58話:強くなった少女
授業が終わり、中庭に着いたラグナは何時ものように大樹の根元に座って空を仰ぐ。もう長く帰る事が出来ていない我が家の事を思い出させてくれるこの場所は、ラグナにとって数少ない安らぎのひとつと化していた。
半ば、境界線と見做されているこの場所に近づく人物は少ない。平民も貴族も、お互いに近づくべきではない場所だと理解しているのかもしれないと、ラグナは人事として捉える。
実際、ラグナはそれを他人事として捉えている。自分は自分であり、純粋にこの学院の中で最も自然と寄り添える場所は、これまでの生涯の大半を自然界で暮らしてきたラグナが最も落ち着くことの出来る場所だからだ。誰が何を言ってこようと、自分はこの場所を立ち退こうとは思わない。
優しい風の音、それが運んで来る仄かな草花の香りが沈み荒みそうなラグナの心を撫でて癒す。
「…………」
それらと一体になるように、ラグナもまた何も呟く事をせず──無心となって瞼を閉じる。そうする事で、自分の中に積もっていた暗い感情が吐き出せるような気がするからだ。
暗い感情。【落胆】ともいうべき、失望の感情だ。
この学院での生活が数週間経過し、空気と言うものを理解したラグナだが、それと同時に自分がこれまで送ってきた生活とは全く異なるものへの僅か戸惑いが消えると同時に、次に心を占めたのは──【生ぬるい環境】での何の感触も湧かないことへの飢えだった。
「……ハァ」
思わずこぼれた溜め息の後に、近づいてくる気配を察知して、閉じていた目を開ける。静かに振り返ると、久しくあっていない少女が居た。
「──こんにちは」
「……アンタも来たのか」
ほんの少し肩を上下させてそれでも心の底から嬉しそうな面持ちで、少女は微笑んでいた。
「アリステラ。そう呼んで欲しいと、あの時に言いましたよね」
「……そうだったな。だがなぁ……」
「二人きりなのだから、それくらいは守ってほしいわ」
「……アンタの従者に聞かれたら怒られるのは俺なんだがな?」
「ほらまた」
「……分かったよ」
アリステラに指摘されて、ラグナは思わず苦笑いを浮かべる。
彼女と言葉を交わすのは久しぶりになるが、あの時と同じようにラグナは彼女との会話に一つの不思議な安心感を抱いていた──。
流石に自分達の立場を理解して隣に座る事をはばかって、アリステラはラグナとは距離を置いて腰を下ろす。
「学院での生活には慣れたのかしら」
「そうだな。まあ、慣れたと聞かれれば、慣れたといえるな。自分が回りにどう思われているかも大よそ理解できたからな」
「それなら良かったわ」
「どうだろうな……」
充実はしているか……ラグナは自分で問うが、その答えに対してそうだと答える事が出来ない。
「貴族院の方はどうなんだ? あまり良い話は聞かないが……」
そこから目を逸らすようにアリステラへと質問を投げかける。この楽員に来る前からフェレグスによって集められた過去の情報をもっての言葉でもある。
「そう? でも、そうね……留学としてきている公国の貴族と、元々王国で暮らしている貴族の仲が悪いのは、随分と前からそうだったわ」
「……アリステラも、何か嫌な思いをしているのか?」
自然と口に出た疑問──心配とも取れる言葉にアリステラは首を横に振る。
「ええ。でも大したことは無いわ。友人も居るし、そんなことで落ち込んでいたら貴族の社会なんて生きていけないわ」
「……そうなのか?」
「ええ」
「そうか……そういうものか」
ラグナの中でアリステラ個人の評価が改めて上がる。
強いなと、その領域が分からないが彼女はその中で強かに過ごしているのだと言うのを、彼女の声音から窺い知った。
「でも、それに……もっと辛い事を知っているもの」
だが、付け加えるように告げる。それは思い出に浸るように、だがそこに悔恨と哀愁が混ざった複雑な声音で──ラグナは静かに首をアリステラの方へと向ける。
「それは?」
「正しい事をしたのに、誰にも認めてもらえないことよ」
「…………」
そんな事があるのか? 当然、ラグナはそんな疑問を抱いた。しかしそれを口にする事はできなかった。彼女の声音は、実際にそれを見たという怒りや悲しみなど様々な感情がこもっていたからもあるが──。
ラグナ自身も、それを他人事と捉える事が出来なかったからだ。同時に、頭の奥底が揺らぐような感覚を抱いた。斬り捨てたような、埋めてしまったような古い記憶を掘り起こされ瑠感覚に襲われる。
不快感にこめかみを抑え、同時に酷く虚しい気持ちが心を占める。
だが、その感覚は刹那の出来事で、回復したラグナはそう答えた。
「酷い話だな」
「そうね……酷くて、残酷な話なのよ」
「…………」
「正しい事も、間違っている事も、それを決めるのは誰かじゃなくて皆だから、皆が正しいと思ったことのほうが本当の正しいより強くなってしまう。皆の|間違い(正しい)が、誰かの|正しい(間違い)に勝ってしまう」
アリステラは思い出を語るようにラグナへと語る。それをラグナは静かに耳を傾けた。
「きっと、これが私達の世界では当たり前なのよ……だから、私達の世界はこんなにも残酷なんだと思う。誰かが誰かを見下したり、誰かが誰かを妬んだり──そうしているから、この場所も良い方向に進む事が出来ない」
もしも、本当に正しい事と言うのが、多くの人たちにとっての当たり前のことなのなら──少なくとも、此処まで混沌としたものは出来上がらなかっただろう。
(なら、多くの人間にとっての正しいとは──何なんだ?)
