8.保留、強制終了
「これ何? 前園さん」
ひょい、とデスクの上の小瓶を手にして尋ねてきたのは佐藤晴彦だ。
いよいよと検定試験も押し迫ってきた珠美は、業務の合間を縫って空き会議室で勉強している。研修扱いなので、上司と相談しつつ、就業時間中も勉強に充てているのだった。
佐藤はたびたびそこに顔を出す。
コーヒーでもどう? とか、コピーとかなんか手伝おうか? などなど、こまめな気遣いは、下手をするとウザいおせっかいになってしまいそうなところ、彼の場合、タイミングが絶妙だった。呼吸を読むのが巧いのか、珠美が集中しているときは絶対に邪魔しない。
今もちょうど、いったん勉強を切り上げて本来業務に戻ろうかと思ったところ。
感心半分、呆れ半分で振り向くと、小瓶をしゃらしゃらと振って珠美に尋ねてきた。
「なんか黒いの入ってるね。スパイスかなんか?」
「それはバニラビーンズ。バニラの香りをグラニュー糖にうつして、コーヒーとかホットミルクに入れるのに気に入ってて」
「う。バニラかー。ちょっと苦手かも」
蓋をゆるめてそっと香りを確かめ、うーん、やっぱダメかも。と眉をしかめる佐藤を、まじまじと見つめる。
佐藤は表情豊かな人物で、しかめ面も真剣な表情も、困った顔も照れる様子も、いろんな表情を見たことがある。からかったりしてくるわりに、意外と優しく笑うことも知っていた。
けれど。だけど。逆接の接続詞が続く。
珠美の視線に気づいて、彼はすまなそうな表情をした。
「あ、ごめんね。せっかく気に入ってるのに。俺、バリバリの唐辛子野郎だからさ」
唐辛子野郎って。なにそれ。思わず苦笑する。
「好みはそれぞれだから。そんなことで気を悪くしたりしないよ」
佐藤に差し出されたバニラシュガーの小瓶を受け取った。ほんの少し指が触れた。
佐藤の手は、指が長くて細くて器用そうで、きれいな手をしているな、と感心する。
いい人だと思う。なんなら、わりとかっこいいんじゃないか、と付け加えてもいい。
なのに、心が動かない。
「佐藤さん、あのね」
神妙な面もちで珠美が口を開くと、
「あ、ごめん。部長待たせててさ、もう行かなきゃ」
躱されてしまった。
察しがよくて、本当に器用な人だ。
珠美の言いたいことなどとうに洞察済みで、なのに、というか、だからこそ、言わせてもらえない。
保留、っていつまで続くんだろう。
「いい人なんだよね……」
ひっそりと呟いた一言は、たぶん佐藤がもっとも聞きたくないだろう類の言辞だった。
保留状態なのは、八重樫に対しても同じことだった。
まずは仕事優先だから。
というより、珠美としても自分がどうしたいのか、あやふやだった。
八重樫に会えると嬉しい。話をしていても楽しいし、いっしょにいると落ち着くし、また会いたいと思う。
だからといって、気持ちを伝えたい、とか、どうにかなりたい訳じゃない。
何か用があれば、声をかけてつきあってもらえる程度の距離感。そのくらいがちょうどいい。
たぶん、気持ちがそこまで熟していない。
だから、とりあえず保留。
今はまだ。
などというモラトリアムが、通用しなくなる出来事が起こってしまった訳で。
珠美と八重樫は、いつもの自習室で検定対策の最後の確認をしていた。
「模擬テストの結果も十分でしたから、大丈夫そうですね」
「はい。人格権と財産権の区別がつくようになってから、すごくわかりやすくなりました」
「ですよね。ちょっと遠回りだったかもしれないんですが、ここを最初に押さえてしまうと理解しやすい」
ひそひそ声の会話も、最初の頃はなんとも思わなかったのに、今はそわそわとこそばゆい。手が触れそうな距離とか、抑えた声音にいちいちドキッとして、その度に「仕事なんだから」と自分ツッコミを入れる。
