23話:人外魔境 その2
ラグナが目を開けると、そこは全く知らない場所だった。周囲は天然の岩窟で構築されている。だが、足元は石畳で作られており、人工物であることが分かる。
足元を見た序で、ラグナは自分の体を確認した。ぼんやりとしている。手足が──否、全身が半透明で腕を前に翳してみても、手の向こう側に何があるのかがわかってしまう。
何が起こった?
記憶は鮮明だ。自分は確かに寝ていた筈だ……それなのに、自分は全く知らない場所に何時の間にか立っている。夢を見るにしても此処は自分の記憶に無い。何よりも自分の今の状態が不思議でならなかった。
意識は鮮明だが、全身がふわふわとしている。翳した手にもう片方の手でふれようとすると、腕が通り抜けてしまった。痛みは無いが、とても不思議な感覚だ。ジャンプしてみると跳ぶと言うよりも浮いた様な感覚がする。
ふと何かに呼ばれた気がした。声は聞こえなかったが、漠然とした感覚で、ラグナは後ろに振り返るとそれと目が合う。
それ──そいつは、光を背に佇んでいた。月の輝きが銀色に輝く刃の様な鱗を照らす。そして、鱗に覆われた巨躯と四肢を踏みしめ、長い首を擡げ、ラグナを見つめる。
背中から生える巨大な六枚の翼は小さく畳まれているが、それでもなお強大さを感じさせ、羽ばたき一つで自分など簡単に吹き飛ばすだろうと予想できた。指先からは、どんな剣よりも鋭く綺麗な爪が伸びて地面を踏み、幾つもの小さな鱗で形成された甲殻で覆われた尾は、長くて美しく、その先端は槍の矛先のように鋭い。
そして、エメラルドに輝く鋭い眼は、魔石のような不思議な輝きを放っていて、ラグナの視線を釘付けにした。
魔物と呼ぶには、目の前に居るその存在はあまりに次元が違いすぎた。
ラグナは理解する。例え夢の存在でも……この存在には、絶対に勝てない。この先、どれだけ努力を重ねようとも、どれだけの幸運があっても、この存在にはまぐれでも勝つ事は出来ない。届かない──それだけの威厳と圧を、目の前のそいつは佇むだけで放っている。
しかし、それを見つめるラグナは、自身の内側に恐怖を抱かなかった。ラグナを見下ろす、その目は鋭いが、敵意も殺意も無い。だかと言って、ラグナに興味が抱いていないというわけではなく、その瞳には見守るような温かみを感じさせた。
ラグナは恐ろしい姿だと思った。だが、怖くは無かった。何よりも、彼自身は、その瞳の輝きに対して、何故か懐かしさを感じていたのだ。
貴方は、誰だ?
ラグナは、語りかける。だが、発した筈のラグナ自身も、それが声だと思うには、不思議な響きと化していた。
それに対して目の前の存在から答えは返っては来ない。その代わりに、ラグナの身体を突如、虚脱感に襲われる。失っていく意識の中で、そいつを見る。頭の中に何かが響いた気がしたが、それを読み解く事ができず、ラグナの意識は、暗闇に落ちた。
ラグナは目を開ける。誰かに会っていた気がする──だが、気がするだけであって、気のせいだと直ぐに割り切ってしまう。建物から外に出る……朝の木漏れ日に、ラグナは思わず眼を細めた。手で日差しを遮りながら兄弟子の姿を捜すが……なぜか姿は無く、焚き火の跡からは、一筋の煙が空へと伸びていた。火が消えてまだそんなに時間が経っていない事を示していた。
「よお、じっくり寝れたか?」
森の奥からセタンタが小脇に枯れ枝を抱えながら、もう片方の腕で何かを引き摺って姿を見せる。見慣れた黒池の固まりを見て、すぐにそれが魔猪だと分かった。動かない魔猪の額には、一本の槍が深々と突き刺さっており、それが絶命している理由だと直ぐに分かった。
「朝飯……にしては大きくないか?」
「こういう時ってのは、食えるときに食うんだよ。どうせ余ったのは、そこらから魔物がやって来て処分してくれる」
「そういうものなのか?」
「そういうもんだ。さあ、飯にしようぜ」
セタンタは、にやりと笑ってから支度を始める。ラグナに火の支度を命じる魔猪の死体を、蔓を使い頭が下に向くように木にぶら下げる。そして、昨夜に狩った角兎の角と頭蓋骨を加工して作ったナイフを取り出しと、それで魔猪の喉を切り裂いた。当然、首の傷からは、夥しい量の血が流れ始める。
「角兎もそうだったけど──それって何か意味があるのか?」
「死体の臭みの原因は血液だ。それに血は固まると旨みも消しちまう。だから、仕留めた獲物はまず、血を抜くのが普通なんだ。離れた位置でやるのは、匂いに釣られた魔物に備える為だ。まあ、暫くは放置だな」
「万が一、魔物が寄って来たら?」
「状況による。一匹とかだったらま返り討ちにするのも良いが、そこら中から来たら間違いなく奪い合いになる。俺達は肉を食わなくても生きていけるから、無理をする必要は無い。まあ、その時はその時だな」
「成る程な……ただ、折角仕留めた奴を誰かに奪われるのは、嫌だよな」
「あ? まあ、そうだけどな──って、おい」
火を見ていたラグナは、吊るされた魔猪の身体に片手を触れ、魔法を使う。傷口から流れる血の量が勢いを増す。それだけではなく、血は液体の動きを無視して、魔猪煮触れていないもう片方の手の上で赤い塊の形状へと姿を変えていく。
