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0話:無垢な子供

言葉を覚えた時、前には三つの憧れがあった。

厳しくも優しい女性。

豪快で強い兄弟子。

慎ましく賢い従者。


言葉を覚えた時、読み書きを身に付けた時、直ぐに三人に追いつきたいと思った。

賢さに憧れた。強さに憧れた。凄さに憧れた。

時になだらかで、時に険しい……三人の背中を追い掛ける毎日だった。それが当たり前の事だった。

走って、走って、走って走って走って走って走って走って走って走って走って走った。

駆けて駆けて、一歩でも多く、その歩幅を大きく、早く踏み出す。

どれだけ走っただろう。背中見えない。

どれだけ走っただろう。始まりの場所はもう見えない。


 後、どれだけ走れば、あの三人の背中に追いつけるのか?

 もしかしすると、一生捉えることが出来ないんじゃないか?

 

そう考えてしまった時、脇道を見つけてしまった。



息を潜めながら、暗く深い森のなかを進む。金色の髪でも景色に溶け込めるように、黒と緑の外套を頭から深く被り直す。そして物音を立てないように、注意しながら前進する。

 

【ラグナ】──少年が、そう名付けられてから八年の時間が経っていた。

 この日は三度目になる一人での狩猟に出かけていた。外套の他に、背には弓矢を、腰に短剣を差して、獲物を探しながら森の奥へと進んでいく。

 暫く進んでいると、遠くの茂みが、小さく動くのを見た。動きを止め、外套から覗く赤い瞳で獲物を注視していると、茂みから小さな魔物が姿を見せる。


 【泣き狐スクォンク】──名前の通り、非常に臆病な為、滅多に姿を見せない貴重な魔物だ。

疣まみれの醜悪な見た目とは裏腹に、その肉は柔らかく美味で、全身を食材として使うことが出来る。ラグナは、幸運に感謝しながら弓矢を構える。

 少し──いや、大分遠いと思いながら、少しずつ自分の射程距離に入るように近づいていく。逃がさないように、慎重に距離を詰め、自分の矢が届く距離まで近づく──弓に矢を番えて引き絞る。

 

「──、ハァ──」


 緊張で震える身体を深呼吸で落ち着かせる。

 そして、呼吸が噛み合った瞬間、ラグナは矢を放った。

 真っ直ぐに飛んでいった矢は──。

 泣き狐の目の前に突き立った。


「あ……ッ!」

 

 外した! ラグナは次の矢を番えるよりも、咄嗟に耳を塞ぐ。

 次の瞬間、泣き狐の強烈な悲鳴が辺り一帯に響き渡った。耳を塞いで尚も、指の隙間から聞こえてくる大音響。

 泣き狐は周囲に悲鳴を撒き散らしながら、森の奥深くへと逃げ去ってしまった。

 

 逃がすまい。ラグナも咄嗟に追いかけようと思ったが、視界の隅で木々が大きく揺れ動くのを見て茂みの中に隠れる。

 微かな地面の揺れが、次第に大きくなっていく。

 そして、巨大な黒い毛の塊が姿を見せる。長大な二本の牙を生やした魔物【魔猪イビルボア】だった。鼻息が荒く、かなり気が立っている。

 恐らく近くに住処があって、さっきの泣き狐の悲鳴で目が覚めたんだろう。

 

 幸運を逃してしまったことに加えて今度は不幸がやって来るとは思わなかった。ラグナは口を手で覆い呼吸を隠す。

 自分自身に、魔猪を倒す程の実力は無い。茂みから動かずに、魔猪が去るのを待つ。鼻息を荒くしながら、獲物の匂いを探す魔猪の様子を伺い待つ。

 

 ドクン──、ドクン──、緊張のせいか、ラグナには自身の心臓が大きくなっているように感じる。

 聞かれるな、気取られるな……息を潜めてひたすらに待った。

 やがて、魔猪は、遠くに逃げた泣き狐の匂いを捉えたのか、奴が逃げた方角へと去っていった。


「……はぁ」


 小さくなっていく巨躯を眺めながら、ラグナは溜め息を吐く。魔猪の出現で、泣き狐を追いかける事も出来ない。諦めは深い溜め息となって口から零れた。まさか、この近辺に魔猪の住処があるなんて思わなかった。或いは、一発で仕留められれば、こんな事にはならなかった筈なのに──。


(駄目だ駄目だ。こんな風に考えるな!)


