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Vanilla  作者: ムトウ
9/11

9.Accept

 前園さん、待って。待ってください。


 背後から焦った様子で呼び止められる。

 応えずに早足で歩き続ける。振り向けない。

 こんな顔見せられない。


「前園さん、止まって」

 心なしか声の調子が強くなる。余計に歩調が速まる。

 近づいてくる八重樫の気配を感じて、走りだそうとした、そのとき。


「珠美さん!」


 ひどい。

 こんなときに、そんな呼び方をするなんて。


 一瞬、足が止まった隙に、後ろから手首を掴まれた。

 離して、と言おうとしたところ、車のクラクションに遮られる。

 目の前は車道。信号は赤。

「…あ」

 信号を確かめもせず、車道に飛び出そうとしていた。


「危ないですよ」

 間に合った、よかった。と、安堵の混ざった声でたしなめられる。

 掴まれた手首が引かれ、そっと抱き寄せられるように移動を促された。車道から離れ、人通りの邪魔にならない道の端に誘導される。


 どうしたんですか急に。どこか怪我は? 大丈夫ですか?

 矢継ぎ早に問われても、ただ俯いて首を横に振るしかできない。まるで子どもみたい。

 逃げようにも、八重樫はしっかりと珠美の肩に腕を回してホールドしている。無事を確認するまで離してくれない気だ。

 情けなくて恥ずかしくて、縮こまるように俯いていたら、カツコツとヒールの音が近づいてきた。視界の端に掠める、シルバーグレーのドレスの裾。さっきの女性だ。ドレスと色を合わせたシルバーラメのピンヒールが目の前に止まった。

 ……ていうか足大きいなこの人?


「どした? 大丈夫か?」

 ドレスの人物から発せられた声は男性の声。

 驚いて顔上げると、目の前にいたのは、明らかに、あからさまに男性だった。


 心配げに珠美を覗き込んでくる顔は、丁寧にメイクを施され、わりと完成度高め。もともとが童顔なのか、くるくるの睫毛を強調したアイメイクが妙にこなれた感がある。

 巻き毛のウイッグやたっぷりしたドレープで顔の輪郭や体格を巧妙にカバーしていて、首元もスカーフで喉仏を隠している。八重樫と並ぶと小柄に見えるし、夜目遠目には女性と見紛うかもしれない。

 が、間近で見れば男性と明白。


「…えっ」

 と、八重樫を振り向くと、彼は驚いたように目を見張った。大丈夫ですか? と心配そうに尋ねてくる。大きな手で目元を拭われて、泣いていたことに気づいた。

 八重樫は呆れ顔で女装の人物を責める。

「ばか、おまえ。前園さんが驚くだろう」

 珠美は、かくん、と力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになった。おっと、と八重樫が危なげなく支えてくれる。

「……俺、泣くほどひどいか?」

 目の前の女装男子は憮然と自分の姿を見おろした。



 八重樫は、いいからおまえはさっさと行け、と女装男子を追い返し、それから、「とにかく落ち着きましょう」と珠美を近くのコーヒーショップに連れて行った。


 はい。と、すっかり定番になったホットミルクをテーブル越しに渡される。熱いから気をつけて、と気遣われて、胸の奥が甘く痛んだ。


「お騒がせしてすいません。さっきのは五十嵐啓太といって、高校時代からのつきあいなんです」

 五十嵐はイベント企画会社を運営していて、何かと八重樫を巻き込もうとしてくるのだそうだ。

 女装はコスプレとか仮装のようなものらしい。

「今日はこの近所で“女装婚活パーティー”とかいうイベントがあるらしくて、僕にもそれに参加しろとか、無茶なことを言ってくるんですよ」

 女装も婚活も興味ない、って再三言ってるのに、まったく。


 先刻の痴話喧嘩めいたやりとりは、以下のような次第。


 ノリノリの女装(パーティー仕様)で現れた五十嵐がヒールをひっかけて蹴つまずき、顔面からすっ転びそうになったところを、「うわっ」と八重樫が抱き止めて支え、そのハプニングに調子づいた五十嵐がしなしなとすがりついてしつこくイベントに誘い、呆れた八重樫が「やめろ」「いいかげんにしてくれ」と断っていた、という。


