86話:這い寄る悪意
茶会から数日後──
ウェールズ商会の本館にてフェレグスは、机の上にありったけの書類を広げて射抜くような鋭い視線でそれらを睥睨していた。
フェレグスが見ているのはこの一週間のウェールズ商会が王都にて積み上げた収益、損失の変動全てだ。その一枚一枚を確認しながら中央に置かれた無地の紙に筆を走らせて行く。彼はこの数日の商会の経営を点と線で表記化しているのだ。決して珍しい事ではない。ラグナの隠れ家を護る為という務めと、彼自身の使命感と責務からこうした細かい作業は、毎日欠かす事無くやっている事だ。
だが、彼はここ数日の変動に対して何か違和感を感じ取った。だから、改めて疑問を抱いた数日間を中心に、一人で目に見えないものと睨み合おうとしている。
そして、彼は走らせていた筆を止め、射抜くような視線で完成した図面を見下ろす。
(やはり……間違いない)
一番古い左側の点から右の点へ──一本の線は徐々にだが下方へと降っている。まだ数日の間の出来事だが、上下の変動こそあっても、下がり続けているという事態はこれまで一度も無かった。ウェールズ商会は、常に目立ちすぎず埋もれすぎずの一定のラインを保ち続けていたにも拘らず、此処に来て緩やかに速度が落とされている。これは初めての出来事だ。
幸い赤字といえる領域に至るには程遠いが、真綿で首を絞められるような感覚をフェレグスは錯覚していた。
(偶然──いや、それは無いな。ラグナ様からの報せが杞憂とは考えにくい。)
ラグナとの文のやりとり、そして雇った密偵少女アンナからの報告から、フェレグスにはラグナに王太子ユリウスが接触してきた事は齎されていた。それからユリウス派閥の貴族の一部が何か裏で動いているという報告も含まれている。恐らく、否、間違いなくそれが起因しているとフェレグスは読み取る。
(となれば、どのような手段を用いているのかが気掛かりだ)
フェレグスは書類の束を片付けるとラグナへの報せを記す。そして外出用のコートを羽織り、従業員達に作業を割り振ってから一人で何が起きているのかを確かめるべく街へと駆り出た。
フェレグスは馬車などを使わない。移動には楽だがそれでは市中の言葉が聞こえないからだ。それでも長身の老紳士という出で立ちは目立つ為、歩く姿に対して人ごみは自然と距離を空けるのだが……。
まず、フェレグスが向かったのは本館から一番近い支店だ。
大きすぎず、小さすぎない建物の中にはそれで肉、野菜、水まで氷室や魔導具を用いて管理・保存された状態で売りに出されている。一つの店内に此処まで幅広い品目を取り扱う店は、ウェールズ商会のものだけである。食品を扱う多くが露店である事などに比較し、鮮度が保たれた食材は多少の値は張るものの安全面が保障されており品数も豊富な事から、鐘に余裕のある市民や、飲食にて商いをする者達は人気である。
フェレグスは躊躇無く店の正面から中に入る。店内はまだ日が差しているにも拘らず常あに明かりを灯している。明るい店内に混雑しているほどではないが多くの人間が品定めをしている。
その様子を黙視したあと、従業員に声をかける。声をかけられた従業員もフェレグスの顔を知っているので突然の来訪に驚きつつも落ち着きを取り戻して対応する。
それに合格だ、と心で賛辞を送りつつ、フェレグスは呼ばれてやって来たこの支店のリーダーと共に一度、奥の部屋へと消えて行く。
支店を任せるリーダーから何か近況での小さな変化が無いかを聞きながら次の始点へと向かう。さらに道中の人々が話す噂話や小さな情報を聞きながら、次の支店を任せているリーダーに同様の問いをかき集めて行くのだ。
文面には記されないだろうそこにいる者達が、問われて初めて抱く違和感こそが、ウェールズ商会へと降りかかっている悪意の糸口となる。
そしてある支店にて──
応接室にてフェレグスは、テーブルを挟んでリーダーと対面する。まだ若いリーダーは何か飲み物を用意しようとするが、それはフェレグスに制される。
この支店のリーダーの名はヨハン──最近、同じく商会で働く女性と結婚した好青年である。
