88話:星と華
曇りの空──寒気が世界を包み込む世界は人々に起床という選択を戸惑わせる。空気は凍てついているのに対して睡眠の為に潜ったベッドと毛布はなんと温いことか。目覚めたばかりで未だ冴えていない頭では、自然ともう一眠りと考えてしまうのが自然だろう。
それはアリステラも例外ではない。ラグナ達が使う平民の寮部屋よりも整った設備がされている貴族生の寮の一室にて、アリステラは瞼を擦りながら体を起こした。
(嗚呼、今日も寒いわ……)
水の魔法を得意とする彼女だが、寒いものは寒い。風邪をひかないようにと厚手の寝間着を着ているというのにそれでも尚、毛布から這い出ようとするとその隙間に冷えた空気が入り込んで彼女を毛布の中に閉じ込めようとする。
その絶好のタイミングで彼女の従者であるミーアが彼女専用の眠気覚ましを持って部屋に入ってくる。ラグナの場合はフェレグスが淹れる茶で眠りを覚ますように、アリステラの場脚は温めた牛の乳だ。
グラニム公国は海に面しているだけでなく、魔物の生息域とも諸外国とも面していない最も安全な国として人々の間で評されている。
その国では特に農業などが盛んにおこなわれており、その物資はグラニムだけでなくロムルス王国や他二公にも齎されている。唯一の例外は此処でもニルズ公国だ。
「毎朝ありがとう」
「いえ、アリステラ様を目覚めさせるのも私の仕事です──」
まだ眠気が抜けきっていないせいか、普段よりも更にふんわりとした笑顔を向けるアリステラに対して、ミーアは淡々とした口調で返しながらも笑みを隠しきれなかった。
眠気を取り除いてからのアリステラの行動は早い。寝間着から普段の青と白のドレスに着替えてから、ミーアが彼女の髪に出来た寝ぐせを梳かして行く。漆を溶かしたように黒く、そして光を放つアリステラの長髪に触れられることはミーアの朝の楽しみの一つだ。
身鏡の前で椅子に座るアリステラの髪を、彼女は愛でるように丁寧に梳いていく。この学院に通う令嬢達にとっては朝一の出来事の一つなのだが──この光景は一際、美しく幻想的にも見えてしまう。それは、アリステラがミーアに女の命ともいえる髪を全て委ねている──その絶対的な信頼からかもしれない。
(確か今日は、剣の鍛錬がありましたね)
ミーアは普段とは違い長い髪を彼女の後頭部で一束にまとめ上げる。長い髪が邪魔にならないようにする彼女の戦闘形式だ。
アリステラは他の令嬢達とは違い、男達に混じって剣術の授業にも参加している。
もっともラグナ達、平民生の実戦形式の鍛錬とは違う騎士の指導で行われる指南形式だ。だが、争いとは長らく無縁だったこの国の貴族達にとって、剣術とは自分を聞かざるだけのお飾り程度の認識と腕前しかない。そんな認識で他社に対面を保とうとし続けた結果──ラグナの怒りを買う羽目になった。
そんな連中と、ラグナと互角の戦いを繰り広げたアリステラが混じればどうなるか? 答えは明白だ。実際、彼女は他の男子達を押しのけ、持ち前の才能と弛まぬ努力が合わさりその頭角を現している。彼女の才能も大きいがそれ以上に、未だ色あせる事の無い目標へと進む意志の強さがあった。
まともに戦えているのは、ベルン大公の子息であるパーシヴァル(実際は影武者のラモラック)くらいしかいない。最早、貴族の中ではアリステラの事を黒髪の大公娘と言って蔑むことは出来なくなっていた。
「ごきげんよう、アリステラ様」
「ごきげんよう」
一方で、同じ貴族生の中には彼女と同じく黒髪故に疎んじられていた者達を中心に彼女に憧れを抱く者が増えていた。特にそれは令嬢が多い。そうした貴族生達は率先してアリステラに声をかけている。
品行方正で礼儀作法にも通じたアリステラはそんな貴族の子息等から見て一つの光と化していた。
「おはよう、アリステラ」
次に彼女に声をかけたのはセルヴェリアだ。
「やっぱり、その髪型も良いわね。普段の貴女よりも凛々しさを感じるわ」
「あら、酷いわ。それでは普段の私には凛々しさが無いみたいじゃない」
