黒金のラグナロク-魔王と呼ばれた男の人生譚-

第三章

51話：少女の望み

『これまでの事を否定するな』

『抱いているものを拒絶するな』

　ラグナの言葉は、過去の出来事を胸に抱くアリステラの心に刺さる言葉だった。

　自分がこれまで積み重ねてきたこと想いを無碍にされた。想いからの怒り。

　そして、自分の事を過去として切り捨てたのではないかと言うラグナに対しる疑念の怒りだ。

　だが、同時に彼女の怒りの奥底には喜びと言う真逆の感情があった。自分に対して、しっかりと向き合ってくれた事への嬉しさがあった。

　ラグナは、あの時から変わっていない。自分に正直で、優しく、そして──あの時から変わらないままなのだと、改めて知る。　

　あの僅かな言葉の中に、アリステラはそのすべてを把握した。

（ああ、やっぱり……）

　突き放すような冷血な言葉ではなく、気休めのような慰めの言葉ではない。彼が思ったことを話すラグナなりの真実の言葉。

　アリステラは、時として言葉が他者を傷つけることを重々に理解している。

（貴方も、それを知っている）

　だから、ただ己の信じる考えや行動から沿う言葉を口にするのだろう。

　多くの嘘や虚言、そして思惑がひしめく貴族の社会を生きてきたアリステラは、それもまた一つの優しさとして、ラグナの言葉を拒絶せずその心の中に受け入れる。

（でも、貴方は思い出してくれないのね……）

　そして、最後に残ったのは、哀愁だった。

　記憶の一部を打ち明け、彼に願った……思い出してほしいと、アリステラは望んだ。

　だが、その願いは届かずラグナは言葉をつづるのみだった。

　言えば簡単だ。それはアリステラも承知している。

　打ち明けたくないのは、彼女の恐怖と我儘だ。

　アリステラは、ラグナの立場が自分たち以上に複雑だという事を理解している。もしも、彼女がラグナを知っていると言えばどうなるか？　

　本来なら、此処にいるはずの無い人物。ここにいることはあり得ない人物である彼の正体が露見する。

　その瞬間、彼は再び遠くへ行ってしまう……彼女はそう確信していた。

　そして、それは正しい認識だ。ラグナは万が一、同じ轍を踏んだ時に備え、フェレグスとの間ではその後の行動を決めていた。即時撤収と言う、人間社会からの完全な離脱だ。

　そして我儘と言うのは、アリステラ自身の望みである。自分があなたの事を覚えているのだから、彼に自分を思い出してほしいと言う所謂、女心と言うものだ。

　ほかならぬラグナ自身の力で思い出してほしい……自分でも理解していない。一人の女が、一人の男へと抱く感情が、彼女の淡い欲望を駆り立てる。

　打ち開けるのも簡単だが、それは出来ない。

（喜ばしい事だけど、もどかしいわ）

　様々な感情が入り乱れて、望みや願いや欲望がせめぎ合う。

（遠い何処かから来た、貴方はいったい何者なの？）

　逸る気持ちを抑えて、アリステラはラグナを見る。

　伸びた背丈、幼さが薄まり大人らしさが強まった姿は、浮世離れした異質な空気を身にまとっている。左目を帯で覆い隠し、右目は剣のような鋭さに強い意志を宿し輝く赤い瞳がある。

　彼女は覚えている。あの時、自分の知らない場所へと去っていったラグナの後ろ姿は彼女の記憶に刻み付けられている。

「なら、ラグナ──貴方にとって過去とは何？」

　アリステラはラグナに問う。素朴な疑問を装った、より深く知るための一歩。

　それに対してラグナは『あくまでも、俺の考えだが──』と口を開き、問いに答える。

「過去とは、今に活かす為の糧だ。過ぎ去った時間は戻らない。ならば、それに縛られるのは悲しい事だ。だから、どんなに悲しい事があろうとも、つらい事だったとしても、それは乗り越えなくてはならないものだ」