そんな彼だが、元々は暗黒街の住人だ。暗黒街にて荒れ荒んでいた脚を踏み入れたラグナ達を襲うが返り討ちに遭った。その後、商会に連れて来られて働くか去るかの二択の内、前者を選んだ。当時は反抗的な態度が目立った。しかし出自や経緯、性別を無視して働きに対して正統に評価をするラグナ達の元で働く中で真面目に働くようになり現在の地位にたどり着いた。
だからこそ、暗闇から光を掴み取る経緯を与えてくれたラグナ達に対しては篤い忠義を持っている。
「フェレグス様が此処に来るという事は、何かあったのですね」
「察しが良くて助かる。何か此処最近の些細な変化があれば聞かせて欲しい」
「小さな変化、ですか? いえ、特に…………いや、そういえば──」
問いに対してヨハンは、最初に何も無いと答え掛け、何かに引っ掛かりを抱いたのだろう思い出したように話し出す。
「幾つかの商会に対して何処からか援助があったようです。それで一時期、客足が遠のいた事があります」
「確かか」
「はい。昔の仕事仲間が影から教えてくれました」
フェレグスの問いにヨハンは首肯する。
別段、それは不思議なものではない。寧ろ、上流階級のものが商会に金を寄付してその一部を融通してもらうなどは良くあることだ。普通ならば取るに足らない情報だろう……。
だが、彼の元には既にこの国最大の地位を持つ者達が敵対してくるかもしれないという文が届いていた。それを予感させる別口からの情報含めてだ。
こういう時、フェレグスはまず自分が相手の立場ならどうするかを考える。立場は圧倒的に上だ。後先を見ず考えない馬鹿なら一気に潰しに来るだろう。
だが、多少の狡猾さはあるのならば、足跡を成るべく残さないようにする。誰が、どうやって、何の為に、それらの証拠を残さない。
その癖、執念深くゆっくり、ゆっくりと……あの時フェレグスが錯覚したように、時間を掛けて首を絞めるように相手を苦しめて行く。
仮にも相手は一国を継ぐ者だ。馬鹿である筈が無い。我儘だろうと傲慢だろうと、陰謀のいろはの一つや二つは身に付いてしまう。権力の世界とはそういう世界だ。
「何かが起ころうとしているのですね」
「──ええ」
表情にはそれを出さなかったフェレグスだが、元々聡いヨハンは先程の問いや彼が一瞬無言になった点からその答えをはじき出した。
それに対してフェレグスも誤魔化す事無く、ましてや「お前には関係ない」などと拒絶せず肯定する。
「ラグナ様の耳には?」
「そもそも、この一報はラグナ様からのものです」
流石のヨハンも自分の主からそんな話が届いたという事には驚いた。しかし、直ぐに顔を引き締める。
「ラグナ様からは、迷惑をかけるという謝罪と、命令が一つあります」
「あの方らしいですね……」
自分よりもまだ十も歳が離れているのに、背丈は追い抜こうとしている自分の主の姿と人柄を想起してヨハンはくすりと、笑みを溢した。
それに対してフェレグスは覚悟を秘めた鉄面のまま主の命令を下す。
「それで、命令というのは……」
「悪意に対して情けはいらない。皆の智勇の全てをもって捻り潰せ。それに伴う責の全ては私が請け負う、と──」
ヨハンは微笑から今度こそ声を出して笑った。普段の真面目に働く彼の姿しか見ていない人物ならば、何が起きたと驚いて固まるだろう。事実、休憩を貰って通路を通っていた従業員は、その突然の笑い声に身体をビクリと跳ねた。
そして、思う存分笑った後──目じりを拭い、溜め息を吐いて呼吸を整えた後──彼はフェレグスに跪いた。
「この身を救われた恩義に対して、不惜身命の忠義と智勇をもって応えます」
「頼みました」
その夜──ラグナへの文を書き記したフェレグスは一息吐く。
彼も遠からず気付いただろうが、やはりラグナからの何があったかという出来事を隠す事無く知らされていたのが、早期に気付く要因だった。
(さて、遅かれ早かれ何かしらの事が降りかかるとは思っていたが、この様な形でとは……)
フェレグス自身は、ウェールズ商会自体への攻撃そのものはある程度の予測と備えをしていた。ある意味での今回の起因とは、ラグナを苦しめたい貴族の連中と、ウェールズ商会を苦しめたい他の商会の利害が一致した形とも言える。