「普段と比べての話よ……。貴方は、気品を兼ね備えて素敵な友達よ」
もう、と少しむくれてみせるアリステラに、セルヴェリアは愉快に笑いながら答える。堅苦しかったり、形骸化した形式の多い貴族社会の中では、【友人】という気兼ねなく言葉を交わせる相手は貴重だ。
控えるミーアも空気と立場を読んで静かに後ろに続く。
歩く二人を周囲は自然と道を譲って一礼する。大公の娘二人が並んでいるのだから当然と言えば当然である。それでも、行き交う者達一人一人に挨拶をするのだから、品性の高さがうかがえた。
「この前はありがとう。お姉さまは、ああ見えて背負い込みやすい人だから……改めて、ありがとう」
「お礼なら私じゃなくてラグナに言ってあげて。私はただ場所を作っただけに過ぎないわ」
「その場所を作れるのが貴女くらいしかいないのだけれど……そういうのなら、彼にもそう伝えてちょうだい」
「どうして私に頼むの?」
「だって貴女の言葉の方が彼も喜んで会ってくれるでしょう?」
その言葉にアリステラは何も言わず顔を背ける。ミーアとセルヴェリアには彼女が照れているのが手に取るようにわかった。
「でも、ラグナは大変そうだし、それに……」
実際アリステラは、ラグナに対して自分の立場上、力になる事が出来ない負い目からラグナに顔向けできずに居る。力を付けても、その力が通用しないその歯痒さが彼女に圧し掛かった。
「今は、会えないわ」
「それはアリステラがそう思っているからよ。あの人、素直そうだったから、会いたいって思えばいつでも会ってくれると思うわ」
セルヴェリアの言う事は正しい。ラグナは自分が苦境に立っているとは感じていない。これまでと変わらず、アリステラと言葉を交わせる安らぎを欲していた。ただ、彼女があの空間に行くのを躊躇しているに過ぎない。それが分かっているからアリステラは何も言えないのだ。
「特に、アリステラなら」
アリステラは再び顔を背ける。その様子を二人はニコニコとした笑みを浮かべて見つめる。
からかわれているのだと理解しているアリステラだが返す言葉が浮かばない。会いたいという思いは、いつも抱いているのだから
「良いわねぇ、パーシヴァルももっと私に会いに来てくれればいいのに。」
「もう! それよりも! エイルヘリアから留学生が来るという噂は本当なのかしら?」
「私としては【それより】だなんて話で終わらせるのは勿体ないのだけれど──。でもそうね、貴女の耳にも入っていたのね」
強引に切られた話題を惜しみつつもセルヴェリアはこれ以上は止めておこうと踏みとどまった。
今の寒波が過ぎ去れば、次にやって来るのは暖気と花が開き、新しい出会いや一歩を象徴させる【風の季】である。そしてその季節にはアリステラ達は二年生となる。
セルヴェリアの妹シルヴィアがこの学院に入るのもその時だ。
「その話は本当よ。何せ、私の実家を通して陛下に齎されたのだから……」
エイルヘリアとロムルスは戦争と和平を長い歴史の中で繰り返している。その講和の橋渡しをするのも最前線となっているグリンブル公国の役目だ。
「私も驚いてるわ。この時期に……それも【聖女】が来るのだから」
「聖女──まさか【ビナー家の聖女】の事?」
「今の時世で聖女の二つ名を許されているのは、彼女くらいよ……とは言え、私もお母様達も顔は愚か名前も分かっていないのだけれどね」
名声や二つ名が独り歩きするというのは別に珍しい事ではない。それでも最もエイルヘリアから遠い地で暮らしていたアリステラにもその人物の異名は届いていた。国教として全国に広がる聖教の教えにとってそれだけ聖女と言う肩書は特別なのだ。
そして、ビナー家とは──エイルヘリア神聖皇国を支配する。十の名家【十卿家】の内の一つだった。
「エイルヘリアには聖堂教院があるというのに、一体なぜ?」
「名目上は、融和の橋渡し──だそうよ?」