 気持ちを切り替える為にと、先ほどの緊張で噴き出した汗を拭い、外套を脱ぐ。汗を含んで湿り気を増していたそれから解放され、一時の清々しさに身を任せる。そうしている内に、先ほどの悔しさも吹き飛ぶような気がした。

 とにかく、帰ったら師匠に、魔猪がこの一帯に住処を作っている事を報告しないといけない。無理をして、自分が返り討ちに会えば元も子もない。


(だけど、だからと言って、このまま何の成果もなしに家には帰りたくない)


 気持ちを切り替え、再び頭巾を被り直し森の中を進む──無論、魔猪が向かった方角とは別方向へだ。

次の獲物は絶対に仕留める。決心した手が強く握る弓を見ながら、森の奥へと再び歩き始める。




「…………」


 ラグナは、失意のまま、屋敷に帰ってきた。その手に、今日の収穫は無い。

 あれから獲物を探し回ったのに、兎はおろか、栗鼠一匹とも遭遇しなかった。原因はきっと、魔猪が目を覚ました影響だろう。

 ただでさえ、幼獣でも気性が荒いのに、成獣になった魔猪は、森で一、二を争う危険な魔物になる。雑食な上に凶暴、そんな奴が闊歩した一帯を小動物が、逃げ出したという事を考えていなかった。泣き狐を狩っていれば、こうはならなかったという結果が最後まで引きずる結果になってしまった。

 結局、何の成果も上げる事の出来ず、意気込んでいた気持ちはすっかりと消沈してしまっていた。


「おかえりなさいませ、ラグナ様」

「ただいま……」


 玄関口を開けると何処からともなく、一人の男性──従者の【フェレグス】が姿を見せ出迎えてくれる。


「……そのご様子ですと、あまりよろしくなかったようですね」

「うん、ごめんね。折角、用意してくれたのに──」


 脱いでいた外套をフェレグスに渡しながら、謝罪する。狩猟に出かける際に装備を用意してくれたのは、フェレグスだ。出かける時の支度は、何時も彼がしてくれる。


「汗を掻いたようですね──浴室の準備はできておりますので、先にお入りください。着替えも後ほどご用意し、お持ちします。」

「でも、先に師匠の所に行って報告しないと──」

「ラグナ様が沈んだ表情をしていては、主も心配しますぞ? 此処は、温かい湯船につかり、身体と心の曇りを洗い流したほうがよろしいと思います。主からは、私が申しておきましょう。」

「……そうだね。ありがとう」

「これも務めなので、勿体無きお言葉ですよ」


 フェレグスはそのまま満足げな笑みを浮かべると、行ってしまった。言葉に従って先に掻いた汗を洗い流す為、浴室へと向かった。

 汗を吸った衣類を脱ぎ捨てたラグナは、温かいお湯の中に入る。全身から疲れが抜け出していき、そのまま手足を投げ出してしまう。疲れた後に入るお風呂は気持ち良い。

 そうしていると、落ち込んでいた気持ちもお湯に溶けて出ていってしまう。そのまま意識まで抜け出しそうになり、慌てて体勢を整える。

 顔の下半分を湯船に沈める──口から出た呼吸が、泡になって弾ける光景を眺める。それにも直ぐに飽きてしまって眼を閉じる。


(本当、敵わないな……)


