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Vanilla  作者: ムトウ
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6.バニラシュガー(小分け瓶)

 さっそく次の週から、語学スクールの自習室に席を借りて、八重樫が珠美の研修を手伝うことになった。


 珠美の目の前には、各種書籍・テキストの類が満載。

 八重樫の持ち物であるそれらは、ひらひらと付箋が飛び出したり、要所要所にラインが引かれ、どれも熱心に読み込まれている。その割には折り目や汚れなどはなく、古本っぽさはない。丁寧に扱われ、現役に働いている書籍たちだ、ということがわかる。


 万端の準備からも察するとおり、八重樫の指導っぷりというのは、なかなか容赦なかった。

 手慣れて数冊のページをぱらぱらめくり、

「これとこれも目を通しておいたほうがいいですね」

 まるで何でもないことのように言い放つ。

 既に珠美の手元には、厚さにして20cm程の書籍が課題として与えられている。彼女は気づかれないようにため息をついた。


 それにしても、ちょっと呆れるくらいに、あまりにも容赦がないぞ。

「ドS…」

 思わず口から洩れた悪態は、しっかり当人に捕捉された。

「…それ、僕のことですか」

 心外な。と言いたげに驚いた表情で見返され、あわてて口元を抑えた。

「ごめんなさい、つい出ちゃって」

「…否定しないんですね」

 苦笑混じりに返されて、珠美は「えーっと…」とごまかそうとしてごまかしきれず、結局「ごめんなさい」と重ねて謝った。



 実は、八重樫の容赦なさは、珠美には好ましかった。


 今までふたりの間にあったあれこれの経緯を、彼はスマートに無視してくれる。

 八重樫は珠美に思いを寄せ、彼女はそれに応えられなかった。いろいろややこしいことがあって、少なからず迷惑も心配もかけた。

 そのことに敢えて触れず、変に気遣ったりもしない。まるで何もなかったかのように接してくれている。


 八重樫が手加減しないのは、珠美を女性としてではなく、スキルをたたき込む相手として応対する、ということ。

 仕事で必要な知識を得ようとする、それだけのごくシンプルなこととして、自分を見てくれている。

 そんな態度が清々しくて、嬉しい。


 だからといって、改まって礼を言うのもなんだか違う気がするし。

 それに、あまりにも真剣な表情できちきちと詰められるものだから、思わず呟いてしまった。

 でも「ドS」はなかったかな。


 八重樫は気遣わしげに珠美の手元に積まれた書籍を目線で測る。

「ちょっとペース飛ばしすぎですか?」

 自習室は他にも生徒がいて、各自自習に励んでいるので、あまり大きな声で会話はできない。

 隣り合わせた席から、無礼にならない程度に身を寄せて、いつもより低く潜めた声で窺ってくる。

「大丈夫です」

 と、珠美は同じく囁き声で返した。

「ごめんなさい。せっかく教えてくださってるのに。

 ちょっとだけ、言えば気が済む類の文句なんですよ。“何よドS、見てなさいよ”って。むしろやる気はあるんです」

 大丈夫。と重ねて笑顔で頷く珠美に、八重樫は呆気にとられたような顔をした。それから片手で口元を覆い、なんですかそれ。とかなんとか、何かもごもごと呟いたようだった。

 どうかしました? と尋ねても、何でもないです。と、早口気味にごまかされ、それから、

「少し休憩しましょうか」

 コーヒーでもどうですか、と、半ば強引に空気を変えるように促された。



 自習室は飲食禁止なので、ごく近所のコーヒーショップに移動する。

 約束通りに珠美がドリンクを買った。

「はい、カフェラテのホットです」

「ありがとうございます」

 八重樫は丁寧に礼を言う。

 先日のやりとりにも関わらず、彼は自分で支払おうとして、強硬な珠美とレジ前で悶着を繰り広げたあげく、根負けしたのだった。

「あれ。前園さんはいつものコーヒーじゃないんですか」

 いつもブラックの珠美が、白く泡立つカップを前にしている。

「これはホットミルク。最近、家でも職場でもコーヒーの量が増えたので、ちょっと控えてみようかと思って。それに、いいものがあるんです」

 と、先日マリエに振る舞ったのと同じ、バニラシュガーを小瓶に小分けしたものを取り出した。

「へえ、バニラってもともとはそういう状態のものなんですか」

 珠美の解説に、八重樫も興味深く小瓶を覗き込む。

「あ、ほんとだ。甘い香りがする。でも思ったより甘ったるくはないんだな」

「ですよね。バニラエッセンスより使いやすいです」

 よかったら八重樫さんも試してみますか? カフェラテにも合うと思います。

「いいんですか?」

 普段からしょうが糖を持ち歩いている八重樫の嗜好は、甘味を好むというより、糖分補給を心がけてのことらしい。ベースはグラニュー糖ですか、と糖の種類を確かめつつ、自分のカップに加える。


「…熱ッ」

 カップに口を付けて、低く呻いた。

 八重樫は眉をしかめて、熱さに焼いた舌を唇から覗かせた。親指で口の端を軽く拭う。

「…大丈夫ですか?」

 珠美は一瞬、気を取られて、声をかけるのが数秒遅れた。

 今、なんだか。ドキッとした。


 八重樫はしかめ面のまま、

「ちょっと油断しました」

 と、口元に手を添える。

 厚手のカップとたっぷりのフォームドミルクのおかげで熱が逃げなかったらしい。

「前園さんも気をつけて。意外と中が熱い」

 ふうふうと今度は用心深く冷まして、そっとカップを口元に運ぶ。

 気づけば、八重樫の所作をずっと見つめていた。正確には、目が離せなかった。


 普段、穏やかで朴訥ぼくとつとした風情の彼が、思いがけず洩らした、低く鋭い声。

 眉をひそめて、堪えるような表情。

 ちらりと覗いた舌。口元を拭う指。

 骨ばった手首とか、喉元までストイックに締めたシャツの襟元、肩の稜線がきれいに出る広い肩幅、スーツの上からでもわかる胸板の厚みまでもが。

 突然、急に意識されて。



 油断したのは、珠美のほうだった。


 この人は、男の人だ。

 大人の男だ。

 今さらだけど。当たり前だけど。


 彼女は自分でも思いがけないほど動揺していた。


「あ、おいしい。なんだかホッとしますね」

 珠美の様子にまるで気づかずに、八重樫はのどかな風情でバニラ風味のカフェラテを味わっている。

「リラックスできていいな、これ」

 バニラシュガーが気に入ったらしく、八重樫は興味深げに小瓶を手にする。ためつすがめつ、瓶の中身を検分しながら、バニラビーンズを入手すれば自分でもつくれるのかな。などと呟いている。


「前園さん?」

 はっ。と気づけば、顔を覗き込むように問われていた。

「え?」

「大丈夫ですか? 気分でも?」

 怪訝そうに見つめられ、珠美は自分でも顔が赤くなるのがわかった。

 やだ。なにこれ。ドキドキしてる、私。

「な、なんでもないです。大丈夫」

 気遣わしげな視線を避けるように顔を背け、カップを両手に抱えて表情を隠す。


 鼻先を掠めるバニラの芳香。

 きっと、この香りのせいだ。


「…甘過ぎる」

 ごまかすように呟くと、八重樫は、入れ過ぎましたか? などといつも通り生真面目な風情で首を傾げた。





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