70話:誇りの形
背筋を熱くて冷たい何かが走った。
彼が負けることは、不思議と感じる事は無かった。
だが、目の前で起きた命の終わりに対して──恐怖と共に見たその姿に対して、少女は言葉にしようもない感情に包まれた。
怖いという感情は確かにあった。彼女は人が人を殺すところはおろか……命の死すら見た事が無かった。だから、その感情を抱く事は至極当然のことだった。
だが、少女はそれを行った少年に対して──自分でも分からないが綺麗なものに見惚れるような感情を抱いてしまっていたのだ。それは異常なことだとは、聡明な彼女は自覚している。それでも、綺麗だと感じてしまったのだ。
彼女はよく見ていた。彼の氷のように冷たく、鉄のように動じない表情が──烈火の怒りによって染まり上がるのをしっかりと見ていた。
(何て綺麗な生き方なのだろう)
誰の言葉でも、思惑でも無く──他ならぬ自分の感情に従って生きる。
多くのものを築いて、同時に生き方を縛り付けて生きてきた人間という種族の行き方とは正反対の生き方が、あの時と同じでとても眩しく見えた。
そんな視線を向けられている事に気付かず、ラグナは剣を手に死体を見下ろしながら暢気に考え事をしていた。
人が死んだ。
目の前で起きたことに対して──ひどく淡白な感情しか湧かない。
人を殺した。
自分のやった行動に対して──手も心も一切動じていない事に動揺も走らない。
静まり返った世界の中心で、ふと空を見上げればあの時と同じ鉛色の雲に覆われていた。
平民か、或いは貴族か──どちらにせよ誰かが悲鳴を上げた。死を見た事が無いのかなどと、他人事に思いながら、自らに向けられる恐怖を無視してラグナはその場を立ち去る為に踵を返した。
(ああ。本当に、弱かったな……)
今まで一番早く終わった殺し合いを振り返りながらラグナは自分の手を見る。僅かに付着した返り血を服で拭いながら、特に振り返ることは無いと結論付けて頭の中から消した。
だが、ラグナの前に二人の兵士が立ちはだかる。
「──どけ」
だが、兵士はどかない。元々はラグナの逃亡防止に対する備えであった彼らだが、それは決闘を終えたことによって役目はなくなっている。
それでも、彼らが動こうとしないのは──単純に目の前のラグナへの恐れからだった。
「……」
邪魔だな。とラグナは思いながら剣を持つ手に力を入れる。僅かに放った殺気が彼らの恐怖を加速させて手に持つ槍を構えさせる。
「待てい! この決闘は違反である!」
だが、そんなラグナを背後から指差す者が現れる。ラグナは嫌でもその声の主を植え付けられていた。 外野から喚き散らすせいで嫌でも覚えさせられてしまったことに辟易しながら、振り返る──ラグナを指差すのは他ならぬ今回の決闘裁判の原告側であるグリストン卿だ。
「違反……というと? 此方は自分の名誉と命が掛かっているんだ。全力を出して当然だろう。」
一番の理由は、あのハーケンという男が敬愛する恩師達を侮辱した理由なのだが、それを口にする事を億劫と思っていたラグナは敢えて口にせず、第二の理由を口にする。
「貴様のような若造が、我が家系で一番の騎士を倒せるわけが無い! 一体、何の小細工をした」
「…………単に、体格差諸々を埋める為に身体強化を使ったまでだ」
あれでお前の一番の手駒だったのかと、言う問いを飲み込んでラグナは本当に面倒臭そうに答える。黙る事も可能だが、自分の力の一つとして恥じ入るものでは無いと、正直に答えた。
それに対する反応は様々だ。
魔法には二通りあるが魔法=森羅万象に干渉して超常を操る【属性魔法】という認識が強い人間社会において、深い研鑽の施されていない強化魔法というのは非常に珍しいものだ。
だから、魔法に詳しい者はその珍しさに些かの興味を抱き──。
魔法を詳しく知らぬ者はそんなことを知らないと首をかしげて──。
ラグナを知る者は時節、彼が発揮する異様な身体能力の高さの秘密について、驚きながらも納得した。
グリストン卿は、この三種類の内の二番目に部類した。だが、それが彼に更なる攻撃の手段を与える。
「決闘裁判においては、己の力を用いる──即ち、貴様の行った異能である魔法の行使は力において違法だ!」
「…………」
ラグナは言葉を失った。否、言葉は無数に浮かんだのだが──あまりの馬鹿らしい物言いに返す言葉は、そんな発言をしたグリストン卿に対して、【正気を尋ねる】しか浮かばなかった。
「我が騎士ハーケンは、武術の身をもって我が家の正当性を背負った勇士であった! だが、そこの被告人は浅はかにも異能を用いて己の力と偽った! これは立派な違反行為である! 正当なる裁判にて違反を行いし被告人には極刑を──この場に居る貴族の皆様は、そうは思いませんか!?」