「それは、過去は不要なものという事？」

「……そうとは言い難いな。大事なのは、その過程で何を学んだかだ」

「学ぶ？」

　アリステラの問いかけに、ラグナは頷きながら自分の考えを続ける。

「歴史であれ経験であれ、過去と言うのは全て今へと繋がる。人はその全てを紡ぐことは出来ない。生きて行く中で大事だと思うものを集めて。今の自分に繋げる」

「つまり、必要なものを取っておいて、不要なものは捨てる……と言う事？」

「そうだな。ある人が言っていた言葉だが『人の性格や人格とは、過去の積み重ねの形』らしい」

「過去の、積み重ね……」

　簡単なような難しい言葉だと、アリステラは思った。知性を育んできた彼女だからこそ、不思議と引き込まれる深い言葉だ。

　当然だが、この言葉をラグナに教えたのは、彼を支える叡智の老紳士である。

　ラグナは遥か彼方を見据えながら答える。

「強くなろうとした。賢くなろうとした。逃げ出そうとして、自分にはそれしか無いのだと知った。だが、その中で大事なものを落としてしまった」

　懐かしむようにラグナは言葉を続ける。

「決して失ってはいけないものを手放すことを、俺はもうしない。それを思い出させてくれた人に誓った」

「──そう」

　遠くを見据えるラグナの横顔を見てアリステラは、漠然とだが彼が何処か遠くにいる誰かを思い出しているのだと理解した。そして、それは女であると察知した。

　言いたいことはあったが、飲み込む。彼女は、ラグナにきっかけを与えただろう顔も知らぬ女に対して、覚えているという事に対して羨み、嫉妬してしまう。その感情を、慌てて心の奥底に沈める。

「失敗する事は誰にだってある。一度は失ってしまう事だってある。全てを完璧に備えた【人】などこの世に存在しない。だが、近づくことが出来るのなら俺は、その為の努力を惜しまない。それが、俺が定めた生き方だ」

　ラグナが語った言葉は、二年前に竜王から聞かされた多くの真実から定めたラグナ自身の決意の生き方だった。大きな意思を感じ取ったアリステラは、その言葉に言葉を失ってしまった。

　彼が放った言葉は、彼が定めた生き方は、常人が目指す者とは明らかに異なる異質で、聞いた者を惹きつける不思議な魅力を宿していた。

　そして、その眼差しにはこれまでの懐かしさとは一変して、純粋な怒りが宿っていた。

「…………余計なことまで語ったな。忘れてくれ」

　流れに任せて未来まで語っていた事まで話したことを自覚したラグナは、少し照れ臭そうに瞑目してアリステラにそう頼んだ。アリステラは、小さく微笑んでから頷いた。

　だが、放たれた言葉は、新たな思い出、記憶としてアリステラの中に刻み付けられる。

　ずっと前から知っているのだ。目の前にいる少年は、自分を含めた多くの人間とはかけ離れた世界の中で生きている事を、アリステラは改めて実感する。

「まあ、つまり……過去は、大事だが固執するのはいけない事なんだと思う。過去の俺が居たから今の俺が居ると言う事で、だから──」

「過去の私が居たから、今の私が居る。そう言う事ね」

「……ああ。いや、すまなかったな、変なことまで口にした」

「そんな事ないわ。何だかこっちも聞き入ってしまったのは、私も一緒。こちらこそ、変な事を聞いてごめんなさい。後、聞かせてくれてありがとう」

　そう締めくくり、アリステラはラグナに対して礼を述べる。

（重い言葉だった）

　その内側で、様々な感情を起こさせた不思議な言葉だったと、アリステラは考える。

　どこか超然とした、人とは少しかけ離れた態度と彼女は思った。

　淡々とした事実を告げる一方で、彼自身の過去の一部を聞かされた……だが、やはりそこには自分に繋がる言葉は無い。

（私との出会いは、彼にとってもう──）

　必要な過去を残して、不要な過去は切り捨てる。ラグナが言った言葉と、自分の望みが釣り合う様に重なる。

　そして、それは彼女の願いとはかけ離れたラグナの感情を指していた。

（思い出して、くれないのかしら……）

　今この時間だけでも嬉しいが、心の奥底ではそれ以上の事を望んでいる。儘ならない事に彼女の目に再び涙が溜まろうとした時──

「なあ、一つ聞いて良いか？」

　不意にラグナの方から、アリステラに対して問いが掛けられる。彼女が彼の目を見た時、その目にはこれまでとは違う、戸惑いの他に疑念が宿った眼でアリステラを睨むような目で見ていた。

「アンタは……俺を知っているのか？」

「ッッ──」

　突然、自分の望みに近い質問に、アリステラの心臓がビクリと跳ね上がる。驚愕の表情を浮かべる。

　微風も消え、植物の騒めきも消えた……静寂に包まれた世界の中で、アリステラの耳には自分自身の心臓の音が、何よりも大きく響く。

　固まるアリステラを、ラグナは無言のまま射貫くような目で見つめていた。