「今日はキリもいいし、早めに終えましょう」
という八重樫の言葉を区切りに、その日は学習を終えることにした。
ずっと根を詰めてきたでしょう。たまにはゆっくりしたほうがいい。
気遣うように言われて、珠美は素直に頷いた。
文房具やテキストを片づけて、スクールの受付で自習室の利用届けに退出を記す。
「今日は何食べますか? いつものところでいいですよね」
帰りに食事に寄るのは既に決定事項になっていて、互いのメニューまでも把握している。
そうですねえ、などと、珠美が相づちをうち、連れだってふたりで玄関ロビーを出る直前、八重樫の携帯端末が着信を告げて振動した。
「あ、ちょっと失礼」
断りを入れて端末を取り出し、発信元を確かめて顔色を変えた。あいつ…! と、いつも穏やかな彼には珍しく、声を荒げる。慌てて通話に出る様子もなにやら不穏だった。
今日はダメだって言ったろう。は? 近くまで来てる? いや、だから無理だから。来るなって。あ、こら切るな。
……いったい誰だろう。
八重樫らしからぬ、くだけた物言いは、逆に相手との親しさを思わせて胸がざわめく。
「参ったな」
一方的に通話を切られたらしく、八重樫は苦々しく端末を睨みつけてため息をついた。
「前園さん、すいません。ちょっと、ここで待っててもらえますか」
「…あの、何か急用なんでしたら、私はお先に失礼しますけど」
「いえ、いいんです、違うんです。とにかく、待っててください」
珠美を押し止めるような身振りで告げると、焦って玄関から飛び出して行った。
どうしたのかな、と事態を推測する間もなく、今度は
「うわっ」
と、叫び声がした。八重樫の声だ。
いったい何事、と慌てて珠美も外に出て、八重樫の姿を探すと。
衝撃的な光景が目に飛び込んできた。
八重樫の腕の中に、栗色の巻き毛の女性が抱き込まれている。たっぷりドレープをとったシルバーグレーのドレスをひらめかせて、彼女は八重樫にすがりついていた。珠美からは顔は見えない。
八重樫は、苦りきった困り顔をしながらも、彼女を支えるように腕をまわしている。
「おまえ、そんな格好で」
「だから、僕は行かないって言ったろう」
「こんなところまで来るなんて」
切れ切れに聞こえる話し声は、女性を咎めつつも、ごく親しい相手に対する気安さが滲む。どうやら、よく見知った相手らしい。
女性はくすくす笑いながら、八重樫の耳元で何やら囁いている。彼は「やめろ」とか「いいかげんにしてくれ」とか窘めているけれど、本気で怒ってはいない。
端的に、痴話喧嘩だ。
珠美は呆然と立ち尽くした。
ショックだった。
ショックを受ける自分に、ショックだった。
いつのまに、こんなに、この人のことが心を占めていたんだろう。
ほどほどの距離感がちょうどいい、なんて嘘。
だって、こんなに心が痛い。
追ってきた珠美に気づいて、彼はばつが悪そうに振り向く。
「すいません、お騒がせして。すぐ帰らせますから」
そのとき、女性が八重樫の腕の中でくるりと角度を変えた。
「望?」
ふわふわと豊かな巻き毛に埋もれるような、無邪気なほどにあどけない横顔。背の高い八重樫を見上げて、ハスキーな声で発せられるその呼称が特別な関係を示していて、痛いほど突き刺さる。
もう無理。耐えられない。
「私、先に失礼しますね」
自分でも驚くほど弱々しい声が出た。やっとの思いでそれだけ言って、逃げるようにきびすを返す。自分がどんな顔をしているのかわからない。見られるのが怖い。
猛烈に恥ずかしかった。
“仕事優先で”と自分をごまかして、なのに、彼が隣にいるのが当たり前だと思っていた。
彼は親切で仕事を教えてくれただけ。
なんて図々しい。
今ごろになって気づいた。
彼が欲しい。彼の特別になりたかった。