グリストンは己の主張を高らかに宣言して同意を求める。ラグナの無機質な瞳を向けられている事に気付かないままだ。
(なんと、浅はかなのだろうか……)
演説のような茶番劇を聴きながら、ラグナは思った。
ラグナからすれば、自分が恩師達から授かった魔法の知識も、道徳や断りへの知恵も、研や弓、槍を始めとした武術も等しく全てが【力】と呼ぶに値する者だ。
経緯はともかくとしても、少なくとも太古の人間が編み出した秘術を、自分達がそれを研鑽する事を怠ったのを棚に上げて批判するなど馬鹿馬鹿しいものだった。
そんな事を考えていればグリストン卿の言葉に同意するように声を挙げる貴族達が現れる。それも茶番だとラグナには理解できた。
その声はグリストン卿の声に混じってラグナに罵声を浴びせていた声達だからだ。本当に声を挙げているのは極僅かな数だと聞き取っている。
そもそも、同意を求めるにしても平民達を除外している時点で、自分の騙る正当性を押し通そうとしている愚かな下心が丸見えだった。
だが、それを黙っているつもりはない──ましてや、今のラグナには彼らの立場などを尊重しようなどと、殊勝な考えなど至らない。
自分達の行いこそが最も自分達の誇りを穢している事にすら気付かない──愚か者達への敬意などない。
「その言葉に、異議を申し立てます!」
ラグナが口を開こうとしたとき、醜い罵声を切り裂くような凛と澄んだ声が響き渡る。
それは、ラグナが顔を向ける側──つまり、貴族側の観客席から聞こえていた。そして、彼はその声を良く知っていた。
「……なんのつもりでしょうか? アリステラ嬢?」
自分の主張に横槍を入れられた怒りからか、それとも純粋な異物への嫌悪感からか……僅かに震えた声でグリストン卿は声の主であるアリステラを見つめる。
「言葉の通りです、グリストン卿。私は貴方の主張が見当違いのものだと断言します」
「そのような事は分かっています! 何故、私の物言いに対して異議を申すかと聞いているのです!」
ハッキリとした拒絶の言葉に、怒鳴り声を上げたグリストン卿──その姿は、誇りも何も無い、与えられることを当たり前となった醜悪な現在の王国貴族の無様を体現しており、アリステラは軽蔑と哀れを宿した視線を向けてただ一言──
「そんな事にも、気付かないのですか?」
冷や水のように冷たく純粋な……尋ねるように放った質問に、グリストンは顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。
彼女は、グリストンが自身の家に泥を塗ったラグナという存在を排したいという考え貴族のあり方と掛け離れた思惑をしっかりと見抜いていた
そして、それを口にするわけにもいかないグリストンは言葉を発する事が出来ず、怒りに震えることしか出来なかったのだ。
その無様な姿を無視してアリステラは進み出る
「被告人は長期間、この学院の懲罰房にて劣悪な環境におりました。それに加え、代理人と被告人との武器や防具に大きな格差があることは誰の目から見ても明らかです。違反を指摘するというのならば、この子供の目から見ても明らかな不当性を正すことが先でしょう」
アリステラはハッキリと、それこそ平民と貴族に平等に聞こえるように観客達に問いかける。アリステラの言葉に、パーシヴァルや友人であるセルヴェリアなどは静かに首を縦にウ頷いて同意する。
しかし、貴族は彼女の言葉を静観し、平民の大半は心では同意しながらも今後に萎縮して進んでそれを示さない。
「な、ならば……この裁判は被告人の勝利として認めよ。そう、令嬢は言うのですか!?」
漸く言葉を取り戻したグリストン卿は怒りを抑えながら震える声でアリステラへと問いかける。
当事者であるラグナはそれを静観した。口を挟むのは簡単だろうが、不思議と彼女に託送と思ったからだ。
「いいえ。罪には罰を与えるように……あくまでも彼が己の命を守るためとはいえ、違反を行ったというのならば、此度の決闘裁判を無効とし後日、改めて公正な決闘裁判を執り行うことを提案します」
つまり、日を改めて仕切りなおしにする──その言葉に当然だが周囲は騒然とする。
「それでは我が騎士ハーケンは無駄死にではないか! 彼は命を失ったのですぞ、むざむざとその死を飲み込めというのか!?」
「確かに、彼は殺されましたが決闘裁判とは生死をもって罪を測るもの……そして、代理として彼をその舞台に上げたのはグリストン卿のはずですが?
