85話:神獣の姉妹と天鷲の寵児 その3
「貴女は優しく強い人だ。産まれた家がそうだから、長女だから、心のあり方そのものだからと、多くの事が居り合わさったのだろうだが、貴女のような人物は……こう言っては何だが、稀有だ。当たり前のように居る人ではない」
だからこそ、彼女は人々から好かれ愛される。実妹のセルヴェリアに加え、パーシヴァルが彼女の事を憂いて且つ、この場に同席している事、アリステラがこの場を設ける事を許した事からそれが窺える。そこには大公の子という立場もあるのだろうが、それよりも一人の誰かを気遣う空気が感じ取れた。
もしもアナスタシアという人物が嫌味な人間だったならば、どうだっただろうか? きっとこの場に居る面々は手を取り合わなかっただろう。
「王国を支える大公の娘として、王家に嫁ぐ者として、王子を支える伴侶として貴女には今の王子の事で気負う事は分かる。それは貴女が責任感をしっかりと持った美徳であり、貴女は多くの人から好かれる──徳、というべきものだろう」
その言葉にセルヴェリアは誇らしくなった。
アナスタシアはセルヴェリアにとって愛する家族であり尊敬する姉であって女性だ。少しおっとりとしていて間妻に対して寛容が過ぎる為、頼りないと見てしまうときもあるが、自分らしさを教えてくれた大事な人だ。
愛する家族を立派といわれて嬉しくない人は居ないだろう。
「俺は全てを理解しているつもりは無いが、貴女達の世界は様々なものが絡みついた生き苦しい世界なのだろうというのはハッキリと分かる。貴女はその中で懸命であること、責務を多く背負おうとすること、王子を【王】として立つにふさわしい者へと導き、支えようとすること──貴女は、まさしく王道を進む資格を持つ者だ」
聞く人によっては心臓が止まるのではないかというような発言を、王家に従う大公としては咎めるべきラグナの言葉を、彼女達は口を挟む事無く聞き続ける。
「アナスタシアさん。貴女は優しい人だ。立場や様々なものが重なり王子に対して強く言い切れない事もあるだろう。だが、優しさと甘さは異なるものだ……貴女は王子に対して優しいのだろうが、王子の周囲は、あの男に対して甘かった」
その言葉に対してハッと、した顔をしたのは王子について彼に話したアリステラだ。
そんなラグナの脳裏には、あの時の出来事がまだこびり付いている。ユリウスの傲慢な態度を諌めるどころか同調して嘲笑う、取巻き達の顔だ。ユリウス自身も嫌いという部類に分けたラグナだが、あの場でも最もラグナが嫌ったのは……恐らく、あの場で最も権力を持っているだろう王太子の周囲にへばり付いて、その威を借る卑屈者達だ。
「咎められるべきは、責を負うべきはユリウスという未完の器を磨く事を怠った連中であり、貴女には何の咎も無い。だから、貴方が彼の変わりに謝る必要は無い」
ラグナの静かな言葉は憩いの空間で広がるように届いた。
その中でその言葉に大きな衝撃を抱いていたのはアナスタシア──ではなく、パーシヴァルだった。
魔境に面したベルン公国にて国を治める教養と、魔物から人々を守る力と矜持を日々研磨し続けてきた彼から見れば、温室育ちでぬくぬくと育ってきたユリウスは、王国の腐敗の内情を理解していて尚、対面して言葉を交わして尚、同情も忠義も抱くことの出来ない甘ったれの洟垂れだ。
パーシヴァルがラグナに関心を寄せるのは、不思議な雰囲気に興味を抱いた事もあるが、何よりも彼が見せる強靭な戦闘力や精神力に、自分が培った以上の常軌を逸した努力を感じ取ったからだ。二人が対面したと聞いたとき、きっとラグナはユリウスという人物を酷評するだろう。そう思っていたし、そう望んだ。
アナスタシアは望まないかもしれないが、それがあの男の振る舞いに心を痛める彼女の励ましになると思ったから──。
だが、ラグナはユリウス個人ではなくその周囲に対して目を鋭くした。
今のユリウスという人物を作り上げた者達を、そんな彼を咎めず諌めず周囲に張り付き甘い蜜を吸っている者達こそが、彼を腐らせる元凶であると──。
ラグナに対して心中で称賛しつつ、パーシヴァルは自分を未熟と自嘲した。まだ十二の子供だと自分に言い訳はしない……ただ単純に、苦労や懸命とは無縁に育てられたユリウスに対して嫉妬や嫌悪感を捨てきる事が出来ず、彼個人にばかり目を向けてしまっていたことを思い知らされたからだ。
「──無論、疑問を抱かないユリウス個人に一切の非が無い、とは断言できないがな」
