しく握りしめた。
「私はラグナ様と、ラグナ様の家を守る為にこの命を尽くしましょう。一度は死んでいた私を拾い上げてくれた光の為に──この知恵の全てをこれからもお貸しします」
「……ありがとう。だが、今はゆっくり休んでくれ。回復したら、またその力を俺達に貸してくれ」
ヨハンはその言葉に小さく笑みで返すと再び眠りに就く。それを見届けてからラグナは部屋を出て、ヨハンの妻に再び彼の事を託すと客間にてフェレグスの帰りを待った。
太陽が真上まで登りきる前にフェレグスは戻って来た。彼はラグナが来ている事を聞くと僅かに目を細めてから主が待っているだろう客間にやって来る。
本来ならば、数か月ぶりに会う二人は、親しい間柄でも挨拶を交わす──だが、今回の二人は無言のまま相対するようにテーブルを挟んだ。
「どうだったんだ?」
「それは、支店に関して、ですか?」
「全てだ」
「ならば、結論から先に述べましょう。この一連は不運の事故ではありません」
既に人払いは済ませてあるこの一室は静かで、フェレグスの答えは部屋全体に響くような衝撃と強さがあった。ラグナはそれに驚くことは無く、目を鋭くする。
「証拠は?」
「今日だけでなく昨日も状況分析の為に、支店の方を見に行って参りましたが……馬車の牽いていた積荷は腐植土だった点です」
腐植土とは、動植物などの遺体が地中にいる微小な生物によって分解され変質した物質であり、その形は土とよく似る事からそう呼ばれている。特に農村近くにある森林などでは木々の葉が蚯蚓などによって分解される腐葉土となって蓄積される。それらは天然の肥料として農村で利用されている。
本来ならば、そうした農作物の売買はあっても栽培が行われていない王都ではめったに取り扱われていない代物だ。少なくとも王都から離れた農村まで行く必要がある。
「次に事故が起きた時刻です。大きな物音がしたという証言がありましたが、その時の時刻は早朝です。まだ人通りも少なく、店が開くのも当分先の時刻でした」
「事故として処理するならば、人目を避け過ぎているな」
「良く言えば……誰かを巻き込まずに済む、とも言えます」
フェレグスの言葉にラグナの赤い眼が僅かに輝く。
「あの時間帯に馬車が駆けるのも不自然です。三つもあればこれが故意に行われた物だと考えるのが妥当でしょう」
「──何処が仕掛けて来たのか、それは分かるか?」
「候補は幾つか絞られますが……特定にはもう暫し時間が掛かるかと」
「…………」
ふぅ、と小さく息を吐いてからラグナは目を伏せる。
「手紙から、商会に対する小さな妨害があることは知っていたが、大きな変化が無かったから俺は気を抜いていた。いきなりこんな出来事が起こると……考えが及ばなかった」
日常に変化は無かった。あったとしてもそれはラグナにとって微々たるものだった。商会も滞りなく回っていた。油断、ともそれは言える。
そして、ラグナは今──後悔をしていた。初めて自分の行動の結果、誰かに被害が遭ったのだ。
「悔やんでいるのですか?」
「──分からない」
当然ながら、ラグナの胸中は怒りが占めている。だが、その怒りの矛先は自分の仲間に危害を与えた者と、自分自身にも向けられている。そしてその怒りは、自分だけでなく、目の前のフェレグスにも疑惑のような感情で向けられている。
「フェレグス……事の発端は間違いなく俺だろう。だが、その上で尋ねたい。こうなる事を、予測は出来ていなかったのか? 或いは、していなかったのか?」
「…………」
その問いに今度はフェレグスが目を伏せた。
商会については全てフェレグス達に任せている。故に商会に関する文は全て事後報告だった。こんな事があったから防いだと、こういう事態が起きたからこうして建て直したと──。
ラグナはフェレグスを尊敬し敬愛している。それは自分の家族であり、自分に知性と道徳を教えてくれた人物だからだ。だからこそ、ラグナは疑ってしまう。
自分にその考えが及ばなくても、フェレグスならばその考えを持っていてもおかしくないと──。
ラグナは目の前の賢者を黙って見つめる。暫くの沈黙の後、フェレグスは顔を上げた。
「ヨハンの事は──気の毒でした」
「ッ────! じゃあ、やはりッ!」
「予測できなかったのではありません。予測していました……その上で、私は見過ごしたのです」
その言葉を聞いた瞬間、ラグナは勢い良く立ち上がった。義心は怒りへと変わり、鋭く身に開いた眼は、目の前に座る恩師を睥睨する。
ラグナには理解できなかった。否、理内などしたくなかった。何故、自分の仲間を危険にさらしたのか……その時点でラグナはフェレグスに怒りを抱いた。
「何故だッ!!」
ラグナはフェレグスに問うのではなく、吼える。
しかし、その怒りの視線を向けられて尚もフェレグスは落ち着き払った姿勢を崩さない。彼の灰色の目に宿る智謀の輝きは一切曇りも衰えも陰りも無かった。




