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Vanilla  作者: ムトウ
8/11

8.保留、強制終了

「これ何? 前園さん」

 ひょい、とデスクの上の小瓶を手にして尋ねてきたのは佐藤晴彦だ。


 いよいよと検定試験も押し迫ってきた珠美は、業務の合間を縫って空き会議室で勉強している。研修扱いなので、上司と相談しつつ、就業時間中も勉強に充てているのだった。

 佐藤はたびたびそこに顔を出す。

 コーヒーでもどう? とか、コピーとかなんか手伝おうか? などなど、こまめな気遣いは、下手をするとウザいおせっかいになってしまいそうなところ、彼の場合、タイミングが絶妙だった。呼吸を読むのが巧いのか、珠美が集中しているときは絶対に邪魔しない。

 今もちょうど、いったん勉強を切り上げて本来業務に戻ろうかと思ったところ。


 感心半分、呆れ半分で振り向くと、小瓶をしゃらしゃらと振って珠美に尋ねてきた。

「なんか黒いの入ってるね。スパイスかなんか?」

「それはバニラビーンズ。バニラの香りをグラニュー糖にうつして、コーヒーとかホットミルクに入れるのに気に入ってて」

「う。バニラかー。ちょっと苦手かも」

 蓋をゆるめてそっと香りを確かめ、うーん、やっぱダメかも。と眉をしかめる佐藤を、まじまじと見つめる。

 佐藤は表情豊かな人物で、しかめ面も真剣な表情も、困った顔も照れる様子も、いろんな表情を見たことがある。からかったりしてくるわりに、意外と優しく笑うことも知っていた。

 けれど。だけど。逆接の接続詞が続く。


 珠美の視線に気づいて、彼はすまなそうな表情をした。

「あ、ごめんね。せっかく気に入ってるのに。俺、バリバリの唐辛子野郎だからさ」

 唐辛子野郎って。なにそれ。思わず苦笑する。

「好みはそれぞれだから。そんなことで気を悪くしたりしないよ」

 佐藤に差し出されたバニラシュガーの小瓶を受け取った。ほんの少し指が触れた。

 佐藤の手は、指が長くて細くて器用そうで、きれいな手をしているな、と感心する。


 いい人だと思う。なんなら、わりとかっこいいんじゃないか、と付け加えてもいい。

 なのに、心が動かない。


「佐藤さん、あのね」

 神妙な面もちで珠美が口を開くと、

「あ、ごめん。部長待たせててさ、もう行かなきゃ」

 かわされてしまった。

 察しがよくて、本当に器用な人だ。


 珠美の言いたいことなどとうに洞察済みで、なのに、というか、だからこそ、言わせてもらえない。

 保留、っていつまで続くんだろう。


「いい人なんだよね……」

 ひっそりと呟いた一言は、たぶん佐藤がもっとも聞きたくないだろう類の言辞だった。




 保留状態なのは、八重樫に対しても同じことだった。

 まずは仕事優先だから。


 というより、珠美としても自分がどうしたいのか、あやふやだった。

 八重樫に会えると嬉しい。話をしていても楽しいし、いっしょにいると落ち着くし、また会いたいと思う。

 だからといって、気持ちを伝えたい、とか、どうにかなりたい訳じゃない。

 何か用があれば、声をかけてつきあってもらえる程度の距離感。そのくらいがちょうどいい。

 たぶん、気持ちがそこまで熟していない。


 だから、とりあえず保留。

 今はまだ。






 などというモラトリアムが、通用しなくなる出来事が起こってしまった訳で。



 珠美と八重樫は、いつもの自習室で検定対策の最後の確認をしていた。

「模擬テストの結果も十分でしたから、大丈夫そうですね」

「はい。人格権と財産権の区別がつくようになってから、すごくわかりやすくなりました」

「ですよね。ちょっと遠回りだったかもしれないんですが、ここを最初に押さえてしまうと理解しやすい」

 ひそひそ声の会話も、最初の頃はなんとも思わなかったのに、今はそわそわとこそばゆい。手が触れそうな距離とか、抑えた声音にいちいちドキッとして、その度に「仕事なんだから」と自分ツッコミを入れる。


