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Vanilla  作者: ムトウ
7/11

7.仕事優先で!

 まずい、と思ったときにはもう遅い。

 気になってしまう、と認めているようなものだ。


 “まずい”の成分内訳は、

(仕事優先でしょ。何浮かれてんの)

 という自分へのツッコミがほぼ占めていて、ごくわずかに

(一度断っておいて、今さら)

(佐藤さんを保留状態のまま……)

というあたりがちらちらと掠める。


 気持ちを育てるつもりはなかった。

 とにかく、これは仕事なんだから。無事に研修を終えることが肝要で、私事は二の次。




 検定試験は1ヶ月後に迫っていた。

「大丈夫だと思いますよ。3級ならそんなに難易度も高くないし」

 検定対策の大筋は通信教材を中心に進め、八重樫には具体的な仕事に沿った質問をしたり、資料を紹介してもらったりする。

「前園さんの場合、検定の合否よりも業務に即した分野を押さえた方がいいと思うんですよ」

「確かに。研修だから、ある程度“達成した証”みたいに合格とか修了証とかが要り用になりますけど、実際に業務に役立てるとなると、検定技能だけではカバーしきれないな、って思います」

「まあでも、実際のところ、検定は目標にはなりますね。難易度設定も適切だと思いますよ」


 容赦なさは小気味いいくらいに相変わらずだし、会話のほとんどは学習の進捗について。

 けれど、珠美にとって八重樫の存在は、単なる仕事相手以上に大きくなってゆくようだった。

 法律用語の合間に挟まれる世間話や、ふとした拍子の仕草、声の調子や話し方、口癖、時折掠める視線の行方。

 他愛ないことごとに新鮮に気を取られ、柔らかな気持ちに色づいて印象づけられてゆく。



 例えば、借りたテキストに几帳面に書き込まれている注釈やメモ。

 少し傾いて角張った文字が、首を傾げる癖を彷彿として、なんだか可笑しい。


 ノートの片隅の、八重樫とは違う文字の書き込みには「弟です」と苦笑した。あいつめ、勝手に持ち出したな、と、兄の顔で言う。

 それから、男ばかり3人兄弟の真ん中、だとか、実家を出て叔父に借りた平屋の一戸建てに一人暮らし、だとか、彼の素の生活をさらりと話題にされて、不覚にも心が揺れた。


 司法試験対策のテキストを懐かしそうに眺める八重樫に年齢を聞いてみたら、

「31です。これもう10年くらい前になるんだなぁ。ヤバい。結構忘れてる」

 それから、前園さんは? と尋ねられた。

「おいくつなんですか?」

「28歳です」

「……なるほど」

「なるほど、ってなんですか」

 微妙な反応に、珠美が笑って文句を言うと、

「いや、その。けっこう年齢が近いんだな、とか、そもそも互いのこと割と知らなかったな、とか、このやりとり自体がなんだかお見合いみたいだな、とか、いろいろ妙なことを思いついてしまって、なんと言っていいかわからなくなって、つい」

 グダグダな返答ぶり。つい悪戯心を刺激されて、からかい口調で返してしまう。

「っていうか、お見合いで年齢聞いたりします?」

「さあ。僕はお見合いしたことないんで」

「八重樫さん、ご趣味は?」

「映画鑑賞を少々」

「知ってます」

 ああ、私、調子にのってる。



 映画の話となると饒舌になるのは相変わらずで、珠美が実写の「パディントン」を観た、というと、気に入りであるらしいヒュー・ボネヴィルの感想を求められた。

「ああ、あの“セクシーな女性”ですよね」

「あの場面、最高でしたね」

 そればかりか、帰りの地下鉄でエスカレーターを降りながら、小脇に犬を抱えるふりをして片足で立ち、パディントンの真似をしたりした(映画にそういう場面がある)。

 大真面目な顔でいきなりカマしてくるので、笑うタイミングが掴めず、ぽかんとしていたら、

「やらかしましたか、僕」

 恥ずかしそうにうなだれた。

 パディントンの真似よりも、しょぼくれた姿の方が可笑しくて、笑いがとまらなかった。



 帰りにファミレスに寄るのも習慣になった。

 隣のテーブルに部活帰りの男子高校生が集っていたのがきっかけで、部活の話になり。

「僕は中、高とずっと水泳部でした。今でも最低週2は泳ぎに行ってますよ。体動かさないと気持ち悪くて」

「ああ、それで、肩幅広いんですね」

「元から骨太で厳ついんです」

 前園さんは文化系部って感じがしますね。文芸部とか。

「あたり。文芸部じゃなくって、読書部っていうゆるーい部でしたけどね。もともと詩歌が好きだったんです。Nursery Rhymesとか、言葉遊びっぽいの」

「ナーサリーライムス?」

「Mother Gooseって言ったほうが一般的なのかな。Who Killed Cock Robin? とか知りません? Humpty Dumptyとか」

「London Bridge Is Falling Downとかもそうでしたっけ。意外と物騒だったり、毒があるんですよね」

「そうそう、Hush-a-bye Babyとかも怖いですよ。でも、私はそこが気に入ってるんです。深読みの余白があって、平易だけど子どもっぽくない。「不思議の国のアリス」とか、文学への影響も追っていくとすごく広がりがあって興味深いんです」

 珠美がつい饒舌に語ると、八重樫は一瞬の間の後、ふっ、と柔らかく笑みを浮かべた。声を立てない笑い方で、何かを堪えているようにも見えた。彼は最近、よくこんな表情をする。

 どうかしました? と目で問うと、うん、とか、いや、とか何やら誤魔化された。

 なんだか、くすぐったいやりとり。






 そんなふうに、日に日に彼の存在感が増して。

 気持ちを育てるつもりはなくっても、勝手に育ってゆく。

 世界が否応なく色づいていく。


 自覚しないわけにはいかなかった。

 まずいなあ。

 今はとにかく、検定合格を目指さなければ。仕事なんだから。



「検定の合否が出たら、合格祝いしましょうか。いつものファミレスじゃなくて、なにか美味しいもの食べに行きましょう」

 珠美の気持ちを知ってか知らずか、八重樫はそんなことを言う。

「…合格とは限らないのに、合格祝いですか?」

「不合格になんてさせませんから」

 自信満々、というよりも、当たり前、と言いたげに常温の平静な声音が、かえって頼もしく響く。


「なに食べたいか、考えといてください」

 にこり、と笑顔を向けられて、思わず目をすがめた。まぶしくて。


 ああ、ホントまずいなあ。


「…とりあえずは、試験のことだけ考えます」

 俯いて、そう返事するのがやっとだった。





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