 物心着く前から自分の世話をしてくれていたフェレグスに、隠し事は出来ない──薄々わかっていたことだけど、敢えてそれを指摘しないのは、こちらの気持ちを察してからなのだろうか? ありがたいと思う半面で、そんな内心を、あっさりと見抜かれる自分に苛立ちを感じる。


(これじゃあ、【師匠】を出し抜くのなんて全然だな)


ふと、浴室の外に誰かが居る気配を感じた。フェレグスかな? 着替えを持ってくるって言ってたし──だが、いつもならすぐに消える筈の気配は消えず、そのまま扉が開かれる。


「入るぞ、ラグナ」

「ぶはッ!!」


 女性の声──その声で一瞬、思考が飛んだが、彼女の姿を見て、思わずお湯を吸い込んでしまった。当然そのまま、気管にお湯が入りむせ返る。そこに居たのは、長い黒紫の髪と眼を持つ女性──自身の育ての親である【スカハサ】その人だからだ。


「し、師匠──な、何でここ、に……」

「おかしな事を言うな。此処は、私の屋敷なのだから、私が何処に居ようが驚く事もないだろ?」

「そうです、けど、そうじゃなくて!」


 何で入っているのに入って来るのかと、ラグナは尋ねる。


「小さいころは一緒に入ったのだ。今更、お前に見られて恥ずかしい体はしていないぞ?」

「い、何時の、話をしてるんですか……」

 確かに入っていたけど、それはまだ無邪気な頃で、今はもう眼のやり場に困る。一瞬でも見てしまい、羞恥から手で目を隠すのが、精一杯だった。

 そんな僕の言葉を無視して師匠はそのまま、裸体のまま湯船につかる。しかもラグナの隣に──年頃の男の子であるラグナには、彼女の裸体はあまりにも刺激が強すぎる


「あ、あの、師匠──」

「何だ?」

「いえ、何でもない……です」


 その為ラグナは、抗議の言葉を言おうと試みるが、直ぐに明後日の方向を向く。それでも、目線は師匠のほうを向いてしまうのは男の子だからだろう。黒い髪とは、対照的に透き通った白い肌は、傷一つ無く美しく、そしてほんのりと良い香りがした。胸は大きく、二つの肌色の果実は、湯船に浮いて言うようにも見える。そんな身体を惜しまず、むしろ見せ付けるような体勢で、隣を陣取る師匠に対し、何か言う勇気もなく、言っても聞き入れてもらえないと、ラグナは悟った。