「し、しかし……」
「ならば今度は、貴方自身が剣にするのが道理と思いますが?」
騎士を殺され、面子を潰され、思惑も妨げられたグリストンは、再び口を詰まらせる。そして一方を暫し見つめた後に、悔しげな顔で項垂れる。
「……他に、異論を持つ者は居ますか?」
張り詰めた言葉に、誰も言葉を挟む者は居なかった。
「ならば、次の決闘裁判は公平なものとするべく被告人には一時の自由を与える事で懲罰房より釈放──然る後に、再戦を伝える事で、よろしいですね?」
「…………」
口を挟めない者も居れば、口を挟まない者も居る。彼女の言葉によって、ラグナは一時の自由を許される。
元々、これ以上の茶番劇に付き合うつもりの無かったラグナは、静かに彼女を見つめた。
アリステラもラグナの視線を真っ直ぐに見つめ返していた。何処か無機質な赤い眼と、強い決意を宿した青い瞳がぶつかり合い──やがてラグナは背を向ける。
「──どけ」
呆気に取られて固まっていた兵士達が我に帰り、今度は慌てて両脇へと分かれる。その二人に興味を示さずにラグナはその場を後にした。
一先ず独房に戻る必要がないとされたラグナは、その足で数日ぶりに寮部屋の扉を開けた。
「ぁ──」
そこで、ラグナの目に最初に入ったのは──綺麗に立て掛けられた深い緑色の上着だ。ゆっくりとそれに近づき手に触れて肌触りを確かめる。肌の感触はその心地をしっかりと覚えていて、確かにそれは記憶と合致した。
自然と安堵の息が零れる。
「パーシヴァル様が、回収しておいたのだ……捨てられる予定だったのだから、我が主には感謝してほしいな」
「……そうだな。これは、気がかりだった。「ありがとう」と伝えておいてくれ」
背後に居た名前も知らない同居人に振り替えることなく、ラグナは言葉を返した。
アンナから行方が分からないと告げられた時、自分の選択の代償と受け入れていたが心に痛みが走った。恩人達から送られたとてもとても大事な物だ。
だから、ラグナの事を耳でしか聞いていない影武者には、つい少し前に衆目の中でためらわず、一つの命を奪ってみせた冷血漢とは、思えなかった。
不思議な男──ラモラックは、素直にラグナについてそう思った。
それから少し経ってからラグナはようやく顔を上げたラグナは、自身のベッドへと倒れ込んだ。
「お、おい!?」
「聞きたいことは山ほどあるだろうが、まともな飯も、寝床も無かったんだ……十分に休ませてからにしてくれ」
慌てて近寄るラモラックだが、それを手で制する。
そう言ってラグナは瞼を閉じる。身体はそれらを補っていたし、精神が頑強だった……だが、それも一時しのぎに過ぎない。少なくとも、あの環境の中ではラグナは絶対倒れたくは無かった。だから、無理をしていた。
漸く一息休めると知った彼の身体はあらゆる代用を止めた。それによって蓄積された負荷を消化するために、あっという間に眠りに就くのであった。
そのあまりの無防備っぷりに、ラモラックは益々ラグナという人物が、不思議な人間だと思うのだった。