そうしてラグナは喋り疲れたと、最後に溜め息と共に一言付け加えてから少し冷めてしまった茶を飲む。
「成りあがり商人の子が、出過ぎた事を言った」
「いえ、心に圧し掛かっていた重いものが無くなったようです。ありがとうございました」
「──ならば、また不敬を働いた甲斐があった」
感謝に対してラグナなりのジョークを返せば、小さな笑い声が毀れ出す。そうして重くなった空気は、次第に清浄に戻っていく。
「私達の国にも多くの商人が訪れるし、中には目通りを願う者も居ますが……ラグナさんは今まで出会ってきたどの人達とも違っているように感じるわ」
「俺はただ、自分の心や感情に対して……人よりも少し忠実に生きているだけですよ」
真実を話してしまえば、ラグナは商人ではない。人生の大半を家族と自然の中で力を培ってきた。憧れを抱き、目標に向かって走り続ける……風と共に駆ける狼のような生涯を走るラグナにとって、人間社会の形骸化した格差社会など彼を縛る縄にはなりえなかった。
しかし、それを突き抜けてしまうのはただの野生人だ。ラグナは人間であり、力だけではなく知恵も培ってきた。野生のように生きて理性で境界線を見分けている。
純粋に生きるという意思が人一倍強いラグナだからこそ、その生き方が出来るのだ。それは、権力とは無縁であり……だからこそ、いたずらにそれを振りかざす者には理解できず疎ましく、心ある者達に宝石のように眩しく見えるのかもしれない。
そうして、短いようで長い茶会は終わりを迎える。
「今日は貴方方とお話が出来て光栄でした。また是非、お話しさせてください」
「ええ、こちらこそ……そうだ。ラグナさん、今度は是非、末妹とも会ってください。きっと彼女も貴方の事を気に入るわ」
「俺のような成り上がり商人を、とは思えませんが……」
「お姉さま、彼は……いえ、ラグナさん本日は姉に心強いお言葉をくれてありがとうございました。機会があれば」
グリンブルの姉妹が深々とお辞儀をしてから去って行く。ラグナもそれに対して礼で返すと、今度パーシヴァルがやって来る。
「さっきの君の生き方だが……とても清々しい生き方だ。それが出来るのは、正直羨ましいよ。けれど、気を付けた方が良い。その生き方は、きっと多くの敵を作ってしまうだろう」
「それなら、もう作ってしまっているよ」
「これから先もだ。君は、どうする気だい?」
温和な表情から一変して冷気を纏ったようなパーシヴァルの問いかけに対してラグナは暫く無言になる。彼の問いは暗に「ユリウス王子を相手にどうするつもりだ?」、という言葉だからだ。問われたラグナは目を瞑り、やがて先程よりも鋭くなった目付きでまだテーブルに置かれている空になったカップの底を見つめながら口を開く。
「敵意や悪意を向けて来る者ならば容赦はしない。戦うだけだ」
それはラグナらしい答えであり、恐らく人間の中ではラグナにしか出せない答えだ。だが、その答えが非常に危険なものである事を、聞き届けた四人は当然気付く。
王子だろうとも、廃するべきは他にいようとも敵になるならば返り討ちにする。パーシヴァルには自然とその答えが返って来る事は分かっていた。分かっていたが、彼を友として心配するがゆえに、改めて彼の覚悟を聞かずにはいられなかった。
そう公言するラグナを案じるアリステラは、近々彼に降りかかるだろう悪意に対して、自分が力になれない事を痛感してスカートの裾を強く握りしめる事しかできなかった。
そんなアリステラの様子を無言で見つめた後、パーシヴァルへと視線を移す。彼は普段のパーシーの時のように、苦笑いしながら肩を竦める。
「なら、気を付けたまえ……ここ数日、ユリウスの派閥が外部で接触を図っていた。詳しい事は分からないが……十中八九、君絡みだろう」
「……」
「一国の王子を相手に、君がどれだけその生き方を貫けるのか……見守らせてもらうよ」
それだけ言うと肩を強く叩いてからパーシヴァルは去って行く。何時の間にか片付いていたテーブルや食器、そして去って行く従者の中で一人残ったアリステラの給仕ミーアという此処では見慣れた光景の中で、ラグナはふと天井を見上げる。
貴重な硝子によって作られた天井には晴れた空が透けて見える。その空を照らす太陽には小さな雲がかかり光をさえぎっていた。
波乱が近づいている事を予感しながら、ラグナは太陽に差し掛かる雲を睨みつける。
最近、左肩だけが凝る。痛い……