「泣き狐──しとめ損ねたのが余程悔しかったか?」


 ふいに、聞こえたその言葉に心臓が跳ね上がった。


「どうして分かったんですか?」

「聞こえただけさ。あれは名前の通り、泣き声と逃げ足だけは凄まじいからな」

「……その後、魔猪を目覚めさせてしまって、そのせいで、周囲の小動物は、皆逃げ隠れして見つけられませんでした」

「ほお? 魔猪か……幼獣ならともかく、お前が手ぶらだったと言う事は、そうか……【成獣】だったのだな」

「…………」

「成る程な。何も持って来れなかったのはそれが理由か」


 ちらりと、横顔を見ると師匠は、何か考え込んでいる。これが、普段の師匠の部屋ならいいのだが、今は眼のやり場に困って伏せるしかなかった。


「ならば、仕方あるまい。成獣ともなれば【馬鹿弟子】程の腕が無くては勝てん」

「分かっています」

「むしろ、そう無鉄砲な事をしない事を、わしは褒める。よく我慢したなラグナ」

「……我慢では、無いです。そう言いつけられてるから、それに従っただけなんです」


 そう、良い事をしてはいない。言われた事を素直に実演しただけなんだ。褒められる事なんて、一つもしていない。


「それで良いと、思うがな。お前はまだ子供なのだから、焦らずしっかりと、腕を磨いていけば良いではないか」

「……」


 子供──その言葉が、自分の心の中に刺さる。子供だから仕方ない、という言葉が、自分や周りに甘えているようで、それが酷く情けないと感じた。


「何をそう焦る?」

「……早く、一人前になりたいからです」

「ふむ、ならば、お前の言う一人前と言うのは何だ?」

「……」


 師匠やフェレグスのような人物になる。それが自分の目標──なのに、そこに至るには、大きすぎる壁が前に立ちはだかっている。そんな現実を前に、閉口する。

「……答えられないか」


 やれやれっと、溜め息混じりに発せられた言葉──失望されて当たり前だよな。大口を言っているというのに、その目標に尻込みしているのだから。


「ラグナ」

「はい?」


 師匠に呼ばれそちらを向いた時、同時に白い細腕が伸びて彼女の胸に抱き寄せられた。

白い柔肌に顔を埋められ、驚きと戸惑いが支配する。


「し、師匠? 何を──」

「聞くな。お前がどうしてそこまで急いているのかも、わしは聞かぬことにする。だが、少しこうさせろ」


 そう言って師匠は、何も言わなくなった。ラグナも、そこから抜け出す様な事はせず、師匠の腕の中で眼を閉じる。心の中で、ごめんなさいと謝罪をしながら──。




 風呂から浴びて、僕──ラグナは、自室へと戻り、フェレグスが用意してくれた衣服に着替える。師匠からは今日はもう休め、と言われたので、夕食になるまで、部屋で大人しく休む事にした。

 師匠に拾われてからの生活──物心がつき始めた頃は、とにかく色んなものがまぶしくて仕方なかった。師匠やフェレグスとの勉強も楽しかったし、外の森を歩くのも楽しかった。けれど、そんな輝いていた世界も時が経つにつれて現実と言うものが重く圧し掛かる。

勉強や修行が辛い時もあった。だけど、ああして森に出掛け、一人で出歩く事を許されてからは森の凶暴な魔物達を見て、それが自身に必要なこと事だと良く分かった。

でも、だからこそ──早く一人前になりたいという焦りが芽生えてしまう。

直ぐ近くにある大きな壁──どんなに飛んでも飛び越えられないにも拘らず、飛び越えたいと足掻いているのが、今の自分だ。


(それに──)


鏡を見る。自身の金色の髪、赤い瞳──師匠ともフェレグスとも、もう一人の兄弟子とも誰とも似通っていない髪の色を見るうちに、自分が何処から来たのかと疑問を抱くようになったのは、もう大分前のことだ。

 きっと、師匠の事だから、僕が抱いている疑念に気付いている。その上で、何も言わないということは、これは自分で考え解決しなくちゃいけないということだ。書斎で読んだ本で、自分には、本当の【父】と【母】と呼ぶ存在が何処かに居る事を知ってから、何か分からないものが自分の中に芽生えてしまっている。

 一目で良いから、会ってみたい──そうすれば、きっと、この良く分からない感情も、晴れる筈だ。だけど、僕はまだ、未熟で弱いから……きっと師匠は、この【島】から出ることを許してくれないだろう。そう思うと、窓から聞こえる波の音が酷く大きく聞こえた。

 窓から外を見れば、広大な青い水の平原が広がっている。そして、その彼方先は、深い灰色の靄の壁によって阻まれ、見ることは出来ない。


【クリード島】と呼ばれるこの場所は、師匠の魔法によって隔離された絶海の孤島だと、フェレグスから教わったことがある。自分の世界は酷く狭い。だが、だからこそ、あの靄の向こうに何があるのかという好奇心はある。でも、自分は、まだまだ未熟者だという現実がある。師匠の強さを知っている。尊敬や憧れと同時に、諦めも同時に湧き上がり、嫌な気分になる。それを忘れたくて、ベッドの上に自分の体を投げ出す。

 

見上げた天井は普段眺めているよりも少し高く感じてしまい、それにも目を背けるように、瞼を閉じた。




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