セルヴェリアは呆れたかのように吐き捨てた。彼女からすれば幾重も守るべき国土を脅かしている相手なのだ。上の方針とは気に入らないものは気に入らないだろう。
「それでも民が安心して暮らせるなら人々の為にも飲み込むべきことなのでしょうね」
だが、妥協すべきところは割り切るという強かさも兼ね備えている。それがセルヴェリア達の強さの一つだと、アリステラは理解している。
その一方で新たにアリステラの心には引っ掛かりがあった──。
(十卿家──)
彼女がいつかの再会を夢見て、肌身離さず懐に忍ばせているあるものと記憶がよみがえる。そんなアリステラの横顔を、セルヴェリアはジッと見つめていた。かけがえのない記憶だが流石の彼女も気になり想起から戻って来る。
「──どうしたの?」
「……いいの、気にしないで」
「そう言われて気にならない方がおかしいわ、私たちの中なのだから、言って欲しいわ」
「そう? それなら怒らないで聞いたほしいのだけれど」
「怒らないわよ。よほどの事を言わなければ」
「貴方の今の横顔を見て初代グラニム公の肖像を思い出したのよ」
アリステラはその言葉を聞いて思わずぽかんとした表情で固まってしまった。
当然だ。アリステラの生家であるグラニム大公家──その初代グラニム大公は、当然ながら男として記されているのだからだ。
初代グラニム大公【クロウ・フォン・テュルグ・グラニム】の肖像画は貴族生達用の教科書には記されている。
曰くは戦の天才と謳われ初代ロムルス王の戦記を華々しく飾り上げた戦士として名が残されている。
特に軍記として有名で教科書に記されているのは、現在グラニム領に組み込まれている地域【アインの戦い】だ。敵国の防衛拠点の一つである砦を攻略する戦いだったが、敵勢の砦は断崖絶壁を背に、さらに入り組んだ天然地形を利用した防衛設備を築き、ロムルス軍を阻んでいた。
その膠着の中でクロウは、その自然の領域一帯に詳しい猟師を雇い、僅かな手勢と共に奇襲を仕掛けることにする。そして、ロムルス軍が正面から敵を引き付けている間に、驚くことにクロウは断崖絶壁の上から逆落としを仕掛けたのだ。果たして砦の守備兵は手勢の大半が正面に向いていたことと、まさか真上から攻撃に対応もできるわけもなく陥落した。その活躍にロムルス王はクロウを大いに讃えたという。
そんなクロウ・フォン・テュルグ・グラニムは女と見紛うほどの美丈夫だったという伝記も残されている。
アリステラからすれば、光栄だと思うかもしれないし、自分をまさか男に似ていると言われるのはどうなのだろうか……そこを考慮してのセルヴェリアの言葉だったが、固まる彼女の姿を見て流石に失礼過ぎたかと後悔した。
だが、しばらくの硬直の後──アリステラは愉快そうに笑い始めた。
「まさか、そう言われるなんて思わなかった。最近授業で見たからそう思ったの? セルヴェリア──」
「ええ、まあ……怒ってないの?」
「どうして? 私はむしろ大げさというか……光栄よ?」
アリステラは笑って答える。淑女には縁遠いと思われるだろう強さへの大きな憧れが彼女にはあった。そしてそれがセルヴェリアには愛すべきだが心配を与える妹と重なる。以前にも妹と親友は仲良くなれると口にしたが、屈託もなく笑って答えるのだからつくづくそう思えてしまう。
(ただ、シルヴィアにはアリステラ程でなくてももう少し品位を磨いてほしいのだけれど──)
序でに昔から変わらない性格の妹の姿も思い出してしまい溜め息も出て来てしまう。アリステラにまたどうしたのかと問われるが、再び何でもないと誤魔化した。
同時刻──王都の西門から一台の馬車が近づいていたその馬車は白銀と金の装飾によって固められた甲冑に身を包んだ数人の騎士達によって守られており、中に居るのが特別身分の高い人物なのだと言う事が門番達は理解させられる。
【神獣】の家紋が刻まれた馬車はそのまま悠々と騎士達と共に王都に入り、一直線に学院へと向かって行く。
この日はアリステラ達にとって──短くも長い一日になろうとしていた。