だが、それを考える度に、ラグナの頭にはこんな疑問がわきあがる。
そして、何時もその答えに対する解は、分からない、だ。
人間を知らないからだと思ったときもあった。だが、そうではないと言う事をラグナはこの二年の生活の中で理解した。
国という一つの形を生み出すために生み出された。
身分と言う同じ人間を隔てる制度。
金銭と言う物々の取引に使う鉄塊。
それらが生み出した、貧富の差と優劣の差。
(色んなもの事が混ざり合って、平穏と混沌とが入り混じって──)
弱肉強食が本質である魔境での生活を見てきたラグナにとって、人間の世界と言うのはずっと複雑で、歪だった。
「いけないわね。嫌な気持ちにさせてしまったわ……さあ、次は貴方の話よ」
「俺の? 何を話せと?」
「何でも良いわ。貴方達の授業風景や周りの人とか……それが気になるの」
「……あまり、楽しくは無いかもしれないぞ?」
「それは私が決めるわ。ね、聞かせてちょうだい」
互いの顔を見合わせることの無い不思議な会話だ。だが、ラグナはほんの僅かだけ考えて、彼女の頼みを聞いた。
ラグナは語る。
自分のパーシーやアンナ、マリー達と言った最も周囲に居る人間を始めとした、教室内の風景。自分が、実技鍛練の時に教師の手伝いをしている事。
「先生の側に立って同級生達を相手にしているの?」
「ああ」
「凄いわ。ラグナって、とても強いのね」
「……強くはない」
「どうして? だって、同い年の子達を纏めて相手しているのでしょう? 先生の方も、貴方の強さを認めたからそうしたのではないのかしら」
「仮にそうだとしても、俺はまだ弱い方だ。今は周囲に居ないだけで、俺より当たり前のように強い者は居るし、出会った瞬間に、コイツに勝てないって分かってしまう猛者は沢山居るんだ。とってはそこに並ぶのが、俺がこの生の中で定めた目標の一つだ」
何処か懐かしむようにそう語るラグナの言葉を聞いて、アリステラは少しだけ嬉しくなった。
「だが──」
しかし、何処か落ち込んだ──落胆したように言葉は重くなる。
「この場所に来てから、何か酷く物足りないと感じるようになった」
「物足りない?」
「……目標は常に俺の身近にいた。その人たちから学んで、挑んで、負けて、立ち上がって、また学んで、また挑んで、また負けて、また立ち上がる──それを繰り返してきた。俺にとって、それが当たり前であり日常だった」
郷愁を帯びた声音で、ラグナは言葉を重ねる。
「その場所へ行く為に力と、知恵と、心を磨く。道の先に居るだろうその背中に追いつく為に必死で走る事が、俺にとってこれまで当たり前だった。だが、この場所に来てからかは、道が途絶えてしまったように感じるんだ」
「途絶える……」
ラグナは何も瞼を閉じる。
「競争者は群れても緊迫を与えてくれない。教育者が教えてくれるのは当の昔に賢者から授かり、幾重も復学して脳裏に刻み込んだ知識ばかり──。俺は必死だったが、心の底では本当に楽しい。そう思ってきた。だが、此処ではその楽しいと言う感情が湧かない。何も感じない。空しい」
「ラグナ……」
ラグナの胸中を占めるのは、どうしようもなく空っぽな日々だった。人を知ろうとして、自分なりに人となりを装って……だが、自分を偽ることだけは極力抑えて過ごしてきた。
そうしたまだわずかな時間でも、恐ろしい程に長く感じてしまう充実とは程遠い生活。
「何だろうな。一歩も前に進めてない……そんな気持ちになる」
今まで必死に動かしてきた足が止まっている事が、何よりもラグナには苦しく──そんな感情に占められた言葉が自然とこぼれた。