水魔法の応用で操作された魔猪の血液は一滴残らず搾り出され、過剰に凝縮された血液は、凍魔法で凍りつき拳大の血の氷塊へと姿を変える。
「これで、良いだろ?」
「……ったく、便利に使うもんだな」
「別に、これくらいは出来なきゃ、師匠の顔に泥を塗るよ」
関心半分、呆れ半分と言ったラグナの言葉に出来て当然とラグナは返して、血の塊を森の奥へと投げ捨てる。
セタンタは気を取り直し、ナイフで解体を始める。始めに毛皮を剥がし、次いで腹に刃を突き刺し大きく割いた。割かれた腹から腸が零れ出る。セタンタは単調な作業を行う様な表情で内臓一つ一つを引っ張り出し、ラグナはその作業を見て知って覚えるように観察する。
「ラグナ、これはお前が持っとけ」
「うっ……」
魔猪の腹で見つけたのか、セタンタは腹の中に腕を突っ込み何かをラグナに投げ渡す。受け取ったラグナは、脂ぎったその感触に対する嫌悪感に少し表情を歪めながらそれを見る。そしてそれ見たラグナは、驚きから眼を見開いた。
「もしかして、魔石!?」
特定の条件下でしか生まれないと言う結晶が何故、魔猪の体内から出てくるのか。ラグナは驚きの声を挙げて、作業を続けるセタンタと魔猪に目を向ける。
「何で、魔石が魔猪の中から出て来るんだ!」
「別に不思議じゃねえだろ? 師匠から魔石については聞かされてるんだろ」
「あ……ああ、まあ」
「なら、考えてみろよ。何でこいつの中から魔石が出てきたのか」
理由を考えるラグナ。時に腕を組み、顎に手を当てて考える。
「…………いや、でも、それなら──だけど」
「へえ、流石に直ぐに考えは出てきたか?」
「まあ、そうだな。とは言え、あくまでも仮説だけど──」
セタンタに促され、困惑しながらも、憶測を述べるラグナ。
魔素は、空気中の至る所に存在する。魔法として操る人間もそうだが、魔物も生き物なの当然だが呼吸をする。そして呼吸をすれば、体内に魔素を取り込む事になる。
ここでラグナは、人間のそれ以外の違いについて注目した。
人間は、取り入れた魔素を利用して魔法を使うのに対し、魔物は魔法を使わない。取り込んだ魔素は、恐らく内部から外部に排出される。だが、全ての魔素が外に出て行く事は考えられない。そうして魔物の体内に魔素が少しずつ蓄積し、それが長い年月を経たものの正体が、魔石だと考察する。
「こんな所か?」
「そうだ……っと言った所かな」
ラグナの回答に、セタンタは概ね正解と言うような言葉を返す。
「でも、何で師匠はそれを教えてくれなかったんだ?」
「教えてばかりよりも、実際に見て知るほうが良い時もある。何でも言われて知るよりも楽しいだろ?」
「…………」
ラグナは、魔猪の巨体を見て、次に手の平の魔石に視線を落とす。巨体とは裏腹にそこから取り出した魔石は、ラグナの手の上で弄べる程に小さい。
「──って、言ってる俺も、魔法は扱えないからな。案外、俺の腹を割いたら出てくるかもな」
「おい、冗談でもそんなこと言うなよ。確かに希少なんだろうけど、そんな猟奇的な事をしてまで欲しいものじゃない」
冗談のつもりなのか……笑い混じりのセタンタの言葉に、ラグナは、ムッとした様子で言葉を返しながら、水魔法で油を洗い落とてから懐に仕舞った。
その後、解体を終えた肉を、魔石と同じく水洗いしてから串焼きにする。そうして二人は、朝食を取る。魔猪肉の串焼き──特別、何かをしたわけではない肉料理だ。
「「いただきます」」
焼けた串肉を取り、二人はほぼ同時に焼きたての料理にかぶりついた。
「……ぉお」
最初にラグナは、その味に感心したような声を零した。
「どうだ、美味いか?」
「そうだな。食べなれたものだと思ってたけど、こういう味は……うん、悪くない」
「角兎ははじめて食ったものだったが、普段狩って食ってる魔猪だと違いが良く分かるだろ」
「ああ、面白い」
これまではフェレグスが作る料理を食べてきたラグナ達にとって、こうした味付けをしない肉そのものの味は新鮮味があった。面白いと思ったのは、肉の部位によって食感が違う事だ。柔らかい部分がある。硬い部分がある。あっさり崩れる部位の一方で、中々噛み潰せない部位もある。内蔵から赤身肉、骨付き肉まで様々な部分を焼いて二人で食べていく。
「毛皮は防具に、骨や牙は装飾や武器にもなる。流石に全部は持っていけないが、置いていくのなら地面に埋めて供養するんだ」
「余った部位はどうするんだ?」
「普段は干して保存食として持っていくが、それも全部は厳しい肉は一箇所に固めておけば、魔物や虫共が処分する」
「少しもったいないな」
「そうだな。だから、動けなくならない程度には食うのが、狩った俺達の敬意になる。ラグナ、お前は自分の腕を試す為に魔物と戦って来たはずだ。それを間違いとは言わねえ──だが、狩った時は、殺した責任を果たす事を忘れるな。それが自然と言う絶対強大な世界の掟だ」
「────分かった」
セタンタは普段とは少し違う雰囲気で、意味深い言葉をラグナに諭した。島では島の決まりがあった。そして、この自然の中には自然のルールがある事を知った。ラグナは、その言葉を理解して、首肯する。二人に挟まれ、焚き火にあぶられる魔猪の肉から油が落ちて音を立てた。