「あいつ普段、僕のことを“望”なんて呼んだりしないんですよ。あの甘ったれた声、薄気味悪かったな」

 悪寒をこらえるような身振りをして苦笑した。



 珠美は俯いたまま顔があげられない。

 自分の勘違いが恥ずかしくて、それ以上に、あれほど動揺してしまった自分が恥ずかしくて。

 八重樫はそんな珠美に何も事情を聞かず、ただ「落ち着かれましたか?」と言った。

 穏やかな声音が優しくて、泣きそうだ。


 それから彼はおもむろに鞄から小さな瓶を取り出し、珠美のカップを引き寄せて、小瓶の中身をふた匙ほど加えた。

「…バニラシュガー」

 その香りに珠美が顔をあげると、八重樫が淡く微笑む。

「前園さんに分けていただいてから僕も気に入って、自分でもつくってみたんです。どうぞ」

 それ飲んだら、今日は帰りましょう。お送りします。

 そっと目の前にカップを差し出され、ふわりと湯気に包まれた。


 うっとりと甘い、バニラの香り。

 そんなに強く香るわけでもないのに、眩んでしまいそう。

 カップを両手で包むように添えて、甘く温かく、優しい香りに目を細めた。



「…好きです」

 ぽつりと、気づいたら言葉にしていた。胸の奥から押し出されて溢れるように、ごく自然に言ってしまっていた。

「えっ」

 八重樫は怪訝に聞き返し、それから、バニラシュガーのことかと思ったらしく、ああ、僕も好きですよ。と、暢気な風情で返す。


 珠美は顔を上げ、まっすぐに彼を見つめて。


「あなたが好きなの」

 重ねて告げた。


 彼は呆気にとられて珠美を見つめ返す。

 ごめんなさい。と言い訳するように続けた。

「一度断っておいて、今さらですよね」


 こんなふうに言うつもりじゃなかったんです。

 少なくとも、検定試験が終わるまでは、研修に集中しよう、って。仕事が優先だから、って。

 そんなふうに、自分をごまかして。


 私、いつのまにか、八重樫さんが傍にいるのが当たり前だと思ってた。

 あのとき、「Accept」って言ってくれた、あの気持ちのままでいてくれてる、って。

 図々しいですよね。


 あなたの気持ちを考えてなかった。


 私の気持ちが変わったなら、あなたの気持ちだって変わってるかもしれないのに。

 あなたに、他に大事な人がいるかもしれないのに。

 確かめもせずに、仕事を言い訳にして保留にしてた。


 でも、もうごまかせない。


「私、あなたが好きです」



 八重樫は、「……っ」と声にならない声で低く呻いて、顔を突っ伏してしまった。本当に? とか、まさか、とかぶつぶつ呟いている。


 ……やっぱり、もう遅かった。

 今さらだったみたい。

 五十嵐氏のことは誤解だったとしても、だからって、彼の気持ちはもう自分にはないんだろう。


 でも、仕方ない。

 自分の気持ちに素直になれたから、不思議に清々しい。


「今さらで、ごめんなさい。

 検定も、もう大丈夫ですから。今まで教えてくださってありがとう」

 じゃ、もう失礼しますね。

 と、席を立とうとしたら。


「待って」

 立ち上がろうとテーブルに手をついた、その手を、ぎゅ、と握られる。うわずったような声で止められた。

 骨ばった大きな手は微かに震えていて、どうしたのか、と見やると、彼は突っ伏した姿勢のまま、はあ、と深いため息をついた。

「待ってください。今、叫び出したいのを堪えてるんです」

 ……嬉しくて。


 は?

 聞き間違いかと思った。


 でも、彼は手を離してくれないし。うー、とか唸ってるし。

 顔を突っ伏していてどんな表情かわからないけれど、耳が真っ赤だし。


「八重樫さん?」

 声をかけても返事がないし、困り果てて、掴まれていない方の手で八重樫の肩に触れてみた。

 ぴくり、と身じろぐものの、俯せた姿勢のままだ。


 思いきって、髪をかきわけるように、額をそっと探ってみる。

 ねえ、顔を見せて?

 そろそろと躊躇いながら顔を上げた八重樫は、こちらが戸惑うくらいに真っ赤だった。

 つられて、珠美も赤くなってしまいそうなくらい。


 ようやく身を起こした八重樫は、珠美の手を握ったまま、しばらく逡巡していた。

 それから。


「僕も」

 押し殺したように低い、囁くような声で。

「僕も、あなたが好きです」


 ずっと、好きだった。

 断られたんだから、潔く諦めようと思ったけれど、諦めきれなかった。


 仕事の都合でもなんでもいいから傍にいたくて。

 でも、しつこくして怖がらせたくなかったし。


 こんな気持ちをあなたに知られたら、軽蔑されると思った。

 教え方、厳しかったでしょう? そうでもしないと、抑えていられなかった。

 仕事だから、って必死でブレーキをかけていたんです。



 八重樫は顔の赤みが冷めないまま、珠美を見つめた。

 いつも以上に生真面目な、真剣な表情で。


「あなたが好きだ。僕の恋人になってください」



 珠美は照れくさそうに少し笑って、それから、八重樫に握られた手の上から、もう一方の手を重ねて、答えた。


「Accept」

 一言だけ。











「ところで前園さん、どうして泣いてたんですか?」

「……どうして、って。それ、本気で聞いてます?」

「???」


「…………八重樫さんの恋人だと思ったんです」

「五十嵐が? ですか? そんな訳ないじゃないですか」

「だって、あんなふうにじゃれてたらそう思いますよ。パッと見女性だと思ったし」

「えっ! あれ女性に見えましたか? しかもじゃれてる、って。僕、本気で嫌がってたんですけど」

「知らなかったらそう見えますって」

「…………」

「……そんなに落ち込まなくても。ていうか気にするのそこ?」



「…あれ? すると、つまり、僕に恋人がいると思って泣いてたんですか?」

「…………」

「前園さん?」

「……さっきから、そう言ってるじゃないですか」


「…………」

「照れるくらいなら聞かないでください」







時系列的にこの後「Wasabi」(http://ncode.syosetu.com/n6634db/)がくる訳ですね。

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