ヨハンが朧気な記憶から掘り起こしてくれた商会は何れも、長らく王都にて商いをし、その地盤を確固たるものにしている老舗が多い。お互いがお互いに敵視したり、逆に秘かに協定を結んではいるものの、その構図は一昔前の群雄割拠の国同士と見て捉えても過言ではない。
そんな彼らから見れば、ウェールズ商会とは、外から来た新参者が興した国であり、自分達の地盤を脅かしかねない邪魔者と移っていてもおかしくはない。例え、フェレグスの絶妙な采配が飛躍せず、暴落せずの領域を維持し続けている状態でもだ。或いは? もしかしたら? そんな疑心暗鬼が膨らんでいても不思議ではない。
否、フェレグスは確信していた。人や、人が作ったものには欲望が混じっているのだ。その欲望は形を成してはいないが、大きかったり小さかったり、薄かったり濃かったりと様々だ。
だからこそフェレグスはウェールズ商会を築き、その規模を拡大させる上で最初に重要視したのは「唯才是挙」の方針だ。身分・出自問わずに才覚と技量を採用した基準は一先ず、彼の元に確かに優秀な人材を集わせた。
だがその一方で此処の人柄に対する振るい落としをした。言われた事を真面目に働く者、自分の待遇に直ぐに不満を抱いた者、不満を感じつつもそれを表に出さず別の形で発散して取り組む者と様々な人材を観察し、第一の関門としてそれを潜り抜けた者を選りすぐった。
余談だがその人材の一部にはニルズ大公ワーグナーが、フェレグス達との秘密裏のやり取りを取り持つ仲介人や、王都の内情を探る密偵も含まれている。
そして、最後の関門として立ちはだかったのは、ラグナである。
ラグナ・ウェールズという幼く若い人物が自分の上に頂点に立つ。それに耐えられるか? 耐えられないか? 耐えられた者はそのまま起用したし、耐えられなかった者は容赦なく放逐した。自分よりも弱そうな子供の手足になりたくないと、外面だけで主を軽んじるような者など才があろうともフェレグスから見れば不要だ。
才を計り、心を計り、忠を計る──そうして一つの小さな組織の地盤を固めた。
その上で、フェレグスはラグナが自らの意思で拾い集めてきた者に対しては選択肢を与えつつ、手を取った者は遍く重用した。特に伸びしろのある若者は率先して教育した。彼自身の知識人として、そして教育者として魂に熱が入ったのだろう。
万全の地盤を積み上げ、そこに若き芽吹きを与える。そしてふんぞり返るのではなく、苦楽を共にしようとする頂に座るラグナ──ウェールズ商会という国はこうして完成した。
そう考えれば、他の国が新興勢力を警戒するのは当然の流れになる。
(恨みを買っているだろう相手は、ラグナ様だけではあるまいよ……)
フェレグスは密偵にかつて自身が不採用と追い出した元従業員候補達の足取りを調べて貰っている。フェレグスは不要と切り捨てたが、不釣り合いな事に才能がある者は才能があった。そういうものはうまく取り入れば別口で働き口があるかもしれない。そんな彼等の復讐心も今回の悪事に一枚噛んでいる事を、フェレグスは予感していた。
(……だが、我々を敵にするというのが何を意味するかまでは、読めまいよ)
だが、才能はあってもその性根が腐っている者を起用したところで、それに気付かないようでは折角育てた大樹に害虫を巣食わせるだけだろう。フェレグスは静かに瞼を閉じた。
ここでヨハンの真実を話す。彼は不正などしていない。
彼は利益の横領を目論んだ同業者に邪魔者だと見られ、その濡れ衣を着せられる形で元居た商会を追われたのだ。さらに彼の口封じを込められてそのまま冤罪は悪評として広められてしまった。彼は何処にでもいる、仕事熱心で真面目な好青年だったのである。
そして、彼という清純を取り払い汚濁が蔓延った名も忘れ去られた商会は……間もなくして別の商会に吸収されて跡形もなく消えてしまった。
そんな愚を、ラグナは、フェレグスは……ウェールズ商会は犯さないという自負がある。
再びフェレグスは瞼を開けて筆を走らせる。ラグナに対して、心配することなく思う存分に自分の戦いと心に従うことを大事にと付け足し、フェレグスは魔道具の灯りを消した。




