52話:少年の当惑
『──貴方にとって過去とは何?』
そう問われた時、ラグナはアリステラに再びスカハサの影を重ねた。
そして、師と対話するように自然に、一切の疑惑を抱く事無く、己の考え、意見を吐き出した。
ラグナが我に返ったのは、自分の意見と同時に余計な事まで話してしまった後だった。
(何をしているんだ……)
ラグナは自分に対して問いかける。
頭の中で生じていた彼女への戸惑いは、自分への疑問へと変じる。平静を装うものの、自分の考えと行動が合致していない現在の状態に混乱していた。
何故、彼女に対してこうも無防備になってしまうのか? 自分を制御できていない事にラグナは心をかき乱す。
ラグナは改めて、アリステラを見る。
黒い髪に青いドレスの似合う、綺麗な女性だ──それだけだ、と判断していた。だが、時節見せる不思議な印象が、何故かラグナに幻覚を魅せる。
(温かさと知性があるのは分かる。確かに、こうしている事に、俺はこの場所で始めて安らぎを感じている──だが、それでは俺自身の説明にならない)
己へ向けられるアリステラの目と声がそうさせる。優しく強い意志を宿した目とは裏腹に、訴えかけるような切なげな声音。その双方から読み取れる彼女の心と感情が、そしてそれをまとう彼女の空気が、ラグナを惑わせ惹き付けた。
(駄目だ、分からない……)
自分自身が解明できず、ラグナの思考はさらに混乱する。しかしその一方で、ラグナは彼女との対話に、家族と対話をする時と同じ安らぎを感じていた。
(何故だ? 俺は──)
ここまで考えた時にふと、ラグナの脳裏に以前見た夢の記憶が蘇る。家族との思い出を振り返る中で、そこには居ないはずの、見知らぬ少女が居て自分に語りかけて終わる夢だ。
その少女は──アリステラと同じく、黒い髪に青いドレスを着ていた。それをおも出だした瞬間、頭の中の歯車が噛み合った様に回り始める。
だが、それは同時にラグナへ、もう一つ別の戸惑いを与える。
(俺は彼女に会った事がある?)
言うのは簡単だ。だが、自分の出生は特殊なもので、この二年以内に出会った人間以外に会った事のある──それもかかわりを持った人間は少ない。
そして、その時の記憶は、ラグナが【真実の歴史】を知った時、あらゆる感情と共に消え失せていた。
不要な過去として切り捨ててしまった。人間の国に始めて訪れたときの思い出は、ラグナの中では砂粒ほどしか残っていなかった。だからラグナは、彼女の事を思い出せない。
ラグナには確証がない。だが、確かめる必要があった。
「アンタは……俺を知っているのか?」
「ッッ──!」
そのために、ラグナは疑問をぶつけた。純粋な疑問としてアリステラに対してラグナは問いかける。
その問いの瞬間、アリステラの表情が目に見えて動揺するのをラグナは見た。だが、それが答えだと断定せず、ラグナは答えを待つ。
はいか──。
いいえか──。
答えは、どちらかを選ぶ簡単な問いだ。だが、問われたアリステラは答えることに躊躇する。
「…………」
「……、……」
短く、そして長い沈黙が二人との間に張り詰めた空気を生み出す。
その沈黙を破ったのは──
ラグナでもなくアリステラでもなく、誰かが中庭に入る為に開けた際の扉の音だった。
反射、二人がそちらを向く。女性使用人が着るエプロンドレスを纏った短く黒い髪の少女が居て、ラグナとアリステラを見つめていた。否、固まっていたというのが正しいだろう。
そこで、ラグナは再び自分とアリステラの身分上、こうして一緒に居るのは都合が悪い事を思い出した。
当然だが、再び硬直から解けた従者は、走るまでとは言わないが、乱暴な早歩きで二人の間に入り込む。
「平民が、この御方を誰と心得えているッ!!」
怒気を含んだその言葉には明確な敵意があった。それを向けられたラグナだが、平静にそれを受け止める。目の前の従者は、ただ純粋に主を守ろうとしている少女なのであって、寧ろ今までの方が異常なのだと直ぐに割り切れた。
(時間を掛け過ぎたか……)
寧ろ、反省すべきは自分なのだと結論に至る。
アリステラと言う少女に、出会った時に面影を重ね、言葉を交わす中で安らぎのようなものを感じ、その空間に牽かれて居座ってしまった。
問題としては、ラグナは平民でアリステラは貴族である事。そして、ラグナ自身が彼女に対して此処まで、無意識に心を開いてしまった事。そして、それにラグナが気付いていて、それで分からないと言う事だ。
(だが、もう時間切れだ)
現れたアリステラの従者を見る。貴族の生徒は世話役が一人就くことを許されていると聞いているので、間違いなく彼女がそうなのだと判断する。そして、ラグナと言う主に近づいた異分子に対して明確な敵意を向ける。忠誠心を持った少女なのだろうと、他人事のようにラグナは彼女を評価する。
そしてこの従者がいる限り、これ以上の話しは不可能だとも判断した。
(この娘を排するのは簡単だが……)
恐らく歳は同じ、或いは近いと判断する。その上で、ハッキリと弱いと実力を断定する。
ラグナとアリステラの間に割って入り、アリステラを庇う様に前に出てラグナに対して身構えている。だが、手は細く力を感じられない。構えも体術の心得すら身に付けていないだろうド素人の構えだ。
服の内側に何か武器を仕込んでいるかと見たが、腕の位置からしてそれも無いと判断する。ラグナがその気なら、実力の半分を出す必要もない。
だが、その考えは下策の下というのは口に出すまでも無い。その考えがよぎった瞬間、ラグナは即座にその考えを消した。
なら、残された道は一つ──この場を去る事だ。
(惜しいな…………?)