「今日はキリもいいし、早めに終えましょう」

 という八重樫の言葉を区切りに、その日は学習を終えることにした。

 ずっと根を詰めてきたでしょう。たまにはゆっくりしたほうがいい。

 気遣うように言われて、珠美は素直に頷いた。

 文房具やテキストを片づけて、スクールの受付で自習室の利用届けに退出を記す。


「今日は何食べますか? いつものところでいいですよね」

 帰りに食事に寄るのは既に決定事項になっていて、互いのメニューまでも把握している。

 そうですねえ、などと、珠美が相づちをうち、連れだってふたりで玄関ロビーを出る直前、八重樫の携帯端末が着信を告げて振動した。

「あ、ちょっと失礼」

 断りを入れて端末を取り出し、発信元を確かめて顔色を変えた。あいつ…! と、いつも穏やかな彼には珍しく、声を荒げる。慌てて通話に出る様子もなにやら不穏だった。


 今日はダメだって言ったろう。は? 近くまで来てる? いや、だから無理だから。来るなって。あ、こら切るな。


 ……いったい誰だろう。

 八重樫らしからぬ、くだけた物言いは、逆に相手との親しさを思わせて胸がざわめく。


「参ったな」

 一方的に通話を切られたらしく、八重樫は苦々しく端末を睨みつけてため息をついた。

「前園さん、すいません。ちょっと、ここで待っててもらえますか」

「…あの、何か急用なんでしたら、私はお先に失礼しますけど」

「いえ、いいんです、違うんです。とにかく、待っててください」

 珠美を押し止めるような身振りで告げると、焦って玄関から飛び出して行った。

 どうしたのかな、と事態を推測する間もなく、今度は

「うわっ」

と、叫び声がした。八重樫の声だ。


 いったい何事、と慌てて珠美も外に出て、八重樫の姿を探すと。

 衝撃的な光景が目に飛び込んできた。



 八重樫の腕の中に、栗色の巻き毛の女性が抱き込まれている。たっぷりドレープをとったシルバーグレーのドレスをひらめかせて、彼女は八重樫にすがりついていた。珠美からは顔は見えない。

 八重樫は、苦りきった困り顔をしながらも、彼女を支えるように腕をまわしている。

「おまえ、そんな格好で」

「だから、僕は行かないって言ったろう」

「こんなところまで来るなんて」

 切れ切れに聞こえる話し声は、女性を咎めつつも、ごく親しい相手に対する気安さが滲む。どうやら、よく見知った相手らしい。


 女性はくすくす笑いながら、八重樫の耳元で何やら囁いている。彼は「やめろ」とか「いいかげんにしてくれ」とかたしなめているけれど、本気で怒ってはいない。

 端的に、痴話喧嘩だ。



 珠美は呆然と立ち尽くした。


 ショックだった。

 ショックを受ける自分に、ショックだった。

 いつのまに、こんなに、この人のことが心を占めていたんだろう。

 ほどほどの距離感がちょうどいい、なんて嘘。


 だって、こんなに心が痛い。



 追ってきた珠美に気づいて、彼はばつが悪そうに振り向く。

「すいません、お騒がせして。すぐ帰らせますから」

 そのとき、女性が八重樫の腕の中でくるりと角度を変えた。

「望?」

 ふわふわと豊かな巻き毛に埋もれるような、無邪気なほどにあどけない横顔。背の高い八重樫を見上げて、ハスキーな声で発せられるその呼称が特別な関係を示していて、痛いほど突き刺さる。


 もう無理。耐えられない。

「私、先に失礼しますね」

 自分でも驚くほど弱々しい声が出た。やっとの思いでそれだけ言って、逃げるようにきびすを返す。自分がどんな顔をしているのかわからない。見られるのが怖い。



 猛烈に恥ずかしかった。


“仕事優先で”と自分をごまかして、なのに、彼が隣にいるのが当たり前だと思っていた。


 彼は親切で仕事を教えてくれただけ。

 なんて図々しい。



 今ごろになって気づいた。


 彼が欲しい。彼の特別になりたかった。





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