ラグナ自身、自分が何故そう思ったのかは分からなかった。
アリステラへの問いの答えが返って無いからか? そう思ったが、違う。ただ純粋にあの時間と空間が失われてしまったのが、ラグナに喪失感のようなものを与えている事に気付けずにいた。
ラグナはもう一度だけアリステラを見つめる。第三者の介入に言葉で語ることが出来ない彼女は、ラグナへと訴えかけるような視線を送る。それが何を訴えているのか、やはりラグナは分からなかった。
そして、惜しいと思いながらラグナは、その場を去る事選択して、踵を返した。
「待って」
数歩進んだ時、ラグナの背中へとアリステラが声を掛ける。
最初とは違い、ラグナは面倒だとは思わず振り返る。制そうとする従者を説得したのか、従者は後ろに控えている。そしてアリステラはラグナを見上げていた。
「ごめんなさい、貴方に迷惑をかけてしまったわ」
「いや、有意義な話が出来たと思っている……どうやら、事前に聞いていたものとは異なる事もあるようだからな」
「……それなら、良かったわ」
「…………」
再び見せる慈しみに満ちたその微笑みに、ラグナはまた戸惑う。同時に、先程ラグナが彼女に問いかけた疑問を深める。
「なあ、さっき質問だが……どうなんだ?」
だからラグナは、再び問い掛けた。
それに対して、アリステラは答えようとして──しかし一度口を閉じ、首を小さく左右に振る。
「いいえ。私はまだ、貴方の事を何も知りません」
「──そうか。変な事を聞いた、忘れてくれ」
彼女の答えに対し、ラグナはそれ以上を追及する事はしなかった。そしてアリステラに別れを告げて背を向けた。
そして扉の前に立った時、ラグナは一度その奥を凝視する。
「……」
そのまま少し乱暴に扉を開けた。
そこには誰もいないが、少し前まで誰かが居た。その気配の名残を、ラグナの感覚が拾った。誰が? 何時から? どんな目的でこの場に居たのかまでは分からない。
ただ、ラグナに今わかるのは、気配を断つ能力に長けた人物だという事と、それが平民生の中に潜んでいる。その人物が自分の事を探っていると言う事だ。
教室の中で向けられていた視線の中に、自身を観察するように見ていた何者かが居る事を思い返し、ラグナは眼を鋭くする。
(誰が俺を探っているのか、或いは──)
しばしの思考の後、ラグナは瞑目を止めて足を踏み出す。
その前に、ラグナはもう一度だけ──自分の意志で中庭を振り返る。
(アリステラ、か……)
大樹の下で、自身の従者とは話をしているアリステラの姿を記憶に刻むように見つめる。穏やかな少女で、温かい少女で、儚げな印象を与える少女は、ラグナの視線には気づかない。
【まだ】──「知らない」という前に彼女が告げた言葉が、頭の中で巡り続ける。しかし、それを追求する事はできない。
(彼女の事も含めて、色々な事があった一日だ──)
暫しの別れをフェレグス達に告げ、新たな出会いがあり、そして──この一日を振り返りながら、この先の自分について考えながらラグナは、立ち去った。




